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昨年9月以来です。私見ですが、天智天皇が初代日本国の天皇であるという考えは捨てきれていません。理由は1.日本国というのは元々鹿児島あたりの小国で、大国倭国に取って代わってやろうと機会を伺っていた。2.中大兄皇子は倭国の皇子だが、天智天皇は別人で新羅王・金春秋の可能性が強い。3.白村江の戦いは朝鮮半島で起こった戦いではなく、淀川あたりで起こった戦闘であり、 倭国・百済連合軍は唐・新羅・日本の連合に敗れた。 以上の理由から日本国の初代天皇は天智天皇=新羅王・金春秋となります。 息子とされる文武王は実は文武天皇と同一人物で(年齢はかなり違いますが) 日本で天寿を全うしたとされます。 つまり文武天皇を陰で操っていたのは新羅から来た文武王だったということです。
2018/04/17
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超久々の更新です。若干のネタバレもあるかもしれませんが、自分なりの感想を述べたいと思います。1.氏は大海人皇子=漢皇子説をとっています。 斉明天皇が舒明天皇に嫁ぐ前宝皇女時代に、高向王と婚姻し、漢皇子をもうけたとあります。 これは日本書紀に記述されているので、真実だと私は思います。 私は大海人皇子=漢皇子説には賛同していません。 大海人皇子=定恵(中臣鎌足の息子=実は孝徳天皇の落胤)説をとっています。2.全体的に日本書紀の記述を尊重しているようです。 もちろん小説的な意外な記述も盛り込まれています。3.舞台は大化の改新(乙巳の変)から白村江敗戦、壬申の乱直前までが、描かれています。4.エンディングは扶桑略記の記述を彷彿させます。 天智天皇は山科の郷に遠乗りに出掛けたまま帰らず、山深く入ってしまわれ、どこで亡くなったか分からな い。ただ履いていた沓(靴)が見付かったため、その場所(宇治郡山科郷北山)に山陵を作り葬った。) のくだりです。 ただ天智天皇の妄想なのか、そのあたりがオブラートに包まれています。聖徳太子(世間は虚仮にして)の続編だそうなので、こちらも読んでみようと思います。
2017/09/07
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2017年3月17日に2016年1月5日のつづきもないものだと思いますが、天智天皇暗殺説に私は不賛同なので、久々妄想言及したいと思います。有名なのは扶桑略記の一節です。「(天皇)駕馬幸山科郷、更無還御、永交山林、不知崩所、只以、履沓落處爲、其山陵以、(途中意味不明)、山陵山城國宇治郡山科郷北山(天智天皇は山科の郷に遠乗りに出掛けたまま帰らず、山深く入ってしまわれ、どこで亡くなったか分からない。ただ履いていた沓(靴)が見付かったため、その場所(宇治郡山科郷北山)に山陵を作り葬った。)」と書かれています。井沢元彦氏は、大海人皇子(後の天武天皇)が黒幕で実行犯は栗隈王、遺体を舟にのせ、川を下った。とかなりリアルな検証をされています。私は、大海人皇子がそこまでリスクを犯して天智天皇を暗殺するメリットがあるかどうかだと思っています。また小松洋二氏の著書の引用ですが、氏は「日本国誕生」において、そうのような緊迫した状況下において、天智天皇の警備が手薄になるわけがないと言われてみれば納得という持論を展開されています。良くある説は、大海人皇子は斉明天皇と前夫・高向王との間に生まれた「漢皇子」で中大兄皇子=天智天皇より4歳年上という説です。この説が本当だとすれば、年上の大海人皇子からすれば、天智天皇の自然死を待てないので、暗殺したとすれば辻褄が合います。私は大海人皇子=漢皇子説には賛同できませんし、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなかったと思っています。ただし、義兄弟的な極めて近しい関係であったと推測します。かねがね申し上げていますが、中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの蹴鞠のシーンは武烈王=金春秋と金ユシンとの出会いと同一であること。当時倭国には蹴鞠が輸入されていた確証はなく、苦し紛れに日本書紀は「鞠を打った(蹴ったではなく)」と記述していること。蹴鞠は日本では平安時代に貴族の間でブームだったこと。当時の新羅は唐の属国であったことから唐から輸入されていたであろうということ。(その後新羅は唐と袂を分かち日本よりになりますが)長々しくなりましたが、上記以外の理由からも新羅武烈王と天智天皇は同一人物であると結論づけました。私は今も天武天皇は鎌足の息子定恵ではないか?と考えています。鎌足=金ユシンであれば武烈王=天智天皇の恩人の息子(義理の息子?もしかすると定恵は孝徳天皇の息子?)を義理の弟として可愛がるのは自然だと思います。話をもとに戻しますが、天智天皇暗殺説に賛同できない理由を列挙します。1.緊迫した状況下で警護もつけずうかつに馬で遠乗りするには無理がある。2.鹿児島県枚聞神社には天智天皇が移り住んだ伝説がある。3.近江朝廷幹部は百済人に占められておりできれば死を装い逃げ出したかった。4.天智天皇は大海人皇子を殺害する機会は何度となくあったが、殺していない。それは実は大友皇子 でなく大海人皇子に後を託したからである。
2017/03/17
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約1年ぶりの気まぐれ復活です。若干のネタバレになりますが、小松洋二氏は、文武天皇と新羅文武王は同一人物ではないけれど、同時期に日本におり、文武天皇を陰から支えたのが、新羅文武王だと言及しておられます。以前私も同様の妄想をし、「同一人物」説には無理がありますと、あまり突っ込んで調べようとはしませんでした。https://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/200903170000/ところで文武天皇の和風諡号は二つあり、「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)があります。小松洋二氏は25歳で崩御した文武天皇の和風諡号に「豊祖父」とつくのに違和感を覚えると言及しておられます。これは新羅文武王を意識した諡号なのだと。私も文武天皇と文武王が同一人物であるとは思いませんでしたが、文武朝における陰の為政者であるという小松氏の仮説には気づきませんでした。小松氏と私で意見の違う部分は、氏は天智天皇を百済系渡来人の可能性が強いと言及し、私は天智天皇=新羅武烈王と比定しているところです。新羅文武王は新羅武烈王の息子ですから、私は日本国を建国もしくは大国にした父の後を追い、密かに日本を訪れ時の文武天皇にアドバイスを与えていたとなれば古代史のロマンが広がります。
2017/03/16
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2月怠けていました。48代称徳天皇から49代光仁天皇への皇位継承は正史の「続日本紀(しょくにほんぎ)」ではさらりと流されてします。称徳天皇崩御時の記述も唐突に「宝亀元年8月4日 天皇が西宮の正殿で崩御された。53歳であった。」とあります。死因の描写はありません。病を患っていた、等の記述もありません。光仁天皇崩御時は、病を患っていたとか、次の桓武天皇が慟哭したとかの描写があります。これがあるべき姿だと私は思います。つまり称徳天皇の死因は意図的に隠蔽されたと思います。もうひとつ、私が納得できないのは光仁天皇への皇位継承があまりにも円滑に行われたことです。称徳天皇崩御時、存命している天武天皇の孫も数人いました。吉備真備は臣籍降下していた78歳の文屋浄三を次期天皇に推挙しますが実現しませんでした。浄三が高齢を理由に辞退したことになっています。真備は続いて浄三の実弟大市67歳を推挙しますが、これも実現しませんでした。光仁天皇=白壁王は即位時62歳でしたから、当時の天武血統優位の現状からは大市のほうが優位だったはずです。光仁天皇即位の裏には藤原百川が暗躍したとする説が有力で、私も支持しますが、藤原氏の視点からは担ぐのはどちらでもよかったはずです。何を言いたいかというと、戦乱でもない限り合理的な説明ができないということです。ここは光仁天皇=白壁王と50代桓武天皇=山部王所属の近江朝廷と称徳天皇所属の平城京とで戦乱があった、としたほうが合理的な説明をつけやすいのです。これは私の仮説以前の「妄想」または「暴走」ですから、また少しずつ立証していきたいと思います。
2016/03/06
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1月2日は言葉たらずで、おわかりにくい箇所も多々あったかと思います。整理します。1.天智天皇率いる日本国と孝徳・斉明天皇率いる倭国とで抗争していた。2.天智天皇は大阪の孝徳天皇を破り、近江の大津に遷都した。 大阪を避けたのは飛鳥に逃げ込んだ斉明天皇に山と海からの挟み撃ち攻撃に備えてです。3.7年の抗争の末、斉明天皇も敗れ、日本国は倭国の吸収合併に成功しました。4.天智天皇は孝徳天皇の妃=乳娘(ちのいらつめ)を後宮に加え(おそらく美女だったのでしょう) 遠智郎女(おちのいらつめ)の尊敬語の「お」をかぶせ昇格させた。 おちのいらつめには連れ子 (うののさららのひめみこ=持統天皇・大友皇子=弘文天皇・あべのひめみこ=元明天皇)がいました。 天智天皇はおちのいらつめにゾッコンだったのでしょう。 弟分の大海人皇子=天武天皇の妃にうののさらら=持統天皇を、自分の後継者に大友皇子=弘文天皇を指名し 日本・倭の融合をはかりました。5.天智天皇失踪(後日詳細を説明。崩御でなく)後、近江政権のトップになった弘文天皇でしたが、25歳の若さ で病死。後継者問題が発生しました。6.もちろん弘文天皇に気を使って吉野に隠遁した大海人皇子も後継者候補に挙手しました。 おそらく天智天皇の皇子成人まで後見人を買って出たのでしょう。 三種の神器も受け継ぎました。 ここに大海人皇子は天武天皇として初めて「天皇」という称号を使いました。7.しかし、倭国の復活を期するうののさららのひめみこは言葉巧みに夫の近江行きを引き留めます。 妻は正当な倭国の後継者、夫は任那系王族の末裔ですが、すでにほろんだ国の王族の末裔では頭があがりません。8.うののさららのひめみこは、こうして天武天皇に飛鳥浄御原宮を造営させます。 飛鳥浄御原宮は飛鳥板葺宮跡ですからうののさららのひめみこは斉明天皇宮跡地を復活させたのです。9.では近江朝には誰が残っていたのでしょう? 私の想像は若き日の藤原不比等ではなかったかと考えます。 藤原不比等は政界への登場が遅く、前半生は謎に包まれていました。 おそらく日本書紀は近江朝の存在を抹殺していたので、不比等の前半生も抹殺されたのでしょう。10.天武天皇死後、藤原不比等は近江朝を裏切り、天武天皇のあと即位したうののさららのひめみこ=持統天皇に ついたのでしょう。 その後、孫の聖武天皇は大仏建立しました。 仏教徒である倭国民の戦意高揚をはかったと思います。 しかし融和政策も忘れず、皇女の井上内親王を天智天皇の孫白壁王(のちの光仁天皇)に嫁がせています。11.不比等去ったあとの近江朝には誰がいたのでしょう? 成人した天智天皇の皇子たち(施基皇子)を中心とするメンバーと思われます。 錦の御旗(三種の神器)は飛鳥朝廷に奪われていたので、目立った動きは控えていたかもしれません。 飛鳥朝廷側も、天智天皇の皇子を攻撃すれば、バックの唐・新羅が脅威となるので、こちらもうっかり手を 出せない。 こうしたにらみ合いが藤原仲麻呂の乱まで続いたと考えます。12.藤原仲麻呂=恵美押勝は当初、孝謙天皇を傀儡として実権を握る予定でした。 ほぼ達成されましたが、道鏡の出現で彼は焦ります。 舎人親王の皇子=大炊王を天皇につけるよう画策し、成功しますが、道鏡も退けようとした途端、女帝の 逆鱗に触れます。 仲麻呂は敵対していた勢力=近江朝と手を組みます。 しかし、史実の通り仲麻呂は敗死。 近江朝崩壊の危機に瀕します。13.しかし、女帝の道鏡寵愛を面白くない各豪族(藤原氏・吉備氏・大伴氏)は女帝を裏切ります。 道鏡が天皇になったらこの国はどうなるのだ?という思いもあったでしょう。14.戦闘の末、孝謙天皇=称徳天皇は道鏡とともに下野へ逃げます。 白壁王軍も深追いはしませんでした。15.しかし、禍根を断つため白壁王は聖武天皇皇女の井上内親王とその子他戸皇太子(おさどこうたいし)を 処刑します。 ここで倭国伝統の女王制は消滅しました。 皮肉にものちの400年平安な時代が訪れたのです。※ 現代の我が国も一党独裁になったことで平安が訪れるかもしれません。 ただ、平安時代庶民の生活は貧困を極め一部の皇族・貴族のみが栄華を極めていました。 庶民の貧困の上に成り立つ平和ではたしてよいのでしょうか? 歴史は繰り返すといいますが、学んだほうがいいと思うのは私だけでしょうか?
