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【送料無料】経営者・平清盛の失敗 [ 山田真哉 ] 経済面から見た仮説・・ 清盛が、宋銭を導入することによって、平安末期の日本社会生じた現象・・ 銭高絹安・・通貨高によりデフレとなる。 宋銭を独占している平家は有利になり、 宋銭を持っていない貴族や寺社、在地領主たちは不利になった。 「通貨高」を肯定し、銭を中心とした経済社会の確立を目指す「重商主義」に対して、 このデフレ状況下で苦境に陥った貴族たちから、絹安=「物価安」に反対し、 絹・米を中心とした経済社会を守ろうとする「重農主義」の一派が登場する。 重商主義 ・・ 平家、各地の水軍、商人 重農主義 ・・ 貴族や寺社、在地領主 、 ・・源頼朝、一所懸命 ところが、「寒冷期」の影響で、1180年から気候変動による天変地異が続く。 4月に、塵旋風が京都で発生し、 夏には、西日本で干ばつ、 秋には、大凶作による飢饉。 翌1181年には、養和の大飢饉が発生する。 飢饉続きにより、わずかばかり穫れた米が貴重になり、 米の価値が急上昇し、銭の価値は相対的に下がる ハイパーインフレが発した(+_+) その結果、銭を大量に保有していた平家が、大損害を被る。 そこに、富士川の合戦・・ 山田真哉「経営者・平清盛の失敗 会計士が書いた歴史と経済の教科書」
2012.08.15
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平清盛は誰に似ているのか?を考える、まず、その前に・・なぜ清盛に悪人のイメージが強いのか? 次の政権によって、前の政権が悪く言われるのは歴史の常。 足利政権も鎌倉政権の後継をうたったため、評価が見直されることはなかった。 さらに、明治以降の国定教科書では、皇室への反逆者として悪逆非道ぶりが評価された。 それは、平家亡き後に鎌倉時代に作られた戦記物語の最高峰ともいわれる『平家物語』において、平家の栄華の絶頂から、清盛の専横、平家の没落までを語っていることにあります。 そこには、保元の乱・平治の乱にいたるまでの清盛の苦労時代、たとえば『十訓抄』における部下に優しいエピソードや、公卿の信頼を勝ちえたプロセスなどを捨象することにより、驕り高ぶったイメージを植えつけることで、滅亡することが必然であったかのように描いていることにあります。その結果、政治的な専横ぶりだけでなく、政治的・経済的な面における歴史的業績の否定、清盛そのものの人格否定にまでつながった。 そうはいいながら、鎌倉時代の少年向けの教訓書である『十訓抄』には、 若いころの清盛のエピソードが紹介されています。 ある人が冗談を言ったときは、おもしろくなくても笑ってあげ、 誰かが間違いをおかしても、大声でしかったりすることはなかった。 冬の寒い日は、若い奉公人たちを自分の衣のすその下に寝かせてやったり、 彼らが寝過ごしても、自分一人寝床から抜け出して、寝かせてやった。 身分の低い召使いであっても、その者の家族や知り合いの前では、 一人前の人物として扱った。 その結果、清盛の部下は誰もが清盛を慕った。伊東潤「武士の王・平清盛」において、 戦国武将と、清盛を比べています。 信長・・もっと性急に事を進めたはずだし、禍根を未然に断つために、 捕えた時点で、頼朝や義経を斬っている。 秀吉・・もっと四方に気配りして敵を作らなかったはず。 家康・・保守的で慎重な家康と、開明的で果断に富む清盛は似ても似つかない。 光秀・・清盛に最も近い。 清盛の性格を一言でいうと、 ≪合理的な現実主義者であり、何があっても冷静に事態を分析し、 感情に左右されない的確な判断が下せる人物となる。≫ ≪さらに、その思考は公明正大で一貫性があるため、他人から信頼を得やすい。≫ ≪また真面目で謹厳実直な一面もあり、責任感も人一倍強い。 ただし、誇り高く人に弱みを見せたくないので、うまく行かなくなると、 他責志向が強くなることもある。≫ ≪逆に欠点としては、厳格で融通が利かず、何事も杓子定規で考えがちな点である。 さらに言えば、空気が読めないことが多く、意固地になって孤立しがちである。≫ ≪また、権威に恃むところで多い・・≫ ≪また後進の指導は極めて不得手で、言葉足らずで教条主義的になりがちである。≫ 清盛のロールモデル・・ 五味文彦「平清盛」によると・・≪清盛には常に範とした先人の生き方があった。≫ 平治の乱までは、父の忠盛・・ 政界を注意深く観察し、貴族と交わりを持ち、武家としての地位を高めてゆく行動は、 忠盛の生き方と同じだった。 平治の乱以降は、信西・・ 天皇の乳父として政治に影響力を与え、子息たちを政界の要職に送って、 政治の実務に深く関与するとともに、院にも仕えて奉仕することを怠らなかった。 二条天皇の死後は、摂関家の忠実(ただざね) 摂関家にならい、朝廷を補佐する武家として平家を位置づけた。 やがて出家後も、普段は別荘にいて、子息や兄弟・縁者を通じて政界をコントロールした。 重要な問題になると、別荘から出て直接に介入した。 治承三年以後は、白河院を範として、天皇の祖父として振る舞った。 後白河上皇を退け、摂関を退け、また福原への遷都を可能にしたのは、 この立場においてだった。 そして、 清盛の最大の功績は、武家政権の基盤作りをしたこと。 頼朝は、武家の権力ての範を清盛に求めた。 鎌倉幕府成立以前に、清盛において、福原幕府なるものが 実質的に実現していたこと。 鎌倉幕府は、清盛の構想を推し進めたものと考えられる。 また、足利義満も、清盛にならって、 朝廷の権力を握ろうとしていった。
2012.07.28
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【送料無料】武士の王・平清盛伊東潤「武士の王・平清盛」(歴史新書y)洋泉社2011年刊≪平家のブルーオーシャン戦略≫ 当時の利権のほとんどが「土地」から生まれたため、 公家や武士の思考は「土地」から上がる利益をうかに増やすかに費やされた。 しかし、 平家のブルーオーシャンは、文字通り、青い海にあった。 保安元年(1120)、越前守に補任(ぶにん)された忠盛は任国に赴任。 そこには、敦賀港があり、(直接はやってきていないはずにもかかわらず) 宋船のもたらした大陸の文物が間接的に流入していた。 ここで、忠盛は、貿易に関心を抱くようになった。 ≪日宋貿易といっても、実質は宋の商人たちが担っており、 彼らは日本近海での安全な航行を期すため、それなりの武力を持った機関の 庇護を希望した。 しかもそれは、有事に事後処理的に動く国家の軍隊ではなく、 随時、警戒に当たってくれる警備隊的軍隊であった。≫ 宋側も、平家一門に、貿易の窓口になってほしいと希望していたとも考えられる。日宋貿易における輸入品と輸出品・・ 輸入品は、第一に、唐銭や宋銭といった銅銭である。 輸入した銅銭は、当初は貿易の決済手段として使われ、 次第に、国内貿易の決済手段としても使われ始めた。 物々交換の経済から、 貨幣の流通によって、蓄財意欲、購買意欲が湧き、 生産性が向上するという好循環が生まれた。 輸入品の第二は、織物と香薬・・・「唐物」と呼ばれ、 公家社会で好まれた。 「揚州の金(こがね)、荊州の珠(たま)、呉郡(ごきん)の綾、蜀江(しょくこう)の錦」 などの贅沢品 輸出品は、金、砂金、真珠、水銀、硫黄 日本刀、蒔絵(まきえ)、螺鈿(らでん)、屏風、扇子などの武具や工芸品 当時も日本の技術が、先進国であった中国王朝を驚かせていたと思われる。 船のバラストとして、 往路は、銅銭、 復路は、木材 となっていた。 清盛が引退後、福原に居を構えた理由。 日宋貿易の陣頭指揮を執るため。 福原は、別名、平野とも呼ばれ、現在の神戸市兵庫区辺りを指す。 古代の貿易港であった大輪田泊も近く、六甲の山嶺が北風を遮るため気候も穏やか であった。 当時の大阪湾は、多くの大小河川が流れ込み、その土砂で水深が浅くなり、 大船の出入りが困難なため、福原を選んだといわれている。 しかしながら、 清盛が福原に託した夢は、わずか170日で潰えた。≪日宋貿易を財源の支柱にする平家にとり、 海の守り神である厳島大明神ほど象徴的な氏神はない。≫ 伊勢神宮、熊野権現に加えて、清盛は、厳島大明神への信心を深めた。≪平家の滅亡は、 皇統奪取による公家たちの反感、 権門寺院との対立、 治承三年の政変による過度の知行国の独占、 それによる家人と非家人の軋轢、 折悪しく起こった大飢饉による民衆の不満、 西国兵の質の低下、 軍団としての指揮系統の曖昧さ、 そして、父祖の代からの源氏との確執 という複合的要素が絡み合って起こったのである。≫
2012.07.25
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【送料無料】大いなる謎平清盛川口素生「大いなる謎 平清盛」(PHP新書)2011年刊≪度の過ぎた大陸志向≫ 後年、後白河法皇が福原の邸に行幸すると、 上皇と宋国の商人との対面をセッティングし、 また、福原沖に係留していた唐船を乗り回し、 さらに、福原を訪ねた公家を、唐船の船遊びに誘った。 公家の九条兼実などは批判的だった。 その背景として、 9世紀末に遣唐使が廃止されて以来、外国との正式な国交は途絶えており、 外国をケガレの対象として見るようなり、 国際社会に対する無関心や外国人に対する排外思想が広まっていた。 このような海外に対する忌避感は、 9世紀末の宇多(うだ)天皇から、 実現不可能な攘夷を主張し続けた幕末の孝明天皇まで、1000年以上続く。 貴族の外国嫌いは、筋金入りだった。 ・・貴族なんかについていっては、ダメと思うか? 排外主義につきあうのか? 治承四年には、 「銭の病」という奇病が流行する。 守旧派の公家は、「宋銭の流入を禁止すべきだ!」と息巻いたものの、 宋銭の流入阻止など何人にもできなかった。<目次>第1章 清盛の出自と、平家の後継者への道(謎に包まれた「清盛出生」の諸説時代の先駆者―祖父・正盛と父・忠盛 ほか)第2章 「武者の世」へ変革を志向し続けた清盛(「院政」と結びついた異例の栄達清盛の決戦(1)―保元の乱 ほか)第3章 為政者・清盛の日常生活と先見性(人間味溢れる日常生活と素顔為政者として気配り上手だった清盛 ほか)第4章 清盛の家族と平氏一門の謎(清盛の盛室・平時子とその一族戦乱に運命を委ねた清盛の弟と息子 ほか)第5章 清盛の最期―平氏政権の誕生と滅亡(清盛の決戦(3)―治承三年のクーデター清盛の最晩年と最期(上)―晩節を汚した清盛 ほか)
2012.07.25
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【送料無料】平清盛 [ 五味文彦 ]五味文彦「平清盛」(人物叢書)日本歴史学会 編吉川弘文館1999年刊 平清盛・・のことをきちんと理解したければ、 本書一冊をきちんと読み込むのが一番の近道だと思います。 忠盛が、日宋貿易を推進した動機・・ 鳥羽院の宝物収集 輸出品・・ 金 平氏は、勢力基盤である伊勢で水銀を産出し、 志摩で申述を産出した。 さらに、陸奥で、金も入手できた 日宋貿易の活発化により、 中国の史書にはこの頃から、「日本商人」が 渡ってくるようになったと記している。 宋銭が、国内にも流通しはじめる。 土地売買に銭を使用した例は、 久安(きゅうあん)6年(1150)8月より見え始める。 治承三年(1179)6月、「銭の病」という疫病が流行る。『百練抄』 「近日。天下上下病悩。號之銭病」 <目次>第1 生まれた時代と環境第2 忠盛と清盛―鳥羽院政の頃第3 時代は動く―1140年代第4 保元の乱の伏線第5 保元の乱第6 平氏の台頭第7 平治の乱第8 天皇親政と清盛第9 急速な昇進第10 入道大相国清盛第11 女院の平和第12 亀裂の構図第13 熟慮と浅慮第14 治承の内乱第15 最期の時
2012.07.25
