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今日はちょいと心の奥深くの話。
わが教会は聖日礼拝の前に子供達を対象にした教会学校が行われれる。
その教会学校の礼拝では教会学校の教師が順番で説教を担当する。 私も教会学校の教師の一員なので、説教を語ることがある。
今日は、私の当番。
しかし与えられた聖書の箇所は
マタイによる福音書5章27~30節 、一言で言うと 「姦淫してはならない」 という箇所。
え~!困った、困った。
だって、子供達に向かって姦淫っていったてわからないじゃない。
それに、中高生の男の子に向かって 「みだらな思いで他人の妻を見るものは、既に心の中でその女を犯したのである・・・・右の目があなたをつまずかせるならえぐりだして捨ててしまいなさい」 っていっても、実際、無理な話。そんなこと全くありませんっていう人なんかいるわけない。聖書って現実的じゃないじゃない!?って思ってしまうかもしれない。
じゃあ、主イエスは何を言わんとしているんだろう・・・と悩みながら姦淫の罪とは?って突き詰めていったところ、見えてきたことがある。
性は神から与えられた素晴らしい大切なこと。お互いに向き合って助け合うものとして、そして産めよ増えよと祝福されて創られた、男や女の性。しかし、その尊い大切な性を、人間が自分の欲望の為に、自分の身勝手な思いの為にまるで物や商品のように扱うようになったところから姦淫の罪が生まれたのだ。
結局、 心の中でその女を犯したこと のない人がいないように、自己中心的な思いから人を物品化してみたことのない人はいないってこと。小学生の子供だって自分をよく見せたいために密かに心の中で友達の欠点を喜んだことだってあるだろう。
けれども、そんな姦淫の罪を犯したことのない人が一人もいない人間に対して、与えられるのが絶えることのない神様からの愛と赦しだ。
イザヤ書43章4節には 「私の目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」 とある。
私達は神様の目に尊い存在なのだ。でも、それは主イエスの十字架によって私達の罪が贖われたから。 とことん私達を愛して抜いてくださった神様に対して感謝がうまれる。感謝が生まれるからこそ神様を悲しませることはしたくないと思う。
今一度、神様がどんな想いで人間に性を与えられたのか、立ち返って考えてみたい。
説教をするのって、責任重大。メッセージを忠実に伝える使命があるから苦しむことも多い。
でも、私自身の良い学びの時となっているのも事実だ。
神様によって成長させていただいているなあ~って実感する。感謝、感謝