~さわやかに香る風~

~さわやかに香る風~

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        * * *

見間違いではなかった。
 なぜなら鏡の中の自分が話しかけてきたからだ。
「やぁ。気づいてくれた?まったく、ボクはこっちの方にいる暇なんてないんだけど…友達なんか連れてきちゃってさ」
「ミ、ミック…?」
 もちろん、朝とは違って予想はできていたため、悲鳴すら上げなかったものの、やはり突然鏡の中の自分が動くとビクッとする。
「なんで…鏡の中に?どうやって??」
 巧が必死に鏡の中を覗き込んでいると、ミクタはなんと、鏡の中から手を出してきて、巧の肩をつかんだ。
 その途端に巧は思わず「ひぃっ!」と声を漏らしてしまった。
「こういうことだよ」
 ミクタはそう言うと、巧みの腕を鏡の中から引っ張った。
「あっ!!」
 巧が再び声を出したが、引っ張られた腕は鏡にはぶつからずに、鏡を通り越して、向こう側のミクタにつかまれていた。
 鏡の向こうにある自分の腕を見て、巧は目をパチクリさせる。
「わかった?」
 ミクタの声に巧は反射的に腕を引き戻した。
「え…あ…どういう、こと?」
 引き戻した自分の手を見つめながら問う。
 その様子を見て、ミクタはにやけながら答えた。
「そっちとこっちの世界を行き来できるわけ。鏡を通してね。一応、友達にはバレちゃやばいだろうから?こうやってキミのために避難してあげたわけ」
「そ、そんな…どうしてそんなことができるんだよ?」
 巧が泣きそうな顔でミクタを問いただす。
 なんなんだ、今の感覚は。鏡の中に手がニュッと入っていって…うぅ、思い出すだけでゾクッとする。
 するとミクタは、さも面倒だな、といった感じで頭を掻くと、両手を肩の高さにあげて、「さぁわかりません」といったポーズをした。そして、
「ボクにもサッパリだね。恐らくあの手鏡が原因だろうけど。それを知るためにも、マジョンナを早く見つけないとね。まぁ何にせよ、今はこれでややこしい状況は回避できるんだからいいんじゃない?」
 と、一気に説明した。
「それはそうだけど…」
 言い返そうとしたとき、巧はふと疑問に思った。
 鏡を見てもミックしか見られないということは…。
「あの、さ。俺が鏡覗いたときって、どうなるわけ?普通に見れないじゃん!それに、もしかして…ミックがこっちにいたら何も見えないってこと…?」
 よく考えたら、今日一日、朝の一見以来鏡という鏡をまったく見ていなかった。もう鏡を見ても、同じ動きをする自分を見ることができないのだろうか。
 ミクタは顎をさすりながらしばらく考え、
「たぶん…ダメなんじゃない?なんなら試してみる?」
 と言って鏡の中から出てこようとした。
「え?いい、いいよ、出てこなくても!」
 そう言ってミクタを押し返した(真似をした)ものの、普通に鏡を見ることをできないと考えると、かなり虚しくなってきた。
 たぶんって…どう考えても今の状況じゃそれは無理に決まっている。
「そんな悲しそうな顔しなくても。どっちにしたってボクが鏡のようなもんなんだから、いつでも同じ動きはしてあげられるんだし。別にそれでいいんじゃない?」
 そうケロッと言ってのけるミクタを見て、巧はさらに落胆した。
 全然よくないんですけど…。
 ほんとうにこの目の前にいる奴は自分なのだろうか。どう考えても別人格である。大体鏡の中の相手にいちいち口答えされるなんて、たまったもんじゃない。
「それにね」
 巧の考えをよそに、ミクタは説明を続けた。
「鏡を通して世界を行き来できるのはいいんだけど。どうやらそれが可能なのは、キミとボクがこうやって鏡の前にいる時に限るみたいだね」
 その説明に、先ほどの考えもどこかへ飛び、巧は疑問符を頭に浮かべながら、ミクタに目で話の続きを促した。
「つまり、キミがいないとボクはそっちにいけないわけ。さっきそっちにここから戻ろうとしたけど、ダメだったし」
 なるほど。巧はミクタの説明を頭で整理してみる。
 え?でもちょっと待てよ。
「じゃあ、ミックは最初どうやってそっちにいったんだよ?」
 巧が聞くと、ミクタは「あぁ、それなんだけど」と言って、首をかしげた。
「なぜか最初は入れたんだよね、こっちに。キミとボクが両方同じ世界にいれば、別にさっき言ったような条件は必要ないのかもしれない」
 ……。
 両方同じ世界?条件?考えているうちに頭の中がぐちゃぐちゃになってくる。
「ふーん…俺、実際もうよくわんなくなっちゃったんだけど。まぁいいや、また説明してよ。とりあえずはしばらくそっちにいるんでしょ?」
 巧がそう言って蓋の閉められた便器の上に座ると、ミクタはため息をついた。
「なにそれ。せっかく丁寧に説明してやってるのに。それに、ボクはこっちにいたくなくたって、誰かさんのせいでそうせざるを得ないんじゃないか」
 なんで俺が悪者に…そもそも俺は被害者なのに。ミクタの言葉に、巧の方も理不尽に思う。
「でもさ、よくそっちに行けるってことがわかったね。最初から知ってたみたいじゃん」
「別に?ここで用を足してたら、キミが急に帰ってきたからね。どうしようかと思ってるときに鏡に触れたら…後は見ての通り」
「そっか…」
 そこまで聞いて、巧は何か物足りないことに気づいた。
「あれ?あの…ネズミの…ニージョだっけ?そっちにはいないの?」
「ニージョ?さぁ…さすがにトイレまでは一緒に来ないし、ボクは咄嗟にこっちに来たしね。どこにいるのかはわからないけど」
「えっ、なんだよそれ!無責任な。亮介に見つかったらやばいじゃん!早く探さないと!!」
 急いでトイレを出ようとする巧をミクタが「ちょっと」と止めた。
「そんなに慌てて探しに行ったら、かえって怪しまれるんじゃない?はい、深呼吸して。リラックス、リラックス」
「あぁ、そうだね。……スー、ハァー。…って、何か面白がってない?」
 焦る巧の顔を見てミクタはニヤニヤしていた。
「ハハ、まあね。だって、ボクはここから動けないし?今頃友達に見つかってたりしてね。フフフ」
「フフフって…他人事みたいに。あ、でも、もし万が一見つかってたとしても、喋ってさえいなければ大丈夫なんだけど…。くそ~、早く見つけて何とかしないと!」
「頑張ってね~」
 巧がミクタを睨みつつトイレを後にすると、ミクタは笑顔のまま鏡の中で手を振っていた。

