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歴史修正主義という単語を聞いたのはいつのころだったか。たぶん,ここ数年のような気がする。ネット右翼だのサヨクだの,そういう文脈だったと思う。ネット上はともかく新書で読めるのならばと早速買って読んでみた。歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで (中公新書 2664) [ 武井 彩佳 ]本書は主にナチスドイツに関する歴史修正主義を,つまり史実のねつ造を扱っている。そうであるのに,どうも日本で見たねつ造,プロパガンダと大きく重なる。ともに敗戦国として,認めたくない歴史があったからだろうか・・・。ユダヤ人への憎悪を朝鮮人への憎悪に,アウシュビッツを南京虐殺に置き換えると,驚くほど重なるところが多い。長くなるので,僕は弁護士という立場から,3つの裁判例について書いていこうと思う。それは,マーメルシュタイン裁判,ツンデル裁判,アーヴィング裁判の3つである。①マーメルシュタイン裁判(1980年カリフォルニア)第1の事件は,歴史修正研究所という,ナチズムを礼賛する機関が「アウシュビッツでユダヤ人がガス室で殺戮されたことを証明できたら5万ドルを支払う」と懸賞をかけたことが始まりである。とはいえ,歴史修正研究所はこんな賞金を支払う意思はない。ネオナチを中心に,「ユダヤ人を600万人も虐殺できない。誇張している」だとか,「ガス室はねつ造だ」というデマが横行していたというのだ。日本に置き換えると,「南京虐殺で30万人も死んでない」とかを否定する層がいるが,まさにそんな感じだろう。実際,家族全員を殺されながらもアウシュビッツから生還したマーメルシュタインが歴史修正研究所に5万ドルを支払うように求めたが,歴史修正研究所は「証明不十分」として認めなかったので,マーメルシュタインが裁判に打って出たというのだ。この裁判は,裁判所がアウシュビッツの虐殺があったことについては,「公知の事実」だから証明の必要なしとしたため,和解の勧告がされ,マーメルシュタインは5万ドルの懸賞に加え,4万ドルの慰謝料までも手に入れたというのだ。胸のすくようなよい判決だが,この裁判の特徴は,「表現の自由」が大きな争点になった様子がないところだ。後々の裁判はどれも表現の自由だの,名誉毀損が問題になっていて,この事件ほど簡単には終わっていない。なお,Wikipediaで調べたら,歴史修正研究所というのは現在も存在するようだ。恐ろしいことだ。②ツンデル裁判(1983年カナダ)第2の事件は,ドイツ出身のツンデルがホロコーストを否定する活動をしたところ,カナダ刑法177条「虚偽ニュースの流布」で起訴されたという案件である。この案件はほかの2つと違って刑事事件なのであるから,多少毛色が違う。また,第1のマーメルシュタイン裁判と違って,ホロコーストの有無については「公知の事実」と裁判所が認めなかったため,検察はかなりの苦労をしてホロコーストの存在を立証しなければならなかった。しかし,この案件,最終的にはカナダ刑法177条は表現の自由に反して違憲無効だということになった。この判決はなかなか示唆に富んでいる。僕がツンデルの弁護人だったとしたらば,恐らく同じ戦術をとるだろう。なお,この点について,ヨーロッパの多くの国ではホロコーストの否定をしたり,ナチの礼賛をすれば犯罪が成立するということになっていて,表現の自由を重視する英米法と,大陸法の違いを感じるところだ。③アーヴィング裁判(200年ロンドン)最後の事件は,ホロコーストの否定をするアーヴィングが,彼を批判する本を出した出版社を名誉毀損で訴えたという事案だ。第2のツンデル裁判と違って,アーヴィングは売れっ子の歴史家であって,ベストセラーも出している。日本で言うならば・・・・・・何人か思い浮かんだが,名誉毀損になりそうだからやめておく。この事件,イギリスの裁判所でやっていたこともあって,また裁判で「ホロコーストがあったのか,なかったのか」が争点になったほか,アーヴィングが故意に資料をねつ造していたのかが争点になった。この案件,見事に出版社側が勝訴して,多額の賠償金の支払いでアーヴィングが破産に追い込まれた。デジャビュだろうか,現代日本でも名誉毀損で訴えた原告が返り討ちになった裁判をついこの間見たような気がする・・・。本書で扱っている3つの裁判例を紹介したけれど,表現の自由をどうすべきか,というのは本当に考えさせられる。真実の情報よりもデマの方が拡散力があることはたびたび指摘されているところである。そもそもデマに表現の自由はない,という考え方もありえるだろう。ホロコーストの否定というのはユダヤ人への憎悪と密接な関係があり,ホロコーストの否定はヘイトスピーチといえるとして,ヨーロッパの多くの国のように,そもそもデマを流す自由を認めず,その危険性から刑罰を持って禁止するというのもありえるだろう。実際,ドイツでは近年も年間150人くらいがホロコースト否定で有罪判決を受けているというから驚きだ。しかし,本書の終盤でも扱っているが,特定表現の禁止には危険性がつきまとう。著者によれば,たとえばトルコでは19世紀末から20世紀にかけて行われたアルメニア人虐殺である。トルコ政府は何人かのアルメニア人か死んだことを認めるものの,これが「虐殺」,「ジェノサイド」であったことを認めておらず,トルコ政府では政府の見解に反する表現を禁じ,刑罰が科しているという。このあたりは悩ましい。目をアジアに向けてみれば,中国政府は天安門事件について情報統制をしているようだ。こういうとき,表現の自由の重要さが感じられるところだ。僕が学んだ日本国憲法は,大陸法ではなくて表現の自由を重視する英米法の影響を強く受けている。なので,僕としてはたとえでデマであろうと表現の自由を保障すべきと言う考え方で生きてきた。少なくとも,受験生時代はこの考え方には一切の疑問を持つことはなかった。ただ,近年のヘイトデマ拡散,ヘイトスピーチを見る限り,考えを改める必要性というのも感じている。日本の法規制もどうなるのだろう。もっとも,太平洋戦争から80年近くも経過したのだから,いまさら日本も太平洋戦争の歴史修正に法規制がされる可能性は低いだろうなぁ・・・。歴史修正主義 ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで (中公新書 2664) [ 武井 彩佳 ]
2021.11.24
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司馬遼太郎ほどの国民作家になると,盗作被害にも遭ったりする。20年ほど前,2002年に『覇王の家』の一部を丸写ししたとして,『遁げろ家康』という小説が絶版・回収の憂き目に遭うという事件が起きた。当時の僕は高校生。このとき,いつか『覇王の家』を読もう,と思ったが,あれから約20年が経過したわけだな。覇王の家(上)(新潮文庫)【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]自分語りはここまでにして,『覇王の家』の話をしよう。司馬遼太郎作品は,実写化したものも多く,Wikipediaなんかを見ると詳細に登場人物やあらすじを解説していたりもするのだが,本作はほとんど何も語られていない。さほど評価が高くないのかもしれない。最近,司馬遼太郎を読んでいて思うのだが,登場人物を生き生きと描く小説がある一方,史実を淡々と描く史伝というものがあるとすれば,司馬遼太郎は異なる2つの作風を持っているように思う。例えば,『燃えよ剣』や『竜馬がゆく』なら小説で,この『覇王の家』なら史伝だろうか。読んでいて,さほど心が躍るシーンはない。淡々と流れていく感じである。本書のamazonのレビューを見ていても,「ガバナンス論や人心掌握論としても読める名著」と,自己啓発書ならともかく,とても小説に対する評価と思えないものがトップに出てくる。やはり,本書は楽しみのために読む小説と言うより史伝であって,著者の歴史観を知るためのものなんだろうな,と思う。