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あの夜、僕たちは大自然を感じていた。しっかりと上を向き、大自然と向き合っていた。土砂降りの雨でさえもすばらしいと感じた。そう感じさせる何かがあった。多くの星を眺め、心のそこからきれいだと思った。星を眺めているときに悩みや焦りを感じていた人は誰一人としていなかっただろう。みんなの心は間違いなく安らいでいた。日々の雑音、雑念を忘れて安らいでいた。美山という土地はまさに安楽(やすらぎ)の地だった。心のそこから安楽(やすらぐ)ことが出来れば幸せだ。少なくとも、美山での心の境地は常に揺るがないまさに安楽(やすらぎ)の境地であった。しかし、美山だけが大自然なのではない。僕たちが日々生活する現実社会も本当は大自然の一部なのだ。樟葉にだって自然はある。花は咲いているし、鳥は鳴いている。雨だって降るし、雷だって鳴る。太陽も月も星だって見える。それを僕たちは忘れているだけだ。かってに自分の中に境界を作っているだけだ。それを忘れているからこそ、焦りや苛立ち、悩みや不安などの幻想が大きく心にのしかかってくるのだ。いや、焦りや苛立ち、悩みや不安などの幻想を多く抱えているからこそ自然が見えなくなっているのかもしれない。ちっぽけだ。そんなものは大自然(≒宇宙≒神様)からみたら本当にちっぽけなのだ。そんなちっぽけなものに捕らわれているからみんな下を向いてしまうのだ。そんなちっぽけなものに捕らわれているからみんな本当の幸せを手にすることができないのだ。安楽さんは「みんな幸せには見えない。幸せじゃない奴がどうして他人を幸せにしてやれるのだ。」と言った。その通りだと思った。師匠は僕たちに普段から美山を、美山の空気を思い出し、忘れるなと言ってくれた。そして、今僕たちみんなは倭建命に守られているのだということを教えてくれた。その証拠に倭建命の空気は美山を思い出してしっかり上を見ろと僕たちに教えてくれた。ムラッチと北川君は美山で星空を眺めたことを思い出しているかのように上を向いていた。 (終わり)
2005年09月07日
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さて、ここ最近倭建命が動いていたことを裏付けることがいくつも起こっている。・師匠が美山から帰ってくる道中で空を見上げると、空に浮かぶ雲が完全に白鳥の形をしていたらしい。・さらに、最近発売された雑誌「サライ」では古事記特集として最後に倭建命を扱っている。師匠曰く、倭建命が動いていることの証が他にも多く出ているという。 それはそうと、話しを先日の美山ツアー反省会に移す。その夜、僕たちは師匠と一緒に反省会を行った。そして、反省会も終盤に差し掛かったころ、師匠が倭建命の空気を塾に降ろしてくれた。するとどうだろう、師匠が倭建命の空気を降ろした直後にムラッチと北川君の顔が上を向いたまま動かなくなってしまった。上を向いたまま首が固まってしまったのだ。ムラッチと北川君は「上を向くように後ろから髪を引っ張られた感じがする。」と口を揃えて言った。 これは何を意味するのか。師匠はこの意味を“みんな下ばっかり見てないで上を向いて生きろという倭建命からのメッセージだ”と言った。なるほど、そうかもしれない。僕たちは日々の現実社会の中で毎日のように焦りや苛立ち、悩みや不安を抱えて生きている。何に対する焦りや苛立ちなのか?何に対する悩みや不安なのか?それらはどこからくるのか?何が僕たちをそうさせているのか? 美山ツアーに行ってわかったことがあった。本当は僕たちの心には焦りや苛立ち、悩みや不安なんてものはないのだということが。もし、あるのだとすれば、それらの全ては僕たち自身が作り出し、囚われている幻想なのだということが。美山という土地に降り立った瞬間から僕たちの心にそんなものは必要なくなっていた。というよりも、僕たちの心の中にある焦りや苛立ち、悩みや不安は大自然の中では気にもならないような本当に小さなものでしかなかったと言った方がいいのかもしれない。美山では時間が止まっているようにゆっくりと流れていた。いつも僕たちが暮らす現実社会では時間はあっという間に過ぎてしまう。