しろねこの足跡

しろねこの足跡

ひかりのいえ16・17


わたしは臆病です。
その場でわかりましたとも、わたしを連れて行ってともいえませんでした。黙ってしたを向いて帰ってきた負け犬です。

でもそうやって、うじうじと気持ちはしているくせに、不思議と手は荷造りをしています。
もしかしたら、ユジノ行きの船のところで彼を待ち伏せていたら、どうにかなるのではないかと思っているからです。

そんなふしだらなわたしと、父や母を裏切れない普通の娘のわたしがいるのです。
父の工場はかなり苦しくなっていました。もう車の修繕だけではやっていけず、軍需品の生産にも手をだしていました。
父にとって戦争に加担するようなこの行為はとても屈辱的なことだったようで、毎晩母とのいさかいが絶えなくなっていました。
そのうち、実直だった父が外に愛人をつくるようになりました。家に帰らない日が増えてきました。
わたしのいえのひかりは、もう風前のともし火でした。
裸電球に、母のお手製の愛らしい笠がついた居間の電気は蝋燭のひかりが弱弱しくたなびくようになりました。

もう限界でした。わたしのいえは壊れてしまっていたのです。わたしがナバノフに夢中になっている間に、戦争は着実にわたしの家にもはいりこんでいたのです。
父はすさみ、母は喪失感のかたまりとなり一日中家でぼんやりとしていました。

わたしは、荷物をもつことなくナバノフの研究室を不意に訪ねました。

ナバノフはわたしを見て、驚いて目を見張りました。
「りつ子、もうここには来ない約束をしたはずです。」

彼の瞳は日の光を受けて美しいアメジスト色になっていました。
きれいな宝石みたいな色だわ・・・とわたしはすこしぼっとしました。

「ナバノフ、危険なことはわかってきました。でもわたし、あなたに伝えなくてはならないと思いました。わたしの気持ちを・・・」

「りつ子、わたしはあなたにつらい思いをさせることはできません。りつ子は私の国へいくまえに命を落とすことだってあるのです。」

「前に、ナバノフが捕まった時、わたしは恐くて何もできませんでした。そのことをとても憎みました。自分の保身ばかり考えていた自分を。それなのに、ナバノフはわたしを守ってくれました。今度はわたしが、あなたを守りたい。一緒に生きて、守って生きたいのです。もう、自分に恥じるような行動はしたくないのです。」

ナバノフは、初めてわたしの体に触れました。
ゆっくりと髪の毛をなで、アメジスト色の瞳を伏せいいました。
「私もりつ子を守りたいのです。この戦争は、遠くない日に終わるでしょう。そうすれは、私たちは正々堂々と会うことができます。いつか、必ず会えます。この大地に日が昇り、日が沈み、家の光が灯る限り。りつ子が生きて、私が生きている限り。」

「家の光がある限り、私たちが生きている限り・・・?」
「そうです。いつか会えます。そう遠くはない未来に。その時にはわたしは、もうりつ子と一緒に生きることをためらわないでしょう。」

「いつか、必ず。」
「そうです、だからいまは生き抜いてください。」
そしてナバノフは引き出しを開けると、小さな箱から美しい蜂蜜色のネックレスを取り出して、わたしにつけてくれました。

「約束の誓いです。これは琥珀です。琥珀は時を経ると色が濃くなっていきます。この日のひかりの色が変わらないうちに必ず、会いましょう。」

わたしはそっとうなずきました。もう涙は出ていませんでした。
琥珀は胸元に降りた瞬間、ひんやりとしました。でもすぐにわたしの体温になじんで、わたしの一部となっていきました。

「りつ子、あなたは自分で思っている以上に勇敢で優しい。自信を持って生き抜いてください。」

「ナバノフ・・・」

ナバノフは一度わたしをぎゅっと抱きしめるとすぐに離しました。
「また会う日まで、りつ子。スパシーバ」

わたしは坂の上の大学を後にしました。
一度研究室の方を振り返ったときに思いました。

ああ、大好きですってロシア語でなんていうのかなぁ・・・


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