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今年の大河ドラマ「平清盛」の低視聴率の記事を目にし続けていますが、 先週末、ドラマのノベライズ本など、清盛本を5冊ほど手に取ったので、 ちょっと魅力を振り返ってみました。1.従来の清盛像の見直し これまで平氏滅亡後に描かれた『平家物語』によって、「暴君」「悪人」のイメージが 植えつけられた。次の政権によって、前の政権が悪く言われるのは歴史の常。 足利政権も鎌倉政権の後継をうたったため、評価が見直されることはなかった。 今回は、清盛の功績や人柄に光を当てることによって、清盛像の見直しを図っている。2.貴族政治から武家政治への大転換 清盛なくして頼朝なし。 清盛の最大の功績は、武家政権の基盤作りをしたこと。 鎌倉幕府成立以前に、清盛において、福原幕府なるものが 実質的に実現していたこと。 鎌倉幕府は、清盛の構想を推し進めたものと考えられる。 日本においては、武家による政治が700年以上続いたが、 儒教文化圏・科挙の浸透した東アジアの歴史において、 武家政治が実現したのは、稀有なことだったこと。3.国際派・改革派のルーツ 菅原道真によって中止された日中間の公式外交の門を再開したこと。 清盛・信長の海外志向・国際派、 頼朝・家康の内向き志向・鎖国・国内中心 日本の歴史において、前者が道を切り開いた上で、 後者が最終的に勝利を得てきたことがわかります。 あくまで前者が先で、後者は後。 ここからすぐにTPP賛成と言う結論は導かれませんが、 これからの時代もそうであるはず、というメッセージが伝わります。4.物々交換から貨幣中心の経済へ 宋銭を利用した貨幣経済への移行を試みを行ったこと。 残念ながら、「銭の病」・・当時襲ったハイパーインフレにより挫折します。 一所懸命で、経済オンチの源氏政権へ逆戻りしてしまいました。5.守旧派対成り上がり ドラマの前半は、院・摂関家・寺社勢力ら守旧派から、 「王家の犬」と徹底的に蔑まれる武士たち。 でも、これって、武士だけではなく、9割の一般庶民に向けての言葉でもあります。 守旧派を前にしては、平氏対源氏の対立など無視できるレベルであり、 昔から守旧派の既得権益を打破し続けて、ようやく今日があることがわかります。6.瀬戸内海の発見 航海技術などが発達していなかった時代の海は、 目の前に広がる播磨灘、安芸灘などが存在しているのみであり、 それらが一つに包含した瀬戸内海という呼称はなかった。 海賊退治や宋との貿易を通して、瀬戸内海という概念を初めて獲得した。7.面白きこともなき世を面白く 梁塵秘抄の今様「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、 遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」が全編のモチーフ。 「くそーっ。くそーっ、くそーっ・・・ 誰なんだ・・俺は・・俺は・・俺は・・誰なんだ・・」 と、自分のルーツに悩む清盛が、最後に寄りどころにした生き方は、 面白きこともなき世を面白く生きること。8.現代的価値観の排除 現代の反戦思想や恋愛至上主義を極力排除している。 個人レベルでは、「人を斬ることに葛藤を感じない」主人公を設定する。 歴史的には、暴力によって、政権奪取して初めて、平和に統治することができる ことを示している。9.映像のリアリティ 一見すると、暗くて汚い映像・・ 貴族のきらびやかさと武士の汚らしさ・・穢れを強調するため、 これまでの映像以上に、武士を汚く描いているといえます。10.これまで描かれることの少なかった平安末期 大河ドラマの中心は、幕末・明治維新、信長・秀吉・家康が大半を占めます。 そのため、それ以外の時代を描くと、低視聴率という壁に直面します。 今回は、保元の乱、平治の乱、鹿ヶ谷の陰謀などを通して、 武家政権の成立の背景を知ることができる機会だと思います。【送料無料】2012年NHK大河ドラマ「平清盛」完全ガイドブック【送料無料】 平清盛 NHK大河ドラマ・ストーリー 【ムック】
2012.07.24
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【送料無料】謎とき平清盛本郷和人「謎とき平清盛」(文春新書)2011年刊 本郷さんは、今回の大河ドラマ『平清盛』の時代考証担当のお一人。 時代考証の必要性・・ 2001年の大河『北条時宗』で、関白の近衛基平が天皇の前で切腹するシーンがあった。 しかし、穢れを何よりも嫌う朝廷が、御所を血で穢すなどありえない。 でも、招婿婚と嫁取婚との考え方では意見がわかれたものの、 清盛の最初の妻については、嫁取婚に落ち着いたこと。 本地垂迹が主流の考え方だったと思えば、 テレビ的に坊主と神官を取り換えることも可能と判断した、 など、時代考証の割り切り型などが具体的に紹介されて面白い。 本郷さんの認識・・ ≪清盛がいなければ、頼朝はいなかった。 清盛を「学ぶ」ことによって、頼朝は「武家の棟梁、源頼朝」になった。≫ 清盛が開いた福原幕府こそが、鎌倉幕府の直接の先行形態であった。 ≪武力の統括者が古代国家とどれだけ戦えるか、を身をもって示したのは 平清盛に他な≫らない。 「平家にあらずんば人に非ず」と栄耀栄華を究めた時点においても、 平家の本質は武士であった、と考える。 ところで、 本郷さん自身は、 清盛落胤説は、上杉謙信女性説と同レベルのトンデモ説 だと思っている、って(^^ゞ五味文彦『平清盛』吉川弘文館 1999 ・・決定版【送料無料】平清盛 [ 五味文彦 ]上杉和彦『平清盛』山川出版社 2011平清盛 「武家の世」を切り開いた政治家 日本史リブレット / 上杉和彦 【全集・双書】<目次>巻の1 清盛の時代を知る(史実とフィクションの間で大河ドラマの時代考証清盛、その出生の謎平家は武士か貴族か)巻の2 改革者・清盛は何を学んだか(ライバル源氏、義朝と頼朝武力のめざめ、保元・平治の乱頂点に立つ平家幕府源平の戦いと清盛の死)
2012.07.24
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【送料無料】 平清盛 二 / 藤本有紀 【単行本】平清盛 二 藤本有紀・青木邦子NHK出版2012年刊 王家の番犬にはなりたくないという清盛に対して、 ≪・・たとえ野良犬となっても、朝廷の耳のそばで吠えなければ 声は届かない。≫ そう教えたのが、藤原家成であった。 本書は、保元の乱まで。 三巻は今週発売。
2012.07.24
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【送料無料】 平清盛 一 / 藤本有紀 【単行本】平清盛 一 藤本有紀・青木邦子NHK出版2011年刊 NHK大河ドラマのノベライズ版。 従来のの歴史観だと、武士の棟梁は、源頼朝であり、 貴族になってしまった平氏一族の人気はなかったのですが、 今回のドラマは、 頼朝の口を借りて、「平清盛なくして、武士の世は来なかった」と言わせています。 王家の犬と蔑まれた武士が、その国の頂点に立つ時代がくるまでの 歴史こそが、清盛の時代であったと描いています。 清盛は、父・忠正より、≪おのれにとって生きるとはいかなることか。 それを見つけたとき、心の軸ができる。 心の軸が体を支え、体の軸が心を支えるのだ≫というアドバイスをもらいます。 しかしながら、 白河院の落胤と噂され、平氏の血を受け継いでいないと知り、 地面に倒れたまま叫ぶ清盛・・ 「くそーっ。くそーっ、くそーっ・・・ 誰なんだ・・俺は・・俺は・・俺は・・誰なんだ・・」 すると、 「誰でもよいゆえ - 助けてくれ」 と、落とし穴の底から、高階通憲のちの藤原信西の声がします。 この信西からのアドバイス・・「おのれが誰なのかわからぬが道理じゃ。 人は誰も生きるうちにおのれが誰なのか見つける。 見たところ元服前のそなたにわかる道理がない」 その後も、海賊討伐を前にして、出生をめぐって叔父と対立した後、 「くそーっ。くそーっ、くそーっ・・・ なにをしておるのだ・・俺は・・」 と清盛がうめいていると、 「なんでもよい」と暗闇の中から声がする。 「なんでもよいゆえ - 食わせてくれ」と、再び信西の声がする。 最初から何者であるものなどなく、生きていくうちに何者かになっていく。 そのことを、清盛が心の軸を見つけるまでを、信西が絶えずサポートしている様子が よくわかります。
2012.07.24
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【送料無料】千思万考黒鉄ヒロシ「千思万考」幻冬舎2011年刊大谷吉継・・≪関ヶ原に参戦した武将の中で、大谷吉継の人気は今も昔も一番であるらしい。 東西両軍合わせて十五万の将兵が対峙した天下分け目の「関ヶ原合戦」を、 別の角度から見ればその多くが「保身」と「利害」とを天秤にかけた美醜の闘いともいえる。≫ 日和見や裏切りが横行する中、吉継は、勝算を度外視し、 覚悟の上で石田三成との友誼を選び「義」の為に西軍についた。石田三成・・「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」の旗印。≪天下のもと、一人が万人の為に、万人が一人の為に命を注げば、 人々の暮らしは吉となり、太平の世が訪れる。≫真田幸村・・≪リーダーとしての人望に加えての機知。 茶臼山に登り、関東勢の両陣を観望して、「何処で死んだら一番分(ぶ)がよいか」 などと死地の手前で味方を笑わせる。 戦場でも吠える。 「関東勢百万も候(そうら)え、武士は一人もなく候」 見得の切どころもツボを弁えている。 「狙うは家康の首ひとつ」と遮二無二、一直線の攻勢にも胸がすく。 最後の突撃の際には、「死のうぞ、真田の者ども」と、けれんはない。≫<目次>織田信長―OH!ダ!NO!武・名・我信長のNO!力主義織田信忠―世襲、世襲と人馬は進む斎藤道三―成り上りの限界を教える梟雄豊臣秀吉―戦国ダービー、勝馬ヒデヨシ号徳川家康―イエヤース、orノー明智光秀―魔の、刻の刻松永弾正―信長を二度も裏切った人生の演出家大谷吉継―大谷、GO!GO!石田三成―石田三成裁判〔ほか〕
2012.06.05
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【送料無料】七人の龍馬出久根達郎「七人の龍馬 坂本龍馬名言集」講談社2009年刊 「世の中が行詰るのは、人間の知恵の行詰まりからさ」「そう、人間は、自分が一番知恵者だと、うぬぼれ易い横着者だ」「夢は、人間の進歩に通ずる窓なのだ。 わしは無意味にホラは吹いては居らぬ」「・・わしはホラで自分を鞭打っているのだ。 わしのホラはわし自身に怠惰を許さぬための先証文なのだ。 わしじゃとて、口舌の徒で終りたくない。 そこで捨身の精進をする」 龍馬関連の短編2作・・ 織田作之助『蛍』 三好徹『竜馬暗殺異聞』 ・・読んでみたいですね~<目次>まえがき―第一位は龍馬第1章 『竜馬がゆく』名言集第2章 講談時代の龍馬第3章 世界平均の思想第4章 「活文字」と「活絵画」第5章 わがなすことはわれのみぞ知るあとがき―「凶器」は醤油
2012.05.04
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井上勲「坂本龍馬―海洋の志士」(日本史リブレット 人)山川出版社2009年刊龍馬評・・「先生の大は、天衣の縫目のなきが如く、 何処まで大きいのか、一寸際涯(ちょっとさいがい)が分からなかったが、 それであってちゃんと括(くく)りが付いて居た。 天馬空を行くといわんか、 その為す所は、毫(すこし)も規矩準縄(くきじゅんじょう)に拘束せられずして、 人の意表外に出ずるが、それであってちゃんと要領を把握しておった」 岩崎鏡川(いわさききょうせん)『坂本龍馬関連文書』 ※規矩準縄 ;物事・行動の規準になるもの。法則。規則。手本。 龍馬の自己認識・・「土佐のいもほりともなんともいわれぬいそうろうに生まれて、 一人の力で天下をうごかすべきは、是又天よりする事なり。 こう申しても、けしてけしてつけあがりはせず、ますます、すみかふて、 どろの中のすずめ貝のように、常につちを鼻のさきえつけ、 すなをあたまへかぶりおり申候」 ・・土佐の芋堀り=郷士の居候=次男=部屋住みの身 その一介のすずめ貝=しじみ貝の身でありながら、 「日本を今一度せんたくいたし申候」との志を持っていた。 <目次>1 志を異郷に求めて(志士 土佐藩と山内豊信 誕生、家族、世代 ほか)2 政治社会の境界をあゆむ(ふたたび脱藩 池田屋事件、禁門の変、長州征討 偉人なり、奇説家なり ほか)3 浪人の自覚と将来の構想と(長州征討戦 海援隊 国を開らくの道 ほか)
2012.04.22
