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昨日の早朝、私の所にレッスンに来てくれている女性から携帯メールが入った。「実は今日ほど朝を心待ちにしたことはないかもしれない・・」???何?どういう意味のメール?と思いながら、約束の時間に彼女がやってきた。私に「一刻も早く話を聞いてもらいたくて、早く朝にならないかと、思ったんです。」ということだった。レッスン前に一緒に食事をしながら話を聞かせてもらった。目を輝かせながら一生懸命話す彼女。仕事で後輩との仕事のやり取りの事でうまくいかず、一晩眠れずにいたそうだ。「何でわかってもらえないんだろう・・・」「どう言ったらわかってもらえるのだろう・・・」と、朝まで眠れなくなることなど滅多とないという彼女だが、今回のことについては眠れないほどかなり深く考えたようだ。昼食を取りながらじっと彼女の話を聞いていた。過去から長いこと持ち越し、悩んできた問題だったが、これまで見てみぬ振りをしてきたそうだ。しかし、今回の彼女は違っていた。「自分は、相手にどうしてわかってもらえないの!どう言えばわかってくれるの!」とばかり思い、考えていたが、そんな時、突然、『ハッ!!』としたというのだ。「自分が過去にやってきたことなんだ!」と。今、後輩に悩まされている内容というのは、自分も過去に同じようにやっていたし、同じように当時の先輩のことを非難していた・・・というのだ。そんな自分を見てきた後輩が、自分と同じ事を今、やっているだけ。そんな簡単なことに、今までどうして気づかなかったのだろう・・・と話してくれた。後輩が、なぜそのようなことをするのかと言うのを、『自分の中に見た』のだ。こうも言っていた。「「鏡の法則」ってきいたこたことありますか?以前セミナーで聞いたことがあったのですがそのときには何も感じませんでした。それが「あー!こういうことだったんだ!」ということがわかりました。」私は、体に電気が走ったような感動を覚えた。彼女はただ単に上辺だけのことに気づいたのではなく、真の気づきを得、彼女の人格の次元が上がったのを感じさせてもらったからだ。それがとっても素敵で聞いていて言いようもない嬉しさに包まれた。相手を変えようとする心には苦痛だけしか伴わない。しかし、それらのことを自分に向けて気づかれたことは、彼女にとって何にも変えられない大きな成長になった。彼女は話しながら涙ぐんでいた。魂が喜んでいる涙に見えた。そんな彼女を見て胸が熱くなった。とても良い影響を与えてくれた。彼女はグループのリーダーとしての器を広げられ、きっとこれから良い後輩指導をしていかれるだろうし人望も集まるだろうと確信した。彼女は、「レッスンに来るようになってから、物の考え方やみ方が変わったんです!」と満面の笑みを見せて話してくれた。(レッスンというのは発声や司会のレッスンだ)何てありがたいことを言ってくださる・・・心でかみしめ感謝した。最近、何かとネガティブになっていた私にとって、最高の言葉のプレゼントだった。見えない何かが、「しっかりしなさい!」という意味を持って彼女の口を通して私を勇気付けるために出してくれた言葉ではなかったかと思った。人の事はよくわかるのだが、自分の事となると、まるっきし・・・そんな自分の甘えに渇を入れてくれる感謝の出来事だった。彼女に心からありがとう!
2004年07月22日
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夕方、家に帰ると、ベランダから何とも言えないくらい美しい夕焼けが見えた。美しく茜色に染まった空に、しばらく見とれてたたずんでしまうほどきれいだった。こんなに美しい夕焼けの空を見たのは本当に久しぶりだった。このマンションからもこんなに素晴らしい景色が見れたんだな・・・今住んでいるマンションを日頃から変わりたいと常々思っていた。というのも・・・現在の住まいは市の中心部、周囲は緑一つ無いビルばかりの景色。朝、目覚めて直ぐベランダを空けて爽やかな空気を・・・とベランダを空けると排気ガスが入ってくる・・マンションのベランダから阪神高速の環状線が丁度目の前に見える。深夜、特に金、土、日は毎週のように走り屋!?というのか、何台も連ねて爆音を立てて走っている。環状線だから3~5分間隔で爆音が聞こえてくる。その内、パトカーのサイレン!このマンションに変わって2年が過ぎたがどうも慣れない・・・神経が静まらないというのか、気がつけばいつも「緑が恋しい」と口にし、山に囲まれた鳥のさえずりが聞こえる場所に住みたい!!と心底思うようになっていた。そのせいか、ベランダには花を置き、部屋中、観葉植物でいっぱいだ。日頃から現在の住まいにそんな不満を持っていたが、今日、あんなに美しい夕焼けを見ることができて、ここからもこんな景色を見せてもらえるんだと、日頃の不服を反省した。将来、山に囲まれた自然いっぱいの場所に住みたいと思うのはもう一つの理由があった・・・
2004年07月18日
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今週はハードだったせいか、かなり身体が疲れモードで・・・年のせい!?・・・とは、言わないように・・・(^^;でも年々、疲れがとれなくて・・背中がつって激痛~!(>_
2004年07月17日