その早すぎる時間の中でみんな心に少しのゆとりすら持てないほど焦り、苛立ち、悩んでいる。しかし、それらは全て僕たち一人一人が作り出した幻想の世界なのだ。本当は時間はゆっくりと流れているのだ。僕たち自身が心の中に作ってしまった小さな世界の中で生きているために焦りや苛立ち、悩みや不安が大きくのしかかってくるのだ。そんなものはちっぽけなものなのに。大自然(≒宇宙)の中ではゴミにもならないような小さなことでも、僕たち自身が作り出した小さな幻想の世界の中ではそれらは大きなものとして僕たちを苦しめる。その小さな幻想の世界が世界中で集まったのが今の世の中だ。そんなものはちっぽけなものなのに。そんなもののために憎しみ合い、戦争が起きる。美山という土地は僕たちにそれを気付かせてくれた。 美山では夜にみんなで星空を眺めた。気がつくと僕たちの頭上には本当に多くの星が出ていたのだ。それを僕たちは真っ白な気持ちで見上げたのだ。その時、僕たちの心は何にも囚われていなかった。 続く
2005年08月26日
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先日、京都の美山にみんなで御神業ツアーに行ってきた。いきなり本題に入るが、師匠曰く、この御神業ツアーでは倭建命(ヤマトタケルノミコト)が大きく動いていた。今回のブログではこの倭建命の一生を僕なりに調べてまとめてみたものを書こう。倭建命(本来は小碓皇子(オウスノミコ))は12代景行天皇の三男として生まれた(第二皇子であったとも言われている)。そして、その荒ぶる気性が危険視されていたことが理由かどうかは定かではないが、景行天皇に西征を命じられ、見事に九州の熊曾を討ち、出雲(島根県)も平定した。その後、大和に凱旋するが、休む間もなく今度は東国平定のために旅立った。倭建命は、その后の弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)の自らの命を投げ出してまでの支えなどもあって上総(カズサ)に上陸し、東国を平定した。西征、東征と大和朝廷の勢力拡大に貢献した倭建命は、今度は伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境)の神征伐に向った。伊吹山にやってきた倭建命を見て山の神は蛇に化け、彼の道をふさいだ。しかし、倭建命はそれが山の神とは知らず、その蛇を踏みつけて山の奥へと入って行った。すると怒った神は雹や霰を降らせ、霧を出して倭建命を道に迷わせたと伝えられているようだ。倭建命は足に致命傷を負いはしたが、命からがら山から下りて、そのまま伊勢を目指した。しかし鈴鹿の能褒野まで来た時、倭建命は自分の命はもうこれまでと判断。「東国の遠征は果たしたが、自分は生きて戻れそうにない。」という天皇への遺言を吉備武彦に託し、その地で亡くなった。悲報はすぐに大和に伝えられて御陵が造られたのだが、その御陵から大きな白鳥が空高く舞い上がったと言われており、それは倭建命が天に向った姿であったと伝えられている。 雑誌「サライ 2005年9月1日発行」 その他、ネット検索などで調べた。
2005年08月25日
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ここ数ヶ月、僕の部屋には常にヘミシンクが流れ続けている。僕の家にはストレス解消、リラックス、意識拡大&リラックス、安眠、意識上昇・集中力、内的トリップ、瞑想、創造性など数種類のヘミシンクがある。その中でも瞑想、安眠、意識拡大&リラックスを主に使っている。読書や何もしていない時には意識拡大&リラックス、祈るときなどは瞑想、寝るときは安眠といった感じで常に部屋の中をヘミシンクの音が流れている。僕は本当に今の自分の部屋が気に入っている。僕は自分の部屋をなるべく塾の空気に近づけようと思っている。塾と同じ空気清浄機も置いたし、四隅には千点セットと位山カードも置いている。部屋でヘミシンクをかけだした数ヶ月前は学校などから帰ってきて玄関に入った瞬間に自分の中のスイッチが切りかわり、心底リラックスができることに喜びを感じていた。