「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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朧な影
ハーフフィクションストーリー
『朧な影』
勇介は、満州の外れにある日本軍宿営地に立っていた。
彼は幸か不幸か、徴兵検査で不合格になり、兵役を免れていた。
強度の近視が原因で、乙種も危うい状態だったのである。
“一億火の玉”と言われて、勇猛に戦場へ出ることが、極めて普通に見られた時代である。
だが日本人も、戦争を好む人ばかりがいたわけではない。
兵役逃れのために、美味しいはずがない醤油を、
検査前日に飲める限り飲み干して、不合格を狙う者も、時々いたのである。
勇介の村でも、そのような者がいたが、村人は誰もが、
「あいつは意気地なしだから・・・」
と、陰ではつぶやいても、憲兵に届け出る者はいなかった。
村人は、届け出ることで逆に後ろ指を指されることを畏れたし、
村に残る若い男も、必要だったのだ。
そのようにして兵役を逃れた若者も、戦地から帰郷した知人を見かけると、
そっと俯いて、脇をすり抜けるように、急ぎ足になるのだった。
勇介の場合には、そのような妙な苦労は不要だった。
彼は暗い土蔵の中に40ワットもない暗い電球を持ち込んで、
人目を忍んで勉強を続けた結果、自然に強度の近視になってしまったのだ。
それだけに、堂々と胸を張って、表通りを歩くことができた。
その彼が、満州の戦地に立っていたのである。
彼としても、自分が戦場に立つことは予想していなかったが、
国民のすべてが、どのような場所に派遣されるか解らない、
戦時体制下に置かれていた。
彼にとっての救いは、銃剣も持つ必要が無く、
背嚢を背負う必要もなかったことである。
「おい! そこのおまえ! こっちに来い!」
いきなり勇介が、中国人の家の方面から呼びかけられた。
彼が振り向くと、陸軍伍長らしい男が、勇介に強いまなざしを突き刺していた。
飛行服で歩いていた勇介を、伍長は何か、勘違いをして呼びかけたのだろうと、察せられた。
「私ですか?」
「そうだ。あんただよ。どこの部隊か?」
「私は民間人ですが。昨日飛行艇でこちらに来て、次の出発予定まで時間があるもんで、
足を伸ばしてみたというだけなんだが。」
「民間人か、それは失礼した。ちょっと面白いことが始まるんだが、
暇だったら、見て行かんかね。」
伍長は、彼を民家の裏庭へと誘った。
★ ★ ★ ★ ★
勇介は、病院のベッドで、身動きがとれない病状になっていた。
心筋梗塞と診断されてから、不思議なほどの快復力で、
数年間は再発もせずに過ごしたが、寄る年波には勝てず、
体力の減退に合わせるように、病気の再発が繰り返されて、
数度の入退院を繰り返したあげくに、ついに長期入院という仕儀になってしまったのである。
近代医学の発達はめざましく、手の施しようがないほどの病状でも、
医療ミスさえなければ、生命の終焉さえも、コントロールできるようになったという。
勇介はほとんど末期的な状況でベッドに寝かされていながらも、
医師が加減する強力な薬のおかげで、
意識の混濁と覚醒を繰り返しながら、生き続けていた。
今まで他人を押しのけてでも生き抜くこと、
家族を守ることに精力を傾けて、過去の出来事は忘れることができていた。
あの忌まわしい出来事を・・・。
ベッドの上で勇介の意識は、朧に包まれながら、
時折、そのベールが切り裂かれるように、明瞭に過去が見えるときがあった。
彼自身には、それが現実なのか、過去の事実か、それとも幻影かといった区別は、
つきがたくなっていた。
妻にも子供にも、忌まわしい過去の封印を解くことなく、
50年という歳月を、過ごしてきたのである。
彼自身が直接、その行為に加わったわけではない。
しかしながら、若い彼には、耐え難い経験ではあった。
多くの戦争経験者が、己のもっとも忌まわしい体験を封印してしまったように、
勇介もまた、その重すぎる記憶を、墓の中まで持っていくつもりでいたのである。
彼は本来、穏やかな性格だった。
