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これまで2回にわたりレポートしてきた、ケソン州の豪雨被害地。ようやく最後に訪れたジェネラルナカール町をまとめる事が出来ました。 今回は写真を多めに掲載し、ビジュアル的に被災状況が感じられるようにしてあります。<ケソン州ジェネラルナカール町> 車や人が頻繁に行き来し、喧騒すらすでに感じられた隣町のレアルやインファンタとはうってかわって、ケソン州の北に位置するジェネラルナカールは中心部ですら静けさを感じる町だ。村民の70%が農業・漁業に従事している同町は、近隣の町に比べると貧しいとされている。被災2ヶ月経った今も、未だに再開されないGナカール町の市場。 レアル町市場にはすでに野菜、肉、魚などの商品が店に並んでいたが、ここジェネラルナカールの市場は再開されていないままだ。多くの人々は隣町まで買い付けにいってしましい、商品は直接この町に流れてこないという。 商品台のみが並んだガランとした市場は、子どもの格好の遊び場になっていた。 町には堆積した土砂を取り除くクレーン車などもあまり見かけない。手付かずのまま場所が多く残されていた。人々もどことなく元気がない印象だ。 隣町との経済的格差は地理条件が大きく関係しているようだ。この町は面積こそ14万ヘクタールと広いが、その80%が山脈に囲まれた地域であり、アクセスの悪さが被害を拡大させた。同町の死者は297人、行方不明者も未だに131人と他地域と比べて多い。捜索や復興の手が入りにくい事を示している。 ジェネラルナカール町データ: 人口約27000人・世帯数5800戸 死者297人、ケガ54人、行方不者131人(1月28日 同町役場調べ)<救援物資の支給> 救援物資を配る様子。 午後2時。新しく再建中であった村役場まえで、救援物資を配給する光景を目にした。長さ50メートル以上にわたって村人たちが列をなしている。今回は鍋、シャベル、バケツなどのほかに、パスタといった食料品が配布されていた。 それぞれの家庭の被災状況に関係なく配られるものは同じだという。人々は各々で必要なもの話し合い、なべとシャベルを交換してもらうなど互いに支えあって生きていた。 救援物資を受け取りに来ていたアーニーさん(34)の話では、1月の救援物資の支給は3回だったという。7歳の娘と8歳の息子がいる彼女の家族にとって10日に1度の支給ではやはり充分ではないようだ。 今一番欲しい物は何かと尋ねると、「うーん・・・」としばらく考えて、「第1に食料、第2に家かな・・・」と話す。 改めて今後の生活が不安定なままだということを思い出してしまった様子だった。僕は質問を少し後悔してしまった。<山部の被災状況>洪水でえぐられた山。川の流れを変えるほどの土砂だったという。 「山間部の被災状況はどうなの?被災者の生活は?」 現地の人に問うたところ、「わからない、人は住んでない」という曖昧な返答が返ってきた。どうやらアクセスの悪い地域では行政の手さえ行き届いていのが実情のようだ。当然、被災状況のデータさえ取られていない。このような手のつけられていない山々の被災状況を調べるため、少し歩いてみることにした。 山道に入る直前でトライシクルを降ろされた。以前は車やバスが通れた道も土砂崩れの影響で狭く地盤がゆるくなってしまい、いまでは徒歩でしかと通れなくなっていた。途中、救援物資をもらいに行く人、すでに受け取り帰る人々に何人も会った。バタンガン村などに続く主要な道であったがアクセスが極端に悪いため、救援物資を取りに来るだけで片道1~2時間以上もかかるそうだ。村へと続く山道。今は徒歩で歩くしかない。バスケットゴールが埋まるほどの土砂が流されてきたことがわかる。コートは早くも耕され、苗が植えられていた。 「なんでこんなに被害があるのにスタンプがないのよ!」山道の途中で村人の女性同士が口論する現場に出くわした。救援物資の支給を受けるにはIDではなく、事前に配布されるスタンプを手に入れる必要がある。 だが彼女たちの話を聞いていると、どうやら連絡不足でスタンプを得られず、片方の女性は救援物資を受け取れなかったようだった。 アクセスの悪いこの地域は、物資の支給情報が確実に村人に届かないこともあるようだ。 それでなくても少ない救援物資。受け取れ得なかった彼女とその家族は、次の配給までどのように生活していくのだろうか・・・。物資と交換するためのスタンプ。名前と番号が記載されている。物資は家族構成に関係なく配給量は同じだった。堆積した土砂で埋まった大地が延々と続く。 死者100人、行方不明者43人と、同町でもとび抜けて大きな被害が報告されているバランガイ(最小行政区)がウミライ地区だ。同地区は町の中心から北に90キロほど離れたところにあり、シエラマドレ山脈に囲まれているため陸路での交通手段はなく、現在も復興の手がつけられていないと言われている。 このウミライを、フィリピン大学に以前留学していた原さんが訪れた。その時の状況をレポートしていらっしゃったので、参考までに現地の状況を記したい。 町の中心からボートで7時間かかるという同地域は、当然ながら復興に必要な土木機械は入れない。まったく手付かずの状態だ。 現地で報告されている行方不明者数は150人以上と町の発表より多い。また住民登録もせずに違法伐採者として入山する者も相当数の上るとされ、死者数ももっと多いそうだ。 手の入らない地域だけに、そのままに放置されており、いまも200人以上の被災者がテントでの生活を強いられているという。 町の最大の課題は清潔な飲料水の確保だと言われている。アクセスの悪い同地ではきれいな水の確保は難しい。今も洪水で水源が汚染された水を飲み続けているため、調査では住民の半数が下痢の症状を訴えているという。 また洪水でできた水たまりから、マラリア蚊発生の可能性もあるということで、今後、衛生状態の改善が名何よりも先に処置すべく問題であるという。<終わり>
Feb 20, 2005
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フィリピンに存在する‘便座なし洋式トイレ’の謎に迫るレポート。今回はその第2の疑問である「奇妙なトイレが普及した経緯」を探っていきます。<フィリピントイレの進化論> 第2の疑問である「この奇妙なタイプのトイレが普及した理由」については、なかなか確かな情報が得られず苦戦しました。 フィリピンに大きなマーケットシェアを持つと見られるAmerican Standard社 (アメリカに本社をおく、日本のTOTOやINAXのような陶器メーカー)にトイレの進化史についてEメールで問い合わせてみましたが、返信もなく途方にくれていました。しかし先日、偶然にも友人にトイレの疑問を持ちかけた際、彼女から有力な情報を得ることが出来ました。友人いわく「フィリピン人が話していた情報なので、それなりに確証はあると思います」とのこと。まとめると以下のようになりました。 「戦後、元来の地面に穴を掘っただけのトイレに替わり、洋式のトイレがフィリピン各地でも普及するようになった」 ここまでは日本も同じく‘和式タイプ’だったので理解できるでしょう。これ以降がフィリピン特有です。 「‘ある事情’によりフィリピン人は、以前のトイレと同じように‘カエル式’に便器に飛び乗り使ったため、便座カバーが壊れてしまった。修理してもまた‘ある事情’により、彼らは上に乗ってしまい壊れてしまう。これが繰り返されたためトイレの管理者は諦め、壊れたまま放置するようになり、今の便座なしのトイレの形になった」 そして最も重要なポイントである、その‘ある事情’というのが、用をたした後の処理と関係しているという事でした。 紙が貴重品であるフィリピンでは、紙を使わず、水で洗い流す人が多かったということ。そのため‘洋式トイレに普通に座ってしまっては、水洗いがしにくく不便’なのでした。 その結果カエル式のまま座るようになったというのです。 確かにこの説には妙に納得してしまいました。昔に限らず、今でも紙を使わない人はいるようです。 また一般にフィリピンのトイレは、トイレットペーパーが流せるように下水が整備されていないため、紙を使ってもゴミ箱に捨てなければならないことも多いのです。そのような技術的な理由も便座なしトイレの普及に少なからず影響があったのかもしれません。 さていろいろ調べてみきましたが、やはりフィリピンの‘便座なしの洋式’トイレは世界でも極めて使いにくい型であろうこと否めないと思います。 紙を使えない事情があるならば、昔の形のほうが絶対に便利なはず。あえて‘洋式’という外来の型を選び続け、独自のトイレを作った彼らは、もともと旧宗主国のものだった‘英語’や‘キリスト教’を受け入れ、自分たちのものにしてきた国民性と似たものが働いているとさえ感じてきました。 フィリピン全土に頑固に根付くこのトイレは、英語やキリスト教と並ぶフィリピン人のアイデンティティーの1つなのかもしれません。<終わり>
Feb 19, 2005
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質問です。「外出時にあなたは急にお腹が痛くなり、トイレに行きたくなってしまいました。やっとの思いで見つけたトイレでしたが、中に入ってビックリ!その便器には、なんと洋式タイプなのに便座カバーがついていませんでした・・・。さて、あなたはこのトイレをどう使いますか?」1.そのまま座って用をたす2.お尻を浮かせて用をたす3.カエルのように縁にしゃがんで用をたす4.あきらめて我慢する5.その他 いきなり変な質問をして、すいません。でもこれはフィリピンに来た人なら誰でも一度は現実に遭遇する状況なんです。 フィリピンのトイレは少し変わっています。特に地方に行くと目にするのですが、下の写真のような‘便座のない洋式型トイレ’が本当に存在するのです。しかも便座が壊れてしまっただけならまだしも、そもそも便器に便座を取り付けるための器具がついていないものさえあるのです。とにかく不思議です。 これがフィリピンの典型的なトイレの形、‘便座なし洋式トイレ’!! 普通の感覚なら、便座のないこのようなトイレに直接座る気にはなれません。たぶん大抵の日本人の選択肢としては、「お尻を浮かせながらする(以後、空気イス型と表記)」か、「便器の縁に足を乗せて、しゃがんで使用する(以後、カエル型と表記)」の2つだと思います。どちらを選ぶかは好みだとは思いますが、両者ともかなり不安定な姿勢です。しかも便器自体が小さく神経を使うため、慣れるまでは落ち着いて用をたすのは難しいでしょう。 日本人にとって馴染みのない型のトイレを前にして誰しも疑問に思うのが、‘フィリピン人の使用方法’と‘普及した理由’ではないでしょうか。これを解決すべく今回は調査してみました。今回は使用法についてです。<正しい‘フィリピン流’トイレの使用法> 参考のため、何人かの日本人留学生にも同じ質問をしてみました。 