外では周囲が慌しかったり、自分自身も焦ったりいらいらしたりすることがあったので、自分の部屋に帰ると本当に落ち着けた。それは今でも変わらない。 しかし、ここ最近少し自分の中に変化が起こっていることに気がついた。以前は外で周囲が慌しかったり、自分も焦ったり落ち着かなかったりしていた場面において、最近は突然頭の中にヘミシンクが流れ始めて心を落ち着けることが出来るようになったのだ。それによって一度自分自身もリセットできる感じだ。 以前、師匠が「塾でかけている音楽はなるべく頭に残らないようなものを使っている。」と言っていたのを覚えている。ヘミシンクも然りだ。ヘミシンクの奏でるメロディないし音は覚えようと思っても絶対に覚えられるものではない。もし、誰かに「今から安眠のメロディを口ずさんでください。」とお願いされても絶対に無理だ。しかし、最近は落ち着きたい時にヘミシンクのメロディが頭の中に出てくるようになった。これは一種の“ウツス”なのではないか?と思う。つまり、自分の最も落ち着ける部屋の空気をそのまま外の慌しい日常の中に“ウツス”ことによって、自分をリセットして落ち着かせることが出来るようになったのだ。ともすれば、塾の空気を日常に再現しようとしていることにもなるかもしれない。まだ、完全に出来るようになったわけではないし、別に慌しくなくても、ふとした時にヘミシンクが頭に流れることもある。普段、前に聞いたわけのわからない音楽が頭から離れずに不快になるということがしばしばあるが、ヘミシンクはそういったことが全くない。「頭や体が知らないうちに覚えただけだ。」と言われればそうなのかもしれないが、それによって自分自身を落ち着かせたり、リセットできるというのは僕にとって大きい。自分の気持ちを落ち着いたいい感じの空気に持っていくことができる。師匠が○○の神社や○○の神様の空気を覚えていて、いつでも再現できるというのはこういったことなのかな?と最近思う。
2005年08月23日
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「隠居生活で思ったこと」を書き終えた。やはり書くこと、伝えることは難しい。そのときに思ったこと、考えたことを上手いこと再現できない。自分の伝えたいことなどが伝えられない。なにかアドバイスなどあったら宜しくお願いします。
2005年08月12日
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次第に僕の考えは、“全ての生き物は何にも影響を与えずに生きていくことは不可能だ”というものに変わっていった。影響を与えないためには“何ともかかわらずに、動かないことしかない”という考え自体が完全に間違っていたのだ。“生きる”とか“存在する”ということは全てに対して影響を与えるということだ。そもそも、何にも影響を与えないものなんて一切ないのだ。 しかし、ただ生きるだけでは業を積むだけであるという考えは変わらなかった。食欲を満たし、性欲を満たし、睡眠欲を満たしているだけでは業を積む一方だ。これを克服するためにはそれ以上の徳を積むことしかない。 先日、樟下村塾の主催する読書会において、その日一般から参加してくださったYさんが「私は地球の環境などを考えてバイク通勤から自転車通勤に変えました。」と言われた。Yさんの言われたことは素晴らしいし、それを実践していることも素晴らしいと僕は思った。しかし、そう思うと同時に、移動手段をバイクから自転車に変えることで一体何が変わるというのか?とも僕は思った。Yさんが言われた“バイクは地球環境にも悪く、多くの生き物を殺す原因ともなるから”という意見に対して僕は少し考えてしまったのだ。自転車では生命を殺さずに済むのか?そんなことは決してない。人間が歩くだけで、バイクが走るだけで、自転車が走るだけで地面にいる小さな生物は間違いなく相当数死んでいる。自転車に乗って目には見えない微生物を殺していることも環境破壊ではないのか。人間が生き、生活するだけで他の生き物に対して影響を与えている良い例ではないかと思う。 では、神様はどこまで寛容なのだろうか。そもそも神様から見て、人間がバイクに乗ることは業を積んでいることになるのだろうか?