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イエスキリストのご復活 http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19879960.html
2011.04.23

Good Friday Concertを旧香港上海銀行で行いました。今回のコンサートの模様は、映像でどんどんアップしていきます。ぜひ、ご覧ください。まずは、1曲目「ジーザスクロス」です♪さらに、横田由美子牧師の証しと、「十字架の愛で」「わが罪のために」に続きます。http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19876103.html
2011.04.23
私たちは日常生活で、 よく恐れに出会います。 その恐れが何処から来るのか。 原因は何か。 解決はどうすればよいのか。 迷うことが多いでしょう。 今日の福音によると、 弟子たちはイエスから離れた時 恐れを抱き、 イエスを迎え入れた時 恐れが消えます。 しかし私たちが恐れと出会った時、 イエスのことを考えるのは なかなか難しいときがあります。 そのような時には、その恐れの内に 解決の糸口を探そうとしてしまいます。 私たちが常に イエスがともにいることを思い起こし、 恐れを超えていくことができますように。
2011.04.23

2011/4/24 復活の聖なる徹夜祭(白) 第一朗読 創世記 1:1第一朗読 創世記-1:31、2:1-2:2 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 第二朗読 ローマの信徒への手紙 6:3-6:11 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 福音朗読 マタイによる福音書 28:1-28:10 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。黙想のヒント 四福音書が、 女性の弟子たちだけが墓に行って 空の墓を見つけた話しを記述しており、 しかもそこには 十二使徒と他の男性の弟子たちが まったく描かれていないことは、 大変意義深く、 正直な記録であったと言える。 なぜなら当時女性の証が差別され、 認められていなかったからである。 ここでは女性の弟子たちが 真の弟子のモデルとして描かれる。 イエスの復活祭にこそ 彼女たちの姿を黙想し感謝したい。 ナザレのイエスへの愛情が、 マグダラのマリアを始めこの夫人たちを イエスの墓に向かわせた。 空の墓との"出会い"において 彼女たちは神自身が、 ただ神だけがイエスを通じて、 いまだかつて誰にも出来なかったことを 実現してくださったことを 見て、信じた。 私たちの復活信仰の原点は? 神の使いたちが 「恐れることはない。 十字架に付けられた イエスを探しているのだろうが、 復活なさったのだ。 そして、あなた方より先に ガリラヤに行かれる。 そこでお目にかかれる」と。 神が死と憎しみに打ち克つ新しい命を イエスに与えてくださったのだ。 この命とアガペーの神は 彼女たちを、恐れながらも大いに喜び、 急いで弟子たちに復活の喜びのニュースを 知らせに行く勇気を与えた。 「"あなた"のガリラヤへ行って」。 あなたが人生の中であのイエスに 最初にであったときの原点へ戻りなさい。 もう一度、彼があなたに示された アガペーと憐れみの道を歩みなさい。 そして、仲間たちが集まっている所で 「本当に主は復活して、シモンに現われた」と 互いに知らせ合いましょう。 それが新しい命につながる道である。 アレルヤ 復活祭おめでとう!
2011.04.23

心を暗くするものは何でしょう。・・・行く先の不安、憂うつな気分、人間関係の重荷、あやまちや失敗からくる悔い、病や死の悲しみ・・・。 復活されたキリストは、人を慰め励ます方です。絶妙な仕方で人間に同伴してくださいます。そして、人間の弱い部分、暗い部分、病んでいる部分に働きかけてくださいます。 このキリストにつながるとき、何を心配する必要があるのでしょう。キリストは、人間の死さえも打ち破られました。私たちの傷も病いも癒される保証があります。 人間を徹底的に受け入れ、とことん愛してくださる神を知ったのですから、喜ばずにいられません。何か明るさが届いてきます。 その明るさに包まれていられるよう、願っていきましょう。
2011.04.23