いまひとつ,僕が夢中になれなかった理由としては,司馬遼太郎が読者の感情を揺さぶると言うよりも,淡々と描いていくいくというところもあるが,主人公の家康という人物をあまり格好良く描いていないからだとも言える。一言でいえば,司馬遼太郎が描く家康は,ひどくケチで,派手な立ち振る舞いを好まず,地味でとにかく保身に長けているといった感じである。せっかく今川義元が討ち取られ,人質の身から解放されたかと思いきや,この機に攻め入る前に「今川家のために・・・」と行動をするわけで律儀というより,保身に汲々としているようだし,信長に指示されたからと言って長男を切腹させるというのは保身の最たるものだ。タイトルが『覇王の家』となっているところ,本書を読んでいる限り,家康にあまり英雄の気概というものを感じない。例外的なのは武田信玄と戦った三方原の戦いくらいのものだ。この辺は書き方の問題で,たとえば「韓信の股くぐり」のように,大望がある人物があえて屈辱的な状況を受け入れるような描き方もできたと思うのだが,司馬遼太郎はそうしない。なんかこう,保身に汲々としているうちに天下を取ったように感じさせられる。終わり方はいつもの司馬遼太郎ように,唐突である。小牧長久手の戦いが終わった後,突然に大坂夏の陣終了まで時間がぶっ飛ぶ。家康は74歳。そして死亡して終わりである。年数で言うのならば,小牧長久手の戦いが1584年で大坂夏の陣終了が1616年なのでざっと30年くらいをぶっ飛ばすわけだ。ここの30年についても,「韓信の股くぐり」のように,情熱を燃やしながら秀吉が取った天下を虎視眈々と狙い続けるようにだとかいくらでも書けたと思うのだ。そこらは司馬遼太郎の興味の外だったのかもしれない。覇王の家(下)(新潮文庫)【電子書籍】[ 司馬遼太郎 ]
2021.08.17
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ヘロドトスの中巻を読んだ。この辺から,メインのペルシア戦争の話が展開し,その関連で少しずつギリシアの話がなされていくのだな。歴史(中)改版 (岩波文庫) [ ヘロドトス ]この岩波版だと,4~6巻が収録されているのだが,内容的にはおおよそこうだ。4巻 スキタイの話5巻 イオニア反乱6巻 マラトンの戦いあまり重要ではないのだろうけれど,『ヒストリエ』的に気になるのが4巻のスキタイの話である。うさんくさい話も,真実かもしれない話もごちゃぐちゃに語られている。ちょっと気になったのが,女戦士アマゾン族の話である。スキタイ系のサウロマタイ人たち,僕はてっきり蛮族だろうと思っていたのだが,たまたま流れ着いたアマゾンたちを妻にするため,言葉も通じないのに徐々に距離感を詰めていくのだ。ついに「お前たちを妻にしたら,もう他の女とは結婚しない」という,一夫一婦制のプロポーズをしたところ,アマゾンたちが「親と同居はイヤ」というので親から生前に遺産分けをしてもらい,自分たちの国を捨ててアマゾンたちと生活を始めるというのだ。きっと,これは史実じゃないだろう。女戦士アマゾン族なんて神話の中の話だろう。恐らくは,サウロマタイ人の女たちが男同様に馬に乗って,狩猟をしたり戦場に行くということの説明付けにアマゾン族を持ち出したんだろうけれど。このエピソードはヘロドトス的にはさほど重要な話じゃないのだろう。本筋はあくまでペルシア戦争だから。ただ,この点はエウメネウスを主役にした漫画『ヒストリエ』的にはひっかかるとこもあるのだ。エウメネウスはもともとスキタイ人の両親から生まれ,幼いころに親と引き離されてカルディアに来たという設定だった。なのでエウメネウスも序盤はスキタイと何かと縁があり,アレクサンダー大王の東方遠征の際に自身のルーツも辿ることになるのか,と思ったが・・・。連載がそこまでいくのだろうか,疑問である。ヒストリエ(1)【電子書籍】[ 岩明均 ]話は変わるのだが,ちょっと気になったのがヘロドトスにおける古代中国との関連性である。まず,1つめは臥薪嘗胆である。ペルシア王ダレイオス1世はサルディスがアテナイ・イオニア連合に占領された際に報復を誓い,食事のたびに給仕に「王よ,アテナイ人を忘れるな!」と言わせたそうな。これはまさに呉越の王たちが報復を誓うため,あえて苦痛と屈辱に耐えて雪辱をはたした臥薪嘗胆の故事とそっくりである。なお,呉越の王たちと違って,別にダレイオス1世は雪辱を果たすということもなかったというのは差異を感じる。2つめに背水の陣である。ペルシア戦争でカリア王マウソロスが「川を背にしてペルシア軍と戦えば,退却できない兵たちは持って生まれた以上の勇気を発揮するに違いない」と進言するも,これが退けられて大敗してしまうのだ。背水の陣という危険性の高い作戦が忌避されたのは分らんでもないが,この作戦が受け入れられて大勝した韓信との対比を感じさせる。一応,ヘロドトスもこの背水の陣については肯定的で,「この作戦が最も良かったのではなかろうか」と評していた。小説十八史略(一)【電子書籍】[ 陳舜臣 ]この2つの類似性については,別にどっちがどっちのパクりというわけでもないだろう。洋の東西を問わず,大望を果たすためあえて屈辱を受けるとか,勝利のためにあえて危険性の高い作戦を採用するというのはありそうなことだ。しかし,いずれも中国では成功したのにペルシア戦争ではうまくいかなかったというのは考えさせられる。安易に英雄のマネをしてもうまくはいかんだろうなぁ・・・。歴史(中)改版 (岩波文庫) [ ヘロドトス ]
2021.07.06
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僕は漫画に影響されやすいのだが,数年前・・・いやもう15年くらい前か,ふと急にヘロドトスを読みたいと思うことがあった。歴史 上(ヘロドトス) (岩波文庫 青405-1) [ ヘロドトス ]漫画,『ヒストリエ』には,主人公エウメネウスが「何か奴にたつところを見せてみろ」と言われ,「ヘロドトスを教えましょう!」と村人にいうシーンがある。ここでヘロドトスというのは,要するにヘロドトスの著作,『歴史』のことである。以下,僕もエウメネウスにならって,著者も著作もまとめてヘロドトスということにしよう。(『ヒストリエ』3巻,ヘロドトスの講義はかなり好評であった)なんとなく先入観だが,作中では手ぶらのエウメネウスが気軽に「ヘロドトスを教えましょう」と言っていること,紙の発明もない時代だから,東洋で言えば『論語』みたく暗記できる程度の分量を思い描いていた。また,ヘロドトスというのはギリシア人であるわけで,『歴史』というそのものずばりなタイトルなのだから,本書はギリシア人の歴史を書いた書物なんだろうと思っていた。また,これが全然違ったのだ・・・。まず,分量がえげつない。岩波文庫で全3巻ある。後ろ4分の1くらいが注釈だから,ぎっしり3冊ではないがそれでも多い。人間というのは歌ならば長くても覚えられるもので『イリアス』くらいなら暗唱できる人がいても不思議ではないが,ヘロドトスを暗唱できる程まで読み込むというのはかなり大変だろうなぁ。次に内容なのだが,あまりギリシアのことが描かれているわけではない。上巻には1~3巻がまとめられているのだが,おおよそこうだ。1巻 リュディア王国(現トルコ)の興亡。2巻 エジプトの地理と歴史3巻 ペルシア王カンビュセス2世とダレイオス1世の登極合間にちよいちょいスパルタの歴史なんかも語られるものの,基本的にギリシア以外の国の話ばかりである。そういれば,僕たちは普通にペルシア人のことを「ダレイオス」など発音するのが慣例になっているけれど,これはギリシア語であって,ペルシア風にいえば「ダーヤラワウ」なんだよね。たぶん,ペルシア人なんかは碑文なんかで歴史を石に刻んだりはしていたようだけれど,携帯に便利で,石に比べれば分量の制限もあまりない書物という形で自分で歴史を残さなかったのがよくなかったのかもしれない。そんなヘロドトスの大きな欠点としては,神話と歴史の区別がされていなかったり,年号が書かれていないためにある出来事がいつ起きたのかということが全く分らないと言うことである。昔から気になっていたが,ギリシア人は「ダレイオス1世の何年」というように年を計算しなかったようだ。塩野七生を読んでいると,古代ローマだと「誰々が執政官の年」みたくやっていたそうだが,後世の歴史家は出来事が起きた順を並べるのに苦労しただろう。