小さい花のミクロの世界へ

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幻視(まぼろし)-こぬか雨 (1)

 幻視(まぼろし)-こぬか雨(1) 

 先日は、“煙のようなヤツ”の同族と思われる、
白い煙のような“それ”に導かれて、
奇妙な【出逢い】をしてしまった。

 それから数ヶ月が過ぎて、真夏の日射しが路面から跳ね返って、
うだる暑さが続く、真夏になっていた。
私は、“ヤツ”の存在も、“それ”の出現も、
覚えているようで、すっかり忘れている状態になっていた。

 私の意識の中で、【黒い煙】を“ヤツ”、
【白い煙】のようなものを、“それ”と分離して認識をしていた。
煙に表情などあるはずもないのだが、
時折、私を窺うような【視線】を感じることがある。
 その【視線】の質が、“それ”と“ヤツ”とでは、
どことなく違うように思われるのだ。
“ヤツ”のほうが私に向ける意識が、どのような意図を秘めているのか、
まだ想像もつかない。
だが、前回の【誘い】によって、“それ”に悪意がないことは判った。
 それだけでも、安心できるというものだった。
いずれは、黒い“ヤツ”も、何らかのアクションを起こすのだろうが、
“それ”との同族のようなものであるならば、
危害を加える性質のものではないだろう。

 まぁ、兎に角、暫くの間は、それたちの【影】を見ることもなく、
存在自体を、忘れかけていた。

 そんなときに、うだる熱さの路上に、またしても“それ”の影が、
『ゆらり』と、揺らめいたのである。
一瞬、陽炎を見た気分だった。
 だが、陽炎が【表情】を見せるはずがない。
【陽炎】ではなく【幻視】であることは、
“それ”が私に向けた、明らかな【意志】によって、
その存在を、明確に分離して、私に告げようとしていると、知ることができた。

“それ”の視線は、前回のような、
目元に笑みを浮かべたようなものではなかった。
“白い煙”がふっと横にたなびいて、私に『付いて来い』と、
呼びかけているようだった。
その時に、私に向けられた“それ”の意識が形作った【視線】が、
前回のそれよりも、強いものだった。

 誘いを拒否できないような、強い意志を、私に感じさせたのだ。
害はなさそうだったので、私はまた、“それ”の誘いに、
乗ってみることにした。




 私が連れて行かれた場所は、私がいた場所と似たような季節だった。
もしかしたら、日にちは同じだったかも知れない。
年月の経過だけが、異なっているように思われた。
 場所が違うのか? とも思ったが、 兎に角、町並みが古くさい。
田舎と言うには、時代がかっている。
 前回は・・・と、また【前回】との比較をしてしまう。
前回は、状況は違ったが、やはり一瞬にして、 異世界に飛ばされてしまっていた。
 とすれば、今回も、パターンは違うが、 似たような状況になっているのだろう。

-サイレンが響く街へ-

 見上げる空は、私が住んでいた町よりも、さらに青く澄んでいた。
私の住む町も、夏の青空は、特に酷暑の今年の空は、
空の青さが、際だっている。
 だが【ここ】の空の青さは、さらにそれを、遙かに凌いでいる。
大きく湧き上がった、入道雲が白い。

 その入道雲の間から降り注ぐように、
遙か彼方から、サイレンの音が聞こえてきた。
『消防車の音?』
いや、聞き慣れた消防車のサイレンとは、質が違う。
 もっと重大事態を告げるために鳴らされている、
緊急用のサイレンのように聞こえた。
音の【圧力】が、ただごとではない。

 しかし、町を行き交う人々の表情は、平常そのものである。
もしかしたら、この音は、この町に流される【昼を告げるサイレン】か?

 そう思ったが、人々の会話に耳を傾けると、
そうのんびりとしたものでは、ないらしい。

『あんな、田舎の町に飛んできたって、
爆弾を落とす場所も、残っていないだろうになぁ。』
『んだ。川須市には、工場もあんまり無ぇんだし。』
『この河郡市と、間違えたかな?』
『間違えるわけ、無かんべぇ。こっちのほうが都会だし、
空から見たって、大きさが違うことぐらい、一目でわかりそうなもんだ。』
『アメリカ兵の目が、悪くなったんと違うか?』
『確かに、あっちに爆弾を投下しているみてぇだ。』

 遙かに離れた場所であるらしいその市街の、
爆撃の衝撃が、軽く身体に響いてくる。
響きは軽いが、衝撃波のような揺らぎは、
“ずぅ~ん”と、重さを感じさせるものだった。