2016/01/05
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今年は少々、妄想日を増やそうと思っています。よろしくお願いします。今年は、昨年末に引き続き、壬申の乱架空説を展開したいと思います。壬申の乱には納得しがたい(こじつけ)が多々散見されると思います。1.天武天皇は圧倒的不利な状況から大逆転したとされる。 さらに天皇に戦いをしかけることは逆賊行為であり、諸豪族が次々味方するとは考えにくいのです。 日本書紀は壬申の乱の項で、すでに大海人皇子を天皇よばわりし、大友皇子はあくまで天皇になっていないと 言い張ります。 それはそれで「勝てば官軍」ですから仕方ないとしても、天智天皇崩御後半年も天皇不在という状況は不自然 です。 日本書紀はその前に伏線をはり、斉明天皇崩御後、中大兄皇子は7年も天皇にならず称制と称して政務をとったと 主張しています。 しかしよくよく斉明紀と天智紀を比較すると、かなり記事が似ているのです。 一例は 「斉明天皇・七年六月、伊勢王死ぬ」(661年) 「天智天皇・七年六月、伊勢王死ぬ」(668年) 従来の考えでは、これは二人の同名の伊勢王がいて、7年おいて死んだのだとされていました。 しかし皇族で全く同じ名を持つ王が2人存在するのには無理があります。 ここは同一人物で、倭国側と日本国側で重複記録されたとみるのが自然です。 大友皇子を称制とするために、天智天皇が称制の先駆けを行ったとしたわけです。 ですから半年でも大友皇子が天皇になっていなかったとするのは不自然ということになります。 もし戦闘があったとすると、各豪族は逆賊承知で大海人皇子にこぞって味方したことになります。2.天智天皇の皇子は大友皇子以外みんな生きていた。 川島皇子・施基皇子は吉野の会盟において序列は低いのですが、皇位継承順3位と6位を与えられています。 吉野の会盟事態を架空と説もありますが、お隣中国においては、将来の禍根を断つために一族皆殺しが当たり 前でした。 その後の日本においても、源頼朝は将来の禍根を断つために、義経と静御前との間に生まれた子 (赤ん坊=男子)を殺害しています。 また、平清盛も頼朝に情けをかけたことをいまわのきわに後悔しています。 このように戦いに勝利した場合、恐れたのは仇討です。 特に大友皇子の子、葛野王は生きていて持統天皇の側近でもあったので、これは天武天皇側からの視点でも 葛野王側からの視点でも冷静に相手に接することは無理です。 ということは、天武天皇が大友皇子(弘文天皇)を敗死させたことに疑問を持たざるを得ません。 以上から壬申の乱において天武天皇(大海人皇子)が弘文天皇(大友皇子)と戦い、勝利したという図式は 甚だ疑問です。A.ではなぜ壬申の乱としての記録が必要だったのか? 日本書紀が完成したのは天武天皇死後34年の720年です。 このころは平城京遷都10年後で、私の仮説ではまだ倭国・日本国並立の最中です。 あくまで倭国が日本国に国名変更しただけである、と主張する日本書紀においては倭国・日本国並立は都合が よくありません。 あくまで倭国が国号を変更しただけなので、日本・新羅・唐連合国による倭国侵略(白村江の勝利)はなかった ことにしたいのです。 なぜ侵略の事実は不都合なのか? 当時日本国民は少数派で、倭国民が大多数を占めていました。 実は現在もそうなのです。国民の大多数は仏教徒ですが、天皇家は神道にて各儀式を行います。 私もお墓はお寺さんにあるので、倭国の末裔かもしれません。 それはさておき、天武天皇は日本国化を推進したことは事実でしょう。 持統天皇も皇后として協力したかもしれません。 一代前の弘文天皇(大友皇子)は倭国王の血を引きますから(実の父親は孝徳天皇)日本国・倭国の友好の象徴 だったかもしれません。 天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の命を受け吉野に隠遁し、弘文天皇を監視していたと私は考えます。 当時の近江朝の重鎮は蘇我氏や物部氏など旧倭国豪族で占められていました。 しかし、乱後蘇我氏・物部氏は許されて(というか乱中に裏切ったり)平城京の重鎮になったりしています。 ということは、単純に弘文天皇と中臣金だけ暗殺したと仮定するとそのあたりの疑問が払拭されます。 昨年最後の総括で弘文天皇病死か?とも記述しましたが、いずれにしろ弘文天皇崩御で近江朝は人材を失い 崩壊したのかもしれません。B.ではなぜ天武天皇は近江朝の支配者にはならなかったのか? これも疑問です。 通説は壬申の乱において壊滅したとされます。 仮にそうだとして、なぜ飛鳥の山中でなければならなかったのでしょうか? 飛鳥板葺宮に都をおいた先輩はいました。斉明天皇です。 大化の改新の舞台は飛鳥板葺宮です。 飛鳥という地形は外敵からの防御には最適の場所ですが、平和な時代には山中はなにかと不便です。 海外からの賓客を出迎えること一つとっても効率的な場所とは言えません。 斉明天皇は天智天皇との抗争に備えて守りやすい飛鳥に拠点を置いたのです。 天武天皇も同じ理由でないとつじつまが合いません。 それでは天武天皇の抗争相手とは? 私は近江朝だったと思います。 つまり天武天皇が弘文天皇に勝利し、その政権が盤石のものだったら、もっと外交・貿易等に有利な大阪湾 あたりに都したはずなのです。 飛鳥に都をおくということは、某かの抗争相手が存在しなければなりません。 近江朝の重鎮をヘッドハンティングしたまではよかったのでしょうが、近江政権はしぶとく存続していた のでしょう。 すみません 続きは次回
2016/01/02
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今年は妄想をさぼっていました。自戒もこめて古代史妄想の総括をしたいと思います。1.卑弥呼の邪馬台国は九州だと思う。 奈良の巻向が邪馬台国だったという説も多々見受けますが、巻向遺跡は当時の邪馬台国より強大な「某国家」 だったと思います。 「親魏倭王」の称号は地の利を生かした卑弥呼が他国より先手を打って獲得したにすぎず、「親魏倭王」の称号 は必ずしも当時の日本列島で最強国であった証明にはならないと思うからです。2.前半・天照大神は卑弥呼のことを言っていると思う。 前半と書いたのは、天野岩戸におかくれになったということは「崩御」を表しているはずです。 ではあめのうずめの舞で再び顔をだしたのは誰?ということになると、卑弥呼の死後男王を立てたが、国乱れて 宗女「壱与(台与)」を女王にたてたら収まったとありますから、後半天照は宗女「イヨ(トヨ)」のことと すればつじつまが合います。3.倭の五王は仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略の各天皇が混在している。 倭の五王ですが、比定候補は六天皇です。 讃=仁徳説は「和名=オオサザキ」の「サ」ということですが、中国の宋書に「讃死して弟珍立つ」とあるので、 仁徳→履中は親子関係なので、讃=仁徳説は弱まっています。さらに仁徳が倭の五王からはずれると世界最大 の古墳の主ではないだろう・・・などとして「大山古墳」という呼び方にしたり・・・ 私の意見は仁徳天皇は讃岐の国を新たな支配下に入れたので、「讃」であると宣言したと考えます。 その讃岐王の名乗りは子の履中天皇に引き継がれ、その死をもって弟の反正天皇が後を継いだと考えます。 その反正天皇は珍、つまりチヌ=茅渟=大阪湾を支配下に入れたので珍と名乗ったのです。 反正天皇はその後「済」=奈良百済町付近も領土にくわえたので、「済」とも名乗りました。 「済」の名乗りはおそらく允恭天皇に引き継がれたものと考えます。 「興」を安康天皇とすると「済」の世子「興」とつじつまがあいます。 ただ、世子という表現は「正式な世継ぎ」ということで必ずしも血縁関係を表すわけではないところが 引っ掛かります。 「興死して弟武立つ」とありますから、安康天皇の弟は雄略天皇なのでここもつじつまがあいます。 結論:倭王讃=仁徳・反正、珍=反正、済=反正・允恭、興=安康、武=雄略 という乱暴な意見となります。4.蘇我氏は倭王だった。 月並みな意見ですが、大化の改新の時に蘇我蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。 とあるので、「天皇」(そのころはまだ天皇という呼び方はありませんでしたが)に相当する支配者であった 裏付けと思われます。 私の妄想ですが、卑弥呼以来、女王の伝統は倭国に残っていたのだろうと思っています。 つまり先述の倭の五王も実は婿さんだったのだろうと。 倭国女王の婿が代々蘇我を名乗ってきたとすれば、突然推古天皇が初の女帝として登場したのでなく、日本書紀は 代々女帝の婿をさも天皇のように振り替えたとするといろいろすんなり説明できます。 一例は聖徳太子の母穴穂部間人皇女は用明天皇死後聖徳太子の異母兄の田米皇子と再婚します。 一見不謹慎に見える行いも、女王婿不在回避という観点からぎりぎりセーフになるのでは?と思いました。5.初代天皇は天智天皇である。 百人一首の一首目が天智天皇であるように平安時代から鎌倉時代にかけて当時のインテリ層は天智天皇を初代 とみなしていました。 これは桓武天皇が天智天皇のひ孫であることを強調したかった説もありますが、私は、舒明斉明天皇の子ではなく 外来の征服者であると考えます。 ずばり新羅武烈王=金春秋だと思いますが、傍証のひとつは中臣鎌足との出会いの蹴鞠の場面は当時の倭国では ありえないこと(まだ蹴鞠が輸入されていなかった) 同じエピソードが金春秋と忠臣金ユシンとにあること、などです。6.天武天皇は藤原定恵である。 これは以前も述べました。 理由は、定恵死去後、大海人皇子が歴史の表舞台に登場する。 天智天皇の娘四人を妃にしている(実の兄弟ではありえない) 天武天皇の息子は誰も天皇になっていない。 天武天皇皇子の舎人親王は藤原の縁者でもないのにやたら味方している(鎌足の孫だからならつじつまがあう) ただ、鎌足の娘を二人妃にしているのでそこをつかれると微妙ですが、異母兄弟ならセーフということで7.持統天皇は倭国の正当な女王である。 これも以前述べましたが、天智天皇=金春秋説にたつと、持統天皇は天智天皇の実子でなく連れ子ということに なります。 持統天皇の母は遠智娘(おちのいらつめ)ですが、孝徳天皇の妃に乳娘(ちのいらつめ)がいます。 二人とも父親は蘇我倉山田石川麻呂なので、娘にこんな紛らわしい名前を付けるとは考えにくいのです。 同一人物とすればすっきりします。 つまり持統天皇の実の父親は孝徳天皇だと思います。 孝徳天皇・斉明天皇は倭国の正当な王なので、その子である持統天皇も倭国の正当な女王であると結論づけるわけ です。8.天武天皇は持統天皇の入り婿である。 つまり藤原定恵は天智天皇政権下において天智天皇の義理の娘である持統天皇と政略結婚したことになります。 それではなぜ、天智天皇の息子の弘文天皇(大友皇子)を倒して政権をうばったのでしょう?9.壬申の乱はなかった。 私は壬申の乱は存在しなかったと仮説をたてました。 天武天皇が武力によって弘文天皇政権を簒奪したことにはいろいろとムリがあるからです。 では、壬申の乱とは何をモチーフにしているのか考えました。 戦場で似通っているのは、恵美押勝の乱です。 藤原仲麻呂=恵美押勝は天智天皇の近江政権復活を期し、孝謙天皇に敗れたとされます。 ですから大友皇子=弘文天皇は戦死でなく、病死か暗殺とし、戦乱は後世の藤原仲麻呂の乱だったのではないか と思いました。10.平城京と近江京の並立 つまり、近江京は壬申の乱で壊滅したのではなく、藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で壊滅に近い打撃をうけ たのではないかと仮説を立てました。 奇しくも敗死した淳仁天皇も弘文天皇も明治時代になってから天皇の序列に加えられたことも偶然の一致とは 思えません。11.平安京遷都 平城京と近江京の並立の最終決着は、光仁天皇・桓武天皇vs称徳天皇まで持ち越されたと思います。 藤原氏はもちろん双方に分散して味方していたのです。 家系の存続のために。 最終勝利は光仁・桓武天皇だったということです。 ですから私は通説における光仁天皇凡庸説には賛成できません。※ 駆け足でおさらいしました。 ことばたらずでおわかりにくい箇所も多々あったと思いますが、ご容赦ください。 二〇一六年もよろしくお願いします。
2015/12/31
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古代史妄想からちょっと寄り道で、中世史妄想です。今回の主人公は以仁王ということで。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B以仁王は高倉天皇~安徳天皇ラインから皇位簒奪を画策して挙兵しました。出典は失念しましたが、(平家物語か吾妻鏡)以仁王は天武天皇たらんと言ったそうです。このことをどう捉えるべきかでいろいろ考察(妄想?)してみました。さらっと流すと気にもされないことですが、よくよく考えると以仁王から見た天武天皇像というものが見えてきます。 以仁王の知識が正しかったどうかは置いといて、以仁王は天武天皇を弘文天皇から皇位を奪った簒奪者と認識したことになります。以仁王が天武天皇になると宣言したのは、ただそれだけの理由だったのか、それともほかにも共通点をみいだしてのことなのか、もう少し突っ込んでみます。以仁王の母は藤原氏なので、悪くはないと思います。母方の伯父が失脚したせいで、以仁王は後白河天皇の第3皇子でありながら親王宣下も受けられなかったそうです。歴史でタラればほど不毛な妄想はないと思っていますが、あえてタラればしてみます。もし、以仁王が平氏に勝ち天皇になっていたら?まず歴史を修正したと思います。おそらく伯父の失脚をなかったことにし、自分こそが皇位正嫡であったことを喧伝したでしょう。そうです。天武天皇が日本書紀編纂を命じたのは、歴史の修正を命じたのでは?というなんか普通の意見になってしまいました・・・・ここで肝心なのは、うそをつくではなく、都合の悪い部分を消去するという手法をとったのではないかということです。 すでに平安時代は架空の物語という概念が定着していましたから、もし以仁王が天皇になっていたら改竄という手法もとっていたかもしれません。あとうがった見方ですが、以仁王は後白河天皇の皇子でしたから天武天皇の父親も天皇だったという認識だったかもしれません。皇位が約束されていた、甥であるのちの安徳天皇と戦い皇位につくということを天武天皇にみたてたとも言えます。十分考えられますが、弘文天皇(大友皇子)は当時は皇位継承に値する資格を得ていたのでは、ないでしょうか?安徳天皇のように。天武天皇は勝利したので、大友皇子の出自を貶めることができ、以仁王は敗北したので、そのままとなった・・・もちろん日本書紀がうそをついているとは言ってません。都合の悪いことは削除したのです。大友皇子の母親はもっと高貴な人物だったが、イガヤカコという別名も持っていたので、そこを強調したと思います。
2015/03/01
