星界の道~航海中!~

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勤行御観念文について(三)



では、いよいよ下種三宝尊の御観念文に入ります。
観念文における最も大事なところですね。
 先にも云いましたが、もう一度言います。
末法下種の三宝とは、仏は御本仏日蓮大聖人、法は本門戒壇の大御本尊、僧はニ祖日興上人であられる。
日寛上人は、この三宝尊の御観念文に限って、それぞれの文に「南無」という言葉を重ねて二回使っておられる。
初めの「南無」は総じて全体に付し、さらに別して三宝それぞれの御名の上にまた「南無」と冠されている。
日寛上人のこの御丁寧、宜なるかなと、私は拝しております。
 それではまず、末法下種の法宝たる本門戒壇の大御本尊の御観念文。

【本門戒壇の大御本尊の体徳と甚深無量の功徳を讃嘆し奉る】

 「戒壇大御本尊御報恩」
『南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法、本地難思境知冥合・久遠元初自受用報身如来の御当体、事の一念三千・無作
本有、人法体一、南無本門戒壇の大御本尊、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為めに』
 この観念文は、戒壇の大御本尊の体徳を顕わし、その甚深の功徳を讃嘆し奉っているものであります。
 「南無」とは帰命ということ、すなわち命をかけて信じ奉ることをあらわす言葉です。
 「本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法」とは、この大御本尊はいずこに説き顕わされているかといえば、釈尊一代五十年の説法の中にはただ八年の法華経、法華経二十八品の中にはただ本門寿量品、本門寿量品の中にはただ文底に秘沈されている最大深秘の大法であるということです。
 「肝心」と「文底」とは全く同じ意、肝心は即文底、文底は即肝心です。
 本門寿量品の文底に秘沈された大法を、単に抽象的に考えてはなりません。
その実体こそ、まさしく本門戒壇の大御本尊にてましますのであります。

 「諸仏能生の根源」
 この大宇宙には、三世と十方にわたって、無数の仏が存在する。
これらすべての諸仏も、またその仏が説かれたおびただしい諸経も、ことごとくはこの大御本尊より生じ、またこの御本尊に帰する。
ゆえに日寛上人は「十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。讐えぱ百千枝葉同じく一根に趣くが如し」と仰せられるのであります。
 ここに釈迦仏も、白身が成仏を遂げた根源の種子、最大深秘の大法を、末法のために、法華経本門寿量品の文の底に密かに説き置かれたのです。
 「文底秘沈の大法」の内証では、その「文底秘沈の大法」とはいかなるものか。
その内証が示されているのが、次文です。
 「本地雛思境智冥合・久遠元初自受用報身如来の御当体、事の一念三千・無作本有、人法体一」と。
 これを一言で云えば、自受用身一念三千ということです。
この人法体一の極理が、ここに顕わされているのであります。
 いま一文づつ説明すれば「本地」とは、五百塵点劫の当初、すなわち久還元初という想像を絶する大昔の時を指す。
この久還元初における御本仏の証得り給うた「境智の妙法」は、たとえ仏であっても迹仏等の思慮の及ぶところではない、いわんや凡夫においておやです。
このことを「難思」というのです。
 ゆえに立正観抄には「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや」と仰せられる。

 「本地難思の境智冥合とは」

 では、この難思である「境智冥合」とはいかなることか。
とうてい凡夫に説明できるわけもありませんが、ただ日寛上人の御指南を仰ぎ、その趣きだけを示させて頂きます。
 ――久遠元初に、智恵すぐれた一人の聖人がましました。
なぜ「聖人」と呼ぶかというと、三十二相などで身を荘厳らぬ名字凡夫のお姿であるから、熟脱の仏と区別して「聖人」というのです。
 この聖人は、永遠に崩れざる成仏の境界を得んと、透徹の御智恵をもって自身の生命を観ぜられた。そしてついに、我が身には宇宙法界のあらゆる法(存在)が具わり、我が身はまた宇宙法界に遍満する、すなわち "法界を白身と開く"という宇宙大の大境界を証得された。
この生命の極理を「事の一念三千の南無妙法蓮華経」というのです。
 聖人が覚られた法というのは、我が身を離れた山のあなたにあるような、漠とした"真理"などではない。
御白身の生命を見つめ切られて、そこに宇宙法界をも包含する生命の極理を覚られたのである。
 生命は本来、大字宙より生じたものであれば、我が生命をよくよく観ずれば、宇宙法界の全分がそこには具わり、また宇宙法界に遍満する。我が身は即法界である。
 たとえば、大海より汲み上げた一滴の海水には、大海の全成分が具わり、またその一滴は大海にあまねく広がるのと同じです。
 「法界を自身と開く」ということは、言葉でいうのは簡単であるが、これを単なる理ではなく、事実の上に証得されたお方を、久遠元初の白受用身と申し上げる。
 この自受用身の成道は「境智冥合」によるのです。
境と智が冥合して、白受用身と顕われ給うたのであります。
 その「境」とは、観ずる対境の我が身すなわち色法のこと。
そして「智」とは、境を見つめ切る智恵すなわち心法です。
この智恵の光りが、境を照らしその源を尽くし切る。
これを「境智冥合」という、かくて境智冥合して南無妙法蓮華経と唱うるゆえに、久還元初の自受用身と顕われ給うたのであります。