それから,神話と歴史の区別がロクにされていないのも問題だ。リュディア王国の祖先はヘラクレスだという話になっているが,わりと当たり前のように,ヘラクレスが至る所に登場する。また,ギリシアから離れた土地には一つ目の民族が住んでいるとか,食人種がいるとか,翼のある蛇がいるとか・・・。著者が聞いた話をファクトチェックも不十分なままに掲載しているからこういうことになるのだろう。こう思うと,司馬遷の『史記』というやつ,きっちり神話を排除したという点はすごいことだったのだなと感心する。個人的にはもっとも興味深かったのが,ペルシア人の歴史物語である。なんといっても,ヘロドトスはカンビュセス2世をボロクソに誹謗中傷しており,精神障害のある暴君としている。たぶん,カンビュセス2世に侵略されたエジプトあたりの記録から取ってるから,ここまで酷くなっているのかもしれない。藤子不二雄の名作,「カンビュセスくじ」という,カニバリズムを扱ったSF漫画のものになった逸話もあるのだが,肝心の食人ネタの出典がヘロドトスだというと,とたんに嘘くさくなってきたなぁ・・・。藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編(4) (てんとう虫コミックス(少年)) [ 藤子・F・ 不二雄 ]はっきり言って,歴史的な正確性を考えると,そうとうヘロドトスは微妙だと思う。正確な歴史を読みたければ,講談社学術文庫でも読んでいる方がいいだろう。最後に,歴史から少し離れて神話の話を。以前,僕は『アレクサンドロス大王東征記』を読んだとき,やっぱりエジプトだとかインドだとか,いたるところにヘラクレスが伝説を残している話に違和感を覚えたものの,どうやらこの時代のギリシア的解釈というので,現地の神々をギリシアの神々で置き換えるのが普通に行われていたようだ。たとえば,ヘロドトスは外国に天空を司る神がいれば,それは「ゼウス」と記述してしまう。現代人は家の中でもテレビでもネットから情報が得られるが,当時のギリシア人は「ゼウス」は理解できても,「天空神」という概念は理解できなかったかもしれない。日本でも,仏教と神道が混ざり合った世界観を作り出しているけれど,ヘロドトスを読んでいると世界各地の神話が混ざり合っていく過程が分って興味深い。歴史 上(ヘロドトス) (岩波文庫 青405-1) [ ヘロドトス ]しnんw
2021.06.22
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漫画やゲームの世界には,「大好物の食べ物があるキャラ」というのが珍しくない。古い例だと,kanonの「月宮あゆ」なら鯛焼き,月姫の「シエル先輩」ならカレーと言ったように。キャラ付けの一環だろう。では,アキレウスやヘラクレスはどんなものを食べていたのだろう。それを考察したのが本書,『食べるギリシア人~古典文学グルメ紀行』である。食べるギリシア人 古典文学グルメ紀行 (岩波新書) [ 丹下和彦 ]ざっと目次を見ていくと,こんな感じ。Ⅰ 英雄たちの宴Ⅱ 酒の中に「真」ありⅢ 庶民のレシピⅣ 食卓の周辺個人的に,注目したいのはやはりⅠの「英雄たちの宴」とⅣの「食卓の周辺」である。順に見ていこう。とにかく面白いのが,著者の着眼点である。原典に「書いてあること」から事実を見つけるのもそうだけれど,「書いてないこと」から事実を探るという視点が面白い。たとえば,『イリアス』を読んでいると定型句として,食事描写の跡に「飲食の欲を追い払った」とあるが,味への評価がほぼない。あるとしても,いつも「結構な食事」とか「うまい料理」と言ってて,英雄たちはまさに「何を食べてもうまいと言う」,味オンチな男たちになっていて,逆に「この料理はもう少し塩っ気が欲しいな」とか,「誰それの料理は,誰々のよりうまい」など全く言わないのだ。『イリアス』の作者であるホメロスが,さほど食に興味がなかったのかもしれないし,生活臭のする描写をいちいちしなかったせいかもしれんが,あまり英雄たちは食に関心がなさそうだ。著者の分析によると,英雄という者たちは普通の人間よりも戦闘など非日常の世界におり,日常的な食事にはさほど感心を持たないというのだ。あくまで,英雄たちにとって,食事というのは「飲食の欲を払う」ためのものだという。まあ,確かにネクタルとアンブロシアだけあれば生きていける,いや食べなくても死なない神々と違って,人間は食べなきゃ死ぬのだ。だからこそ,アキレウスみたいに神々の血が入ることも多い英雄たちは,あんまり食事という日常的なものに執着しないというのもありえることだろう。ただ,著者はここで食べることが大好きな2人の例外を出している。オデュッセウスとヘラクレスだ。1人目のオデュッセウスは,たびたび食事の話をするのだ。たとえば,パトロクロスへの復讐心に燃え,今すぐにでも戦場に飛び出さんばかりのアキレウスに対し,「腹が減っては戦もできん。まずは兵たちに食わせてからだ」と言ったりするし,パイエスケス人たちとの宴会の席で,「山盛りのパンと肉料理と美酒。これこそ愉楽の極地と思います」とか言ったりする。英雄というのは神と人間の中間みたいな立ち位置なのだが,神々に近いアキレウスと違い,オデュッセウスは人間より。というか,知恵が回り,勇気があるだけで身体能力も低く,あくまでも人間なのだ。だからこそ,僕はオデュッセウスに感情移入もできるし,憧れるのだ。さて,食べるのが好きな英雄の2人目はヘラクレスだ。彼こそ英雄の中の英雄,人間より神々に近い。著者の理論だと食に興味がなさそうなのにこれは意外である。といっても,ヘラクレスは美食家というより,量なのだ。肉体的な強さを示すように,牛をまるごと,酒は甕ごとである。反証として,食に興味がなさそうなのはホメロスの描いた『イリアス』の英雄たちという可能性もあるので,意外とその他の作品を読むと飲食のシーンはあるかもしれない。また,これは著者自身も指摘しているが,『ギリシア悲劇』では極端に食事シーンがないけれど,舞台上の制約から屋外である必要があり,屋内の食事シーンを入れにくいという見方もあるのだが。最後に気になったのが,Ⅳの「食卓の周辺」の話でやっているトイレの話。著者は,古代ギリシアのトイレ事情を説明しつつも,ホメロスの著作に5万人の兵士たちの排泄物を処理する方法について一切の描写がないことや,「アキレウスの鬼神のごとき働きに圧倒され,ついお漏らしをしたトロイア兵士もいたに違いないが,例によってホメロスは,そんなことは一切書いていない」(本書191頁)こと残念がってる。こうして,著者は「英雄はそもそも便などしないのかもしれぬ」(本書190頁)というが,ここでも例外的存在として僕たちのヘラクレスが登場する。ヘラクレスはエウロブスの喜劇で,「テバイではどの家にもトイレが完備してあって,ありがたかったなぁ」と発言していたりして,いちいち笑わせてくれる。これは当時のギリシアの一般家庭にはほぼトイレがなかったことを示す話なんだが,個人的には,英雄の中の英雄で,人間よりも神々に近いヘラクレスがトイレ行くあたりに衝撃を覚える。なんとも,ヘラクレスという人物のおおらかさを感じられて,僕は好きだよ。食べるギリシア人 古典文学グルメ紀行 (岩波新書) [ 丹下和彦 ]
2020.12.03