バイク通勤を自転車通勤に変えることが本当に徳を積んだことになるのだろうか?と考えてしまった。誤解を生む発言かもしれないが、正直僕はYさんがそれをする事で地球の環境なんて変わらないと思うし(変わったらどうしよ…)、それは、「あ~自分はいいことをしている」とただ思うだけの自己満足になってはいないか?とさえ思ってしまった。このような事を考え出すと、例えば今の人類の生活を縄文時代のころのように戻すことが徳を積むことになるのか?という疑問が出てくる。本当のところはどうなのかわからないが…“自分という存在は、他の人、住んでいる地域、国家、自然、地球、宇宙など全てに対して影響を与えているのだ”という自覚が大切だと思う。自分という存在が生まれたから、生きることに意味を見出すのではない。何か意味があるからこそ自分という存在が生まれてきたのだ。業を積むためだけに生まれてきたのではない。その業を打ち消し、さらにそれ以上の徳を積むために生まれてきたのだと思う。こんなことを書いてはいるけれども、そもそも自分という存在なんてあるのだろうか?僕はYさんが自己満足を満たしているだけだとは一切思っていない。今回、ただ例に挙げただけである。しかし、バイク通勤を自転車通勤に変えることで「私はいいことをしているのだ~。」と自己満足的に思うとしたら、それは食欲や性欲などを満たすことと全く変わらないと思う。“自分は全てに対して影響を与えていて、自分という存在も宇宙や自然の一部である”という自覚のもとで日々の生活を送らなければならないと思う。さらに“何か意味があって自分は生まれてきたのだ”という自覚を持って生活を送らなければならないと思う。よくわからないが、そうする事でも徳を自然と積んでいることになるのかなとも思う。 おしまい
2005年08月12日
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<マイナス思考の時に考えていたこと> 閉鎖的な空間での隠居生活には落とし穴があった。どうやらこの空間の中ではマイナス思考とプラス思考の両方が顔を覗かせるようだ。 始めに考えたことは完全なるマイナス思考であった。幼稚かもしれないが、何にも影響を与えずに生きるためには“何ともかかわらずに、動かないことしかない”ということだった。他の人とかかわったり、自分で何か行動を起こすと多かれ少なかれ何かしらに影響を及ぼしてしまうと思った。そして、僕自身のことを考えると、僕が生きていることで何かに影響を与えていると考えたら急にこわくなった。良い影響かもしれないし、悪い影響かもしれない。そもそも良い影響、悪い影響とは何なのかさえもわからなかったが、どちらにせよこわくなった。何を思ったかというと、つまり “人間は生きているだけで、既に業を積んでいるのではないのか?”ということだった。一般的に、人間には食欲、性欲、睡眠欲などのいくつかの本能的に持っている欲があるが、それを満足することがすでに業を積むことになると思ったのだ。 例えば、人間(他の動物も同じ)は食欲をある程度満たさないと生きてはいけない。しかし、食欲を満たすために他の生き物を犠牲にしている。犠牲となるのは動物だけではなく、植物なども含まれる。これは業を積んでいることになりはしないだろうか。本能的ではあっても、欲望を満たすということにおいては、それはただのエゴでしかないのではないか? このようなことを考えていると、しばらく動けなくなったというか、絶望にも似た脱力感のようなものに襲われた。 しかし、考えることをいったん止めると、そんな中でも試験勉強に必死になっている僕がいた。何のための試験勉強なのだろう。何のために生きているのだろう。そうしているうちにマイナス思考だった考えは、次第にまた違った考えに変わっていった。 続く
2005年08月09日
