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達磨大師は嵩山に行き少林寺に逗留した『第十六行持下』16下-4-2
2026.05.20
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アジアが語る真実 —— 独立の父たちが贈った感謝の言霊 57−4アジアが語る真実 —— 独立の父たちが贈った感謝の言霊 57−4
2026.05.19
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理解できなかったために、達磨大師を禅定の修練をする者とした『第十六行持下』16下-3-3a
2026.05.18
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達磨大師は釈迦牟尼仏から二十八代目の正統な後継者である『第十六行持下』16下-3-2達磨大師は釈迦牟尼仏から二十八代目の正統な後継者である『第十六行持下』16下-3-2
2026.05.16
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達磨大師は、南インドの王族階級であり 大国の皇子である『第十六行持下』16下-3-1
2026.05.14
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武帝は、達磨大師が何を言っているのかわからなかった『第十六行持下』16下-2-2武帝は、達磨大師が何を言っているのかわからなかった『第十六行持下』16下-2-2
2026.05.12
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大船を整えて、南の海を経て広州に到着した『第十六行持下』16下-1-2大船を整えて、南の海を経て広州に到着した『第十六行持下』16下-1-2大船を整えて、南の海を経て広州に到着した『第十六行持下』16下-1-2
2026.05.08
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達磨大師は法を伝え衆生を救うために、インドから中国に来た『第十六行持下』16下-1-1
2026.05.06
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アジアの目覚め—— 英仏蘭によるアジア「略奪」vs.日本の決意 57-2
2026.05.05
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思う存分親近できる良縁に恵まれることは稀である『第十六行持上』完16-22-3思う存分親近できる良縁に恵まれることは稀である『第十六行持上』完16-22-3
2026.05.04
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学ぼうとしても、師が得られない悲しみがある『第十六行持』16-22-2
2026.05.02
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大東亜の残照 —— 白人列強による植民地支配を終わらせた日本の「正義」57-1
2026.04.29
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即位の後も、昼夜に坐禅した『第十六行持』16-21-3
2026.04.28
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渓流をどうしておし留めることなどできようか、結局大海に帰って波濤となるのだ『第十六行持』16-21-2渓流をどうしておし留めることなどできようか、結局大海に帰って波濤となるのだ『第十六行持』16-21-2
2026.04.26
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宣宗皇帝は、常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した『第十六行持』16-21-1宣宗皇帝は、常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した『第十六行持』16-21-1
2026.04.24
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わが宗は、お前に到って大いに世に興るであろう『第十六行持』16-20-2
2026.04.22
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臨済の修行は純一でその行持はずば抜けていた『第十六行持』16-20-1
2026.04.20
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〔『正法眼蔵』原文〕 香厳キョウゲンの智閑禅師シカン ゼンジは、大潙ダイイに耕道コウドウせしとき、一句を道得せんとするに数番スバンつひに道不得ドウフトクなり。 これをかなしみて、書籍ショジャクを火にやきて、行粥飯僧ギョウシュクハンソウとなりて、年月を経歴キョウリャクしき。 のちに武当山ブトウザンにいりて、大証の旧趾キュウシをたづねて、結草為庵ケッソウイアンし、放下幽棲ホウゲユウセイす。 一日わづかに道路を併浄ヘイジョウするに、礫カワラのほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然コツネンとして悟道す。 のちに香厳寺キョウゲンジに住して、一盂一衲イチウイチノウを平生ヘイゼイに不換なり。 奇巌清泉キガンセイセンをしめて、一生偃息イッショウ エンソクの幽棲とせり。 行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。 〔『抄』私訳〕 香厳智閑禅師の段、文の通りである。「礫のほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然として悟道」したのは、この禅師のことである。 〔『正法眼蔵』私訳〕 香厳寺の智閑禅師は、大潙禅師(潙山霊祐)の下で仏道修行していた時、〔大潙に仏道の究極を一句で言えと問われて、〕一句を言おうとして何度も試みたが結局言うことができなかった。(香厳の智閑禅師は、大潙に耕道せしとき、一句を道得せんとするに数番つひに道不得なり。) これを悲しんで、持っていた書籍をすべて焼き捨て、食事の給仕係の僧となって、年月を過ごした。(これをかなしみて、書籍を火にやきて、行粥飯僧となりて、年月を経歴しき。) 後に武当山に入って、大証国師南陽慧忠の旧跡を訪ねて草庵を結び、諸縁を捨て静かに暮らした。(のちに武当山にいりて、大証の旧趾をたづねて、結草為庵し、放下幽棲す。) ある日のこと、少しばかり道を掃き清めていると、小石が勢いよく飛び散って、竹に当たり音を立てたとき、たちまち仏道を悟った。(一日わづかに道路を併浄するに、礫のほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然として悟道す。) 後に香厳寺に住持して、一つの応量器と一着の袈裟を常に換えなかった。(のちに香厳寺に住して、一盂一衲を平生に不換なり。) 奇岩清流の地を居所として、一生休息の住まいとした。(奇巌清泉をしめて、一生偃息の幽棲とせり。) 智閑禅師の行跡は数多く香厳寺に残っている。(行跡おほく本山にのこれり。) 常に山を出なかったと言う。(平生に山をいでざりけるといふ。) 合掌
2026.04.18
