こんにちは
古代史妄想くんです
前回は日本書紀に天皇崩御時年齢の記載が少ないため、多くの憶測をよんでいる
というテーマでした
ではなぜ、中世の歴史書はこぞって65歳と書けたのでしょうか?
私は小学生くらいのころ、おおざっぱなイメージで、壬申の乱とは
天智天皇の弟大海人皇子と息子大友皇子の皇位継承争いでしたから、
大友皇子25歳くらいだから、対する大海人皇子は叔父ですから5歳か10歳くらい上の30歳か35歳くらいかと思っていました。(妄想以前の問題で単なる先入観です)
ところが、成人して古代史に興味をもつようになり、諸説本をひもといていくと天武天皇は天智天皇より4歳年上説が幅を利かせているではありませんか!!!!
天智天皇は46歳で亡くなったことになっていますから、壬申乱のとき大海人皇子は50歳ということになります。
25歳の大友皇子は叔父でなく50歳の伯父に負けたことになります
いかに小学生くらいのしょぼい先入観があてにならないかを痛感した出来事でした
ただ、天武帝が天智帝より年上説は学会では公式に認められておらず、65歳は56歳の間違いで、壬申乱のときは41歳ということになります
しかし、天皇位についた後も、天武天皇は皇子皇女を儲けます
ただし、壬申乱以後誕生したはずの皇子皇女はことごとく生年不詳になっています
このことは以下いずれかかと思われます
1.壬申乱以降の天武皇子皇女の父親は天武ではない・・・65歳(56歳)崩御説に基づく
2.天武天皇の年齢は実際はもっと若い、壬申乱以前の皇子皇女の父親は天武ではない
大海人皇子は天智天皇の皇弟である(日本書紀の記述)に基づく
前回紹介した神谷さんのブログはどちらかというと2.に近いですが、壬申乱以前の皇子皇女の年齢を引き下げ実子としています
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htm
ここで私が疑問なのは、日本書紀はなぜ壬申以前誕生の皇子皇女の生年を明記し、壬申以後の皇子皇女の生年をぼかしたかなのです
壬申以前の皇子皇女の生年がでっちあげであれば、以降もらしくでっちあげればいいのです
日本書紀は壬申以降(天武即位以降)の皇子皇女の生年をいいたくなかったのではないでしょうか?
それとも書き手が交代し、生年に対し無頓着な書き手になったのでしょうか?
もちろん日本書紀には西暦何年誕生という書き方が存在するわけでなく、何々天皇何年という記述になっていますから、その何々天皇の在位期間が通説より引き下げることができれば、種々のつじつまが合う気がしてきました
つまり私見では、女性天皇・男性天皇同時存在ですから、縦につないだ日本書紀よりも時代が引き下がるのです
いままで、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・弘文・天武・持統・文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳と続いた系譜は
推古・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)とつづいたのであって
舒明・孝徳・天智・弘文(非即位説有利)・天武・(高市?)・文武・聖武・淳仁と続くほうがすっきりするのです
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で敗北した男性天皇陣の代わりに孝謙(称徳)天皇は僧の道鏡をすえようとし、豪族たちから大反発をくらったのではないでしょうか?
光仁天皇のときも、皇后は聖武天皇皇女(井上内親王)でしたから、女帝制度はすぐには廃止できず、多少残っていたのです
うわ!天武天皇年齢からとてつもなく脱線してしましました
てなわけで、天武天皇の年齢を引き下げるには、壬申乱以前の皇子皇女の年齢の引き下げが必要であり、それには各天皇の御世を通説より引き下げる必要があるのです。
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