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もしかしたらこの疑問をいだいたのは私だけではないかもしれないと思ったら、いらっしゃいました。https://books.google.co.jp/books?id=p84BjgsnsTcC&pg=PA372&lpg=PA372&dq=%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E5%AE%9A%E6%81%B5&source=bl&ots=7yTBGE7hgd&sig=fvUkKSz5N36RFinFo4LiGCsNDSM&hl=ja&sa=X&ei=-4zkVPaIG-eymAXWv4GoDg&ved=0CDcQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%20%E5%AE%9A%E6%81%B5&f=false通説では天武天皇の生年は、622年とか631年が主流(?)のようですが、敬愛する神谷さんは644年説を採ります。http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm定恵は643年生まれです。キター!!!天武天皇(大海人皇子)が歴史の表舞台に登場するのが、664年。定恵の死去が666年。しかし664年の記事は、天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位26階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた、とありますからアリバイとしては弱いと思います。天智天皇即位が668年で大海人皇子立太子が同年ですから定恵=大海人皇子と娘4人を結婚させ後継者にしようとしたのではないでしょうか?余談ですが、定恵の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」。天武天皇の和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。とすれば、天武の皇子で皇位継承資格のある皇子(天智皇女を母とする)は草壁・大津・長・弓削・舎人・新田部となり高市・忍壁・磯城は除外されます。あと、舎人親王の異常なまでの藤原よりの行動は不比等が叔父だったからです。壬申の乱は大海人皇子vs大友皇子が通説ですが、実はうののさららひめみこ(持統天皇)vs大友皇子という姉弟戦争だったのではないでしょうか?持統天皇治世は藤原不比等が重用されますが、夫の弟であれば当然ではないでしょうか?私も一頃、持統天皇と藤原不比等がデキている説を支持していましたが、義理の弟とは考えにくいかなと思うようになりました。私は、どうしても天武天皇は天智天皇より血統的に一段劣ると思ってました。天智天皇は4人の養女(実の父親は倭国の大王である孝徳天皇)を定恵にめあわせ入り婿大王とさせようとしたのでしょう。天智天皇本人も倭姫王をめとることにより入り婿大王であったわけです。筆をおく前に、天武天皇夫人の五百重娘の父親は鎌足ですが、母親の違う兄妹は古代では婚姻可能であるということで逃げたいのですが、五百重娘は天武天皇死後藤原不比等に嫁いで麻呂を生んでいます。神谷さんの説だと新田部親王も藤原不比等の子ではないだろうか?とされておられるので、天武天皇と五百重娘の結婚生活の実態はなかったのではないでしょうか。光源氏と女三宮のように(これは実話ではありませんが・・・)
2015/02/18
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神谷政行さんのHPを見て、私なりの見解を思い立ちまして、久々の書き込みです。かねがね私は天智天皇=新羅武烈王(金春秋)説を主張してきました。新羅武烈王には4人の王子がいます。長男は朝鮮半島を統一した文武王。以下、仁問、仁泰、文王と続きます。一方、天智天皇の皇子で光仁天皇の父=施基皇子は続日本紀で第7皇子とありますが、大友皇子、建皇子、川嶋皇子、施基皇子しか見当たらないので、早世のようであると神谷さんは結論づけています。回りくどい記述ですみません。武烈王の4人の皇子(おそらく新羅時代の子供)天智天皇の4人の皇子でおつりがきませんか?という単純な数合わせ的な思考です。白村江の戦いが663年ですから神谷さん説に立つと施基皇子は666年生まれで、武烈王が日本に君臨してからの子供ということになります。その前に武烈王は661年に病死になっていますから成り立たないという方もおられるでしょう。源義経=ジンギスカン説も義経が死亡したことになってから、大陸へ渡ったことにならないと成り立ちませんから、死んだことにならないと入れ替われないというか・・・・・つまり武烈王は661年に死んだことになって白村江以降日本を統治し、天智天皇になったとすると、大友・建・川嶋各皇子は天智天皇の実子でなく日本における奥さんの連れ子ということになってしまいます。それは大友皇子の姉の持統天皇にも当てはまります。これらの仮説が万が一証明できたら、1.壬申の乱で天智皇子で死んだのはなぜ大友皇子だけなのか?2.なぜ持統天皇は自分の息子の直系のみに皇位をつがせたかったのか?3.なぜ京都の泉涌寺は天智天皇を初代としてあつく祀り、その実父(舒明天皇)実母(斉明天皇)を無視しているのか?などの疑問が氷解しそうな気がします。また妄想させてください。
2015/02/14
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ネタバレしないようなコメントを。著書の中に「息長真手王の娘が継体大王と敏達天皇に嫁いでいる」とあります。日本書紀上は26代継体天皇の孫が30代敏達天皇となっていますからこれはおかしい。息長真手王が自分の娘を祖父と孫にそれぞれ嫁がせるのはおかしい。通説は複数の「息長真手王」が存在するとします。はあ?そういうふうに逃げる人は頭が固いか能力がないとするしかありません。毒を吐くのはいい加減にして、私見を述べます。「天皇」呼称は律令制とともに誕生しました。7世紀後半です。以前は「大王」とか「倭国王」でした。タイトル通り「継体天皇」ではなく「継体大王」は説得力のあるネーミングですが、予想を反して以外な結末がまっていました。気になる方はぜひ一読をお勧めします。ところで、私が気になるのは天武持統以前の「天皇」は後世「天皇序列」に加えられたわけですが、なにをもって日本書紀は「神武天皇」を初代天皇にしたのでしょうか?アマテラスでもなく、スサノオでもなくジンムなのです。これは持統が自身を「アマテラス」にみたてて、孫の文武天皇を「ニニギ」に見立てたのだ。ということですが、だったら「アマテラス」を初代天皇でいいのでは?日本書紀は対外的に日本の歴史を古く見せたいがために倭国王(外国の王?)を天皇序列に加えたきらいは充分にあります。だったらなぜ「ジンム」でとめたのか?神功皇后とか飯豊皇女とか聖徳太子とかなぜ足さなかったのか?あれ?これでは感想文にならないでしょうか?う~ん。ネタバレしないように意識しすぎました・・・
2013/03/31
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「天武天皇の年齢研究」につづき、第2弾「継体大王の年齢研究」をamazonから購入しました。私見をいくつか列挙しておきます。1.神谷さんにもメールでお伝えしましたが、 「天皇」という呼称が定められたのは持統天皇のころからとされます。 それまでは「大王(おおきみ)」と言われていました。 「継体」という謚は、奈良時代に淡海三船(天智天皇の玄孫)が神武から元正 (弘文・文武除く)まで一気に命名したので、「継体」とつけられた時点で「継体天皇」 だったわけで、「継体大王」って? 神谷さんは著書の中で、「継体」のみ「大王」呼称にこだわり、前後の天皇は「天皇」 と呼んでいます。 著書を最後まで読めば、その理由がわかるそうです。2.通説では、第26代継体天皇からを現代皇室につづく「新王朝」としています。 私見は違います。 まず、継体の皇子とされる29代欽明天皇より突然「蘇我氏」が台頭してくること。 欽明天皇は蘇我氏が新たに擁立した別系ではないか?ということ。 次に、日本書紀はその成立経緯や文体などから、欽明天皇から書き始め、持統天皇まで 書き終えたあと、徐々に遡ってかかれたということ。 日本書紀が欽明紀の初めに「昔の記録は汚損が激しく、解読しづらい記述が多々ある」 これは聞き流すと「そうですか」で終わってしまいますが、「解読しづらい」にひっかかりま す。 劣化による難解な文書でなく、他国語だから難解だったのではないでしょうか? つまり、欽明王朝と日本書紀編纂時の奈良王朝とは違った言語を読み書きする人種 だったと思われます。 通説では、初代神武から9代開化までを葛城王朝 10代崇神から14代仲哀までを三輪王朝 15代応神から25代武烈までを河内王朝 26代継体から新王朝 (水野祐氏) ですが、私見はさらに細分化して 26代継体-28代宣化 と 29代欽明は並立と思います。 理由は息長真手王という人の娘2人が26代継体天皇と30代敏達天皇にそれぞれ 嫁いでいるからです。 これは継体と敏達がほぼ同年代に存在した傍証です。 継体王朝と欽明王朝は同時に存在し、最終的に欽明王朝が継体王朝を併吞したと 思われます。 しかし、その欽明王朝(=蘇我王朝)も奈良時代の天武王朝とは別言語を話す人々と 推定されます。 平安京が1100年続いたことから推察すれば、現皇室は桓武天皇の末裔であろうことは ほとんどの人が異論がないと思います。 その桓武の父光仁の祖父は天智ですから、現王朝の直系の祖先は天智どまりではないか? ということです。 これにも傍証がいくつかあり、皇室の私的菩提寺「泉涌寺」は天智を初代としています。 百人一首の有名な1番「秋の田の」天智天皇からはじまり、100番順徳天皇で 終わっています。 つまり、日本書紀は継体・欽明時代を故意にゆがめたのではなく、 古い木簡に書かれた他国の言語を解読しきれなかった結果であると私は思っています。
2013/03/23
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ちょっと閑話休題で少し前ですが、2月2日に不破の関を訪れました。古代史妄想家としては、近くの関ヶ原より不破の関という感じで、戦国時代も好きなのですが、古代史にとりつかれた者としてはやはり不破の関のほうがプライオリティは高いです。ただ、歴史は繰り返すというか、豊田有恒氏は天智天皇を豊臣秀吉大友皇子を豊臣秀頼天武天皇を徳川家康になぞらえました。なるほどそういえば壬申の乱も、大友皇子方の蘇我氏の度重なる裏切りが大海人皇子側に有利に働き、逆転大勝利というシナリオになっています。関ヶ原の戦いも小早川秀秋の寝返りが東軍に勝利をもたらせた・・・が通説です。うどんのおつゆが関ヶ原を境に薄い濃いがはっきり分かれますが、関ヶ原こそ昔からの分水嶺なのでしょう。当時は不破の関より東を「関東」と呼んだようです。(中部地方も)また、奈良や京都が首都の時代ですから、「関西」と呼ばれるのは明治以降のようです。それまでは「上方」「畿内」だったようです。時代時代で当然「関」の位置も役割も遷移するでしょうから、今後も「関西」「関東」の定義も変遷するでしょう。今回は全然妄想でもなんでもなく、ごく普通の感想文でした。閑話休題ということで・・・・
2013/02/15
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前回は舎人親王の父親天武天皇も、母方の祖父天智天皇も傍系皇統だったのではないか?と疑惑を持ちました。それだけであれば、正式な皇統は持統・元明・元正とつづく女帝が正式皇統であり、舎人親王が天皇になれなかった理由も納得できます。ひとつ残された疑問は息子の大炊王が淳仁天皇になったことです。この事実が、天智天武傍系皇統説のアキレス腱なのです。淳仁天皇はこの藤原氏隆盛期に藤原氏の血を引かない天皇として即位しました。もっとも藤原仲麻呂が自分の亡き息子の嫁(粟田諸姉)をあてがうなどして、操り人形化されてはいましたが、粟田諸姉も藤原氏ではないわけですから、藤原氏は淳仁天皇の子供の外戚とはなりえなかったわけで、理解に苦しみます。ところで、淳仁天皇は舎人親王の57歳の時の子供です。ちなみに、舎人親王自身、天武天皇45歳の時の子供です(天武天皇633年生まれ説を採った場合、622年説だと54歳)淳仁天皇は舎人親王の実子でしょうか?私は大変無理がある年齢設定と思います。天武-舎人-淳仁の親子関係です。私の仮説はこうです。1.舎人親王は天武天皇の実子ではなく、藤原氏の血を引いている。2.淳仁天皇も舎人親王の実子ではなく、正当な皇統の血を引いている。この仮説が立証できれば、A.舎人親王の藤原氏よりの行動B.なぜ舎人親王は天皇になれなかったのかC.なぜ淳仁天皇は藤原氏の外孫ではないのに天皇になれたのか?の疑問が一気に解決します。チャレンジするだけの価値はありそうです。
2013/01/29
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前回は舎人親王の父親の天武天皇について私見を若干述べました。今回は引き続き、その天武天皇と皇子たち&その母親について考察したいと思います。妃・夫人とその皇子1.持統天皇=皇后(草壁皇子)2.大田皇女=天智の娘(大津皇子)3.大江皇女=天智の娘(長皇子・弓削皇子)4.新田部皇女(舎人親王)ここまでが皇族で妃です。次に夫人5.五百重娘=藤原鎌足の娘(新田部皇子)6.大蕤娘=蘇我赤兄の娘(穂積皇子)次に嬪(ひん)7.尼子娘=宗形徳善の娘(高市皇子)最後に宮人・・・奥さんにもずいぶんランクがあるようで、現代では差別として叩かれそうです。8.カヂ媛娘(カヂは木偏に穀)- 宍人大麻呂の娘(忍壁皇子・磯城皇子)つまりこの時代はまず奥さんの出自に高い皇子順に皇位継承順位が決まっていたわけです。大津皇子は天武天皇崩御後、謀反の疑いをかけられて処刑されます。これは草壁皇子を天皇にするための持統天皇のワナだったのではないか?とよく言われます。しかしその草壁皇子も28歳で病死します。当時天皇になれる年齢資格が30歳という不文律があったので、30歳になっていれば天皇になれたはずだ・・・というわけです。順位からいけば、この時点で長皇子が有力候補でなければなりません。たしかに長男の高市皇子は健在で壬申の乱における実績もありましたが、いかんせん血統でははるか下位なのです。実際に天皇になったのは皇后の持統天皇でした。日本書紀はさらっと書いています。もちろん、推古天皇の時も30歳に到達した皇子が不在(聖徳太子が18歳)だったので暫定皇位という意味合いで敏達天皇の皇后が推古天皇になりました。持統天皇即位もこの時と同じ条件である。というのが大方の意見(学会定説?)です。しかしここでもひっかかることがあります。「持統」というおくりなです。血統(皇統)を維持した、という名前だからです。うがった見方をすれば、もし高市皇子なり長皇子に天皇の位が行ったら、皇統を保持したことにはならかったからである(?)となります。天武天皇の出自も謎が多く、正当な皇位継承者ではなかった的な記述はよく見受けます。一般的には、平安以降の感覚からすれば天智系統が正当であり、天智の娘である持統が皇統をつないだのだ的な意見が多いです。では、大江皇女の皇子たち(長・弓削)ではダメだったのでしょうか?またまた一般的な意見で、アンド持統天皇は自分の血を引く者だけに天皇になってほしかった。と結論づけられます。ですから、天智系統は平安以降のあとづけ理由ではないでしょうか。天智娘たる持統でなく、持統そのものでなければ皇統は維持できなかったとするべきではないでしょうか・・・・ずばり私は持統天皇を天智天皇の実子と思いません。持統天皇は645年生まれになっていますが、あの有名な大化の改新が645年でその直近に天智天皇(中大兄皇子)は持統天皇の母親(遠智娘)と結婚しています。1月に結婚して12月生まれならいいのですが、実際は持統天皇の母親は乳娘(ちのいらつめ)=孝徳天皇の妃、で大化の改新よりずっとあと孝徳天皇崩御後にちのいらつめは天智天皇の妃に加えられ、尊敬語の「お」がついて「おちのいらつめ」に昇格したのです。つまりその論理から、持統天皇がつなぎたかったのは天智系統ではなく、孝徳系統となります。持統天皇即位時は天智も天武も傍系皇統であった・・・ということです。
