サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2012.09.24
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カテゴリ: カーネーション
消費マインドと、心の糧

 要は多くの視聴者がこのドラマを消費すべき対象と考えず、いわば「心の糧」のように捉えているからでしょう。

 それはこの「朝ドラ」が、言わば「共通記憶」を呼び起こすモノとして映っているからかもしれない。で、実はその「共通記憶」に根拠は何もない。確かにあると言えるのは、このドラマを「もっと知りたい」という願望だけでしょう。
 「もっと知りたい」とは、カタログ的なデータを貯め込むということではなくて、自身の「視界」を引き上げて、新たな眺望を観てみたいということなのではないか。
 モノを「もっと知る(楽しむ)」には「我が身が変容する」しかないのです。

 そうした「欲望」が起動する時、人は何ら根拠のない「共通記憶」のようなものを予め措定して、何とかしてそれに近づきたいと願うのではないかしらん。
 「何や知らんけど、皆そう言うから、『だんじり』担がなアカン」みたいな。

コワい大人
 起源とか根拠とかが判然としないにもかかわらず、「そういうことに昔からなっている」という仕方で、大勢の大人が何やら怪しげな「共通記憶」を必死で担いでいる時、その理由を聞くことは禁じられている。木岡のオッチャンにもし「何で『だんじリ』担がなアカンの?」と子供が聞いたなら、間違いなくその場でド突かれたでしょう。
 安っぽい「対価主義」が教室の中まで蔓延している今日この頃、「何で学校行かなアカンの」「勉強して何か得するの」と聞くのと同じ仕方で、大人を平然と試す子供は少からずいそうです。


 それが分る時とはそういう聞き方をしなくなった時、つまり「自分のほうが変わるしかない=大人になるしかない」と気付いた時ということなのですが、どうもこういうのは今どき流行らないようですね。言い換えれば社会全体が子供染みた「対価至上主義」に陥っているという事でしょうか。

 まさか善作や糸子のような「コワい大人」には、こんなバカな質問は誰もしないと思うのですが。

「我が事のみ」
 一見我の張った自己主張が目立つ彼女ですが、私がつくづく感心するのは、糸子の振るまいの基点には「我が事のみ」の発想が皆無なことなのです。

― ウチという人間が信用でけへんという理由で、離れて行くお客もあるやろうと思います。けど、ウチはホンマにしょうもない人間かもしれへんけど、…「ウチの店」「こさえてる洋服」「働いてる者ら」には、何があっても(私は)自信を持って、これからもやっていくつもりです ―

と言い放つ糸子のパワーはどこから備給されてくるものなのか。絶対的な自信があって言っているのではなく、店とか客とか家族、従業員を引っ張っていくという彼女の「立場」が、それを言わせてしまうのだと思う。

 例えば「孤食」の人はコンビニで買ったおかずをいちいち皿に盛り付けませんが、そこに恋人や家族がいればなぜか「料理」をしてしまうでしょう。「他者」は「自己」に対置する阻害物としてあるのではなく、「自己」をひとりでに拡張させてしまうものとして在るのです。

 糸子はそのあたりの人の関係性が、よく分かっていたに違いない。

「昭和」という過去、「平成」という今
 「我が事」に囚われるのではなく「他者との関わり」においてこそ、デッカイ「自己」が実現出来てしまう、糸子はそういう人の心のからくりを、ややこしい理屈でなく皮膚感覚として若い時から人一倍持っていたような気がする。
 それは同時に確かにあるはずと思って守ろうとする「自己」の中味が、じつははなはだ曖昧な信憑に基いていることも示しています。

 昭和というのは戦前戦後を通じて、そうした皮膚感覚がまだ気分として世間に共有されていた最後の時代であったかもしれず、オノマチ糸子はそうした「昭和」を体現する人格として描かれていたのでしょう。
 しかし、

と、言い放つオノマチ糸子最後の強がりには、平成の今を生きるナツキ糸子へのメッセージが込められていたのかもしれません。

 なぜならその後の糸子は、明らかに独居老人の人生を歩んだはずだからです。彼女の夜にはかつてのような濃密な人(家族)との関わりは失われている。

シンド物語
 描かれない十二年間というのが、まさしく北村が予言した「失くすばっかり」の期間であったわけで、七十二歳のナツキ糸子は六十歳のオノマチ糸子のシグナルをまともに受けている。失われたのは人だけではなく、例の(人が何度も来たり去って行った)角っこのある昭和の街並みも含めたかつての岸和田の空気感全体なのです。
 昼仕事でしゃべる相手はともかく、糸子の夜の相手はことごとく鬼籍に入った人ばかり。

 インタビューによると渡辺さんはよほど北村(ほっしゃん。)だけは残そうかと思われたそうですが、そこをバッサリやってまうところがこの人らしい。作り手自身もとことん追い込まないと、平成の糸子の気分を共有出来ないと思われたのでしょう。


 私はそれでも平成の世を糸子目線で見ようとした作り手側の勇気(蛮行?)には舌を巻くのです。大団円で括るのは簡単、それを敢えて壊して素から作り直すというのは、そうそう出来るものじゃないでしょう。
 まあだから、観る側も大抵シンドいのですが。

