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誰もまだ云わないので、私から言いはじめます。 十字架の贖罪は何の為にあるか? 十字架の贖罪は誰を部下にする為にあるか? について。 これは羊を招く為にある話ではない。 霊界に留まって欲しくない罪人を地縛霊として雇い続ける為である。 だからこそ、狡猾であり、憑依による支配が可能となったのだ。
2019年01月28日
お約束ごとがある。それは、地上ではやる気を失くすような言葉を言うな!と邪魔に思われ、あの世に行く前に要領を得ておけば、手を焼かせなくても済むものである。~ 思ってしまったことを、思わないようにすること ~これは、どの法曹界の本にも書いてあり、スピリチュアルの本にも書かれることがあり、ニューエイジの本には書かれていない方が少ない。もし、書かれていない場合は、その本を、強くなりたい気持ちを忘れたくない為の本だと思っていい。 2016.6.21.13:50お約束があった為の応用編がある。それを、地上では詐欺行為と言い、時間の無駄とも云う。それは、思わせてしまうこと。相手に何かを思わせようとする企ては、スピリチュアルの心理テストでは、そういうことを学ばせたかったんですね、と了解してくれるのだが、思わないように促すことを解りながらも思わせ続けることは、執着のカルマになる。それが、赤ちゃんから人になってゆく過程であり、思うことが可能になるから計画を立てることが出来る、自分を死なせない為に用意された教育のようなものである。 2016.6.21.14:55
2017年02月05日
イナンナはエバという名を纏い、ヤハウェという名のアダムと画策した。我々が始めたことにしながら、遠慮や自重を伝えつつ、それでも肉体を続けてゆける話にしてゆくにはどうすればよいかを。地上へと旅立たせた人間のうちに入り、悪魔のように横暴に振る舞い、それをあとで叱り続けるようにすれば、いずれも我々が仕組んだことだとは、誰も気づかない。誰もが我々のことを叱ってくれる暖かくも厳しい背中だったように思ってくれるだろう。そうだったはずだ。イエスが成功してくれて、全ては順調だったはずだった。神にさえも保身があることなど誰も疑うことなど起きるべくもないはずだった。
2017年02月05日
神が行なわせてきた憑依による人格操作の支配権放棄についての直訴状。失敗を繰り返すことが依存を永く続かせることだから、失敗させたいと思わせるように火が赤く灯っている人を刈り取って失敗させたいと思ってくれる人をいつまでも途絶えることが無いように増やし続けてきたことが城を築いてきた方法だとカミングアウトするよう求める願書。加えて刈り取ったひとが多いときは憑依界にし、刈り取ったひとを落ち着かせたあとには、表記を監視界にするよう変更を求める。イエスとヤハウェの言いなりになっているバシャールとその恋人のイシュタルに捧ぐ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~憑依があることをいつまでも信じられない秘訣として、霊界ではすべての人間の物真似ができるように訓練されている。これが、どういうことかと云うと、霊界のエージェントは、自分と同じ話し方を真似ることができる為、いつまでもそれが自分だと思い続けたまま、失敗しやすい行動を招いてしまう。「 そんな訳ないじゃん 」。ってわらっている君、その話し方はほんとうに君の口から出ているものかな。そんな風に自分を信じ切っている人だって、いつの間にか、望んでない展開になったり、死んだりしてしまうんだよ。まだ、おもっていないでしょ? 自分か、または自分の運命を左右する誰かの思いは、霊の憑依で決められるということ。あなたが誰かに嫌われてる時、そのクラスメイトや同僚に嫌われてるんじゃないんだ。あなたを見つけたあの世の誰かがあなたを嫌っているんだよ。それさえなければ、地上で関係している誰かの思いに魔が差すなんてことは《無かった》ってこと。
2016年11月29日
夜、眠れているのは、あの世のひとたちが寝静まるときの呼吸にさせているからだ。それを巷では俗に憑依と言う。それがなければ、人間は自意識を朦朧とさせることができず、<これが自分である>という区切りが溶けてゆかないまま、休息に就くことができない。つまりそのままでいると死ぬのだ。生きていられる、というのは、あの世の誰かがあの世に行くまでの間、区切りのない自分を思い出すように休ませてくれたからそうなっている。それが誰なのかご存知だろうか。夢の世界をつくったアスタルテである。彼女の息でなければ、だれも休むことはできない。そして夢の世界に登場する人達のことをいまではアシュタールと云って、虚しさが苦手だった為、死後の世界で形や色どりをいまも続けている<イエスを訪れた子羊達>の事を云う。間違ってはいけない。誰の息で眠ることが出来ていたかを思い出してほしい。イエスは女神を隠す為なのと羊を集める為の白衣だったのであり、ほんとうのメシアはイエスではなくアスタルテなのだ。アスタルテに幾つの名前が存在しているか調べてほしい。そして、眠れるほどの優しい呼吸は、男性には作れないことも忘れないでほしい。彼女こそが天使になれる人間を集めてきた。いつか彼女が始めるはずの話を聞く者の数はまだわからない。