結果は予想通り。大多数が「空気イス型」で用をたしているようでした。その理由としては、「便座が濡れている場合が多く、カエル式型のように便器に足をのせると滑って危険だから」という声が多く聞かれました。確かにフィリピンのトイレはバケツの水を汲んで押し流す‘手動水洗式’がほとんどなので、便器周りは濡れています。下手をすれば、穴に足がはまってしまう危険があるのです。彼らは快適さよりリスクの少ない方を選んでいるようです。日本人の中には「外ではトイレを絶対使用しない」というツワモノの男の子もいましたが・・・。 しかし、フィリピン人たちに尋ねるとデータは全く異なりました。 自宅のトイレなど、掃除が行き届きキレイなトイレなら、‘そのまま座ってする’。外出先など、衛生的に汚いと感じるトイレなら、‘カエル型で用をたす’という人が多いようです。 最初にこの手のトイレを前にして、踏みとどまるのはフィリピン人も同じのようです。キレイな場合は直接座ってしまうというのは驚きですが・・・。 さて、このアンケート結果でわかったことは、‘カエル型がフィリピントイレの正しい使い方’であり、日本人の多くは使用法を誤っているということでした。 フィリピンのショッピングモールのトイレには、2~3人の清掃係りが常駐しています。「そんなに掃除する必要があるのか?」といつも疑問を抱いていたのですが、この調査によって少し謎が解けました。きっと多くのフィリピン人たちが便器に足をかけるため、すぐに泥などで汚れてしまいやすいんですね。いつも気持ちよくトイレを使用できるのは、彼らがきれいにしてくれているからなんでしょう。感謝です。 補足ですが、フィリピン人に対し「日本人の多くはお尻を浮かせてする」と話すと、大ウケされました。「そんな体勢では用をたすのが大変だ」というのです。「日本人の多くは、カエル型は危ないから避けている」という理由を話すと、こう指摘してきました。 「私の弟はカエル式で座っていた時に便器が壊れ、ケガをする寸前だったわ。確かに用心しないとね」。 僕は「便器が濡れており、滑る可能性があって危ない」と言いたかったのですが、意外にも彼らの中には‘便器そのもの’が壊れることを注意して使っていることまでわかりました。そんな予想外の危険性も孕んでいるんですね。でもこの国ならあり得るかも。 この話を聞くと、「滑らないか、壊れないか・・・」と幾重にも心配して用をたすくらいなら、日本人のように空気イス型でする方が、気は楽かもしれません・・・。<続く>次回は「フィリピンのトイレ進化論」についてレポートします。
Feb 18, 2005
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「フィリピン3都市で同時爆破テロ!」 こんなニュースが2月15日の新聞に出ていたのはご存知だと思います。 事件の概要をお伝えすると、バレンタインデーの2月14日、午後6時40分から7時40分にかけて、マニラのマカティ市、ミンダナオ島のダバオ市、ジェネラルサントス市で爆破テロが相次いで発生し、少なくとも死者11人、負傷者150人に上る被害者が出ました。「大統領へのバレンタインプレゼントだ」というイスラム過激派アブサヤフからの犯行声明が出されています。 爆破があったマカティ地区は,前日も遊びに来ており、また4日前にも友人たちと爆破があったポイントで待ち合わせをしていたので、とても身近な場所でした。事件に遭わなかったのは運が良かったという思いもします。 2003年の三月にミンダナオ島のダバオ国際空港で爆弾テロがあって以来、大きな事件もなく済み安心していたのですが、実に残念です。 マニラ・マカティ市の高層ビル群。東側に事件のあった商業施設の密集するエリアがある。 事件当日はちょうどバレンタインデーで、お花をもった女の子も多く、世間はハッピームードそのもの。 フィリピン大学構内でも毎年恒例のお祭り‘UPフェア’が始まった初日でした。 ですが今回の事件で一転、人ごみは危険ということで会場もギスギスとした雰囲気になってしまったようです。 連続テロはイスラム過激派アブサヤフが犯行声明を出しているということですが、これは 現在、フィリピン南部スールー州で続いている国軍とイスラム組織との大規模な交戦が原因のようです。 すでにこの戦いは死者が双方で80人以上を出す状況にまで発展しているということ。 連日報道されていた交戦が、首都圏を巻き込んだ無差別報復テロになるとは思いもよりませんでした。 さて実は、テロが起こる2日前にもフィリピンの日本大使館近くで爆弾が発見されるという事件がありました。この時は警官が、不審なバックに入った爆弾を運よく発見し、無事に処理できたということです。 「フィリピンに潜伏するイスラム組織JI(ジェマ=イスラミア)などがアメリカ大使館などを狙ったテロを計画している」との情報も以前からあっただけに、‘テロとの戦争’に対し米国に追随する日本も、狙われる危険性がゼロではないでしょう。 日本大使館を狙ったこの事件と今回の連続爆破テロとの関連性は今のところないようですが、イスラム組織アブサヤフとJIは‘テロの共犯’という報道もあり、もしかしたら日本が被害を受けていたかもしれません。(「フィリピンのイスラム教」については12月26日の日記にも少しレポートしたので参考にしてください。)・・・こんな書き方したくなかったんですが書いちゃいました。 日本でフィリピンに関するニュースが強調されるのは、テロや犯罪事件ばかり。もっと他の側面も知って欲しいという思いで、ブログを書いているのですが、やっぱり負の側面ばかりが目立つものになってしまいます。どうしたもか・・・。 もっとフィリピンを好きになるような楽しいネタを届けられるように頑張ります。それでは。<終>
Feb 14, 2005
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交換留学生レポートでありながら、今まで大学のことを紹介していませんでした・・・。今回は留学先であるフィリピン大学とフィリピンの大学事情についてレポートします。(被災地レポートはちょっとお休みです。) 正門にある像‘オブレーション’はフィリピン大学の象徴です。モデルは国民的英雄のホセ・リサール。(写真はクリスマス時のもの)<フィリピンの東大‘フィリピン大学’とは?> フィリピン大学は1908年に設立された国内初の国立総合大学。通称UPと言われます。一つの大学のように聞こえますが、1972年の大学改革を機に「特徴的な学問領域を持つ、7つの独立した大学システム」になりました。 僕が学ぶのはUPディリマン校。法学、社会科学、工学、音楽、建築、芸術などの分野で有名です。その他には医学で有名なUPマニラ校、水産で有名なUPビサヤ校などがあります。 さてUPディリマン校は国際空港から車で45分くらい、マニラ北東部ケソン市にあります。マニラでは珍しく自然が多く残されたロケーションです。 68の学士コースと22の大学院コースを持ち、学生総数は25,200人、うち留学生は209人です(2002年のデータ)。現在の日本人留学生数は交換留学生(日本とフィリピンの大学間協定による留学)がおよそ25人、修士課程などの日本人正規学生数は10人くらいです。 493ヘクタールの広大なキャンパス(東京ドームの100倍以上の広さ!)の中には、各種の国立研究所、競技場、学部棟をはじめ、食堂やホテルなどがいくつかあります。とても徒歩で移動できる距離ではないので、学内にはジープニー(乗り合い自動車)が循環しています。その名もIKOT(イコット)。タガログで‘循環’というような意味だそうです。 UPの中心部の風景。緑の多いキャンパスです。これがイコット!多くの学生が利用する学内循環バスのような乗り物です! そしていかにもフィリピンらしいのは、キャンパス内に一般の民家のみならず、不法居住区も存在することです。このような状況になった原因は諸説ありますが、戦後に行われたキャンパス移転以前に住んでいた。あるいは、貧しくて住む場所がなく、キャンパス内に流れてきた人が定住するようになったとも言われています。 あまりに広大すぎて外部との境界が曖昧なため、キャンパスの治安はあまりよくありません。強盗、レイプは日常的。殺人などもあります。 数年前、ベトナム人留学生が誘拐されて未だ行方不明のままという話も聞きました。先日も白昼堂々、僕の住む寮の前でホールドアップがありました。銃を突きつけられて、「お金を出せ」ってやつです。 散歩が好きな僕ですが、用心のため夜中は歩かないようにしています。 大学内にある不法居住区の様子。フィリピンらしい! そんな学校らしからぬ点もあるUPですが、学生のレベルの高さは国内トップ、東南アジアでも5本の指に入る名門大学と言われています。卒業生もフィリピンを代表する有名人が勢ぞろいです。数人紹介してみます。 まずは故フェルディナンド・マルコス氏。1965年から1986年まで大統領を勤めた人物です。戒厳令を敷き、政治を操った彼は独裁者といわれました。UPの法学部を出て、司法試験にトップ合格したほどの頭脳の持ち主であったことは今でも語り継がれています。 このマルコスの政敵だった故ニノイ・アキノ上院議員はUP法学部を中退しています。彼が亡命先のアメリカから帰国した直後に暗殺された事件は、マルコス独裁政権に対する国民の怒りを一気に噴出させました。これがフィリピン政治史のハイライトである‘ピープルズパワー’と呼ばれる民衆革命です。 そして現在のアロヨ大統領ももちろんUP卒です。経済学者として自らUPの教壇に立っていたこともあります。92年に上院議員に当選したことを契機に政界に入り、とんとん拍子に大統領にまで登りつめりました。 このように現代フィリピン史の当事者たちを輩出してきたフィリピン大学。ここに通っていて感じるのはやはり‘エリート意識’です。どの学生と話していても、自分がUP生であることに誇りに感じています。またこの大学がフィリピンにおいて非常に高いステータスを持っていることは交換留学生である自分も強く感じます。 例えば、役所などに行って調査するにしても、「UPで勉強しており、リサーチに来ました」と一言いえば、まず断られることはありません。むしろ偉い人を紹介してくれたりもします。‘コネ’や‘学歴’が物を言うフィリピン社会を強く感じる瞬間です。 またエリート同士の争いも熾烈です。同じくケソン市にあるアテネオ・デ・マニラ大学は私立大学の最高峰。UP生はどの社会階層の生徒も通っているのに対し、アテネオは良家の子女が通う大学です。特にUP生はアテネオ生に対してかなりの意識をもってるように感じます。このライバル意識の高さを示す会話を友達から聞きました。 友人は尋ねました――「UPのシンボルがフクロウなのは何故?」 UP生は答えました――「フクロウはタカよりスマート(賢い)だからさ」 ライバル校アテネオ大のシンボルはタカで有名。「彼らより賢い」と暗に示してみせたのです。