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祖母は95年という素晴らしい命を全うした。私が誕生したとき、それはそれはたいそう喜んでくれたそうだ。大切にしてもらったことは幼い頃のアルバムをみればわかる・・・ いつの日からか祖母は痴呆症になっていた・・・約10年ほど前、母と祖母、三人で暮らしていたが、私は仕事を理由に一人暮らしを始めた。母も働いていたこともあって、祖母は話し相手がいなくなった・・・私はたまの休みに実家に帰っても、自分の用事ばかりで祖母のことなど気にもとめていなかった。祖母の様子がおかしいな・・・と思いだした頃も、母任せにして、仕事を理由に真剣に考えてあげられなかった・・・そんなある日、徘徊がはじまった・・・そして、火が危ないといって母は台所に立たすこともさせなくなった。何もさせなくなった・・・心で心配はしていながらも、やはり私は、それでも自分の仕事を言い訳に傍に一緒にいるということを選ばなかった・・・後悔しても、もうどうしようもないが私の後悔はかなりのものだ。その後は、世間でよく言われている痴呆症の老人を抱えた家になっていった。母が精神的に疲れ切り、追い込まれていった。ヒステリックになり母が病気になるのではと心配するほどだった。痴呆といっても徘徊以外は困らせることもなくおとなしい方だったと思う。約5年前のある時、母の仕事関係で知り合った方が老人ばかりを預かっている病院の院長夫人とかで、その方のご厚意でたやすく病院に入ることが出来た。(痴呆のある老人はなかなか看てもらえる病院がない)これも、祖母が神一筋で来たお陰と家族揃ってその展開に感謝した。病院に入ってからは母は正気を取り戻し少しずつ元気になっていった。最初の頃は頻繁に病院に足を運んだ。祖母は痴呆と言っても、100%ではなく、時々正気があり、少しは会話も出来た。いつ会いに行っても「嬉しい」といって顔いっぱい笑顔で迎えてくれた。病院に入ってからも、愚痴1つ言わない祖母だった。いつもニコニコ笑っていた・・・病院を出る際も私を見送るためにずっと手を振り続けていた・・・時々、「ここは何処かな?」といっていた・・・年を取ると子供に帰っていくと良く言われるが、まさに祖母は可愛らしい老人になっていった。手をつないで散歩をしたりした。私たちが普段は目にも止めないであろう病院に飾っている造花の花を看て、「綺麗ねぇ」と優しく微笑む。散歩に出たとき道に生えている雑草にも目をやっては喜んでいた。とても小さくなっていた。痴呆のはずなのに、どんなことにも、何に対しても、その全てに、ニコニコ笑顔で「ありがたいなぁ」、「結構やなぁ」と喜んでいた。そんな祖母がたまらなく愛おしかった・・・祖母は、母のことを自分の妹の名前で呼び、弟のことは「どちら様ですか?」と言うようになっていても、何故か、私のことだけはわかってくれていた。昨年の8月、トイレでよろけて足の付け根の骨が折れたと病院から聞き、駆け付けたら、何故か酸素マスクをしていた。どうして!???酸素マスク!???不吉な予感が体中に広がった・・・血圧が急激に下がっているからと病院側から説明を受けたが納得できなかった。祖母は、私が駆け付けたときまだ意識はあった。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、良く来てくれたと笑っていた・・・「おばあちゃん!どうしたの?」酸素マスクをしながら吐息混じりで「足が痛いの・・」と言いながらも笑顔を見せていた。その日から泊まり込みが続いた。足の手術をしてもらったら、また話せる、と、そう信じていた・・・手術をするため精密検査を、と別の病棟に変わった。担当医から驚くべき事を告げられた。一瞬耳を疑い、時間が止まった。心臓が肥大して肺に水が溜まっていた。もう手の施しようがない、高齢だしこのまま逝かせてあげてくださいと言われた。どういうこと!!????足の骨が折れただけじゃないの!?祖母は意識がなくなった。息がしにくいからとても苦しそうだった・・・辛くて見ていられなかった・・・それでも一時も祖母の傍を離れたくなかった・・・あの時、家を出ることを選択しなければ・・・あの時、祖母ともっと話をしてあげていれば・・・あの時、祖母の傍にいてあげたら・・・あの時、もっともっと病院に通っていれば・・・祖母が倒れるまで、何と3ヶ月も病院に行ってあげていなかった・・・・悔やんでも悔やみきれない・・・自分を責めてしまう1年だった・・最後に言葉を交わしたのは私だった・・・意識がなくなってから、私の歌ったテープを祖母の耳にあてた。聞いて欲しかった。表情がかすかに動いたのを感じたのは気のせいだろうか・・・日記を書きながら胸が詰まってきた・・・涙で画面がゆがんでいる・・・手をしっかり握って最後を看取れたことは幸いだった。祖母に抱きついて泣いた。「ありがとう!!」って叫んだ。意識のある時に言いたかった言葉・・・今、祖母に心からたくさんの「ありがとう」を言いたい・・・おばあちゃん、 いつかまた、会おうね。
2004年07月15日
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今日もとってもハードな一日で、もう動けないほどクタクタになっちゃいました。久し振りの大きな仕事で、ありがたかった。この暑さも伴ってか体力消耗しているのかも・・・また明日、体力取り戻して書くことにします・・・
2004年07月14日