「なんだよ、タク。トイレ長かったじゃん。ウンコ?」
 巧がリビングに戻ってくるなり下品なことを言う亮介。ニージョを見つけた様子はなく、テーブルに開いた教科書を読んでいた。
「あぁ、うん。ちょっと腹が痛くなって」
 などと嘘で返しながら、巧は目をキョロキョロとさせてニージョの姿を探す。
 亮介はその巧の視線に気づき、
「なんか探してんの?」
 と聞きながら視線を追う。
「え?あ、いや、別に」
 怪しまれるといけないので、目をキョロキョロさせるのをやめ、亮介の向かいの椅子に座りながら考える。
 …見当たらない。どこにいるんだ?
 でもこの様子だと、俺達が帰ってきたのを察知して、どこかに隠れてるのかもしれない。あんまり探してると逆に怪しいし…。
 あぁ頼む!このまま大人しくしててくれ…!!
 そうやってあれこれ考えていると。
 ピンポーン。
 ビクッ!
 焦っている時だったので、巧は突然家に響いたチャイムに、過剰に体が反応してしまった。
 その巧の姿を見て亮介が笑った。
「見たぜ見たぜー、何ビビッてんの?立花さんが来たんじゃない?」
「わ、わかってるよ」
 本当にビビッたわけではなかったのに、指摘されると顔が少し赤くなってしまう。
 恥ずかしいのでササッと席を立ち、巧は玄関へ早足で向かった。
 ドアの真ん中の小さな穴から外の様子を見ると、門の前には希色らしき人物が立っていた。
 ガチャ。
「巧くん、お待たせっ!チヂミの材料買ってきたよ~」
 ドアを開けると、希色が満面の笑みでスーパーの袋を持ち上げて見せてくれた。