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〔『正法眼蔵』原文〕 南嶽ナンガク大慧禅師ダイエ ゼンジ懐譲和尚エジョウ オショウ、そのかみ曹谿ソウケイに参じて、執侍シュウジすること十五秋ジュウゴシュウなり。しかうして伝道授業デンドウ ジュゴウすること、一器水瀉一器イッキスイ シャイッキ《一器の水を一器に瀉ウツす》なることをえたり。古先コセンの行履アンリ、もとも慕古モコすべし。十五秋の風霜フウソウ、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども、純一に究辨キュウベンす、これ晩進の亀鏡キキョウなり。寒爐カンロに炭なく、ひとり虚堂キョドウにふせり、涼夜に燭ショクなく、ひとり明窓に坐する、たとひ一知半解イッチハンゲなくとも、無為ムイの絶学なり。これ行持なるべし。 おほよそ、ひそかに貪名愛利トンミョウ アイリをなげすてきたりぬれば、 日日に行持の積功シャックのみなり。このむね、わするることなかれ。 説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウは、八箇年の行持なり。 古今のまれなりとするところ、賢不肖ケンフショウともにこひねがふ行持なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 南嶽の大慧禅師、懐譲和尚は、その昔曹谿山の六祖大鑑慧能禅師に参じて、そばに仕えて修行すること十五年間であった。(南嶽大慧禅師懐譲和尚、そのかみ曹谿に参じて、執侍すること十五秋なり。) そうして仏祖の大道を伝えられ出家としての業を授かることは、「一器の水を一器に移す」ようにできたのである。(しかうして伝道授業すること、一器水瀉一器なることをえたり。) この懐譲和尚の行持は、もっとも慕うべきである。(古先の行履、もとも慕古すべし。) 十五年の厳しい月日は、自分を煩わすことが多かったであろう。(十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。) そうではあるが、純一に坐禅弁道したことは、仏道修行を志す後輩たちの手本である。(しかあれども、純一に究辨す、これ晩進の亀鏡なり。) 冬の炉に炭火もなく、独りがらんとした僧堂で寝る。(寒爐に炭なく、ひとり虚堂にふせり。) 夏の夜に燈火もなく、独り衆寮で坐禅する。(涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する。) たとえ知識や理解が少しもなくても、これが作為無く学問に要がなくなった修行の在り様である。(たとひ一知半解なくとも、無為の絶学なり。) これが仏祖の行持である。(これ行持なるべし。) およそ、名利を貪り愛することを投げ捨ててきたならば、日々に行持の功徳を積むだけである。(おほよそ、ひそかに貪名愛利をなげすてきたりぬれば、日日に行持の積功のみなり。) このことを忘れてはいけない。(このむね、わするることなかれ。) 「一物を説似すれども即ち中らず」(あるものを言葉で説明した途端に的外れになる)とは、八年間の行持により得られたものである。(説似一物即不中は、八箇年の行持なり。) 古今に希なことであり、賢者も愚者もともに切望する仏祖の行持である。(古今のまれなりとするところ、賢不肖ともにこひねがふ行持なり。) 南嶽大慧禅師「一物を説似すれども即ち中らず」『第十六行持』16-18b 合掌
2026.04.16
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支那事変(日中戦争)人道的真実 56-3/4
2026.04.14
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月日を無駄に過ごさないとは仏道のために行ずることである『第十六行持』16-17-2
2026.04.12
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一日生きただけで十分にこの坐禅を会得した者には及ばない『第十六行持』16-17-1
2026.04.10
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洞山悟本大師「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」『第十六行持』16-16
2026.04.08
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支那事変(日中戦争)日本の平和への模索と葛藤 56-2/4支那事変(日中戦争)日本の平和への模索と葛藤 56-2/4
2026.04.06
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〔『正法眼蔵』原文〕 大慈寰中禅師ダイジカンチュウ ゼンジいはく、「説得セットク一丈、不如フニョ行取ギョウシュ一尺。説得一尺、不如行取一寸」。《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如シかず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》 これは、時人ジニンの行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是フゼとにはあらず、一尺の行ギョウは一丈説よりも大功ダイコウなるといふなり。 なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥シュミと芥子ケシとの論功もあるべきなり。 須弥に全量あり、芥子に全量あり。 行持の大節ダイセツ、これかくのごとし。 いまの道得は、寰中の自為道ジイドウにあらず、寰中の自為道なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大慈寰中禅師は言う、「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい。一尺を説くよりも、一寸を行ずる方がよい」。(大慈寰中禅師、いわく、「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如シかず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》」。)これは、当時の人の行持がおろそかであり仏道に通達することを忘れたかのようであるのを戒めているようであるが、一丈を説くことはいけないというのではない。一尺を行ずることは一丈を説くことよりも大きな功徳であると言うのである。(これは、時人の行持、おろそかにして仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈の説よりも大功なり、というなり。) どうしてただ丈尺の量の比較だけであろうか、遙かに量が違う須弥山と芥子粒の功徳を論じることもあるべきである。(なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥と芥子との論功もあるべきなり。)須弥山には須弥山で全世界を尽くす功徳がある、芥子粒には芥子粒で全世界を尽くす功徳がある。(須弥に全量あり、芥子に全量あり。)行持の大事なところとは、このようなことである。(行持の大節、これかくのごとし。)〔説得と行取と、大小優劣はなく一つである。〕今の真実の言葉は、〔三世諸仏はみなこの通り説かれるのだから、〕寰中禅師が自ら言われた言葉ではないが、〔三世諸仏が説くこの言葉が寰中禅師の口から出たのであるから、〕寰中禅師が自ら言われた言葉である。(いまの道得は、寰中の自為道にあらず、寰中の自為道なり。)〔三世諸仏を代表してこの言葉を説かれたのだから、寰中禅師はえらい方だと言うのである。〕 合掌
2026.04.06