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大切な人・・・を失った・・・祖母はいつも自分より人のことが優先だった。私が20代前半でまだその真意わからない頃、そんな祖母にはがゆさを感じる程だった。自分のことはいつも後回し、それどころか人のお世話ばかり・・・その頃はもっと自分のことも大切にしてよ、なんて思っていた。若さ故か愚かな自分だった。他人に与え続けてきた祖母からお金では買えない大切なことを学ばせてもらえた。法則があると思う。人間は自分が良くなりたいと思えば自分中心に物事を考えてしまいがちだが、それが結局は自分を狭く小さくしている。良くなりたければ他人に与え続けること・・・これは祖母を見ていて学んだことだ。祖母からは、愚痴や不平不満を聞いたことが一度もない。いつもニコニコ笑っていた。そうだ、不平、不満、愚痴、泣き言・・・1つ言えば1つ返ってくる。いつも明るく前向きな言葉を使えば、そんな人生が開けてくる・・・・これも祖母を見て学んだ。決して祖母は説教をするとか、言い返してくることはなかった。祖母はいつも目に見えない何かに手を合わせていた。私の幼い頃の祖母の記憶はいつも手を合わせている姿だ。いつも神さんのお陰、ありがたいなぁと言っていた。祖母の信仰心のお陰で今の私がいる・・・祖母の魂は遥か高いところにあった。天皇家が栄えているのは祖先の行いの徳が後世に注がれていると聞いたことがあるが、祖母の今生、積んできた多くの徳が今、たくさん自分に降り注がれているような気がする。それは地位や名誉やお金ではなく、お金では決して買うことの出来ない大切な物・・・生きている内にありがとうが言いたかった・・・成長した今の自分で話がしたかった・・・祖母が喜ぶ生き方をすることが、祖母への恩返しかな・・・
2004年07月12日
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今日は祖母の一周忌の法要だった。昨年の8月23日、大切な人、愛する祖母が逝ってから早、一年が経とうとしている。未だに時折メソメソしてしまう。両親が商売をしていたこともあって祖母に預けられることが多かったせいか、幼い頃の思い出は母とのことより、祖母との思い出がいっぱいだ。祖母には人としてとても大切な事を学ばせてもらえた。素晴らしい祖母だった。祖母は身をもって目に見えない大切な物を残してくれた。その生きざまそのものが私に多くを教えてくれた。祖母の孫になれたこと本当にありがたいと心からそう思う。メソメソしてしまうのは、もうこの世では会えない淋しさもあるが、その原因は違うところにあった。こうしたいと思ったときにはもう親はいない・・等とよく言われているが、まさに、その通りだ。亡くして初めて襲われる後悔の念・・・・・もっとこうしておけば良かったとか、もっとこうしてあげれば良かった・・・と後悔の念と戦うのだ。人間はおろかなものだと思う。おろかで可愛いとも思う。後悔の場面が1つ1つ鮮明に蘇り、あの頃に、その時に時間をもう一度戻して、違う言葉をかけたい・・・違う態度をとりたい・・・あのときこうしておけば・・・もっとこうしてあげたかった・・・この思いが自分を苦しめる・・・その都度人生の選択をしてきたのに、今思えば自分のことしか考えてなかった選択の仕方だった・・・後悔しても何も始まらないが、自分を許せないまま、1年が経とうとしている・・・今日も祖母に心からのありがとうと、お詫びをした。祖母は今、向こうの世界で楽しく幸せでいてくれているだろうか・・・先に逝った親や姉弟友人に会えただろうか・・・出来ることならもう一度逢いたい。看取ることが出来たのは幸いだが突然逝ってしまって言えなかった・・・ありがとう。私がまだ若い頃、優しくしてあげられなかった頃の事、謝りたい・・・祖母はそんなこと気にもとめていないだろうが、後悔していることを笑い飛ばしてくれるだろうが・・・祖母に会いたい・・・
2004年07月11日
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たくさんの人のお世話になって生かされている・・・私が、ホントにそう感じれた出来事があった。数年前にたった一人でドイツに旅行したときのこと。初めての一人旅でドキドキワクワク・・そして、ちょっぴりの不安を抱えながらの旅のスタート。関空でチケットを差し出したところ、座席がエコノミーのはずだったが、団体が入ったとかで、なんとビジネスクラスになった。ラッキーなスタート!ワクワクしながら機内へ・・・長旅には最高のシートだ。どんな方が隣に来るのかとソワソワしていると・・・これもまた恵まれた!なんと、ドイツに嫁いで20年という日本人女性だった。里帰りの帰りだったそうだ。ドイツ語も満足に話せない私にとって、最高の隣人!この旅行のために短期集中のドイツ語高座を3ヶ月受けての旅行だった。お陰で機内ではドイツ語を教えていただけるしドイツの話を聞かせてもらえるし・・・神様ありがとう!私はやっぱり恵まれてる!って思ったものだ。フランクフルトでの乗り換えもその女性が案内してくれた。見ず知らずの出会ったばかりの人の親切に出会えた一時だった。ハンブルグに到着。片手にドイツ語辞典、片手に地図を握りしめ観光していたある日湖の観光船に乗ろうと片言のドイツ語と英語と日本語?まじりで身振り手振りの問いかけで、何とか船に乗れた。私を案内してくれた船長兼、ガイドのドイツ人紳士はユーモアたっぷりのガイドでお客を楽しませてくれた。もちろん何を言ってるのかわからなかったが一緒に笑っていた。しかし、「アレがは日本領事館です」と私を見つめて一生懸命語りかけてくれていたことだけはわかった。その思いやりある心遣いが嬉しかった。1時間の楽しい船旅が終わり乗客は皆、出口でお金を支払って下りていた。いくら払うんだろと皆さんが支払うお札を観察しながら船長に近づくと、「You are my guest!」と言って優しい微笑みを投げかけてくれた。お金はいらない!私のおごりだ、と言うのだ。驚いた。思わず日本語で「え~っ、そんな・・・それは申し訳ない・・」いうところはやっぱり私って日本人!???言葉の通じない物同士、その時、その場面に確かに心の通う物を感じ取れた。