厄日、厄日、厄日…

        1

「勉強、はかどってる?」
 希色がスーパーの袋から、材料を取り出しながら言った。
「あー…今からってとこかな」
 と巧が答えると、亮介は
「それがさ~、タクがずっとトイレできばっててさ。俺はもうバリバリ勉強してたんだけどさ」
 と言って、巧を嫌なものを見るような目で睨んだ。
「ば、ばかっ!違うって!」
 希色がいる手前、巧は慌てて言葉を返したが、亮介はますます睨みをきかせた。
「はぁ?さっき腹痛いって言ってたじゃんけ」
「あ…うん、いや、そうだけど。じゃなくて、いちいちそんなこと言わなくてもいいじゃんか!」
 ちらっと希色の方に目をやると、心配そうな表情でこちらを見ている。
「巧くん…?ほんとに大丈夫?体調も悪いの?」
「え?いや…大丈夫だって。ちょっと腹が痛くなっただけだよ」
 巧が答えている様子を見て、亮介が「そういえばさー」と希色に向かって言った。
「さっきも変だったんだよ、こいつ。ここに帰ってきたときに玄関で立ち止まってさ、家に入るとやばいとか言い出して。と、思ったらすぐに入ろうとか言ってさ。あれって何だっただよ?」
 急に話を振られた巧は、
「ん?…あぁ、あのこと?…気にしなくていいよ。部屋が散らかってたような気がしただけだって」
 と返したが、亮介は
「そうかー?そんな感じじゃなかったような気がするけどなぁ?やっぱ…アレ?」
 と先ほどのような目で睨むと、「エロ本?」と口パクで聞いた。
「は?」
 巧が分かっていない顔をすると、亮介はもう一度「エロ本??」と口パクをした。
 亮介の言っている事を理解した巧は、はぁ~、とため息をつき、首を横に振った。
「え?何?どうしたの?」
 希色は全くもって話が飲み込めていない様子。巧と亮介の顔を交互に見て、目をパチパチさせている。
「いやいや別に大したことじゃないよ。さっきも言ったけど、部屋が散らかってるしなぁって思っただけだよ」
「ふーん。そっか…」
 やっぱり今日の巧くん、なんかヘンだな…。
 希色は困った顔をして返答する巧を見て、不安を募らせた。
 あ、そうだ。あの話をしなきゃ。
「ねぇ聞いて!さっきスーパーですごい人と会っちゃったんだ!」
 希色が言うと、亮介は「え、なになに??」と早速話に食いついてきた。しかし、巧の方は何やらキョロキョロして落ち着かない様子。
 巧くん、ほんとにどうしたんだろう…。
 そう思っていると、亮介が、
「誰?誰と会ったん?」
 と続きを促した。
「あ、うん。明日から来るっていう英語の先生なんだけどね。どこの国の人かな…すっごく綺麗な人だったんだよ!スタイル抜群で。私でもドキドキしちゃった」
「マジ!?外人さんかぁ…いいねいいね!!名前は何ていうの?」
 亮介が身を乗り出して反応する。
「えっと、マジョンナ…先生だったかな。あ、そうそう。しかもね、三年生の担当なんだって!!」
「え、今、何て!?」
 希色の答えに、それまで集中して話を聞いていなかった巧が過剰に反応した。
「え?…英語の先生の担当が、三年生なんだけど…」
「じゃなくて!その先生の名前!」
「マジョンナ…先生だよ?」
「…!!」
 マ、マジョンナって…まさか…。
「どうしたの?巧くん?」
 希色が心配そうな顔をしながら、巧の元へ寄ってきた。
 巧はそれに気付いて首を振る。
「あ…ごめん、なんでもないよ。知ってる人の名前に聞こえただけだから」
 知っている…というわけではないが、嘘は言っていない。
 しかし、これは偶然なのだろうか?ミクタ達が現れた直後に耳にしたマジョンナという名前。頭の中で危険信号がチカチカしている。それに何だか嫌な汗も出てきた。
 巧が一人で考えをめぐらせていると希色がさらに近くに寄ってきた。 
「ねぇ…巧くん。何か、私たちに隠してるでしょ?」
 希色はそう言って、じっと巧の目を見て視線をはずさない。
「あ!」
 しかし、それに答えたのは巧ではなく亮介だった。
「思い出した!さっき、タクが家に入れようとしなかったときさ、『もう一人の自分が』とかなんとかって、言ってなかったっけ?」
 亮介が巧の反応を窺うが、巧は考えた顔をしたまま動かない。
「巧くん!…どういうこと?やっぱり、私たちには話せないことなの?何か、力になれないかな…?」
