三木について(歴史?)

三木…歴史に多少の造詣をお持ちでいらっしゃる方は、豊臣秀吉の『三木合戦』を思い出されることもあるでしょう。
ってなワケで、別所長治公です↓           別所長治公の墓です↓
別所長治公像別所長治公之墓
別所長治公辞世の句
別所長治 辞世の句


別所長治について!
別所長治(べっしょ ながはる) (1555~1580)
幼名:小三郎
出身地:播磨国

出自と信長の関係 長勝の子。三木城に住す。別所氏は、『天正記』に「播磨東八郡之守護」とある通り、播磨東部で威を振るっていた。だが、永禄4年(1561)当主長勝が、同6年その父重治が死没し、幼い長治に別所氏の命運が委ねられる形となった。

 永禄10年9月3日、兵を大坂に派遣し、三好三人衆を援けたと『多聞院』にあるから、畿内の動乱に巻き込まれていたのであろう。

 同11年、足利義昭が上洛して将軍位に就き、別所氏に合力を命じた時、重棟を派遣。重棟が手柄を立てて義昭に褒されてから、別所家中は重棟派と吉親派とに割れたという。

 同13年1月、信長より禁裏修理、武家御用、天下静謐のためという名目で上洛を促されている。しかし、長治自身は、この後もしばらくの間上洛しなかったらしい。それは主として備前の浦上氏との争いが続いたため。

天正元年(1573)、信長より西国攻めの先駆けを頼まれて承諾し、播磨の人質を取って、大将の派道を依頼したというが、それから間もない長治の謀反を見ると、この記事はそのまま鵜呑みにはできない。

 同5年10月、播磨平定の任務を担って入国してきた大将は、羽柴秀吉であった。秀吉は国中を駆け回り、人質を徴収して、たちまち播磨の大部分を掌中に収めた。長治は、初めは秀吉に協力の姿勢を見せたが、翌年2月頃早くもこれに離反、三木城に籠って毛利氏に通じた。

 すぐに秀吉は三木城を攻撃。その後、籠城は約2年に及ぶ。その間、長治は敵陣を襲撃して秀吉の部将谷衛好を斬り、反撃されて、叔父二人を含む多くの城兵を失うなど、執拗な抵抗を見せた。

 長治の奮戦にかかわらず属城は次々と陥落。同8年1月、弟友之の守る宮の上の構えが陥されて裸城同然となり、15日には、秀吉の属将となっていた叔父重棟の切腹、開城の勧めを呑んだ。

 17日、友之・吉親とともに切腹。城は開かれた。26歳、あるいは23歳という。
首級は安土の信長のもとへ送られた。





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