確かにスマート!このプライドの高さに僕は感動してしまいました。 多くの歴史的人物を輩出してきたUP。写真は法学部棟。<フィリピン大学事情> さてフィリピンは意外なことに、国際的に比較しても高い教育水準と高学歴人口を持っています。高等教育機関の総数は国公立私立合わせて1383もあり、これはアメリカについで世界で2番目の多さです。高等教育の就学率も27%以上で世界180カ国中33位。アジアに限れば、韓国、イスラエル、日本、シンガポールについで世界第5位と言われています。 これほどまでに教育が盛んな理由はかつての植民地支配にありました。フィリピンを統治したスペインやアメリカは学校教育を重視し、現地の有能な人材を育てようとしたのです。スペイン統治時代の1645年に建てられたサント・トマス大学は、アジアで最古の大学として現在もマニラに残っています。 では高等教育を受けたフィリピンの学生の就職状況はどんなものなんでしょうか。 友人の話しによると、企業によって出願条件として出身大学が指定されているようです。特に強いのはUP、アテネオ大学(私立)、デ・ラサール大学(私立)の3校だということ。ここでも露骨に学歴社会が示されています。 エリートのUP生なら余裕で就職先を見つけられるのかと思いきやそうでもないようです。経済停滞が続くフィリピンでは失業率が11%以上と高く、当然のように就職難です。 フィリピン人の多くはアメリカなどを始め、世界各地に職場を求めて国を出てしまいますが、この状況では無理もありません。せっかく国内最高の高等教育を受けてきたにも関わらず、それに見合うだけの職場が国内には無いのですから。 でも有能な人材がどんどん流出してしまっては、誰が切迫した国内の経済を立て直すのでしょうか?教育された者がしっかり国を見つめなくては解決の道はないとおもうのですが。問題は山積みです。 就学率が高いフィリピンですが、同時に退学率も多いのが現状です。 今まで知り合った人の中にも、「カレッジに行っていたけど、今はストップしてるんだ」という人が結構います。これは要するに「お金が続かなくて、途中で休学する」という意味のようです。 日本の場合と異なり、フィリピンの大学は単位ごとに授業料を払います。お金がある人は多くの科目を履修し、4年以内に卒業できる一方で、経済的に困窮した学生は、お金に見合った単位数のみの授業料を納め履修しているようです。 入学はしたものの、4年間で卒業できず、就学期間が長引くこともあるし、資金を工面できずに途中でやめざるを得ないこともしばしばです。<終> 今回は大学事情について書いてみました。フィリピンにこれから留学する方もHPを見てくれているようなので。少しでも参考になれば幸いです。
Feb 7, 2005
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昨年末、豪雨災害にあったケソン州。現地の状況を伝えるレポート第二弾です!倒壊したリゾートビル。ここでは28人が亡くなった。2.ケソン州レアル町の被災状況 インファンタ町からトライシクルで北上すること15分。人口29000人のレアル町は東側を海、西側を山に囲まれ、ビーチリゾートがあることでも有名な町だった。だが、今はその面影はない。国道を挟み、急な山の斜面沿いにあったビーチは土砂や流木で埋まり、黒く染まっている。海水も未だに濁ったままだ。 この豪雨で同町の被害は死者241人、行方不明者22人、怪我人150人、全壊した民家1054件にのぼっている。(1月27日現在 同町役場調べ)<‘奇跡’と呼ばれた子どもに出会う>「11日間ずっと望みを失っていた。でも娘の無事を知った時は本当に幸せだった。神に感謝したよ」。3歳の少女ら4人が、全壊した3階建てリゾートビルの中から11日ぶりに救出され、世間を騒がせた事は記憶に新しい。現場だったティグノアン地区に立ち寄った際、偶然にも少女の父親メルビンさん(30)と話すことが出来た。災害にあった状況をこう話す。「バランガイ(最小行政区)から知らせがあり、午後6時くらいに家族でビルへ非難したんだ。その時点ですでに胸の辺りまで水がきていた。私は偶然にも7時45分すぎに外の様子を確かめるためビルから離れていて助かったんだよ。逆にビルに非難していた妻と子ども両親は生き埋めにあってしまったんだ・・・」。 土砂で倒壊した三階建てビーチリゾートは一時非難場所になっていたため、被災当時150人以上の人が中にいたという。全壊した結果、108人が犠牲になった。その中にはメルビンさんの両親と23歳の妻、そして9ヶ月だったもう一人の子も含まれている。 漁師だったメルビンさんは舟が壊れてしまい失業中だという。山中にあった家も流され、今は親戚の家に身を寄せている状況だ。 これほど大きな被害を受けた彼だが、政府からの補償はないようだ。その理由は「補償をもらうためにはIDや婚姻届など様々な証明書が必要だが、すべて流されてしまい申請できない」とのこと。国の社会福祉制度、緊急事態の対応の悪さに呆れてしまう。 「政府は600万ペソを住宅建設にまわすと豪語しているが無理だろう。せいぜい100万ペソくらいかな」。メルビンさんは皮肉そうに語っていた。 奇跡的に生還した娘のステラマリーちゃんはというと、すっかり元気になり、オママゴトで遊ぶ姿があった。だが僕たちが近づくと大泣きしてしまう。フィリピン人の子供にしては珍しい。 長く閉じ込められていた恐怖、その後の執拗な取材、そして母を失ったこと・・・。この3歳の小さな女の子が受けた精神的ショックの大きさを改めて感じた。奇跡的に助かったとはいえ、心の傷が簡単に癒えることは無いだろう。僕はマニラから持ってきたお菓子を父親に託して現場を後にした。メルビンさんが手にするのは「奇跡の救出劇」の写真。国軍のカレンダーになっていた。(でも発見したのは民間人)100人以上が亡くなったリゾートビルのあった場所。山の木陰に葬られた犠牲者。未だに発見されない遺体も多い。<自然災害ではなく人災?> 「違法森林伐採が被害拡大の要因だとされ‘森林伐採の全面禁止’が主張されている。だが、それでは山でもともと木を切り生活の糧にしていた人が収入源を失うだけだ。防災のため住民の居住地を変えられたらいいが、町内で比較的安全な場所は少なく難しい。すべての地域に川があり、今回のような豪雨の場合、洪水などの影響は避けられない」。 地域の開発計画を担当するレアル町役場のエドガルドさん(52)はこう話す。自然に囲まれた地域の防災対策の難しさに頭を悩ませていた。 彼の話しにもあるように、‘違法森林伐採’が災害を引き起こした原因として、強く非難されている。だが、単にこれを禁止するだけでは解決できない複雑な事情が絡んでいるようだ。この問題について少しレポートしたい。 ケソン州は住民の半分以上が何らかの形で違法伐採に関わっているといわれており、また地元の有力政治家などが関与しているため、摘発も長く難航してきた。 アロヨ大統領は被災直後、「今回の大災害の責任を負うべきは違法伐採業者。彼らを徹底追及する」と表明、「全国的な森林伐採の全面禁止」と「ケソン州全域での伐採許可取り消し」を命じた。 そして先日、環境天然資源省は‘森林再生後に優先伐採を住民に許可すること’を条件に地元住民に協力を要請。ついにケソン州の違法伐採業者の告発にまで踏み切った。大統領は強い権限を使って一気に問題の解決に踏み切ろうとしている。 だが、JICA(日本国際協力機構)から天然環境資源省に政策アドバイザイーとして赴任しているHさんはこの方針に反論する。 「大統領の主張する‘何も切ってはダメ’という処置では効果がない。当分の間、伐採できない木を誰が植えるのか。植えた木には伐採許可を与えたりするなどの選択的な禁止でなければ、住民から反発が大きく実現は難しい」。 そしてこうも付け加える。 「ケソン州は森林の減少が急速に進むフィリピンにおいては緑が多い地域。はげ山になっている山はほとんどない。今回は局地的な豪雨だったという自然災害の側面も大きい。これまで土砂災害がある度に政府は全面禁止を主張してきたが、細かい事情を考慮しないで、極端に政策を決めていたことが、災害を防止できなかった原因でもあるのでは?」 ところどころ崩れ、地肌が見える山。被災2週間後の様子。<援助資金は届いているのか?> 前述のレアル町役場に勤めるエドガルドさんが、復興に必要な資金を計算していたので教えてもらった。 「インフラ整備5000万ペソ」・「農家や漁師に対する産業補助8000万ペソ」・「自然回復のための環境整備500万ペソ」・「孤児や被災者に対する援助150万ペソ」で、総計は約1億3650万ペソ(約2億7000万円)だということだ。 だが、現時点での公式な資金援助は、政府(大統領災害基金)からの200万ペソ(約400万円)のみ。不十分なことは明白だ。 「キリスト教団体などからも援助を約束されたが、突然中止してきたところもある。あては政府が海外から受けている救援物資や資金提供だが、今のところ我々は資金を直接受け取っていない」と彼は不満をもらしていた。 しかも政府は支援物資の供給を1月14日を最後に止めてしまい、今は近隣の自治体から食料を援助してもらっている状態だとも話してくれた。 慢性的な財政難で海外からの援助に頼るほかないようだが、これらの援助が被災地のために有効に活用されるかどうかも彼の話を聞いて疑問にる。インフラ整備のためにJBIC(国際協力銀行)などから受け取る資金を水増し請求するなどの疑惑もあるフィリピン。緊急時に単に資金を提供するだけではなく、使用用途の明示を条件にした援助も必要に思える。<テントの中を覗いてみる> 「一つのテントで家族8人が暮らしている。食料も少ないけれど、最も問題なのは仕事、家の援助がないこと。5ヵ月後には長屋が立つ予定だといわれたが、どうなるかわからないわ・・」。 レアル町のセントラルスクールでは、校庭の片隅に数個のテントが張られ、豪雨被害により家を失った被災者たちが暮らしていた。テント内の4畳ほどのスペースには生活用品が並ぶ。ほとんどの家族に小さな子供がいる様子だった。 被災後の住宅事情は地域によって大きく異なるようだ。土砂で埋まってしまったが、早くも建て直しが進む光景を町の中心部ではよく見かけた。だが山間部や被害の大きい地域になると、手がつけられない状態だ。新たな居住場所を探さなければならないが、やはり資金などの面で難しい。 先日、社会福祉庁、赤十字や非政府組織などが協力して住宅支援を進めるという報道を目にした。具体的な政策がようやく動き出したようにみえる。 だがその内容は、「被害のひどかった地域に今年6月までに2500戸、年末までに4万戸建設をする」という極めて限定的なもの。しかも遅い。 これから迎える乾季を前に、テント生活者が過酷な生活を強いられることは避けられないように思える。<続く>テント生活を余儀なくされる被災者たち。それでも笑顔を見せてくれた。12月中旬は落ちていた橋(上)。1月末には仮設の橋が出来ていた(下)。急ピッチで進む町の復興。 次回はケソン州の中では貧しい地域とされる、ジェネラルナカール町です。