 希色の視線から目をそらしていた巧だったが、ちらっと希色の目をのぞき見ると、再び視線をそらせなくなってしまった。
「ご、ごめん…。気持ちはすごいありがたいんだけど、話しても、たぶん信じてもらえないと思うんだよ…」
 巧のその言葉に、亮介が立ち上がった。
「おいおいそりゃないよ。大丈夫だって。俺、信じるよ」
「さっき信じてなかったじゃんか…」
 亮介は巧の即座の切り返しに、若干たじろいだ。
「い、いやぁ…ごめん。あの時は、さ。てっきりアレだと思ったもんだから、ほら…アレ」
 それを聞いてクスッと笑う巧。
 亮介の言う「アレ」とは、恐らくエロ本のことだろう。好きだなぁ。
「今度は信じるよ。タクの様子もマジみたいだしさ。親友じゃん?俺達」
 亮介は友情だとか、絆だとか、なぜかそういう話にはいつも熱くなる。
 いつもは調子の良いことばかり言っているが、亮介なりに何か信念というものがあるのだろうか。まぁ、何だかんだいって、いざという時は仲間のことを気遣ってくれるいい奴だ。
「そうだよ!私だって、できるだけ巧くんの力になってあげたいし、ね?」
 希色も口を揃えて言う。
 巧は二人の熱い眼差しを感じ、こういう時に二人で組まれたら最強だな、と思った。どうやらこのまま黙っていても無駄のようだ。
「ありがとう…じゃあ、二人を信じて話すよ。真面目に、聞いてよ?」
 巧が言うと、二人ともコックリと頷いた。
「…亮介にはさっき言ったけどさ、ものすごく簡単に言うと、今朝、もう一人の俺が現れたんだ」
「もう一人の…巧くん??」
 希色が聞き間違いを確かめるかのように巧に問う。
「うん。うちの母さんがテレショップ好きなのは知ってるよね?今日その商品が届いたんだけど。その中にあったダンボールの中から、もう一人の俺が…出てきたんだよ」
「そ、そんな…本当に、そんなことが…?」
 希色は目を大きく見開いて、固まってしまった。
「タク…ごめん、信じてないわけじゃないんだけどさ…なんか、こう、現実離れしすぎてて、いまいち想像つかないっていうか…」
 亮介もこめかみの辺りを掻きながら、巧の言っていることを受け入れようと葛藤しているようだ。
「いや、信じてもらえなくても無理はないよ。俺だって実物を見た後の今でも、何だか信じられないし…」
 そう言ってうつむく巧を気遣うように、希色が声をかける。
「そっか…それで今日遅刻したんだね。ごめんね、何も知らずに色んなこと言っちゃって」
「いや、そんな謝らなくていいよ。むしろ気遣ってくれてうれしいし」
「うん…」
 巧の返答に頷くと、希色は椅子に座り、黙りこんでしまった。
「鏡の中から出てきたってことはさ…じゃあ、姿形も全く一緒ってこと?」
 沈黙を避けるかのように、今度は亮介が口を開いた。
「うん、まぁ…。性格は、違うみたいだけど」
「え、じゃあ、自分と話したってことか!?」
 巧の答えに驚き、さらに問う亮太。
 しばらく黙っていた後、巧は口を開きかけたが、その前に希色がそれを制した。
「浅葱くん…あんまり質問責めしないであげよう?巧くんもまだ、今日そういう目にあったばっかりなんだし…」
「あ…ごめん、つい…」
 亮介が謝ったのを見て、希色は頭を横に振り、再び黙ってしまった。希色も亮介に悪気がないことはわかっている。
 亮介も黙ってしまったが、何だかどうしてよいかわからないといった感じで落ち着きがない。
 巧は二人の様子を見て、困ってしまった。
 二人が自分のことを気遣ってくれているのは、痛いほど感じる。しかしこのように二人も同じように困らせてしまっては、やっぱり言うべきでなかったのでは、と思ってしまう。
 でも、どうやって説明すれば…いきなり実物を見せるわけにもいかないだろうし…。それに、ミックを二人に対面させたところで、どうしてもらうとか、全く考えが浮かばない。
 「はい、こいつがもう一人の俺で、ミックです」なんて、紹介するのもなぁ…。
 三人がそれぞれに黙り込んで沈黙が続いていると。
 カタカタカタ。
 どこからか、指で机を叩くような音がした。
「!?」
「…!!」
「なんだ!?」
 沈黙の最中だったので、過剰に反応してしまう三人。
「キッチンの方から聞こえてきたけど…」
 希色が口を押さえながらキッチンの方を見つめている。
「まさか…!?」
 巧はニージョの存在を思い出して、すぐさまキッチンへ向かった。