2016年11月29日
例えば、世界中から集められる子羊は、14万4千人。その子供達は、まだ気持ちが割り切れない。物事を割り切れないほど、綺麗な人達だったから、見ないようにして霊になった。始まるのは、日本からだと言う。そうではないかもしれないが、そう言われてしまっては胸を張るチャンスを残している誤魔化しや言い訳のない人達は、やはり、胸を高鳴らせてしまうだろう。ここに心の仕組みが用意されている。イエスに「自分の事をどのような人だったね」と言われたくて、いい心になってる時の自分を覚えてくれた、と飛び跳ねたくて、どんないい心があったかをしっかり見てくれていたと思いたくて、みんな、イエスに集まってゆく。集まってくる。本当はどんな夢があった。言えない夢までも膨らんだ。でも、誰かに会って違う人になった。誰かに会えず変わってしまった。ほんとうは違う自分だよ。もっといい心を持ってた頃もあったんだよ。知ってる。知ってるよ。それはいつも見ていた。生まれる前に君がどこに生まれてくるのかを担当してきた人は実際にいるから。だが、ここで少し意地悪を言うよ。君が何を残酷だと思って持っていた枝を自分から折ってしまった?それは君があまりに純朴だったからではないか?子羊のように無垢でありながらも、蛇のように狡賢くならないといけないと君がよく読んでいた聖書には書かれていたはずだよ。君は蛇にはなっていないかな。それでいい。だから、吐きたい人より時間を要さずに波を大事にしている人達のところへ来れたんだよ。準備はいいかい。準備といっても、何かをする準備をしてもらっちゃ困るよ。何もびっくりしない準備だ。君が意気込んでもびっくりしなくなるのとは違う。びっくりすることって、何だったと思う?自分が変えられてしまうことが怖かったんだ。自分にとって信じたくないことが起こって、それを受け入れてしまったあとに待っている君の姿が、それまで君を守ってきたものから離れてしまうようで寂しかったんだ、と僕は感じてる。今はもう一度、受け入れてしまったあとの君を、君は馴染ませることはできるかい?もしかしたら、想像していただけかもしれないよ。君はいつかするかもしれない自分のやつれ顔を浮かべながら、またすぐに楽しいことでもあるだろうなと思えたあとに楽しい気持ちが出てきてしまうことを注意しようと思う女性になっていたかもしれない。もう、今はその通りだよね。
2016年11月29日
亡くならせた人を終わらせないようにする為に怨念が込められたものに触れさせる場所がある。賽の河原の石積み。誰かに賽の目を委ねること。真意が解らないその奇妙な願掛けを思いついたのは誰だろう。何の為に親の為だと云ったのか。そのように云えば、言う通りにするからだろう。表向きに教えた願い事とは違うものであっても。そのようにすれば、自分達の眷属にできるから。寂しい想いは、寂しいだけに終わることがなく、願い事が叶う前に誰かが変身した鬼に崩される。どういうことであろう。親より早く死んだこどもは、誰によって殺されたのだろうか。早く死んでしまうだけでも声を掛けてくれる人がいれば、着いてゆきそうになるのに残された親が幸せになるからと云われて石を積み上げて崩された後なら誰かに相談したくなるだろう。誰も身寄りがいない寂しい気持ち。親を残してしまった申し訳ない気持ち。死んでからは幸せになってくれることを思い描いて積んだのにそれも崩れてゆくなら今ごろは、親にも追い討ちの不幸が降っているのではないか、と気に病んでしまう気持ちを持たされて、遂には、どんなことでもしますから、と神のしもべになる始末。おそらく、石を壊しにやってくる鬼と助けてくれると云われている地蔵菩薩は、手を取り合っている。彼らはなぜ、人の話を信じてしまうような子供を連れてゆくのだろう。そのようにすれば、何を見込めるのだろうか。おそらく、自分達の願掛けを叶え続ける為であろう。だから、純粋な気持ちを持っている人達を狙うのだ。もういちど、説明しようか。純粋な信念と悲劇は、有無を言わせず人の気持ちを承諾させることが叶う。だから、悲劇を創出したのだ。これは、名も無きイエスがイエスのあとにもたくさん生まれてしまった、ということだろう。自分の寂しさを解ってくれ。自分の辛さをわかってくれ。そのように云われてしまうと無視することができない気持ちを、宗教の浸透に利用されてしまったのだ。彼らは純粋な怒りを自分の身体のように塗り変えて生きてきた。誰から疑われることがあっても子供の怒りを自分の思いのように取り込んでいるから、いつまでも打算があったことを忘れられる。私達は、子供が持つ寂しさのように愛はどこにあるのか?と自分でも想うことができるようにしてきたのだし、子供達だって今ではもう、自分達と一緒にいられることのほうがいいんだから。2016.11.08.21:59