2013/01/22
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今回は舎人親王の父親の天武天皇について私見を述べたいと思います。日本書紀では天武天皇(大海人皇子)は天智天皇の同母弟と記されています。系譜上は天智天武両帝は舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)との皇子ということになっています。だったら「同母弟」という表現はちょいと引っかかります。「同父母弟」でないでしょうか。「同母弟」という表現だと、母親は同じですだけなので、父親が同じとは限りません。まして、現代でも女性は結婚すれば姓が変わりますから、男系重視だったわけです。ということは、1.同母弟だから父親は違う。2.天武天皇の時代までは「母系重視」だった。どちらかになります。1.は斉明紀の序文に「斉明天皇は、初めに用明天皇の皇子、高向王に嫁して漢皇子(あやのみこ)を生めり」というくだりがあります。このことから、天武天皇は天智天皇の同父母弟ではなく、異父兄であり、大海人皇子となる前には漢皇子と呼ばれていた。という説の根拠となっています。2.の説は上古、卑弥呼の時代から実は、倭国は女王が常に君臨していたではないか?という説の根拠になっています。この場合は舒明天皇は斉明天皇の婿さんということになりますから、天武天皇は舒明天皇の実子という可能性も残ります。いずれにしろ、奈良時代は「女帝の時代」といってもいいほど女性天皇を輩出しました。それが桓武天皇平安遷都とともに女帝も仏教重視政策も途絶え今日まで男性でなければ天皇になれない伝統が続いているからです。(江戸時代女性天皇2名輩出されましたが)つまり男系天皇を目指した「天智」女系に揺り戻した「持統」ということになるかもしれません。間に挟まった「天武」は?平安時代以降、無視されています。これが、天武天皇の孫がことごとく臣籍降下したことと無関係とは思えません。やはり天武天皇は天皇になれる資格が不十分だったのではないかということです。やっと本題に戻ります。そんな「わけあり天皇」である天武の皇子が誰一人天皇になっていないことはある意味当然だったのかもしれません。高市皇子初め、舎人親王ら天武の皇子が「太政大臣=臣下として最高位」にとどまらざるを得なかったのではないか?です・・・・
2013/01/20
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前回は舎人親王の血統についてこだわり言及しました。血統の点から(父&祖父母が3人天皇&子が天皇、つまり1親等内に天皇が5人いる)どうみても天皇にならなかったのはおかしい。と言いました。息子が天皇になった時点で天皇と同等のおくりなをされています。しかし、舎人親王自身は藤原氏の血統でないのに妙に藤原氏に味方したり謎の行動も多いのです。確かに、日本書紀の編集方針には藤原不比等の意向が大きく働いていたことでしょう。もともと帝紀と旧辞の編集(日本書紀の原型)を命じたのは川島皇子と忍壁皇子です。これは681年のことですから舎人親王6歳ということになり、到底日本書紀総責任者にはなれません。日本書紀の編集に思いのほか時間がかかり天武天皇の皇子(川島皇子は天智天皇の息子ですが)がつぎつぎ薨去し、皇族の長老たる舎人親王に名誉職が回ってきたと考えるのが大多数の意見です。ですから私が「日本書紀の総責任者」とくどくど言うのは、まとはずれかもしれません。しかも「血統・血統」としつこく言うのも果たして正解なのだろうか?という疑問は常に抱いています。なぜそのようなことを言うかといえば、舎人親王の血統(系図)は正しいのでしょうか?本来は、親族に天皇はいなかったのではないでしょうか?舎人親王は死後「天皇」と「太政大臣」を贈られています。天皇は息子の大炊王が淳仁天皇になったので死後贈られました。死後すぐに太政大臣が贈られました。太政大臣とは臣下最高位ですが、けして天皇にはなれない人物の最高位でした。大友皇子や高市皇子が太政大臣でした。彼らは母親が皇族でなかったために天皇になれませんでしたが、能力があったので臣下として最高位の太政大臣だったわけです。つまり舎人親王はなんらかの功績で「天武」の皇子になれたのではないでしょうか?舎人親王の夫人は「当麻氏」以外の夫人の出自は不明です。生涯、藤原氏の味方だった舎人親王。しかし藤原氏の血縁ではなかった舎人親王。仮に舎人親王が藤原氏の血縁だったとしたらなぜ天皇の親族に改ざんされたのか?(そりゃ藤原氏血縁より天皇血縁のほうがいいにきまってますが)舎人親王の子孫は清原氏として貴族として栄えました。天武天皇の皇子は孫の代にほとんど臣籍降下しています。これは天武天皇の出自までさかのぼらなければ謎にはたどり着けません。きっと。
2013/01/18
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久々の更新です。昨年末に宣言しましたように、今年は日本書紀の編集総責任者である舎人親王について、掘り下げてみたいと思います。舎人親王の父は天武天皇(壬申の乱の勝者=大海人皇子)母は、天智天皇(中大兄皇子)の娘、新田部皇女。つまり父が天皇、母方の祖父が天皇です。さらに天武天皇の父は舒明天皇、母は皇極(重祚して斉明)天皇ですから、父方の祖父母ともに天皇というすごい血統です。さらに舎人親王の死後、七男の大炊王が淳仁天皇になっています。崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)とおくりなされました。聖徳太子がどうして天皇になれなかったのだろう?とよく取り上げられますが、血統的には聖徳太子より舎人親王の方が上です。ちなみに聖徳太子は父親が用明天皇、祖父が欽明天皇ですが、母方は蘇我氏で皇族ではありません。子孫にも天皇になった皇子はなく、どうみても舎人親王の方が血統は上なのです。しかし、舎人親王はお札になっていないので、昭和を生きた年代の人の1万円(5千円)札といえば聖徳太子ですから認知度は聖徳太子の方が、はるかに上です。単純に聖徳太子と比較されては舎人親王もいい迷惑でしょうが、調べれば調べるほど舎人親王が天皇になれなかったことは不思議極まりないのです。聖徳太子の場合は、その偉人伝説に加え推古天皇長寿による影響で天皇になれなかったという悲劇的(判官びいき)状況もあり、ヤマトタケルや源義経のように日本人の心情にマッチするのでしょう。ところで、平城京に遷都した元明天皇は孫の首皇子(のちの聖武天皇)を皇位につけるために、未婚である娘の氷高皇女(のちの元正天皇)に皇位を譲ります。氷高皇女は母は、元明天皇で祖父は天智天皇になりますが、父が皇太子のまま早世した草壁皇子(天武の息子)ですから血統的には舎人親王の方が上です。さらに舎人親王のほうが年長、しかも男だったわけです。これには、藤原氏の意向もあったことは無視できません。首皇子(聖武天皇)は藤原不比等の娘(宮子)の子ですから、のちの藤原外戚政治の先鞭となるわけです。だったら舎人親王が氷高皇女を妻にし(皇后)暫定皇位ということもあったのではないでしょうか?さらに謎なのは、舎人親王は皇族を敵に回しても藤原氏に味方しました。舎人親王自身、藤原氏の血は引いていないのにです。藤原血縁でないのに藤原氏よりで、皇位につけてもらえなかった。とても謎です。もっと違った真実が隠れている気がしてなりません。古代史ファンのみなさんや古代史研究家の諸先生方が、スルーしていた「舎人親王」。掘り下げてみようと思います。
2013/01/17
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今年の7月に3年ぶりに古代史妄想を再開し、当初は毎日のように更新していたのですが、現在は息切れ状態です。ですから、私は長距離走が苦手です。総括すると、今年の妄想はまさに暴走でした。最初は天武天皇の正体を新羅王族の金多遂としていましたが、途中から金ユ信に変更したことが最大の汚点かもしれません。天智天皇=金春秋、持統天皇=孝徳天皇の娘は、ぶれていないのですが、大友皇子やら変更がかなり入ったり、大友皇子の子の葛野王にいたっては、正体が決められなかったり、散々な年だっかたかもしれません・・・・その中で、日本書記編集責任者の舎人親王に関する妄想は結構前進したかと自負しています。来年からはそんなに欲張らず、地道に舎人親王ネタから極めて行きたいとおもいました。
2012/12/25
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なんか月一アップですみません。もう先月の話ですが、三国史記新羅本紀を買いました。三国志ではなく、朝鮮半島の三国史記です。AMAZONで買ったら、おすすめ「百済・高句麗本紀」もどうですか?としつこいこと・・・・結構アマゾンって一回買うと類似品をガッツリ勧めてきますね・・・なぜ3000円もする本を買ったのか?というと常々、天智天皇=新羅武烈王 と思っている私が、原点である三国史記を読まないと片腹痛いと思われないか?という強迫観念があったからだと思います。現在の韓国人は高句麗・百済・新羅の3国では新羅好きが多数と聞きます。最終的に朝鮮半島を統一したからでしょう。しかし、三国史記成立の1300年代は、高麗かた李氏朝鮮に変わった時代ですから、編者の金フシキは新羅があまり好きでないようです。新羅が滅びたのは、女帝をたてたせいだとか、けっこう男尊女卑的な意見が多いので、あまり金フシキは好きにはなれないなあ と思いました。
2012/12/03
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昨日は、「天武天皇の年齢研究」の著者様にすっかりご馳走になってしましました。ありがとうございました。 次回作、「継体大王の年齢研究」も期待しております。昨日の席でオープンカレッジの資料を拝見しましたが、その中の怨霊は奈良(平安?)以降だったという説にやや疑問を抱きました。梅原猛氏は「聖徳太子怨霊説」を唱えているので、飛鳥時代にもあったのではないか?確か、井沢元彦氏の「逆説の日本史シリーズ」では、「徳」がつく天皇はこの世に未練(恨み)を残して死んだ、説を展開されています。聖徳太子(天皇ではないですけど)、孝徳天皇、称徳天皇、崇徳天皇、安徳天皇、順徳天皇などなど。その井沢氏は「扶桑略記」の「天智天皇死亡記事」記述にかなりの信ぴょう性を見出しており、その小説「日本史の反逆者~私説壬申の乱」 においては、天智天皇が大海人皇子に暗殺されたとしています。ならば、ここで、天智天皇はなぜ怨霊にならなかったのでしょう?それは天智の皇子「弘文天皇」大友皇子にも言えます。私は、山科の地にて天智天皇は殺害されたのではなく、新羅(文武王救援)か鹿児島(枚聞神社伝承)へ逃走したと見ます。仮に譲って、扶桑略記の記述を遵守すると、天智天皇は怨霊となりその祟りで、天武系の皇統は断絶したのかもしれません。だったら「天智」でなく、「天徳」とか「智徳」とかっていう謚になったと思うのです。ずばり天智の叔父に「孝徳」がいたわけですから、「天智」は怨霊ではないということになります。ですから、扶桑略記をはじめとする「天智天皇山科にて失踪」は暗殺ではなかったと結論づけたいです。ところで、壬申の乱で敗れ、自害した大友皇子は怨霊になったのでしょうか?息子の大友与多王は父の鎮魂の三井寺を建立しましたから、怨霊阻止の念はあったかもしれません。
2012/11/03
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久々の更新です。 正直古代史妄想スランプでした。気分転換に大河ドラマ「平清盛」を見て感じたことをつづれなるままに・・・・清盛の時代は平安時代末期ですから、都は京都(平安京)です。平安京に遷都した経緯はご存じのとおり、仏教勢力からの離脱が主な目的でした。奈良平城京も京都平安京の盆地です。盆地は自然の要塞の意味合いもあったでしょう。清盛は一旦兵庫福原に強制遷都します。世が平穏だと都は港になるようです。湾岸は交易には適しますが、戦争には不利です。清盛も晩年、もう戦乱はないとふんだのでしょう。ないと思いたかったかもしれません。福原という都は交易には適していましたが、戦争・特に防御には弱い側面があります。ですから、桓武以前の天皇はそのほとんどが奈良近辺に都を置いたとされるわけです。大化の改新以後、孝徳天皇が難波に都したのは一種の賭けだったかもしれませんし、父・祖父の所領に対する思い入れもあったかもしれません。 頼朝は鎌倉に幕府を置きましたが、鎌倉平野は狭く、盆地に近い機能だったと思います。尊氏が京都に幕府を置いたのは、その政権が不安定だったということの証明でしょう。家康が鎌倉でなく、江戸に幕府を置いたのは、平和への確信もあったでしょうし、鎌倉では手狭感もあったと思います。清盛も頼朝も後継者に恵まれなかったことは不運だったでしょう。信長・秀吉にも同じことが言えそうです。信長はまだまだ戦乱を想定しての安土城でしょうし、秀吉は平和を期待しての大坂城でしょう。こうしてみると、清盛も秀吉も平和への読みがあまっかたかもしれません・・・・
2012/10/31
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かと思っていたら2ちゃんねるにこんなスレがhttp://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/history/1254303319/でも超希少意見でしょう。中を見ると、「年代が違う!」のひとことで袋叩きにあっています。「名前が似ているだけで別人です」と言い切っています。この人たちは、現代の感覚のみで物事を判断しています。それでは古代史の謎は永遠に解けません。古代における「名前」は非常に重要でナーバスな問題でした。大伴氏が天皇の名前とかぶるから伴氏に変更したりと、やんごとなきお方の名前とかぶることは厳禁だったわけです。推古天皇の即位前は「額田皇女」そののちに誕生したとされる天武天皇の妃(采女?)で身分下位ランクとされる「額田王」が軽々しく「額田」を名乗ることはできません。これはまぎれもなく、同一人物か同格でなければなりません。この時代同格という概念があったかどうか。ところで、推古の配偶者:敏達(渟中倉太珠敷)と額田王の配偶者:天武(天渟中原瀛真人)ヌナクラとヌマハラ渟中という珍しい漢字も一致するのです。そりゃあ、現代ではご主人と奥さんの名前が全部一致する場合もあるでしょう。何度もいいますが、天皇と名前がかぶったら臣下は姓を変える時代です。他人の空似でなく、同一人物としない限り、古代史研究は先に進みません。以前山科誠氏はその著書で、欽明-敏達-用明-崇峻-推古の系譜は架空で実際の天皇は蘇我氏の稲目-馬子-蝦夷-入鹿と比定しました。私は、その説にほぼ賛成で、少し違う点は、欽明-敏達-用明-崇峻-推古の系譜は架空ではなく舒明-天武-孝徳-武烈-額田王(=皇極?)の焼き直しではないか?と思っている点です。根拠は?すべて和名の酷似性です。欽明(天国排開広庭)と舒明(息長足日広額) ヒロニワとヒロヌカ敏達(渟中倉太珠敷)と天武(天渟中原瀛真人)ヌナクラとヌマハラ用明(橘豊日)と孝徳(天万豊日) タチバナトヨヒとアメヨロズトヨヒ崇峻(長谷部若雀)と武烈(小長谷若雀)ハツセベワカサザキとオハツセワカサザキ 推古(豊御食炊屋姫尊)と皇極(天豊財重日足姫天皇)トヨミケカシキヤヒメと アメトヨタカライカシヒタラシヒメです。蘇我氏が倭国大王であったことをごまかすために、舒明からつづくそのあとの系譜を水増しして過去へとばしたのです。もちろん編纂者は、60年周期の干支でしか年代を示していませんから「オレはうそはついてない!」と主張するでしょう。未必の故意ってやつでしょうか?