        2

 ニージョ…どこにいるんだ…!?
 蛇口付近や食器洗い機あたりを覗いてみるが、ニージョの姿は見当たらない。
「巧くん、何かいるの?もしかして…ゴキブリとか?」
 希色は音のしたと思われるキッチンの近くにはいないにもかかわらず、キッチンからさらに離れたところに身をおいている。
「ゴキちゃんぐらいいいじゃん?わざわざ探さなくてもさ。そのうち出てくるって」
 そう言いながら、亮介もキッチンへと向かってきた。
「タク、ゴキショットとかないの?あれを用意しとけば、出てきた時に一発でいけるって」
 ゴキショットというのは、ゴキブリ用の殺虫剤である。スプレータイプで、一秒吹きかけるだけで退治できるという優れものだ。
「う~ん…いないなぁ…」
 巧は食器棚の裏、冷蔵庫の下…それぞれ見てみるが、ニージョはいないし、音一つしない。
「巧く~ん、もういいよ~そんなの探さなくても。」
 希色はすでにリビングから姿を消している。
「ここにゴキショットとか置いてないん?」
 亮介が鍋の置いてある棚の扉を開けようとしたその時。
「きゃあああああああああああああ!!」
 希色の悲鳴が家中に響いた。
「希色ちゃん!?」
 巧と亮介が声のする和室へ駆け寄ると、希色は畳を指差しながらあたふたしていた。その先には畳以外何も見当たらない。
「どうした?ゴキ!?」
 亮介が聞くと、希色は首を激しく横に振った。
「違う…ゴキブリなんかじゃなくて、もっと何か大きい生き物がここをダダダって走り去って行ったの…!」
 大きい生き物…?
 ニージョだ。そうに違いない。
 希色たちに見つかるまいと必死に逃げているのだろうか?
やっぱり見つからない方がいいのかな?喋るネズミだなんて知られたら、もっと話がややこしくなってしまうし…。
 いや、もうミックのことは二人に話してしまったのだから、この際二人にニージョのことも言ってしまえば、わざわざ逃げる必要もなくなるだろうけど…。
「うわっ!」
 巧が思考していると、今度は亮介が声を上げた。
「タク、今なんかでっかいのが風呂場のほうに向かったぞ!」
「え、風呂場に!?うん、わかった、行こう!」
 と巧が駆け出そうとすると、亮介が
「おい、タク!その前にゴキショットは?あれ持ってったほうがいいって!」
 と止めたが、
「ゴキショット!?…あぁ、いらないよ。てか持ってっちゃダメだ!」
 と巧はそのまま風呂場へ駆けていった。
「え、何でだよ?ちっとは効くかもしんないのに」
 言いながら亮介も巧の後を追う。

 風呂場に来ると、中の窓からニージョが必死に外に出ようとしていた。マントを羽織っているのですぐにわかる。
 しかし幅が狭いのでかなり無理矢理抜け出そうとしているようだ。
「ニージョ!!」
 巧がニージョの名を呼ぶと、彼はチラッとこちらを見たが、言葉は何も発せず、なおも外へ抜け出そうとする。彼の体はちょうど柵の間に挟まったような状態だ。
「ニージョ!別に逃げる必要ないよ!友達にはちゃんと話したからさ!!」
 巧がそう言って柵に挟まっているニージョをつかもうとしたその時に、ニージョはスポンと柵の向こう側に抜け、そのまま庭を走り去ってしまった。
「あぁ…どうしよう…いやまだ間に合うかも!」
 巧がそう思ってすぐさま後ろに振り返って走り出そうとしたので、後ろにいた亮介に思い切りぶつかってしまった。
「痛~…やってくれるな。あれは…ネズミ?とにかくもう逃げたんやろ?そんな追っかけんでも…」
 亮介がグチをこぼしたが、巧は「ごめん!」とだけ言ってそのままダッシュで脱衣所を出た。

「巧くん!?」
 希色は風呂場の外で様子を窺っていたのだろうか、入り口のすぐ傍にいて、出てきた巧に声をかけた。
「ごめんっ!!」
 しかし巧はそれにも答えず、玄関までダッシュし、そのまま外に出て行ってしまった。
「…タク、どうしたんだ?」
 脱衣所から出てきた亮介は首をかしげながら希色に聞いたが、彼女も首を振った。