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〔『正法眼蔵』原文〕 いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠ダイインショウインを論ずることなく、聡明鈍癡ソウメイドンチをいふことなかれ。 ただながく名利ミョウリをなげすてて、万縁バンエンに繋縛ケバクせらるゝことなかれ。 光陰をすごさず、頭燃ズネンをはらふべし。大悟ダイゴをまつことなかれ、大悟は家常の茶飯サハンなり。不悟フゴをねがふことなかれ、不悟は髻中ケイチュウの宝珠ホウジュなり。たゞまさに、家郷カキョウあらんは家郷をはなれ、恩愛オンナイあらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。名利ミョウリ等なからんも又はなるべし。すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理あきらかなり。それすなはち一条の行持なり。生前ショウゼンに名利をなげすてて一事を行持せん、仏寿長遠ブツジュ チョウオンの行持なり。いまこの行持、さだめて行持に行持せらるゝなり。この行持あらん身心シンジン、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 今、仏祖の大道を行持するには、街中で行持するのは大隠であるとか、山中に引っ込んで行持するのは小隠であるとかを論じてはならない、また聡明とか愚鈍とかを問題にしてはならない。(いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠を論ずることなく、聡明鈍癡をいふことなかれ。)ただ永く名聞や利養を投げ捨てて、諸縁万事に繋ながれ縛られることがあってはならない。(ただながく名利をなげすてて、万縁に繋縛せらるることなかれ。)時間を無駄に過ごさず、頭髪についた火を払い消すように急いで修行すべきである。(光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。)大悟ダイゴを待ち望んではいけない、大悟は日常の当たり前のことである。(大悟をまつことなかれ、大悟は家常の茶飯なり。)不悟(大悟にも用はないこと)を願ってはいけない、不悟は髻モトドリの中にある宝珠である。(不悟をねがふことなかれ、不悟は髻中の宝珠なり。)ただまさに故郷のある者は故郷を離れ、恩愛のある者は恩愛を離れ、名聞のある者は名聞を逃れ、利養のある者は利養を逃れ、田園のある者は田園を逃れ、親族のある者は親族を離れるべきである。(ただまさに、家郷あらんは家郷をはなれ、恩愛あらんは恩愛をはなれ、名あらんは名をのがれ、利あらんは利をのがれ、田園あらんは田園をのがれ、親族あらんは親族をはなるべし。)故郷・恩愛・名聞・利養・田園・親族等がない者も、またそれらのないことからも離れるべきである。(名利等なからんも、又はなるべし。)すでにあるものを離れるのであるから、ないものをも離れるべき道理は明らかである。(すでにあるをはなる、なきをもはなるべき道理、あきらかなり。)それがすなわち純一無雑の仏祖の行持である。(それすなはち一条の行持なり。)生きている間に名聞・利養を投げ捨てて、仏祖の行持を行持するのが仏の寿命を長久にする行持である。(生前に名利をなげすてて、一事を行持せん、仏寿長遠の行持なり。)今この仏祖の行持は、必ず仏祖の行持によって行持させられるのである。(いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。)この行持がある身心を、自らも愛し自らも敬うべきである。(この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。) 合掌
2026.04.04
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宏智禅師:仏道は三界が使うものではない『第十六行持』16-14-1
2026.04.02
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修行のない鬼神に見られるのは、参学人に修行の力がないからである『第十六行持』16-13-4
2026.03.30
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支那事変(日中戦争)の真実:侵略だったのか? 56-1/3
2026.03.29
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国王や大臣は、多くこの奥深い家風を伝えている『第十六行持』16-13-3
2026.03.28
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法演:行は思を越えることはなく、思は行を越えることはない『第十六行持』16-13-2法演:行は思を越えることはなく、思は行を越えることはない『第十六行持』16-13-2
2026.03.26
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どうして万事を思い通りにし、自ら充分であることを求めるのか『第十六行持』16-13-1
2026.03.24
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満州事変の真実:リットン報告書の真意 55-3/3
2026.03.23
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梅の実が熟したな『第十六行持』16-12-4
2026.03.22
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〔『正法眼蔵』原本〕 これよりのちに、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌ウジュするにいはく、 一池荷葉衣無尽、 《一池イッチの荷葉カヨウ衣キるに尽くること無し、 数樹松花食有余。 《数樹の松花食ジキするに余アマリ有り。》 剛被世人知住処、 《剛イマ世人に住処を知らる、》 更移茅舎入深居。 《更に茅舎ボウシャを移して深居に入る。》 つひに庵を山奥にうつす。 あるとき、馬祖ことさら僧をつかはしてとはしむ、「和尚そのかみ馬祖を参見せしに、得何道理トクガ ドウリ、便住此山ビンジュウ シザン《何イカなる道理を得てか、便スナワち此の山に住する》なる」。 師いはく、「馬祖、われにむかひていふ、「即心是仏ソクシン ゼブツ。すなはちこの山に住す」。 僧いはく、「近日は仏法また別なり」。 師いはく、「作麽生ソモサン別なる」。 僧いはく、「馬祖いはく、非心非仏とあり」。 師いはく、「這老漢シャロウカン、ひとを惑乱すること、了期リョウゴあるべからず。任他非心非仏、我祗管即心是仏《さもあらばあれ非心非仏、我れは祗管に即心是仏なり》」。 〔『正法眼蔵』私訳〕その後、さらに山奥へ入ろうとした際に、詩偈を作って言った、(これよりのちに、なほ山奥へいらんとせしちなみに、有頌するにいはく、)この池の蓮の葉は着るのに尽きることがなく、数本ある松の実は食べきれないほどある。 (一池の荷葉衣るに尽くること無し。数樹の松華食するに余り有り。)今しがた世間の人に住みかを知られたから、さらに茅葺きの家を移して奥深い所に入る。 (剛世人に住処を知られて、更に茅舎を移して深居に入る。) 遂に庵を山奥に移した。(つひに庵を山奥にうつす。)あるとき、馬祖はわざわざ僧を遣わして尋ねさせた、「和尚はその昔馬祖に参じたときに、どのような道理を会得して、この山に住むようになったのですか」。(あるとき、馬祖ことさら僧をつかはしてとはしむ、和尚そのかみ馬祖を参見せしに、得何道理、便住此山なる。」)師は言った、「馬祖がわたしに向かって、即心是仏(この心がそのまま仏だ)と言われた。それ以来この山に住むようになった」。(師いはく、「馬祖われにむかひていふ、即心是仏。すなはちこの山に住す」。) 僧は言った、「近頃の馬祖の仏法はまた別です」。(僧いはく、「近日仏法また別なり」。)師は言った、「どのように別か」(師いはく、「作麽生別なる」。)僧は言った、「馬祖は、非心非仏(心にあらず仏にあらず)と言われています」。(僧いはく、「馬祖いはく、非心非仏とあり」。)師は言った、「この老いぼれ奴、人をどこまで惑わす気か。非心非仏がどうあろうとかまわない。わしはひたすら即心是仏だ」。(師いはく、「這老漢、ひとを惑乱すること、了期あるべからず。さもあらばあれ非心非仏、我れは祗管に即心是仏なり」。) さらに茅葺きの家を移して奥深い所に入る『第十六行持』16-12-3b 合掌