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【送料無料】坂本龍馬と北海道価格:756円(税込、送料別)原口泉「坂本龍馬と北海道」(PHP新書)PHP研究所2010年刊 龍馬にとっての北海道とはいったい何であったか? 龍馬の明治維新は、薩長同盟から大政奉還では完成したものではなかった。 北海道の開拓が、龍馬の夢の完成に必要なものであった。 お龍の言葉・・≪北海道ですか、アレはずつと前から海援隊で開拓すると云つて居りました。 私も行く積もりで、北海道の言葉を一々手帳へ書き付けて毎日稽古して居りました。≫ (『千里駒後日譚』・・宮地佐一郎『坂本龍馬全集』(光風社書店)) そして、おりょうさん自身、龍馬に薦められて、 アイヌ語辞典を手に入れて、アイヌ語を勉強していたようです。≪龍馬は北海道開拓計画を死ぬまで諦めてはなかった。 しかし最初は池田屋事件で頓挫し、その後も諸事情で後回しになって実現はしなかった。 龍馬の決意はおりょうさんが一番よく知っていたから、彼女は本気でアイヌ語を勉強していたのである。≫ (鏡川伊一郎・ブログ) なぜ蝦夷地開拓を夢としたのか? 龍馬の関心は、維新の権力闘争を超えたところにあった。 薩長同盟と大政奉還の二つによって新しい政治の潮流を生み出したが、 龍馬自身の目には、もっと先の「社会のあり方」を見据えていた。 日本には二つの維新があった。 一つは、薩長による倒幕と、それに続く明治新政府の樹立。 もう一つは、土佐が震源地となった自由民権運動による民権意識の高まり。 前者の薩長による専制は、各地の士族の不満を生み、西南戦争になった。 この権力闘争がそのまま肥大化、激化していたら、近代国家の建設は頓挫していたかもしれない。 それを食い止めたのは、もう一つの維新、自由民権運動であった。 龍馬は、新天地である北海道で、この自由民権運動を柱とす新たなる社会体系を確立し、 それを旧体制が残る本州に持ち込んで、新しい日本をつくっていこうとしたのではないか。 ・・龍馬の構想、スケールの大きさを夢想します。 龍馬が、蝦夷の話を聞いた後、 勝海舟に打ち明けたこと・・≪いまは日本人同士が争っている場合じゃないきに。 早く蝦夷地へ赴き、ここを開拓しながら蝦夷地の資源をもとに貿易したい。 幕府の船を貸してもらうわけにはいかんじゃろうか。≫ その理由は、 そのころ京摂津には幕府を批判して決起した浪人たちがうようよしていた。 放置すれば、無用な争いがおき、命が失われるのがみえていた。≪「先生っ、これではだめじゃ。 いまこそ京摂津にいる不満の輩をかき集めて蝦夷地に赴き、 開拓しながら、その資源をもとに貿易したいと考えちょります」≫ (『龍馬、蝦夷地を聞きたく』) しかし、蝦夷地開拓の夢は、龍馬本人がかなえることはできなかった。 その後を継いだのは、 龍馬の甥であり、のちに坂本家を継いだ坂本直と、 その弟・坂本直寛の二人であった。 彼らは、龍馬の遺志をつぐように、蝦夷地にわたった。 <目次>序章 なぜ函館に坂本龍馬記念館はできたのか第1章 暗殺四日前の手紙―龍馬の夢は北海道開発だった第2章 開港前後の箱館をとりまく人びと第3章 一八六四年、北海道と龍馬の急接近第4章 北海道への夢をあきらめず第5章 龍馬の死と二人の後継者第6章 榎本武揚と龍馬―二つの夢の結末終章 龍馬の北海道が現代日本に投げかける
2012.04.18
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【送料無料】山本五十六価格:1,890円(税込、送料別)半藤一利「山本五十六」平凡社2007年刊「やってみせ 言って聞かせて させて見せ ほめてやらねば 人は動かじ」「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」 ・・という言葉を残した、山本五十六とはどういう人だったのか? と思って手に取った本。 ・・佐幕派への印象が変わった気がします。 ≪そして、山本という軍人には、越後人特有の孤高を楽しむ風があった。 口が重く、長々しい説明や説得を嫌った。 結論しかいわない。 わからぬものに、おのれの内心を語りたがらず、ついてくるもののみを好む趣きがある。 偏愛である。・・ そして正統を好むよりも、おのれの信念のもとにいつでも異端になれる思考の持ち主であった。≫ 当時の越後・・深い雪、長い冬、厳しい寒気、そして貧しさ。 ≪この風土に育った越後の人は、一般に、頼まれれば遠国に米搗きにゆく律義さと忍耐強さ、 で知られている。 とともに、忘れてならないのは、進取の気性にも富んでいるということである。 長岡人は、常に”いっちょ前”(一人前)の人物となることをめざしていた。 深雪に閉ざされ忍従を強いられて吐け口のないエネルギーが、一点に蓄積され、 凝結される。それは、時には、尖鋭化して爆発する。≫ 対米英戦争に反対し続けた山本だが、開戦が決まった後は、一転・・≪名をも命も惜しまず、連合艦隊全将兵はすべからく「本職と生死を共にせよ」が、 対米英開戦にさいしての、山本長官の命令であった。≫ 昭和16年末頃の海軍中央は、薩長土出身者ばかり・・維新の”官軍”さまの 集団となっていた。≪それにつけても実に面白いというか、海軍軍人として、太平洋戦争にもっとも 強く反対したものに、なんと”賊軍”出身の人たちが多かったことか。 鈴木(貫太郎)さん、山本(五十六)さん、そして盛岡藩出身の米内光政、 仙台藩出身の井上成美。 かれらは日米避戦論をとなえ、ついに主流の対米強硬派によって海軍中央を追われ、 先頭に立って戦わざるをえなくなり、あるいは最後の段階で救国の大業に挺身する ことになる。≫≪国を滅ぼせしもの西軍、救いしものは東軍なのである。≫ 歴史は皮肉なことをする、と。<目次>まえがき序章 山本五十六と長岡名をも命も…… 山本を育てた雪国・長岡第一章 開戦前史畏友・堀悌吉「派閥闘争」に倒る三国同盟に反対した海軍トリオ――米内・山本・井上海軍はなぜ賛成に転じたか第二章 真珠湾攻撃石油にはじまった太平洋戦争「大艦巨砲主義」との戦い連合艦隊のいちばん長い日「騙し討ち」の汚名第三章 ミッドウェイ海戦その不可解な決断勝利をよびよせたもの集団催眠ということ敗北ののちの海軍第四章 最後の決断戦艦突入せよ“孔雀”は撃墜された終章 余話として遺書――対米英戦に反対した名将の覚悟恋文――純情提督・山本五十六“鈴木さんと山本さん”あとがき参考文献
2011.11.19
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【送料無料】世界史読書案内津野田興一「世界史読書案内」(岩波ジュニア新書)2010年刊【送料無料】大君の通貨佐藤雅美「大君の通貨―幕末「円ドル」戦争」(文春文庫) 江戸幕府が倒壊していく背景について、ミステリー小説を読むように ワクワクしながら理解できる。【送料無料】大人のための近現代史(19世紀編)「大人のための近現代史 19世紀編」 三谷博、並木頼寿、月脚達彦 編 概説書に良書なし・・ しかしながら、これはめちゃくちゃ面白くて、かつ刺激的!【送料無料】23分間の奇跡ジェームズ・クラベル「23分間の奇跡」(集英社文庫) 23分間の授業で起こっこと・・ 人の心どれほど簡単に操つられてしまうものなのか?【送料無料】石の花(1)坂口尚「石の花」(講談社漫画文庫) ・・舞台は、1941年~45年のユーゴスラヴィア ≪これは世界史を学ぶ人すべてに読んでもらいたいマンガの一つです。≫【中古】 ◆ 石の花 全5巻 坂口尚 全巻 完結 文庫サイズ後藤明「ビジュアル版 イスラーム歴史物語」 歴史学において、通史を書けるのは、30代か、60代以上・・ <目次>第1章 国民国家が生まれ、広がる第2章 二〇世紀という時代第3章 世界各地の「個性」がつくられた!第4章 世界がひとつにつながった!終章 歴史の中で生きてゆく
2011.06.12
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【送料無料】井沢元彦の学校では教えてくれない日本史の授業井沢元彦「学校では教えてくれない日本史の授業」PHP研究所 2011年刊≪今の日本の歴史学の中には、日本史全体を見る「日本通史学」という 学問は存在しません。≫ 日本には、 怨霊信仰、御霊信仰 言霊信仰 宗教の無視 が、ある。 歴史というのは、個人で言えば、病歴書といえる。 日本の道路舗装率は最下位! 日本、韓国、中国、タイ、エジプト・・の中で、最も道路舗装率が 低いのは、なんと日本! 理由は、 「信長・秀吉政権が長く続かなかったから」 「開国政策を続けなかったから」 諸外国に目を向けると、 ヨーロッパは、100%・・もちろん、紀元前の古代ローマ時代から。 エジプトも同様の理由、でも、逆に近代になって低下した。 タイは、大雨対策による。 一方、日本では、 江戸時代において、技術の進歩、スピードの追求を止めたことによる。<目次>序章 日本史理解のキーポイント―なぜ学校の教科書では歴史は理解できないのか第1章 なぜ、徳川幕府は滅亡したのか―貴穀賎金と鎖国から脱却できなかったトップリーダー第2章 「大和朝廷」と「和の精神」の謎―日本人は「みんな仲良く」が好きなのはなぜか第3章 桓武天皇と藤原氏は怨霊を恐れていた!―なぜ日本では敗者がこんなにも称えられるのか第4章 武士が天皇家を滅ぼせなかった本当の理由―なぜ日本人は軍隊が嫌いなのか第5章 なぜ、日本人は無謀な戦争に反対できなかったのか―危機管理ができない日本人の大欠陥
2011.06.02
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【送料無料】司馬遼太郎リーダーの条件価格:819円(税込、送料別)司馬遼太郎 リーダーの条件 (文春新書) 磯田道史、半藤一利、鴨下信一 他文藝春秋2009年刊 「事の成るならぬは、それを言う人による」 司馬さんの好きだった日本人・・ 1.軽やかで明るい人物 2.才気のある人 3.合理的思考に長けていること 4.ちょっと外れた人間 明、才、理、狂 竜馬の魅力・・ 爽やかで、 権力欲のない様子 楽観的で、陽気な竜馬の性格 お喋りで、無警戒 その反面として、 薩長出身の人物、バックに国家を背負って物事を進める人物は描きたくなかった。 「司馬さんは、権力を制度化する人間が嫌いなんです。 家康しかり、明治の大久保利通、山形有朋しかり。」 ・・でも、嫌いな人たちが、国を守った・守れたのも事実<目次>大座談会1 司馬遼太郎日本のリーダーの条件(半藤一利/吉田直哉/田中直毅/関川夏央/磯田道史)(「天の意思」が命じた―坂本竜馬、勝海舟政治における悪の効用―西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎 ほか)大座談会2 司馬遼太郎が愛した日本人(半藤一利/山内昌之/磯田道史/水木楊)(知謀のひと―竹中半兵衛、大村益次郎、秋山真之トップの男―織田信長、島津斉彬、西郷隆盛 ほか)大座談会3 偉大なる明治の「プロジェクトX」(半藤一利/中曽根康弘/櫻井孝頴/尾崎護)大座談会4 秋山兄弟、東郷、児玉の子孫大集合(秋山哲兒/大石尚子/東郷宏重/穂積重行)『竜馬がゆく』『坂の上の雲』に見る指導者の条件(鴨下信一)(指導者の能力―秋山真之のアカウンタビリティー指導者の仕事―東郷平八郎が示した「最終目標」 ほか)
2011.01.03
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本能寺の変四二七年目の真実明智憲三郎「本能寺の変 四二七年目の真実」プレジデント社2009年刊 11月号の情報システム学会のメルマガに、 明智憲三郎さんの寄稿論文、「SEが歴史を捜査したら『本能寺の変』が解けた」 が、載っています。・・会員でない方は、3カ月お待ちいただく必要あります(>_
2010.12.12
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龍馬の手紙宮地佐一郎「龍馬の手紙」(講談社学術文庫)講談社2003年刊 龍馬の直筆の手紙が上段に、 書き起こしの文章が下段にあります。 肉筆は、なんとも魅力がありますね! 文久三年六月二十九日 坂本乙女あて≪この文ハ極大事の事ばかりて、 けしてべちゃべちゃシャベクリにハ、 ホホヲホホヲいややの、けして見せられぬぞへ≫≪・・姦吏を一事にいくさいたし打殺、 日本を今一度せんたくいたし申候事ニ いたすべくとの神願ニて候。≫ 文久三年八月十四日 坂本乙女あて≪此人ハ おさなというなり。 本ハ 乙女といいしなり。 今年廿六歳になり候。 馬によくのり剣も余程手づよく、 長刀も出来、力ハなみなみの男子よりつよく、 先たとへバうちにむかしをり候ぎん という女の、力料ばかりも御座候べし。 かほかたち平井(加尾)より少しよし。 十三弦のことをよくひき、 十四歳の時皆伝いたし 申し候よし。そしてゑもかき申候。 心ばえ大丈夫ニて 男子などをよばず。 夫ニいたりてしずかなる人なり。 ものかずいはず、まあまあ今の平井平井。≫<目次>坂本龍馬書簡(嘉永六年九月二十三日 父坂本八平直足あて安政三年九月二十九日 相良屋源之助あて ほか)続・坂本龍馬書簡(清井権二郎あて―推定、安政年間、五月二十五日坂本乙女、春猪あて―推定、文久三年秋頃 ほか)坂本龍馬文書(坂本龍馬手帳摘要海援隊約規 ほか)坂本龍馬詠草(和歌―龍馬より姉乙女子へ示せる和歌和歌 ほか)
2010.06.11