 あのサイレンの音は、空襲警報だったのだ。
空襲警報の音は、河郡市の隙間を満たすように、
溢れかえり始めた。
 空襲が、近づいているのだろうか。
人々の動きが、慌ただしさを増した。

「来るぞ、 B29 の奴らが、こっちに向かってくるぞ!
 目標は、河郡市なんだ!」
「川須市には、練習のために爆弾を落としてるんだろう。」
「奴らは、爆弾だって有り余ってるから、遊び半分で落としていくんだ。」
「日本の空軍は、何してるんだ?」
「迎撃したくたって、飛べる戦闘機の1機もありゃぁしねぇさ。」

 人々は、口々に思いを吐き出しながら、駆け回っている。
空が、虚しいほどに明るく青い。
工場の隅に植えられたケイトウが、夏に強い日射しを受けて、
鮮やかな赤を、黄色を、さらに際だたせている。
 人々は、その色に目を向ける余裕もなく、
非常用の『持ち出し袋』を手にして、
気休めの防空頭巾を被って、近くに穿たれた防空壕を目指している。

「ほらほら、信ちゃんも、早く防空壕に逃げなさいよ。」
信与(のぶよ)の傍らを駆け抜けた同僚の梅田さんが、
彼女に声をかけた。
【女子挺身隊】のたすきを掛けた信与は、出で立ちこそ勇ましいが、
どことなくおっとりとした性格で、【銃後の守り】を、
文字通りに果たせる様子は、感じられなかった。
「信ちゃん、一緒に防空壕に入ろうよ。もうすぐB29が来るよ。」
信与と同じく【女子挺身隊】のたすきを掛けた裕子が、
彼女に声をかけた。
「先に行っていて。もうちょっと、空を見てから行くから。」
「のんびりしてるんだから・・・。空襲が始まるよ。逃げ遅れないようにね。」
「うん。大丈夫だから。」

 信与は、澄んだ青い空が好きだった。
北国に位置する河郡市は、信与が育った棚部町よりもずっと南だったが、
夏の暑さも、それほど気にはならなかった。
青い夏空は、生まれ育った棚部町に、そのまま繋がっている。
一家は、信与の親の仕事の関係で転居を繰り返し、
この河郡市に落ち着いたが、生まれ育った町には、特別の愛着があった。

『あの町にも、空襲があるのだろうか? 
 B29が飛んできているのだろうか?』
戦時下でも、あの町だけは、
爆撃の恐怖から埒外に置かれているような気がする。
【一億火の玉】なのだから、田舎町でも、
戦争に対する高揚感はあるだろうが、
中央から遠く離れている分、臨場感には乏しいことだろう。
 近隣から出兵した人の【戦死報告】やら、時には家族の【戦死】によって、
戦争を直接的に感じずにいられない人々も、確かに多いことだろう。
それでも、食料に困ることはないだろうし、空襲から逃げまどうこともない。

 河郡市のすぐ近隣の田舎町でさえ、工場地帯がないというだけで、
平和でのどかな生活が、確保されている。
日本全国が戦時下にあり、等しく【銃後の守り】を共有しているはずなのだが、
【平和】の格差は、確かに存在している。

 空襲警報のサイレンが鳴り響いているこの河郡市でさえも、
東京や大阪などの空襲に比べれば、
のどかなものだ、と思わずにいられない。

 そんなことを、ぼんやりと考えて、青い空と入道雲を眺めている信与に、
若い男性が声をかけた。
「入道雲が、白いねぇ。信ちゃんは、防空壕に入らないのかい?」
「本当に・・・。夏雲だよねぇ・・・。」
「みんなはもう、ほとんどの人が防空壕に避難したよ。」
話しかけてきたのは、先ほど信与に『早く防空壕に逃げなさいよ。』と
声をかけてくれた、梅田さんだった。

 信与は25歳、梅田は28歳。
梅田は、本来なら徴兵されている年齢だったが、
子供の頃に煩った小児麻痺の影響で、片足を引きずっていたために、
徴兵検査で不合格になっていた。
 だが性格は明るくて親切で、職場の誰からも好かれていた。
職場では【貴重な男手】でもあった。
信与は、彼を【男】として見たことはなかったが、
【好ましい人】と、認識してはいた。