しかし、“あのとき”を境目にして、
時に“心の暴発”が、押さえ込めない勢いで、噴出するようになっていた。
彼はそれと気づかなかったが、気まぐれとも思える性格は、
その出来事が、いかに彼の心に深い古傷となって刻まれているかという、
顕れでもあったのだ。
入院治療の強力な投薬によって、
勇介の意識は、彼の抑制を破り、時折顔を出すようになった。
夢の中にあって、その中で家族に、
昔物語を、問わず語りに話しかけてしまうのだった。
50有余年の時を隔てて蘇る、恐怖の体験は、
その実行者を非難することで、己の無実を強調し、
それによって、まもなく向かおうとする黄泉の国への、
免罪符にしたいという、願望でもあるようだった。
彼にとっては、子供たちに嫌われる、
くどくどと述べる、昔物語の延長線上に、
その“思いで語り”も、位置していたのである。
「俺はなぁ、あんなこたぁ、やらなかったぞ。
だから、極楽に行けるんだ。あいつらは、だめだ。」
「何があったの? 大丈夫だよ、お父さんは。」
「うん。俺は大丈夫だよなぁ。俺は、あんなひどいことはやらなかった。」
「そうなの。他の人は随分、ひどいことをやったんだね?」
「そうだ。あいつらは、地獄行きだ。もう、先に行ってるかもしれねぇな。」
「よかったね。ひどいことを、してこなくて。」
「うん。俺は、“お前もやって見ろ。日本人だろう”って言われても、
やらなかったからな。」
息子の勇太郎は、父親の言葉の深さには、
そのときには、思いを馳せることができなかった。
朦朧とした父親の、意識の揺れから生み出された、
意味不明の妄想だろうと思い、適当に話を合わせていたのである。
だがそれ以来、父の話は何度も繰り返されて、
繰り返されるたびに、半歩ずつ、1歩ずつ、
さらに深い内容へと、勇太郎を導き始めたのである。
多少の、日本軍に関する知識を持ち合わせていた勇太郎だが、
その父の言葉は、教科書などで読んだ知識を上回る、
身近な現実となって、突然に、彼に冷酷な歴史を、見せつけたのである。
朦朧としたベールの陰から語りかける父の言葉は、
そのまま直截的に信ずることはできかねた。
だが勇介にとっては、“己を死に誘う間際”にあっての言葉である。
それだけに、己の行動を照らし合わせて、少しでも“救いの彼岸”に近寄らんとする、
無意識の意識を、信じるに足る言葉と捉えるべきとも思われた。
勇介は、さらに一歩だけ踏み込んだ言葉を残して、
再び眠りに落ちた。
勇太郎は、父の言葉の端々に、ただならぬ過去を覗き見るような思いを抱いた。
勇介が朧のカーテンの隙間から、再び意識を覗かせたのは、
2日を過ぎたときだった。
彼は息子の勇太郎に向かって、さらに具体的な過去の出来事を、
話し始めた。
50有余年の昔の出来事を。
「あの陸軍伍長のヤツ、“チャンコロなんて、気にするな”って言いやがった。」
乾いた声を絞り出すように、勇介がつぶやいたのである。
勇介の意識は、白濁した渦の中にあった。
その渦から一気に引き上げられると、遙かな上空から、
果てしない霧の海を見下ろす形になった。
霧の海には、渦を巻く一点が見えた。
その渦は、回転しながら、すべてを引き込むかのように、
奈落へと落ち込んでいる。
勇介にはその光景が、親しみを持てる意識の中の一面に見えた。
彼がかつて乗り組んでいた、飛行艇から見下ろした、
『台風の目』そのものだったのである。
ただ違うのは、今、勇介は、身体一つでその渦を見下ろしていることであった。
勇介の意識が、そうさせたのだろうか。
彼の意識が、その奈落の渦に、一気に滑り込んだ。
勇介は、明るい広場のような場所に立っていた。
何度も来たことがあるような・・・。
「そうか。ここは確か・・・満州の・・・?」
と感じたとたんに、すぐ横から声が聞こえた。
「あんたは民間人だから、命がけの経験なんぞ、そうそうはしたことが無かろう?」
「まぁ、それほど多くはないと思うが。」
「我々は、最前線にはいなくても、こうしてここにいるだけで、
抗日分子から狙われる危険は、常にある。民間人は、気楽でいいよな。」
「気楽・・・ですか。」
