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舜4518

舜4518

2007.07.03
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テーマ: 戦争反対(1249)
カテゴリ: カテゴリ未分類


久間防衛大臣の原爆投下容認の言葉にぼくはビックリした。
最近ではアメリカ大統領ですら言葉を濁そうとしている原爆による20万人もの住民殺害をこれほど赤裸々に肯定した日本の政治家はぼくの記憶にない。

久間氏が「しようがない」という原爆の被害の体験を聞いていただきたい。ぼくが直接に聞き、記録として残したのだが手元に見当たらないので、その抄録を紹介します。


ぼくは20年ほど前、聞きました。
大量殺戮と遺伝子レベルで命が脅威にさらされ、
命を育むことが無条件の喜びではなくなった瞬間のことを。


ーーーー 米澤鐵志 元京都高雄病院事務長。

高雄病院は中医学の総合病院として、

米澤は小さな結核病棟だった高雄病院を
中医学の病院につくりかえた人である。

彼がそのような病院を作ったことは広島での被曝と深く関わりがある。


 1945年8月6日、疎開先から母に連れられて
広島の家に帰るために広電に乗って流川にさしかかったとき
米軍が落とした原爆が炸裂した。
そこは爆心地から700メートルほどだった。

電車の窓はすべて割れ、満員だった電車の乗客の衣服は焼け、
皆大やけどをした。小学生だった米澤少年も同じように被曝した。

少年は電車を降り母に連れられて、焼け野原になった街を、
ぼろのように焼け爛れたわが皮膚をまとい、

水をください、水をくださいと叫び、
川に向かっておりかさなるひとのなかを家に向かう。


私が米澤からこの話を聞いたのは彼が50歳を過ぎてからである。
彼の話は克明に地獄を再現した。
そして話が進むにつれて彼の息づかいが荒くなってゆくのがわかった。


母の乳を飲んだせいであろう、同じようにして死んだ。
米澤は髪の毛がすべて抜け、高熱に苦しみ、
周りの人すべてが「鐵志はもう永くなかろう」とあきらめた。


 だが、鐵志少年は死ななかった。
生きつづけた米澤はその後の生涯を原水爆禁止運動と共に
歩みつづけたと言っていい。彼がその生涯のなかで、
原爆症の恐怖とどのように向きあってきたかは知らない。

その生きた来し方が多くを語っている。
今も米澤は核をはじめとする環境破壊を、
その政治を告発しつづけている。ーーーー


久しぶりであった彼はとても元気そうでした。
満員電車で、大人が放射線を吸収したおかげであろう、
爆心地にもかかわらず同じ年配の子供らが生き延びてきたといいます。
「70歳の声を聞くようになってばたばたと死んでゆく、それも全部ガンで。
わしも、ガンで死ぬのかと今になって思う。」

ぼくはお願いをしました。
あなたは生きていること自体が大切な証人であり、
他の被爆者にとっての希望なのだから、いつまでも生きつづけてほしい。
そして、機会を見つけて、あなたが経験したことを話してほしい、と。

米澤は元気であれば今年も、8月6日をヒロシマで迎えることでしょう。

ナガサキ出身の久間氏は同じような体験談を繰り返し聞いてきたに違いない。それを承知で大量殺戮を容認する男を政治家として認めることはできない。







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Last updated  2007.07.03 10:40:29 コメント(1) | コメントを書く


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くーる31 @ 相互リンク 突然のコメント、失礼いたします。 私は…
以前から探してました@ Re:触手療法 再論のために(10/12) 初めまして。 全生道場には1度だけお世…
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