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先日、僕は教員採用の一次試験を終えたわけだが、それに向けて2週間ほど家に閉じこもって隠居生活をしていた。何日も家から一歩も出ない生活。しかも、黄色のカーテンは閉めきり、電気は間接照明のみ、空気清浄機で空気は最高、お香を焚き、部屋には環境音楽のへミシンクが静かに流れているだけというように完全に精神と時の部屋の中で毎日過ごしていた。一日中家に閉じこもっていたので腹も減らず、食事は晩飯の一回のみで十分だった。 日ごろは常に持ち歩いている携帯電話のスイッチもほとんどの時間OFFにしていたので、外部からの刺激はほとんどシャットアウトといった感じだった。ゆっくりとムレスナティを入れて飲んだり、勉強したりしていた。すると、隠居生活2~3日目あたりから勉強以外の時間にとりとめもない事を考えるようになっていった。 考えごとをしていると、正直言って自意識系の考えにもなってしまっていた。閉鎖的な空間ではいつも以上に考えがマイナスになる時とプラスになる時の両方がある。しかし、どちらにせよ全く真理の答えは出ない。 まず考えていたのは“人、動物、植物など全ての生き物は生きているだけで良い影響も悪影響も含めて何らかの影響を身の回りに与えてしまっている。特に人においてそれが悪影響だとしたら最悪だ。”ということだった。さらにそれが、自意識からくる悪影響ならばなおのこと最悪だ。では、どうすれば生きてはいても回りに悪影響を与えずにすむのか・・・。いや、悪影響を少しでも抑えることが出来るのか・・・。 続く
2005年08月04日
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今日から僕はこのブログを通していろいろなことを書いていこうと思う。このブログでは、別に作っている「タッチーと愉快な仲間たち」のような日記を主体としたものではなく、日々感じたこと、考えていることなどを書こうと思う。しかし、日記主体の「タッチーと愉快な仲間たち」も今まで通り続けていく。日記もちゃんと書きたいし、それなりに意味があると思うので。僕が一日何をしていたかをマミやその他の人に知ってもらえる手段でもあるので。 このブログを新たに立ち上げた理由はいくつかある。(一)“文章力、表現力、伝達力を上げる”ことである。僕は西甲命の月中殺であるためか(?)、いかんせん何をするにも感覚で生きていることが多く、僕がその時々に思っていることや感じていることなどを、人に伝える力が足りないと実感することが多いのだ。そのことに多少のストレスを感じることさえある。この先、自分の感覚ではわかっていても、それが人に伝わらないだとか、理解してもらえないといった場面が今以上に増えるのは間違いないことだと思う。よって、今のうちにそれを少しでも克服するための手段の一つとして“書くこと”が大切であると思うのだ。(ニ)僕の感覚や考えていることを少しでも他の人に知ってもらうことである。僕は自分の考えていることや感じていることなどを人に伝えるのが苦手であるために、今までは意識的にも無意識的にもそういった事を避けてきたように正直思う。でも、それでは僕の成長は止まってしまう。自分に欠落した感覚は努力して克服しなければ一生かかっても欠落したままだ。それはむしろ一生かかってでも克服しなければならない“テーマ”なのかもしれないとさえ思う。しかも、自分の考えたことや意見、感覚などを人に伝えないと、例えばそれが間違っていた場合でもその間違いに気付かずに終わってしまうことになる。伝えないと人からの意見や批判も得られない。もし、僕が書いたことが間違っていれば批判をして欲しい。意見もたくさん寄せて欲しい。もちろん、僕の書く内容が良いものであるときには参考にしてもらいたい。(三)とにもかくにも師匠に見てもらいたいからだ。 僕が思ったこと、考えていること等をつたない文章ではあってもありのままに書くので、師匠にこのブログを読んでもらい何かあればコメントして頂きたいと思う。当然、酷評されても良いという覚悟で書くのでどうかお願い致します。このブログも一つの修行だと思っているので宜しくお願いします。”師匠に体当たり”がこのブログの一つのテーマかもしれません。 といった理由でこれからこのブログを更新していくので宜しくお願いします。日記のように順調にはいかないかもしれませんが、更新された時は気長に読んで下さい。
2005年08月03日
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