勇介がこの満州の外れを訪ねたのは、確かに気まぐれの、
“ついでの物見遊山”の気持ちがあった。
横に立つ伍長からの、“嫌み”ともとれる言葉の投げかけに、強く反発できないのは、
その意識が働いていたからである。
彼は戦場に物資を運ぶ飛行艇で、中国に入ってから、
次の飛行予定までに3日ばかりの時間ができたので、
次はいつ来られるか判らない、満州の前線に近い村を見ておきたいといった、
軽い気持ちがあったことは、間違いないのである。
だがこの軽い気持ちが、勇介の記憶に、深い傷を残すとは、
そのときには、思いもよらないことだった。
一見のどかに見えるその村が、戦慄の舞台になっていたのである。
満州の本営から離れたこの村には、軍の監督も行き届きにくく、
部隊の規律掌握は、現地指揮官に任されている状態だった。
中央軍の監督体制が及んでいたとしても、
戦場での行為が、すべて正義によって統制されるとは、限らない。
疑わしい報告があっても、自軍にとってデメリットになると判断されれば、
都合のよいように判断されることも、多かったのである。
勇介は、その『現地指揮官の統制下』にある辺境の村へ、
1晩も汽車に揺られて、来ていたのだ。
昼の間、日本の生まれ故郷のような貧しい村の、
暖かい土のにおいを吸い込んだら、とんぼ返りで、
飛行艇に帰らなければならなかった。
『民間人は、危険が少なくていい』と伍長に言われたが、
そうでもなかった。
民間機は、敵機に襲われたときに、反撃する手段を、ほとんど持ち合わせていない。
しかも、動きの鈍い水上機である。
日本を発つ前に、コースの安全は、慎重の上にも慎重を期して、
充分に確認してから、目的地に向かうことになっている。
だが、軍用貨物機とは違って、護衛がつくことも、まず考えられない。
機長の腕に、乗員の命が預けられているのである。
横須賀沖から飛び立って、上海に向かう途中でも、
彼らの飛行艇は、敵機と遭遇していた。
「2時方向!」
機関長の短い言葉で、機長は即座に危険回避を判断した。
2時方向を見ると、4キロほど先の雲間に、敵戦闘機が見え隠れしている。
飛行艇のほうが雲が多く、また単独飛行だったのが幸いしたのだろう。
敵に気づかれてはいないようだった。
機長は翼を傾けて、最寄りの大きな雲海に、重い図体を忍び込ませた。
このときに、敵機に発見されていれば、彼我の距離4キロは、
たちまちに詰められて、間違いなく餌食にされたことだろう。
直接戦闘に加わっていなくとも、民間機といえども、
このような危険は、日常茶飯事のことだった。
雲が出ている時を狙って飛行することが多かったが、
雲ひとつ無い大空を、目的地に向かうときには、
ただひたすら、幸運を願うしか、術はなかった。
戦闘機が届かない高々度を飛行できればいいが、勇介たちの飛行艇は、
それだけの性能はなかった。
物資を満載して、離水できるのかどうかさえも疑われながら、
アヒルのように、ようやく飛び立っているのである。
僚機の中には、どこまで滑走しても、その重さで離水できずに、
引き返してくるものも、あったほどなのだ。
「おいおい、あいつら本当に飛べるのか?」
「さあ、どうだろうなぁ。」
陸から見ていると、1200メートルもあれば離水できるはずの飛行艇が、
波の上を弾みながら、4キロ以上も走り回り、
離陸に再挑戦するために、戻ってくることもあった。
数度の挑戦のあげくに、離水を断念して、荷物の分量を調整することも、
幾度となくあった。そのような状況で、前線部隊に物資を輸送していたのである。
民間人だからと言って、決して苦労がないわけではなかった。
そのようなことを思い浮かべる勇介の意識が、
雲海の奈落から、渦のトンネルを抜けて、
中国の寒村に入り込んだ意味を、結びつけた。
彼がこの満州の外れに来るまでの車中では、
抗日分子の怪しげな動きは、全く感じられなかった。
日本軍人の姿が、多少は車中にあったからだろうか。
いや、そうとは思えなかった。
堅い木の椅子で微睡みかけながら、時折目を開ける勇介に、
中国人の冷たい視線は、注がれたことがなかった。
どちらかと言えば気弱な勇介には、敵視する視線があれば、
