しろねこの足跡

しろねこの足跡

ひかりのいえ14・15


そんな記憶は、薄らいでいて思い出せない。

あまりにもたくさんのことが今までに押し寄せてきて、小学生の日常の記憶なんて消去されてしまったのだろう。
私にとって、それは残しておくべき重要な記憶ではないと、脳が判断してしまったのだ。

私の記憶にのこる日常はいつだって、悲しかったり、寂しかったり、居心地が悪かったり、心が痛むようなものばかりだった。
忘れたいようなつらい記憶を、私の脳は大切なこととしていつまでも私にわすれさせてくれない。

ナバノフはりつ子を守ろうとしている。
りつ子を大切に思っているからか?

私の父はいざというときに母を守らなかった。
いつだって、私達母子は仕事と父の親戚づきあいの前にきりすてられた。
母は何度も叫んでいた。あなたの家族はいったい誰なの?
一戸建ての家は、私達家族を団欒させる装置としては大きすぎたのたった。
「車、あったらよかったのかな。」
でも、きっと今となっては、車に押し込められても、遭難した山小屋にいても、エレベーターに閉じ込められても、もう変わらない。きっとお互いのミスを責め立て、顔を背け合うんだ。
いつだって、私の家族は大切なことから目をそむけて問題を回避してきた。
そう、私もその家族のひとりなのだ。

父にナバノフの何割かの、勇敢さと母にりつ子の何割かの行動力があれば、あのひんやりとした家はぬくもったのかもしれない。


2月13日
建国記念日にナバノフは恩赦を受け釈放されたようでした。
何も証拠が出てこなかったのです。

彼は完全黙秘を続け、自分の肉体以外のすべてを守り通しました。
おそるおそる研究室を訪ねたわたしの前には、頬からあごにかけて痛々しい傷を負った彼がいました。

「りつ子、あなたは何かひどい目にあいませんでしたか?」
予想通り、彼は一番にそのことに触れました。
わたしは、思わず涙ぐみました。
「何もないです。大丈夫。それよりAre you all right?」

ナバノフは声をたてて笑いました。
「平気です。りつ子、英語がとてもうまくなりました。うれしいです。」
わたしたちの間に、やさしい沈黙が流れました。

ナバノフはいつものように窓の外の家々を眺めていました。
「ナバノフ、帰国はいつですか?」

「3月までには帰ります。ロシアにも不穏な動きがあります。」
しばらくまた沈黙が続いた後、ナバノフは言いました。

「私はりつ子をとても愛しく思っています・・・だから、りつ子を守りたい。つらい目にはあわせたくないのです。いつまでも光の差し込む暖かな家の住人であってほしいのです。」
「ナバノフ・・・」
「もうこれ以上、私とかかわるのはあまりにも危険です。レッスンは今日で終わりにしましょう。」

わたしは、何もいえませんでした。
まだ始まってもいない、恋が終わるのかと、また自分勝手に悲しんでしまっていました。
でも、ナバノフの出した結論は、あまりにも正論で、わたしには、答えられる程の情熱的な言葉を持ち合わせていませんでした。


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