2026.03.20
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『正法眼蔵』原文〕 かくのごとくして年月を経歴キョウリャクするに、塩官エンカンの会より一僧きたりて、やまにいりて拄杖シュジョウをもとむるちなみに、迷山路メイサンロしてはからざるに、師の庵所アンショにいたる。 不期フゴのなかに師をみる、すなはちとふ、「和尚、この山に住してよりこのかた、多少時也タショウジヤ」。 師いはく、「只見四山青又黄シケン シザン セイユウコウ 《只四山の青又黃なるを見るのみ》」。 この僧またとふ、「出山路シュッサンロ、向什麽処去コウ シモショコ 《出山の路、什麽イズレの処に向ひて去ユかん》」。 師いはく、「随流去ズイリュウコ《流れに随ひて去くべし》」。 この僧あやしむこゝろあり。かへりて塩官に挙似コジするに、塩官いはく、「そのかみ江西コウゼイにありしとき、一僧を曾見ゾウケンす、それよりのち消息をしらず。莫是此僧否マクゼシソウヒ《是れ此の僧に莫アラずや否や》」。つひに僧に命じて師を請ショウするに出山シュッサンせず。偈ゲをつくりて答トウするにいはく、 摧残枯木倚寒林、《摧残サイザンの枯木寒林に倚ヨる、》 幾度逢春不変心。《幾度イクタビか春に逢うて心を変ぜず。》 樵客遇之猶不顧、《樵客ショウカク之コレに遇うて猶ナオ顧カヘリみず、》 郢人那得苦追尋。《郢人エイジン那ナンぞ苦ネンゴロに追尋ツイジンすることを得ん。》 つひにおもむかず。〔『正法眼蔵』私訳〕このようにして年月が経過していたところ、塩官(斉安国師)の会下から一人の僧が来て、山に入って行脚の杖にする木を探していた際に、山道に迷って、たまたま師の庵のある所に出た。思いがけず師に出会い、尋ねた、「和尚さまはこの山に住まれてから、どれくらいの時になりますか」。(かくのごとくして年月を経歴するに、塩官の会より一僧きたりて、やまにいりて拄杖をもとむるちなみに、迷山路して、はからざるに師の庵所にいたる。不期のなかに師をみる。すなはちとふ、「和尚この山に住してよりこのかた、多少時也」。)師は言った、「ただまわりの山々が青くなったり黄色くなったりするのを見ただけだ」。(師いはく、「只見四山青又黄」。)この僧はまた尋ねた、「山を出る道は、どちらへ向かって行けばいいでしょうか」。(この僧またとふ、「出山路、向什麽処去」。)師は言った、「流れに随って行きなさい」。(師いはく、「随流去」。) この僧は不審に思うところがあり、帰って塩官に事の次第を話すと、塩官は言った、「その昔、私が江西(馬祖)の会下にいたとき、ある僧に会ったことがある。それから後の消息を知らない。もしかするとそれはこの僧ではなかろうか」。(この僧あやしむこころあり。かへりて塩官に挙似するに、塩官いはく、「そのかみ江西にありしとき、一僧を曾見す、それよりのち消息をしらず。莫是此僧否」。)そこで、その僧を遣わして師を招いたが、山を出ず、詩偈を作って答えて言った、(つひに僧に命じて師を請するに、出山せず。偈をつくりて答するにいはく、) 切り残された枯れ木が冬の林に立っている、 (摧残せる枯木寒林に倚る、) 何度春に逢っても心を変えることはない。 (幾度か春に逢うて心を変ぜず。) 木こりさえこの木(私)に遇っても顧みないのに、 (樵客之に遇うて猶顧みず。) 大工(塩官)がどうして熱心に追い求めることが出来ようか。 (郢人那ぞ苦に追尋することを得ん。)遂にその招きに応じなかった。(つひにおもむかず。) 合掌大梅「流れに随って行きなさい」『第十六行持』16-12-2
2026.03.18
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満州事変の真実:踏みにじられた日本の正当な権益 55-2/3
2026.03.17
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『正法眼蔵』原文〕 大梅山ダイバイザンは慶元府ケイゲンフ(浙江省)にあり、この山に護聖寺ゴショウジを草創ソウソウす、法常ホウジョウ禅師その本元ホンゲンなり。禅師は襄陽人ジョウヨウニンなり。 かつて馬祖の会エに参じてとふ、「如何是仏ニョガ ゼブツ」と。 馬祖いはく、「即心是仏ソクシン ゼブツ」と。 法常このことばをきゝて、言下大悟ゴンカ ダイゴす。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫ジンリンに不群なり、草庵に独居す。松実ショウジツを食ジキし、荷葉カヨウを衣エとす。かの山に少池ショウチあり、池に荷おほし。坐禅辨道すること三十余年なり。人事ニンジたえて見聞ケンモンせず、年暦ネンレキおほよそおぼえず、四山青又黄シザン セイユウコウのみをみる。おもひやるには、あはれむべき風霜フウソウなり。 師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。 如載宝冠ニョタイ ホウカンなり。この塔を落地却ラクチキャクせしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下クカに交割コウカツす。かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓ケゲンなし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を創建し、大梅法常禅師はその開山である。禅師は襄陽の人である。(大梅山は慶元府にあり、この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。) かつて馬祖の会下に参じて問うた、「仏とはどのようなものですか」と。(かつて馬祖の会に参じてとふ、「如何是仏」と。) 馬祖は言った、「この心がそのまま仏である」と。(馬祖いはく、「即心是仏」と。) 法常はこの言葉を聞いて、言下に大悟した。(法常このことばをききて、言下大悟す。) そこで、大梅山の頂上に登って、人と交わらず、草庵で独居した。(ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて、人倫に不群なり、草庵に独居す。)松の実を食べ、蓮の葉を衣とした。(松実を食し、荷葉を衣とす。)その山には小さな池があり、池には蓮が多かった。(かの山に小池あり、池に荷おほし。) 坐禅修行に精進すること三十数年であった。(坐禅辨道すること三十余年なり。)世間のことは一切見聞きせず、年月もまったく覚えず、四方の山々が青くなったり黄色くなるのを見ただけであった。(人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。)はるかに想うに、感嘆にたえない年月である。(おもひやるは、あはれむべき風霜なり。) 師が坐禅する時は、八寸の鉄塔一基を頭の上に置いた。宝冠をいただくようにである。(師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく。如載宝冠なり。)この塔を落とさないように努力したので、眠らなかったのである。(この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。) その塔は、今も護聖寺にあり、倉庫に納められている。(その塔、いま本山にあり、庫下に交割す。)このように坐禅に精進することを、死に至るまで怠らなかった。(かくのごとく辨道すること、死にいたりて懈惓なし。) 合掌