Feb 3, 2005
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マニラから車で約5時間。急なカーブの山道に嫌気が差すころ、現場は姿を現し始めた。「無残につぶされた車や民家、倒壊した橋、そして見事なまでに崩れた山の斜面・・・」。町中が流されてきた土砂で茶色くかすんで見える。自然の恐さをこれほどまで強く感じたことは今までなかった。 昨年11月下旬、熱帯低気圧ウイニーと大型台風ヨヨンによる集中豪雨がルソン島中南部を襲い、多くの被害をもたらした。 公表では死者は1000人を超え、行方不明者を含めると1600人以上になる。今後も増加する見込みだ。また家屋・公共施設の損壊、農作物被害などの損害は46億ペソ(約90億円)に達するという。 最近のメディアは、被害拡大の原因とされる‘違法な森林伐採’の関連者を糾弾する話題ばかり。肝心の被災者たちの現状はあまり見えてこない。 「復興はどこまで進み、被災地域への援助は十分に行われているのか」という疑問を確かめるため、僕は被災2週間後の12月中旬と、2ヵ月後の1月下旬の2度にわたり最も被害が大きかったケソン州に入った。今回はその時の‘被災地の現状’をレポートする。1回目はケソン州のインファンタ町だ。1.ケソン州インファンタ町の被災状況<町の現状> 「11月29日の午後10時頃、家が浸水し始めた。1時間もたたないうちに1メートルを超え、急いで家族を連れて屋根裏へ逃げたんだ」。 こう話すのは同地に住むNGOワーカーのリッキーさんだ。(今回の取材に同行してくれました。)彼の家は山、川から10キロ以上離れたところにあるにも関わらず1メートル以上浸水した。その半分は‘土砂’だったという。泊めてもらった家には確かに浸水した際の‘泥のシミ’が残っていた。「川の近くにある両親の家は年に1、2回ほど浸水するが、自宅が浸水するは初めて」と興奮気味に話す彼の言葉から、今回の洪水の大きさがうかがえた。 人口4万5千人のインファンタは川と山に囲まれた緑多き町、だったはずだ。今回の土砂混じりの洪水の影響ですっかり町は変わってしまった。豪雨で118人が死亡、41人が依然行方不明だという(1月26日現在 同町役場調べ)。 被災直後は1週間以上にわたり電気や水道が断たれ、土砂で道が埋まったため食料などの必要な物資はヘリで空輸された。 僕が訪れた時は泥や廃材をのせた大型トラックが行き来し、長靴を履いた市民が必死で壊れた家を再建するなど、町の復興は順調のように見えた。 だが、「学校や市場が再開したのは2週間前。被災1ヶ月半経ってからのことだよ。営業可能な食堂もまだ町に2件のみなんだ」とリッキーさんは話てくれた。よく食堂を覗いてみると、確かに営業していてもフィリピンの代表的なおやつである‘揚げバナナ’しか置いてない店も多かった。町の復興はまだまだこれからだ。<不足する復興資金> ケソン州出身の下院議員、ラフィー・ナンティス氏の事務所を訪れ、マネージャーのアリスさんに話を聞いた。 「アロヨ大統領は被害の深刻なケソン州3町(レアル・インファンタ・ジェネラルナカール)に2百万ペソ(約4百万円)ずつ復興資金を供与したが不充分だ。ラフィー氏は地元の基盤を利用して様々な機関から復興のための資金550万ペソ(約1100万円)を集めた」。 政府の復興資金の少なさにまず驚かされる。地方自治体や国際機関が援助しているとはいえ、桁が一つ足りないのではないか。 また地元の有力政治家の働きは意外だった。彼らが地域の権力を牛耳っているとしばし批判されるフィリピンだが、その分災害などの緊急の場合には資金集めがしやすのかもしれない。 「現在の最大の問題は何か」という問いに対しては、「水道システムの回復」の必要性を説いていた。今は井戸から水を汲み取っている状態だ。だが町全体が復旧するまでには最低6ヶ月は要するという。やはり何よりもインフラ整備のための資金獲得が当分の間の課題のようだ。町の中心部の様子。そのままにされた泥に埋もれた民家。<救援物資の中身> 「乾燥えび1袋・にぼし1袋・モンゴ(小豆)・米1キロ・オイル500ミリリットル・ツナやコンビーフなどの缶詰6個・衣服」。配れられていた救援物資の内訳だ。「オーストラリアエイド・ニュージーランドエイド・国連開発計画(UNDP)」と袋には記されていた。 物資を見せてくれたのは、給付所から家に帰る途中だったラリータ・ドンソンさん(38)だ。「支給は月2回程度。6人の子どもと夫の8人家族の我家は、この量では到底足りない。夫は農業を営んでいたが、全て流されてしまい収入がなくなってしまった」。彼女はこう話す。「今一番必要なものは?」という質問に対して、「食料」と答えていた。 フィリピン各地や世界各国から救援物資が送られているが、物資の不足は依然深刻なようだ。また農業に人口の半分以上が従事する同町では、作物への被害が大きく、3月から始まる収穫を前にして収入源を失った人も多い。食料支援と同時に農地の回復にも力を入れていく必要があると感じる。 救援物資の中身(上)と物資の不足を訴えるドンソンさん(下)<すべてを洗い流された地域> 町の中心からトライシクルに乗ること15分。ジェネラルナカール町に隣接するポブラシオン地区にやってきた。ここは東に位置するシエーラマトレ山から流れでた土石流が、アゴス川を下り、民家を残らず洗い流してしまった。今では一面、茶色の泥で覆われている。積もった泥は実に50センチ以上。だが、中心部のようにショベルカーが泥を掻き出すなどの作業は行われていない。ほとんど手付かずの状態だった。民家は跡形もなく流されてしまった。 その泥の平原を歩き小高い丘を登ると、景色はガラリと一変する。山から流された木々や民家の材木があたり一面を埋め尽くす、‘死んだ木の海’が目の前に飛び込んできた。僕はしばらくの間、言葉を失ってしまった。今までに見たことがないほど荒れ果てた光景・・・呆然とするほかなかった。 話では、その面積は10ヘクタール以上。これほど多量の木々を取り除き、かつてのような農村にすることは可能なのか。それは無理と言わざるを得ない。可能だとしても多く歳月を要する事は間違いないだろう。 あたり一面に広がる流木。手のつけようがない。 <人々のたくましさ> だが悲観的な私とは裏腹に、地元の人々はたくましい姿を見せてくれた。 同行してくれたリッキーさんの知人トンさん(50)は、流木を利用し舟を彫っていた。「小さいサイズは作るのに5日間かかり、4千ペソ(約8千円)で売れる。大きいものになれば1週間かかるが、8千ペソ(約1万6千円)になる」と話す。 リッキーさんも所有地に流されてきた大木を売ろうと張り切っていた。「大きい方は1万5千ペソ。短いのは5千ペソかな。口コミで伝えて、建設業者に買い取ってもらえれば」と話していた。 リッキーさんの母アディーンさん(56)も約3ヶ月で収穫出来るトウモロコシやピーナッツなどの作物を早くも植えていた。泥で埋もれてしまった土地だが、既に新しい作物が芽吹く光景を目にすることが出来た。 川の氾濫で跡形もなくなってしまった同地区。だが人々はその状況を受け止めて、淡々と元の生活に戻ろうとしていた。しかも訪れた僕たちに笑顔を見せて。フィリピン人の底抜けな明るさは、彼らの‘精神的な強さ’を示していると感じる。<続く> 生計を立てるために必死の被災者たち。舟を彫る男性とモンゴ(小豆)を植える女性。次回は隣町レアルについてレポートします。
Feb 2, 2005
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前回レポートした「子どもの家」の写真をちょっとだけ公開します。フィリピンの代表的な乗り物「ジープニー」。アメリカ軍が残していったジープを改良したといわれる庶民の乗り物です。多くの方の支援を受けて、昨年末「子どもの家」に寄贈されました。子どもが学校や教会に行くときなどに使われています。ミリエンダ(おやつ)に出されたピザパイをほおばる子どもたち。 子どもたちは得意のダンスで僕らを歓迎してくれました。フィリピン人はみんなダンスが大好き。いつでもどこでも踊り始めます! プレゼントであげたシャボン玉を吹くらますネネン。 「子どもの家」の会議室。僕がキャンプに参加したときに建設に携わった施設です。乾季のフィリピンで汗水たらして作業した思い出は忘れられません。 みんなでビーチに遊びにでかけました。海辺で生き物を探す好奇心旺盛なルベン。 ビーチで大はしゃぎのこどもたち。 ケルビン・ネネン・イネンの3きょうだい。おてんば娘のネネン・イネンには手を焼きます。でもそれがまたカワイイ!っとまあ、「子どもの家」の家族はこんな感じです。<終>
Feb 1, 2005
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ケルビンは目が合うやいなや、僕ののど元を軽く人差し指でビンタしてきた。「ポッポッ」と響く間の抜けた音に誘われて、お返しに僕も同じように彼ののど元を軽くたたく。「ポッポッ・・」。 自然とお互いの顔に笑みがこぼれた。 再会の‘あいさつ’は2年前と同じだった。すぐにケルビンが僕のことを覚えていてくれたのがわかった。言葉が出ないほど嬉しい。9歳になり,体が一回りも大きくなっていた彼だが、笑ったときに見えるふぞろいの前歯は相変わらず愛嬌たっぷりだ。「クヤー(お兄ちゃん)!」と言って飛びついてくる‘やんちゃ’ぶりもそのままだった。 僕がフィリピン・パンガシナン州スアルにある児童養護施設「子どもの家」に始めて訪れたのは2003年3月のこと。ボランティアとして施設の建設に携わり、子供たちと戯れた。 あれから2年。フィリピンに留学し、再びこの施設を訪れることになろうとは当時は思いもしなかった。 今回は留学仲間と遊びに出かけた、僕にとっての思い出の地「子どもの家」のレポートだ。 「子どもの家」を運営するのはNPO法人CFF(Caring for the Future Foundation)。身寄りがなく施設を転々としていたり、経済的な理由や虐待・育児放棄などの理由で家族と生活をともにすることができない子どもたちを保護している。 また春・夏に日本人・フィリピン人青年達がボランティアとして参加する「子どもの家」建設のワークキャンプを実施し、日比の友好も深めている。 現在この施設で生活している子供は、6歳から14歳までのあわせて12人。それぞれが苦しい過去を持っている。 1年ほど前から「子どもの家」で暮らすロクサンは、誕生日も身元もわからない孤児の少女。町で徘徊しているところをDSWD(社会福祉開発庁)に保護された。 しばらく孤児や性的虐待経験者を保護する施設「女性センター」に入っていたが、そこで出会うレイプ経験者の話を聞いているうちに、「自分にもそんな経験があった」と思い込み、口にするようになったという。