温かい目、感動で胸が熱くなった。そのご厚意がなんともありがたかった。翌日、ほんの気持ちだけのプレゼントを持参してその船長を捜した。2時間後にやっと会え、前日に覚えたてのドイツ語で「貴方に出会えたことに感謝します、ありがとうございました」と告げるとハグしてくれた。その他にも、道に迷って通行人を呼び止めると言葉が通じなくても全ての人が笑顔で手振りで教えてくれた。遠く離れた異国・・どこにいても、“たくさんの人のお世話になって生かされている” ことに最高の喜びを感じることができた旅となった。そして、当たり前だけど大切なことに気づかせてくれる旅でもあった。お陰で日本に帰ってからも、何処にいても人のお世話になっているんだということが身にしみて感じれるようになった。若いときは一人でも生きているなんて息巻いていた時期もあったが大切なことをわからせてくれた旅に感謝した。時に誰の世話にもなっていないと思いがちだが、人の世話にならずして生きていけないことが身にしみてわかった。電車で移動できるのも駅員さんや運転士さんの世話になり、物一つを買うのも販売員さんの世話になり、スーパーではレジの人にも世話になる・・・・人の世話にならない日などないのだ。そう思うと謙虚にもなれるかな・・・私は自分が調子に乗っているとき、傲慢になりかけたときこの時の事を思い出したい・・・・
2004年07月10日
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私の「夢」がだんだんと形になってきたのもビジョンアートのカウンセリングを受けさせて頂いたたお陰。幼い頃からずっと好きだった歌。いつも歌っていた。ずっと長い間、この好きなことを心の片隅に隠してきたようだ。でも心の片隅でちょこんと座っていた、この、本当にしたかったこと、好きだったことが今、ようやく起きあがって私を揺り動かしている気がする。ビジョンアートのカウンセリングは心の奥底で眠っていた気づかなかったことや、ひょっとすると気づかないふりをしていたことまでも引き出してくれた。その都度、何度も涙が出たのを覚えている。それはビジョン”夢”だけの留まらず、自分の性格や価値観、心の方向性までもがどんどん引き出されていった。本当に素晴らしいカウンセリングだった。れおなるど・てんぷうさんのビジョンアートは、たんなるビジョンだけに留まらず、人の心をも動かしてしまう、素晴らしいもの。このカウンセリングを受けてから仕事も自分自身もとても充実してきた気がする。れおなるど・てんぷうさんに感謝!感謝!たとえ、今ビジョンがないと思う方も、カウンセリングが引き出してくれる。ビジョンが出なくても、自分の価値観や自分が知れることまちがいなし!それだけ私は感動させていただいた。人は、本当にたくさんの人にお世話になって、生かされている。なんてありがたいことでしょう・・・暑さが苦手な私は今日も溶けてしまいそうだった(^^;今日はこの辺で・・・
2004年07月09日
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長らく日記をお休みしてしまった。今、私は涙が出そうなほど胸が込み上げている。何とも言いようのないありがたさや、喜びに包まれている・・・というのも・・・長らく楽天日記を空けない間に、驚くべきありがたい内容がかかれた日記の数々を見つけたからだ。久し振りに楽天日記を開けて、本当に驚いた!6月26日れおなるど・てんぷうさん主催のビジョンアート・夢実現パーティで、私は歌♪を歌わせて頂いた。その時の感想が色んな所で書かれていたのだ。今、その感想を書いて下さった多くの皆さんに、心からお礼と感謝の気持ちを伝えたい。「blue Rose Cafeさん」「visionaviさん」「いいこと探検家さん」「のりのりわくりんさん」その他多数、お一人お一人に伝えたいが、この場を借りて、これを読んで下さいますようにとの願いを込めて感謝を伝えたい。私の歌わせて頂いたシャンソンで涙して下さっていた方がたくさんいらしたなんて何も知らずにいた。そしてこれ以上はないというありがたい言葉の数々・・・歌手冥利につきると言う言葉がピッタリ・・・私はまだ歌を初めて1年半。“歌手”と言うにはおこがましく、早く良い歌が歌えるようになりたいと日々がんばっている最中だった。そんな時に・・・なんてありがたいんだろう・・・皆さんがそれぞれの日記で書かれたコメントは私に大きな勇気と希望とやる気と・・・・たくさんの愛のエネルギーを与えてくれました。あの時、目の前にいらっしゃる心あたたかい皆様の気を感じ、優しい空気に包まれて歌うことが出来た。聴く側の方々の「気」・・・これって、本当にすごい力を頂ける。私は言いたい。明るく前向きな素晴らしい心の持ち主でいらっしゃる皆さんだからこそ、感じていただけた。いつも「人を受け入れ」、「愛し」「尊敬」出来るそんな素晴らしい皆さんだからこそ、私の歌を、そんな風に感じていただけたのだと心からそう思う。この場を借りて、心からありがとうございました!ビジョンアートカウンセリングを受けてから、嘘のようにその夢に引っ張られていった。無限の宇宙はやっぱりすごい!私は幼い頃から大好きだった歌を通じて人様に喜んで頂けるような、優しい気持ちになっていただけるような、懐かしさに胸があたたかくなれるような、勇気ややる気が持ってもらえるような・・・そんな歌を歌っていきたいと思っていた。人間本来の素晴らしく美しい魂に響くような歌が歌えることが私の夢だった。悩んで気持ちが沈んでいるときも、大切な人が逝って悲しんでいる時も、私は一人だと淋しい思いをしているときも、苦しい出来事に立ち止まっているときも、「一人じゃない」ということを伝えたい。そして思い出してもらえたら・・・本来の自分の強くて美しい姿を・・・今日はこの辺で・・・おやすみなさい
