2012/09/03
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カテゴリ: 古代史系の妄想
昨日私は、聖徳太子架空説を否定しました。

ただ、古事記には登場せず、日本書紀に1度だけ記述があるということは、
他の誰かの別名ではないか?という疑惑は当然起こります。

近世でいえば、東洲斎写楽は10カ月しか活動期間がないので、他の誰かの別名ではないか?疑惑はあちこちで聞かれます。

まして、「聖徳太子」は日本書紀に1回しか登場しないので、(あとの記述は厩戸皇子とか皇太子という呼称)単純に厩戸皇子=皇太子=聖徳太子=推古天皇の摂政 とされてきました。

依存はありません。

よく聞く説は、蘇我氏の功績を一人に集約した架空人物である説です。
これは、ヤマトタケル伝説は景行天皇の各皇子の征服譚を一人の人物の事績に集約したのだ説と符合します。

私は聖徳太子の場合はヤマトタケルと違い、集約ではなく、分裂説を採用します。



あまりネタバレにならないようここでの記載は慎重にならなければなりませんが、

飛鳥寺は蘇我善徳(馬子の子)が建立した説が有力です。

他に蘇我馬子が建てた説、用命天皇が聖徳太子に命じて建てさせた説とあります。

また、私の妄想ですが、全部本当だとしたら?


つまり、蘇我善徳=蘇我馬子=聖徳太子という図式が成立します。

ダジャレごろあわせ批判を受けそうですが、
うまやどみこ→うまこ、しょうとく→せいとく→ぜんとく(本当の読み方はそがのぜにとこですが)、
馬子=厩戸皇子・聖徳=善徳という図式は成り立ちそうです。

そんな、時代が違いすぎる!!とお叱りを受けそうです。
お叱りついでに、さらに時間軸の違う別名の皇子がいます。

有間皇子(孝徳天皇の皇子)です。


橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)
孝徳天皇の和名は
天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)

そしてその皇子は厩戸(うまこのみこ)皇子と有間皇子(うまのみこ)です。

整理しますと、



2.聖徳太子(せいとく)=蘇我善徳(ぜんとく)、
蘇我馬子(うまこ)=有間皇子(うまみこ)=厩戸皇子(うまこみこ)

ばかな、他人の空似だというご意見あると思います。

私のような庶民でも姓名がもらえる現代であれば考えられます。

しかし、名前ひとつに魂が宿ると信じられた古代です。

うかつに支配者層が紛らわしい名前を付けるわけにはいかないのです。

もちろん少し下って中世では、
白河天皇と後白河天皇、鳥羽天皇と後鳥羽天皇、醍醐天皇と後醍醐天皇、
枚挙いとまなく、尊敬する天皇の後継を主張する諡号が増えてきます。

もちろんこれらの方々を同一人物というわけではありません。

暴走妄想ついでにもう一つ。


聖徳太子は推古天皇の摂政でした。

すると有間皇子も摂政でなければ同一人物説にはなりません。

推古天皇は額田部皇女でした。


その夫は30代敏達天皇で和名が渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)

ところで、40代天武天皇の和名が天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
で最初のお妃が額田王・・・額田王=推古?

それとも額田王=斉明天皇?とすれば有間皇子の活躍時期と斉明天皇活躍時期が一致します。

さきほど、飛鳥寺の話題を出しましたが、
中大兄と中臣鎌足のけまりの出会いの舞台は飛鳥寺です。

大化改新で二人は蘇我入鹿を誅殺しますが、入鹿の首塚は飛鳥寺の隣にあります。

私は蘇我入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文としますが、
もし本当に大化の改新で「蘇我入鹿」が討たれて、首塚が飛鳥寺横にあるとしたら、
関裕二氏の説く、「聖徳太子=蘇我入鹿」で中大兄皇子に聖徳太子は暗殺されたことになり、そのエピソードが分裂して有間皇子謀反による処刑というエピソードに分岐したのです。

本当にこの時代は、「同じような名前をもつ人間が、同じような名前をもつ人間を違う時代に殺す」事件が多発しているのです。

傍証はこれからもいろいろ提出します。





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Last updated  2012/09/08 09:32:45 AM
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