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わが夫坂本龍馬一坂太郎「わが夫 坂本龍馬 おりょう聞書き」(朝日新書)朝日新聞出版2009年刊 おりょうからの聞き書き・・ 安岡重雄が聴取した「反魂香」「続反魂香」「維新の残夢」 川田瑞穂が聴取した「千里駒後日譚」「千里の駒後日譚拾遺」 を基にしたもの。 おりょうのインタビュー記事が残っていたとは、知りませんでした。 素顔の龍馬像がわかり、ちょっとドキッとします。 おりょうの口からでる元カノ・さな子の悪口雑言は、読むにたえませんが、 まあ、そういうもんだろうな~、と思います。≪龍馬・中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄まじく、 後藤(象二郎)を捕まえて、 「ヌイ後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れておいたなら、 こんな事にはならないのだ・・全体土佐のやつらは薄情でいかん」 と怒鳴りつけられて、後藤は苦い顔をし、 「いや、苦情を言ったわけではない。実はそこにいろいろ・・」 「なにがいろいろだ。面白くない。なんだ貴様も、片腕をなくして落胆したろう。 土佐・薩摩を尋ねても他にあのくらいの人物はないわ・・ええ惜しいことをした」 と、さすがの西郷もくやし泣きに泣いたそうです。≫≪ああ、龍馬の朋友や同輩もたくさんいましたが、 腹の底から深切であったのは西郷さんと勝さんと、それから寺田屋のお登勢の 三人でした。≫ 西郷さんも城山で倒れた報を聞いた後のおりょうの落胆ぶり・・ 龍馬亡き後、西郷さんが一番の頼りであったことがわかります。≪私は三日でもよい。竹の柱でも構わぬから、今一度京都へ行って、 墓守りがしたいのです。 が、思うようにはなりませぬ・・≫<目次>第1章 龍馬のおもかげ第2章 龍馬との出会い第3章 寺田屋の思い出第4章 伏見遭難第5章 薩摩旅行第6章 海援隊第7章 周囲の人びと第8章 龍馬暗殺第9章 流転の日々第10章 おりょうの生い立ち
2010.06.11
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これなら読める龍馬からの手紙斎藤孝「これなら読める龍馬からの手紙 ~日本を今一度、洗濯いたし申し候~」小学館2010年刊 姉の乙女、姪の春猪、妻のお龍らの女性に宛てた手紙にある、 ここだけの話は、まことに魅力的ですね~≪私がきっと長生きするだろうとお思いになるのは、 とんでもないことです。 とはいえこの龍馬、並の人のようには、 めったなことでは死ぬまいぞ、死ぬまいぞ。 私が死ぬ日は、天下に大きな変化が起こり、 私などが生きていても 役に立たなくなった日でしょう。 まぁ、そうなるまでは、 私もこれでなかなか悪賢くてイヤな奴ですから、 たやすくは死にはしません。≫ 勝海舟に認められて、得意満面のエヘン顔\(^o^)/≪勝大先生のような、大人物に認められて 「どんなもんだ」と、 すこし「エヘン顔」になってますが、 まわりにはバレないようにしています。 それにしても、かの徒然草に、 「達人の見る眼は少しもあやまる所あるべからず」 とある通り、勝先生のような達人の眼力は、 まったく恐ろしいものですね。 私の才能を見抜くのですから。 しつこく「どんなもんだい、エヘンエヘン」≫<目次>文久三年六月二十九日(1863・8・13)姉・坂本乙女あて「日本の洗濯」文久元年九月十三日(1861・10・16)初恋の人・平井かほあて「初恋の人を革命に誘う手紙」文久三年五月十七日(1863・7・2)乙女あて「エヘン顔の手紙」文久三年八月十四日(1863・9・26)乙女あて「佐那さんを紹介する手紙」慶応元年九月九日(1865・10・21)乙女、姪・春猪あて「妻、お龍を紹介する手紙」慶応二年一月二十日(1866・3・6)姪・春猪あて「薩長同盟締結前夜の手紙」慶応二年十二月四日(1867・1・9)乙女あて「新婚旅行報告」慶応三年二月十三日(1867・3・18)寺田屋お登勢あて「変名の手紙」慶応三年四月初旬(1867・5)乙女あて「浮木の亀の手紙」慶応三年五月二十八日(1867・6・30)お龍あて「妻への手紙」
2010.06.11
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昭和の思想家67人鷲田小彌太「昭和の思想家67人」(PHP新書)PHP研究所2007年刊≪昭和期は他のすべての時代と比肩してはるかに厚みのある思想史を持っている。 この時代に人類史に登場したすべての思想類が登場したといっていい。≫○小林秀雄≪小林は、小林の流儀でマルクスの思想的脅威をつきぬけて、反マルクス主義論を 展開するという形式をとった。 しかも、その流儀は凡百のあるいは公式主義のマルクス理解を凌駕するだけでなく、 マルクスの正当な理解に裏付けられていたのである。 小林が昭和全期を通じて、マルクス主義の最大の敵者ありえた思想上の理由は、この点にある。 この点を解して小林に立ち向かわないかぎり、小林を撃つという志向のもとで、 マルクスを排するという仕儀に陥るといってよい。≫「ただ彼(マルクス)の天才は、その道を歩むために、この一つの現実を率直に捨てたのだ。 この世の経済機構を生ま生ましい眼で捕えるために、文字の生ま生ましさは率直に捨てたのだ。 文字は彼にとって清潔な論理的記号としてだけで充分であったのだ。 この清潔な論理的記号の運動の正しさを、ただ現実の経済機構の生ま生ましさを 辿ることによってのみ実証しようとしたところに、また、そうする事によって 普遍的な理論の空論たるを避けたところに、彼の天才は存するのである。 そこで、同じように論理的記号としての文字の一性格を率直に捨てた人もいたわけで、 芸術的天才はそういう道を歩いた。この曖昧な文字の動きの正しさを、 ただ生ま生ましい肉体を辿ることによってのみ実証したところに、 また、そうする事によって、己れの孤独な文字の独断を避けたところに 彼の天才は存するのである。彼にもまた現実だけが試金石であった事に変りはない。」≪文芸(もとより、思想とよんでも同じである)をみくびらぬがよい。 これは小林の覚悟である。 文芸は、言葉を唯一の武器として一つの現実を生き抜くのであるから(生き抜くとは 戦うということと同義である)。≫○高橋和巳≪・・自己の思想が変わらないこと、パワー・バランスの論理に流されないこと、 孤立無援を固執すること、などは自ずと実行すればよいので、 思考の表看板にもちだすなんて、鼻もちならないな、というのが今もっての印象である。≫≪「誠実」とか「清潔」とかについて、私は不満をいうところをもたない。 しかし、それが思想の準位やあり方をはかる尺度としてもちだされると、 とてつもないいかがわしさを感じるのだ。 毛沢東にも、高橋にも。≫ 高橋和巳の小説群に、涙したものとしては、手厳しい言葉ですね~ ○中村雄二郎≪中村の本をじっくり読むと、哲学的思考を馬鹿にしてはならない、とつくづく思う。≫ 近代は理性の時代である・・近代哲学の父は、デカルトであり、その合理的思考である。 では、なぜデカルトは、合理的思考、理性を強調したのだろうか? ≪デカルトが、情念をなによりも意志に対立するものとしてとらえながら、依然として 「情念(パンセ)」(思惟)の一つであることに変りない、としていることである。 また、「知覚」を「感覚(サンチマン)」とも「情動(エモシオン)」とも言いかえている ことである。 情念が想念(思惟)に属し、感覚や情動も知覚にほかならないという考え方は、 ふつうの主知主義的なデカルト理解をおどろかせるだけものを持っている。 デカルトのコギト(われ思う)はやがては理性的コギトになるにしても、 出発点においては「感性的コギト」であったことは思い起こされてよい。≫ 理性が感性を支配下におき、秩序づけようとするのは、 感性が人間の想念を浸し切っているという事実があるからである。≪理性のコントロールをものともしない感性の横溢という事態があるからである。 合理主義の宣揚とは、理性がまずもって感性的思惟の支配下で余儀なくされた 戦をはじめるという状況ぬきには語れないのだ。≫ ○長谷川慶太郎≪「経済学は役に立たないから読んだことがない」と断じ、 「私は現場を通じて、ふつうの日本人が何を考え何を気にしているかを観察する ことが私の仕事だと思っています。」と、 「現場主義」を宣明するのだ。 普通、「現場主義」は、理論や抽象的思考に対する劣等意識のたんなる裏返しにすぎない 場合が多い。しかし、長谷川は、たじろがずに自らの主義を押し通して、動ずるところがない。 端的にいって、山崎(正和)や司馬の言説が現実的根拠あるものとして疑問の余地なく 大衆的に受容されるためには、長谷川の登場をまたねばならなかった。 それほどまで長谷川の思想史的位置は大きい、といっていいのだ。≫<目次>前篇 戦前篇(断絶と革新―解体期の意識 対立と多様―初発の熱意 同一と差異―思想の敗北的諸形態 停滞と崩壊―思想放棄)後篇 戦後篇(再生と連続 再生と転換 前進と転換 前進と成長 解体と成熟)
2010.05.23
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日本を創った思想家たち 鷲田小彌太「日本を創った思想家たち」(PHP新書) の続き・・○福沢諭吉≪・・諭吉は、自由と平等、国権と私権・民権、国益と私欲の二分法的理解を避け、 緊張関係にある両者の総体的理解に達しようとする。≫○三宅雪嶺≪雪嶺の国粋主義とは、日本の歴史伝統を踏まえながら、開明的なものをむしろ 積極的に取り入れることを躊躇しない、日本と日本人の固有なものの未来的発展を めざすという点で、復古主義の欠片もない。≫ 雪嶺は、その人生論が素晴らしい。 『世の中』(1914年) 『根痕』(1915年) 『内実の力』(1920年) 『志行一致を計れ』(1926年)○内藤湖南≪・・『日本文化史研究』(1924年)で、日本近代史は室町期の応仁の乱以降にはじったと見るべきで、 それ以前の研究を要しないという、日本二分説である。 江戸期三百年、毛筋ほども他人に頼らずに創見発明をなしたのは富永仲基、山片蟠桃、 三浦梅園、この三人だけだったという、これもまた仰天させるにたる創見である。≫○森鴎外『渋江抽斎』『北条霞亭』など晩年の作品を評して、≪ずばり、鴎外の小説は、自己の知的卓越さを披瀝し、どうだといわんばかりに 自画自賛を楽しんでいる体のものである≫≪鴎外という人は、とんでもない小説家である。 自己に悩むべきテーマや書くべき必然が存在しなくても、 その卓越した文章能力で作品を仕上げることができるのである。 これが日本人が推奨してやまない文豪森鴎外である。≫○柳田国男≪民俗学者柳田は、農村と農民を支配している「空気」とか、彼らの行動や思考の 細部に寄り添うことによって、農村と農民にゆっくりかつ深く接近することができた。 柳田の「話」(ストーリー)を聞いていると、「ああそんなことがあったっけ」 という既視感に襲われ、一瞬まどろみ、なるほどそうか、と思わされてしまう。 それは私一個の実感ではなく、日本人に共通する無意識であることに気づかされる。≫≪「無意識」を確実に認識する科学理論はない。 これは人知の低劣さを語るのではない。 「無意識」を語る文学や民俗学が存在する理由である。≫○長谷川慶太郎≪現在の日本の「体力」ならば、変革に必要な出血に十分耐えうる。 だから、まさに現在、変革はやりおおさなければならない。 明日へのチャレンジをいとい阻止するものこそ、 現実の困難の前で立ちくらみし、出口のない方向へとさまよう悲観論者である。 これが長谷川の変わらない思考態度である。≫○司馬遼太郎『空海の風景』より「思想は、その結純度が高くなればなるほど、その思想に無理解か、 もしくは相反するものに対しての物理的なまでに拒絶反応を示さざるをえない」『項羽と劉邦』より「人類は、その後も多くの体系を創り出し、信じてきた。 ほとんどの体系はうそっぱちをひそかな基礎とし、それがうそっぱちとは 思えなくするためにその基礎の上に構築できる体系はできるだけ精密である ことを必要とし、そのことに人知の限りが尽くされた。」≪司馬がなしとげた功績はあまりにも多く大きい。 いま、それらをひとまとめにしていえば、 司馬の発見によって、日本と日本人は励まされたのである。 自分たちのすばらしいほんとうの姿を見いだしたからだ。≫空海の風景(上巻)改版空海の風景(下巻)改版
2010.05.23