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「あれは歴史書ではない,小説だ」という批判は大きいものの,恐らく「塩野七生の『ローマ人の物語』で古代ローマを学んだ」という日本人は少なくないだろう。カエサルの時代やらネロの時代やら,飛び地のようにして古代ローマに触れる機会はあるものの,日本人が書いたものだと塩野七生の著書以外で全編通してローマ史に触れられる書籍というのはあんまりないように思う。僕も,『ローマ人の物語』は,全巻読んだ,とまではいえないものの,10巻かそこらまでは読んでいる。だが,途中で挫折してしまったので,そのあたりの話をしていきたい。ローマは一日にして成らず──ローマ人の物語[電子版]I【電子書籍】[ 塩野七生 ]色々と理由はある。全15巻と長すぎる。冗長だ。また,隙あらばインフラ話をするのだが,第10巻の1冊をまるごと使って延々とインフラの話をする巻はどうも辛かった記憶が大きい。ただ,最大の理由はローマ人至上主義とも言える歴史観がどうも肌に合わないからである。塩野七生はどうやらローマ人が好きなんだなぁ,というのが行間から読み取れるし,ローマ人を最高の民族だと思っている節がある。そのあたりは別にいいのだが,それ以外の民族をかなり下に見ている傾向が強い。僕が色々と我慢できなかったのは,「蛮族」という表現である。『ローマ人の物語』は,塩野七生の言う「蛮族」との抗争の歴史という側面がある。塩野七生はどうも,地の文で「蛮族」という言葉を連発しているし,どうもこの「蛮族」が好きじゃないようだ。適当に『ローマ人の物語』を手に取って,適当に開いた頁をみるとこうだ。「また,蛮族やペルシアという強力な外敵への対処に集中せざるをえなく,国内の治安にまで手が回らなかった時期が長く続いたことも,盗賊集団の横行を許した原因の一つであった」(塩野七生,『ローマ人の物語13,最後の努力』新潮社25頁)」「北方蛮族の侵略が激化した三世紀からすでに,騎馬戦力を主とする蛮族に対抗するためにローマ軍も,伝統であった重装歩兵から騎兵に,軍の主戦力を転換せざるをえなくなった(塩野七生,『ローマ人の物語13,最後の努力』新潮社234頁)」この「蛮族」という呼称には2つの面から問題があると思う。1つは差別的ではないか,とういこと。蛮族というのは要するに,文化的な程度が低い,野蛮な民族の意味だ。たとえば,テレビニュースでキャスターがお隣の国の人を「蛮族」と言おうものなら炎上は避けられない。蔑称だし,差別の意思がありませんでした,は通用しないだろう。別に,小説の中でカエサルがガリア人に対し,「あの蛮族どもめ・・・!」と発言するというのはそれはいい。そういう差別意識が当然の世界観なのだし,キャラクターの個性も出る。でも,地の文でいちいち蛮族呼ばわりする必要はないだろう。だいたいにおいて,ローマ人がそれほど文化的で素晴らしい民族なのか?なんか好戦的で戦争にはやたら強く,どんどん領土の拡大をしてくる。剣闘士が殺し合う見世物を楽しんだり,嘔吐してまで美食を腹に詰め込んだりする。これも野蛮ではなかろうか。2つは,この「蛮族」というのがどの民族のことを指しているのか,一読してわかりにくくなること。1つ目の引用を見て分るとおり,塩野七生はペルシアやカルタゴなんかを蛮族とは基本的に言わない。傾向を見る限り,塩野七生が「蛮族」という呼称を使うのはケルト人やゲルマン人だ。恐らく,著者から見てこれらの民族は文化的な程度が低いというのだろう。著者には文脈によって「蛮族」というのが分るのだろうが,読者にとってそのへんは明確ににならず,どの民族か読み取れない。こんなことを言うと,言葉狩りだと言われるだろうかもしれない。「鮮卑」だとか「蒙古」だとか,中国人は異民族の名前に対し,マイナスイメージのある漢字を当ててきていたし,日本語にも「南蛮」という言葉が残っている。こういった歴史的な用語も差別的だから使うな,ということにもなりかねない。ただ,塩野七生が「蛮族」という言葉を使うのは,そもそも必要性が感じられない。素直にゲルマン族だのケルト人だの,もっと適切で明確な言葉を使えばいいだけである。そんなわけで,読んでストレスがたまるため,『ローマ人の物語』は途中で挫折してしまった。気にしなければ良かったような気もするのだけれど。最後の努力──ローマ人の物語[電子版]XIII【電子書籍】[ 塩野七生 ]
2020.09.08
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シェイクスピアの歴史劇はちょこちょこ読んでいたのだけれど,だいたいシェイクスピアの歴史劇というやつは薔薇戦争の前後を扱ったものが多い。 ただ,このあたりは日本人には馴染みがほとんどない。特に分からんのが,シェイクスピアが最高の名君として描くヘンリー五世像である。親不孝の放蕩息子が改心し名君になる,という扱いだ。日本でいえば暴れん坊将軍こと徳川吉宗あたりが近いのかな・・・。ただ,史実を見るとヘンリー五世が放蕩息子だったという話はないようで,なぜこんなことになっているのか,Wikipediaなんかを適当に読んでいてもよく分からん。そんなとき,書店で立ち読みしたのが石原孝哉著,『ヘンリー五世 万民に愛された王か,冷酷な侵略者か』である。サブタイトルも長いので,以下では「本書」で通すことにする。 ヘンリー五世 万人に愛された王か、冷酷な侵略者か (世界歴史叢書) [ 石原 孝哉 ] まず,本書の目次を見せてみるとこうだ。 第1章 少年時代と放蕩息子伝説 第2章 皇太子となったハル 第3章 皇太子ハルの放蕩の秘密 第4章 ヘンリー四世の死と嵐の船出 第5章 ローラド派の対立とフォールスタッフの誕生 第6章 フランス侵攻計画 第7章 サウサンプトン陰謀事件 第8章 百年戦争の再開 第9章 決戦アジンコート 第10章 ノルマンディーの占領 第11章 ヘンリー五世の死 第12章 ヘンリー五世像の変遷 冒頭から,ヘンリー五世の放蕩息子伝説を扱い,最後にヘンリー五世像の変遷でしめる。僕の知りたいこと,興味があるところを真っ正面から扱ってくれている。これは立ち読み即購入である。 なお,著者の経歴を見ると歴史学者というより英文学者だそうだから,焦点のあて方としては納得である。 そして,目次をざっと見て貰えば分かるんだけど,著者はヘンリー五世が即位するまでは「ハル王子」で通していて,並々ならぬこだわりを感じるところだ。 さて,僕の最大の疑問は「なぜ,シェイクスピアはヘンリー五世を放蕩息子として描いたのか?」というところだ。シェイクスピアも何の材料もなくそんな脚色をするはずがない。 経歴を見ても,少年時代は武術や勉強に打ち込んでいて,どちらかといえば優等生である。著者が指摘するように,せいぜい「怠惰な習慣」として楽器の演奏や作曲をしていた程度である。 この点,著者は第3章「皇太子ハルの放蕩の秘密」で放蕩息子伝説成立の経緯を説明している。この辺が本当に面白いところだろうか。 ヘンリー五世と父親との外交問題における対立問題という難しい話を,政治問題をすり抜けるため,聖書にもある「悔い改めた放蕩息子」という形でアレンジしたのだろうと指摘している。また,そもそも論としてシェイクスピア以前の劇作品の時点で,すでにヘンリー五世を放蕩息子として描く作品があったとか,この辺も興味深いところである。 それにしても,シェイクスピアを読んだ後に史実のヘンリー五世を見ると,確かに戦争では情け容赦のない描写が目立つ。 著者が指摘するように,シェイクスピアの描くようにユーモアがあったり,迷ったりと言った人間味というものはさほど強くないのかもしれない。というか,シェイクスピアの史劇を見ていても,放蕩息子だった第1部と比較すると,ヘンリー五世が改心した2部はそんな面白くない。 間違いをするから人間であり,話が面白くなるのかもしれない。 また,面白かったのがシェイクスピアの歴史観である。 かの直木賞作家,佐藤賢一は著書『英仏百年戦争』で「イギリス人は,シェイクスピア作品の影響から,百年戦争でイギリスが勝ったと思い込んでいる」という「シェイクスピア症候群」というべき状態を指摘し,歴史のすり替えとしてきしていた。 この点について著者は,「百年戦争という概念自体が19世紀のものだ」とシェイクスピアを擁護している(本書290頁)。僕は佐藤賢一のファンでもあるが,シェイクスピアが歴史をすり替え,ねじ曲げたわけではないにせよ,結果的に英国民がシェイクスピアの影響で若干ズレた歴史観を持っているというのなら,シェイクスピアの功罪はともかくとしてやはり偉大なものだ,と思うのだ。 【送料無料】 ヘンリー五世 万人に愛された王か、冷酷な侵略者か 世界歴史叢書 / 石原孝哉 【全集・双書】
2020.02.04