「防空壕に逃げても、直撃されたら助からないでしょ?」
「そりゃぁ、そうだけど。逃げないよりは安全でしょ。」
「面倒だから、私はここ(事務所)で空を見ていることにしたんだ。」
「面倒だから・・・か。面倒だよね。俺も、信ちゃんに付き合うか。」
「いいの? 危ないかも知れないよ。」
「その時はその時のことさ。」
「焼夷弾が降ってきたら、梅田さんを置いて、
 防空壕に逃げちゃうかも知れないよ、私。」
「逃げたらいいよ、恨まないから。それも運命かな? なんて思うし。」

-B-29来襲-

 入道雲の中から、ジュラルミンをきらきらと輝かせて、
B29の編隊が、姿を現した。
街は、静まりかえっている。
 市の中で、何人が逃げずに、この光景を見つめているのだろう。
防空壕の中からは、いくつの目が、
B29のきらめく機体を見上げているのだろう。

「もう日本は、負けたんだよね。」
「信ちゃん、そんなことを誰かに聞かれたら、大変だよ。」
梅田は、誰もいるはずがない事務所内を、見回した。
「だって、広島と長崎に、ピカドンが落とされたんでしょ。」
「ひどいらしいな。」
「もう、日本は負けだって、噂になってるよ。」
「だけど、まだそれは言っちゃいけないんだ。」
「戦争は、まだ終わっていないんだものね。」
「だから、こうして空襲があるわけだからなぁ。」

 広島、長崎から遠く離れた北国にも、原爆の被害は、
いち早く知れ渡っていた。
 詳細な被害状況は、もちろん知る由もない二人だが、
原爆のすさまじい威力は、
掠れがちなラジオの声を拾い集めるように聞き取って、
想像の範囲で理解していた。
 報道統制が徹底された戦時下でさえも、原爆のひどい被災は、
ニュースで放送された。
隠すことができないほどの状況なのだと、二人にも理解されたのだ。
現代のような報道体勢で状況が知らされれば、
即刻終戦になっても、おかしくない惨状だった。

「B29があんなに低いところを飛んできても、高射砲も撃てないし、
 迎撃する戦闘機もいないんでしょ。」
「アメリカさんにとっちゃぁ、やりたい放題ができるってわけだもんなぁ。」

 高射砲が、全く撃たれないわけではなかった。
だが、貴重な弾を撃つ以上、
外してばかりでは仕方がないという事情もあったようだ。
忘れかけた花火のように、散発的に、空中で破裂する高射砲の煙が、
所々で、黒く吹き流されていた。
 米国軍の爆撃機は、日本の高射砲の射程距離を熟知しているらしく、
高射砲の弾幕(?)の僅かに上空を、悠然と飛行している。
隊列の乱れは、全くない。

 まさに、大名行列を連想させた。

 そこに、1機の日本軍戦闘機らしい機影が、敢然と立ち向かっていった。
「あら、まだ日本軍の戦闘機が残っていたようよ。」
「おお、元気なのがいたとは、心強い。けれど、多勢に無勢だ。」
「怪我をしなければいいけどねぇ。」
「格好だけで良いから、早く引き上げてもらいたいもんだよ。」
「あれは、ゼロ戦なの?」
「何だろうね。精鋭は前線に送られているはずだから、
 多分型遅れの・・・。」
「飛ぶのがやっとっていう、中古(ちゅうぶる)なわけかぁ。」
「だけど、1機で立ち向かおうという、気概がある軍人が、
 内地にもまだ残っているという証拠でもあるよねぇ。」

「あの飛行機が中古? 最新鋭の秘密兵器じゃないの?」
「どうしてさ。」
「見て、見て。B29が来るのを、空中で停まって待っているんだよ。」

 確かに、敵機を迎え撃つために、
よろよろと頼りなく舞い上がった日本軍機は、
空中で動きを止めて、相手が近づくのを待っているような状態になっていた。

 これから空襲を実施されるという街の、とある事務所内で、
こんなのどかな会話が取り交わされているなど、誰が想像できようか。
雨あられと降り注ぐ焼夷弾は、最大の恐怖ではあったが、
それが日常のことになると、人間の心は、
恐怖の中でも、意外な【ゆとり】を、生み出してしまうものかも知れない。

 空中で静止していた戦闘機が、じわりと後退を始めた。
「ほら、あの戦闘機。後ろに戻っていない?」
「戻っているねぇ。」
「やっぱり、最新鋭の秘密兵器だったんだ。」
「信ちゃんは、暢気で良いねぇ。」