それを敏感に察知できたはずだ。
中国人の乗客たちは、飛行服のままで汽車の旅をする彼に、
通じない中国語でなにやら話しかけて、果物を分けてくれたりも、したのである。
勇介が、そのような中国人に対して、悪意を持つはずはなかった。
★ ★ ★ ★ ★
渦巻く雲のトンネルから、中国ののどかな寒村にある、
とある民家の門をくぐり抜けて、明るい裏庭に立っていた勇介は、
再び同じ道を逆行したように、“現実の世界”に戻り始めていた。
「お父さん、目が覚めましたか?」
息子の勇太郎の声が、枕元から聞こえた。
勇介は、中国人に話しかけられているような錯覚を、覚えた。
夢とうつつの境目は、混沌としていた。
「ここはどこだ?」
勇介が目覚めて発した、最初の言葉だった。
「○○市だよ。変わったことは何もないから、安心していいよ。」
「そうか、日本か。俺はな、さっきまで中国にいた。」
「そうなの? 羨ましいなぁ。」
「羨ましいもんか。おまえは、満州は知らないだろうなぁ。」
「行ったことはないけど、名前くらいは知ってるよ。」
「そこに、さっきまで居たんだから・・・。飛行機は速くなったもんだなぁ。」
「飛行機で、帰ってきたんだね。」
「おまえは、中国人じゃないんだな?」
「俺は、日本人だ。お父さんの息子だもの。」
「そうか。そうだな・・・。皇太子は、元気か?」
「皇太子?」
「ああ、今は天皇陛下だな。あの人は、いい人だ。」
「会ったことがあるみたいな、言い方だね。」
「うちに写真があるだろう。」
「戦争直後に、お父さんが皇太子様を案内したときの写真だね。」
「うん。あの人は、いい人だ。信用できる人だ。」
「そうなんだ・・・。」
「あの人が力を持っていれば、中国であんなひどいことが、おきなかったのに。」
「俺が聞いたことがないようなことが、あったようだね。」
そこから勇介の意識は、再び満州へと飛んでいた。
目覚めていながら、ヴェールに隠れたような意識を、力いっぱい引き出そうと悩んでいるように、
ゆるゆると、言葉が紡ぎ出された。
「あの伍長のヤツ。あいつのようなのが居るから、日本人が嫌われたんだ。」
「いつのこと?」
「昔のことか? 今は・・・そうか、今か。」
「俺は、極楽に行けるかなぁ・・・? あいつは、だめだな。」
「言いたくなければ、無理に話さなくてもいいよ。」
「俺の命も、長くない。別に、隠す必要もないさ。」
そう言いながらも、勇介の話は、なかなか先へ進もうとしなかった。
治療薬の影響で朦朧とした意識であっても、素直に口から吐き出せないほどに、
その思い出は、重い扉の檻に、封鎖されていたのである。
“隠す必要もない”と言いながら、勇介は『疲れた』とつぶやいて、
眠りに落ちた。
年のせいと薬品の効き目との、相乗作用だろう。
勇太郎は、父の余命が目前で縮んでいることを、
覚醒時間の短縮で、知ることができるように感じていた。
数週間前には、2時間ほど目覚めていられたものが、
ここ数日は、数十分の目覚めで、すぐにまた、眠るようになっている。
★ ★ ★ ★ ★
勇介を呼び止めた伍長は、“面白い見物がある”と、中国人の農家の裏庭へ、
彼を案内した。勇介は興味もなかったが、簡単に済ませれば、解放して貰えるだろうと思い、
ついて行った。
裏庭から少し離れた畑に、20人近い人だかりが見えた。
眼を凝らして見ると、その集団は、2つの種類に分かれているらしかった。
一団の5人ほどは立っているが、残りの10数人は、跪くような姿勢をとっている。
だが跪いている者たちは、強制的にその姿勢をとらされているらしいことが、
動きから予測された。
「あれだ。面白いぞ。あんたにも手伝わせてやるよ。」
伍長は、嬉しそうに、にやりと笑った。
勇介は、自分がそこに行くことで厄介なことに巻き込まれそうな、剣呑なムードを感じ取った。
しかし、踵を返すわけにはいかない。
今でこそ、軽い嫌みしか発しない伍長だが、勇介があからさまに誘いを忌避したら、たちまちに豹変して、
『非国民』とののしられる畏れが、多分にある。
勇介が民間人であることも、伍長は言外に、不興の念を顕している。