2012/10/07
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古事記においては、24代仁賢天皇から33代推古天皇までは、近代の位置づけであまり詳細な記述はありません。あたかも712年の元明天皇献上に間に合わせるためにはしょったのだ説もあなどれません。そのせいか、日本書紀では蘇我馬子が「弑してたてまつった」崇峻天皇のことも、4年の治世で亡くなられた、しか書いてないのです。これはどちらの記述に信頼がおけるのか?江戸時代でも将軍様の不都合な死は、「病死」扱いで片づけて、後世疑惑がもたれています。倭国よりの編集だった古事記が、崇峻天皇の死を暗殺としたくなかったという感情があっても不思議ではありません。ただ古事記の記載に落ち度がないと仮定すると、日本書紀の馬子→崇峻暗殺事件は単純に臣下による主君暗殺事件ではなく、天皇もしくは皇太子による有力者暗殺事件の示唆ではないか?との疑問がわきます。たとえば、1.中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺2.淵蓋蘇文による高句麗栄留王の襲撃・暗殺3.蘇我入鹿による山背大兄王襲撃4.蘇我馬子&聖徳太子による物部守屋射殺5.中大兄皇子による古人大兄皇子誅殺6.中大兄皇子による有間皇子処刑私は以前4.の守屋=崇峻説でしたが、他の説はどうなのだろうか?と思い始めました。蘇我→王を殺害という点では、2.淵蓋蘇文→栄留王3.入鹿→山背大兄王も当てはまります。私は淵蓋蘇文(日本書紀では、いりかすみ)=入鹿と思っています。すると2.=3.かもしれません。たしかに蘇我馬子=蘇我入鹿はどうなのでしょう。馬子(うまこ)=厩戸(うまこ)(聖徳太子)=有間皇子(うまこ)と思っている私は、せいぜい崇峻=物部守屋かもしれません。ところで、崇峻天皇(長谷部若雀天皇=はつせべのわかささぎのすめらみこと) 武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊=おはつせのわかさざきのみこと) 雄略天皇(大泊瀬幼武尊=おおはつせわかたけるのみこと)まあ、崇峻=物部守屋こじつけとして、武烈・雄略は暗殺されたのかもしれません。臣下に。
2012/10/05
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久々の更新です。飛鳥時代の闇が多すぎで、気分転換に少し過去へ抜けてみました。26代継体天皇は応神天皇五世孫とされていますが、継体天皇は即位前は、男大迹王(おおどのおおきみ)です。祖父に意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)がいます。これはどうみても同一人物としたほうが自然です。ここで、26代継体天皇を15代応神天皇の孫としてしまうと、16代から24代までの系譜を挟みづらくなるので、祖父と父を水増しした可能性があります。もうひとつ。その応神天皇の和名は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)。垂仁天皇の第一皇子に 誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)がいます。これはさすがに同一人物でしょう。ではなぜそのような水増しが横行したのか?ということです。まず、中国・朝鮮半島に対し、古い歴史を持っていることを顕示したかったこと。次に、日本書紀は「日本国」「倭国」「百済国」の歴史の寄せ集めですから、同じ人物でも当然各国の言語による呼称の差が発生します。それが、オオドとオオホド、ホムダワケとホムツワケという微妙な誤差であらわれたわけです。よく聞く説は、倭の五王に16代仁徳から21代雄略を比定したり、神武天皇を卑弥呼の少し後、3世紀中葉の人物としたり(日本書紀上は紀元前660年という考古学上全く認められない主張をしていますが・・・)していますが、私説は、以前継体天皇の妃と敏達天皇が妃が姉妹であるように、もっと年代は圧縮されています。これで、さらに応神天皇が垂仁天皇の曾孫でなく、皇子。継体天皇が応神天皇の玄孫でなく、孫とすると、私は敏達天皇と継体天皇が同時期存在(7世紀)としますから、応神天皇はだいたい6世紀後半、垂仁天皇は5世紀後半から6世紀前半の人になります。ところで、倭の五王は413年に中国に朝貢をはじめ502年まで記録があります。倭王武は「雄略天皇=ワカタケル=若武?」とされてきましたが、単純に倭王武=神武かもしれません。諸々の研究で、神武=垂仁説もあります。(天皇皇族実録 vol.1 全一巻 (神武天皇実録-垂仁天皇実録)ISBN 978-4-8433-1957-4 C3321) 真説日本誕生・卑弥呼を攻めた神武天皇 (ムックセレクト) [新書] ISBN-13: 978-4845403745上記は一例です。 倭の五王がどうしても歴代天皇に比定できないのはそのためです。日本書記は時間軸のみの修正で、あらゆる古代の謎が、矛盾なく説明できます。
2012/10/04
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ここで日本書紀における親子関係を整理してみます。1.天智紀に「天智天皇は舒明天皇の皇太子である」とあります。2.天武紀に「天武天皇は天智天皇の同母弟である」とあります。(同父母とないところがひっかかります・・・) 以上から系図は舒明と皇極の皇子が中大兄(天智)と大海人(天武)ということになっています。一方、新羅王家の関係ですが、金官伽耶(任那の流れ)最後の王、仇衡王(きゅうこうおう)の子が、新羅で角干という官位をもらった、金武力で、その子が金舒玄、その子が有名な金庾信将軍で、舒玄の子が、庾信になります。舒明の子が天武です・・・・ところで、金舒玄の娘(庾信の妹)が新羅武烈王(金春秋)の皇后(文明皇后)になります。蹴鞠出会いエピソードは日本と新羅双方に存在し、日本側は、中大兄皇子と中臣鎌足。新羅側は、金春秋と金庾信です。日本書紀では中大兄と舒明天皇の関係は明示されてはいませんが、通説では舒明天皇の皇子の葛城皇子が、16歳のときに「開別皇子」として弔辞を読み、その後中大兄皇子として大化の改新、孝徳天皇の皇太子となります。以降、日本書紀では「中大兄皇子」の呼称は確認できません。舒明天皇は百済宮で崩御されましたから、百済王兼務なり百済在住なりだったことでしょう。中大兄は滅亡百済復興のため尽力します。天智政権(近江朝)になっても、旧百済高官が政府要職を占めていました。通説は、蹴鞠エピソードも新羅本紀がパクったとします。確かに単純に「中大兄皇子=金春秋、中臣鎌足=金庾信」と比定するには厳しいものがあります。これは日本書紀が「中大兄皇子と武烈王(金春秋)を同一人物と勘違いするように仕向けた」 のではないでしょうか?私は、このことも手伝って、天智=武烈王(金春秋)と思っていましたが、当然中大兄=天智と思っていたからです。天智(天命開別=てん・いん・ひら・わけ=きんはるあき)もさることながら、なぜ白村江で大敗を喫しても日本が滅亡しなかったのか?です。つまり倭国が滅亡して新羅系の日本国が武烈王を迎え、天智としたほうが、矛盾なく当時の情勢を説明できるからです。では、なぜ天智は旧百済高官を優遇したのでしょう?当時の新羅は唐との最終決戦を控え、人材を占領軍として派遣する余裕がありませんでした。新羅としては、旧倭国民・旧百済民・旧高句麗民が唐に味方することだけを阻止すればよかったのです。案の定、朝鮮半島では旧百済民・旧高句麗民は新羅に手を貸し、唐による半島支配を阻止しようとしました。天智としては、日本列島の内政に旧百済民らを投入することによりガス抜きと新羅憎しの感情を緩和させたわけです。ですから、「天智天皇は百済遺民を重用したから百済出身である」などの短絡的な意見はいかに当時の政情を理解していないかわかります。現代でも、日本出身の李明博韓国大統領は、私情による反日政策をとり著しく国益を損ねています。いかに古代の金春秋のほうが、私情を捨て国の存続・国益優先の政策をとったかがわかります。 話が飛びすぎました。舒玄=舒明はどうなんでしょう?舒明とは淡海三船が後世につけた漢風諡号ですから、天武=金庾信を示唆したかったのかもしれません。舒玄は新羅の角干だったので、倭国王(舒明)兼百済王(武王)兼高句麗王(栄留王)の舒明と同一人物だったとは考えにくいですが、新羅的には傍系王族だけど他国では国王級だったぞ、みたいな自国優位論かもしれません。
2012/09/27
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9月20日に、中大兄皇子とは孝徳天皇の皇子、有間皇子ではないか?と言及しました。理由は、孝徳紀に中大兄を皇太子としたとあり、皇極紀や斉明紀には皇太子を誰にしたとの記録がないからです。天智紀には、天智天皇は舒明天皇の皇太子だったとあります。中大兄皇子は、まず蘇我入鹿を誅殺。これは新羅武烈王が淵蓋蘇文を暗殺した話の焼き直しと思っていました。それとは別に、中大兄皇子=有間皇子=うまこ=蘇我馬子とすると、馬子は崇峻天皇を暗殺しますから、中大兄=有間皇子は崇峻(長谷部若雀)=武烈天皇(小長谷若雀)=雄略(大長谷若建)を暗殺したことになります。つまり日本書紀は、三韓の歴史も倭国の歴史もタテにつないで、日本国の歴史を古く見せようとしました。今回の登場人物はほぼ同時期に存在したということになります。雄略天皇は5世紀の人ではなく、7世紀の人です。雄略天皇の妃で、清寧天皇の母は、葛城韓媛です。蘇我氏と敵対していたわけですから排仏派と思われます。葛城皇子とも近い人たちだったのでしょう。すると新羅系かもしれません。
2012/09/26
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名前が同じだからといって、同一人物とは限らない。ごもっともです。このころの唐をとりまく周辺諸国は、唐の王の名前とかぶらないように注意しました。だからといって、新羅と倭の力関係は微妙だったと思いますが、もし仲が悪ければなおさらです。嫌いな国の王様の名前をつけるでしょうか?ていうか、善徳女王は謚です。死後おくられた尊号です。日本書紀と三国史記の年代が確かであれば、蘇我善徳が先です。なぜ、新羅女王に倭国豪族の名前をつけたのでしょう?明確な説明ができません。しかし、その事蹟は共通するものがあります。二人とも、「えじ」とよばれる高僧に命じて仏教を厚く保護し、有名な寺院を建立します。蘇我善徳はその名が示すように、蘇我氏にしては立派な名前をもらっています。つまり、新羅善徳女王との関係を暗示したのかもしれません。あ、逆です。善徳女王は蘇我善徳にちなんで謚されたのです。やはり同一人物?蘇我善徳の父とされる蘇我馬子には娘(河上娘)がおり、崇峻天皇に嫁いでいます。崇峻天皇死後、聖徳太子の妃になったとされます。善徳女王の配偶者は飲葛文王です。飲葛文王が崇峻天皇?善徳女王=河上娘とすると河上娘は聖徳太子の妃ですから、聖徳太子=蘇我善徳とすると、善徳女王と蘇我善徳の婚姻関係が成立するのではないでしょうか?生前「徳曼」と呼ばれた善徳女王ですが、死後、配偶者の「善徳」の名前をもらった?蘇我善徳自体、蝦夷と同一人物だとか入鹿と同一人物だのの説があり、飛鳥寺建立以外謎の人物でした。もしかすると、蘇我善徳=河上娘で女性だから仰々しく記録できなかった?あれだけ蘇我氏を悪く書いた日本書紀。しかし、数少ない善人として描かれている蘇我善徳。日本書紀編纂者の気まぐれか、天智=金春秋の先代である善徳女王の事蹟を蘇我の業績に組み込んだのはまさに謎です・・・・
2012/09/25
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敏達天皇の皇后は「広姫」で、息長真手王の娘です。息長真手王の出自は不明で、応神天皇の孫の息長沙禰王の子であるとの文献もあります。 wikiによると 娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘が「敏達天皇」の皇后・広姫であるというが、記紀などによって「継体」の生年は西暦450年、一方「敏達」の生年は西暦538年であり、娘が二人の大王に輿入れしたとは到底考えられない。伝承が混乱しているのか、或は記紀の編集者が意図的に系図に手を加えた可能性が強い。ということは・・・・私の妄想癖に火がつきました。私は1.日本書紀の記述は正しい(はぐらかしはある)2.年代は60年サイクル等でぼかしてある。と思っているので、継体天皇の存在時期を繰り下げるか、敏達天皇の存在時期を繰り上げるか、です。私は、さらに欽明-敏達-用明-崇峻-推古の記事は舒明-天武-孝徳-武烈(武烈王=天智)-皇極(斉明)の焼き直しではないか?とかんぐっているので、敏達天皇の治世はもっと後になります。そこに継体天皇が参加すると、さらに大変なことになります。 このころは「任那」をめぐって百済・新羅が争奪戦を行っていた時期です。 諸説ありますが、私説は 1.ピュアな倭国王の流れをくむ「継体天皇」 2.高句麗から倭国に侵入した「蘇我氏」 3.百済から仏教とともに降臨してきた「欽明=舒明天皇」 4.新羅王族の金春秋「天智」 5.任那王族の末裔、金庾信「天武」 がほぼ同時期に入り乱れてしのぎを削ったのではないか? 日本書紀の編者はその散逸した文献の年代を、作為的(偶発的?)に古く見せるため、過去へ過去へとタテに並べたと思います。 もしかすると、卑弥呼の活躍3世紀倭の五王の活躍5世紀で、神武天皇をそのあとの6世紀くらいの人とすると、1代4~5年のサイクルで天皇(当時の呼び方は大王)が入れ替わり、妥当性のある即位期間になります。 旧唐書には「日本はもと小国なり、大国倭国を併せたり」とあります。本当かもしれません。神武から武烈まで日本国王でほそぼそやってきたのかもしれません。 継体から斉明までが混沌時代で、一旦天智・天武で日本統一ときますが、持統~称徳までがまた移行期。 光仁以降桓武でやっと男王制安定になります。
2012/09/24
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昨日、斉明天皇(皇極)はもう少し若かっただろうと言及しました。その理由1.37歳で舒明天皇と再婚し、天智・天武・間人皇女を生んだとされる。 7世紀でこれはきついのでは?2.高句麗王の宝蔵王と同一人物とすると(斉明天皇は宝皇女)、682年没になる。そして、極めつけは3.664年に嶋皇祖母命(斉明天皇の母親。天智天皇の祖母のためこういった呼称か?)が、亡くなったことです。 享年68歳とされる斉明天皇の母親っていくつで亡くなったの?ということになります。 山科誠氏の著書によると、斉明天皇と嶋皇祖母命は同一人物で、中大兄皇子が百済に行きたくないので、斉明天皇は死んだとウソをついた、その4年後の本当に死んだので、母に間違うように誘導した。とあります。私は日本書紀がウソをついた説はあまり採用したくないので、ここは本当に斉明天皇の母親がなくたっと思いたいですが、そこは矛盾があり、宝蔵王として唐に連行されたと私は言っているので、斉明天皇が九州で崩御は結果的にウソになってしまいます。日本書紀はあくまで日本目線で書いてあるので、日本から行方不明になったらイコール死んだという苦しい言い訳になってしまいました・・・・
2012/09/23