2026.03.16
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教科書が教えない満州事変の真実:踏みにじられた日本の正当な権益 55-2/3
2026.03.15
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〔『正法眼蔵』原文〕 四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。 あるいは栗子リッス・椎子スイスをひろうて食物ジキモツにあつ、あるいは旋転飯食センテンボンジキす。 まことに上古龍象リュウゾウの家風なり、恋慕すべき操行ソウギョウなり。 あるとき衆シュにしめしていはく、「你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何フナイニオ《你ナンヂ若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、人の你を喚ヨんで唖漢アカンと作す無し、已後には諸仏も也マタ不奈你何ならん》」。これ、行持をしめすなり。 しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似ソウジせりといへども、不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。仏道かくのごとし。仏道声ショウをきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。不離叢林は脱落なる全語なり。至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。阿誰オスイカか遮障シャショウせざれども、しらせざるなり。不唖漢なるを得恁麽トク インモなりときかず、得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。不離叢林の行持、しづかに行持すべし、東西の風に東西することなかれ。十年五載の春風秋月、しられざれども声色透脱ショウシキ トウダツの道ドウあり。その道得、われに不知なり、われに不会フエなり。行持の寸陰を可惜許カシコなりと参学すべし。不語を空然クウネンなるとあやしむことなかれ。入之ニュウシ一叢林なり、出之シュッシ一叢林なり、鳥路チョウロ一叢林なり、徧界ヘンカイ一叢林なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 趙州は、住職であった四十年の間、世間的な財物を蓄えず、食材の保管場所に米穀はなかった。(四十年のあひだ、世財をたくはへず、常住に米穀なし。)栗クリの実や椎シイの実を拾って食物に充て、或いは順次食事当番にあたって食事をとった。(あるいは栗子、椎子をひろうて食物にあつ、あるいは旋転飯食す。) 正に大昔の優れた識見・力量の備わった禅僧の家風であり、敬慕すべき行いである。(まことに上古龍象の家風なり、恋慕すべき操行なり。) あるとき、趙州が大衆に示して、「お前たちがもし一生禅林を離れず、無言で五年十年と坐禅をしても、誰もお前たちを聴覚障害者とは呼ばないであろう。後には、諸仏もお前たちをどうすることも出来ないであろう」と言った。(あるとき、衆にしめしていはく、「你若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、人の你を喚んで唖漢と作す無し、已後には諸仏も也你を奈何ともせじならん」。)これが行持というものを示しているのである。(これ行持をしめすなり。) 知らなければならない、五年十年の無言の坐禅は、愚かなように見えても、禅林を離れない精進によって、無言であっても聴覚障害者ではないのである。(しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似せりといへども、不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。)仏道とはこのようなものなのである。(仏道かくのごとし。) 仏道の声(坐禅が無言で無上菩提を説き抜いている声)を聞かない者には、無言が聴覚障害者でない道理はないのである。(仏道声をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。) そうであるから、最も絶妙な行持は、禅林を離れず修行することである。(しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。)禅林を離れず修行するとは、一切を脱落し無上菩提を説きぬいている完全な表現である。(不離叢林は脱落なる全語なり。) 至って愚かな者は、自ら坐禅をしていながら無言の坐禅が無上菩提を説きぬいていることを知らず、無言の坐禅が無上菩提を説きぬいていることを知らせることもしない。(至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。)誰も邪魔をしないけれど、知らせないのである。(阿誰か遮障せざれども、しらせざるなり。) 坐禅が無上菩提を説き抜いているのに、無上菩提を得ていると聞かず、無上菩提を得ていると知らないのは、憐れむべき自己である。(不唖漢なるを得恁麽なりときかず、得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。) 禅林を離れない修行を静かに行持すべきである。世間の風に吹かれて右往左往してはならない。(不離叢林の行持、しづかに行持すべし、東西の風に東西することなかれ。) 禅林を離れず修行する五年十年の歳月は、自ら知らなくても春風(声)が春風を脱落し、秋月(色)が秋月を脱落していることを説きぬいているのである。(十年五載の春風秋月、しられざれども、声色透脱の道あり。)その説き抜いている事実は、自ら知らず、自ら分からないのである。(その道得、われに不知なり、われに不会なり。) 行持のわずかな時間も惜むだけだと参学すべきである。(行持の寸陰を可惜許なりと参学すべし。) 無言を空しいことだと疑ってはならない。(不語を空然なるとあやしむことなかれ。) 入るも禅林、出るも禅林〔、どこもかしこもすべて禅林〕である。(入之一叢林なり、出之一叢林なり。) 鳥の飛ぶ空も禅林であり、全世界も禅林である。(鳥路一叢林なり、徧界一叢林なり。) 無言の坐禅が無上菩提を説きぬいている『第十六行持』16-11-2b 合掌無言の坐禅が無上菩提を説きぬいている『第十六行持』16-11-2
2026.03.14
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趙州ジョウシュウ観音院真際シンサイ大師従諗ジュウシン和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道ホッシン グドウをこころざす。 瓶錫ビョウシャクをたづさへて行脚アンギャし、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、「七歳童子、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他《七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我ワレ即ち伊カレに問うべし。百歳の老翁なりとも、我に及ばざれば、我即ち他カレを教ふべし》」。 かくのごとくして南泉の道を学得する功夫クフウ、すなはち二十年なり。年至ネンシ八十のとき、はじめて趙州城東観音院に住して、人天ニンデンを化導ケドウすること四十年来なり。いまだかつて一封の書をもて檀那ダンナにつけず。僧堂おほきならず、前架なし、後架コウカなし。あるとき牀脚ジョウキャクをれき。一隻イッセキの焼断ショウダンの燼木ジンボクを、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴キョウリャクし修行するに、知事、この床脚をかへんと請ショウずるに、趙州ゆるさず。