いきいき宋休記

いきいき宋休記

2008年01月22日
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カテゴリ: エッセイ・詩画



 更に数年後、西国巡礼の旅にも恵まれ、そこで身をもって感じたことは、大部分の寺院には職業としての仏教を見ることはあっても、本来の仏教の姿を発見することはなかった事実である。かえって一般の人々の中にこそ、特に底辺の世界で生きる人々の中に、生きた仏教の精神をみた想いがする。家の構えは、そこに住んでいる主人の、ものの考え方を大方表現している。塀を高くめぐらし、外部から一切を遮断するような守りの家もあれば、商家のように、いつでも人が気軽に入れるような場と様々で、他者をどのように受け入れるか、考えさせられることであった。また、こちらが下の立場であれば、相手の人は何も飾らず本性を見せてくれる。この他にも実際に足で歩くことによって、様々な貴重なことを味わうことが出来た。

 私が僧籍に入るきっかけとなったことは、乞食の托鉢による旅であり、このことがその後まで影響している。論題に隠遁者を選んだのも、単なる学問としてではなく、私自身が実際にそれに近いような生活をしているためといえる。更に福祉の世界にも縁を持つようになり、現代の仏教者の存在を疑問視し、これを自己の問題として取り組んだのである。論文を書き終え、結果的には現代の仏教界、そして自己に対する批判ばかりになったようで、それは私自身が現実からある意味で逃避していたことに気付いたことであり、これからが実践的行動への出発と思われる。

 さて実践となると、現実的には様々な問題が予想される。第一に考えられることは俗悪化の問題で、それには自己浄化あるいは物事の根源を見つめる方法として、日々の行が当然必要かと思われる。理論の先行している現代にあって、何らかの行の繰返しは、特に宗教にかかわりを持つ者にとって必要なことではなかろうか。念仏者に隠遁者が多いのは、遁れることよりも念仏自身のもつ行が主体となるためではなかろうか。念仏は易行道といわれるように、万人のためのものとして確立されたものであり、はじめから民衆とのつながりの深いのも当然のことである。しかし俗界の中に身を置き過ぎると、再び俗の人間にもどってしまう。そこで行が必要なのではなかろうか。自己自身に対してはどこに住んでいようとも、常に求道の精神が必要であり、また他者に対しては救済の精神が自然に現れるのではなかろうか。

 第二に考えられることは、理想と現実の違いである。理想が高ければ高い程、現実との隔たりが生じ、ついには放棄しかねないこともある。それには現実というものを直視することが必要であって、理想から実際の行動を捉えるという、背伸びしたものでなく、眼を背くことの出来ない現実というものから少しずつ理想の実現へと歩み出す、日々の努力が要求されよう。

 人間とは浅はかなもので、特別な上流階級に身を置けば、下層の人々の苦しみや楽しみなどを、深く理解することは困難である。例えば、別所の中で念仏に専心することも価値あることであるかも知れない。しかし、危機に迫られていない安定した生活をいくらしても、本当に苦しんでいる人間の心などわかる筈はなく、自分だけがいかに理想的な生活をしていても、それは自利の世界であって、そこには仏教者としての真の生き方はないといえる。積極的に他者に交わることによって、仏教の真価が発揮されるのではなかろうか。



だいじょうぶ
大変なときは
成長しているとき
旨みに
変化しているとき


すべてに
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最終更新日  2008年08月18日 11時10分45秒
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