オモロない
から「しょうもない」と一刀両断するのは簡単。しかし私は三月期のシンドさのありかを一意的に一人の役者に帰するのには抵抗を感じてしまう。私たちが受けるシンドさは作り手側全体の四苦八苦に他ならない。砂利を噛むような「笑えない、怒れない、泣けない」シーンの連続は、そのまんま今どきの気分を表わしているのではないか?昭和の「糸子的在りよう」は、平成の世にはもう絶対に通じないみたいな。
 というわけで三面記事的な「陰謀論」で片付けてしまうよりは、面倒臭くても物語に即してその「呻吟の中味」にこだわった方がたぶん面白いと思うのです。

 表向きの豊かさとは裏腹に、とっくに濃密な家族関係が失われた人間たちが、どうやって「他者」との関係性を取り結ぶかというような点では、あるいはC.イーストウッドが描く人物像ともはるかに通じているかもしれません。「ミリオンダラーベイビーズ」や「グラントリノ」で示される崩壊家庭の人間たちが、まったくの他者と「人の関係性」を取り結ぼうとする振るまいには、家族観の差は明らかにあるにせよ、底流には似たような「孤絶した人間観」が今の世にはあるからなのではないかしらん?

それこそ「タカが朝ドラ」!?なので、
ことさら深刻ぶる必要など少しもないのですが、かといって出来れば「三月期を無かったことにしてしまいたい」という自身の心ばえに問いを立てる、という構えもあったほうが好いのではないか?というのが私の考えです(ドラマの出来云々の話じゃないですよ。こちらの受け止め方の話)。

 孤絶した人間同士の関係再構築の難しさはイーストウッドの場合、片一方の主人公の死という形で示されているでしょう。簡単に答など出せるわけがない、それでも「自己責任」「新自由主義」といった「完全自立主義的な個人」が世界標準とされる今どきの風潮にあって、それに常に「問い」を立て続けて行く姿勢というのは大事だと思うのです。

 「里香よりウチらの方が、よっぽど放ったからしやったのに」と電話口で呟く優子の事務所が、ずいぶん寒々としているでしょう。親子や家族の関係性が明らかに変質していて、より多く「孤絶感」を抱えているのはむしろ優子の方かもしれないのです。

 さて、こうなって来るとモデルの三姉妹が「黙ってられなくなった」本当の中味が何となく分る。稀代の成功者たちに敢えてごく今日的課題を背負わせようとしているからでしょう。

失われた「昭和のレジェンド」
 そもそも「昭和の伝説」として残そうとするなら、渡辺さんの言われるとおり七十三歳での自己ブランド立ち上げで締め括る手もあったはずなのです。しかしその場合、主役を代える必然性は何もない。
 となると彼女は主役交代の件をいつ頃知ったのだろう、という疑問がよぎりますね。Web出版での尾野さんとの対話の雰囲気を見るかぎり、案外遅くに知らされたのではないかという疑いが出て来るのです。

 いささか立ち入った話になるのを恐れつつ、実際の綾子さんの映像を見ていると、その存在感は三姉妹を圧倒するに充分で、世界のコシノもそのデッカイ風呂敷の上で踊っている感じ。
 しかしそのまさしく「お母ちゃんは晩年に花開いた」と三姉妹が口を揃える当の中味が、華やかさとは懸け離れた「老い」だの「病」だの「孤独死」といった、はなはだ今日的でごく個人的な課題と直面させられている糸子として描かれれば、誰しもすっかり面食らってしまうのは無理もないところでしょう。

 最晩年まで描くことになって、渡辺さんは糸子像の再構築を迫られた。新聞記者のインタビューが繰り返し出て来るでしょう。これはたぶん作者が主人公と直接対話しているのです。
 「これで、いいのですか?」と。

「神話伝説」であることを拒否する
 本来楽しかるべきここの「感想欄」をオモロなくするのは本意ではないので、三月期の話は今回までにしたいのですが、要は完璧な「昭和のレジェンド」としての整合性を崩してまでこのドラマが伝えたかったのは、いったい何だったのだろうということなのです。
 出来映えとして不完全なのは、ここでの山のような指摘を待つまでもなく明らか。それでもなお「しょうもない」と片付けたくなる自身の心映えを、お手軽な陰謀論ではなく、なぜそういう思考に陥ってしまうのかを考えたくて書いて来ました。

 もちろん簡単に結論など出せるわけがなく、むしろ様々に視点を変えて「問い続けて行く」べき課題として、「折り合って行く」ほかないのでしょう。
 それこそ「タカが朝ドラに!」と笑われそうですが、ここで私たちが安易な結論を下してそれ以上「問い」を立てないとすれば、それはそのまま震災後の日本の現状を追認する思考構造に等しい。シビアな現実は「永遠の問いかけ」によってのみ、初めて開示され見詰めることが出来る。「なぜ政府と東電は、真実を言わないのか?」ではなく「なぜ私たちは、政府東電から真実を語らせられないのか?」という構えが必要なのでしょう。

 糸子は我が身が畏れ祀り上げられるより、むしろ永遠に「問われ続ける」べき存在であることを望んだのです。

― つづく ―





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Last updated  2012.09.24 12:28:22
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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