子供の成長に良くないと感じた職員が、新たな保護場所として見つけたのが「子どもの家」だった。 黒髪のショートカットでラテン系の顔つきのロクサン。「空が好き」と話す普通の少女だが、時折見せる寂しそうな表情が彼女の過去を物語っていた。常駐のソーシャルワーカーが身元の割り出しを行っていたが、最近手がかりとなる情報を得たということだ。彼女の生い立ちのわかる日が一刻でもはやく来ることを願う。 スアルのビーチではしゃぐロクサン 「子どもの家」の最も新しい家族がマルビンだ。一番小さく、やんちゃな彼。僕は「4~5歳かな」と思い込んでいたが、「実際は7歳」ということを知り驚いてしまった。 双子の妹が二組いたマルビンは、育児や困窮の苦痛により母親から虐待を受けていた。保護された当時は目が鋭く‘ギョロギョロ’としていたという。栄養失調のため、お腹が膨れあがり、体重はわずかに14キロ。それでも食事の時は、その小さなお腹に詰め込めるだけ詰め込み、ほっぺたまで膨れるほど食べたという。「次はいつ食べられるかわからない」そんな生活を強いられていたのだ。 でも今は食事もみんなと同じように食べるようになり、体重も順調に増えている。好奇心旺盛で誰にでもなついてくる彼は一番の人気者だ。 今では元気なマルビン! 2年前に訪れた際、僕と最も遊んでくれたのが前述したケルビンだ。以前はタガログしか話せず苦労したが、今では英語もちょっと出来る。会話がお互いの距離を一層短くしてくれた。ケルビンには同じく「子どもの家」で暮らす二人の妹がいる。イネン(6)とネネン(7)だ。お兄ちゃんのケルビンは甘えん坊のように見えるが、ちゃんと妹たちの世話もするしっかり者だ。そんなところが僕は気にいっていた。そんな彼も胸が痛くなるほど辛い過去を持っている。 父・姉と5人で暮らしていた彼らだが、父が姉に性的虐待を与えたことで警察から追われ姿を消してしまった。(母親は以前に父を捨て家を出ている)姉は心の傷を癒すため専門施設で生活することになり、結局3人は残されてしまった。7歳・5歳・4歳の子どもが保護なしで生活するのは不可能だ。そこで「子どもの家」がケアすることになった。 年に何度か三人は、姉のもとを訪ねるという。昨年末は姉が「子どもの家」まで会いにきてくれたそうだ。だが親がいなくなってしまった彼らは、しばらくの間ここで暮らさなければならない。家族の絆の強いフィリピンで何故このような事が起こってしまうのか、憤りすら感じてしまう。 おやつのピザをほおばるケルビン 1999年の設立以来、5人の子どもが施設から離れていった。里親に引き取られた子もいれば、状況が改善し、実の家族のもとに戻って行った子もいる。しかし中には態度がひどく、受け入れたが拒否せざるを得ない子もいたそうだ。 「それぞれの成長段階に合わせて‘心のケア’の仕方を変化させていかなければならない。職員でミーティングを繰り返し、慎重に行う必要があるのでとても大変」。2001年からこの施設で働く亜紀さんはこう話してくれた。 ただ資金や人手が多ければ事足りるわけではないようだ。‘親代わりのワーカーと子どもたちとの深い関係’が重要になってくる保護施設では、多くの子どもを世話したくても限度がある。社会に出て行けるように教育していくことは予想以上に大変だと感じた。 僕がこのキャンプに参加した最初のきっかけ。それは「珍しい物見たさ」だった。 だがキャンプを通して‘貧困’を目の当たりにした僕は、少しでも解決策を探りたいと真剣に思うようになった。フィリピンでの留学はその延長線上でもある。 だが、街に溢れるストリートチルドレン、ホームレスの家族を毎日のように見せつけられ、僕は問題の大きさに絶望。無力さで、いつしか彼らから目を逸らすようになっていた・・。 2年ぶりの「子どもの家」の再訪は、そんな僕に希望を与えてくれたように思う。 愛情を受けて育った彼らは、愛情を示すようになっていた。素直に感謝や悲しみの気持ちを表現するようになっていた。確かに立派な人間になっていた。 キャンプ中、ボランティアのメンバーでこんなことを話し合った記憶がある。「大きく変えるのは難しい。だけど小さなことから変えていくのは自分たちにでも出来る」・・・その通りかもしれない。 「自分にも何か出来ることはないか」 ‘どんな場面でも強い心で立ち向かう勇気’を子どもたちから教えられた気がする。<終> ~お知らせ~「子どもの家」を運営するCFFは、ただいま春キャンパー募集中!紹介した子どもたちに会えます!HPはhttp://www.cffjapan.org/
Jan 30, 2005
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先日、芸能人入国制限のデモについて詳しくレポートしました。街中で見かけるフィリピン人女性たちの抱える問題に、少しでも興味を持ってくれれば嬉しいと思います。さて、このデモを通じて「日本とフィリピン」の関係について思うところがあったので、書きとめておきました。あまりにも僕の心に重たく残ったことだったので。<冷めていく日本への憧れ>「頻繁にデモが行われていますが、何か対応するのですか?」遠くから現場を見つめていた日本大使館職員の方にも質問を投げかけてみたところ、「うーん、僕らはノータッチ。特に相手にはしないよ」との返事。もっと参加者に日本の意向を伝えるのかと思いきや意外にそっけなかった。午後5時から始まったデモだが、8時ごろには大使館職員も帰宅してしまったようだ。門から出てきた黒塗りの職員の車が現場から立ち去るのを見てメラニーは「一生懸命やっているのに、大使館の人、帰っちゃった。こんな事やっても無理だってわかってるけど・・・悲しいね」。そうつぶやいていた。東京などで4回ほど働いたことのある25歳の女の子。「日本にも友達が一杯いるよ」という彼女だが、彼女の中の日本観が冷めていったことは間違いないだろう。日本を目指しダンススクールに通い中のピンキー(21)も「好きな国だったけど、日本はダウンしたね」と辛口の一言。「日本に対する評価が下がった」と言いたかったようだ。確かに大使館職員といえども、政策に大きく関与できないことはわかる。逐一、デモに対応もしていられないだろう。でも現場の声を第一線で聞き、少しでも日本政府に伝えていくのが彼らの務めではないのだろうか?現状を一番理解しているのは、日本で政策を決める役人ではなく、フィリピンに住み、フィリピン人と共に働く彼らなのだから。「日比友好の窓口」と名乗るなら、もう少し理解を示して欲しい。フィリピンに住んでいて感じるのは、日本人に対する印象の良さだ。もちろん‘経済的な援助’や‘普及している日本製品’の影響もあるが、「日本人は親切だから」という声まで聞かれるほどだ。僕は幾度となくそんな彼らに温かく迎えられ、助けられてきた。お金もないのに、おごってくれたり、迷惑な顔ひとつしないで泊めてくれたり・・・。数えたらきりがない。そんなフィリピンに滞在して僕は、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになると同時に、「自分ももっと彼らに対して親切に接しよう」と心がけるようになっていった。日本に対する信頼を裏切らないためにも。きっとこんな風に思った日本人は僕だけではないだろう。そんな中での、彼女の言葉・・。「この日本の対応はフィリピンの経済だけではなく、彼らの「日本に対する信頼感」にも影響を及ぼすだろうな」。僕はそう感じずにはいられなかった。デモ集会の演説で意外にも、僕は「日本からの応援者」として紹介され、拍手まで頂いた。「ありがとね」とお礼を言ってくれる‘じゃぱゆき’の彼女たち。でも僕は素直に受け入れられなかった。「日本はダウンしてしまったね」という一言が心に重く響き、後ろめたい気持ちで一杯だったのだ。「ごめんね。頑張ってね」としか言ってあげられない自分が悔しくてたまらない。重い気分で岐路に着いたが、友達になったピンキーが寮の近くまで送ってくれた。「また遊ぼうね」と将来の不安を物ともせず、陽気に接してくる彼女。またフィリピン人の底抜けの明るさに助けられた僕だった。<終>
Jan 28, 2005
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2回にわけてレポートしてきた‘じゃぱゆきさん’規制の問題。今回がラストです。<じゃぱゆきさんの現実>「フィリピンで働いても月1万ペソ(約2万円)程度。就職口が見つかるとも限らない。でも日本なら月10万円は稼げる。家族は安心して暮らせるわ」と話すのはベイビーさん(36)。日本に15回の渡航歴を持つ。今はプロダクション側で人材の育成を手がけるというベテランの彼女だが、それでも前回は渡航申請が却下され、再度許可を申請している最中だという。彼女はこうも言っていた。「今は家族への送金で精一杯。お金を貯めてビジネスをしたいんだけどね」。じゃぱゆきさんたちの多くは、後にビジネスを起こすことを目標としている。実際に日本やフィリピンでお店を構え、成功する人もいる。彼女たちにとって、自立するための資金稼ぎでもあるのだ。こう書くと「日本は稼げるから来る」ように思ってしまうだろう。だが、それだけでもないようだ。「日本以外の国では働けないの?」と聞いてみると、「エンターテイナーが稼げるのは日本ぐらいしかない。この道が絶たれると、もう職につけないわ」と真剣な表情で訴えかえてきた。アメリカや中東、東南アジアに‘メイド’や‘船員’として働きにいくことの多いフィリピン人たちだが、‘芸能人’としての働き先のほとんどは日本である。逆に言えば、「‘フィリピンパブ’を望んでいるのは、日本人男性の方」ということもできるだろう。今まで需要があると思って、芸能人としての道を選んできた彼女たち。日本が芸能人受け入れを制限してしまうと、彼らの就職先はほとんど無くなってしまうのだ。他の職につけばいいと考えるかもしれない。だが日本に来る芸能人は地方の貧しい家の出身者が多い。そんな彼女たちにとって手に職をつけるのも楽ではない。「ダンススクールに通うのも金銭的に大変」と話す子もいた。せっかく磨いた歌やダンスの才能が職に結びつかなくなるということは、彼女たちにとって自立して生活する道を困難にしてしまう。ITエンジニアや医療従事者、経営スタッフとして出稼ぎに行くフィリピン人もいるが、彼らは恵まれた家庭で育ち高等教育を受けた、ごくごく限られた人々なのだ。「ODA(政府開発援助)によりインフラ整備を進めても、多くの国民は恩恵を実感できない。だが日本で働く芸能人による送金は社会の底辺にまで直接届くODAのようなものだ」。こう指摘するのは比芸能人業界団体の副代表だ。(「まにら新聞」より)確かにフィリピン人と話していて驚くのは‘じゃぱゆきさん’の多さ。「私の親戚・娘も日本でエンターテイナーをやってるよ」という言葉をこれまで何回もきいた。これほどまでフィリピンに強い影響力をもつ‘じゃぱゆきさん’。