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佐藤賢一の新書『ブルボン朝』を読んだ。感想を書いていこうと思う。 ブルボン朝 フランス王朝史3 (講談社現代新書) [ 佐藤 賢一 ] この『ブルボン朝』は佐藤賢一のフランス王朝史シリーズの3作目である。先行するものに『カペー朝』と『ヴァロア朝』がある。 ブルボン朝はたかだが225年程度でしかなく,ヴァロア朝は260年,カペー朝は340年。つまりブルボン朝が一番短い。ところが,本の厚さはブルボン朝が一番になる。『カペー朝』の倍近くになる。ところが,お値段は数百円高くなるだけなので,最も厚い『ブルボン朝』がページ当たりの単価は最安ということになろうか。 そして,おおざっぱに目次とページ数を並べると,こう。 はじめに ブルボン朝とは何か(11頁)第1章 大王アンリ4世(111頁)第2章 正義王ルイ13世(52頁)第3章 太陽王ルイ14世(93頁)第4章 最愛王ルイ15世(59頁)第5章 ルイ16世(59頁)第6章 最後の王たち(39頁)おわりに 国家神格化の物語(12頁)これまでの王朝シリーズ同様,王を中心に歴史の解説がされる形式になっている。 ページ数がそのまま著者の関心の高さとはならないだろうが,一定の目星にはなるだろう。最もページ数の短いルイ13世について著者は,「『三銃士』の作中ではどうも印象が薄い。」だの辛口である。あとでルイ16世の評でも触れるが,著者の中では最も評価が低そうだ。 さて,すべての王について僕の感想だとか意見を述べるには紙幅が足らない。断腸の思いで2人に絞ることにしよう。 まず1人目は大王アンリ4世だ。ページ数ももっとも多い。 厳密にいえば,アンリ4世について叙述した第1章は彼の生涯をまとめたものだから,王に即位するまではヴァロア朝ではあるのだが,細かなことは言うまい。 僕はデュマの小説『三銃士』を愛読しているのだが,やはり作中でアンリ4世の評かはすこぶる高い。 主人公であるダルタニャンと同郷のガスコーニュ出身で,パリから遠く離れた片田舎から天下を取ったわけだから,「俺もアンリ4世みたいになってやる」とダルタニャンが憧れるわけだ。 そんなアンリ4世の生涯を見ると,これはもう,変節漢というべきだろう。もともとプロテスタントの首魁であったはずなのだが,命の危機となるとカトリックに改宗する。生涯で5度の改宗というのだから,いったいこの男はどうなっていたのか,そう思わざるを得ない。 まともに考えたら,こんな変節漢が社会的信用を得られるはずがないのだが,アンリ4世はフランスの内乱を平定した大王である。 改宗についても抜群の政治感覚があったというべきなのか。 そして僕が選ぶ2人目の王がルイ16世だ。 彼の後にもルイ17世だとかがいたものの,実質的にはルイ16世がブルボン朝最後の王というべきだろう。 僕はたまに考えるのだが,ルイ16世はいったいどうすれば良かったのだろうか? 革命で殺された王はルイ16世だけではない。チャールズ1世なんかもそうだ。世情が悪かったのか,どうすればフランス革命の嵐を乗り越えられたのか。 著者の中でルイ16世の評価は決して低くはないようで,「パッとしない王」とまで論じながらも,こう述べている。実際のところ,例えば祖父のルイ15世では,ここまでは戦えなかっただろう。 ルイ14世とて,ここまでやれたかはわからない。 ルイ13世ではおそらく話にならなかっただろう。 切り抜けたかもしれないと思わせるのは,アンリ4世くらいのものであり,してみるとルイ16世はブルボン朝屈指の力のある王だったことになる。(本書390頁)」 ある意味でこの引用部分が著者によるブルボン朝の王たちの政治力というか,評価というべきか。 アンリ4世を頂点として,ルイ16世とルイ14世がほぼ同格。これにちょっと及ばないのがルイ15世で,最も評価が低いのがルイ13世となるわけだ。 著者は,どうやってアンリ4世が切り抜けたのかは考察していないものの,生涯5回も改宗し,それでいて社会的信用もあったアンリ4世だ。 危機となれば第三身分に迎合し,第三身分とともに貴族の既得権益を攻撃する方に転向し,時機を見て貴族に肩入れもできたかもしれないな。 全体のまとめなのだが,本書はブルボン朝の王を中心に描かれているので,例えばダルタニャンなんかルイ13世のところに軽く名前が出てくるだけである。実際,歴史に名を遺すほどの功績がないといえばそうなのだろうが。 王朝史シリーズは終わったのかもしれないが,次は王以外にも焦点を当てて,たとえばダルタニャンと同時期に活躍した軍人,コンデ大公とかテュレンヌ子爵なんかについても知りたいものだ。 ブルボン朝/佐藤賢一
2019.06.27
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上巻に引き続いて感想を書いていく。すでにペルシア帝国に勝ってしまっているわけで,下巻はインド編である。アレクサンドロス大王東征記(下) (岩波文庫) [ アリアノス ]さて,このインド編は上巻の感想でもチラリと触れたけど,著者アッリアノスのインドを分かっていない感が半端ではない。ギリシア神話の英雄ヘラクレスだとか,ワインの神,ディオニュソスが攻めてきたという話なんかが紹介されていて,「嘘だろ…」と思ったが,Wikipediaでを見る限り,ディオニュソスの方はどうもマジっぽいですね。といっても,アッリアノスもこのへんには懐疑的で,「インドのヘラクレス」とギリシアのヘラクレスとは別人なんじゃないかという表記したりしてはいるのだけれど。色々と見どころはあると思う。戦記ものなわけだし,例のごとく最前線で戦うアレクサンドロスは瀕死の重傷を負ってしまう場面なんかもある。ただ,僕が気にして読んでしまうのは,マケドニア兵がついに帰りたいと主張してボイコットを始めるところ。このへんは,アッリアノスも詳細に記述している。そして,古参兵のコイノスの諫言を受けて,ようやくマケドニアに帰ることになるのだが,コイノスは諫言から3日後に死んでしまうのだ。これ,本当に病死なんですかね。暗殺されていませんよね,と思わないでもない。むしろ,死期が近いと思ったからこそ命がけで諫言をしたとみるべきなのかどうなのか。アッリアノスは「3日後に死んだ」という事実を記載しているだけだし,Wikipediaにも特に何も書いていないが,僕としては気になるところではあるのだ。そして,ガドロシア砂漠の横断である。この砂漠の横断には60日かかり,凄まじいまでの死者が出た。アッリアノスは,「史家の伝えるところでは,彼のひきいる軍勢がアジアの地で耐え忍んだ苦難という苦難もそれらを全部足してさえ,この地で彼らが嘗めた艱難辛苦と比較するにはとうてい足りないということだ」(6巻24)と紹介している。過去の英雄を見るにせよ,軍勢はみな壊滅し,砂漠を突破した際にセミラミスが20人だけ,キュロスも7人だけしか生き残らなかったという。これを聞いたうえで砂漠に入るのだから,アレクサンドロスはどうかしていると思う。英雄へのあこがれというにも,ちょっと無茶だ。で,結局軍勢はかなりの打撃を受けている。アッリアノスはかなりの人数が死んだ,としか書いていない。しかし,阿刀田高の小説だと,4万人で砂漠に入り,突破できたのは1万5000人,半数以上は死んでいたはずだ。春秋の筆法というやつで,アレクサンドロスファンのアッリアノスが人数を書くのをやめたのかもしれない。また,この砂漠のエピソードとして,部下が1人ぶんだけの水を発見し,アレクサンドロスに献上したものの,アレクサンドロスが1人だけ飲むわけにはいけない,と水を捨てた話が美談として書かれている。このエピソードを初めて目にしたのは,学研の歴史漫画だったと思う。当時小学生の僕も,なんか釈然としなかったものだ。ちなみに,田中芳樹は『アルスラーン戦記』において,智将ナルサスの口を借りて「全く美談ではない。兵站をおろそかにして兵を危機的状況にしている時点でダメだ」というようなことを言わせていたはずだ。なお,アッリアノスは普通に美談として扱っているが,僕は田中芳樹説に票を投じたい。さて,どうもアレクサンドロスについて批判がましい事ばかり書いてしまったが,なんというか,ダレイオスを倒したあたりでもう絶頂を過ぎている感がしないでもない。下り坂の状況でもなお,インドに攻め入るだけのことができるので,やはり大英雄だとは思うのだけど,欠点も多く,まさに暴君的なところがある。英雄というものは,知れば知るほどダメなところも見えてきてしまって,たとえば三国志中級者あたりがしきりに諸葛孔明の無能論を唱えたりするようなところもあるのかもしれないけどね。付録的な感じでついている『インド誌』は,これもファンタジーの世界が入ってて面白いが割愛。個人的に,インドのヘラクレスとやらの活躍は本当に気になるところ。こいつ,『インド誌』によると老境に入ってから,自分の娘と子ども作っているとか,僕の知ってるヘラクレスとずいぶんと違うのだ。気が向いたら,インドのヘラクレスにういて簡単なまとめでも書いてみようかな。誰もこんなんまとめてないみたいだし。