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日本を創った思想家たち鷲田小彌太「日本を創った思想家たち」(PHP新書)PHP研究所2009年刊 日本の思想家、140人余を、古代から2000年まで、一気に論じる。 特に、江戸時代の思想家に手厚いのが良い。 あとがきには、3人の先達の業績に負っている、といいます。 それは、 小西甚一『日本文藝史』全5巻日本文藝史(別巻) 中村幸彦『中村幸彦著述集』全15巻中村幸彦著述集(第1巻) 谷沢永一・諸著作・・『日本人の立場』『日本近代書誌学細見』日本近代書誌学細見○林羅山 秀吉によるコリア進攻は、その副産物として学術交流を生む。 儒者・カンハンが捕虜として渡来し、藤原惺窩(ふじわらせいか)に 朱子学をもたらした。≪羅山が学んだのはコリア経由の朱子学で、明末に流行したチャイナの朱子学 より純粋化し、厳格化したものであった。 外国文化を移入するとき、本土以上の厳格さを要求するという傾向は、 日本やコリアに共通な性格である。≫○伊藤仁斎≪『論語』は「最上至極宇宙第一の書」であり、孔子は聖人である。 だが、『論語』は完成体ではなく、運動体である。 聖人もまた人間である。 「君子の過ちや、日月の如し」と『論語』にあるように、 孔子も過ちを免れていない。 孔子も無謬ではない、という仁斎の言やよしである。≫ ○石田梅岩≪無学歴で、ほとんど独学の人である。 生きたのは江戸が成長期を終え、停滞とインフレの二重苦に悩みはじめる 八代将軍徳川吉宗のであった。≫ 「商人無用論」の時代に、石門心学が全国に広がる。≪梅岩は、商人の本分を生きることのなかに商人の善き生き方があり、 安心立命の幸福な生き方があるという。 自分に与えられた仕事に、正直かつ直向きに奔命することのなかに、 人間の真の生き方があると説いたのだ。≫○富永仲基≪三教をはじめ、およそ古来から道について説き、法を立てようとするものは、 必ず相手の主張に対して、それ以前の誰かを祖として立て、 相手の主張よりも自分のほうがさらに優れた法説である、と主張するのを 常としてきた。「加上の論」である。 この歴然とした事実を知らないから、後代の人は幻惑されるのである。≫≪最近では、孔孟以外はすべて邪説だという伊藤仁斎や、 孔子の道だけが先王の道に通じているという荻生徂徠は、 見当違いをおかしているのである。≫○佐藤一斎『言志四録(げんししろく)』の「実事と閑事」より≪「今時の人は、たいてい口ぐせのように忙しいといっているが、 その日常の行動を見ていると、実際必要なことをちゃんと処理し 整えていることが、わずか十のうちの一、ニであって、 不必要なことを十のうち八、九もしている。 また、このつまらない不必要なことを実際に必要なことと思っている。 これでは多忙であるというのももっともなことである。 何かしようと志している人は、誤ってこのような心得違いをしてはいけない」≫○宮崎安貞 『農業全書』全11巻より、農学の伝統がはじまる。 × 安藤昌益「自然真営道」や本多利明「自然治道」、 佐藤信淵の3人の思想は、「空理空論」 ○ 大蔵永常『農家益』『農具便利論』 大原幽学『微味幽玄学』○吉田松陰≪近視眼的で、拙速を好む場当たり的な、テロリズムをも辞さない思考の 凝固物である。 こういう「思想」は、訓練された知をもたない青少年に特有のもので、 だからこそ熱血の青少年に影響を与えることができたといえる。 ・・「弟子」たちが政権を握ることがなければ、松陰が大思想家の一人に 加えられることはなかった。≫ 近代以降も充実・・<目次>第1章 古代第2章 中世第3章 近世前期第4章 近世後期第5章 近代第6章 現代前期第7章 現代後期
2010.05.23
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意外に日本人だけ知らない日本史デュランれい子「意外に日本人だけ知らない日本史」(講談社プラスアルファ新書) 2009年刊 「意外に日本人だけ知らない日本史」は、 1919年(大正8年)、当時の国際連盟に「人種平等」を提案した国・・ 国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国、 それが日本だった、という話。 残念ながら、この提案は、多くの植民地を有するイギリスや 白豪主義政策をとるオーストラリアなどに猛反対される。 多数決では、出席者16票中11票の賛成(フランス、イタリア他)だったにもかかわらず、 議長でありこの案に反対したアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、 この提案のみ、「全会一致が必要」として却下した。 Wikipedia・・人種的差別撤廃提案 日本の立場は、白人からの人種差別に永年苦しみ、 また、アメリカの移民排斥の動きの流れの中で行われましたが、 この提案は、アメリカ国内の黒人指導者等からも大いに期待されていた、といいます。 その一方、P.G.ローレン「国家と人種偏見」の引用にて指摘されていますが、 この提案をした日本自身が、遅れてきた帝国主義国として、他のアジア諸国に 対してとった差別的態度を忘れてはいけませんね~ <目次>第1章 意外に知らない、世界に影響を及ぼした日本第2章 フランスの平等と日本の均等第3章 日本とフランスの「婚活」第4章 幸せな国はどこにある?第5章 世界一のエコ大国だった日本第6章 お国別、モノに対するこだわりは?第7章 日本人の感性で世界をもてなそう
2010.02.14
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「常識」の日本史井沢元彦 「常識」の日本史・・「逆説の日本史」のコンセプト2009年刊 織田信長の最大の贈り物・・ 宗教テロの根絶 自分が絶対正しい。 自分の宗教だけが絶対正しい、と思うと、 他の全部間違っていることになる。 この悪弊から、人類はいまだ抜け出ていない。 徳川綱吉の功績・・ 生命尊重の社会の成立 生類憐みの令は、 斬り捨て御免の社会・・人を殺すことが善であった時代に、 蚊一匹殺しただけで遠島にするような副作用がある劇薬だったが、 そのおかげで、生命尊重の社会が成立した。 <目次>『日本書紀』は信用できるのか邪馬台国の“台”はなぜ「タイ」と読むのか聖徳太子はなぜ憲法十七条を制定したのか奈良の大仏はなぜ「捨てられた」のか『源氏物語』はなぜつくられたのか源実朝はなぜ暗殺されたのか足利義満はなぜ突然死したのか山本勘助はなぜ実在を否定されたのか上杉謙信は武田信玄と一騎打ちをしたのか僧侶はなぜ武器を捨てたのか織田信長は宗教弾圧者か豊臣秀吉はなぜ朝鮮出兵をしたのか徳川綱吉は本当にバカ殿か徳川吉宗は本当に名君か田沼意次は本当に汚職政治家か明治維新はなぜ十五年もかかったのか
2010.01.14
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昭和史(戦後篇(1945ー1989))半藤一利「昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989」 (平凡社ライブラリー) 「一億総懺悔」の欺瞞・・ 戦争指導者と一般国民ともに、等しく責任があった・・・わけがない。 これが、戦後の「なあなあ主義」につながった。 武士道の精神は断絶・・でしょうか? 東京裁判史観について・・ もし昭和21年から23年に、日本人の手で裁判をやっていれば、 絞首刑はもっと増えていたかもしれない。 安保闘争は、「戦後日本のお葬式」・・ その後は、高度成長へひた走り 成長から成熟社会へ転換したこれからの日本に必要な精神は、 「君は功を成せ、われは大事を成す」 吉田松陰の気概ではないか。 <目次>天皇・マッカーサー会談にはじまる戦後―敗戦と「一億総懺悔」無策の政府に突きつけられる苛烈な占領政策―GHQによる軍国主義の解体飢餓で“精神”を喪失した日本人―政党、ジャーナリズムの復活憲法改正問題をめぐって右往左往―「松本委員会」の模索人間宣言、公職追放そして戦争放棄―共産党人気、平和憲法の萌芽「自分は象徴でいい」と第二の聖断―GHQ憲法草案を受け入れる「東京裁判」の判決が下りるまで―冷戦のなか、徹底的に裁かれた現代日本史恐るべきGHQの急旋回で…―改革より復興、ドッジ・ラインの功罪朝鮮戦争は“神風”であったか―吹き荒れるレッド・パージと「特需」の嵐新しい独立国日本への船出―講和条約への模索混迷する世相・さまざまな事件―基地問題、核問題への抵抗いわゆる「五五年体制」ができた日―吉田ドクトリンから保守合同へ「もはや戦後ではない」―改憲・再軍備の強硬路線へ六〇年安保闘争のあとにきたもの―ミッチーブーム、そして政治闘争の終幕嵐のごとき高度経済成長―オリンピックと新幹線昭和元禄の“ツケ”―団塊パワーの噴出と三島事件日本はこれからどうなるのか―戦後史の教訓昭和天皇・マッカーサー会談秘話【送料無料】半藤一利 / 「完全版昭和史」第2集 1937~1941 【CD】【送料無料】半藤一利 / 「完全版昭和史」第2集 1937~1941 【CD】【送料無料】半藤一利 / 「完全版昭和史」第6集 1954~1989 【CD】
2009.12.20
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BRUTUS (ブルータス) 2009年 8/15号 [雑誌]「BRUTUS 2009年8月15日号」の特集は、「日本再発見の旅と本」 1942年に、岡田紅陽さんによって撮られた1枚の写真「山波」 が、素晴らしい この1枚の前後に、40万枚の富士山の写真を撮り続けた、と。 これだけ見るために買っても良い、と思いました。 ところで、 お気に入りの岩手・鹿踊りのカレンダーも載っています。 8月から9月にかけて、12箇所で開催中 見てみたいな~
2009.08.07
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宮本常一写真・日記集成 昭和20-昭和56年の写真と日記 先日、竹橋の毎日新聞社を通りかかった時、 宮本常一写真集が、ディスプレイされていました。 以来、見てみたいな~と思い続けていたので、 今日、図書館で借りてきました。 宮本常一写真・日記集成 上巻 昭和30-昭和39年(1955-64)の写真と日記 宮本常一写真・日記集成 下巻 昭和40-昭和56年(1965-81)の写真と日記 宮本常一写真・日記集成 別巻 戦前・戦中の写真帳および昭和20-昭和29年(1945-54)の日記 左手にクリーニング、右手に全三巻・・ちょっと重かったです。 家に帰って、早速ページをめくると・・ 上巻は、生まれる前の世界ですが、小さい頃見慣れた光景が広がりました。 小学校の低学年頃までは、農耕馬や牛、荷物を運ぶ馬を見たことがありました。 道路が、1976年頃を境に急速にアスファルトになっていく様子がわかります。 全国どこに行っても同じような光景になったのは、たかだか30年も経ちません。 明日から「官僚たちの夏」が始まりますが、離島の家々の目の前までアスファルト になったモーターリゼーションの波の大きさを感じるのでした。宮本常一写真・日記集成
2009.07.04
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日本異界絵巻日本異界絵巻 (ちくま文庫) 小松和彦&鎌田東二&宮田登&南伸坊 異界に深いかかわりをもっていたと考えられてきた「人物」と 異界に属すると思われる「妖怪変化」たちの身元調査・事績 伸坊さんのイラストがいいですね~ ○八岐大蛇 ヤマタノオロチは、「天孫系の人びとの意のままになかなかならない自然界の象徴 であるとともに、抵抗を続ける土着の政治勢力の象徴でもあったのだろう。」○酒呑童子 「人間を助ける英雄も、人間を脅かす妖怪も、いずれも異常な存在であり、 それゆえにともに異界と深い結びつきをもっていると考えていた」 「酒呑童子の人生をみるとき、その姿は人びとが「異」なる者として排除してきた 人びとの姿と重なっているかにみえるのだ。 鬼を作ってきたのは、人間の側であったのかもしれない。」○鬼女紅葉 「中央にある男性中心の仏教が排除した女性宗教が、 周辺の地、戸隠で勢力を保とうとした時、 在地の戸隠修験たちはむしろ権力の側について、 紅葉やお万を倒そうと動いた。」 日本の山岳信仰は、はじめ女性司祭の管轄下にあったが、 男の修験者たちに駆逐され、 山姥のイメージで妖怪扱いした。○日本人でありながら、日本人ならざる人物 鎌田さん曰く、「空海、出口王仁三郎、南方熊楠」 共通する特徴は、 体躯が中肉中背・・ダルマ体型、 衝動に駆られるごとく、私費で海外へ渡航、 語学の天才で、抜群の記憶力を誇る、 霊能力を持つ。<目次>スサノヲ―三界を旅する“異貌の神”八岐大蛇―自然と土着民のシンボルヤマトタケル―白鳥に変身した悲劇の英雄小子部栖軽―怪力・知力を備えた異界の主聖徳太子―未来を語り伝える予言者役小角―山民“呪術者集団”のリーダー吉備真備―鬼から秘術を授けられた超人空海―不死の姿で生き続ける名僧菅原道真―神霊の両義性をもつ神の子安倍晴明―陰陽師のシンボル的存在〔ほか〕
2009.07.04