ずっと道を開いてきた日本が、急に方針転換をすることは、‘草の根の経済援助’を断ち切るのと同じことだろう。<彼女たちの人権を侵しているのは誰か?>「あなた結婚してるの?私を奥さんにしてよ!そうすれば日本に行けるから!」そう言い寄ってきたのはピンキー(21)。日本を夢見て、ダンススクールに通っている最中に今回の問題に直面した。もちろん冗談半分の言葉だが、それほど彼女たちの訴えは切実だった。これまで芸能人受け入れ制限に関しレポートしてきたが、多くのフィリピン人エンターテイナーの生の声をきいて、僕はこんな疑問を感じずにはいられなかった。それは「彼女たちを追い込んでるのは誰?」ということだ。日本政府は一部の悪質な人々による‘売春’や‘不透明な入国制度’を日本社会から根絶しようとするあまり、「すべての芸能人たちの生活を脅かす」という選択をしていた。芸能人業界団体も然りだ。業界内の不正な部分をなくすべきだと主張するものの、「5年間の猶予」を求めるなど、「出来る限り現状を維持しよう」という感は否めない。両者とも、‘じゃぱゆきさんとその家族’の生活を、一番に考えてるようには感じないのだ。そしてもう一つ大きな疑問がある。それは、僕たちのじゃぱゆきさんたちに対する一種の偏見だ。‘じゃぱゆきさん’を養成するお店のオーナーに話を聞きに行こうとした時の事。興味があるだろうと思い、同じ留学生友達の女の子を誘った。だが、彼女は行くことを怖がった。どうやら「じゃぱゆきさんは夜の商売をする汚れた人」という印象を持っていたようだ。しかし迷った挙句、同行した彼女はお店のじゃぱゆきさんと一番話しこんでいた。そして「思っていたのとぜんぜん違う。いい人たちね」と一言。一緒にデモに参加した女の子も、「自分たちの生活が懸かっているのはわかるが、やっぱり風俗産業。そこで働きたいと訴えるなんて、日本人では考えられない」。こう話していた。日本ではフィリピンパブは風俗産業・水商売と思われている。でも彼女たちはホステスではなく芸能人として働きにきているのだ。(法律では、一緒に食事に行く「同伴」はもとより、「接客」も禁止されている。)この誤解・偏見が、彼女たちの立場を一層困難なものにしているのではないだろうか。「風俗で稼ごうとする外国人は規制されて当たり前」というように。今のままの方針で最も打撃をうけるのは紛れもなく‘じゃぱゆきさん’自身だ。彼らの生活も立ち行かなくなる。「売春という人権侵害」を廃絶する名目でことは進められているように見えるが、逆に彼女たちの「基本的な生活を送る権利」が軽視されている気がしてならない。「大事なひとは誰?」と問うと、例外なく「家族」を真っ先にあげるフィリピン人たち。家族の幸せのために必死の‘じゃぱゆきさん’は、そんな心優しいフィリピン人の典型だ。希望を抱いているだけで、まだ何もしてはいない彼女たちの将来を制限するのではなく、「違反者を厳しく取り締まる」という対策へ。そして私たちも日比交流において重要な役割を果たしてきた彼女たちを改めて見直すという姿勢を持つことが必要だと思う。彼女たちの人権を第一に考えた政策を、日比双方がもっと模索していくべきではないだろうか。<終>キャンドルに灯をともし祈る‘じゃぱゆきさん’たち
Jan 26, 2005
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デモの様子 総勢2000人のじゃぱゆきさんが必死の抗議!記事は前回からの続きです。<‘じゃぱゆきさん’が悪いのか?>そもそも彼女たちは自ら売春を行っているのだろうか。「売春なんかしていないよ。みんな家族のために必死。真面目よ。私たちに問題はないわ。もちろん時々いやなお客もいるけどね。厳しくすべきなのは、そういう人たちよ」。こう話すのは4回の来日歴を持つエンジェルさんだ。ずっと、じゃぱゆきさんは娼婦として見られてきた。80年代にこの「じゃぱゆき」という言葉が世に浸透したのも、彼女たちの売春という行為が社会問題化したためだ。エイズなどの病気の拡大にも一役買ってしまった。批判される理由もわかる。だが、彼女の訴えにもあるように、じゃぱゆきさんは本来、家族のために働きに来た「出稼ぎ労働者」だ。それが売春という行為に走らざるをえない状況になる原因は別にある。売春を彼女たちに迫る「買春者」たちも問題だが、彼女たちを不当に安い給料で働かせたり、甘い資格認定を利用して「接客」や「同伴」などの行為を強いてきた「業界」側に大きな責任があるだろう。「身ごもった上に男に捨てられる」など、日本でひどい目に合わされているにも関わらず、職を失うことを恐れて黙っている女性も多いと言われている。彼女たちはむしろ‘被害者’だ。彼女たちを‘芸能人’ではなく‘水商売の女’とする私たちの‘誤った認識’が、彼女たちを弱い立場に追い込んでるのかもしれない。日本政府は「(貧困という)経済的な理由により、人身売買を放置することはできない」と述べているが、真面目に働く彼女たちを追いやるのではなく、彼女たちの労働環境を整備し、経済的に自立を援助できるような方針を採るべきではないだろうか。先日、事態を重く見た比日の業界団体が「芸能人の待遇向上や違法行為の一掃を盛り込んだ協定」を締結し、業界の浄化に乗り出した。内容は「給料の天引き」・「同伴・接客などの違法行為の取締まり」・「ノルマ制度の廃止」・「休日の制度化」・「帰国後の支援」などだ。「じゃぱゆきさん」の労働環境を保障したこれらの協定が、実施の猶予を求めるための単なる時間稼ぎにならないためにも、日本政府は協力すべきだと思う。急激な方針転換では、逆に違法な入国者や滞在者を増やしかねない。<フィリピンを支えてきた‘じゃぱゆきさん’>先日ジャカルタで、アロヨ大統領はこの件に関して小泉首相に実施猶予を求めた。外交団を何度も日本に派遣するなど政府も必死の緩和要求。なぜこれほどまでに騒がれるのか?答えはフィリピンの経済政策にある。フィリピンは国内の雇用機会の不足から、「海外に労働者を派遣する政策」を奨励してきた。出稼ぎ労働者(OFW)が送金する総額は、実にGDPの10%を占める。申告されたルート以外の送金額を含めると、その経済に及す影響は計り知れない。まさに出稼ぎ労働者が国を支えているのだ。日本にエンターテイナーとしてやってくる「じゃぱゆきさん」も、もちろんフィリピンを支えている。彼女たちは貧しさにあえぐ家族に送金し、母国に外貨をもたらしているのだ。毎年8万人のフィリピン人芸能人が日本にやってきているが、これが今回の改正で8千人になると言われている。10分の一の削減だ。これは家族にとっても国にとっても死活問題なのだ。もちろん「出稼ぎ産業」に頼るフィリピン国内の経済政策も問題だ。国内で産業を築き雇用を確保することを真剣に考えなくてはならない。優秀な人材が国外に出て行ってしまう「頭脳流出」も指摘されている。だが一向に脱出できない経済停滞。そして11%という高失業率。今年も財政危機が叫ばれている。自ら産業を興したくても、やはり資金がなくてはじまらないのが現状のようだ。<続く>
Jan 23, 2005
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「善意を見せろ!山崎日本大使!」「日本の皆さん!私たちの仕事を守って!私たちの家族を守って!」こう書かれたプラカードが辺り一面を埋め尽くす。そして彼女たちは、「試練」と題した詩を歌いはじめた。「ただの試練にすぎない。戦うことを諦めないで。あなたは一人じゃないのだから。神はあなたを見捨てない。あなたの願いは必ず叶う・・・」。昨年12月以降、フィリピンでは「じゃぱゆきさん」が再び注目を浴びている。日本政府が売春対策の一環として、フィリピンからの芸能人受け入れを制限する方針を打ち出したためだ。実施の延期を求めるフィリピン人たちが日本大使館前に集まり、この日も抗議集会を行った。集まった人々は、マニラにあるいくつかの芸能プロダクションや派遣業者が団結して結成した組織「OPA連合」のメンバー、約2000人だ。午後6時に司祭のミサが行われると、テーブルや路上に置かれたキャンドルに火がともされ、‘じゃぱゆきさん’達は祈りを捧げ始めた。「どうか日本へ行けますように・・・」と。日本では未だに「海外から出稼ぎに来たホステス」としか思われていない節のある彼女たち。だが彼女たちが背負っているのは、家族、そして国家。問題は日本人が考えているよりも、ずっと深刻だ。彼女たちの現実を知るため、今月21日、僕は抗議集会に参加し訴えを聞いてきた。今回は、そんな彼女たちの悲痛の叫びをレポートしたいと思う。(注:「じゃぱゆき」とは、日本へ出稼ぎにいくフィリピン人エンターテイナーのこと。かつて外地に売られていった日本の女性を「唐行き」と称したことになぞらえている。)<なぜ今、入国制限なのか?>日本は芸能人として働く外国人に対して「興行ビザ」を発給している。このビザの発給の用件は、「1、二年以上の芸能人歴」・「2、教育機関で芸能の専門科目を二年以上専攻」・「3、各国政府が認定した資格の保有」のいずれかを満たせればよかった。しかし、昨年12月、日本政府は3番目の項目の削除を決めてしまったのだ。実はフィリピン人のほとんどは、この3番に該当するフィリピン政府発行の「ARB(芸能人認定証)」でビザを取得してきた。このため今後、多くのフィリピン人たちは日本行きが困難になる。特に新規で日本行きを申請している若い芸能人は絶望的だ。この項目が削除されることになった直接の原因は、アメリカ政府が昨年6月に発表した「人身売買に関する報告書」にあったといわれる。この中でフィリピンを「人身売買の被害が深刻なレベルであるにも関わらず、政府が適切な処置をしていない国」と警告した。また、これを助長しているとして日本も批判し、日比のビザ発給と資格審査の改善を迫っていたのだ。デモのリーダーの一人、ダンサーのロメルさんはこう主張する。「確かに人身売買という人権侵害は問題だ。日本政府の対策を支持する。だが問題なのは突然すぎることだ。関連業者との協議を行うなどして、もっと猶予がほしい」。確かに突然の変更であり、準備もなしに急に転職を迫られた彼らの言い分も理解できる。彼の言うように猶予期間を設け、様子を見るぐらいの対応が妥当だと思う。ただ改正を急いだ理由はこのアメリカ政府からの批判だけではないようだ。現地の「まにら新聞」の記事によると、日本政府は以前から比政府の発行する「資格証」の乱発を問題視しており、受け入れ制限の検討をしていたという。毎年8万人のフィリピン人が、「政府資格証」に基づき日本行きビザを取得しているが、この中には芸能人としての能力もないのに発行を受けている人が多数含まれているということ。またこの資格証を発行する政府機関の汚職も発覚しており、偽造資格証などで入国したフィリピン人も相当数に上るという。時期はどうであれ、このような不透明なシステムに何らかの対策を講じる必要はあるだろう。
Jan 22, 2005