2019.03.29
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2年近く積みっぱなしになっていた『アレクサンドロス大王東征記』をようやく上巻だけ読み切った。阿刀田高の『獅子王アレクサンドロス』だとか,漫画『ヒストリエ』なんかでやる気が出た感じになるね(2019.3.13日記)。【中古】文庫 ≪政治・経済・社会≫ アレクサンドロス大王東征記 上 / アッリアノス【中古】afbさて,この『アレクサンドロス大王東征記』なんだけど,上巻だとアレクサンドロス大王が即位したところから始まり,インドでポロス大王と戦うあたりまで。即位前のエピソードはばっさりカットされているのは残念ではある。この東征記なんだけど,延々と事実を羅列するかたちになっていて,ずいぶんと退屈な感じになっている。いや,歴史書なんだからそりゃ当然なのだけどね。また,歴史書という性格上,アレクサンドロス大王のプライベートなんかはほぼ書いていない。ただ,ときたまアッリアノスの論考が書かれている部分は非常に面白い。また,感心するのが序文で1巻冒頭で著者であるアッリアノスが,「アレクサンドロス大王については多くの記録があるのだが,書かれていることがずいぶん違う。」として,「アリストブロスとプトレマイオスの記録が一致するものについてはそのまま採用し,一致しない場合はより信用できる方を採用する。また,その他資料も参考にする」としっかりと宣言しているのが面白い。現代同様,この時代にも歴史修正主義者はいただろうし,特にアレクサンドロス大王については毀誉褒貶あったろうから。さて,読み進む際,僕が気にしながら読むのは,アレクサンドロスによるピロタス・パルメニオン親子の粛清と,クレイトス殺害,またカリステネスの粛清である。アレクサンドロスは征服王なので敵を大勢殺しているのは当然として,読んでいて引いてしまうくらい味方も殺している。まずピロタスだとパルメニオンである(3巻26以降)。ピロタスはアレクサンドロスの学友だし,その父パルメニオンは父フィリッポス2世時代からの忠臣である。これについて,著者であるアッリアノスは事実をただ記述するだけで,この決断をしたアレクサンドロスの気持ちなんか記していない。時期的に,ガウガメラの戦いが終わっていて,もはやパルメニオンは不要になっていたのか,等考えは尽きない。ところが,クレイトスとなるとやや事情が異なる(4巻8)。このクレイトスもアレクサンドロスの学友である。三国志でいえば,アレクサンドロスを劉備玄徳とすれば,クレイトスは張飛くらいの役割か。このクレイトスを,アレクサンドロスは酔った勢いで喧嘩して,殺してしまうのだ。原因は,アレクサンドロスがペルシアの文化を取り入れたり,自分は神以上の存在だと傲慢になったアレクサンドロスにクレイトスが意見したためである。これについて,アッリアノスは正気に返ったアレクサンドロスは自殺未遂を図ったことや,三日も食事を取らず泣き暮らしたことを書き記す一方,「王に対して傲岸不遜の行いをした」とクレイトスを咎めているのが気になる。このとき,へファイスチオンやプトレマイオスはどういう反応をしたのか,クレイトスの遺族への補償はどうなったのか,気になるところだ。そして,最後にカリステネスの粛清だ(4巻10~13)。カリステネスの話は,クレイトス殺害の直後くらいに語られるのだがかなりの分量を使っている。また,著者はこの4巻はかなりの分量を費やして,ペルシア文化に耽溺するアレクサンドロスへの批判をしている。ここでカリステネスも殺されてしまうわけだが,僕としては悲しい気持ちになるな…。せっかくだから,最後にヘラクレス伝説の話をしたい。世界各地にあるヘラクレス伝説があるんだけど,まずはテュロスにもヘラクレス=メルカトの話(2巻16)。著者は,やけにヘラクレスが世界中で活躍してることになっているけど,伝説が混じっているんじゃないのか,と指摘していたりしている。神々がマジで信じられていた時代にと考えるとずいぶんと興味深い。さらにヘラクレスはインドのアオルノス地方までやってきたが,ここの都市を攻略できなかったという伝説もあるらしい(4巻28)。著者も若干の含みを持たせていたテュロスと違って,「さすがにインドまでヘラクレスが来たとは思われない。ヘラクレスの名は,大げさに誇張するためのでっちあげでは?」としていたするのが興味深い。アレクサンドロスは「俺なら宝石箱の中にイリアスを入れておく」とか言っちゃうほどアキレウスの大ファンなはずだけど,かなり強いヘラクレス人気を感じる。アキレウスと違って,世界中を旅していたので動かしやすいのもあるかもしれないが。アレクサンドロスも,バルシネとの間に生まれた庶子にヘラクレスと名前を付けているし,ある程度はヘラクレスを信奉していたのだなと思うよ。
2019.03.25
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なぜか買ってしまい,しばらく積んでいたがちょっと暇になったので読んでみた。感想を書いていく。「司馬遼太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書) [ 磯田道史 ]司馬遼太郎はたぶん,日本史に与えた影響は結構大きいと思うし,「司馬遼太郎で日本史を学んだ!」と,司馬遼太郎の小説を歴史だと思い込んでいる人は相当いそうな気がする。そんな情勢もあるだろうけど,司馬遼太郎ガイドブックを読んでみようてきな感覚で読んでみた。目次はこんな感じ。序章 司馬遼太郎という視点第1章 戦国時代は何を生み出したのか第2章 幕末という大転換点第3章 明治の「理想」はいかに実ったか第4章 「鬼胎の時代」の謎に迫る終章 21世紀に生きる私たちへ4章の「鬼胎」というのは日露戦争あたりを扱っているので,申し訳程度に戦国時代が入っているけど,実際にはほぼ幕末から明治を扱っている。司馬遼太郎には源平合戦をテーマにした『義経』もあるし,室町時代を扱った『妖怪』もあるじゃないかと思うが,それはスルーである。著者としては,司馬遼太郎を通して幕末から明治のナショナリズムとかその辺を書きたかったのかな,と思う。また,司馬遼太郎の小説もそんなに扱っていない。2章で幕末を扱いながら,『燃えよ剣』とかは一言だけという程度だったりする。逆に,踏み込んだ記述をしている小説としては,戦国時代から信長・秀吉・家康を主役とした小説を何点か,幕末から大村益次郎を主役とした『花神』,明治に行って『坂の上の雲』あたりくらいかな。僕が求めていた,司馬遼太郎の小説のガイドブック的なもの,「小説ではこうなっているけどこれは司馬遼太郎の創作で,史実ではこうだよ」,とか「司馬遼太郎はこのキャラクターのモデルとして誰々を使った」とかそういうのを期待して読む本ではなかったな。
2019.02.26
