しろねこの足跡

しろねこの足跡

ひかりのいえ11


ナバノフの低く柔らかな声がした。
わたしはカラカラに渇いた口とじっとりと湿ってしまった手のひらに、困惑しながらやっとの思いで言葉をしぼりだした。
「あの、ロシア語を勉強したいのです。あなたから。」

ナバノフの目が驚いて見開かれた。
「事務局で訊きませんでしたか?私はもうすぐ帰国するので学生はとっていません。」

「知っています。でも知りたいのです。新聞も両親も女学校も嘘をついている。本当の日本と外国の姿をしりたいのです。」

ナバノフはアメジスト色の瞳でわたしを見つめました。
めまいがしました。こんなきれいで透き通った瞳を見たことがありませんでした。
「あたなのお名前は。」
「大内りつ子です。」

「りつ子さん、これからの日本で生き抜いていくためにはロシア語より英語を勉強する方が為になります。英語を勉強しませんか。期間は私が帰国するまで。お金は要りません。その代わり、私にも日本語の難しいいいまわしや漢字を教えてください。」

「あ、ありがとうございます。よろしくおねがします。」
わたしは顔が真っ赤になっていたと思います。
ナバノフは難しそうな本が沢山入っている書棚から一冊の薄い本を出してきて、わたしに渡してくれました。

「これを題材にしましょう。日常生活で必要な英語が勉強できます。毎週この時間に、この場所で。」

「はい、先生。よろしくお願いします。」

唐突なわたしの志願に、ナバノフは個人として快く受けてくださいました。
礼をして戸を閉める間際に、ナバノフがこちらに急に立ち上がって歩いてきた。
「りつ子さん、このことは道案内のお礼です。この小樽といえども外国人には冷たい人が多い。でもあなたは違った。国や世間で判断しなかった。あなたの判断は困っているか、そうではないか、でした。あなたはとてもまっすぐな人です。
ひかりのようにまわりを照らし、まっすぐに進んでいく。」

そういうとナバノフは、やっぱり優しく微笑むとさっそく英語でgood byeといって、わたしを階段までおくってくれました。

ナバノフはあの時道を教えた、わたしが「わたし」であることを覚えていてくれていたんだ・・・
ナバノフのがっしりとした肩やアメジスト色の瞳、知的な言葉使いに、いままでにない動揺をしてしまいました。

自分が思っている以上に彼に惹かれていく、でも彼は3月までしかいない、しかも外国人。
わたしはものすごい間違いを冒しているような気になってその晩はなかなか眠ることができませんでした。

外は雪が音もなく降り積もり、戦争中とはおもえない静かな夜でした。


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