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以前、加治木義博氏の著書の中で、「斉明天皇と高句麗の宝蔵王と百済の扶余豊璋は同一人物」なる説を読み、宝蔵王と扶余豊璋は女性だったのか?と驚いた記憶があります。確かに「斉明天皇」は生前そう呼ばれたわけでなく、即位前は「宝皇女or宝郎女」、即位後は、「天豊財重日足姫尊」です。「ほうぞうおう」と「ふよほうしょう」と「あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと」整理すると、1.舒明天皇が641年崩御後、皇后である皇極天皇(のちの斉明天皇)が即位しますが、舒明天皇は皇極天皇の父親の弟にあたるので、「姪」でもあります。叔父から姪への皇位移行。2.高句麗の宰相「淵蓋蘇文」は栄留王をクーデターで642年惨殺し、栄留王の「甥」の宝蔵王を王位につけます。伯父から甥への王位移行。3.百済の武王は641年に薨去します。息子の義慈王が跡をつぎますが、百済は滅亡。再興のために義慈王の兄弟の「鬼室福信」が日本に人質としてとどめ置いた義慈王の息子で「甥の扶余豊璋」を王にします。父から子へ、兄(弟)へ、そして甥への王位移行。つまり、倭国王&高句麗王&百済王であった「舒明天皇」は崩御に、姪の「宝皇女=宝蔵王」が倭国王&高句麗王になります。しばらくして百済は滅亡してしまうので、再興のため「宝皇女=宝蔵王=扶余豊璋」が百済へ向うという筋書きです。宝蔵王が682年薨去ですから、斉明天皇はもう少し若かったと思います。年齢的にも斉明天皇は天智天皇の実母ではなく、継母、天智は斉明の養子ではないかと思います。
2012/09/22
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ていうか、今日の歴史学会、古代史研究家、古代史のなぞとき本愛読家、ほとんどの人がそう思っているはずです。ほとんど、としたのは天智=新羅武烈王=金春秋説を支持しているのはごくごく一部の方だからです。 私の妄想の根拠を列挙すると1.舒明紀に葛城皇子を皇太子にした。2.皇極紀に中大兄が入鹿を誅殺した。3.孝徳紀に中大兄を皇太子とした。4.斉明紀には皇太子という名称しか登場しない5.天智紀に天智天皇は舒明天皇の皇太子である。とあり 時代がとんでいる。皇極や孝徳の皇太子だとは書いてない。おまけで、天武紀には大海人皇子は天智天皇の同母弟とあり、同じ父母の兄弟とは書いてない。つまり、皇極紀に突然「中大兄」が登場し、孝徳紀に「中大兄」が皇太子になったのです。われわれは話の流れで、孝徳紀の皇太子は後の天智と思い込んでいたわけです。中大兄の血縁関係を示す記述が他にないのです。もちろん有間皇子が皇太子だとする記述もありません。ところで、舒明天皇は641年に百済宮で崩御していますが、同じ年に百済の武王が薨去し、次の年に高句麗の栄留王(建武王)が淵蓋蘇文(日本書紀ではいりかすみ、つまり入鹿)に惨殺されています。ということは、少なくとも舒明天皇は百済王(武王)も兼務し、高句麗建武王も兼務していたことになります。新羅では、テレビドラマで有名な善徳女王の治世で、先代の真平王が薨去したのは631年でしたから、舒明天皇は新羅王は兼務していなかった可能性が高いです。栄留王の死後、淵蓋蘇文は栄留王の甥(姪?)の宝蔵王をたてます。宝蔵王は高句麗が唐に敗れたあと、唐に連行されますが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から<司平大常伯・員外同正>に任命されたとあります。その後、高句麗復興をはかったが失敗、681年に四川省に流されて、682年に死んだとあります。ところで、倭国では舒明天皇崩御後、皇極天皇(宝皇女)が即位します。皇極天皇は高句麗王も兼ねていた可能性があります。タカラヒメミコと宝蔵王(タカラクラオウ)です。さっき甥(姪?)と記述したのはそのへんの伏線です。では同時期の百済王は?義慈王で、新羅との戦争に敗北し、唐の長安に連行されその地で660年病死とあります。斉明天皇(皇極重祚)は661年に福岡で病死します。義慈王と宝蔵王は唐に連行され病死。斉明天皇は連行ではありませんが病死です。ひょっとしたら斉明天皇も連行された?日本書紀は天皇(倭国王ですが)が唐に連行された事実をごまかしたかったので、福岡から唐へ連行された斉明天皇を病死ということにし、倭国の歴史から退場してもらったと考えます。もしかすると義慈王は皇極天皇の王配(配偶者)で、長安に連行され、660年病死。皇極天皇は682年まで生き、四川で病死かもしれません。ということは594年誕生だと88歳ですから、もう少し若かったのではないでしょうか?なぜなら、宝皇女は37歳で舒明天皇と再婚しそれから葛城皇子、大海人皇子、間人皇女を生んだとされるからです。日本書紀はあまりにも女性が出産する年齢に無頓着すぎるのです。編集人に女性がいなかったからでしょう。女性目線からも出産年齢の妥当性を精査してほしいなと思いました。
2012/09/21
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葛城皇子(のちの中大兄皇子、のちの天智天皇)。日本書紀には、29代欽明天皇の皇子に葛城皇子。34代舒明天皇の皇太子に葛城皇子がいます。ところで、葛城王という人も3人います。1.敏達天皇の子2.天武朝の人3.美努王の子、のちに臣籍降下して橘諸兄となる。ここでも、また敏達と天武の共通点発見です。こじつけですが、「カツラギ」と「ハルアキ」は母音が一緒です。本人はハルアキと言っても記録した人がカツラギと聞き違えたかもしれません。こじつけはこれくらいにして、金春秋の父親「金龍春」の諡号は「葛文王」です。従来、葛城は大和葛城地方のこととされ、このへん一帯の領地をもらったのが、「葛城王、葛城皇子」とされてきました。もしかすると、そちらがこじつけで、新羅王天智が征服者として飛鳥に君臨したとき、父をしのび「葛」の「城」として命名したかもしれません。日本書紀の記述からも、葛城皇子=天智天皇は本当かもしれません。ところで、「中大兄」はどこへいったのでしょう?日本書紀の皇極紀で、中大兄は鎌足と入鹿をやっつけます。その後、皇極天皇は史上初の生前譲位を行い、(孝徳天皇)中大兄をたてて皇太子としたとあり、その後「中大兄」の名は出てきません。中大兄は孝徳天皇の皇太子だったわけです。従来、孝徳天皇の皇太子は「中大兄」でした。実子の有間皇子がいるのに不自然でした。ここでいう「中大兄」がじつは「有間皇子」だったとすれば、自然な摂理になります。え?有間皇子って中大兄皇子に殺されたのではないの?斉明紀では、有間皇子はあくまで天皇の命令で処刑されました。黒幕は中大兄説が有力ですが、日本書紀には書いてありません。つまり1.舒明天皇の皇太子は葛城皇子でした。2.皇極天皇は皇太子をたてていません。(斉明天皇も)3.孝徳天皇の皇太子は中大兄皇子でした。4.斉明紀では「皇太子」の記述しかなく、当然中大兄皇子のこととされてきました。もし、大化の改新(乙巳の変)が新羅でなく倭国でおきていたとしたら?中臣鎌足(鎌子)と中大兄皇子=有間皇子=蘇我馬子=聖徳太子が、血縁の蘇我入鹿(孫?子?親?)を暗殺したことになります。さすがにこれは考えにくく、新羅で647年におこったビドンの反乱をモチーフに645年に倭国にておこったことに勘違いさせるよう仕向けたのです。登場人物が不足したので、悪役=蘇我氏、善役=中大兄(聖徳太子は621年に死んでしまったので)となると孝徳=蘇我稲目、有間皇子=蘇我馬子 が蘇我入鹿、蘇我蝦夷を殺したことになります。さっき考えにくいと書きましたが、もし本当なら蘇我の内輪もめという結末になります。これが、大化改新に葛城皇子が登場しない理由です。私の提唱するように、「大兄」は皇子の長兄を表すでなく、高句麗の官職であれば、古人大兄と中大兄が同時存在してもいいことになります。
2012/09/20
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現在放送中のNHK大河ドラマ「平清盛」は、清盛が平家棟梁平忠盛の実子ではなく、白河法皇のご落胤説を採用しています。時代が下ると一休さんとか有名人や成功人は落胤説がつきまとうのでしょう。ところで、タイトルの藤原不比等の母の詳細が不明です。鏡王女説、車持与志古説です。不比等は竹取物語の5公のひとり車持皇子のモデルとされるので、平安時代は不比等の母親は車持与志古で、父親は天智天皇との認識があったようです。車持与志古は最初天智の側室で、後に中臣鎌足と再婚しますが、再婚前に不比等が胎内にいたという説が有力です。一方、鏡王女も最初「中大兄皇子」 の妃とあり、「尊卑文脈」では、不比等の母親は鏡王女とします。いずれにしろ、不比等は鎌足にとって変則的な連れ子(胎内連れ子?)だった説が最有力ということになります。ただ、ここも微妙な時間軸で、不比等659年生まれとすれば、白村江以前のことであり、実の父親は「中大兄」ということになります。ただ、私の説では天智=新羅武烈王、鎌足=新羅将軍金庾信ですから、不比等を新羅生まれとすれば、武烈王の実子ということになります。確かに、出世があまりにも遅い点、持統天皇の時代になってはじめて日の目を見ることから、倭国皇子の末裔がゆえにということも考えられます。あまりにも不比等は外交政策などが、ニュートラルで、唐より新羅よりのそぶりが伺えません。通説では、天智の娘、持統天皇と天智の忠臣鎌足の息子という関係になりますが、私の説は、持統天皇は孝徳天皇の娘で倭国の姫。不比等の父を「中大兄」 とすれば、倭国皇子の子で、倭国つながり。不比等の父を天智=新羅武烈王とし、養父を金庾信=天武とすれば持統天皇にとって不比等は義理の息子になります。ところで話が飛びますが、聖徳太子の母親は用明天皇死後、聖徳太子の兄と再婚します。義理の息子と再婚するのです。持統天皇と藤原不比等にも男女の噂はあります。ということは「中大兄」説より、「天智帝」説のほうが妥当性があるのかもしれません。
2012/09/19
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天智7年9月、同11月、8年9月、9年9月 阿曇連頬垂を新羅に使わす10年6月、同10月、同11月 以上 天智7年から10年まで6回にわたり、新羅は日本に貢物をしてくれます。通説では、天智は百済びいきで反新羅ですが、戦勝国新羅が敗戦国日本(実質は倭)に4年間で6回贈り物とは異常です。これは戦勝国と敗戦国の関係とはとても言い難い状況です。そうです。元新羅王で現日本の天智天皇のご機嫌伺いとすればまったく無理なく説明できます。そうです。中大兄皇子は百済救援のため白村江に軍団を派遣しました。そして負けました。日本書紀の天智紀には「中大兄」なる人物は登場しません。百済びいきで新羅嫌いの中大兄皇子は白村江大戦の敗戦で歴史上から退場し、代わりに登場した天智(即位以前の呼称は皇太子)には、 新羅が足しげくご機嫌をうかがいに来るのです。日本書紀はどこにも中大兄皇子が天智天皇になりましたとは書いてないのです。皇太子が皇太子がという記述ばかりです。従来は、この皇太子=中大兄としてきました。天智紀の冒頭に、「天命開別天皇(天智天皇)は舒明天皇の皇太子である。母親は皇極天皇である」と明記されているからというのが理由です。舒明の皇太子とありますが、父親が舒明とは書いてありません。脱線しますが、天武紀にも「天武天皇は天智天皇の同母弟である」としかありません。舒明紀には、のちの皇極天皇と結婚し、葛城皇子・間人皇女・大海人皇子をもうけたとあります。従来、葛城皇子=中大兄=天智天皇でした。しかし、日本書紀には3人が同一人物とはかいてありません。つまり、葛城皇子が古人大兄薨去ご、中大兄に昇格したとしても、白村江大戦で敗北し、処刑されたか戦死したのでしょう。新羅武烈王=金春秋が、斉明天皇の皇太子として入れ替わったのです。斉明天皇は九州で本当に病死かもしれません。斉明死去後、天智帝は「あなたの目が恋しいのです」的な、およそ実の母親あてには似つかわしくない、歌を贈っています。天智帝は斉明帝を後宮にいれることにより倭国とのつながりの強化を図ったと思います。しかしかなわず、娘の間人皇女を妻にします。なので、系譜上実の兄妹が情を交わすという書きづらい状況が登場するわけです。教訓。ウソややましいことを隠そうとしても、やはりうまくはいかない。でした。
2012/09/18
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天武天皇にが686年に最後の病に伏せた時、占いで三種の神器の一つである「草薙剣」がたたったせいだと、はっきり日本書紀に記述されています。 これは天武天皇が正当な皇位継承者でなく、壬申の乱によって簒奪した証拠である、とされます。 日本書紀には「壬申の乱」 なる表記はありません。当然です。 ただ三種の神器がたたったという記述で、暗示したわけです。 その後、天武の子が皇位につこうとすると、必ず邪魔がはいったのも偶然ではないでしょう。 昨日記述した「天武の孫は臣籍降下があいついだ」ことも傍証です。 天武のあと即位するのは系譜上天智の血統です。 41代持統(天智の娘・私説は孝徳の娘)、42代文武(天智の娘の子)、43代元明(天智の娘)、44代元正(元明の娘・天智の孫)、45代聖武(天智の曾孫)、46・48代孝謙・称徳(天智の玄孫)、47代淳仁(天智孫の舎人親王の子、私説は母親を天智娘か天智孫娘とするが、結局淳仁は天智曾孫) つまり、天智の血統でないと天皇にはなれなかった。 諸豪族の支持(とりわけ藤原氏)の支持を得られなかったのでしょう。 私説は、天智=新羅武烈王、天武=その忠臣金?信=鎌足で、 天智は天武の妹を皇后にしてますから、天武も王族ではありましたが、あくまで、諸侯扱いで、皇位継承順位は低かったと見ます。 ですから、草薙剣がたたり、自身の子孫も天智の血も引かなければ王位には着けませんでした。 ですから、藤原不比等は天武とは違い、自分が直接皇位につかず、傀儡をたてることで実権を握った。 その、おいしさを実感した藤原氏はNo2.に徹していったということです。 その出自を天武に求めず、あくまでも神官中臣鎌足を先祖として、別称を別人に切り分けたのです。
2012/09/17
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通説はあたかも、うののさらら(持統天皇)がわが子草壁を皇位に着けるために策略をめぐらせた、となっています。天武崩御後折角、有力な後継者の大津皇子に謀反の罪を着せて排除したのに草壁が病死、自らが即位というシナリオが展開されます。かたや、「長屋親王木簡」の出土で、父親の高市皇子(天武の長男)が実は天皇だった説も有力です。私説は大友と高市は太政大臣でしたから、皇位ではなく、臣下として最高位だったと見ます。長屋親王は、元明天皇の娘婿だったからだと私は思います。高市が天皇だったから親王だったのではなく、元明天皇の義理の息子としての親王だったと。それにしても、天武皇子たちは、偶然か必然か皇位には縁がありませんでした。昨日も述べましたが、天武の孫の代では臣籍降下が相次ぎます。かたや天智天皇の男系の孫は2人ということも手伝って、臣籍降下はいません。大友皇子の子葛野王、施基皇子の子白壁王(光仁天皇)のみです。白壁王は天皇になってしまったので、子たちはすべて親王になります。桓武は山部王から一旦山部親王を経由したらしいですが・・・・かたや、葛野王の子は池辺王、次の代の三船王は出家して還俗淡海三船(天皇の漢風諡号の名付け親)となります。そんな天智系の孫は、まあ普通だったのに対し、天武系の孫は立太子された例もありますが、なりそこなったり、廃帝にされたり散々です。それで、妄想ですが、天武の実子は草壁のみだったではないでしょうか?ですから、高市と大津は天智の子。舎人ほかは不比等の子です。ちなみに持統天皇は天智の子ではなく、孝徳の子ですから、もし草壁が天皇になっていたら天智系復活はなかったということになります。草壁の死は絶妙なタイミングなのです。においますねえ・・・新羅系による暗殺のにおいが、大津失脚に対する報復というか。皇室菩提寺である泉湧寺は、桓武を祖とし、祖の父光仁、その祖父天智のみ祀り、天武系を祀りませんが、天武系という分類ではなく、「倭国系」という分類になると思います。持統-元明-元正-称徳とつづく系譜は倭国女王そのものだからです。倭国系は皇室から排除されましたが、庶民は大多数が倭国民。私も倭国民の末裔かな?