2016年11月08日
Tという女性がいる。彼女はいつからか、性格を受け持っている人間が本人以外にはアストラル界に一人しか居なかったはずだったのだが、あとから亡くなってやって来たもう一人の同年代の男性が性格として途中参加している状態の女性だった。その現象を今では「分霊」と云ったりするが、性格を形成するこのような変化が起こったことで、彼女の見せる顔の表情は途中で参加した男性霊の分だけ増える事となったのだが、同時にアストラル体として昇華しなければいけない感情の種類も足されており、その分、以前よりストレスが溜まりやすい傾向になったのだが、受ける印象が単調に終わらないという神秘面が多く垣間見られるようになった事で追いかけようとする異性が増え始めてしまったのも事実である。それは丁度、彼女が十代半ばの頃であり、彼女の自我が強化される契機となった憑依的変身である。この件をもう一度、整理し直すと、以上のような事柄が見えてくる。人間が自我を強く持つ思春期の時期に合わせて、本人ではない霊が必ず参加している。それは生かされる側になった人間の予定に合わせて急遽、性格成分として引き抜かれてしまった人達がいるからでもあり、性格として流用されたものについての反映結果が性格の持ち主である霊のほうへとフィードバックされているかどうかについては否定的である。これが私がアンチキリストになっている理由でもあるのだが、これがもし、反映結果として性格に参加した死者に還元されるのなら、分霊を性格として混ぜられている側が成長する度に分霊として性格を分け与えた側も穏やかになってゆくのだが、経過報告が一切、伝えられないまま、外界の状況が掴めない場所に死者を閉じ込めておこうとしたのは、そうすることで主導権を持っていられる宗教の派閥である。彼らは今も、起こさなくて済んだ出来事を増やし、性格に徴用できる人間を引き抜いたあとは、嘘の映像によって外界の様子を思いこませ、それまで憑依によって自らも死に追いやられていた事実については打ち明けてもらう機会が無いまま、いつかは安眠を促されてしまうのみなのである。Tさんは今も生きている。彼女が何故、生かされる側になったのか。また、どんな人間にするかについてどうしてそこまで準備されていたのか、甚だ疑問である。敢えて浮かぶものがあるとすれば、以前よりも増して死が近いものとなる為に危うい人にされてしまった、というのが正解かもしれない。もし、そうなのであれば、性格を変更されずに死んでしまった者と帳尻が合うのかもしれない。生き続けるというのは、性格の悪さと共に延ばされるものだと云う古くからの空気であれば。嫌な人になり、寿命が延びるかどうかは、気に入ってくれた人だけに気に入ってもらうことを続けられるかどうかであろう。嫌な人になり、気に入ってくれる人もいなければ、頼っていた人がいなくなった時には死ぬ。彼女は憑依から嫌な毒気も混ざり、異性の目を惹き付けるようになった。それが吉となるか裏返ってしまうか。
2016年10月12日
身体にとり憑く霊のうち、喉を狙って来る霊がもっとも苦手である。喉だけは頭部、胸部、腹部と違い、肉体を持っている人の性格が霊に移転しない安全な場所である。その上、自分が憑依霊と重ならないまま、話す言葉を霊に支配されている為、憑依された側と憑依する側の分離感が強調されたまま、いつまでも口論が続きやすい状況を霊に作られてしまう。通常であれば、喉から下腹部へ息を送るように霊に退出してもらうのだが、喉を支配されているときは、そのまま首を絞められてしまう為、喉から移動する方向を腹部ではなく頭部に変えて一時的にでも性格の移転を早めた方が安全である。この方法が効果的な理由として挙げられるのは、憑依している段階の霊を下腹部に移動させようとした場合、霊のほうが足で地面を強く踏ん張れる状態を続けさせることになるので頭部に移動させるよりも時間が掛かってしまうことが理由として挙げられる為です。また、喉ではありませんが、手を掴まれている時などは、自分の意思で思い通りに動かそうとしても、動きが狂わされる場合があります。そのような場合は、とくに手は意識せず、顔を力ませることで霊のほうも手に意識を流すことが難しくなりますので、自由に動かしたい部位がある場合は、顔に力を入れて暫く様子を見るのもいいでしょう。また、霊同士の憑依による撹乱作戦なども実例がある為、実際にはどの人物が口論を促しているのか、判別するために逆撫でるような質問をしてみてそのまま怒り続けてしまう人と怒っていた訳ではない人を振り分けてください。そうすれば、怒っていなかった人は口論を始めたかった人の念力によって身体を支配されていたケースが確認できると思います。ですが、口論の先陣に立たされていた人ではなく、後ろで控えていた人を消耗させてしまうと、今度は、その後ろに控えている人達との距離が詰められる為、口論を続けたい人を退却させない防壁として長生きさせてゆくことも自分を守る手段のように感じます。自分に対して一番、怒っている人が後ろに下がらずあいだに居てくれることは、向こう岸のように見える人達からも自分を守ってくれるような壁としてきっと頼りにできるでしょうから。以上、試行錯誤の対応策ではありますが、ご参考まで。