「わたしが来たのは、彼らが命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とイエスは言われました。そして命のパン、生ける水を与えることを約束してくださいました。イエスが与えてくださるパンは、世に命を与えるパンであって、それを食べる者は決して飢えることがありません。またイエスが与えてくださる水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ます。 これらの賜物は、全ての人が生き生きと毎日の生活を送るためです。生き生きと生きるということは、今の季節を見ればよく分かると思います。 冬が終わり、自然界は生命力にあふれています。どこに行っても緑が目に映ります。青草が生え、木の枝には葉がつきます。公園にも道端にも色とりどりのつつじがきれいに咲いています。すべてが生き生きしています。子供たちも、公園や運動場で笑ったり走ったりして遊んでいます。いつまでも疲れる様子を見せません。のびのび生き生きしています。 自然にも人間にも宿っている生命力の何とすばらしいことでしょう。神は、人間が豊かに生きるために宇宙を作ってくださったのです。それなのに、人間は命を育むよりも命を奪っています。自然を破壊し、戦争で人を殺しています。 イエスの命に生かされて、自然と人間の豊かさを保ちたいと願わずにはいられません。
2011.04.23

昔ちょっと風変わりな友人がいました。彼は、失敗しても不幸にあってもいつも満たされた気持ちで生活していました。その満たされた気持ちを表すために、彼は名刺を作りました。そこには肩書きの代わりに「安らかに暮らす人」と書かれていました。 彼は度々こう言っていました。「僕はどんな不幸にあっても、心穏やかに生きることができるんだ。なぜなら、僕にはすばらしい世界を見ることのできる目があるから。この目で、夜明けと夕暮れ、青空と高い山、花や青草、そして子供が遊んでいる様子や日向ぼっこをしている老人の姿を見ることができるんだ。それに僕は、心安らぐ音を聞くことのできる耳も持っているんだ。この耳のおかげで、小鳥のさえずりが聞こえるし、若者の笑い声も聞こえる。そして僕は、家族や友だちを愛する心も持っているよ。この心は、周りにいる小さな生き物の生命をも感じることのできる心なんだ。」また時に、彼はこうも言いました。「確かに、いつも居眠りをしていて何も見えない人もいるでしょう。人の厳しい顔や醜いものしか見えない人もいる。うるさい声や人のけんかする声しか聞こえない人もいるでしょう。しかし、この人たちは不幸な人だ。」 彼が幸せな人生を送った理由はここにあるような気がします。彼は心と体、全身で日常の小さな喜びを味わっていました。そして、人生が終わった後でイエスが永遠の安らぎへと迎えてくださる、という確信を持っていました。それはイエスの言葉を信じていたからだと思います。「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(ヨハネ16・22b)
2011.04.23

多くのキリスト教系の学校の卒業式では、ヘンデルの「メサイヤ」のハレルヤ・コーラスが、式のクライマックスとして歌われています。それは、卒業生たちが神の恵みによってこそ、これまで何らかの成果をおさめることができ、更にこれからの新しい生活に進むことができると考えるからです。旧約聖書の詩編には、ハレルヤという言葉がたびたび出ますが、新約に入ると、それは自然にキリストの復活にあてはまります。イエスは立ち上がられました。それによって、私たちはあらゆる罪と悪から救われたのです。弱さのために転んだ者には、勝利者であるイエスが「恐れることはない」と言い、倒れた者には、立ち上がられた主が一緒に立ちあがるように招きます。ハレルヤ・コーラスは歓迎と勝利の叫びです。私たちは死の恐れからさえ救われたのです。歌詞は何回も繰り返されます。「王の王」、「主の主」‥‥! 私たちも永遠の勝利に加えられるのです。熱心なキリスト者だったヘンデルは復活のメッセージをよく悟っていました。ハレルヤ・コーラス(アレルヤの合唱)こそ、この復活節の間いつも心の深いところで響かせたいものです。
2011.04.23