「もしかしたら、練習機なの?」
「“赤とんぼ” (こちらを参照) だろうね。ずいぶんと古いのを持ち出したもんだ。」
「え? よく見てなかった。あの可愛いの?」
「そうだ。複葉の練習機だよ。」
「そんなので、あのでっかいB29に立ち向かおうって言うの・・・。」
「無理を承知で、いたたまれなくなって飛び上がったんだろう。」
「どこに隠してあったのかしらねぇ。」
「仙台あたりだろうね。」

 戦時の女性として、信与も複葉練習機“赤とんぼ”(立川 九五式1型練習機)が
どんなものであるかといった知識は、持ち合わせていた。
いざ出撃しても、少し強い風に煽られると、進退もままならない、
旧式の複葉機であること、
その複葉機には、攻撃用の銃弾や、武器さえも満足に搭載されていないこと、
陸軍操縦士の腕前だって、敵機と渡り合えるほど優れているとは思えないことなど、
危なっかしい問題が、機体を重くするほど、詰め込まれているはずだった。
 その“練習機”が、巨大な爆撃機に、相対しようとしている。
巨大な象に吠えかかる子犬のようにも見えた。

「早く仙台に帰って、隠れちまえばいいのに・・・。」
「軍人として、そうはいかんのだろうね。」
「だって、あれじゃとても勝てないよ。
それよりも、弾が届く距離まで、近づけないじゃないの。」

 そうこうしているうちに、“赤とんぼ”からの機銃音が微かに聞こえた。
「撃ったよ。」
「本当に。」
 当然、距離的にB29まで、弾が届いたとは思われない。
B29からも、反撃が開始された。
“赤とんぼ”は、風に煽られるように反転をして、
急速に敵編隊から、ひらりと離れた。

 ふたりは、安堵の表情を浮かべて、山陰に姿を消した“複葉機”を見送った。
だが、そんなことをのんびりと眺めて、
他人の身の上を思いやっている場合ではなかった。
 米国軍の爆撃機は、見る間に姿を大きくして、
ふたりの頭上に迫ろうとしていた。

 B29の腹部の爆弾倉が大きく開かれて、
不気味なうなりを発しながら、無数の爆弾が振り撒かれ始めた。
「どうする? 逃げようか?」
「どこに逃げるのさ。今更、もう遅いでしょ。」
「でも、逃げるだけは逃げてみようよ。信ちゃんもおいで。
一番近い防空壕を、探してみるから。」
「一応、梅田さんに、ついて行くわ。」

 ふたりは、記憶の中にある防空壕の中で、
最も身近な場所にあると思われるところに向かって、駆けた。

 米軍が投下した爆弾は、そのほとんどが焼夷弾だった。
日本家屋の特徴を知り尽くしている米軍は、
経費が安くて、最も効果的な爆弾を選んで、使用したのだろう。
 河郡市街は、たちまちにして火の海と化した。
幸いにして、梅田と信与が爆撃を見上げていた工場の事務所は、
焼夷弾の直撃を免れた。
 だが、火の海は周辺から事務所を包み込むように、炎の手を、伸ばしてくる。

「済みませんが、ふたりだけ入れてもらえませんか。」
 梅田が、駆けつけた防空壕の中に向かって、声を掛けた。
「気の毒だが、ここは一杯なんだ。もう、ひとり分も空いてないんだわ。」
「そうですか。」
「逃げ遅れたみたいだよね。」
「信ちゃんは、暢気だなぁ。逃げ遅れたんだよ。」
「多分、どの防空壕も入りきれないほど一杯なんでしょう。」
「だからといって、外にいたら危ないだろう。」
「梅田さんだけなら、どこかに潜り込めるんじゃないの?」
「ここまで来て、信ちゃんだけ置いていくような、
情けないまねは、できないだろうよ。」
「それは、有り難う。でも、もう空襲も終わりじゃないの?」
「それもそうだね。」
「防空壕に頭だけつっこんでも、尻を外に出していたら、
そこに火がついちゃうでしょ。」
「ははは・・・、確かのその通りだ。」

 米軍爆撃機群は、いつものセレモニーを終えたとばかりに、
悠然と低空を飛翔して、山の端に隠れていくところだった。
気のせいか、巨大な爆撃機の窓から、
振り返って炎に包まれた市街を見下ろす、兵士の顔が見えたような気がした。
信与は、その兵士の青い眼が、一瞬だがしっかりと見えた気がした。
『眼が合った。』
 信与は、そう感じて、ぞっとした。
護衛戦闘機が戻ってきて、地上掃射でもされるのではないか、
と畏れを感じた。
 一方で、敵兵の眼差しに、執拗な攻撃性が感じられなかった。
不安を抱きながら、敵軍の余裕を感じさせられて、
確信のない“安心感”も、持たされたのだった。