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<お得な英語学習環境>「フィリピンで英語を勉強する」こんな事を言うと大抵、不思議な顔をされます。確かに日本では、アメリカ・イギリス・オーストラリアあたりが語学研修地としては普通ですからね。無理もありません。しかし前回も書きましたが、フィリピンは世界でも有数の英語大国。「安くて、近い国」ということで、最近では多くの韓国人などがフィリピンに語学留学をしにきています。(実際、TOEICなどの英語資格の平均点は日本より韓国のほうが上ですよね。この英語に対する熱意の違いにも、差が生まれる理由があるのではないでしょうか。)このように需要があるため語学学校も多数あり、コースも豊富です。会話やプレゼンテーションのスキルからTOEIC・TOEFLコースにいたるまで、かなりの充実ぶり。ネイティブに発音の近いアメリカンフィリピーノが講師ということを売り物にする語学学校もあります。もちろん希望すれば個人レッスンも受けられます。それでいて一ヶ月(月~金の4週間:20回の講義)あたりの受講料は平均7000ペソ(14000円)程度です。日本で英会話学校に行くとなると、週2日でも年間30万位はくだらないでしょう。もちろん生活費も安いので、それを含めたらかなりおススメです。ただフィリピン人の中には、現地語ではない英語のみを勉強しに来る外国人たちをあまり好く思わない人も見かけます。そこは学ばせてもらっているのだから、誠意をみせるべきでしょう。現地語のフィリピノ語を片言でも覚えれば大丈夫。挨拶だけでも彼らは喜んでくれ、お互いの距離が縮まっていくのがわかります。語学能力に長けている人ならば、1年でフィリピノ語までマスターしてしまう子も留学友達にはいました。一石二鳥です。<僕がフィリピンを選んだ理由>「いやいや、それでもフィリピン英語なんて、訛りがひどくて使い物にならない」ここまで書いても、そう反論するひとも多いでしょう。確かにタガログ語と英語が混じった英語「タグリッシュ」を話す人がほとんど。欧米人の話す英語とはちょっと違います。きれいな英語の典型例、クイーンズイングリッシュを話したい人には向いていないかもしれません。でも「きれいな英語って何?必要あるの?」というのが僕の中にあったかねてからの疑問。これこそ僕が、フィリピン留学を決断した出発点でもありました。イギリスに短期留学した時のこと。台湾人など多くのアジア人と出会いました。もちろん会話は英語です。お互いが、母国語以外の「英語」と言う言語でコミュニケーションを成り立たせようと必死でした。会話の中には文法や発音の誤りは確かにあります。通じにくい時もありました。でも逆にそれが、僕の中にあった「うまく言わなきゃ!間違えちゃだめ!」という英語に対する強迫観念から解放してくれたように思います。そう、「ネイティブ以外の英語学習者はみんな間違える」のです。高校で英作文の課題を提出した時、「そんな表現をネイティブはしないよ」とだけ言われ、バツにされた経験を持つ人はいませんか?でも実際、自分なりの表現で話しても相手には通じます。欧米人以外の人と話した時のこの経験が、僕の英語観に新しいものをもたらしてくれました。「欧米人の英語」という考えから、「国際コミュニケーションのための言語」という発想の転換といってもいいと思います。日本人の多くは「ネイティブの英語」を理想としています。というより無意識のうちに「英語は金髪の白人であるネイティブ固有のもの」だと思い込んできたと思います。そして自分の英語が、それに近づけないことで苦しんでいます。いわば自虐的な態度です。このように「ネイティブの英語」とういう観念が強かったため、日本語英語も含めて「ノンネイティブの英語」は一般に「低い」レベルの物とされ、英語をしゃべれない日本人までもこれを軽視する傾向があります。でも、フィリピンをはじめカンボジア、マレーシアなどに行った経験から分かりますが、英語は南・東南アジアですでに広く定着し、各国で独自の新しい単語・表現が生み出されているぐらいまで土着化しています。例えばフィリピンでも、フィリピノ語の尊敬表現として文末に、“po” を付けることから、英語を話すときにも使われることがあります。“Thank you po”という感じです。フィリピン人は欧米人が相手であっても、この独自の英語を使い、実に巧みに会話をしています。ここまで土着化している“英語”に対して、「それは英語ではない」と否定できるでしょうか?日本語英語をバカにする割には、英語の話せない日本人より、よっぽどすごいと感じます。外国語として英語を学んだ彼らから、学ぶべきことは多いのではないでしょうか。だからといって、私は“アジア英語”を習得する必要があると言っているわけではありません。ただ、ネイティブ以外にも英語を自分の物として操る人がいることを知れば、自分の英語に対する劣等感から少しでも解放され、自信を持つきっかけになる。そう思うのです。文化も考え方も違うネイティブになることは到底、無理なのですから、ノンネイティブで話せる人を見習ったほうが、学び易いでしょう。(アジア系の場合、日本人と似た顔立ちが親近感を抱かせ、気軽に話しやすいというメリットもあります。)また、アメリカ2億7千万・イギリス5千万に対し、中国13億、インド8億、フィリピン8千万人という人口を挙げればわかりますが、これからの世界の英語話者のほとんどはネイティブではなくなると思います。そのような事情を知っておくことは重要ではないでしょうか。「自分の中に“国際語”を解するという自信を植え付け、アジアとも欧米とも対等な視点で付き合っていける国際人になりたい」。 僕がフィリピンという国を選んだ理由はそんなところにありました。国際人になれたかは定かではありませんが、英語に対する劣等感は実際に無くなりました。この英語学習法の効果は僕が証明済みです。<終> さて、僕の持っていた「きれいな英語って何?必要あるの?」という考えを、データとして裏付け、このフィリピンで英語を学ぶことの意味を説いてくれた本があるので紹介します。本名信行さんの著書「最新アジアの英語事情(大修館)」・「世界の英語を歩く ( 集英社新書)」などです。非常に面白いので、英語やアジアに興味のある人は読んでみて下さい
Jan 20, 2005
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<もう一つの公用語、英語>突然ですが、英語を話す人が多い国を挙げてみて下さい。「アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・・・」たぶん多くの方はこのように連想されたのではないでしょうか?でも実は世界で3番目に英語を話す人が多い国はここ、フィリピンなんです!街を歩いてみるとわかりますが、店の看板や道路標識など至る所に英語が見受けられます。政府文書を初め、出版物なども英語がほとんど。高等教育機関では英語で授業を行うことも少なくありません。僕の通うフィリピン大学でも政治・経済などの講義は英語が一般的です。僕が最も驚いたのは映画館。フィリピン人たちは字幕無しのハリウッド映画の中のジョークを理解し笑っていました。確かに英語とはいってもフィリピン独特の訛りはあります。(現地語のタガログ語と英語が混ざっているため、しばしば「タグリッシュ」とも言われます。)それでもコミュニケーションにそれほどの支障はありません。他のアジアの国々に比べたら、英語力は相当にハイレベル。フィリピンはアジア有数、いや、世界有数の英語国といってよいでしょう。<なぜ英語がはなせるのか>ではなぜ英語がこれほどまでに普及しているのでしょうか?これはフィリピンの歴史と大きく関係しています。フィリピンは約40年間アメリカの統治下にありました。この時代アメリカは多くの英語教師を派遣し、英語の普及にかなりの努力を払ったといいます。それもそのはず。前回書きましたが、多言語社会であるというフィリピンの事情があり、共通語が必要だったことにあるようです。また現地語の教師でさえも不足していたという事情も影響していました。戦後になっても英語は重要視されます。一つはアメリカとの経済的な関係が強いこと。一つはグローバリゼーションが進む現代への対応。そしてまた、フィリピンは国内の雇用機会の不足から海外で働く人が多く、そのためにも国際語としての英語は不可欠とされてきたためです。さて、英語が一般的に通じるとはいいいますが、もちろん個人差、地域差はあります。中でも一番通じるのはインテリ層、富裕層。高級レストランに行けば、英語で会話しあう家族が一家団らんを楽しんでいる光景をよく見かけます。大学教授のような知識階級の英語力も相当なものです。僕はs政治の授業を履修していましたが、担当の教授はアメリカでの実務の経験もあり英語はペラペラ。速すぎて聞き取れず、かなり苦い思いしました。特に若い教授よりベテランのほうが一般的に格式の高い英語を話します。逆に最も通じないのは、低所得者、あるいは地方に住んでいるフィリピン人でしょう。貧しい人、例えばストリートチルドレン(家のない子供)などは、十分な教育機会が与えられていないので、もちろん英語は話せません。(これがまた彼らの将来に対する障害になるのですが・・。)また田舎の方に行けばいくほど、英語通用度が下がっていきます。これは英語の必要性の問題でしょう。(日本の地方では方言が使えれば、標準語が使えなくても事がすむのと同じようなものでしょうか。)一般的に「英語が話せる=インテリの証明」のような考えが強いように感じます。ビジネスや政府機関では英語が喋れて当たり前。社会で成功するために英語が欠かせないフィリピンでは、高い英語力が保持されるのも当然といえるでしょう。<英語の危機>しかし最近はこの英語に異変が起きているようです。フィリピン人の「英語力の低下」の問題が大きく取り上げられています。86年の政変以降、教育においてフィリピノ語重視の傾向が強くなったことは前回書きましたが、どうやらそれが若者の英語力の低下に拍車をかけてしまう結果になったようです。NGOで働く知人が話すには「以前はニュースなどの多くは英語で放送されていたが、最近はフィリピノ語がほとんどになってしまった。ちょっと問題だね」とメディアの影響も指摘していました。確かに大学の講義では「英語のみ」と言われていても、特に感情的な時や、ユーモアを交えてこたえたい時など、生徒の多くはフィリピノ語を使ってしまいます。フィリピノ語重視が問題ではなく、財政難が教育に影響を及ぼしているとも聞きます。公立学校教師の給与は低く、優秀な人材は私立などに流れていってしまうため、多くの子供たちによい教育の機会を与えられていないようなのです。最近こんなデータが明らかになりました。フィリピン教育省が全国の高校教師7000人を対象に英語力評価試験を実施した結果、合格ラインを突破できたのはわずか30%だったということ。フィリピンでは最近の人口増加と教師不足で、午前・午後の2部制を採る学校も多く、子供が理解するだけの教育がなされてるかも疑問です。国を担う次世代を育てる教育という現場にも、フィリピンの財政難の問題が大きく影を落としてしまっている様子。日本もそうだが、英語が出来るからフィリピンに投資する外国企業も多い。なかなか貧困から抜け出せないフィリピンから、「英語」という強力な武器が無くなっていくことは将来に大きな影響を及ぼしてしまいかねない。問題は深刻です。<柔軟な学生たち>フィリピンの英語事情について書いてきたが、「フィリピノ語の浸透」と「英語の衰退」というジレンマがありました。どちらを切れるわけでもなく、かなり問題は複雑。でも僕は友人のこの言葉からヒントを得たように思います。「英語とフィリピノ語を両方使うのは大変だよね?」と尋ねると、彼女は「外国から来たアイデアや技術を学ぶのは英語の方が合っている。でもフィリピンの文化にはフィリピノ語で考えてるよ」。さらりと言っていた。国や社会はどちらが衰退しても問題視するが、若い人たちはどうやら上手くそれぞれを使い分けているようです。フィリピン人というアイデンティティーを強く持った国際人へ。今の学生は現代に柔軟に対応した考え方をもっているように感じました。