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ベストセラーだというから2年くらい前に買ったままになってた新書『応仁の乱』。なんだかんだで読んだので感想書いていく。 応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) [ 呉座勇一 ] まず、内容以前の問題なのだけど、読むのが信じられないくらい辛かった。時系列に沿って延々と事実を羅列していくし、登場人物は多いしで、数ページ読んで中断。また手に取るけど読みきれず、で少なくとも3度は挫折してる。なぜ、ベストセラーなのか、決して読みやすくはないぞ。 内容なのだけど、この本では応仁の乱についての資料として、興福寺の僧侶の書いた日記を主要なものとして使ってる。僧侶といってもそこらの坊さんではない。興福寺のトップとなった経覚、尋尊という2人の人物だ。 この時代の興福寺は単なる寺というわけではなく、奈良近辺の事実上の国司みたいなものだったらしいし、慣例的に、貴族の中の貴族、藤原氏の子息がやることになってるから経覚も尋尊も貴族みたいなもんだ。 この2人を主役にというと言い過ぎだが、中心には据えて書かれていく。 だいたい、応仁の乱といえば、足利幕府の6代目、足利義教の後継者を巡って起きた争いとして構成していくのが伝統的な説明だと思う。だから、基本的には足利義教が将軍となる前後くらいから話を進めるんだと思うのだが、著者は安易にそうしない。 どうしても、ほぼ馴染みの薄い僧侶と興福寺内部の説明に紙幅を使ったりなんかしたりなんかで、わりと辛い。逆に嘉吉の乱なんかが一瞬で終わったりする。 あまりに読むのが辛いのは知識が足らんからだろうと、海音寺潮五郎の著作で、この辺りの時代を扱ってるのを数冊読んで予習し、それでもついていけないレベルだった。 素人にはあまりオススメできないよ。
2019.02.24
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最近マイブームが来てるイングランド史の新書読んだ。著者は信頼と実績の桜井俊彰。ノルマン朝成立後はともかく、それ以前の書籍ってあんま見ないから、けっこう貴重だよ。消えたイングランド王国 (集英社新書) [ 桜井俊彰 ]イングランドは支配する民族が何度か変わっているが、この本で扱うのは9〜11世紀。アングロサクソン人たちの時代だ。イングランドは異民族と戦争ばかりしてるんだけど、前4分の3くらいはデーン人たちとの抗争を、最後の4分の1くらいでノルマン人たちとの戦いを描いていく。その中でアングロサクソン人たちにも何人かの王や英雄が出てくるわけだけだ。大きく扱われるのが、3人ほどあげてみよう。1人が、エゼルレッド無策王だ。名前が酷すぎだし、ション失地王と並ぶ暗君のようだが、要するにデーン人の侵攻への対策がダメだと言うことだ。ただ、著者はデーン人たちへの貢ぎ物をすることによって休戦をしてもらうというデーンゲルドについては、あのアルフレッド大王だって平和金と称して貢いでいたわけだし、とやや弁護もしてるのが興味深い。2人目が、ビュルフトノースだ。デーン人たちと戦い、死んでいった勇者なんだけど、描写から著者の思い入れの深さを感じる。特に、彼の戦いを描いた『モルドンの戦い』という散文詩を、わざわざ著者が翻訳して付録として収録してたりしてる。特に、ビュルフトノースの戦術として論争があるのが、数で勝るデーン人たちを、狭い橋の上で迎撃するという有利を捨てて、あえて橋を渡らせたというの。ビュルフトノース無能論やら、本当はそんな戦術使ってない論まであるらしいけど、著者は、「ここで橋を渡らせないと、デーン人たちはここを攻めるのをやめて退却し、余所の地方を荒らされるだけだから、渡らせるしかない」と弁護してるが、どうのかな。最後の3人目はかなり迷うが、ウィリアム征服王だ。他にも、エドモンド剛勇王、広大な北海帝国を成立させたデーン人クヌートなどいるが、やはりウィリアム征服王は外せないだろう。世界史の教科書だと、1行で終わってしまうノルマン・コンクェストだが、本書では日数をいれ、細かく描写されている。また、ウィリアムが攻め入る前に、アングロサクソン人ではあるが、ノルマン育ちのエドワード聖証王がノルマン人優遇政策を取ってて、前振りがあったことになってる。さらに、攻め入る前に教会を味方につけるなど、ウィリアム征服王の政治力もなかなかだ。が、それでもヘイスティングの戦いは微妙なもので、もしイングランド王ハロルド二世が流れ矢を目に受けなければ、もしイングランドが一斉攻撃をノルマン軍にかけていれば、勝敗は逆だったかもしれない、という書きぶりになってて、ギリギリの勝利だというのが伝わって来る。ウィリアム征服王のあとは、ノルマン朝、プランタジネット朝と続いていくわけだが、また別の時代も読んでみたいものだ。
2019.02.16
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持統天皇を主役にした漫画『天上の虹』も読み切ったことだし,ちょっと欲が出てきた。専門書ならば無理だろうが,新書ならばお手軽だろう,と思い手を出したのが講談社現代新書から出てる『天智と持統』。これが,ちょっと難易度髙かったかもしれない。天智と持統【電子書籍】[ 遠山美都男 ]【在庫あり/即出荷可】【新品】天上の虹 持統天皇物語 [文庫版] (1-11巻 全巻) 全巻セット僕は『日本書紀』についてはほぼ何も知らない状態なのだが,感覚として,日本書紀についてある程度知っている層をターゲットにしているらしく,ちょっと困る。また,争いのあるところは通説だけにとどまらず,有力説に加え,著者の自説も展開していくスタイルになっているため,読者としては混乱してしまう。単純に,通説の紹介だけをしてくれい,と。さて,内容だが大きく2部構成になっている。前半が天智天皇の解説で,『日本書紀』と『鎌足伝』という2つの史書をもとに,天智天皇の文の人,武の人という2つのイメージについて触れていく。後半が持統天皇で,壬申の乱での関与だとか,律令体制について触れていく。漫画で予習をしたからか,持統天皇のパートの方が読みやすいかな。で,著者も何度も触れているが,この時代の歴史資料というのは極めて信用しにくいということだ。天智天皇編で用いた『鎌足伝』なんかは藤原氏が作った歴史書なのだが,どうも藤原仲麻呂が,自分の祖先である鎌足が天智天皇と絶対的な信頼関係を持っていたという事に加え,それを継承する正当性を持っていたという形を取るために作ったらしく,エピソードのねつ造が結構あるらしいのだ。逆に削られたエピソードとして当時は中大兄皇子だった天智天皇が,大化の改新で蘇我氏を打ち滅ぼした話がカットされている。『鎌足伝』が信用できないとしたら,『日本書紀』はどうなのかといえば,これもうさんくさい。『日本書紀』それ自体が中国の歴史書の影響を強く受けており,日本の人物の解説をする際,いちいち中国の似たような功績の人物を探し出してきて,それを参考に書いているようなところがあるとのこと。僕が笑ってしまったのが,持統天皇について『日本書紀』は,「帝王の娘でありながら礼を好み,節度があり,母としてすぐれた仁徳を備えていた」と評しているが,これが一字一句,『後漢書』の光武帝の皇后の母親の評のコピペだという(本書132頁)。いや,そこは大事なところだからコピペしちゃダメでしょ,と思うところである。著者のフォローだと,だいたい初めての歴史書編纂という大事業をやる際,中国の史書に依拠してやったのは仕方ないといような書きぶり。まぁ,確かに仕方ないよね。テーマと大きくずれるが,どうも歴史書というものについて考えさせられる。作成者の意思でねつ造をするという歴史修正主義者というのが現代にもいるが,古代からいたのだなと思うと感慨深い。特に,近年はウィキペディアのコピペでできている『日本国紀』というのがあるんだが,変なところで『日本書紀』のマネをせんでもいいじゃないか,と思うのだ。いや,文化の最先端だった中国の歴史書のコピペと,ウィキペディアのコピペでは全然違うかな。この辺,法律家というのは実に楽である。法律なり,最高裁判決なんかはコピペしまくりである。いや,権威づけのために出典はだすかな。あと,肝心の天智天皇,持統天皇については正直よくわからんので,後日改めて『日本書紀』の解説本でも読もう。
2019.01.22