 敵兵の“青い眼と視線が合った”というのは、
信与の思い過ごしだったかも知れない。
B29が、手が届きそうな低空を飛び去ったために、
そのような感覚に、囚われたのかも知れなかった。
 本当のところは、信与にも定かではない。

 山の端に隠れた爆撃機は、残った爆弾を、山中に投下したらしい。
山を震わせて、爆弾が破裂する音が、響いてきた。
 あまった爆弾を、山中に捨てていく・・・。
日本軍には、考えられないことだった。
なぜ、市街地に投下しなかったのか?
米軍は、必要以上に市街地を焼き尽くす目的は、無かったらしい。
機体を軽くするために、住民に影響のない山間を選んで、
爆弾を捨てて帰投したと思われた。
 帰投時に、積載した残弾が破裂する事故を避けるためもあって、
爆弾を捨てていったのだろうと、信与たちは話し合った。

 市街地を焼き尽くすかと思われた焼夷弾爆撃だったが、
消防団が迅速に消火作業に当たったので、
思ったよりも被害が少なくて済んだようだった。
 まだ、街の至る所から火の手が上がっていて、
建物の焼ける臭いが、充満していた。
その街に、防空壕から抜け出した人々が、思い思いに戻ってきて、
焼け野原を、呆然と眺めている。

 呆然と眺めるものもいれば、手慣れた様子で、
後かたづけを始めるものも多かった。
いつまでも空襲の“後腐れ”を引きずっていたのでは、
通常の生活に戻れない。

 空襲慣れした人々は、職場復帰も早かったのである。

-崩れた防空壕-

「あれ? 裕ちゃんは、まだ帰ってこないの?」
「さぁて、どこの防空壕に入ったんだろうね。」
「誰か、知らない?」
「探してみようか。」

 裕子は、職場の上司である益子と一緒に、
防空壕に向かって駆けて行ったはずだった。
そのふたりの後ろ姿を、信与は眼の隅で確認していた。
益子は、裕子との仲が噂される間柄である。
間違いなく(などということは、爆撃下ではあり得ないが)、
彼は彼女を、守ってくれるだろう。
 信与は、親友の裕子の無事を祈って、後ろ姿を見送ったのだった。
そのふたりが、空襲警報が解除されてからも、姿を見せない。

 じわりと、信与の胸中に、不安が広がっていく。
『探してみようか。』
とは言ったものの、どこの防空壕に飛び込んだものか、見当が付かない。
「私らがうろちょろするよりも、ふたりの安否が判るまで、
連絡が取れるところにいた方が良いんじゃないか?」
「そうね。この事務所が、彼女が戻るときに、
一番早く帰ってくる場所だものね。」
「後かたづけをしながら、帰りを待ってみようよ。」
「そのうちに、状況も落ち着くでしょうから、そうしましょうか。」

 不安を抱えながら、ふたりはほかの同僚たちと、
爆撃で散らかった事務所の後かたづけを始めた。
裕子と益子の捜索は、消防団や組合の担当者に任せた。
 ふたりのほかにも、多くの不明者がある模様で、
まとめて捜索に当たるということだった。

「信ちゃんは、戦争が終わるまで独身でいるつもりなの?」
梅田が、ふと信与に問いかけた。
信与は、梅田の“好意”を、感じていないわけではなかった。
だが今まで、このような問いかけを、直接ぶつけられたことはない。
僅かに驚いた表情を見せた信与だったが、
特に隠すことでもない、といった様子で、
彼女の現状を、梅田に淡々と語り始めた。

「話せば長くなりそうだけど・・・。」
「良いよ。片づけをしながら、伺いましょ。」
「それじゃ・・・。」
「うん?」
「私には、出征中の兄がいます。長兄も次兄も出征中で、
無事に生還できるかどうか、帰ってみるまではわかりません。」
「無事を祈りたいね。」
「ええ。その兄が無事に帰るまでは、私は結婚できないのです。」
「ほう。」
「父は、兄の生還に希望を持っていますが、
『万一の事態も、考えないわけにいかない』と言います。
もしも帰国できない事態になったら、陸奥家は私が継がなければなりません。」
「信ちゃんの家は、“陸奥”だったんだよねぇ。」
「そうです。たいした家柄ではありませんが、
家を継ぐ男がいなくなれば、私がその役目を負わなければならないのです。
父は、五分五分以上の確率で、ふたりの兄の生還を諦めているようです。」
「このひどい負け戦じゃぁ、無事に生還できると考える方が、
まともじゃないような気がするもんねぇ。」