古仏の家風、きくべし。 趙州の趙州に住することは八旬よりのちなり、伝法よりこのかたなり。正法正伝ショウボウ ショウデンせり。諸人これを古仏といふ。いまだ正法正伝せざらん余人ヨニンは師よりもかろかるべし。いまだ八旬にいたらざらん余人は師よりも強健ゴウコンなるべし。壮年にして軽爾キョウニならんわれら、なんぞ老年の崇重ソウヂュウなるとひとしからん、はげみて弁道行持すべきなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 趙州観音院の真際大師従諗和尚は、六十一歳のときに始めて菩提心を発オこし菩提道を求めることを志した。(趙州観音院真際大師従諗和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす。) 浄瓶ジョウビョウ(水を入れる器)と錫杖シャクジョウ(行脚に使う杖)を携えて行脚(諸国を巡り歩いて修行する)し、諸方を遍歴するときに、常に自ら言った、「七歳の童子であっても、もし我より勝れていれば、我は彼に尋ねよう。百歳の老翁であっても、我に及ばないなら、我は彼に教しえよう」。(瓶錫をたづさへて行脚し、遍歴諸方するに、つねにみづからいはく、「七歳童子、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他《七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我即ち伊に問うべし。百歳の老翁なりとも、我に及ばざれば、我即ち他を教ふべし》」。) このようにして、南泉普願禅師の仏道を学んで坐禅修行に精進すること二十年であった。八十歳になって、始めて趙州城の東にある観音院に住職して、人間界と天上界を教化し悟りに導くこと四十年であった。(年至八十のとき、はじめて趙州城東観音院に住して、人天を化導すること四十年来なり。) 今まで一度も一通の手紙を出して檀家に布施を求めることをしなかった。(いまだかつて一封の書をもて檀那につけず。) 僧堂は大きくなく、前架(僧堂の外堂にある棚)も後架(僧堂の裏にある洗面所・便所など)もなかった。(僧堂おほきならず、前架なし、後架なし。) ある時、住職が坐禅する椅子の脚が折れた。一本の焼け残りの木を縄でくくりつけ、長年にわたってそのまま修行していたので、役僧が椅子の脚を換えることを願いでたけれども、趙州は許さなかった。(あるとき牀脚をれき。一隻の焼断の燼木を、縄をもてこれをゆひつけて、年月を経歴し修行するに、知事この牀脚をかへんと請するに、趙州ゆるさず。)趙州古仏の家風がどのようであったか知ることができよう。(古仏の家風きくべし。) 趙州和尚が趙州城の東にある観音院に住職したのは、八十歳になってからであり、南泉の法を継いでからである。(趙州の趙州に住することは、八旬よりのちなり、伝法よりこのかたなり。)正法を正しく伝えたのである。人々は和尚を古仏と呼んだ。(正法正伝せり。諸人これを古仏といふ。) まだ正法を正しく伝えていないほかの人たちは、師よりも軽輩であろう。(いまだ正法正伝せざらん余人は、師よりもかろかるべし。)まだ八十歳にならないほかの人たちは、師よりも強健であろう。いまだ八旬にいたらざらん余人は、師よりも強健なるべし。) 壮年で軽輩である我々が、どうして老年で敬慕すべき師と等しかろう。我々は気力を奮い立たせて行持に精進すべきである。(壮年にして軽爾ならんわれら、なんぞ老年の崇重なるとひとしからん、はげみて弁道行持すべきなり。) 合掌趙州和尚は六十一歳になって修行の旅に出た『第十六行持』16-11-1
2026.03.12
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『正法眼蔵』原文〕 鏡清キンシン和尚住院のとき、土地神ドヂジンかつて師顔シガンをみることえず、たよりをえざるによりてなり。 三平山サンペイザン義忠ギチュウ禅師、そのかみ天厨テンチュウ送食ソウジキす。 大顚ダイテンをみてのちに、天神テンジンまた師をもとむるに、みることあたはず。 〔『正法眼蔵』私訳〕 鏡清和尚が禅院の住持であったとき、土地神(寺院を守護する神)は一度も和尚の顔を見ることが出来なかった。和尚に近づく手がかりを得ることができなかったからである。(鏡清和尚住院のとき、土地神かつて師顔をみることえず。たよりをえざるによりてなり。) 三平山の義忠禅師は、その昔天人から食物を送られていた。しかし、師の大顚宝通和尚に参じて道を得てからは、天人が再び禅師を探しても、見ることは出来なかった。(三平山義忠禅師、そのかみ天厨送食す。大顚をみてのちに、天神また師をもとむるに、みることあたはず。) 道を得てからは天人が禅師を探しても見ることは出来なかった『正法眼蔵第十六行持』16-10b 合掌
2026.03.10
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『正法眼蔵』原文〕 百丈山ヒャクジョウザン大智禅師、そのかみ馬祖バソの侍者とありしより、入寂ニュウジャクのゆふべにいたるまで、一日も為衆為人イシュイニンの勤仕ゴンジなき日あらず。 かたじけなく、「一日不作イチニチ フサ一日不食 フジキ」のあとをのこすといふは、百丈禅師すでに年老臘高ネンロウロウコウなり、なほ普請作務のところに、壮齢ソウレイとおなじく励力レイリキす。 衆、これをいたむ、人、これをあはれむ、師、やまざるなり。 つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。 衆の作務にくはゝらざることをうらむる意旨なり。 これを百丈の「一日不作、一日不食」のあとといふ。 いま大宋国に流伝ルデンせる臨済の玄風ならびに諸方の叢林ソウリン、おほく百丈の玄風を行持するなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、その昔馬祖(馬祖道一禅師)の侍者であった時から、入滅の夕方に至るまで、一日たりとも大衆と人のために勤めない日はなかった。 (百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も為衆為人の勤仕なき日あらず。) 恐れ多いことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という故実を残したのは、百丈禅師がすでに老齢となり出家後の年数も大分経ってからのことであり、依然として普請作務(大衆を普く請し勤労すること)のところで、若い僧たちと一緒に精を出した。(かたじけなく、一日不作一日不食のあとをのこすといふは、百丈禅師、すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに、壮齢とおなじく励力す。) 僧たちはこれを嘆き、ほかの人もこれを気の毒に思ったが、師はやめなかった。(衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。) やむをえず作務のとき、作務の道具を隠して師に与えなかったところ、師はその日一日食事をとらなかった。(たった今つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。) 大衆の作務に加わらなかったことを残念に思ったためである。(衆の作務にくははらざることをうらむる意旨なり。) これを百丈の「一日なさざれば、一日食らわず」の故実と言う。(これを百丈の、一日不作一日不食のあとといふ。) 今大宋国に伝わり広まっている臨済の奥深い家風、並びに諸方の禅林は、多く百丈の奥深い家風を行持しているのである。(いま大宋国に流伝せる臨済の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。) 百丈「一日なさざれば、一日食らわず」 『正法眼蔵第十六行持』16-9b 合掌
2026.03.08