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福の神と貧乏神小松和彦「福の神と貧乏神」(ちくま文庫) 「福とか「富」について、日本人がどのような観念をいだいてきたかを探る。」 「さいわい」の反対概念は、「わざわい」 「幸せ」の反対は、「不幸せ(不仕合わせ)」 「富」の反対は、「貧」あるいは「乏」 「福」の反対は、「厄」 「福神」の反対は、「厄神」「貧乏神」あるいは「鬼」 「大黒舞」の数え唄・・に見る、しあわせの様子 一に、俵を足に踏み ニに、ニコと打ち笑い 三に、酒を造らせ 四に、世の中守りて 五に、いつもの機嫌にて 六に、無病息災に 七に、何事無くして 八に、屋敷を広め 九に、小蔵を建て並べ 十に、とうと納まれり 長者とは、神から「福」をさずけれたものであり、 同時に「徳」を積まなければならなかった。「「貧者」から「長者」へというプロセスは、 「貧乏神」から逃れて、「福の神」に選ばれるというプロセスであり、 それは「厄」から「福」へ、 「賤」から「貴」へ、 「ケガレ」から「ハレ」への移行のプロセスでもあった。」「「富」や「幸せ」をさずけてくれる「神々」が衰退したあと、 その跡をおそったのは「貨幣」であった。」<目次>第1章 「七福神」物語の世界第2章 福をさずける神々第3章 厄を祓い、福を売る第4章 長者と貧者第5章 福神信仰の民俗化第6章 昔話のなかの「福の神」と「富」第7章 「富」はどこからくるのか
2009.07.04
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宮廷文学のひそかな楽しみ岩佐美代子「宮廷文学のひそかな楽しみ」(文春新書) 2001年刊 オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 枕草子、源氏物語、讃岐典侍日記、弁内侍日記などの世界、 現代では失われた生活様式・・の謎を、 宮廷文学を味わいながら、一つ一つ解明していきます。 たとえば、 宮廷の女房たちがとった 「はいぶし」という姿勢・・ はたして、「はいぶし」はどんな姿勢だったか? 昭和初期までは残っていたようですが、 テーブルの「上に出されたお茶菓子を、決してそのままでは食べず、 畳の上に取り出して、正座のままうつぶし、肘を畳につけ、 屈んだ姿勢でそれを食べ」る、という姿勢のこと。 源氏物語にでてくる「萩の戸」の謎? なぜ間に「戸」があるのに、弘徽殿女御は、藤壺の女御に対して、 物を投げつけたりできたのか? 回答は本書をご覧いただければ・・<目次>「枕」と「源氏」の新発見(「はいぶし」物語シナリオ作家清少納言ミステリー作家紫式部サクラ読本の「源氏物語」みそっかつの花散里)宮中の人びと(男をさへぞ打つめる「萩の戸」のふしぎ四つの緒の調べはだかぎぬ)日記の真髄(ほ文字のり文字みめほしきつとめて霜・雪・霰つれづれなるままに)和歌の変遷(歌合三種、生中継花は盛りに月はくまなきともしびの連作)
2009.06.27
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小西甚一「日本文学史」 (講談社学術文庫) オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 昭和28年刊 本来ならば、『日本文藝史』と題したかったが、編集部により「文学史」となったもの。 小西先生、不満げ・・ 中世・・貴族文化が、つい最近まで形を変えつつ生き残っていたこと、 ちょっと驚きの見方でした。 日本文学の流れを、「雅」と「俗」による2つの表現理念の流れが交錯することによって 形成されていると捉える。 5世紀頃~8世紀頃 古代は、俗 9世紀頃~19世紀頃 中世は、雅 近代は、別種の俗 をそれぞれ中心理念とし、大きく3分される。 「古代の神話や歌謡に共通する性格をひとくちに言えば、 あらゆる点で根本的な対立あるいは分裂といったようなものが無いことであろう。」「精神的人間と物質的自然とが互いに距離をもたず、はじめから密着し融合していた」中世へ・・ 人麻呂の表現・・整正・壮大な格調は、民謡的世界をはるかに超えている。 対句の技巧は、シナにおいてさえ、人麻呂レベルになるのに、10世紀以上を要している。「和歌は、拾遺集時代すなわち十世紀の末から十一世紀の初めにかけて、 ひとつの頂点に達したといえる。」「歌合は、愉快に技を競う「あそび」ではなくなって、 貴族たちが自分の存在を賭ける烈しい「勝負」の場となってきたのである。」 武家の登場によって、公家は相対的に沈下したにすぎない。 革命によって滅ぼされたわけではないため、 自分たちが新しい時代に、変革をの要求されているのだと感じたくなく、 また変わらず・・その後、近衛家の暮らしぶりなどを聞くと20世紀初頭まで、 「文化的優位性」に生きる道を見いだそうと自己正当化し続けた。 定家の逃避精神・・ 「せめて文藝のなかに生きるよりほかない」 和歌史は、『風雅和歌集』(1349)を最後に、15世紀以降、 暗黒時代に沈む。 和歌に替わって燦然と照らすのが、連歌であった。 連歌は、その最盛期に、俳諧を独立させた。 16世紀末、武士でも貴族文化に憧れを持つ細川幽斎のような人物も現れる。「しかし、かれらは、いわゆる戦国争覇の裡で、いずれも悲劇的に没落してゆき、 土豪信長や野人秀吉が勝ち残って、17世紀に入るのである。」「新しく政権を握った徳川氏は、要するに田舎豪族であって、 あまり貴族的な伝統を尊敬しなかった。 かれらが必要と認めたのは、実用文化であった。」 <目次>第1章 古代第2章 中世第一期第3章 中世第二期第4章 中世第三期第5章 近代
2009.06.20
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山室恭子「黄金太閤―夢を演じた天下びと」 (中公新書)1992年刊 オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ なぜ秀吉は、金ピカにこだわったのか? なぜ秀吉は、無謀な「唐入り」を行ったのか? 黄金王・・という演出「検地にしろ、刀狩にしろ、豊臣政権の諸政策は、従来の政権のそれと異なり、 在地の構造を根こそぎ変えてしまうという、きわめて革新的なものであ」った。 庶民の支持を得るために、黄金王のイメージを辺境まで行き渡らせた。 フロイス曰く、「「日本で誰一人として到達したことがない栄誉と名声を残すことを願う」がゆえに 中国征服を宣言し」た。 そんな秀吉にとって、立ち止まることは死を意味した。 「唐入り」のおぞましい面・・ 鼻供養をイベントとするため、慶長の役の数ヶ月間、「鼻そぎ」が行われた。 「高麗から耳鼻が十五桶送られてきた・・」 「徳川のあの厳格な身分統制政策の誕生のシーンには、 秀吉の黄金路線の派手な破産という事件が大きな影を落としていることがわかってくる。」 徳川政権は、秀吉の施策を、大きく教訓とした。<目次>第1幕 金ぴかの祝祭王(都にて 鄙にて インテルメッツォ)第2幕 海を渡った悲劇(唐入りという夢花火 情報太閤に達せず? カーテンコール)
2009.06.13
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歴史人口学で見た日本速水融「歴史人口学で見た日本」 (文春新書)2001年刊 オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 歴史人口学(historical demography) ヨーロッパの人口学の基・・ それは、「教区簿冊」・・16世紀半ばから17世紀以降 ルイ・アンリ 日本の場合・・ 「宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)」 野村兼太郎 「宗門改帳」の注意点・・ 加賀藩では、15歳にならないと載せない。 紀州藩や広島藩では、8歳以下は乗せない。 他藩も、3歳や5歳が基準だった。 乳幼児死亡率は不明。 また、毎年記録せず、3年毎などという歯抜けもあり。 一方、「宗門改帳は、洗礼を受けた1歳以上が記録されている。 「宗門改帳」の分析から明らかになったこと・・ 「都市アリ地獄説」・・ 都市は、農村部から人を引きつけておいて、高い死亡率で殺してしまう。 ヨーロッパでも同様の現象があり、「都市墓場説」といわれる。 農村部は、出生数が多いにもかかわらず、都市部への出稼ぎが多く、 出先に居ついたり、亡くなって帰ってこないため、人口の変動がほとんどなかった。 出稼ぎするのは、小作が中心で、庄屋はほとんどなし。 俗説として、「一人一石」といわれていたが、 一石あたり0.6人~0.7人であることになった。 したがって、江戸初期は、1800万人といわれていたが、1200万人±200万程度と 思われる。 家族復元の結果わかったこと・・ 平均初婚年齢は、男 28歳、女 20.5歳 結婚の継続期間は、わずか1年が一番多く、全体の7%。 銀婚式は、2~3%、金婚式は、0.5%。 結婚後2~3年の離婚率が極めて高かった。 歴史人口学の問題・・ かつてはハードウェア代だったが、 いまは年金問題と同じく、オペレーターのデータエントリー代が嵩む。 研究費が獲得できるか否かの手腕が大きく成果に左右する。<目次>第1章 歴史人口学との出会い第2章 「宗門改帳」という宝庫第3章 遠眼鏡で見た近世―マクロ史料からのアプローチ第4章 虫眼鏡で見た近世―ミクロ史料からのアプローチ第5章 明治以降の「人口」を読む第6章 歴史人口学の「今」と「これから」
2009.06.13
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江戸文化評判記中野三敏「江戸文化評判記―雅俗融和の世界」 (中公新書)1992年刊 オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 中野さん曰く、 人文科学の研究者の条件・・ 「第一に、長命でなければならぬことはまちがいない。 この世界では、「若さ」は「馬鹿さ」と同義語である。」○ケイ斎(けいさい)好きの北斎嫌い 浮世絵の鍬形ケイ斎(くわがたけいさい)・・すっきりに凝る人あり、 葛飾北斎・・ごってりに凝る人あり 北斎は、ケイ斎の真似ばかりした。ケイ斎の跡を追い、精細さを加えたが、 俗に堕した、といいます。○和本礼賛 「諸君にとって書物から得る知識は当然のこともっとも大事ではあるが、 それ以上に大事なのは人間を知ることにある。 特に文学を学ぼうなどというものにとっては、 人間通になることが最大の急務である。」 この人間通の訓練が、古書店での人間観察にある・・となる。○本の虫 和本に巣食う虫を退治する方法・・ 「ラップして電子レンジで50秒以内のチンをやること。」 本の虫もその卵も、ゆで卵になること・・請け合いって!<目次>一人乗りのタイム・マシーン1 江戸的文化2 江戸の中央と地方3 廓の素顔4 箸休め5 伝記屋開店6 和本礼賛
2009.06.13
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折口信夫「日本芸能史六講」 (講談社学術文庫) オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 日本芸能史六講・・昭和16年7月に、芸能学会の前身の会が主催した3日間にわたる公開講座の講義録。 芸能のルーツ・・は、「祭り」 寺社の祭りだけではなく、家々での祭り、酒宴もあり。 家での饗宴するときは、「州浜(すはま)」を置く。 神を家の外から家内へ招び寄せる。 来臨する神は、「まれびと」「まらうど」 農村での田植え後の饗宴は、「さなぶり」 芸能の目的・・は、「鎮魂」と「反閇(へんぱい)」 反閇とは、悪い魂・でもんを踏み抑えつけて再び出てこられないようにすること。 あそび、遊びは、鎮魂の動作。 楽器を鳴らす、舞踊する、野獣狩りをすることも、あそび、という。 のちに、催馬楽・朗詠・東遊へつながる 「翁の発生」も所収。
2009.06.13
