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明保野亭跡の碑
元治元年(1864年)、長州や土佐の尊王攘夷派を新選組が襲撃した事件(池田屋事件)のあと、新選組に会津藩士が加わって、残党を探していました。事件から5日後、浪士が潜伏しているとの情報を得て、料亭「明保野亭(あけぼのてい)」に踏み込みました。座敷にいた武士が名乗らずに逃げようとしたので、会津藩士の一人が追いかけて傷を負わせたのですが、その後、逃げた者は浪士ではなく土佐藩士だったことがわかり、その場で解放されました。
翌日、逃げた土佐藩士は、「後ろ傷を負った」ことを咎められ、藩に切腹を命じられます。一方、傷を負わせた会津藩士に対して会津藩は、正当な職務だとしてお咎めがありませんでした。このことで土佐藩内では会津藩に対する不満が高まり、藩内の強硬派を抑えきれなくなってきました。結局、事態収拾のため、この会津藩士は「自主的に」切腹し、その結果、両藩の衝突は回避されたということです。
職務を忠実に遂行していたにもかかわらず、死をもって償わなければならなくなったとは、なんとも後味の悪い話です。
石碑には「維新 明保野亭跡」と書かれていますが、実際の明保野亭の旧地は、ここより少し北東方向のところにあるそうです。
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