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『正法眼蔵』本文〕 雲居山ウンゴサン弘覚大師グカクダイシ、そのかみ三峰庵サンポウアンに住せしとき、天厨テンチュウ送食ソウジキす。 大師あるとき洞山に参じて、大道を決択ケッチャクしてさらに庵にかへる。 天使また食を再送して師を尋見ジンケンするに、三日を経て師をみることをえず。 天厨をまつことなし、大道を所宗とす。 辨肯ベンコウの志気、おもひやるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲居山の弘覚大師(雲居道膺ドウヨウ禅師)は、その昔洞山の奥にある三峰山に庵を結んで住んでいたとき、天人が食物を送って供養した。(雲居山弘覚大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天厨送食す。) 大師がある時、洞山良价禅師に参じて、仏祖の大道を自己のものとして、再び庵に帰ってきた。(大師あるとき洞山に参じて、大道を決択してさらに庵にかへる。) 天人がまた食物を供養しようとして大師を尋ねたが、三日たっても大師を見ることが出来なかった。(天使また食を再送して師を尋見するに、三日を経て師をみることをえず。) もはや天人の供養を期待することなく、仏祖の大道を根本としたのである。(天厨をまつことなし、大道を所宗とす。) 坐禅修行に精進した不退転の志を、思いやるべきである。(辨肯の志気、おもひやるべし)。 天人がまた食物を供養しようとたが、大師を見ることが出来なかった『正法眼蔵第十六行持』16-8b 合掌
2026.03.06
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『正法眼蔵』原文〕 雲巌ウンガン和尚と道吾ドウゴと、おなじく薬山に参学して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味イチミ参究す。 法を洞山トウザンの悟本大師ゴホンダイシに伝付センプす。 洞山いはく、「われ、欲打成一片、坐禅辨道已二十年《一片に打成タジョウせんと欲して、坐禅辨道すること已スデに二十年》なり」。 いまその道ドウ、あまねく伝付せり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲巌曇晟ドンジョウ和尚と道吾円智和尚は、同じく薬山惟厳ヤクサンイゲン禅師について参禅学道して、共に誓いを立て、四十年脇を床に付けず、心を一つにして参究した。(雲巌和尚と道吾と、おなじく薬山に参学して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味参究す。) 法を洞山の悟本大師に伝えた。(法を洞山の悟本大師に伝付す。) 洞山大師は言った、「わたしは、あらゆるものと一つに成ることを願って、坐禅修行すること既に二十年である」。(洞山いはく、「われ、欲打成一片、坐禅辨道已二十年《一片に打成せんと欲して、坐禅辨道すること已に二十年》なり」。) 今その雲巖・洞山の坐禅弁道が、遍く今日まで(道元禅師まで)伝わっている。(いまその道、あまねく伝付せり。) 洞山「あらゆるものと一つに成ることを願って、坐禅修行すること既に二十年である」『正法眼蔵第十六行持』16-7b 合掌
2026.03.04
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日清戦争の真実:戦後処理と日本の飛躍 54-2
2026.03.03
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〔『正法眼蔵』原文〕 江西コウゼイ馬祖バソの坐禅することは二十年なり。 これ南嶽の密印を稟受ボンジュするなり。 伝法済人デンポウ サイニンのとき、坐禅をさしおくと道取せず。 参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。 普請作務フシン サムのところに、かならず先赴センプす。 老にいたりて懈惓ケゲンせず。いまの臨済リンザイは江西の流リュウなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西コウゼイ(揚子江中流の南岸の地)の馬祖道一禅師は、坐禅をつとめること二十年であった。(江西馬祖の坐禅することは二十年なり。) その坐禅は南嶽懐譲禅師から親しく仏心印(仏の心そのもの)を受け取ったのである。(これ南嶽の密印を稟受するなり。) 法を伝え人を救うとき、坐禅を差し置くと言わず坐禅のしづめであった。(伝法済人のとき、坐禅をさしおくと道取せず。) 参禅学道の雲水がはじめて来たときには、必ず坐禅をさせ仏心印を親しく受けさせた。(参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。) 大衆ダイシュ全員を請ショウして行う作務のときには、必ず率先して赴いた。(普請作務のところに、かならず先赴す。) 老年になっても怠ることはなかった。(老にいたりて懈惓せず。) 今の臨済宗は、この江西の流れである。(いまの臨済は江西の流なり。) 〔『抄』私訳〕 「江西馬祖」の段、文の通りである。 合掌馬祖道一禅師は坐禅をつとめること二十年であった『正法眼蔵第十六行持』16-6
2026.03.02
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『正法眼蔵』原文〕 六祖は新州の樵夫ショウフなり、有識ユウシキと称しがたし。 いとけなくして父を喪ソウす、老母に養育せられて長ぜり。 樵夫の業を養母の活計とす。 十字の街頭にして一句の聞経よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。 これ奇代キダイの大器ダイキなり、抜群の辨道なり。 断臂ダンピたとひ容易なりともこの割愛は大難ダイナンなるべし、この棄恩はかろかるべからず。 黄梅オウバイの会ゑに投じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米をつく。 夜半に衣鉢エハツを正伝ショウデンす。得法已後 イゴ、なほ石臼イシウスをおひありきて、米をつくこと八年なり。 出世度人ドニン説法するにも、この石臼をさしおかず、希世キセイの行持なり。 『正法眼蔵』私訳〕 中国禅の六祖大鑑慧能禅師は、新州(広東省)の木こりで、学問があるとは言えなかった。(六祖は新州の樵夫なり、有識と称しがたし。) 幼くして父を失い、老母に養育されて成長した。(いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。) 木こりの業を老母を養うための生業ナリワイとしていた。(樵夫の業を養母の活計とす。) あるとき市井の四つ辻で『金剛経』の一句を聞いてから、急に老母を捨てて、すぐれた仏の教法を求めた。(十字の街頭にして一句の聞経よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。) これは世にもまれな優れた器量であり、抜群の仏道修行である。(これ奇代の大器なり、抜群の辨道なり。) 〔二祖慧可大師が求道のために〕臂を断ったことが、〔容易なことでないことは決まりきっているけれども、〕仮に容易なことであったとしても、この母の恩愛を断つことは非常に難しいことであり、この母の大恩を棄てたことは決して軽いことではない。(断臂たとひ容易なりともこの割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。) 黄梅山の五祖大満弘忍禅師の会下に加わって、八か月眠らず休まず、昼夜にわたって米をついた(無上道を修行しぬいた)。(黄梅の会に投じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米をつく。) ある夜中に、〔達磨所伝の〕袈裟と応量器を〔伝法のあかしとして五祖弘忍禅師から〕正伝した。(夜半に衣鉢を正伝す。) 法を得た後も、なお石臼を背負い歩いて、米をつくこと八年に及んだ。(得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。) 世に出て人を救い法を説くようになっても、この石臼を離さなかった。これは世にも稀な行持である。(出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、希世の行持なり。) 〔『抄』私訳〕第六祖の段、文の通りである。 合掌
