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死にたい、という言葉をこれまでの私の生涯で何度きいたことだろうか悩み多き思春期の友から、忙し過ぎる同僚から、幸せ過ぎるわが子から母の涙を見て、涙する私を見て、また涙する母ごめんね、至らない介護者私のせい死にたい、という言葉を生涯はじめて、きいたきょうごめんね.
Aug 11, 2011
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半年以上もおやすみしてました! 母の介護で自分の時間もなかなかとれず… いえ、 母の人生の残された時間を 安泰に、穏やかにすごせるように 努力するのが今の私の「時間」 そして、 小さい頃の思い出や 小さい頃には気付けなかった 事柄が母と一緒に過ごす時間のうちに たくさん見つかる、 そんな生活、いまの私です 2011年の夏 .
Jul 29, 2011
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新しい年を迎えました~~クリスマスは特別な事もなく、教会のイヴ礼拝に行って、行事を見学し、家族といつもどおりにクリスマスのお料理をたべて。いつもと違うのは、、、心を込めて主イエスの誕生を祝い、祈ったことです。なぜか、昔からいつもこの時期になると思ってました。クリスマスは、子供たちがプレゼントをもらう催しでないしましてや恋人たちが特別な夜を過ごすチャンスでもない。イエス・キリストが産まれた日で、クリスチャンにとってはそれを祝う特別に厳粛な日なんだけどなぁぁ~~ って。漠然と。明けて新年 2011年です。やっぱりいつもどおりにお雑煮を作って、家族でおせちを食べて、お年始のお客様を迎える。そして、近くの神社に初詣にいくのですが・・・・今年はちょっと、躊躇しました。神社にお参りに行くということは、クリスチャンとしてどうなんだろう。一年の無病息災を、神社の神様にお願いするということはどうなんだろう。私の神様は、神社にはいらっしゃらないはず。神社の神様に真っ直ぐな信仰を持つ人の信仰心は尊重しよう。でも、ただ日本人であるという事で、漠然とお参りに行くことはどうなんだろう。神事にしても仏事にしても、今まで無信心な私は、神様のことも仏様のことも深く考えず、深く知ろうともせず、ただ与えられる機会に参加していただけ。そんな私が、イエス様の愛と光に包まれながら、かりそめの神事に臨場してよいのだろうか。迷って、、、いぇ、迷わず、神社へのお参りを辞めました。どうだったんだろう、それで正しかったのか。答えを与えてくださるのはイエス様しかいない。祈るしかない。祈って答えを頂くしかない。55年間の、背骨の無い生き方を、省みて思う。今、私が活きる場所は、イエス様の射す光の中なのだということを。
Jan 8, 2011
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深い穴ぐらに冬眠していたいし海岸の砂の中でぬくい季節が来るまでアサリになりたいそれが無理なら家のはじっこで時間がながれるのをおとなしくじっと待ちたい大好きな季節、冬なのにいつもは得意な年末の慌ただしさなのになんで、ことし、気持ちも身体もこんなに重いんだゆかねばならないしなくちゃならないはじめてのことはじめてのひとたちさいごのことにどともどらない時間だから逃すわけにはいかないがんばらねばいけないじっとしててはいけないでも、重いんだ、心も身体も精神も手助けてください奮い立たせてください重しを取り除いてくださいいつもの賑やかで活気に満ちた年の瀬を私に過ごさせてくださいすべてが済んだら、感謝と共に穴ぐらの小動物か海岸のアサリになりますから。主よ。
Dec 22, 2010
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神様を心に受け入れた私は、日常随時「祈る」ことをします。祈りは私にとって、神様との会話です。私の心が神様の御心へと繋がる唯一の手段です。私たちにとって、祈りは呼吸です。激しく働く時に呼吸も激しくなるように、祈りも強くなります。悲しみに沈む時、深く重たい呼吸をするように、祈りも深長で狂おしいものとなります。喜びに沸く時に鼓動が高鳴るように、祈りも高らかに感謝の思いに溢れたものになります。また、自分以外の人や、物事のために祈るときには、心を全開にして、持てる限りの優しさや思いやりを神様に捧げるように、穏やかで落ち着いた祈りになります。でも、どんな場面にあっても、どんな思いを抱えながらも祈りは、祈りでなければなりません。感情の噴出や、嘆きの吐き捨てで終わってはいけないと思うのです。どんな時でも、場面でも、天に居らっしゃる父なる神様に語りかけます。哀しみも苦しみも喜びも感謝も、包み隠さず神様の御心にゆだねます。嘘も見栄もしません。遠慮も割引もしません。罪、と感じても、叱られそうと不安でも、図々しいかなと思っても、神様には100%の真実、本音をさらけ出します。神様はかならず全てを聴き入れてくださいます。神様は叱ったり罰したりしません。罪は赦され、苦しみは吸い取られ、そして共に喜んでくださいます。神様は、必ず答えをくださいます。神様は、突き放したり諦めたりなさいません。だから、祈ります。日常の些細なことも、大きな出来事も、祈って、神様に一日の全てを、ゆだねます・・・・・でも、私はその祈りがとても、へたです。天の父なる神様に呼びかけることから始まり、自分がその時祈りたい事柄や思いを、言葉にすることがとても苦手です。胸にいっぱいいっぱいの思いを言葉に置き換えて口にすることがとても苦手です。こうして文章でゆっくりと何かを表現することは、楽ちんでできるのですが、、、困ったもんです。特に、教会でご一緒する方々のために、ご自身の御健康やご家族の事や、お仕事のことなど、心配や不安を祈ることによって、神様と共に取り除く手助けをしたいと、思うのに、真底からの気持ちを祈りの言葉にかえることが、うまくできないのです。課題です。 長くクリスチャンであられる先輩方のように、きっと上手に言葉にだして、祈れるようになること、それが私の課題です。