『兵役逃れの非国民』などというレッテルを、この戦地で貼り付けられたら、
予定の期日に、飛行艇に戻ることが危うくなる。
この場を無難にやり過ごすには、自分と同年配に見える伍長に従うのが、
最良の選択だと、判断したのである。
それにしても、5人の集団で、跪いた一団を取り囲む男たちの殺気は、
これからそこへ向かう二人の元まで、血の臭いを乗せて、迫ってくるようだった。
彼らの手には、長く白いものが、握られていた。
それは、軽く振られるたびに、日差しをキラリと跳ね返した。
非国民呼ばわりをされるので、おおっぴらには声にできなかったが、
勇介の仲間の間でも、眉を顰めて語られることがあった。
だが、自分がその場に居合わせて、しかもその現場に連れて行かれようとは、
思いもしないことだった。
立っている一団は、光るものを振り上げて、勇介と伍長が行くのを待つように、
『それ』で招き寄せるような仕草をした。
逃げ出すことはできない。否応なしに、その忌まわしい現場に、
引き寄せられるだけなのだ。
近づくにつれて、現場の詳しい様子が、把握できるようになった。
農家の裏庭から数百メートルも、離れているだろうか。
その畑の中に、数メートルの深さの、大きな穴が掘られていた。
その穴に向かってうつぶせに身を横たえて、動かないものがいる。
立っている兵隊に向かって、泣き喚くものがいる。
なにやら解らない言葉で、哀願する者がいる。
現場は、騒然としていた。
兵士たちは、勝ち誇ったような表情を、見せている。
「遅いじゃないか? 貴様、何をしていたんだ。」
「民間人が、遊びに来ておりましたので、“いいものを見せてやろう”と、
話をつけて、連れてきたのであります。」
「ほう。それは酔狂な。いや、面白い余興になるかな?」
『伍長がへりくだっているところを見ると、その相手は?』
と勇介が階級章を確認しようと、そっと目を向けると、
その視線を感じ取ったのだろう。彼は言った。
「俺のことは、どうでもいい。それよりもアンタ、面白いことに興味があるんだって?」
“この場を見てしまってからは、己の意志をはっきりさせておかなければ、
とんでもないことに、巻き込まれる。”
そう思った勇介は、おそるおそる、しかし彼にとっては勇気を振り絞って、否定した。
「私は、一民間人ですから、戦闘要員のようなことは、問題があると思います。」
「いいからいいから。遠慮はいらんよ。どうせこいつらは、抗日分子のチャンコロだ。」
彼らの部隊が、この村を根拠にしているのかと思ったが、
勇介の勘違いだったようだ。軍曹のこの男が、最上級の兵士だとすれば、
索敵行動の途中で、この村に滞留しただけなのだろう。
尉官以上の階級者は、見あたらないようだった。
この状況では、規律も風紀も、その場で勝手に判断されることもありそうだ。
日本軍の多くがそうであったわけではないが、
戦闘地域の最前線では、ややもすると、あり得ないことではなくなってしまう。
だがこの村に来るまでの道中で、勇介に接してくれた中国人たちは、
その誰もが、親切な気持ちを、彼に注いでくれた。
その中国人を、自分の手にかけることはできない。
そう思った勇介は、必死に思考をフル回転させた。
「その・・・真剣を持ったこともありませんから。」
「学校では、何を教わったのか?」
「剣道を、教練で教わりましたが、実戦で使えるほどの腕はありません。」
「これは、実戦ではないぞ。据えもの斬りだ。いい土産話になるぞ。」
「刀を持ったことはありませんので、恥をかきそうですから、止しときます。」
「竹刀を振るのと、そう変わらんよ。」
「慣れている方々と違って、何度も失敗するようだと、日本人の恥になるでしょう。」
「ふん。」
軍曹は、軽く鼻で笑って、小さく呟いた。
「とんだ腰抜けだ。」
その挑発するような言葉は、勇介の耳にも達したが、
彼は無視することに決めていた。
中国人たちを救うことはできなくても、自分の手にかけることだけは、したくない。
その思いだけが、強かった。
「まあいい。ここまで来たんだ。見ていくだろうな?」
「はい。」
これ以外の返答は、許されない。