2026.02.28
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『正法眼蔵』原文〕この生ショウしりがたし。 生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。 四見すでにおなじからず、諸類の見ケンおなじからず。 ただ志気シイキを専修センジュにして、辨道功夫すべきなり。 辨道に生死ショウジをみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。 いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辨道をさしおかんとするは至愚シグなり。生来ショウライたとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂ショウコンの活計カッケイなり。学道の消息にあらず。壮齢ソウレイ耄及モウギュウをかへりみることなかれ、学道究辨 キュウベンを一志イッシすべし。脇尊者に斉肩セイケンなるべきなり。 塚間チョケンの一堆イッタイの塵土ヂンド、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。無主の形骸、いたづらに徧野ヘンヤせんとき、眼睛をつくるがごとく正観ショウカンすべし。〔『正法眼蔵』私訳〕この生は知ることができない。(この生しりがたし。)〔脇尊者の処胎六十年は、〕生か、生でないか。〔脇尊者の百四十年は、〕老か、老でないか。(生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。)〔水を、〕人が見るのと、魚が見るのと、天人が見るのと、餓鬼が見るのとでは全く異なり、それぞれ見方が違うのである。(四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。) だから、ただ誓願の志を専らにして、修行精進すべきである。(ただ志気を専修にして、辨道功夫すべきなり。)修行精進する中で生死を見るように学ぶべきである。生死の中で修行精進するのではないのである。(辨道に生死をみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。) 今の人が、あるいは五十歳、六十歳になり、あるいは七十歳、八十歳になって、〔もう年齢をとったからと言って、〕修行精進をやめようとするのは愚の骨頂である。(いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辨道をさしおかんとするは至愚なり。) 生まれてから、たとえどれほど多くの年月が経ったとしても、それはただ人間の意識の営みであり、仏道を学ぶ様子ではない。(生来たとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり。学道の消息にあらず。) 若いとか老いているとか顧みてはならない。仏道を学び究めることを第一に志すべきである。(壮齢耄及をかへりみることなかれ、学道究辨を一志すべし。) 脇尊者と肩を並べるほどに精進すべきである。(脇尊者に斉肩なるべきなり。) 終には墓場の一塊の土になるこの身を、むやみに惜しんではならない、むやみに顧みてはならない。(塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。)志を立てて自らを済度しなければ、一体誰が汝を哀れんでくれようか。(一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。) 主のいない亡骸が、空しく野一面に広がっているとき、それを眼を付けるように正観すべきである。(無主の形骸、いたづらに徧野せんとき、眼睛をつくるがごとく正観すべし。 合掌
2026.02.26
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『正法眼蔵』原文〕この生ショウしりがたし。 生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。 四見すでにおなじからず、諸類の見ケンおなじからず。 ただ志気シイキを専修センジュにして、辨道功夫すべきなり。 辨道に生死ショウジをみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。 いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辨道をさしおかんとするは至愚シグなり。 生来ショウライたとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂ショウコンの活計カッケイなり。学道の消息にあらず。壮齢ソウレイ耄及モウギュウをかへりみることなかれ、学道究辨 キュウベンを一志イッシすべし。脇尊者に斉肩セイケンなるべきなり。 塚間チョケンの一堆イッタイの塵土ヂンド、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。無主の形骸、いたづらに徧野ヘンヤせんとき、眼睛をつくるがごとく正観ショウカンすべし。〔『正法眼蔵』私訳〕この生は知ることができない。(この生しりがたし。)〔脇尊者の処胎六十年は、〕生か、生でないか。〔脇尊者の百四十年は、〕老か、老でないか。(生か、生にあらざるか。老か、老にあらざるか。)〔水を、〕人が見るのと、魚が見るのと、天人が見るのと、餓鬼が見るのとでは全く異なり、それぞれ見方が違うのである。(四見すでにおなじからず、諸類の見おなじからず。) だから、ただ誓願の志を専らにして、修行精進すべきである。(ただ志気を専修にして、辨道功夫すべきなり。)修行精進する中で生死を見るように学ぶべきである。生死の中で修行精進するのではないのである。(辨道に生死をみるに相似せりと参学すべし、生死に辨道するにはあらず。) 今の人が、あるいは五十歳、六十歳になり、あるいは七十歳、八十歳になって、〔もう年齢をとったからと言って、〕修行精進をやめようとするのは愚の骨頂である。(いまの人、あるいは五旬六旬におよび、七旬八旬におよぶに、辨道をさしおかんとするは至愚なり。) 生まれてから、たとえどれほど多くの年月が経ったとしても、それはただ人間の意識の営みであり、仏道を学ぶ様子ではない。(生来たとひいくばくの年月と覚知すとも、これはしばらく人間の精魂の活計なり。学道の消息にあらず。) 若いとか老いているとか顧みてはならない。仏道を学び究めることを第一に志すべきである。(壮齢耄及をかへりみることなかれ、学道究辨を一志すべし。) 脇尊者と肩を並べるほどに精進すべきである。(脇尊者に斉肩なるべきなり。) 終には墓場の一塊の土になるこの身を、むやみに惜しんではならない、むやみに顧みてはならない。(塚間の一堆の塵土、あながちにをしむことなかれ、あながちにかへりみることなかれ。)志を立てて自らを済度しなければ、一体誰が汝を哀れんでくれようか。(一志に度取せずば、たれかたれをあはれまん。) 主のいない亡骸が、空しく野一面に広がっているとき、それを眼を付けるように正観すべきである。(無主の形骸、いたづらに徧野せんとき、眼睛をつくるがごとく正観すべし。 合掌
2026.02.25
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