2012/09/16
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永井路子氏の「王朝序曲」1993年は、藤原冬嗣を主人公とした異色な小説だと思いますが、冒頭に、光仁天皇(白壁王)即位に関しての説明があります。「藤原百川は、すたれ皇子の白壁を皇位に押し込むという荒業をやってのけた」これは学会の定説を尊重してのごく自然な物語の進行です。この小説では、桓武天皇を古代最後の独裁者と定義し、凡庸なタナボタ天皇の父親への反発から王者になったのだ、と定義しています。称徳天皇のヒステリックな粛清を恐れて、酒浸りの日々を送っていたとされる白壁王。最近の研究では、白壁王を天智の孫と位置づけるのではく、聖武の娘婿と位置づけることで、著しく評価が違っています。以前私も、奈良時代は天武王朝ではなく、天智女系王朝と定義しました。白壁即位は、その法則からは外れますが、即位時は天智孫もさることながら、天武玄孫の婿であったことが大きな要因である。というのが、最近多く見かける学説です。通説では、白壁王は称徳天皇の粛清を恐れてアル中のふりを、していたとされていました。 しかしこう考えると、白壁王が称徳天皇を恐れたではなく、逆に称徳天皇にとって天智の孫である白壁はアンタッチャブルな存在だったと思うのです。つまり新羅との微妙な友好関係が損なわれるということです。 淳仁天皇の失敗で学習した、称徳天皇は、白壁王と聖武皇女の井上内親王との子供が、皇位につくのは半ばあきらめていたかもしれません。道鏡を法王につけたのもささやかな抵抗であったと思います。それにしても、天武の孫の代の皇子は臣籍降下があまりに多いのです。ここにもヒントがあるような気がしてなりません。
2012/09/15
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古代って平安時代までを指すそうです。私的には、せいぜい奈良までかな?なぜなら平安時代って外交的には平和な時代だったからです。こんなことを書くと不敬罪になりそうですが、平安時代の皇室は、藤原氏の傀儡政権ですから金氏を祖とする新羅系王朝は建前で、実質は倭国民末裔のフジワラ(百済倭国=ホ・セイ・ワ・ラ) が仕切っていたことになります。逆にそのことが皇室出身でなければ天皇になれない仕来たりが植え付けられ、軍部暴走をある程度制御できるシステムが確立したことになります。桓武天皇以降の歴史は細部にこだわらなければ大筋真実でしょう。明日以降は光仁天皇即位の謎から、歴史をさかのぼりたいと思っています。
2012/09/14
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外交政策というものは、古今東西複雑怪奇だと思います。たとえば、アメリカとイスラエルのような関係ならわかりやすいのですが、今も昔も外交とは好き嫌い・仲のいい悪いだけで単純に割り切れるものではありません。ところが、古代史においては単純に天智天皇は親百済派だから百済出身に違いないとか、天武天皇は親新羅派だから新羅出身に違いない、だから2人は仲がずっと悪く、壬申の乱を引き起こした、とか短絡的な意見のあまりに多いこと。そしてその、親新羅派の天武天皇が編纂を命じた日本書紀の徹底的な新羅嫌いは?と聞くと、それは不比等が転換したとか不比等の父親の鎌足は元百済王にちがいないとか、まことしやかに伝わるのは不比等が天智帝ご落胤説です。新羅派天武が命じた日本書紀を、持統天皇&不比等がのっとったので親百済派に方向転換した。という説は多いです。私は通説に反発し、持統は天智実子ではなく、遠智娘(乳のいらつめ)の連れ子(孝徳の実子)と思っているので、持統が百済&倭国よりなのはわかります。不比等も実父を鎌足としても天智としても通説では百済よりですから。そんなに単純な図式ではないと思います。 武烈王=金春秋の行動ひとつとっても、百済・高句麗・倭と同盟作戦を展開し、失敗と見るや唐と結び朝鮮半島を統一するからです。その後の展開も新羅はお見通しだったでしょう。統一後は必ず唐と敵対するだろうと。だから天武も新羅に同調し、同盟を結んだわけです。新羅の血を引くからだとかは、後付けの理由にすぎません。日本人だから新羅が嫌いなのだ、などという単純な理屈だけでは世界から取り残されるのです。順を追うと、1.白村江に勝利した新羅武烈王=天智は百済遺民を利用し、日本国(旧倭国)が唐に味方することを阻止。後を倭国王の血を引く大友に任せて新羅(または鹿児島)へ帰った。2.しかし、旧倭国の重臣は、密かに唐との同盟を画策。大友天皇を奉じて大海人皇子に反旗を翻す。3.もと新羅将軍の金庾信=大海人の策には大友天皇軍は勝てず、退位させられる。しかし鸕野讚良(のちの持統天皇)に助命嘆願され木更津に島流し。4.大友を排除した天武であったが、志半ばで病死。後を大津皇子に託し、親新羅政権をもくろむが、持統の裏切りにあい失敗。倭国王の血を引く草壁擁立をはかるが、草壁病死によりこれも挫折。不比等の懐柔政策で、女帝が次々即位し、倭国再来を期す。5.最後の女帝「称徳」は最初藤原よりが、仲麻呂との決別を境に、反藤原に転換。藤原の返り討ちにあい倭国は完全に消滅。6.その後百済王家と融和(光仁天皇と百済王家息女高野新笠との息子を桓武天皇にする)で、逆に天皇家は第一線から退き象徴として今日に至る。駆け足でした。詳細はゆっくりのちほど。
2012/09/13
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従来は、中大兄皇子&斉明天皇でした。大海人皇子も九州に同行し、大津皇子は近江の国大津ではなく、博多の那の大津であったとする説が定説でした。私説では、武烈王=金春秋=天智天皇&金庾信=鎌足=天武としましたので、倭国側に天智&鎌足&天武は存在しません。倭国側の登場人物は従来、斉明天皇・中大兄・大海人とされてきました。すると、われわれの常識である、天智=中大兄・天武=大海人という図式が真実なのでしょうか?日本書紀を注意深く読むと、斉明紀の九州下りのあたりには、大田皇女が大伯皇女を生んだ等の記述はありますが、大海人皇子が同行したとは一切書いてありません。天智紀になると、「皇太子称制云々」という記述はありますが、「中大兄」という記述はないのです。天武紀になると、天武天皇は幼名を「大海人皇子」であったとは、はっきり書いてあります。ということは、白村江の戦いでの登場人物は倭国側:斉明天皇、大田皇女、百済豊璋王だけです・・・・なぜなら、日本書紀はその前に登場人物を殺してしまったからです。それは、聖徳太子=蘇我馬子=有間皇子。 その他、蘇我一族も軒並み存命だったと推測します。 有間皇子は、敗戦により和歌山までの逃亡の途中の捕らえられ、処刑されたと思います。なぜ、有間皇子を658年に謀反という小さな事件で処刑したことになったのか?中大兄が白村江戦以前にも倭国に居たことにしておきたかったのでしょうか?有間皇子の事績は聖徳太子や蘇我馬子として6世紀後半から7世紀前半にもっていかれます。ところで、天智天皇が日本に登場するのは白村江以降。その前の「中大兄」の記述は、新羅皇子=金春秋の新羅での事蹟の挿入。「中臣鎌子=鎌足」の記述は、金庾信将軍の事蹟の挿入ということになります。 大海人皇子の青春時代の記述がないのは当たり前です。鎌足→大海人→天武と改名するわけですから。ところで、昨日ご紹介した山科誠氏の本では、大海人皇子とは「おおあまのみこ」とよむのではなく、「おうみのひと」=「近江の人」である説を展開していました。 卓見です。私説と意見が違うのは、山科氏は天智・天武とも出自が百済王家としているところです。近江朝でも、新羅出身の官僚は全く存在せず、百済より亡命した官僚が占めたわけですから、無理もありません。ただ、当時の新羅は、唐との最終戦争で日本に占領軍をより多く割く余力は無かったと思います。羅唐戦争においても、百済遺民&高句麗遺民は故郷を唐に侵略されるのを阻止するために一団結して唐と戦います。つまり百済王家と高句麗王家は滅亡しましたが、遺民は数多く残っており、一致団結して立ち向かいました。もしかすると、新羅的には、自国防衛のため、朝鮮半島から百済・高句麗を追い出したかっただけかもしれません。同族が日本列島でそれなりに活躍するのは容認、むしろ歓迎したかもしれないのです。そのことは、現在でも韓国人は新羅好きで名字1文字。日本人は百済でなければ「くだらない」が根強く残っており、名字2文字が主流。もしかすると少数派である、日本人名字1文字の人は、高句麗の末裔かもしれません。ダイレクトに「高麗さん」(こまさん、こうまさん)もいらっしゃいますが・・・・え?でもなぜ、日本書紀は新羅嫌いに徹しているのかって?それは次回以降私の宿題ということで。
2012/09/12
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本題とは無関係ですが、本日は9.11です。イスラムにはイスラムの正義があろうかと思いますが、罪なき人の命を無作為に奪うことは、人として外れた道だと思います。法治国家においては、オウムを始め人命を軽んじる宗教は弾圧されるべきです。しかし、3.11の場合は自然があいてなので、どこに怒りをぶつけていいのやら。トヨタ自動車のCMでビートたけし氏が海に向かって「バカヤロー」と叫ぶシーンは実に深い。 ところで本題ですが、以前1990年中旬、山科誠氏の「日本書紀は独立宣言書だった」を読み、目からウロコの部分が多かった、しかし賛同できない部分もある。と言及しました。 ふと読み直すと、蘇我氏は天皇だったという、最近ではそんなに奇抜ではない記述がありました。そして、蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿と天皇であったと書かれています。そのことを日本書紀は隠ぺいするために、架空の天皇、欽明-敏達(崇峻・推古)-舒明-皇極をあてはめたとします。読んだ当時は若干こじつけ(お前が言うか?といわれそうです(^^;)かと思いましたが、最近はこの説を発展させたら面白いと思うようになりました。 つまり架空ではなく、舒明の事績を欽明に、天武の事績を敏達に、孝徳の事績を用明に、皇極&斉明の事績を推古に持っていき、蘇我王朝の穴を埋めたのではないか?とすれば、山科氏の説と符合します。私は、常々高句麗の栄留王を殺害した、淵蓋蘇文は日本書紀では (伊梨柯須弥、いりかすみ)と記録されるので、蘇我入鹿と同一人物ではないか?と言及してきました。蘇我稲目の父は文字通り「蘇我高麗」ですから、ここにも証拠があります。ところで、 崇峻天皇は蘇我馬子に殺されたと日本書紀は堂々と記録しています。592年のことです。臣下が天皇を殺害したら大逆罪でそれこそ・・・・なのですが、このことは蘇我馬子=聖徳太子=本当の天皇という説も生みだすことになります。それらの意見を尊重し、蘇我馬子が天皇だったとして、それでは日本書紀に見える馬子に殺された「 崇峻天皇」はどのようなポジションにいたのでしょう?もしかしたら、蘇我氏祖国高句麗を任された高句麗王だったのではないでしょうか?栄留王が淵蓋蘇文のクーデターによって落命するのは642年です。この事件をスポッと馬子の代へもっていったら、こうなった?このころ、641年に舒明天皇が崩御、百済武王が薨去と各国の王があいついで亡くなっています。すくなくとも舒明天皇は百済宮で亡くなられたので、百済王も兼ねていた可能性は高いわけです。栄留王と 崇峻天皇と舒明天皇に共通点は見いだせません。ただ、栄留王の諱は「建武」なので、百済「武王」とかぶっています。また三段論法になってしまいますが、建武王=武王=百済王=舒明天皇という図式になります。そのうち、栄留王=建武王は「(伊梨柯須弥、いりかすみ)」に殺害されます。崇峻天皇は蘇我馬子に弑されます。つまり栄留王=舒明がいりかすみ=入鹿に殺された記録を蘇我王朝隠匿のため過去へ当てはめたら、馬子の時代になったので入鹿が馬子に変わったのではないか?ということになります。ただ、崇峻天皇の和名は泊瀬部皇子か長谷部若雀天皇ですから、舒明・欽明系の名前でなく、雄略天皇(大長谷若建命、大泊瀬幼武尊)か武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊、小長谷若雀命)に近い名前を持っています。雄略が「大」で、武烈が「小」、崇峻が「なし」仮に3人を同一人物とすると、雄略&武烈天皇は7世紀の人となり、倭の五王の「武」とは別人ということになります。または、倭王武=雄略とし、武烈天皇をその直系子孫とすれば、継体天皇出現後も、武烈天皇は生きていて、高句麗から進出してきた「蘇我氏」に滅ぼされたことになります。つまり、雄略王朝は百済から進出してきた継体王朝に併吞された。(武烈は生きていたが、姉タシラカヒメミコや春日山田皇女、橘仲皇女を継体・安閑・宣化に拉致された) しかし、その継体王朝も高句麗からの蘇我氏に呑みこまれ、武烈は馬子に殺害された。これで蘇我氏系天皇全盛期を迎えますが、白村江大戦で惨敗を喫し、新羅王武烈王=金春秋に蘇我氏系大王は滅亡に近い打撃を受けます。滅亡したわけでは、ありません。石川氏として子孫は残ります。そう考えれば、舒明王朝と欽明王朝に名前の酷似した皇子・皇女が顔をそろえていることにも納得できます。 それで乗り込んできた金春秋(天智)&金庾信(鎌足、後の天武)によって日本国が建国されたのです。
2012/09/11
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我ながら、久々の大妄想(大暴走)で、古代史妄想看板に偽りなし。と行きたい所です。早速ですが、この二人と密接な関わりあいがあるのは、天智天皇です。天智天皇の即位前は、「葛城」「開別」「中大兄」と時代によって変遷します。それますが、弘文天皇も「伊賀」「大友」と二つあります。藤原鎌足は薨去の寸前「藤原の姓」を賜ったわけですから、生前はほとんど「中臣」「鎌子」「鎌足」と呼ばれていたことになります。さて、天武天皇ですが、即位前は「大海人」のみです。または「皇太弟」と聞きなれない尊称で呼ばれます。昨今、歴史学会を賑わせているのは、「斉明紀」における「はじめ用明帝の孫高向王に嫁して漢(あや)皇子を生めり」という記述と、一代要紀や本朝皇胤紹運録などの天武享年65歳説から、実は大海人皇子は天智の異父兄で「漢皇子」の別名である説を採用する学者様が増えています。前置きが長くなりましたが、私は中大兄と鎌足の蹴鞠の出会いのシーンと新羅本紀の金春秋と金庾信(ユシン) との蹴鞠によるシーンの酷似、当時日本には蹴鞠がなく、新羅にはあった可能性が高いことから、このエピソードの出元は新羅本紀のほうではないかと疑ってきました。古代史ブロガーさんも結構増えました。ブログには「金春秋=中大兄、金庾信=鎌足」 とする説も多数見受けます。ただ、金庾信は金春秋の娘を妻に迎えています。しかし、鎌足には天智帝の皇女を妃に迎えた事実はありません。むしろ、天智帝の皇女を4人も妃に迎えた天武帝のほうこそ「金庾信」に符合するのではないか?(新羅本紀上、金庾信は金春秋より年長です) 新羅版大化の改新に符合する、647年びどんの反乱を鎮圧するのは金春秋・金庾信コンビです。そのことからは金庾信=中臣鎌足説もうなづけます。と、いうことは鎌足=庾信=大海人という三段論法的図式は強引でしょうか?冷静に日本書紀を読むと鎌足と大海人は同時に登場しないのです。有名な説話、ある宴で、酩酊した大海人が槍を床に突き刺し、天智帝が殺そうとしたが、鎌足のとりなしで収まった。という説話があります。日本書紀にはありません。藤氏家伝という藤原氏の歴史書に記述が見えます。古代においては、「矛(ほこ)」のほうがスタンダードな武器でしたが、大海人皇子は槍の名手であったことから、槍で床を刺した =大海人、短気な皇帝=天智、それを諌める忠臣=鎌足という図式ですが、とても疑問があります。1.その他には冷静な大海人がこのときだけ豹変した。2.通常、皇太弟とはいえそのような狼藉を行って命が助かるわけがない。3.そしていかに鎌足が帝の信頼を得ていたかの「どや?エピソード」。つまり、私の妄想では大海人と鎌足を別称ではなく別人にするための策略と見ます。ただ、元となる話はあると思います。当時作り話という概念はなく、(竹取・源氏各物語は平安期)話を水増しするために別称を別人と誤解するように誘導する手法が多いからです。しかし、今回の妄想には大弱点(アキレス腱)あります。大海人皇子は鎌足の娘、五百重娘を妃に迎え、新田部親王をもうけています。ただ、天武帝あまりに晩年の皇子ゆえ実の父親は藤原不比等ではないか?疑惑もあります。鎌足は五百重娘の養父であり、形ばかりの夫ではなかったのではないでしょうか?名より実をとる主義(No.2でおいしく寄生主義)に転換した藤原氏が、祖先鎌足=天武の事績を抹消し、(皇室菩提寺の泉湧寺からも除外)あくまでも主筋の天智系を表に立てたと考えると意外とその後の展開もうまく説明できるのですけど・・・
2012/09/10
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以前、私は月刊誌「歴史と旅(現在は休刊)」や「歴史読本」を購入していましたが、歴史と旅に連載してたと思います。記憶がさだかではありません。当時「黎明の反逆者」として連載されていました。「扶桑略記」に記述されている「天智天皇は暗殺されたのかもしれない疑惑」がベースです。国際情勢にも精通している井沢氏ならではの視点で描かれています。私的にちょいと疑問は、あまりにも中大兄皇子(天智)が自己中で、跡継ぎの大友皇子も暗愚な天皇として描かれている点です。井沢氏説によれば、大海人皇子(天武)は、天智帝が唐と同盟を結ぶ直前に暗殺し、亡国の危機を救ったとなっています。大海人皇子が壬申の乱を起こし、大友皇子を死に追いやるのは、大友皇子(弘文天皇)が父帝の意思を継ぎ、唐との同盟を推進することは目に見えていたからだと、しています。以前私は、豊田有恒氏の「大友皇子東下り」を読んだと書きました。井沢氏も豊田氏もベースは「扶桑略記」の天智行方不明説=暗殺された説です。大友皇子落ち延び伝説を支持した、豊田氏が、天智天皇が鹿児島枚聞神社に落ち延び説に触れてくれなかったのは、少々残念でした。権威ある歴史学会は、「扶桑略記」も「枚聞神社伝説」も認めていません。井沢氏、豊田氏のみならず、天智天皇を百済系皇子もしくは純粋なる倭国皇子とし、大海人皇子(天武天皇)を新羅系(父親を舒明天皇でなく、新羅王族)とする歴史家は多いです。ところが、私をはじめブロガーになると、天智天皇=金春秋=新羅武烈王とする説の多いことに驚きます。自由な発想ももちろん大切ですが、やはりいかなる角度からつっ込まれても説明のつく説にはしたいものです。僭越ながら、井沢氏・豊田氏に続編の執筆をお願いできたら幸甚です。1.その後の吉野会盟で、なぜ天智系の川島・施基(志貴)皇子が列席できたのか?2.称徳天皇崩御後、天武の孫も存命の中、なぜ白壁王(天智の孫)が光仁天皇になれたのか?