「色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経」

 総勘文抄には
 「釈迦如来、五百塵点劫の当初、凡夫にて御挫せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開き給いき」と仰せられる。
 この「釈迦如来」とは、名字凡夫のお姿の「聖人」、すなわち久還元初の自受用身のことです。

 さて、この自受用身の色法の境妙も一念三千の南無妙法蓮華経である。
なぜならば、一我が身」を構成する地水火風空の五大は即十法界干界)の五大、十法界の五大は即我が身の五大、十界の違いはあっても五火種は同じである。これすなわち十界互具・百界千如・一念三千の南無妙法蓮華経ではないか。
 ゆえに同じく総勘文抄には「五行とは地水火風空なり。乃至、是れ則ち妙法蓮華経の五字なり、此の五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり」と仰せられるのです。

【心法の智妙も一念三千の南無妙法蓮華経】

 また、この自受用身の心法の智妙も一念三千の南無妙法蓮華経である。
ゆえに当体義抄に云く「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し」と。
 「因果倶時・不思議の一法」とは、自受用身の一念の心法のことです。ゆえに「一法」という。そして「因果倶時」のゆえに蓮華と名づけ、「不思議の一法」のゆえに妙法と名づける。
この「妙法蓮華」の一念の心法に「十界三千の諸法を具足す」と仰せられる。
これまさしく、自受用身の心法の智妙また、一念三千の南無妙法蓮華経ということであります。

【刹那の始終・一念の因果】

 そして日寛上人は、この色法・境妙と、心法・智妙の冥合について、次のごとく御指南下されている。
 「この無始色心・妙境妙智、境智冥合すれば則ち因果の二義あり。故に大師(天台)云く「境智冥合すれば則ち因果あり。境を照らして未だ窮らざるを因と名づけ、源を尽すを果と為す」等云云。当に知るべし『照境未窮』は種家の本因妙なり、『尽源為果』は即ちこれ種家の本果妙なり。この本因本果は刹那の始終、一念の因果にして、真の十界互具・百界千如・事の一念三千の南無妙法蓮華経なり。此くの如く本地難思の境智の冥合・本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経を証得するを、久遠元初の白受用身と名づくるなり」(観心本尊抄文段)と。

【人法体一】

 この時、法を尋ねれば人の外に別の法なく、人の全体が即法である。またこの時、人を尋ねれば法の外に別の人なく、法の全体が即人である。すでに境智冥合し「人法体一」である。このゆえに「事の一念三千」というのであります。
 この自受用身即一念三千、人法体一こそ、まさしく仏法の極理なのであります。