2004年07月08日
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父が家を出てから母は私達には悟られまいとしていたようだが、同じ女性として母の動揺はわかっていた。長らく相当ショックをうけていたようだ。両親が離婚して約20年母は、明るくポジティブに物事を考え前向きにがんばってきた。それは出る言葉や態度からもわかった。手に職を付け、パートに出ていたら頂けない・・とっいてもほんの僅かだが給料を取っている。もっとも驚くことは年々若返ってきたと言うことだ。商売をしていた頃母の笑顔はあまりなく、どこか疲れた暗い雰囲気だったが、自立し自分の時間を有し自由に飛び回っている。一方父は・・・あくまでも自分殻から出れないでいるようだった。不景気な社会情勢の波をまともに受け年老いた父は仕事を失った。出る言葉はいつも自分をいたぶる言葉やネガティブな言葉だった。そんな父を見るのが辛かった。そして援助してあげることの出来ない自分にも腹が立った。実直だが、物事を深く深く考えネガティブな思考と発想をし続けた父。もう少し考えたら?と思うほどのうてんきだがポジティブに生きてきた母。現在の二人の状況に大きな違いが出ている。父のそのような捉え方や性格が形成されたのも、厳しい時代に育ち育まれたものであるということや、心底純粋故にということもあるであろう。父の名誉のために次のことは書きとめておきたい。人のちょっとした振る舞いや出る言葉から敏感に何かを察し、そのことにより、人の心の動きや考えを瞬時に見抜いたりする。父は人の洞察力に優れ、周囲への気配りは私から見ても驚くほどすごい。父と一緒にの近所のスナックに連れて行かれたときのこと。50代以上のお客さんばかりで気持ちよさそうにカラオケで演歌を楽しんでいた。私に歌えとうるさい。(娘が少し自慢らしい)このお客さんの層を考えて空気を変えないような曲を選べとか、自分が喋っていたり他の事をしていたとしても、誰かが歌い終わったら必ず拍手をするとか、それは驚くほど相当周囲に気配りをする人だった。(何故家庭ではこうではなかったのか!?と思う)父は長い間自分を追い詰めてきたかのような生活をしてきた。40代後半からの男の一人暮らし、さぞかし不便であっただろうと思う。今ではあの当時の四畳半のアパートからは脱出しているが、それでもさほど代わり映えのない暮らしをしている父。口を開けばネガティブな言葉の数々・・・「お父さんはもうあとは死を待つだけだ」などとひ弱な事を聞かされる方はかなり疲れる。そんな父にいつ会っても心が傷み、暗い気持ちになった。だんだんと会う機会が減ってきた。父の言葉で娘がこんなに苦しい思いを感じているのがわからないのかといつも腹立たしく思っていた。一昨年のお正月だったか、父が私達に初めて重い口を開いた。親がこんな事で子供に迷惑を掛け何も残してやれなかった。ひどい思いをさせてきたと泣いたのだ。父も年を取った。母も泣いた。胸が張り裂けそうになったが、「何言ってるの~!こんな経験そう簡単には出来ないぞ! 親のお陰でこんな経験できて学べてよかったでしょ!くらい言っ て丁度いいのよ」とあえて明るく言った。そう言ってくれたらどれだけ心が軽く、救われたことか・・・ネガティブな言葉は、余計に胸に突き刺さる。親には親としての威厳を持っていて欲しい。誰もが思うことだろう。弟も「あの時のことがあって今は本当に良かったと思っている。そうそう出来ない経験をさせてもらったお陰で大切なことをたくさん学べた」と言ってくれたことがありがたかった。成長していてくれたんだなと姉として心が救われた。もちろん私も同じ気持ちだ。あの時のことは私達姉弟にとっての苦労ではなく両親にとっての苦労だ。私達はあの出来事のお陰で辛い気持ちは相当味わえたが、そのお陰でその後のことがどれほど心の成長を与えてくれたことか計り知れない。心底、感謝できる。さて、この日記のテーマであった、「父への気持ち 素直になるために」だが・・・私が父に会いに行けない、連絡もしない・・・ということ・・・以前父が「自殺したい」と電話で言ってきた。猛烈に腹が立った。どこまで精神的に苦しめるんだろう・・・親としてのプライドも棄てたのか!?幼い頃から暴力を振るってきた、家族を棄てて出ていった・・・そんな父を許していないからではなかった。ネガティブな言葉を吐く気弱な父を見たくない。落ちぶれた、そんな父を見て悲しくなる“自分の心が嫌なのだ。”自分なんだ!そして、お金の援助をしてやれないし等と正当らしき理由をつけては逃げているだけなのだ。弟に以前こんな事を言われた。昨年祖母が亡くなったときにもっとこうしておけば良かった、と出来なかったことへの後悔の念が自分を苦しめた。「明日、もし父がこの世を去ることがあったとしたら、またそんな後悔の念で苦しむことになるよ」と。本当にその通りだ。そうと頭でわかりながらも、出来ない自分がいる。自分に心の余裕がないのだ。心の小さな自分から卒業して行くためにも、自分を確立しよう。甘えた今の自分から抜け出すためにも更に魂を磨き、自分を好きになろう。それまで父は待っていてくれるだろうか・・・・最後に、この赤裸々な日記を読んで下さった皆さんに心からの感謝を申し述べたい。心から、ありがとうございました。合掌
2004年06月27日