数週間前まで、裸だった樹々が、今は見ちがえるばかりです。したたるような緑の葉が枝々にあふれています。冬にはイメージが浮かびそうもなかった花々を、咲きほころばせているものもあります。心の世界にも同様なことが生まれます。 神の恩恵は、キリストの復活という形にまでなって現れました。愛を分け与えようとする神のまな子になったイエスでしたから、神のいのちが充満し、復活に至ったのだと思われます。 甦ったいのちを見つめてみましょう。そこには、生気があふれます。躍動が湧き出します。温かさがみなぎります。こうして、固く冷えていたものは、その古い殻をやぶって、新しさをほとばしらせます。 キリストと同じ歩みを行うとき、人は、狭く、内向きで冷ややかな心ではなく、広く他者に向かって、たえず新しい何かを生み出します。そして、自分も新しくなります。 古い人を抜け出し新しくなる人の喜びは、いのちの豊かさに育まれる喜びです。 愛すること--いのちが豊かになること--新しい人となってゆくこと--喜びが増すこと、という展開が自分の中に生み出されますよう祈りたいものです。
2011.04.23

遠藤周作は若い時、キリスト教に反発を感じていました。当時のキリスト教は、十戒を中心とした道徳的な倫理として紹介される傾向にあったので、そうした反発は当然だったかもしれません。しかし中年を過ぎる頃、彼のキリスト教に対するとらえ方は変えられてきました。そして、日本人にこそキリスト教は必要なものではないかと思い始めました。それは、日本文化には復活思想というものがないのに対して、キリスト教ではイエス・キリストが復活したというところにその本質があるからです。 「復活」という言葉は、誤解されやすい表現ではないかと思います。「復」という文字のために、死ぬ前と同じ体の状態に戻ると思われがちです。原文の正しい訳はむしろ、「立ち上がられた」ということです。イエスが、墓からも死からも立ち上がられた。そして、前の体の状態よりももっと高い、輝かしい永遠の命に挙げられたということです。イエスは、死に打ち勝って永遠に生きておられるのです。私たち人間も、つまづいたり、落ち込んだり、失敗することがあります。しかし、そんな私たちも、死からさえ立ち上がられたイエスの息吹を受けて、立ち上がることができます。ともすれば生きる喜びや希望を失いつつある現代人にこそ、イエスのように私たちも、挫折や失敗などから立ち上がることができるのだということを、声を大にして伝えたいと思います。
2011.04.23
イエスの受難の動画http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19176530.html1、イエスの十字架の上での7つのことばがあります。十字架上の祈りといってよいかもしれません。ここでも7の数字が出てきました。7は完成をあらわしました。祈りが完成したとみれます。時間の順序にしたがって見てみましょう。 (1)「父よ。かれらをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34) (2)「母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。」(ヨハネ19-26) (3)「まことに、あてたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23-43) (4)「3時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と呼ばれた。これは『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(マタイ27-46) (5)「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く。』と言われた。」(ヨハネ19-28) (6)「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19-30) (7) イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23-46) (1)はイエスのとりなしです。人間に対して、自分を十字架につけた人間、(それはわれわれ一人一人かもしれません。)への罪のゆるしへのとりなしです。敵をも愛しなさいと説かれたイエスの実践でもあるでしょう。 (2)はイエスの愛です。母マリヤの前途に対して、弟子たちに、面倒をみるようにと、愛の言葉をかけられたのです。もっとも絶望とみえる状況のなかで、愛がどのようなものでなければならないかを示されたのです。(3)はイエスの罪のゆるしです。どんな人もなにもせずとも、イエスを信じる信仰のみよって、罪ゆるされるとする宣言でもあります。救いはすべての人に約束されたのです。 (4)はイエスの人間の声の代弁です。とりなしです。すべての人が神から離れ、神との和解ができなくなった、呻き、叫びをイエスは十字架上で代弁するのです。イエスの最後のとりなしがここにあります。「わが神、わが神」これは、詩篇22―1にでてくる聖書の言葉です。旧約聖書に通じているユダヤ教の信者ならこれがどういう意味なのか、わかる人間の神への叫びなのです。 (5)はイエスのこれからの人間の声の代弁です。渇く人だけが、神を求める人だけが、神を得ることができる宣言であり、神の国を得ることができるのです。イエスはかつてこう言いました。「だれでも乾いているならわたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ4―37) (6)はイエスの任務の終了宣言です。すべての人の罪をせおわれ、罪のみがわりとなられたことが、十字架上で完成したのです。 (7)はイエスと神との交わりの宣言です。この世でのすべての役割を終えられたイエスが天の御国で再び交えることの宣言でもあります。 イエスの十字架上の祈りは、人間の罪がすべて許され、すべての人間が救われることの確証でもあるのです。
2011.04.22