Dec 6, 2010
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伝道者の書 3章 1~22節天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。働く者は労苦して何の益を得よう。私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。
Dec 4, 2010
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そもそも、教会に足を運ぶようになったのは、音楽ライブでお友達になったミュージシャンの方が、奏楽奉仕で参加されてる教会の、未信者のための礼拝に誘われていってみてからなのね。2年前くらいのことなのね。そのミュージシャンの方とは、ソーシャルネットワーク、MIXIでもお友達なのねMIXIでのニックネームが「セピア」そのミュージシャンの方と親しい教会のお仲間たちは、私をふつうに、セピアさん、と呼ぶのね。でも、まだそれほど親しくない教会の信者の皆さんは私を「Kさん」と名字で呼ぶのね。ちょっと、ゴチャゴチャになってる感があるのね。ま、それはいいんだけど、もうひとつ困ったことがあるのね。教会に行き始めたころ「セピアです」と自己紹介していたのが間違いなのね。私のことを「関谷さん」と呼ぶ方がおひとり、いらっしゃるのね 早くなんとか手を打たないと、もんのすごくゴチャゴチャになってしまうと思うのね
Dec 1, 2010
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11月21日(日)いつもの日曜日の礼拝の場を離れてメンバーと共に大きな病院を訪れた。晩秋の静かな風と、舞う葉、葉の中をプレイヤーウオーク。この季節の色付きが燃えるようにいちばん弱っている多くの肉体と魂たちに救い主の油が注がれ静かに再び燃え立ちますように!と、ただただ、祈りながら歩く。そして、病院の片隅での礼拝。その間にも看護師や医師や、患者さんたちが行きすぎる。弱き人達よ、あなたにいま在る痛みや苦しみがいちにちも早く十字架の苦痛に戻されますように。それによって弱き人たちの家族や友人たちの心の痛みさえも和らぎますように。看護師や医師たちに救い主の奇跡の手腕が助けとして与えられますように。緊張の医療の現場にあっても主の愛はいつも穏やかに、お見守りとなって降り注ぎますように。祈りたい気持ち、貴重なそれは、現場を垣間見ることによってきょうの私に届いた学びの福音大きな病院の、片隅にて・・・・・
Nov 22, 2010
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箴言3章6節あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。God Will Make A Way (Youtube) 私を導いてくれた友人が、洗礼の日に贈ってくれたCDにある大好きな曲です。♪God will make a way by Don MoenGod will make a wayWhere there seems to be no wayHe works in ways we cannot seeHe will make a way for meHe will be my guideHold me closely to His sideWith love and strengthFor each new dayHe will make a wayHe will make a wayBy a roadway in the wildernessHe'll lead meAnd rivers in the desert will I seeHeaven and earth will fadeBut His Word will still remainHe will do something new today 主は道を作られる主は道を 日々作られる 何もないように 思えるときでも主は御手で 御許で支え 新しい明日へ 主は道を 作られる天と地が滅びうせても 主の御言葉は滅びず荒野に道を 砂漠に川を 今日も作られる主は道を 日々作られる 何もないように 思えるときでも 主は御手で 御許で支え 新しい明日へ 主は道を 作られる(田村淳訳詞)
Nov 19, 2010
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2010年晩秋、洗礼を受けました。先輩クリスチャンを頼ってまず「聖書」を学んだ事。その中で、多くの御言葉を、今までの自分の心に受けとめる。一つ一つを読み解く。解釈し、納得し、自分の身と脳と心と精神にあてはめてみる。そして、問う。誰に、問う・・・・・数十年こうして生きて活動してきた。肉体をつかい果して、やがて、終わる 命。神は、御自身に似せて人間を造られた。そしてそれに、いのちの息、魂を吹き込まれ、人は造られた。肉体が滅んだら、魂は、永遠の命となって神の元へ帰るのです。小さい時から、漠然と思っていた。人の身体は「魂の器」神からもらった魂、私の身体は、その魂の 器にすぎない。それが答えでした。
Nov 14, 2010
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