勇介は、掘られた穴の傍らに、立たされた。
「来て早速だが、○○、貴様がやって見せろ。」
伍長に、長刀が渡された。
伍長が振りかぶった白刃は、思いの外太陽の光を、強く弾き返さなかった。
『遠くから見たときには、瑞々しく思えるほどに、輝いていたのに・・・。』
勇介は、そんなことを漠然と考えながら、天を突く切っ先を、見上げていた。
その切っ先が白い残光を引いて、スローモーションのように、
地面に向かって弧を描いた。
勇太郎は、次にいつ目覚めるとも知れない父の、老いた顔を見つめていた。
顔を見つめながら、若い頃に幾度となく聞かされた、父・勇介の戦争話を、漠然と思い返した。
戦闘に参加したことのない父の話は、自慢があるでもなく、体験した出来事を、
ただ淡々と話しているだけのように思えた。
その話は、深い興味を抱かせるものではなかったが、
臨場感は、子供の想像を超えながらも、強くもたらされた。
★ ★ ★ ★ ★
「お父さんの船は、輸送船だった。周りを駆逐艦に守られて、戦場に向かっていたんだが、
船団のうちの輸送艦が、油を積んでいたんで、敵の潜水艦に狙われたんだ。」
「お父さんの船は、狙われなかったの?」
「油を積んでいなかったから、最初に狙われた訳じゃなかったが、何番目かに狙われて、
火災が起きた。」
「逃げられたの?」
「逃げられたから、今も生きていられるんだよ。」
「そうだね。」
「火災になったところへ、また魚雷で狙われたら、間違いなく沈んでいたなぁ。」
「ほかの船は、どうなったの?」
「タンカーは、沈むときに、海に油をまき散らしたんだ。」
「沈められたの?」
「タンカーは、だめだった。あとの船は、日本の駆逐艦が走り回って、潜水艦を追い払ってくれたから、
そのときには、何とかそこを抜け出せたんだ。」
「みんな、助かったの?」
「お父さんは、泳ぎが苦手だったから、それを知っているほかの仲間が、
お父さんのような者を、先に救命艇に乗せてくれたんだが、泳ぎに自信がある人は、
『俺は泳げるから大丈夫だ』って言って、海に飛び込んだ。」
「偉いね。」
「しかし、その海に飛び込んだ人たちは・・・。」
「どうなったの?」
「タンカーから零れた油に火がついて、海面が火の海になってしまって・・・。」
「助からなかったの?」
「かなりの人が、浮かんでこなかった・・・。」
「泳げないお父さんが、助かったのにね。」
「戦争って言うものは、そんなことが、よくあった。どこに運が転がっているか、誰にも分からない。
生き残った者が、運があったと言うことだ。戦闘に参加しなくても、死ぬ者は死んだんだ。」
「運次第か・・・。」
そんな会話を思い出していたが、飛行艇に乗り始めてからの、父の話もあった。
戦闘機との遭遇は聞かされなかったが、やはり『運』を思わせる内容だった。
「いつ予定が入るか分からないから、自宅待機をさせられたもんだ。
ところが、急に出発って言われても、汽車の時間がいい加減でなぁ。」
「2時間や3時間は、平気で遅れたものねぇ。」
「それどころじゃないぞ。“今日は、ちょっと早く来たな?”って思うと、1日遅れで昨日の汽車だった
なんていうことが、よくあったもんだ。」
「それで出発時間に、遅れたんだね?」
「間に合うつもりでも、汽車が途中で止まっちまって、いつ港に着けるか、それも運任せだからな。」
「結局、間に合わなかったんだね?」
「そうだ。着いたときには、『間に合わないから、代わりに行ってもらった』って言われてなぁ。」
「お見送りだ。」
「ところが、俺が乗るはずだったその飛行艇が、撃墜されちまってな・・・。」
「幸運だけど、後味は悪そうだね。」
「そんなことは、考えないさ。汽車が時間通りに着いていれば、俺が乗っていたんだ。
それに、俺が乗る順番になっていたのに、『家の都合があるから、順番を先にさせてくれ』って言われて、
仕事を譲ったヤツが、そのまま帰ってこなかったこともあるんだからな。」
「なるほどねぇ。」
戦争とは、非戦闘員であっても、そのような運命に翻弄される一面が、必ずつきまとうということを、
飾らずに語る父の言葉の中に、見る思いがした。