聖金曜日(紫) (四旬節第6金曜日 ) http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/folder/36176.html
2011.04.22
沈黙して神に向き合う-四旬節を覚えて-岩島忠彦神父講演会主イエス・キリストの受難と死~岩島神父のキリスト教信仰入門講座より前編「受難史の黙想」後編「十字架の黙想」(前編・約65分)(後編・約40分) http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19794232.html
2011.04.16

http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19756673.htmlインターネットラジオ (前回までの放送をダウンロードして聴いていただけます。)☆Podcastにも対応しております。 http://users.astone.co.jp/ngs0522/message/gospelmessageradio.html●2011年4月9日(土)放送の最初の方で僕のことをご紹介してくださっています。 テーマ:「神の平安をくださる主」 収録曲:「一粒の麦」 「ありがとうハレルヤ」 「This is the day」 「主イエスの打ち傷によって」 「リバイバル」 「いつも主を喜ぼう」●2010年10月16日(土)放送 テーマ:「最善しかできない愛なる神」 収録曲:「十字架を背負って」「一粒の麦」「奇蹟~miracles~」 韓国の話しの後で僕ののことをご紹介してくださっています。 http://users.astone.co.jp/ngs0522/message/backnumber.html
2011.04.12
としてブログ管理していたブログの主管理人の松尾竹文さんが明日入院することになりました。今回の入院の切欠は足の足首付近の骨折です。松尾さんは、一昨年の5月に脳幹出血で倒れた父が介護認定を無事受けるために物凄く助けてくださいました。父は倒れる前から人格障害が見受けられ、去年は地元の共済病院の主治医から紹介状をもらって、精神科にも3ヶ月入院した状況で、父に本気で関わろうとしてくださる存在は松尾竹文さんだけでした。父が倒れた時も松尾さんがたまたま父と同じ部屋に泊まっておられたので、私は、朝に父の死体を見ずに済んだのです。しかし、松尾さんのように真剣に真面目に関わると、父にとって煩いことも言わないといけません。多くのや、父の友人は、父が後数時間で亡くなるかもしれない危篤の状態のときに、父と私を実質見捨てました。父とは適当に付き合う人は居るのですが、松尾さんのように嫌われる覚悟で厳しい事、今後の父と私の親子の生活に必要な認めるべき事実、状況を言ってくださる存在は、父の友人?にも父の兄弟にも医療関係者にも居ませんでした。父の人格は本気で関わる人を損させる誰も本気で相手にしたくない人格なのです。でも、松尾さんは私の父と一度関わり始めたからにはと、責任をもって御自分の苦難も省みずに父と私に関わってくださっています。そのなかで、父が海外旅行、特に韓国のカジノに行くのが大好きだったので、松尾さんが、プロの介護の知識もあるし、父が寂しい人生で終わらないように2月に父と松尾さんは韓国に行き、ソウルの明洞聖堂(カトリック教会)や父の好きなカジノに付き添ってくださったのです。松尾さんは、本当は海外旅行が出来る体ではなく、医者からも止められていたにも関わらず。父の人生を豊かなものにしたいと思って、父に付き添ってくださったのです。韓国で、松尾さんは、父と別の部屋に泊まりましたが、泊まった日系ホテルのフロントにも事情を説明して、なにかあったらすぐ連絡をくれるように連携ととり、松尾さん自身も父がなにかあったらすぐ対応できるように、危険な時間帯である朝の2~3時まで起きるつもりで、結局ずっと起きていて、物凄く寝不足の状態で8日間父に付き添ってくださったようです。松尾さんは去年、死ぬ確率が高いほどの重度の火傷を負い、皮膚移植したところは乾燥させてはいけないので、保湿クリームを塗っておられるのですが、松尾さんが好まないカジノに付き添った時、空気が保湿クリームが効かないほど乾燥していて、長崎に帰ってお医者様から松尾さんは凄く怒られたそうです。