【久遠元初の自受用身とは日蓮大聖人】

 そして、この久還元初の白受用身とは、末法今日の日蓮大聖人にてまします。
 大聖人の御修行は、全く久還元初の自受用身と同じです。すなわち立宗のとき、我が身は即妙法蓮華経の五字なりと知り給うたのは「照境未窮」の本因妙。
それ以後、南無妙法蓮華経と我も唱え人に勧め給い、その不惜身命の御修行によってついに竜の口において法界を自身と開き給うたのは一尽源為果」の本果妙です。
ここに大聖人様は久遠元初の自受用身の成道を遂げられ、末法下種の本尊と顕われ給うたのであります。
 しかし、日本国の一切大衆は「雖近而不見」であって、たとえ大聖人のお姿を見るとも、その御内証の「自受用身一念三千」を諏ることができない。
ゆえに本尊に迷う。本尊に迷うから我が色心に迷う。我が色心に迷うから生死を離れず、苦悩の人生を繰り返すのであります。
 ここに御本仏日蓮大聖人は大慈悲を起こし拾い、御自身が証得されたところの全体、すなわち自受用身一念三千の御内証を一幅に図顕され、末法の全人類に授与あそばされた。
この御本尊こそ、実に「本門戒壇の大御本尊」であられる。
 私たちは、ただこの大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、たとえ深い意味合いは識らずとも、自然と自受用身即一念三千の本尊を識るに当る。
すでに本尊を知るに当るゆえに、また我が色心の全体がそのまま事の一念三千の本尊なりと知るに当る。
ここに成仏が叶うのであります。
たとえば母の乳を飲む小児が、その成分を知らずとも、母乳を飲めば自然と育つのと同じです。
 このことを親心本尊抄には 「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏み、末代
幼稚の類に懸けさしめ拾う」と仰せられる。
 まことに戒壇の大御本尊こそ日蓮大聖人の大慈悲の結晶であられる。
ここにいま私たちは心から「南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法、本地難思境智冥合・久遠元初自受用報
身如来の御当体、事の一念三千・無作本有、人法体一、南無本門戒壇の大御本尊」 と、その体徳を讃嘆申し上げ、「御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為」にと、唱題申し上げるのであります。
 しかしながら、私はこれまで長い間、「御威光倍増:・」と申し上げるとき、いつも戒壇の大御本尊様への不敬冒涜を思っては、心苦しさ、申しわけなさ、何ともいえない思いでありました。
しかし今、この不敬が解消されたこと、まことに有難さでいっぱいであります。

  【対比】
「本尊供養」

 『南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御当体・十界本有常住・事の一念三千・大法一箇・独一本門戒壇の大御本尊・御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為めに』

【「十界本有常住」は紛らわしい】
 この宗門の観念文でまず心に引っ掛るのは、「十界本有常住」ですね。
次文の「事の一念三千」はもちろん文底下種のそれということなのでしょうが、「十界本有常住」に


続くと、文上本門の事の一念三千に通じてしまう。大いに紛らわしくなる。
 通途では、「十界本有常住・事の一念三千」といえば、迹門の本無今有・理の一念三千に望んでの、本門の本有常住・事の一念三千を意味するのです。
 この本門脱益・事の一念三千を開目抄には「此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて、真の十界互具・百界千如二念三千なるべし」
 また観心本尊抄には
  「仏既に遇去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足・三種の世間なり。迹門十四品には未だ之を説かず」と説かれている。
 すなわち本門に至って始成正覚を破って久遠実成が明かされる。これが仏界の常住です。仏界常住ならば所化の九界も常住となる。この十界本有常住に約して説かれた一念三千を、本門脱益・事の一念三千というのです。
 また九界を「因」とし、仏界を「果」とし、この因果に約して爾前・迹門・本門・文底の四重を論ずれば、爾前は因果異性、迹門は因果同性、本門は因果並常、文底は因果一念であり因果倶時となる。
 この中の「因果並常」こそ、因は九界・果は仏界であるから、十界本有常住であり、本門脱益・事の一念三千を意味するのです。
 この十界本有常住・事の一念三千は、迹門の本無今有の理の一念三千に比べれば、天地の差があり、勝れている。
ゆえに日寛上人は「既にこれ本有常住の十界互具なり、豈真の一念三千に非ずや。これを事の一念三千と名づくるなり。これ則ち本因・本果に約して一念三千を明かす故なり」(開目抄文段) とされている。
ただしこの事の一念三千も、もし文底独一本門に望めば迹本二門の事理は共に理の一念三千となる。
 このとき真の事の一念三千は、白受用身即一念三千、人法体一の法体にのみ名づけられるのです。
 ゆえにここの御観念文は、日寛上人が定められたごとく「久遠元初自受用報身如来の御当体、事の一念三千・無作本有」とすべきで、もし「十界本有常住」を入れれば、まことに曖昧かつ矛盾を生じてくる。
だから紛らわしく不正確というのです。


 【「人法体一」がよい】

 また「人法一箇」は、人法体一と同意に使われる語ではあるが、人即法・法即人の至理を顕わすには、「人法体一」がより適切と思われる。
 日寛上人の文段・六巻抄を初めとする広博の御筆記を拝するに、数百ヶ所にわたるそのすべては「人法体一」であり、「人法一箇」の御表現は、わずか如説修行抄筆記における一箇所だけです。
以て知るべきであります。

【「独一」は不用】

 また「独一」の語は、「本門戒壇の大御本尊」の上には敢えて冠するには及ばない。
ここでは無用の語と思う。
むしろ日寛上人の御文のごとく「南無」と冠したほうが、どれほど有難い思いが増すことか。"より丁寧"のところに、信心も功徳も増すのであります。 


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