「ですから、戦争が終わったときに、兄たちが戦死していれば、
陸奥家を私に継がせようと言うことです。」
「お父さんから、直接言われたの?」
「父は、そんな不遜なことを、直接言うことはありません。でも・・・。」
「何かのそぶりに、その気持ちが表れている、と・・・?」
「はい。私の家には、長男か、継嗣にしか見せてはならないとされる、
先祖から受け継がれたものがあります。」
「すごいものなんだろうねぇ。」

「どうなんでしょう? まぁ、系図のようなものですけど。
それまでは、私を可愛がってくれる父が、
私にも見せなかったものなんです。
ところが兄たちが徴兵されてから、その系図を私に見せて、
先祖の説明をするようになりました。」
「俺も、興味が湧いてきたなぁ。」
「他人の家の曰く因縁なんて、聞いても面白くありませんよ。」
「続きを・・・。」

「私が直接知っているのは、江戸時代末期の曾お祖父さんくらいまでで、
それ以前の人は、曾お祖父さんから、噂話として聞いたくらいです。
耳から、生きていた人の性格なんかを、
その人と付き合いがあった人から聞くことができたということでは、
会ったことがない人ですけれど、それほど遠い存在の人ではありません。」
「そんなに古い人まで、“身近な人”だと言うことが、すごいよ。」
「そうでしょうか。でもそれ以前の先祖になると、
もう間違いなく、遠くの人になりますし、
“物語り”を聞かされている気分でしたよ。」
「俺なんか、先祖のことは、ほとんど何も知らないよ。」

「まぁ、私のような家もある、ということでしょう。」
「ほれ、続きを・・・。」
「父が、私に系図を見せて、先祖のひとりひとりについて、
その生業を事細かに教え込んだのは、
私が陸奥家を継ぐことになった場合の、
非常事態を考えてのことなんです。」
「そう思えるね。教え込まれて、覚え込んだの?」
「特に難しいことではありませんから、
自然に覚えたといったところですね。」
「信ちゃんは、陸奥家を継ぐのか。俺とは格が違うな・・・。」
「継ぐと決まったわけじゃないでしょ。
それに、今の時代に“士族”だなんて、何の自慢にもなりませんよ。」
「そんなことはないだろうが。」

「兎に角、そんなわけで、出征中の兄たちの安否が判って、
間違いなく帰国するまでは、私は身動きがとれないんです。」
「そういうことか。早く帰還してくださると良いねぇ。」
「私の結婚話は別のこととして・・・ね。」
「“別”にしなくても良いと思うけど。」

「それよりも、裕ちゃんたちの安否は、まだ判らないのかな。」
「そうだね。今はその方が気がかりだ。」
「私らが防空壕に駆け込もうとしたときに、『満員だ』って断られたんだから、
彼らも断られながら、空いている穴を捜して、駆け回ったことだろう。」
「遠くまで行くか、街から離れたところに行かないと、
入れてもらえなかったんでしょうね。」

「遠くまで行っちゃったんで、帰るのに苦労しているって事かな?」
「それにしたって、こんなに時間はかからないでしょ。」
「防空壕が、爆撃で崩れちゃったかな。」
「崩れた防空壕から、抜け出すのに苦労していると言うことかな。」
「多分、そんなところだろう。」

 ふたりとも、不安は膨らんでいるが、
悪い状況の中でも、ふたりがその条件から抜け出して、
無事に元気な笑顔を見せて帰ってくると、望んでいる。
 防空壕が崩れることは、時々起こることだった。
その崩れた防空壕の出入り口を掘り起こして、
抜け出すのは結構大変な作業だが、爆弾の直撃を受けなければ、
そう悲劇的な状況になるものでもなかった。

 梅田と信与のふたりは、このような状況までは、予想した。
だがそれ以上の状況については、想像を避けた。
防空壕に直撃弾を食らった、という話は、まだ伝わってこない。
至近弾くらいはあった模様だが、その意味では、
悲観的な状態は、考えなくても良いだろう。