 巧は外に出て、風呂場の窓がある裏の方へまわった。
「やっぱり…いない、か」
 巧の家の周りは紅要という植物で囲われている。それと窓との間の通路は狭く、そこにいればすぐに姿を発見できるだろうが、何せ相手はネズミだ。この植物の間だってスルスルと抜けて、隣の家のほうに逃げていけるだろうし、すぐに見つけられる範囲にニージョがまだいることは考えにくい。
 窓の向かいにある紅要の下のほうから、向かいの家の庭を覗いてみるが、やはりニージョの姿は見当たらなかった。
 でも、なんで逃げていったんだろう…。
 俺の話聞いてなかったのかな?いやでもそれにしたって、あの口うるさいニージョのことだから、何かこちらに言い返してきそうなものだが。何か様子がおかしいように思えた。
 あきらめて玄関へ戻ると、希色たちが外に出てきていた。
「巧くん…」
 希色が心配そうに声をかけてくる。
 その表情を見ながら、巧は彼女にそのような思いを何度もさせてしまっていることを申し訳なく思った。
「いなかったよ…」
 巧が言うと、亮介が攻め寄ってきた。
「いなかったって…何でそんなに必死に探してんだよ?何か、さっきの話と関係あるわけ?」
 亮介の顔を見ると、まだまだ聞きたいことがたくさんあるといった感じだ。そりゃそうだろう。これまで落ち着かない行動を見せすぎている。
 これは話さないと、こいつは逆に怒るな、と巧は思った。
「うん…実は、さっきのネズミも、もう一人の俺と一緒に現れたんだ」
「えっ?」
 希色がどういうことかわからないといった顔をしたので、
「あぁ…さっきのはネズミだったんだ。ただのネズミじゃないけど…」
 と補足をした。
「俺もよくわからないんだけど、あのネズミ…ニージョっていうんだけど、喋るんだよ、日本語を。しかも関西弁」
 それには二人とも驚きの表情を見せた。
「喋る!?ホントか?さっきは何も言ってなかったみたいだけど…?」
 亮太の問いに巧は頷いた。
「うん…でも、さっきは何か様子がおかしいように見えたんだ。気のせいかもしれないけど」
「そのネズミさんは…もう一人の巧くんとは、どういう関係なの?」
 今度は希色が問いかける。
「それは…よくわからないけど…とにかく二人とも、人を追っていたみたいなんだ」
 と、巧はそこまで言って、頭の中であることをひらめいた。
「そうだ…ミックなら何かわかるかもしれない!」
 一人で頷いている巧を見て、亮介は首をかしげた。
「ミック…?」
「あぁ、もう一人の俺だよ!今からそいつに相談してみようと思うんだけど。なにかわかることがあるかもしれない」
 巧がそう言って家の中に入ろうとするので、亮介はそれを慌てて止めた。
「もう一人のって…タク、もしかして家の中にそいつがいる、とか?」
 それを聞いて、さすがに二人の気持ちを理解したのか、巧は頭を掻いた。
「ご、ごめん。実は、今家の中に隠れてるんだ。やっぱり、そんなもう一人の俺とか見たくない…よね?」
 その巧の言葉に亮介は顔をしかめたが、希色は首を横に振った。
「ううん、ちょっと恐いけど…私は会ってみたい。巧くん、その人と会って大丈夫だったんだよね?」
 予想外の希色の言葉に、巧はカクカクッと変な頷き方をした。
「だったら、私も勇気を出せば会えると思う。こんなわけのわからない状態で、巧くんが一人で困ってるのは見てたくないし、何か一緒にできるんだったら、私、力になってあげたいし…」
 希色がそこまで言い切ってしまったので、亮介も感化されたのか、
「じゃ、じゃあ俺も対面してみることにするよ、もう一人のタクに。…あ~なんかめっちゃドキドキしてきた~」
 と希色の意志に賛同した。
「そっか…」
 非常時ではあったが、心の中に何かが込み上げてきて、ふと涙を浮かべそうになった。二人の言葉に、これまでになかった心強さを感じ、巧のこれまで焦っていた心は、幾分か落ち着いた。
「ありがとう。じゃあ、今から会うよ?もう一人の俺に。心の準備は、いい?」
 巧がそう言って二人の表情を確かめると、二人ともその時には真剣な表情に移り変わっており、コックリと深く頷く姿が目に映った。


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