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住み慣れた地を離れ、知らない土地で家族4人の生活がはじまった。それまでとは比べ物にならない位に小さな家だった。でも、そんなことはどうでもいいくらい家族が揃ったことは何より嬉しくありがたかった。当時、やりたいことがあり、好きな道を歩ませてもらっていた私も、後ろ髪を引かれながらもその道をあきらめ、生活と返済の協力のため会社勤めをするようになった。弟は丁度混乱の時期と重なり高校受験を受けることが出来ずアルバイトをしていた。父は20年以上人を雇って社長と呼ばれていた立場から一転、雇われる身となり全く違った仕事に就いた。母も一生懸命働いた。それぞれが、前向きに歩もうと、がんばろうとしていた。家で母は努めて明るく振る舞っていた。暴力こそ無くなってはいたが、父はそんな母がどうしても許せなかったらしい。一代で立ち上げた商売をたたまざるを得なかった事はさぞかし辛く屈辱的だったのであろう。努めて明るく振る舞っていた母を見ていて、「誰のせいでこうなったのか、よく明るく笑えるな!」と常々言っていた父。父や周囲から避難を受け、生活も一変、家族を追いやったのは自分だと一番辛い思いをしているのは母だったはずだ。それでも父は自分が最高の被害者であり、悲劇の主人公であった。父だけが過去を引きずっていた。そして、何もかも母の責任にしていた。ある日父は家を出ると言いだした。こんな事態になっても父とは話ができなかった。幼い頃から話しあったことがなかったからか本当にどう接していいのか分からなかった。最初は本気にしていなかったが、とうとう話し合うこともなく出ていった。いとも簡単に。あっけなく。当時はそんな父が許せなかった。前向きにがんばろうとしている母の何がいけないというのか!全てを背負い一番辛いはずなのに、それでもわざと努めて明るく振る舞っていた母を私はずっと見ていた。偉いと思っていた。母が“してしまったこと”は重大で取り返しのつかないことは事実だ。しかしそれまで好き勝手をして、夫婦の会話を持とうとせず、ろくに話を聞かず、相談の出来ない状態にしていたのは誰なのか、母だけが悪いのか!?自らの非を反省せず、ただ人のせいにしている父がたまらなく嫌だった。その後両親は離婚した。暫くしてから父に会いに行った。初めてその住まいを目にしたとき言葉が出なかった。そこはネズミが出てきそうな、たった四畳半しかない見るも無惨なおんぼろアパートだった。壁にできたいくつもの大きなシミが更に部屋の雰囲気を暗くしていた。胸が締め付けられた。言葉では言い表せないくらいの悲しみが襲ってきた。一緒にいるときは努めて普通に振る舞っていたが、父の家を出てから最寄りの駅まで泣きながら帰った。とめどなく涙が出てきた。泣くしかなかった。その後心配で時々父の元へ足を運んだが、いつも心が沈んだ。こんな場所に自分を追いやり最低限の生活をしていた父。父が不敏でたまらなかった。そんな父を見たくはなかった。辛すぎて行くことをためらった。今思うと私は父に対して冷たい娘だった。料理を作りに行くとか、掃除をしてあげるとか、何か出来たはずなのに、しなかった。自分の辛さを理由に自分を正当化していたのだ。こんな落ちぶれた姿や住まいを見て娘はどんな悲しい気持ちになるのかわからないのかと、惨めな生活をしている父をどこかで避難していたのだ。私は心の小さい人間だった。父はとことん自分を追い詰めていた。人から借りた莫大な借金を死んでも返していくと言っていた。父は限りなく純粋で、正義感、責任感の強い人だった。だからこそ、純粋故に何倍も何十倍も傷つき苦しんだのだろう。父は母を責めることで、もろく壊れそうな自分をなんとか保たせていたのだろうと、今は、そう思える。その後、15年程経った頃だったか、父は見事に全ての借金を返した。全てを犠牲に身を粉にして働いていた。借金を返すことだけにその全てを注いでいるかのように見えた。それは自分のプライドだったのか・・・さぁ、これから再出発・・・という時には、父はすでに年を取りすぎていた。家族4人で再スタートを始めた頃、私達子供に「お父さんはこのままでは終わらない、また商売始めるから見ておけよ」と言っていた父。いつしか「借金を返すこと」が目標になっていたのだろう。それからというもの、胃潰瘍を患ったり、緑内障にかかり目の見える視野も無くなっていった。父のこれまでの心が病気を招いたのだと思う。あれからずっと両親の「違い」を見てきた。それはあまりにも対照的だった。ここまで書かせてもらってきて、わかりかけてきた。父への自分の本当の気持ちが・・・最終章へつづく・・・
2004年06月25日
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両親は今どこでどうしているのだろうか?半年間連絡もなかった。この半年間の記憶が何故かあまりない。この時19才だった私は、両親のことを「父」として、「母」としてではなく一人の「人」としてその性格や人柄を考えるようになっていた。両親のことを考える時間は十二分にあった。母が父に何か相談事を持ち掛けて行っても、ろくに聞きもしないで「どーにでもせーや!」が口癖だった父。家庭のことは任せているから、いちいち言って来るなということだ。こんな父に、誰が話していけただろう。いや、本来は何と言われようとも相談すべきだった。しかし母は内緒で事を運んでしまった。母は一家離散になってしまうほどの重大な出来事の全てを一人で抱え込んだのだ。さぞかし重かっただろう・・・・やはり父が憎かった。母の気持ちを思いやれない自分勝手な父が許せなかった。あの日、父と叔父が二人でよってたかって母を詰り、蔑み、罵声を浴びせていたとき、父への憎しみが頂点に立っていた。子供ながらに「母をここまで追いつめたのは他でもない父だ!母を責める資格などない!」と心で叫んだ。田舎の叔父にも手紙を書いた。普段の父がどうであったか。