 このように、あえて楽観的に事態を捉えようとしているときに、
事務所の中で、ざわめきが起きた。

『益子と裕子のふたりが帰ってきたのか?』
そう思ってざわめきの元を見ると、表から飛び込んできた職場の同僚が、
「崩れた防空壕に、人が閉じこめられている。
その中には、益田さんたちもいるらしい。」
と、報告をしている。
 一刻も早く、助け出さなければならない。
防空壕の場所を聞き、梅田と信与のふたりも、
シャベルを持って、救助しようと駆けだした。

 その防空壕は、表面的には、ただ入口が崩れたようにしか見えなかった。
その崩れた土砂を取り除けば、中の人たちを、容易に救助できそうに思われた。

 だが、入口を掘り出す作業は、意外にも難航した。
防空壕の中からは、人の反応がない。
救助の人々の焦りは募る。

 何とかして、外の空気ぐらいは入れてやりたい。
誰もが同じ気持ちだったのだろう。
誰かが、節を抜いた竹を、防空壕の中に向かって差し込んだ。
これで、僅かでも空気が流れ込むだろう。
救出が翌日になっても、酸素の心配は、無くなったはずだった。

 空襲の日の晴天が嘘のように、翌日になると、
朝から、霧のような雨が降り続いた。
再び救助に向かった人々は、防空壕から立ち上る白煙を見て、呆然となった。

 焼夷弾の“火だね”が、防空壕から僅かに表に出ていた杭に、
飛び移っていたのである。

 防空壕の内部は、どんな状況になっているのだろうか。
かなり悲観的な状況が、誰にも容易に想像できた。
「早く掘り出せ!」
誰かが、悲鳴のような声で叫んだ。
その声を聞くまでもなく、その場に居合わせた人々は、
手にした道具を使って、懸命に防空壕の入口を掘り始めた。

 防空壕の入口は、かなり大きく崩れ落ちたようで、
その日一日では、内部を覗くまでには至らなかった。

 救出作業は、その翌日も続けられた。

 街では、それほど大きな被害を受けなかったようだったが、
意外にも行方不明者や、焼夷弾の被害によって焼け死んだ人が、
かなりの数に上っていたらしい。
 裕子と益子たちを救出するためにだけ、人手を割くことはできなかった。
だがふたりは、大きな工場の従業員だったために、
職場の同僚たちによって、救出作業は続けられた。
“その”防空壕に、彼女らが閉じこめられているという確証はなかったが、
ほかに思い当たる場所がないことから、工場の同僚たちは、
まず、その防空壕を掘り起こすことにしたのである。

 作業中に、幾度も壕内の人と連絡を取り合おうと試みられたが、
壕内から、人の気配は伝わってこなかった。
 人々の気分は、重くなった。
惨状が予想される現場だった。

 防空壕を掘り起こしている人たちの頭上に、敵機が飛来して去った。
抜けるような青空に、傍若無人に飛来する敵機が、憎々しく感じられた。
だが不思議なことに、人々は銃撃を受けることもなく、
爆弾を投下されることもなかった。
 時折、空襲警報が鳴り響くのだが、街の人々は、思い思いに、
おざなりに待避するだけになっていた。

 信与がふと思い返してみると、敵機からの空爆が行われなくなってから、
数日が経過しているようだった。
何となく平和な気分を味わえたが、その意味を深く考えようとは思わなかった。
また、深く考えたくないという気持ちもあった。

 そのころ日本の内閣は、終戦に向けてアメリカとの交渉が、
最終段階に至ろうとしていた。
米軍は、その状況をふまえて、地方都市の工場などを爆撃するといった、
無駄な殺生を控えるようになっていた。

 終戦が、着実に近づいていたのである。

-玉音放送-

 戦時下の電力不足で、電力制限が実施される中にあっても、
信与たちの工場には、電力が供給され続けた。
彼女たちは、ラジオ放送を、比較的聞きやすい環境下にいたのである。
 そのラジオ放送が、8月14日のニュースで、
『明日の正午より、重大発表がある』旨を伝えていた。
そして8月15日の朝、7時過ぎのニュースによって、
『正午から天皇陛下御自らの重大放送が行われる。
国民は起立をして放送を聞くように。』と伝えられた。
 信与が住む田舎町には、ラジオの電波が届きにくく、
その内容は途切れ途切れにしか、聞き取れなかった。
だが新聞の号外でも、『けふ(今日)正午に重大放送-國民厳粛に聴取せよ』
と告知されていたので、人々はラジオがある家や職場に集まって、
耳を澄ますことになった。