死にたいのですか!?と・・・。父に命がけで付き添ってくださった結果、松尾さんは皮膚移植痕が真っ赤になっていて、今の松尾さんは寝不足は厳禁なのに寝不足だったので、フラフラして、ご自宅付近の段の高い階段を踏み外して溝まで転げ落ちる寸前まで転げられたのです。長崎市が設置している白い柵にぶつかって停止しなかったら、そのまま死んでいたであろう状況です。結果として、松尾さんは、移植した皮膚を怪我して、救急車で運ばれて縫いました。そして、足をその時骨折したようですが、すぐには診断できない状態でしたので、知らずに最近まで腫れて痛がっておられたのですが、先週に骨折が発覚して入院が決まりました。骨折しているのに父のために佐世保に来てくださったり、一人暮らしなので、生活に必要な行動をされてたにしては、奇跡的に被害は少なかったようです。主治医も最初奇跡という言葉を使ったそうです。医者の立場的に後日では奇跡とは言わなくなりましたが・・・。私は、昨日、松尾さんと一緒に入院する聖フランシスコ病院で説明を受けました。私は佐世保の病院で透析を受ける日だったので、午後から帰途につきましたが、自宅でシャワーを浴びる時間が無くなってきたので、そのまま透析でかかりつけの個人病院に向かい、23時くらいに自宅に帰宅しました。父が起きていたので、父と話したのですが、父はヘルパーから私に伝える言葉と、将来、またいくかもしれない韓国旅行の話だけして、松尾さんと一緒に病院の説明を聞いた私に、松尾さんはどうだった?どういう説明だった?とは一切聞かないで、そのまま寝ました。松尾さんは感謝されるためにしている訳ではないのですが、命の恩人で、しかも介護認定や色々なことに真摯に関わって、今回犠牲を負って旅行につきあってくださった松尾さんを心配しているなら、心があるなら、松尾さんの状況を真っ先に聞くくらいの誠意は見せてもらいたかったです。松尾さんは純粋に善意で関わってくださっていますが、流石に父の反応にガッカリされています。誰も関わろうとしない、相手にされない父が、孤独故に自己中心になった父の心を救いたいと願って犠牲を承知で関わってくださっていますが、父に付き添った結果、怪我して、大変な目にあって、入院まですることになった事を心で反応しようとしない父に、流石の松尾さんも残念がっています。私は親という存在を誇りたいと願うタイプですが、私自身も親である父が自分を誇れるために、なんども私が貶められるようなことを言いふらされましたし、それが原因で私も生きる気力がなくなったことも多々あります。せめて、命の恩人で、今も犠牲を覚悟で世話してくださる松尾さんには、その場限りの言葉ではなく、心と言動で、敬意を表してもらいたいと息子として切に願います。父が亡くなる可能性が高い状態の時には、私も清掃の仕事しながら景色が灰色に見えたものですが、父と会話していると空しい気持ちになって、自分が生きる気力を失いそうになります。父に関わってくださることは感謝なのですが、松尾さんに申し訳ない気持ちも多いです。一般論では父と関わる松尾さんが変わってるということになるようですが、松尾さんは損得抜きで、犠牲を承知で最後まで責任を持って関わろうとする方なので、父と関わる松尾さんを諌めようとする松尾さんの友人は多いです。松尾さんの今の体調では、他人の事にかまってる場合ではないのに、松尾さんの生き様は凄まじいと思います。松尾さんの私が分かってる範囲の体の状態を報告します。慢性肝炎 脳虚血 高脂血症 脳幹にデキモノ(手術出来ない場所で大きくなると命が危険)脳腫瘍 足の骨折 皮膚移植痕の不安定(再手術の可能性あり)(再手術の際、命の危険あり)他人のために人生を全力で走り、病を背負っていきておられます。松尾さんは痛み苦しみや死そのものは怖くないそうですが、多くの大切な方々と会えなくなるのが怖いそうです。もし宜しければ、この記事を読んでくださった皆さんも松尾さんのために祈ってくだされば嬉しいです。 http://blogs.yahoo.co.jp/takefumistay77/19709780.html
2011.04.07
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