そのように、戦争中の話をいくらでもしてくれた父だったが、
すべてを話しているようで、どうしても語ることができない体験も、心にしまい込んでいる。
それを今、朦朧とした状態になったからこそ、帳を開け放そうとしているのだ。
勇介の、墓場まで持っていこうとしている体験を、
勇太郎は聞き出すことが、申し訳ない気持ちになっていた。
父が話すならば、自然の状態で受け入れよう。
話さなければ、聞き出すための誘導は避けようと、思い直して、
眠る父の額の汗を、そっと拭いた。
★ ★ ★ ★ ★
伍長が振り下ろした日本刀は、白い光の尾を引いて、
畑の穴に向けてさしのべられた、若者の首をめがけて、吸い寄せられて行った。
勇介は、目を背けたい思いだった。
穴の中にも、目を背けたい光景が、展開されていた。
伍長は、慣れた表情を作りながらも、興奮気味な目を、勇介に向けた。
「どうだ。簡単なものだろう。さあ、おまえも土産話に、どうだ。」
「こいつらは、全員が抗日分子なのですか?」
勇介の言葉は、緊張のために改まっていた。
「決まっているだろう。俺らが銃を持っているところを、見て居るんだぞ。文句があるのかね。」
「そうではありませんが、女や子供みたいのまで居るようですから、不思議に感じました。」
「女や子供だって、銃の引き金を引けば、俺らはやられるんだ。貴様には、それが判らんか?」
「ごもっともです。私の考えが、甘かったようです。」
「民間人は、甘いからなぁ。」
その程度のことで勇介の言葉を許してくれたのは、
まだ処刑しなければならない中国人が、数人ほど残っていたからだろう。
兵士たちの興奮が、さらに膨らまないうちに、勇介はこの場を離れようと思った。
「私が戻らないと、飛行予定に差し障りが出ますので、ここらで失礼します。」
「最後まで、見て行かんのか。情けないヤツだ。」
「明日までに帰るには、早めに出ませんと、汽車の予定が当てになりませんので、
余裕を持って帰りたいと思います。」
「その飛行予定では、次はどこに行くのかね。」
「軍需物資を前線に運ぶとは判っていますが、それ以上に詳しい内容は、知らされて居りません。」
「内地に帰るんじゃないのか? それじゃ、機密だろうから、知らされなくて当たり前だな。
ご苦労。○○(伍長)、駅まで送ってやれ。汽車の時間は、大丈夫か?」
「いつ来るか分からん汽車ですから、予定より早めでも構わんと思いまして。」
「そうだな。○○、あとは俺たちに任せておけ。」
「はい、では送って参ります。」
「おう。」
殺伐とした現場にはそぐわない、なんとも奇妙な時間が流れたが、
軍曹が指揮する“処刑”が再開されたことは、村民の泣き喚く声で、感じ取れた。
勇介は、振り返らなかった。
だがその背に、阿鼻叫喚が突き刺さっていた。
目を閉じれば、まぶたの裏が朱色に染まりそうで、瞬きもできないような気分だった。
「伍長は、経験が豊富なようですね。」
二人だけの沈黙も、勇介には耐えられなかった。
その沈黙を破るために、話しかけたくない伍長に、問いかけたのである。
「俺はもう、慣れっこになっているから、あんなのはどうってことないさ。」
「私には、無理だな。」
「戦争だよ。気にしていたら、自分がやられる。」
「あんな、女や子供までは・・・。」
あとは一刻も早く、この村を離れるだけ。
駅に行けば、汽車に乗れば、この忌まわしい町から離れられる。
その思いから、勇介は自分の気持ちの一端を、遠慮がちに伍長に伝えた。
「軍曹が言っただろう。女や子供でも、油断はできん。それに、斬りやすいんだ。」
その言葉に勇介は、思わず小さく、身震いをした。
汽車で上海に戻る勇介にとっては、悪夢よりもひどい『地獄』を、見てきたような気分だった。
周囲で談笑する中国人の乗客を見ても、
得も言われぬ申し訳なさで、胸を締め付けられるような心地がした。
春の柔らかい日差しが、車窓から差し込んだ。
流れる風景の中では、農夫が田畑で働いている。
彼らが『抗日分子』で、日本軍に攻撃を仕掛けてくるとは、とても思われない。
戦争中であっても、彼らは黙々と、生活の糧を得るために、働いているのである。