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直木賞作家、佐藤賢一の新書『テンプル騎士団』を読んだ。 正直、ここ数年の佐藤賢一は小説より新書の方が面白い、までありうるが、期待に違わぬできだった。 テンプル騎士団【電子書籍】[ 佐藤賢一 ] さて、テンプル騎士団とは何かという話である。 僕は中世騎士道物語が好きなので、何かのときにテンプル騎士団についての記述を見ても、「十字軍の時代に活躍したけど、異端がどうとかで消えた。」と言う曖昧なのが正直なところだった。わりと、親切に説明してくれて、非常に腑に落ちた。 まず、目次を引用するとこんな感じ。 第1部 テンプル騎士団事件ー前編 第2部 テンプル騎士団とは何か 第1章 テンプル騎士団始まる 第2章 テンプル騎士団は戦う 第3章 テンプル騎士団は持つ 第4章 テンプル騎士団は貸す 第5章 テンプル騎士団は嫌われる 第3部 テンプル騎士団事件ー後編 このように、テンプル騎士団の始まりから描いていくのだが、序盤はあんま面白くない。創成期の話だ、さぞかし劇的なドラマがあるのだろう…と思えば、さほどでもない。 著者の佐藤賢一は、辛口なところがあるのだけど、テンプル騎士団の初代総長、ユーグ・ド・パイヤンについて、「どんなに凄い男かと思いきや、これが今ひとつパッとしない。というより、よくわからない。少なくとも前半生には、耳目を引くような事跡がない」(本書第3刷49頁)とのことである。なんかもの悲しい評価だ。 僕は、テンプル騎士団史上最強の騎士は誰だったかとか、アッコン陥落のときに最後まで戦った騎士は誰だとか、誰それは名軍師だったとか、そういう話が読みたくて本書を手に取ったのである。が、そういう要素は全くない。 著者は、僕みたいなヒーロー漫画が好きな小学生レベルの読者に向けてか、親切にも解説をしてくれる。つまり、テンプル騎士団は世俗の騎士ではなく、修道士であるから、戦い方も世俗の騎士とは異なる。名誉を求めて個人行動に走ってしまう世俗の騎士ではダメである。テンプル騎士団はむしらアンチ・ヒーロー主義で集団行動をするところに強さがあった、としてる(本書102頁以下)。 頭では納得できるが、心では微妙なところ。僕の頭はまさに世俗の騎士なわけだな。 で、個人的に最大の見所はテンプル騎士団の戦場での強さではなく、領地経営や経済活動の方である。 テンプル騎士団は、初期の十字軍での戦いや、巡礼者の保護活動をメイン事業にしていたが、貸金庫業なんかもしてた。物騒な聖地周辺もそうだが、ヨーロッパであっても、教会を襲って財産を奪おうなんて輩はそうそういないだろうし、仮にも騎士団が詰めているのだから警備は万全だ。また、金貸しをやるうちに、気がつけばヨーロッパから中東までのネットワークを持っていることから、為替業、両替と銀行業みたいなことまでやり始める。また、テンプル騎士団は寄付寄進してもらった領地を開拓したり、不動産売買、はては王家の経理なんかもして利益を作っていく。 もはや、普通の騎士団とは思えない。少なくとも、僕が愛読していたアーサー王物語なんかでは円卓の騎士は暇さえあれば槍試合とコイバナやってて、金貸しやったり、取立てやるシーンは皆無だもの。 で、十字軍は失敗したが、金融業や領地経営で多額の利益を出したテンプル騎士団は民衆や王侯貴族に嫌われ、ついにはテンプル騎士団の持つ多額の財産に目をつけたフランス王フィリップ4世によって「異端者だ」という自白を強要され、テンプル騎士団は消滅、全財産を没収されてしまうわけだ。 弁護士やってる身としては、魔女裁判かというレベルの裁きでテンプル騎士団の幹部が火刑に処されたのは残念だ。法とはなんぞやらという話だよ。 期待していた、アーサー王物語とかシャルルマーニュ伝説的な面白さはないけど、個人的には中盤以降の、テンプル騎士団の領地経営や業務拡大のとこのは非常に面白い。1つの会社が生まれて、倒産していく様を見ているようだ。 華々しい騎士道物語を好んではいるけど、薄汚いカネの話を喜んで読むようになるとは、僕も大人になったものだよ。
2019.01.05
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物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 集英社新書 / 桜井俊彰 【新書】 サブタイトルの「ケルトの民とアーサー王伝説」につられて手を出した。 アーサー王はけっこう好きなので。 本書では、アングロ・サクソン人のイングランド侵攻から、デューダー朝の成立まで。およそ1000年をケルト人(混血も進んで途中からウェールズ人)の視線で描いてる。 ウェールズは、アングロ・サクソンやノルマン人によって追いやられていて、何人もの英雄が武力や政治力で戦うのだが、どうしても負けてしまう。アングロ・サクソンと戦ったアーサー王なんかがまさにそうだ。いや、アーサー王という人物は現実にはいなかったとすれば、アーサー王はウェールズ人にとっての抗戦のシンボルなのだ。 本書では何人ものウェールズ人の英雄を描いているのが、大きく3人を取り上げると、ジェラルド・ウェールズ、オワイン・グリンドール、最後にヘンリー7世だ。 ジェラルドは、武力を持って戦ったという英雄ではなく、宗教上のポストを巡って争ったという感じ。僕は正直、読んでいてあまり読んでて感情移入はできない。ただ、著者はジェラルドをテーマに本を出しているので、思い入れがあるのだろう。 次に、オワイン・グリンドールだ。彼はシェイクスピアの『ヘンリー四世』のやられ役だ。 実は、シェイクスピアは一時期読んでいたのだけど、当時はそれほど印象に残っていなかった。ただ、彼もまたアーサー王とも肩を並べる英雄だという。負けたことは間違いないにせよ、死体が見つかってない、希望は残ってるというのがアーサー王っぽい。 最後に、ヘンリー7世ことヘンリー・デューダーだ。ウェールズから出て、ついにはイングランド王になった彼を、著者はアーサー王の再臨として、特に熱を入れて書いている。彼について書く前に、ウェールズの赤い龍の伝説まで丁寧に解説して、彼こそが赤い龍、アーサー王の再臨なのだと。 ヘンリーを見ていく上で大事なのは血筋だ。祖父のオワイン・デューダーが滅んだウェールズ王家の血筋を引いているのは別にいい。イングランドに対する力はさほどないから。だが、このオワインが、ヘンリー5世の未亡人と結婚してしまう。これで生まれたのがエドモンド。ヘンリー5世の未亡人は、フランス王女だったから、血統的な価値は跳ね上がる。 で、エドモンドはイングランド王家の女性と結婚して、ヘンリー・デューダーが生まれる。女系とはいえ、ヘンリー・デューダーはエンドワード3世の玄孫になってるわけ。 薔薇戦争のごたごたで王族が死んでいき、最終的に、王位継承権を持ってるのはリチャード3世とヘンリー・デューダーだけ。リチャード3世はシェイクスピアが大悪人として描く人物ではあるが、最終的にヘンリーはフランス王家の力も借りて、ついにはイングランド王になってデューダー朝を開く。 著者は、ヘンリー7世を、ウェールズからイングランド王になったわけで、アーサー王の再臨として描いている。実際、ウェールズ人気が高かったというし、そう見た人もいたのだろう。 だが、ヘンリー7世は、ウェールズの学校や議会でウェールズ語の使用を禁止していたりする。著者は、ウェールズ人気が高いヘンリー7世だから、ウェールズ人も「ヘンリーがやるなら仕方ない」となったわけで、他の王ではできなかった政策だ、と評しているが、ウェールズの力が衰えたことは間違いないだろう。 それに、イングランド人たちが、ウェールズに支配された、と思ったかどうか…。父方の祖父のオワインを生粋のウェールズ人としても、父方の祖母はフランス人。父のエドモンドはウェールズのハーフでしかないし、母親はイングランド王家の人間だからヘンリー7世はウェールズとフランスの血がそれぞれ4分の1、残りの半分はイングランドだから。 この辺は、興味を持ったので、他の文献も見て考えていきたい。 読み終えてつらつら思うのが、シェイクスピアの影響力だ。 もう、リチャード3世といえば大悪人だというふうに反射的に考えてしまうし、オワイン・グリンドールと言われると、「あぁ、シェイクスピアで出てきたやられ役だね」くらいに思ってしまう。 僕でさえこの程度だから、本国イギリスではこの影響はもっと強いのだろう。 佐藤賢一の『英仏百年戦争』では、「シェイクスピアの影響で、イギリス人は百年戦争で勝利したのはイギリスだと考えている人がかなりの割合でいる」という状態を指してシェイクスピア症候群と評していたが、日本で言う司馬遼太郎で歴史を学んだという感じだろう。 正月レベルの余裕があれば、シェイクスピアも読みたいものだ。 英仏百年戦争 (集英社新書) [ 佐藤賢一 ]
2019.01.03
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