「天皇陛下のお声って、どんなものかしら。」
「聞いたことがないから、わからないなぁ。」
「初めて聞くわけだけど、聞こえるんだろうか?」
「まぁ、正午まで待ってみようよ。」

「敵の爆撃機が飛んできても、爆弾を落とさなくなったし・・・。」
「信ちゃんも、気付いていたんだね。」
「梅田さん、いくら私がのんびりしているからって。
街でも噂になっているんですから。『爆弾を落とさないね』って。」
「そうだよねぇ。それに、今日は一度も空襲警報のサイレンを聞いていないよねぇ。」
「今日は、静かだわ。」

天皇陛下の玉音放送 と言うからには、
いよいよ『“本土決戦”を覚悟しろ』って事かも知れんね。」
「それよりも、戦争が終わったんじゃないのかな?」
「戦争が終わると言うことは、日本が負けたと言うことなんだぞ。」
「それは、口が裂けても言えないわねぇ。」
「聞かなかったことにしておくよ。」

 やがて正午になると、雑音に埋もれて、NHKのニュースが始まった。
規制されていた電力供給も、この時間は解除されて、
ラジオがあるところでは、すべての家でスイッチが入れられた。
 人々は、ラジオが『偉い人』ででもあるかのように、
ラジオの前に直立不動で、勢揃いした。

『ザーザー、ガリガリ・・・』
ノイズばかりを聞くようで、耳を澄ませばすますほど、
頭痛がするような放送だった。
 信与たちの事務所は、比較的放送内容が聞き取れたほうだった。
だが、漢文調( 終戦の詔勅 )の“お言葉”と、
陛下の聞き慣れない抑揚のために、
そのお言葉の意味を、即刻理解できた人は、ほとんどいなかった。

 梅田も、少し聴力が弱いことと相まって、
放送内容がよく理解できないひとりだった。
信与は、周囲の人々と同じようにうなだれていたが、
時折、照り返しの強い外を見ては、深いため息をついた。
 その様子を見て、梅田がそっと信与に問いかけた。
「信ちゃんは、今の放送を聞いて、意味が理解できたの?」
「うん、戦争が終わったんだって。アナウンサーが解説をしてくれたから、
ほかの人たちにも解ったと思うんだけど。」
「そうか・・・。でも信ちゃんは、解説なしでも理解できたんだろ?」
「まぁ、所々しか聞こえなかったから、ほかの人たちと、
そんなには変わらないと思うけど・・・。」
「漢文が理解できないと、意味が解らない言葉が多かったよな。」

「兎に角、日本は
『朕は時運のおもむく所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、
もって万世のために太平を開かんと欲す』

っていうことだから、私たち国民も、天皇陛下のお気持ちを汲んで、
復興のために尽くしましょうよ。」
「解ったような、解らないような。」

 中央の受け止め方とは、敗戦に対する温度差があったようだが、
それでも、日本の敗戦を素直に受け入れられない人もいた。
ジロリと、不快な表情をあらわにして、ふたりを一瞥する視線もあった。
その視線を感じて、梅田が信与の袖をそっと引いた。
 信与も梅田の心遣いを察して、ふたりはラジオの前から離れた。
ふたりにとって、そして日本国民にとって、凄惨な戦争は終わった。

 驚異的な新型爆弾が、広島と長崎に投下された。
そのニュースを伝え聞いたときから、今日があることは、
予測できていたことではあった。
 それが現実のものになると、身体が軽くなったような、
開放感とも違う、一種の放心状態のような症状が、信与の気持ちの中に満ちた。

 だがまだ、先日の爆撃の後始末が済んでいない。
その意味で、戦争が終わったわけではなかった。
開放感に浸っている場合ではない。
まだ生死が確認されていない益子と裕子を、探し出さなければならない。
 非常に薄い希望だが、戦争が終わった今、
ふたりが無事に姿を現してくれたら、どんなに嬉しいことだろう。
淡い期待さえも捨て去ったつもりでいたが、親友の無事を、
信与は心の片隅では、まだ捨てきれずにいた。

 玉音放送が終わると間もなく、防空壕の掘り出し作業が再開された。
「おぉおい! 防空壕が開いたぞぉ!」
作業に携わっていた人の声が聞こえた。
ずいぶんと日にちがかかったが、ようやく、防空壕の内部が見られるようになった。

 信与は、防空壕に向かって駈けた。
駈けながら、思った。
『あと3日、あと3日だけ空襲から逃げ切れれば、戦争が終わったのに。』




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