その彼らを、おもしろ半分に処刑して、許されるはずがない。
勇介の中では、『一人でも救えなかったものか?』という、悔悟の念ばかりが渦巻いていた。
だが、あの場所で彼の異議が、受け入れられるはずがない。
精神状態を平常に保つことを許さない、異常事態を惹起しがちなのが、戦争なのである。
彼はそう思うことで、やむなく己を納得させた。
『もう二度と、満州の前線を訪ねることはすまい』
そう心に決めて、地獄絵図を封印することにしたのである。
★ ★ ★ ★ ★
父は、仕事で中国を訪れたことがあったはずである。
しかし不思議なことに、台湾の話は聞いたことがあるのに、
勇太郎は、父・勇介から、中国の土産話だけは、聞かされたことがなかったことを、思い出した。
『今まで気にかけたことはなかったけれど、今になって父の話に合わせて思えば、
かなり深い理由があったのだ。』
そう言えば、父は共産党や朝鮮を、極端に嫌う人だった。
だが、なぜか中国に対しては、『周恩来は偉い。毛沢東も偉い。』としか、言わなかった。
朦朧とした父の意識から、透けて見える出来事の一端は、勇太郎にもその全体像が、
朧気に見え始めていた。
ただ鬱陶しく、嫌悪の対象でしかなかった父の、勘気の原因は、
その根が遙かな昔の出来事にあったらしい。
といったようなことが、今になって思い当たるのである。
勇介は、ふとした何かの折りに、脳裏に過去の出来事が蘇り、
走馬燈の走りを押さえきれずに、乱暴な行動に走ってしまったと思われるのだ。
優しさと粗暴さを併せ持って、時に豹変させる心は、
地獄に飛び込むまいと、必死に己を押さえ込む姿の、顕れでもあったのだ。
勇介が、ふっと目を開いた。
「俺は、大丈夫だな?」
また第一声は、同じ言葉の繰り返しだった。
「安心していいよ。お父さんには、変なものは何も憑いていないから、安心してね。」
状況をほぼ飲み込み始めた勇太郎は、勇介を安心させるために、
“憑きものが居ない”という表現で、勇介に伝えたのである。
「おまえは、あのひどさは知らないよな? 見たことはないだろう?」
「よく分からないけど、お父さんが見たほどのことは、きっと見たことがないと思うよ。」
「あんなものは、見ないほうが幸せだ。俺はな、大分に行ったよな?」
「記念の絵はがきを、買ってきたね。」
「ああ、そうだったか。」
「アルバムに、お父さんが歩いた別府の地獄が貼ってあるよ。」
「あの地獄なんて、地獄じゃねぇな。あんなもの、地獄じゃねぇ。」
「そう見立てただけだから、こじつけなんだろうね。」
「本物の地獄は、俺が見てきたようなものだ。」
「ふう~ん。」
「地獄だった。掘られた穴は、本物の “血の池地獄”になっていた。」
「思い出さなくてもいいよ。」
「あいつら(伍長たち)はダメだ。俺はあれだけは絶対にやりたくなかった。やらなくてよかった。」
「うん、うん。大丈夫。」
「これ以上は、俺は言えない。」
「言わなくてもいいよ。」
勇介はしばらく目を閉じていた。
勇太郎は、父がまた眠りについたものと思い、病室をそっと離れようとした。
その時に、勇太郎が動く気配を感じたものか、勇介が目を開いた。
病室を出る息子の背に向かって、呟いた。
「ありがとう。」
思いがけない言葉に、勇太郎は驚いて振り返った。
勇介の目は、朦朧とした今までとは違って、往年の力を取り戻したような、
力強さを見せていた。
そして再び、改めて息子に言葉を贈った。
「ありがとう。」
勇太郎は、言葉を返さずに、父の手を握った。
勇介は、安心したように、目を閉じた。
今まで、家族にも他人にも、真剣に『ありがとう』などと、言ったことのない父だった。
勇介は、閉じた目を、再び開くことはなかった。
★ ★ ★ ★ ★
勇介の言葉は、医療における強力な治療薬の影響による妄想だったのか、
時折意識にさしかかる“影”が言わせたものだったのか、
真相は明瞭には分からない。
勇介の末期の意識のように、“朧”に包んだままで、勇介が彼岸へと、持ち去ったのである。
-完-
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