2012/09/09
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E5.AE.98.E5.88.B6高句麗の官職13段階の7番目に「大兄(だいけい)」があります。高句麗は淵蓋蘇文が665年に死去後、間もなく668年に唐・新羅連合軍の前に滅亡します。その後、中大兄皇子を最後に、日本からは「大兄皇子」がいなくなります。 最初は17代履中天皇の「大兄去来穂別」ですが、その後継体天皇の長子の勾大兄皇子を皮切りに、欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子が登場し、その弟用明天皇はシンプルに「大兄皇子」、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子、聖徳太子の子「山背大兄王」、舒明天皇皇子の古人大兄皇子、最後は中大兄となります。その定義は、とても曖昧で「皇太子」のように次期皇位を約束された地位でもなく、一族の長兄的な存在とされます。 では、なぜ中大兄即位後、大海人皇子は大海人大兄皇子にならなかったのか?大友皇子がいたから?天智が無理やり「大友大兄皇子」にしてもよさそうなものです。ここは、単純に高句麗が滅亡したから高句麗官職の「大兄制度」が消滅したとするほうが、簡単でスッキリします。では、上記大兄皇子たちは高句麗人だったのでしょうか?それは違うと思います。当時は三韓と倭国は王家断絶を防ぐために王族を融通し合っていたと見ます。つまり行き来も頻繁で、次期皇太子候補が高句麗を訪問し、官位を得たとしても十分考えられることです。私は、欽明王朝における蘇我氏の台頭を、百済系王族の倭国移住による制圧的併吞ではないか?と疑問をもってきましたが、淵蓋蘇文(日本書紀では、いりかすみ)=蘇我入鹿とすれば、高句麗系王族であっても不思議はありません。 従来、蘇我氏は百済系渡来人説が有力でしたが、私は百済系の欽明を擁立した高句麗宰相クラスが倭国に乗り込んできたと見ます。おそらく、もともと継体天皇は地盤が弱いことに加え、筑紫造磐井の乱平定などで、国力を消耗したスキをついたと思われます。しかし、欽明系と継体系に戦闘があったとは考えにくく、旧雄略系と結びつき巻き返したと思います。しかし、継体系も滅亡したわけではなく、宣化-石姫-敏達-押坂と非蘇我系王統もとぎれず続きます。
2012/09/08
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なかなか飛鳥時代から抜け出せません。これだけ整然とした史書があるにもかかわらず、矛盾点が多すぎることが、拍車をかけています。様々な謎(矛盾点)を列挙してみます。1.29代欽明天皇の時から突然「蘇我稲目」が大臣として登場し、 仏教が百済から伝来し間髪いれず仏教を信仰する天皇が続出した。2.日本書紀においては、推古紀に遣隋使を使わした記録があるが、 隋側の記録では倭国の大王は「あめのありひひこ」で男性である。3.法隆寺再建・非再建論争に代表されるように、考古学的見地と日本書紀に記述に 齟齬がある。4.約100年の間に、やたら同じ名前の皇子皇女が多い。 葛城皇子・麻呂子皇子・山背皇子・間人皇女・磯城(施基)皇子 伊勢王、臣下ですが中臣鎌子 これらの原因としては、資料が散逸し、その人の存在は確かだが、 誰の皇子か不確かになり様々な木簡記録を尊重するうちに同一人物が 増殖してしまった。と考えます。1.については、あまりにも突然に「蘇我氏」が台頭し、 仏教を崇拝する王が排出されたことは、ある意味、 百済から欽明・蘇我グループが侵攻し、弱体化した継体・安閑・宣化王朝を 併吞したとするほうが合理的でしょう。 とってかわったではなく、宣化天皇の皇女石姫の婿入りということで 万世1系をつないだと思います。もしかすると、欽明の母、手白香(たしらか)皇女=仁賢天皇皇女は本当かもしれません。 当時は三韓と倭の王家はお互い婚姻関係を結び友好な関係を維持していたと考えます。話が飛びましたが、上記のような事情から遣隋使が推古天皇の時代としてしまったために、摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が法隆寺を建立したと事実を607年にもっていかざるを得なくなったわけです。ですから、645年に大化の改新(乙巳の変)があったとすれば、暗殺されたのは、蘇我入鹿ではない可能性が大ということになります。以前、647年に新羅で起きたびどんの反乱の誅殺者が金春秋・ユ信のコンビで、こちらの記事が乙巳の変の記事に発展したと考えました。入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文が死んだのは665年。有間皇子が謀反の冤罪で処刑されたのが658年。2人とも天智=武烈王=金春秋によって葬られた可能性が高いと思っています。新羅の武烈王は661年に亡くなっていますが、その年日本では斉明天皇が崩御し、中大兄皇子の称制が開始されます。このことは、武烈王が突然新羅から行方不明になり、白村江敗戦国倭国の斉明天皇を九州で処刑し、GHQ占領軍として倭国を日本国と改め、統治に乗り出したと思います。有馬皇子は658年に死にましたが、蘇我氏の功績を代表する聖徳太子を殺したことにはできなかったようです。ところで、日本書紀編纂側に有利な材料もありました。隋側の記録に「蘇因高」・・・小野妹子・・・・しょうのいもこ・・・・そのいもこ・・・・そのうまこ・・・蘇我馬子を髣髴させる記述があったからです。ここから、敏達の皇后(額田部皇女)の漢風諡号の推古とこじつけ完成しました。もちろん日本書紀にとって法隆寺建立を60年古く見せることはどちらでもよいことだったろうと思います。結果60年、古く見せられたことはラッキーだったかとは思います。せいぜい、有間皇子と厩戸皇子が同一人物であることはごまかしたかったと思います。余談ですが、有馬皇子は孝徳天皇44歳の時の子です。当時の婚姻関係からして、有馬皇子はもう少し(20年くらい)年長であったのではないでしょうか?
2012/09/07
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昨日は、セミナーやら会合やらで久々1回休みにしました。私は常日頃、「日本書紀はウソはついてはいません。ただし、別名を別人と読み間違うように誘導し、年代もおなじ干支(60年周期)の記事を誤解を招きやすいように仕向けている」と言ってきました。それは、上からの圧力に対する、歴史家の良心・誇りを維持するためのささやかな抵抗とも考えます。「上」とは?舎人親王?不比等?そしてその圧力とは、1.都合の悪いことは削除せよ。2.中国(当時は唐)にバカにされないようになるべく建国の歴史を古い時代に持っていけ。3.倭国の悪口は仕方ないが、日本国の悪口は書くな。明らかに日本国天皇の天智以降は称賛記事をメインに都合の悪いことは削除かスルーです。戦前は紀元1300年祭りとか強制されたようですが、現在紀元前660年に神武天皇がいたと信じる人はほとんどいないでしょう。聖徳太子が法隆寺を建立したのは、607年とされますが、670年再建説も根強く主張されます。私は上記の観点から、聖徳太子が7世紀後半建立とみたいです。え?聖徳太子は621年薨去?でも有間皇子=うまみこ=厩戸皇子=聖徳太子は658年に中大兄皇子に殺されています・・・・・・・
2012/09/06
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wikiの藤原鎌足の項の引用なのですが、 元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行なった中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。 このwikiは問答無用で2人の鎌子は別人と言い切っています。しかたありません。時代がちがうのですから。私はかねがね日本書紀の時価軸はずれている!と叫んできました。つまり私の妄想は中臣鎌足は物部尾輿&守屋と廃仏運動を繰り返していたのです。 え?物部守屋と組んだのは中臣勝海じゃないの?ですって?そうです。中臣勝海は鎌子の子という説があり 迹見 赤檮(とみ の いちい、生没年不詳)に殺されたとあります。勝海(かつ・あま=かま)であり、鎌子・勝海・鎌足は同一人物の別称の可能性があります。 仏教戦争に敗北した鎌足=鎌子=勝海が中大兄=葛城皇子を味方に引き入れ、蘇我入鹿ではなく、蘇我馬子=うまこ=厩戸=聖徳太子=善徳を暗殺した事件が大化の改新=乙巳の変とだと思います。そんなバカなとお思いでしょう。では、欽明天皇の皇子に葛城皇子がいることをご存じですか?そうです、天智天皇の前は中大兄、その前は葛城皇子です。欽明皇子に葛城、舒明皇子に葛城です。欽明の時代に鎌子。舒明の時代に鎌子(鎌足)です。想像をたくましくすると、藤原鎌足は落馬による事故死になっていますが、もしかすると迹見 赤檮(とみ の いちい)に相当する人物に暗殺されたかもしれません。
2012/09/04
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昨日私は、聖徳太子架空説を否定しました。ただ、古事記には登場せず、日本書紀に1度だけ記述があるということは、他の誰かの別名ではないか?という疑惑は当然起こります。近世でいえば、東洲斎写楽は10カ月しか活動期間がないので、他の誰かの別名ではないか?疑惑はあちこちで聞かれます。まして、「聖徳太子」は日本書紀に1回しか登場しないので、(あとの記述は厩戸皇子とか皇太子という呼称)単純に厩戸皇子=皇太子=聖徳太子=推古天皇の摂政 とされてきました。依存はありません。よく聞く説は、蘇我氏の功績を一人に集約した架空人物である説です。これは、ヤマトタケル伝説は景行天皇の各皇子の征服譚を一人の人物の事績に集約したのだ説と符合します。私は聖徳太子の場合はヤマトタケルと違い、集約ではなく、分裂説を採用します。たとえば、関裕二氏の著書「聖徳太子は蘇我入鹿である」は、蘇我入鹿の別名を聖徳太子とします。あまりネタバレにならないようここでの記載は慎重にならなければなりませんが、飛鳥寺は蘇我善徳(馬子の子)が建立した説が有力です。他に蘇我馬子が建てた説、用命天皇が聖徳太子に命じて建てさせた説とあります。また、私の妄想ですが、全部本当だとしたら?つまり、蘇我善徳=蘇我馬子=聖徳太子という図式が成立します。ダジャレごろあわせ批判を受けそうですが、うまやどみこ→うまこ、しょうとく→せいとく→ぜんとく(本当の読み方はそがのぜにとこですが)、馬子=厩戸皇子・聖徳=善徳という図式は成り立ちそうです。そんな、時代が違いすぎる!!とお叱りを受けそうです。お叱りついでに、さらに時間軸の違う別名の皇子がいます。有間皇子(孝徳天皇の皇子)です。用明天皇の和名は橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)孝徳天皇の和名は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)そしてその皇子は厩戸(うまこのみこ)皇子と有間皇子(うまのみこ)です。整理しますと、1.用明天皇(とよひ)=孝徳天皇(とよひ)2.聖徳太子(せいとく)=蘇我善徳(ぜんとく)、 蘇我馬子(うまこ)=有間皇子(うまみこ)=厩戸皇子(うまこみこ)ばかな、他人の空似だというご意見あると思います。私のような庶民でも姓名がもらえる現代であれば考えられます。しかし、名前ひとつに魂が宿ると信じられた古代です。うかつに支配者層が紛らわしい名前を付けるわけにはいかないのです。もちろん少し下って中世では、白河天皇と後白河天皇、鳥羽天皇と後鳥羽天皇、醍醐天皇と後醍醐天皇、枚挙いとまなく、尊敬する天皇の後継を主張する諡号が増えてきます。もちろんこれらの方々を同一人物というわけではありません。暴走妄想ついでにもう一つ。聖徳太子は推古天皇の摂政でした。すると有間皇子も摂政でなければ同一人物説にはなりません。推古天皇は額田部皇女でした。その夫は30代敏達天皇で和名が渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)ところで、40代天武天皇の和名が天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)で最初のお妃が額田王・・・額田王=推古?それとも額田王=斉明天皇?とすれば有間皇子の活躍時期と斉明天皇活躍時期が一致します。さきほど、飛鳥寺の話題を出しましたが、中大兄と中臣鎌足のけまりの出会いの舞台は飛鳥寺です。大化改新で二人は蘇我入鹿を誅殺しますが、入鹿の首塚は飛鳥寺の隣にあります。私は蘇我入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文としますが、もし本当に大化の改新で「蘇我入鹿」が討たれて、首塚が飛鳥寺横にあるとしたら、関裕二氏の説く、「聖徳太子=蘇我入鹿」で中大兄皇子に聖徳太子は暗殺されたことになり、そのエピソードが分裂して有間皇子謀反による処刑というエピソードに分岐したのです。本当にこの時代は、「同じような名前をもつ人間が、同じような名前をもつ人間を違う時代に殺す」事件が多発しているのです。傍証はこれからもいろいろ提出します。
2012/09/03
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