喧嘩はどちらか一方にだけ非があるわけではなく互いの中に原因があるように、今回のことも母一人が悪いというわけではない!と言うこと、暴言を吐いたことを母に詫びて欲しい、といった内容だったと思う。もちろん返事などなかった。幼い頃から父に甘えていくということができなかった。何かあって気に障ると手が出る恐ろしかった父。小学時代、友達の多くは一度も父親から手を挙げられたことなどないと聞かされていたので更に父への反発心が強くなっていた。当時、父とはできるだけ距離をもった。話をしないように。目を合わさないように。だからなのか、父との会話を未だに思い出せない。実は、そんない父も又、愛情不足で育ったのだった。田舎で戦争の真っ只中に育ち、三男坊であったためか13才か15才でたった一人で親元を離れ大阪に住み込みで働いたという。そこでもひどい扱いを受けたそうだ。祖母(父の母)からその当時のことを涙ながらに聞かされた事がある。13才か15才で大阪に行くとき小さな男の子が汽車に乗る姿が不敏ででかわいそうでかわいそうでたまらなかったと。戦時中の混乱の時代、子供に手を掛けることなど出来ない時代、父も親の愛情を知らないで育ったのではないか。だから自分の子供にどう接して良いのかがわからなかったのではないか・・・女、子供に手を出すのはもっての他だが、当時は父もまだ30代の若さで未熟だった。母も同様、親の愛情を知らない。3才の時に父と死別し母の母親は田舎に預け大阪で働いたという。母はほんの数年しか親と暮らしていない。父や母も又、幼い頃、淋しい思いをしてきた人たちなのだ。両親が行方不明になって半年が過ぎた頃、やっと会えた。場所は何処であったかは忘れてしまったが、小汚いアパートがしっかりと記憶に残っている。裸電球のつり下がった屋根裏部屋のような寝るだけの小さな部屋だった。二人ともギスギスに痩せていた。心が苦しくて言葉が出なかった。その後、新しい土地でまた4人家族一緒の生活がはじまった。なのに約1年後、父が家を出て行った。つづく・・・
2004年06月24日
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両親は商売をしていた。毎日両親はよく働いた。父がゴルフなどに行っているときも、母は一人で仕事をしていた。毎月のように飛行機に乗ってゴルフに行く位だから当時、家計は安定していたのだと思う。私が高校を卒業する頃、家族ぐるみのお付き合いをしていた某会社の経営が悪化し、そこの社長に頼み込まれて母は父に内緒で小切手を渡していた。このことが引き金となり家庭崩壊へと進んでいった。不当たりをくらった。1度目はまだ父に知られず難を逃れたようだが、2度目の不当たりの際、父に知られることになり、小切手を渡し保証人になっていた某会社社長は姿を消した。大騒ぎになった。それからというもの、まるで地獄のような毎日だった。恐ろしい取り立ての日々。お金の穴埋めをしようと母は悪徳金融会社からお金を借りていたのだ。両親は暴力団に連れて行かれたこともあった。父の兄が田舎から飛んできて父と一緒に母をなじった。隣の部屋で聞いていた私は声を殺して押入の中で嗚咽のように泣いた。心が張り裂けそうだった。元々中が良くなかったこともあってか、母は相談したくとも出来なかったのだろう。話しかけてもいつも聞かない父だった。そんなある日「大事な物だけ用意しなさい」と言われ訳が分からず思い出が詰まったアルバムを用意した。夜中の3時頃、自宅の前にトラックが止まった。寒いわけではなかったが、身体が震えていた。それからの記憶が何故かあまり定かではないが、気がついたら私と弟は祖母の家に居た。両親は消えた。そうだ、夜逃げをしたのだ。私が19才、弟は15才、受験の時期だった。19年間の思い出が詰まった家。近所の友人達。親のすねをかじっていた生活・・・何もかも一瞬にして失った。両親は何処にいるのだろう・・・両親が消えて半年が過ぎた・・・・つづく・・・
2004年06月23日
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この日記を借りて父への素直になれない思いを書かせてもらおう。この場を借りて自分の心と向き合うことが出来て整理ができたらありがたい・・・私が19才の年になる年まで父があまり好きではなかった。どちらかというと「嫌い」であった。会話という会話もあまり覚えていない。幼い頃から父は母に暴力を振るうのが日常茶飯事だった。酒乱とかではなく、急にキレルのだ。幼い私と弟は、小さい両手を横いっぱいに広げて、怯えながら母の前に立ちふさがるのが常だった。とにかく恐ろしかった。私が高校生の頃まで、母の笑顔をあまり思い出せない。学校から帰ると、母の髪を掴んで暴力を振るっていた。晩ご飯の前後もまた始まる・・・子供心に自分たちが良い子にしていたらいいんだと、弟と一緒に、進んで家の掃除やお手伝いをよくした。それでも父の暴力は続いた。大嫌いだった。小・中学生の頃、近所の人から「いいお父さんね~」と言われることが多かった。「えっ!??どうして?」他人がいると、いつも父は愛想が良く、良い人だった。家の中の父とは別人だった。そうだ「外面」の非常に良い父だった。幼い頃から、父親のひざに座ったり、よしよしと頭を撫でてもらったり、抱きしめてもらった記憶がない。もちろん話を聞いてもらったという記憶もない。私が生まれたときから両親は商売をしていた。いつも両親は家にいたが、忙しくかまってもらえなかった。小学低学年の頃、最近の甘い親では考えられないが、病院に行くのも手に保険証と財布、ハンカチを握らされ、一人で行かされていた。家族で旅行することもなく、父は毎月一人でゴルフ三昧。いつも一人で行動していた。父から唯一、プレゼントをもらったもので“嬉しい”と覚えているのは、可愛らしい「人形」だった。嬉しくて可愛くていつも一緒に人形と寝ていた。でもそれはパチンコで勝った景品だった。(現在はこの事がギャグになっている)ここまで、してくれなかったこと、無い事ばかりを書かせてもらっている。もちろん与えてもらったこともたくさんある。何より育ててもらった。学校に行かせてもらった。中学生の時、忘れたお弁当を学校まで届けてくれた。他にも自分が覚えていないだけで、父なりに愛情は注いでくれていたのだと思う。19才になった年、それ以降、両親への、特に父への感情に大きな変化が生じた。この年、商売が破産し、一家離散となったのだ。つつく・・・