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磯田道史「武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新」 (新潮新書) オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」より・・ 「金沢藩士猪山家文書」には、加賀・猪山家の 天保13(1842)年7月から明治12(1879)年5月までの 37年間にわたす「武士の家計簿」が記録されていた。 猪山家は、加賀藩の「御算用者(ごさんようもの)」=「算盤(ソロバン)係」、 経理のプロだった。 太平の世になった江戸時代の中期、加賀藩の貧しい陪臣であった猪山家は、 刀ではなく、ソロバンの技術で、加賀120万石の会計を預かる御算用者に抜擢される。 以降、猪山家は代々、御算用者となったが、転機は、明治維新・・ 官軍の大村益次郎の目にとまり、維新戦争の最中、 官軍の経理を任される。 江戸・東北への討伐軍の兵站等の経理を担当する。 その手腕を買われて、戦後は、国家の金食い虫と揶揄された 海軍の主計係ともなった。 大村益次郎が早く亡くなったため、猪山家は後ろ盾を失う。 現在、靖国神社にある大村益次郎の像の建立したのは、この猪山家だった。・日本近世は封建制にあらず 「蔵米知行」制度・・知行地での勧農・裁判・租率決定・年貢収納といった面倒な行政を、 個々の藩士がせず、藩の官僚が一手に行った。この官僚が、「御算用者」であり、 後の明治国家にも続いた。 「蔵米知行」制度によって、武士と石高・知行地が切り離され、武士は、名目上の知行地から とれたと思われる米を、藩から給与としてもらうかたちになった。 ・・これを称して、「日本近世は封建制にあらず」。 唯一、武士と知行地のリンクして残っていたのが、鹿児島周辺や仙台藩など・・ このことが、明治維新によって、武士階級が簡単に経済的特権を失う一方、 西南戦争など激烈な「士族の反乱」が起こった地域がでた理由ではないか、といいます。 ところで、 武士は、武士の身分を維持するため、下男下女を雇い、冠婚葬祭や寺社への多大な寄付等を 支払う必要があり、平均して、年収の2倍程度の借金を抱えていた。 現在の価値で、年収1742万円の猪山家だったが、 武士本人の月々のおこづかいは、わずか5840円しか残らなかった。 同時期の草履取りは、食事や衣服とは別に、年棒33万、月々のこづかいに、 お使いごとにお駄賃がでた。 武士は立派に見えるが、経済的には泣いていた。 江戸時代は「圧倒的な勝ち組」を作らない社会であり、 武士は威張っているが、しばしば自分の召使いよりも金を持っていなかった。 そのため、 身分的特権の喪失と同時に、 身分的義務が不要になったことにより、 明治維新によって、武士は経済的に解放された、ともいえる。<目次>第1章 加賀百万石の算盤係第2章 猪山家の経済状態第3章 武士の子ども時代第4章 葬儀、結婚、そして幕末の動乱へ第5章 文明開化のなかの「士族」第6章 猪山家の経済的選択
2009.06.13
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山路閑古「古川柳名句選」 (ちくま文庫) 今週は、オマケ◎文庫・新書でたどる日本史・・谷沢永一「知ったかぶり日本史」 の新書を手に取っていたので、 棚卸し・・ 古川柳・・名句選というだけあって、 小さい頃、耳にしたものが沢山載っていて、 懐かしいですね~ 寝て居ても団扇(うちわ)の動く親心 母親はもったいないがだましよい 碁敵(ごがたき)憎さも憎しなつかしさ 泣き泣きもよい方を取る形見分け 孝行のしたい時分に親はなし 山路閑古さんの本、どれも絶版のようなので、 古書、ゆっくり集めてみたいですね~
2009.06.13
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谷沢永一「知ったかぶり日本史」より 最後に、文字通り、オマケとして、 「オマケ◎文庫・新書でたどる日本史」 が紹介されています。 岡田英弘『倭国の時代』朝日文庫 宮崎一定『古代大和朝廷』ちく学芸文庫 内藤湖南『日本文化史研究』上・下 講談社学術文庫 渡辺昇一『日本語のこころ』講談社現代新書 渡辺照宏『お経の話』岩波新書 司馬遼太郎『空海の風景』上・下 中公文庫 折口信夫『日本芸能史六講』講談社学術文庫 小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫 岩佐美代子『宮廷文学のひそかな楽しみ』文春新書 五来重『高野聖』角川新書 古田武彦『親鸞』清水書院センチュリーブックス 小松英雄『徒然草抜書』講談社学術文庫 丸谷才一『新々百人一首』上・下 新潮文庫 山室恭子『黄金太閤』中公新書 大石慎三郎『江戸時代』中公新書 柳田國男『木綿以前の事』岩波文庫 柴田宵曲『蕉門の人々』岩波文庫 山路閑古『古川柳名句選』ちくま文庫 中野三敏『江戸文化評判記』中公新書 磯田道史『武士の家計簿』新潮新書 東畑精一『日本資本主義の形成者』岩波新書 井上章一『つくられた桂離宮神話』講談社学術文庫 伊東整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫 山崎正和『不機嫌の時代』講談社学術文庫 立花隆『日本共産党の研究』1・2・3 講談社文庫 柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』上・下 中公文庫 神谷不二『朝鮮戦争』中公文庫 吉川元忠『マネー敗戦』文春新書 矢代幸雄『世界に於ける日本美術の位置』講談社学術文庫 瀬川清子『食生活の歴史』講談社学術文庫 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』岩波文庫 速水融『歴史人口学で見た日本』文春新書 あと、「あとがき」にある フェルナン・ブローデルの『地中海』<邦訳全五巻・藤原書店> 岩波文庫と講談社学術文庫を読み進めようかな~ でも、読みやすい新書が先でしょうか?
2009.06.02
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谷沢永一「知ったかぶり日本史」2005年刊 書誌学の観点からみた日本史・・ 従来の常識が見事に否定されます。 目からウロコの指摘が目白押し○「悪人正機の論理」は親鸞の言葉ではない。 ・・法然の発言であることを認めるべきである。○マルコ・ポーロ「東方見聞録」は、 ・・「隅から隅まで嘘である。旅行記の内容は絶対に信頼できないと、 疑う人はかなりあったが、書誌学的明細な調査によって、 遂に中世ではありがちな化けの皮が剥がれたのである。」「17年間も宮廷につかえたにもかかわらず、正史である『元史』その他の記録に、 ポーロの一行の名前はどこにも見当たらない。」 中国人の友人は一人もおらず、中国国内の旅行の足跡はどこにも記録されていない。 極めつけは、『万里の長城』の記述が一切なし・・理由は、当時のヨーロッパに 伝わっていなかったから。○本居宣長 谷沢先生、本居宣長に対しては、とっても手厳しい評です。 「我が国の史上に虚名を得て崇敬を受けている山師<ペテン師>のうち、 もはやボロが出ているのに、まだ一部から押し上げられているひとりが、 売名処世にしたたかな本居宣長であろう。」 いまさらではなく、「彼の生存中からすでに、橘守部と上田秋成が宣長の天敵であった。 加えて最も激しく『古事記伝』を罵ったのが山片蟠桃である。」 蟠桃曰く、 「本居氏は(古事記)伝を作る。 牽強付会至らざる処なし。 又古事記に云わざる大神を女体とす。 ああ神道を学びて其博学と見ゆる人も、此処に至りては、何故に斯くの如く愚になるや。 旧事記は日本紀古事記より剽窃したる偽書なり、 旧事記の書は取るに足らず。 日本紀に於いては疑なきに非ず。 天地開闢の始めのこと、誰ありてこれを見ん。 たとひ見し人ありとも、文字なければ書きのこすべからず。 天照大神の女体と云うこと、我是を疑うこと数年。 あに女体にして天下是皇祖とせんや。 これ怪しむべし。 神武より千年ほどの間は神代の名残にて、史には如何に載せたりとも、 みなこしらえごとなり。 勿論神代のことは尚さらに夢の如く。 読まずして然るべき、すべて日本紀の文をそれぞれに味わえば、 いよいよ以て作りごとなるをしるべし。」 <目次>第1章 あっと、驚く…第2章 人・ヒト・ひと第3章 世の中・事件・出来事第4章 学者・思想家・評論家第5章 諸事万端第6章 男と女
2009.06.02
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英傑の日本史(上杉越後軍団編)井沢元彦「英傑の日本史 上杉越後軍団編」・・・春日山城壁書2008年刊 上杉謙信が出陣の際に、家臣に宣言した家訓・・ 「運は天にあり、鎧(よろい)は胸にあり、手柄は足にあり、 何時も敵を掌(たなごころ)にして合戦すべし。 疵(きず)つくことなし 死なんと戦えば生き、生きんと戦へば必ず死するものなり。 家を出ずるより帰らじと思へばまた帰る。 帰ると思へばぜひ帰らぬものなり。 不定とのみ思ふに違わずといえば、武士たる道は不定と思ふべからず。 必ず一定に思ふべし」 ・・春日山城壁書と呼ばれるもの<目次>上杉謙信長尾為景長尾政景宇佐美定満柿崎景家斎藤朝信直江景綱甘糟景持村上義清高梨政頼鬼小島弥太郎北条高広加藤段蔵色部勝長本庄繁長長野業政成田長泰上条政繁上杉憲政上杉景勝前田利益岡左内直江兼続
2009.05.22
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毒舌日本史今東光「毒舌日本史」 (文春文庫) 近所の本屋さんで平積みされていたので手に取ったもの。 単行本は、1972年に発刊されていますが、 テーマが日本史なので、散見される全学連への批判以外は、全く古くないですね~ 本書で初めて知った目からウロコのお話、沢山ありました 毒舌・・というよりは、多分に下ネタ日本史でした。 ○偽書の面白さ 『旧事紀(くじき)』・・偽書と言われているが、それは筆写の過程での混乱によるもの、 非常に重要な書物である。 「いわゆる、幾多の混乱があるために古来、学者間には偽書だと言われるが、 誰があんな途方もねえ偽書を作る阿呆がありますか。 たしかに若干、後世の記事が入り混っているので、後世の偽作だと言うんだが、 それを指摘することができる夾雑物を除いたら、それこそは真実だと断定できる かってんだ。」 『旧事紀』を読むと、『古事記』の「蛭子」のイメージは一変する。 蛭子は、蛭のような子ではなく、 天照大神のお兄さんの大日霊子貴尊(おおひるこのむちのみこと)のことであり、 神武東征に先立って、大和国で先住民族を征服して国家を創っていた。<目次>原始の性を謳う『古事記』新説・日本建国譚国力の象徴・応神陵世界無比の十七条憲法大化のクーデターから皇室の内乱へ大きな遺産・『万葉集』、小さな遺産・大仏ウルトラ・スーパーマン道鏡花咲くサロン・フェミニズム栄光と悲惨の藤原四代源平ともに久しからず〔ほか〕
2009.05.17
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井沢式「日本史入門」講座(5(朝幕併存と天皇教の巻))井沢元彦「井沢式「日本史入門」講座〈5〉朝幕併存と天皇教の巻 」2008年刊 平安末期、平清盛登場から、鎌倉幕府成立にまでを、 井沢さんの史観で解説したもの。 日本教の正体・・死とケガレを極端に嫌う 怨霊信仰(御霊信仰) ex.祟徳天皇の呪い 日本教のルーツ・・農耕民族であった弥生民族 武士 ・・ 貴族は死とケガレを忌避したため、 代わって汚れ仕事を一手に担った。 各地の開発農民が自衛・・当時は、「兵農一致」の 私的武装集団 源平合戦 ・・ 平氏が、武士の悲願である「土地の私的所有」を 朝廷に要求しなかったため。 鎌倉幕府の成立によって、武士団の悲願は達成・・ でも、そのことを理解していなかったのが、源義経であり、 すでに独立王国として存在していた異民族の奥州藤原氏 よって、のちに滅ぼされる <目次>序章 日本の歴史は怨霊の歴史第1章 源頼朝、その数奇な運命第2章 軍神、源義経の活躍第3章 頼朝の苦悩、義経の悲劇第4章 源氏と奥州藤原氏の因縁第5章 日本史最大の謎、「朝幕併存」成立の背景第6章 頼朝の死と鎌倉幕府存続の謎
2009.05.17
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「流れ」がどんどん頭に入る一気読み!日本史瀧音能之「「流れ」がどんどん頭に入る 一気読み!日本史」 (青春新書INTELLIGENCE) 新書に似合わず、内容は高校の日本史の教科書の雰囲気・・ですが、 4つの時代区分(原始・古代、中世、近世、近現代)毎に、 4つの分野(政治、経済、対外関係、文化)の動き毎に 説明しています。 最初に政治的な流れを頭に入れた上で、その当時の経済状況がどうであったかを押さえ、 対外関係・・朝鮮半島や中国大陸との関係、その国内への影響を考えます。 さらにそんな政治・経済・対外情勢の中で花開いた文化をみます。 同じ時代を4つの目線で見ているので理解が深まります。 ただし、わずか280ページの中で、日本史を全部説明しようと言う欲張りな試みのため、 用語の説明はほとんどなく、また、 章や節のタイトルは、「○○はどう変わったか」という思わせぶりなものですが、 「どう変わったか」の説明はあるのですが、 「なぜそうなったか」という説明がないのが玉に瑕・・ 整理の仕方も内容も面白いので、3倍ぐらいの分量になってもよいので、 読んでみたいと思いました。<目次>第1部 原始・古代編(政治の動き 経済の動き 対外関係の動き 文化の動き)第2部 中世編第3部 近世編第4部 近現代編
2009.05.13