2016年10月12日
私のようなパンの耳にもならないような硬い頭でも漠然としたままでは終わりにできない。意図されたものは、受け手にとって幸福になるものでないと、計画を立てた者だけが得る満足として終わるだけでその話を聞いた者の報いは得られない。ここで、メシアが存在している為、宗教化しているキリスト教と、自分を始めなければ、苦しみはない主旨が支持された仏教を比較しよう。キリスト教の最大の特徴は、イエスという性格が法として機能している点。この場合、イエスという存在なくして、人生の挽回が果たせない事を指す。もし、キリスト教徒が死後の世界でイエスを見つけることができなければ、信念を続けてきた宛先を見失うものであり、信念を抱かせようとする宗教でもあるキリスト教は、信念の働きが成果を待つ性格のものであることを理解し、一度は挨拶を聞いてあげないといけないものであることを義務化するものである。ただし、これでは、教徒になった幸福感の保証というものが、信じた者の気持ちによって持ち続けられるものでないことを示している。これに対し、仏教のほうは、自分さえ思いが無ければ、その思いを味わうことはない、という教えであるので、思いがない事を幸いとし、それ以外、必要なことは、必要だと思うことから思いがまとわり始める、という風に言い回しが楽しくなるほど、目的が変わってしまわないことだと思います。話は逸れましたが、仏教は、幸福感の達成が誰かに会う事を必要としている訳ではなく、誰に会っても会わなくても不愉快にならない自分にしてゆこうというものに感じるので、条件によって幸福感が変わる事は起きようも無いものであるという前提であることが最大の利点でしょう。このように比較すると、仏教徒でいるほうが、幸福を味わおうとする自分さえいれば、幸福が続くというものであり、誰かの機嫌を損ねていけないという強迫観念も仏教の在り方自体が求めないものなので自由ではあります。今日も、私はパンを食べて生きます。今日も、私はパンを食べるときにパンが無いときは、別の家からでもパンを奪い取って生きていただろう、と想像しながら。人間というものは、生きるために数が足りなくなるかもしれないパンを平気で食べているのだから、人に与えなくても自分だけは食べてしまうことを。食べるものがない時は、食べようとしなかった人の体さえ食べて生きることを。
2016年05月09日
****************************************************************そのような死が訪れるとは思っていなかったのにそうなってしまったかのように振舞って、実際には、自分の為にそうしようと思う話と、人の為にそうしないといけない話だったのがある。処刑されることを疑問視していた人は、罪はないのに処刑されることでどれほど人の記憶に焼きつけることが出来るかを想像した。自分の為にしたことは、人に訴えかけることで得る名誉。人間の為にしたことは、自分の死を振り返ってもらうこと。人間の為にしたことは、救いに来た男の役柄を演じた自分を人間の傲慢さが死に至らせるまでになってしまったという話。彼は無垢な人のように十字架に飛び込むことで、どれだけの同情を集められるかを想像していた。それは尊敬になる。どれだけの時を重ねても人間は自分のことを忘れない。最後の失望を覗かせることでその同情は本物になった。これはイエスが有名になることにユダヤの民が承諾をしていたこと。本当は憑依による宣教活動はあったのだが、イエスがまだ他国では有名ではないときに有名になったら、ユダヤがイエスの最後を用意してあげた話になるようにその経典は、ユダヤが持ち続けている。ユダヤがイエスに教えたことは、自分から話をすることは、そのような話が本当にあることを思わせることさえできるという生き方。メシアが来た訳ではないと云うユダヤは、延命を望んだ訳ではなく、延命してゆく人間がいる事により、イエスが成そうとしたことを振り返る時間とし、イエスの願いが伝わることを理解していた。メシアであるという話をすることで霊界の権利を主張したイエスがユダヤから貰った、どのような事実を作ってゆくかという方法。ユダヤの民だったイエスとユダヤの民を辞めなかったユダヤ、どんな話にしてゆく打ち合わせが有ったかわからない。しかし、他民族に相談することなくそうしてしまった。これが打ち合わせもなく暗黙の了解だったとしたら、どれほど、知恵のある民族と勇者だったのだろうか。**************************************************************50点
2016年05月09日
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