2004年06月22日
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父の日でした。私は何も出来ていない・・・していない、しなかったと言った方が正しいかもしれない。何かしてあげたい、優しい言葉を掛けてあげたい、大切な言葉「ありがとう」を言いたい・・・数日前から今日の日のことをそう思っていた。父が愛おしくもあり気にしていないはずがないのに電話一本できなかった・・・しなかった・・・マンションの1Fにご夫妻だけできりもりしている美味しいお蕎麦屋さんがあり、そこのお父さんお母さんには日頃からとてもかわいがってもらっていて、今日の父の日、そのお蕎麦屋のお父さんに感謝の手紙を渡した。ずっとそうだった。他人には優しくできるのに自分の父には出来ない・・・心が痛い・・・何故出来ないのかもわかっている。だから余計に心が痛い・・・このままだときっと後悔するだろう。優しく出来ない自分を責めるかも知れない。何故出来ないのか、この日記を借りて書くことで自分と向き合うことにしようと思う。父のことを・・・
2004年06月20日
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オフィスのパソコンがとんでしまったぁ~!(>_
2004年06月19日
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T君は今23才。本気でミュージシャンを目指して素晴らしい詩を書きオリジナル曲を作ってはライブ活動をしている子です。そのT君と私の出会いはT君が小学6年生の頃。ランドセル姿が可愛い子供時代でした。当時、私はT君のお母様に仕事を指導頂きお世話になっていました。そのT君が小学生の頃、ある日、お母さんとデパートを出て歩道橋を歩いている時、乞食をして物乞いをしている方がいました。そんな方にも近寄って話し掛け優しい言葉をかけるような子で、見かねたお母さんが少し離れた位置から「行くよー!何してるの!」と叱ると、「おっちゃん、嬉しいって言ってたよ。嬉しそうやったから話し聞いてあげてた」と言うような子で、老若男女問わず誰に対しても分け隔てなく、優しく思いやりの持てる子供で、私は彼をずっと天使のような子だと思っていました。人や物を偏見で見る大人が多い中、こうやって教えてくれる子です。そんなT君の母親であり、私の仕事の師でもある方が今日お越しになり、T君がバイト先であった話をしてくれました。彼はミュージシャンを目指すかたわら『なか卯』でアルバイトをしています。バイト先のお店で毎朝欠かさず朝ご飯を食べにくる常連のお客さんがいて、その日もいつもと同じように朝ご飯を食べて帰ったそうです。ところが暫くしてまたその常連さんが今度は暗い顔をして店内に入ってきて床を見回し何やら探し物をしていたそうです。T君が「どうかされましたか?」と声を掛けると、ひ弱な声で「財布落ちていませんでしたか?」と。一緒に探すも見つからず、すっかり肩を落としているお客さん。給料もらってそのまま財布に入れていたと言う事で、「失礼ですがいくら入っていたのですか?」とT君が尋ねるとそのお客さんは「千円です」と言ったそうです。「毎朝、幾ばくかのお金を持って食べに来てくれていたんだなぁ、おっちゃんにとったら千円でもすごい大金なんやなぁ」と思ったそうで「おっちゃん、気にしなくていいから明日の朝も来てください!」絶対来てくださいね!」と言ったそうです。お客さんは「えっ!!!」っとビックリした顔をしていたそうですがそのまま肩を落として帰っていったそうです。今、千円を上げるのは簡単やけどそうしては行けないと思ったとT君がお母さんに言っていたそうです。普通に聞くと優しい子ね、で終わったり、なんでもない話かもしれませんが、私には大きな感動となって伝わってきました。汚れてみすぼらしい格好をして歩いている浮浪者の方や缶拾いをしている方に、子供を持つ親は近づけないようにしたりわざと離れて歩くような光景もみますが、T君は「働きたくても働けない人もいる。缶を拾って立派に仕事している人に話を聞いてあげたいと常々口にするそうです。私は随分年の離れたこのT君からとても優しい感動をもらえ、教えられます。彼(T君)はきちんと実践、行動できる人です。年齢ではないなぁ~ってつくづく思います。私も頭でっかちを反省し些細な事でも行動し言葉にし、実践していきたいと思いました。長文になってしまいましたが最後まで読んでくださりありがとうございました。(*^-^*)
2004年06月17日
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今日から楽天日記をスタートしました。前向きで素敵な楽天日記仲間の皆さんとお友達になれたら幸せです。どうぞよろしくお願いしまぁす^^
2004年06月16日
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