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日本史の裏事情に精通する本谷沢永一「日本史の裏事情に精通する本」 書誌学・・の観点からみると、 私たちが信じている日本史の基になっている史料そのもので 厳密にみて信頼に足るものはほとんどない・・「日本歴史に完全な定本はない」、といいます。 では、そこで語られる歴史とは? 歴史とは、アネクドートでしか語りえない・・という谷沢氏独特の歴史観です。 「今でも尊重されている『古事記』なるもの、 実は約百年後の偽作であって、日本古代史の史料とならず、 また、『日本書紀』が史実を伝えていない政治文書である・・」 日本における古代史文献のうち、正式な勅撰として伝えられているのは、 『日本書紀』から『日本三代実録』に至る「六国史」である。 しかし、それぞれの全巻揃った完本はどこにも絶対に見つからない。 膨大な写本の束は、編纂された当初の原型をそのままのかたちで伝えてはいない。「コピーのない時代における書籍は、殆ど例外なく校訂という余計な操作の手を経ている のである。それゆえ江戸期から平成の今日までの古典は、殆ど学者によって染めあげられた 加工の本文を与えられ、われわれは古典の真当な姿から隔てられている。」「そもそも写本は写経とは根本的に異なり、写し伝えられるごとに恣意を以て改竄を 重ねられること常識であろう。 いわんや支那では時代が降るほど後人の手が加えられ本文が崩れるのを常とする。」「特筆大書すべきは、我が国が遥か昔から古文書を大切に蒐集保管し、それによって 歴史の真実により近づこうと努力してきた経過である。」「いずれにせよ史書は政治文書であって真実を語らない。 過ぎ去った昔の事実はほとんどわからないのである。」 <目次>控えよ、葵の印篭が眼に入らぬか男子一人称「自分」の含意宋版元版は必ずしも信用できない写本の筆者と年代は解らない我が国は中国人を研究してこなかった中国人の特性を見抜いた眼力古文書学の始祖は重野安繹である歴史記述が真実を記録した時代はない戸坂潤が書評の重視を強調した処女純粋論が男と女を不幸にした〔ほか〕
2009.05.13
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私説・日本合戦譚新装版松本清張「私説・日本合戦譚」 (文春文庫) 杉原志啓「おもしろい歴史物語を読もう」(NTT出版ライブラリーレゾナント)が面白かったので、 近所の本屋さんに行ったのですが、見つかったは、松本清張「私説・日本合戦譚」でした。 日本史における主要な戦いより9つ選んだもの。 清張さんが敬愛した菊池寛の「日本合戦譚」にならった作品。 史実か否かの評定や人物評について、随所に清張さんの解釈があり、そこが実に面白い。 でも、ちょっと休みボケした頭で、通勤途上にページをめくって、 川中島戦いや関ヶ原戦いを読みながら・・ なぜいま関ヶ原?? と自問自答しているのでした(^_^;) ○九州征伐 「秀吉ぐらい敵を見る男はいない。 急遽攻めるべき相手には、果敢な攻撃に移ったが、手強い相手には、けっして軽はずみな ことはせず、歯痒いくらいに自重に自重を重ねた。」○関ヶ原の戦 徳富蘇峰曰く、「およそ関ヶ原役の如く人間の弱点を露骨で赤裸々に発現したものはない。 険悪なりと云はんか、醜悪なりといはんか。 両天秤でなければ必ず表裏がある。 二枚舌や、二重腹は云ふまでもない。 人は人と相疑ひ、人は人と相欺く。 中立を装ふて形勢を観望せざれば、必ず内通して、逃げ道をこしらへておく。 裏切る者あれば、またその裏を掻く者もある。 真にあさましき人心は、遺憾なく、この一場の葛藤に暴露せられた。 公儀に託して、私怨を報ずる如き、公事を名として、私利を営むが如きは、 ほとんど尋常の茶飯であった。」 清張さん自身の歴史物語評・・ 「筆者は、これまで合戦譚を書きつづけてきたが、戦争と民衆という視点からは、 まだ一度も捉えていない。・・ 一つは、記録のほとんどが、権力筋にだけ遺っているためもあり、 また一つは、当時の民衆が文字を解せず、記録として遺せなかった資料の不足も あろう。しかし、誰かがこれらを採集してやらねばならない仕事である。」<目次>長篠合戦姉川の戦山崎の戦川中島の戦厳島の戦九州征伐島原の役関ヶ原の戦西南戦争おもしろい歴史物語を読もう
2009.05.08
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おもしろい歴史物語を読もう 杉原志啓「おもしろい歴史物語を読もう」(NTT出版ライブラリーレゾナント)の紹介続き・・ 山路愛山や三宅雪嶺・・は、ぜひ読まずば・・という気になります。○英雄物語の真髄――山路愛山『豊臣秀吉』 山路愛山『豊臣秀吉』・・ 「これは絶対おもしろい。なぜといって、読んでいると元気になる。 日本人たることが誇りにおもえてくる。われらかくあるべしとしばしば感激させられる。」○佐幕史観からみた徳川滅亡物語――福地源一郎『幕府衰亡論』 明治維新関連の書籍はどれも「偉業」を叙述する薩長史観のものばかり。 徳川幕府を「主」とするものがない中で、福地源一郎が徳富蘇峰の勧めで書いたのが、 『幕府衰亡論』だった。 ○名文で語る日本の歴史――竹越三叉『二千五百年史』 三叉その人が忘却の淵に沈んでいる現在・・ 「残念だし、もったいない。かねてわたしは歴史家としての三叉を高く買っているし、 日本という国がひとつにかたちづくられていく国史をたどるうえで、 こんなにわかりやすくおもしろい通史はめったにないと確信しているからだ。」 この通史・・2500年の歴史に貫通するのは、「平民主義」であった。 神武以来の歴史は、「南人」と「北人」、「貴族」と「中等階級」、「武権」と「富力」の 相克を描きつつ、日本が朝廷(天皇)のもとにある「平民」中心のひとつの国へたどりつく 歴史だった、と。○“哲人”がみた近代日本――三宅雪嶺『同時代史』 『世の中』 『続世の中』 『人生八面観』 『人の行路』 『人物論』 『英雄論』 『武将論』 『同時代史』○歴史小説家のバイブル――徳富蘇峰『近世日本国民史』 松本清張曰く、 『近世日本国民史』は、「史書として巨大であり総括的であり、 その古風で豪宕な文章は、歴史書として出色の本である。 特に、根本資料を精選して採録しているから彼の史観は古くなっても、 根本資料は生きている。」 徳富蘇峰・・生涯に、300冊超、著作言論活動のために蒐集した本は、無慮9万3千冊超。 「まことによく読み、よく書きまくった破格にして猛烈な「文章報国」の人生だった」○風景のナショナリズム――志賀重昴『日本風景論』 重昴によれば、 日本は「桜花国」であり、また「松国」でもあった。 <目次>序 史書遍歴英雄物語の真髄――山路愛山『豊臣秀吉』佐幕史観からみた徳川滅亡物語――福地源一郎『幕府衰亡論』名文で語る日本の歴史――竹越三叉『二千五百年史』永遠の“ワン・パータン”――田口卯吉『日本開化小史』“哲人”がみた近代日本――三宅雪嶺『同時代史』日本人の義―福本日南『元禄快挙録』歴史小説家のバイブル――徳富蘇峰『近世日本国民史』歴史物語の再興者――松本清張と司馬遼太郎忘れられた在野の歴史評論家――白柳秀湖『定版 民族日本歴史』(一)「白柳史学」の魅力――白柳秀湖『定版 民族日本歴史』(二)風景のナショナリズム――志賀重昴『日本風景論』精神史としての歴史物語――大川周明『日本二千六百年史』「歴史物語」とはなにか――再び松本清張と徳富蘇峰坂本先生と私――あとがきに代えて
2009.05.08
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おもしろい歴史物語を読もう杉原志啓「おもしろい歴史物語を読もう」(NTT出版ライブラリーレゾナント) 2008年刊 最近、日本史の要約本を手にとっていますが、その一環・・ 「おもしろい歴史物語を読もう」という、やわらかい書名と異なり、 紹介されているのは硬派なもの。 ・・といっても、杉原さんの紹介を読み進めるうちに、 杉原さん自身が、もともと松本清張や司馬遼太郎の歴史物語が入り口で、 山路愛山を知り、徳富蘇峰の研究者にまでのめり込んでいった様子を通して、 ここで紹介された20冊ほどの書物、ぜひいつか読んでみたい、という気持ちになります。 特に、徳富蘇峰『近世日本国民史』は、読みたい。 徳富蘇峰は「右翼思想家」の典型のように言われていたので、 蘆花の文庫は手にとっても 蘇峰には近づきもしませんでした。しかし、小林秀雄が全巻をすべて数回読み返し、 松本清張・井上靖・吉川英治・菊池寛・久米正雄・正宗白鳥・木村毅らの文学者の座右の書、 さらに大杉栄や佐野学のような左翼の頭目も愛読する。 ・・肯定するにせよ批判するにせよ、この本に収められている根本資料そのものによって 「歴史」が構築されている点に極めて高い価値がある・・なんてこと、いまさらながら 知りました。 年齢では1歳しか変わらないとのことですが、杉原さん、坂本多加雄に師事し、 その学恩を受けたことが全編に語られています。 2002年に、坂本さんが52歳で急逝したことが痛恨事・・ というのも、遅咲きの松本清張がデビューしたのが41歳・・その成果は66巻の全集となり、 徳富蘇峰は生涯に300余巻を残したが、その8割は49歳以降の作品だという。 坂本先生があと10年生きていれば、嗚呼・・<目次>序 史書遍歴英雄物語の真髄――山路愛山『豊臣秀吉』佐幕史観からみた徳川滅亡物語――福地源一郎『幕府衰亡論』名文で語る日本の歴史――竹越三叉『二千五百年史』永遠の“ワン・パータン”――田口卯吉『日本開化小史』“哲人”がみた近代日本――三宅雪嶺『同時代史』日本人の義―福本日南『元禄快挙録』歴史小説家のバイブル――徳富蘇峰『近世日本国民史』歴史物語の再興者――松本清張と司馬遼太郎忘れられた在野の歴史評論家――白柳秀湖『定版 民族日本歴史』(一)「白柳史学」の魅力――白柳秀湖『定版 民族日本歴史』(二)風景のナショナリズム――志賀重昴『日本風景論』精神史としての歴史物語――大川周明『日本二千六百年史』「歴史物語」とはなにか――再び松本清張と徳富蘇峰坂本先生と私――あとがきに代えて
2009.05.06
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歴史通谷沢永一「歴史通」 (ワックBUNKO) 2004年刊 1982年講談社刊の「「正義の味方」の嘘八百」を、改題改訂したもの。 進歩主義的な歴史観への批判の書。 「「正義の味方」の嘘八百」が刊行当時は画期的だった様子・・ 呉智英さんや鷲田小彌太さんらの本で、たびたび紹介されていたので、 読んだ気になっていたもの。 日本人の精神風土・・現在にまで通低しているものを、 見事に指摘してされています。 とはいうものの、近代の果実の良いところを捨てて、過去の良いところを採ることの難しさも 感じるのでした。 ○日本に“貴族”はいなかった 諸外国・・中国や西欧諸国と異なり、 わが国の貴族は、実に質素な暮らしをしていた。 「少なくとも無理無体な搾取、非道なる行為、絢爛たる奢侈というモニュメント(遺跡・史実) は何も残っていない。」 また有史以来、「収賄」の伝統がない。・・だからこそ、為政者の収賄事件が起こるたびに、 国中が沸き返る。 かつて中国が科挙の前に平等であったのと同様、 日本では「和歌の前において平等」であった。○部下を可愛がる習慣の始まり わが国の管理職には、「部下は可愛がるもの、決して苛めたり、扱(しご)いたりする ものではない」という姿勢が、体質にまでしみ込んでいると言う。 ・・この論の後に続く、赤提灯の伝統・・云々は現在、微妙なところですが、 「部下は可愛がるもの」という伝統はしっかり根づいています。 ヴェイユの日記読んでの違和感、欧米の上司・部下の関係との違いにあることに いまさらながら気づいたのでした。 だから、「百姓一揆」は管理職の責任・・すなわち、一揆を起こさせた藩主・家老・代官 が悪い、という発想は江戸時代には完全に定着していた。○歴史を白紙に戻した「応仁の乱」 内藤湖南は、「応仁の乱」をもって、精神史としての「日本の歴史」のはじまりとする。 「応仁の乱」にて、それまでの伝統・由緒・名家・名望がことごとく失墜し、 実力あるもの・・「戦国大名」がとって代わった。<目次>第1章 「知恵」を読めば歴史通(日本に“貴族”はいなかった 部下を可愛がる習慣の始まり 武士は政治的責任感を持っていた ほか)第2章 「流れ」を観れば歴史通(明治維新は「会社更生法」の申請であった。 リーダーと青写真のない躍進 昭和の禍根はどこからきたか ほか)第3章 「人間」を知れば歴史通(実務家の現場感覚が戦後を作った「六〇年安保」は未来への祝祭「ツケ」を支払う国民の知恵 ほか)
2009.05.06
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