Jan 19, 2005
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留学前、僕はよくこんな質問を受けた。意外に多くの人が興味を持っていたので、今日はフィリピンの言語について調べてみました。アジア諸国の中では英語が最も通用し、最近では多くの韓国人などが語学留学に来ていますが、正確に言うと公用語は「フィリピノ語」とされています。でもフィリピン人全員がこの言葉を話してるわけではありません。フィリピンは多言語国家で、言語の数は80とも100とも言われています。主要なものだけでも、タガログ、ビサヤ、セブアノ、イロンゴなどなど切りがないです。これらは単なる日本の「方言」のようなものかと思っていたんですが、友人の話では「会話が全く通じない場合もある」とのこと。確かに島国という地理から考えると、お互いが「外国語」のような状況でも不思議ではないですね。公用語に話を戻します。「国民が異なる言語を使用していては、近代国家として成り立たない。国民統合の象徴である統一言語が必要だ」ナショナリズムの育成を図るため、当時の大統領ケソンが国語の問題に取り組みます。アメリカの統治を受けていたフィリピンに、独立を与えることを前提として準備政府が設置されていた1937年のことです。「諸言語を融合した言語を選択する」・「諸言語を1つだけ選択する」などの議論がなされた末、結局は「タガログ(マニラ周辺地域の言語)をベースに各地の語彙など加えて作る」という選択をしました。(このためフィリピノ語のことを一般的にタガログと言う人が多いです。)つまり公用語のフィリピノ語は「人口語・合成語」だということですね。でもこのフィリピノ語、すぐに浸透したかというとそうでもなく、紆余曲折を経ます。軽視される時代が長く続きました。もともとアメリカ統治の影響で英語が普及しており、この国際語としての英語の有用性を信じる国民が多かったことが原因でした。フィリピノ語重視に向かう転機は74年に文部省がフィリピノ語の強化にのりだしてからだそうです。人文科学・社会科学の分野などでは、フィリピノ語の使用が義務づけられるようになりました。近年ではTVニュースなどもフィリピノ語で放送されるようになり、英語離れに対し懸念を抱く人も多いそうですが、着実に公用語が見直されているようです。さて、フィリピノ語の歴史をたどってきましたが、浸透し始めたからといって万事OKというわけにはいかないのが多言語社会の痛いところ。公用語といえども、もとはやはり地方の1言語に手を加えただけのものにすぎません。この作られた共通言語に関しては、多くのフィリピン人は悩まされているようです。僕の通うフィリピン大学(通称UP)は、国内随一の国立大学だけあって、フィリピン全土から学生がやってきます。南部ミンダナオ地方やビサヤ諸島など、地方から来た人の中には「フィリピン人なのにフィリピノ語をうまく操れない人」もかなりいます。実家ではその地方の言語を用いて生活しているのだから当然です。その上に英語の本を読み、レポートを書くのだから、その大変さは相当のものでしょう。(でも、そういう人ほど逆に英語能力が高い気がします。やはり補足のコミュニケーション手段として、英語を使う機会が多くなるからでしょうか?)地方の少数民族の場合はもっと深刻だと聞きます。母語に加え、地方の共通言語を覚え、さらに学校では公用語のフィリピノ語と英語の習得が求められるということ。少なくとも4言語をマスターしないとやっていけません。この結果、どの言語も中途半端になってしまうという惧れもあり、国も言語教育には頭を抱えているそうです。調査によると、全家庭のうちフィリピノ語を使用しているには3分の1程度にすぎないということです。母国語だけど母語ではない。確かに統一した方が意思疎通はしやすいけれど、言語という社会に根付いたものを変えるのは難しい事を示してます。自分のアイデンティティーをいじる事と同じですからね。「多言語社会の抱える問題」・・・少数民族ももちろんいますが、ほとんど1つの言語で事が済む日本では、あまり考える事のない問題ですね。そんなこともあり、今日は言語について簡単に書いてみました。詳しく書くと切りがないので・・。次回は関連付けて、「フィリピンの英語事情」について書いてみようと思います。
Jan 18, 2005
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さて、昨日はインドネシアに旅したことを書きましたが、ご存知のように、ちょうど津波がインド洋を襲い、被害が拡大している時期でした。友人からインドネシアの状況について聞かれたので、ちょっとレポートします。(ちなみに、ここフィリピンでは直接の被害はありませんが、旅行や就労先で犠牲になった方はいます。隣のライバル校アテネオ大学の学生一人も休暇をタイで過ごしていた際に被害に巻き込まれ亡くなったとういう事です。)現地はというと、メディアは連日、被害状況を伝え、亡くなった人々を悼むニュースで持ちきりでした。年越しを偶然、旅行中に知り合ったインドネシア人の家で向かえたのですが、彼の話では「新年の祭りや花火などのイベントは自粛で、例年とは雰囲気の違う年越し」と話してくれました。彼はインドネシア国家開発庁で働く公務員という立場だったので、「現地の人のために十分な政策を考えていく必要がある」と神妙な面持ちでした。とはいうものの、東西に長いインドネシア。スマトラ島とは別の島であるジャカルタやジョグジャカルタでは、直接の被害はなく混乱という状態ではありませんでした。この災害が起こった際、「僕にもなにかできることはないか」と思いたち、目的をただの旅からボランティア活動に切り替え、バンダアチェ近郊に近づこうとしましたが、飛行機は全て欠航。それでも家族の安否を確認しようとする人が大勢おり、予約も満員の状態でした。(これを逆手に何倍もの値段で航空券を売ろうとする不謹慎なダフ屋まで現れていました。)時間のかかる陸路を除きインドネシア国内からは行けないということだったので、マレーシア・ペナン島まで行き、そこから国際フェリーでスマトラ島まで行くルートも試みましたが、これも欠航でした。あまり取り挙げられませんが、このペナン島も被害があり、数人が亡くなっています。僕が訪れた時は氾濫した状態はすでになく、落ち着きを取り戻していました。ただ宿を経営しているおじさんは、「観光客が急激に減ってしまい、経営が厳しい」と話していました。マレーシア有数のリゾートでもあるため、経済的なダメージは大きいようです。単に目に見える被害だけでなく、経済的な損失や今後の各国の復興にかかる費用を含めて考えると、負担は相当のものだと実感しました。話は戻りますが、このようにマレーシアルートも絶たれ、NGOなどのあても無しに非常事態地に行くことは難しいことを思い知らされました。心残りもありましたが、次第に津波被害の規模が明らかになるにつれ、「専門知識も何もない今の自分にできることはない」と自分の認識の浅さを痛感。改めて現地に向かうことは断念しました。ただの交換留学生という身分上「自己責任」も持てないですし。ここフィリピン大学の留学生寮にはスマトラ島出身のインドネシア人の友人もおり(家族は無事とういう事です)、やはりただの他人事とは思えません。なんとかしたいとは思いますが、今は義援金や衣服を送るのが精一杯。ただただ無力さを感じます。今回の災害では、犠牲者は20万人以上にも上り歴史的大惨事と言われていますが、ご冥福を祈るとともに、今後の復興に自分の出来る限りのことをしたいと思います。現在の直接の被災者の支援だけでなく、各国の今後の経済全体にも考慮した国際支援が必要だと今回の旅で感じました。
Jan 16, 2005
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「あけましておめでとうございますっ!!!」って、もう1月も中旬。かなり挨拶が遅くなってしまいましたね。すいません。実は休暇を利用して、しばらくインドネシア(ジャカルタ・ジョグジャカルタなど)を旅してきたんです。僕はアジア政治経済、特に旧ASEAN5(シンガポール・マレーシア・フィリピン・インドネシア・タイ)に興味があり、勉強してきました。でも、テキストだけでは満足できないのが僕の性格。「自分の目で現地を見たい!!」という衝動に駆られ、今まで時間のある時に各国を旅をしてきました。中でもインドネシアは、5カ国で唯一訪れたことがなかった国。かなり興奮して歩き回ってきました!経済危機から立ち直り、再び躍進真っ只中の首都ジャカルタ。伝統的な建造物も多く、ジャワ文化の中心として栄える古都ジョグジャカルタ。「やっぱりアジアはいいなー」と改めて感じました。発展に向かうアジアの国々をみていると、「若い」というか、「人間のエネルギー」のようなものを感じます。「日本の文明開化や高度経済成長の時代もこんな躍動的な感じだったのかな」。元気がないと言われる日本だけに、羨ましくも思ってしまいます。でも同時に、こんな疑問をふと感じてしまいました。「発展と人間性の関係」とでも言うんでしょうか?たとえば旧ASEAN5の中でも最も豊かな国、一人当たりのGDPが日本に近いシンガポールの場合。人々は忙しそうに歩いていて、話したくてちょっと声をかけても実にそっけないです。(もちろん話してくれる人もいますが。)でもサービスや便利さという点では、文句のつけ様がないくらい豊かな国です。満点です。では、「豊かさ」では次に来るマレーシアやインドネシアの場合はというと?いきなり電車が止まったり、道がわかりにくかったりで、確かにちょっと不便なことはあります。でも、人々に話しかけると、結構相手をしてくれます。(嬉しい反面、気を抜くと騙されたりすることはもちろんありますが。。)では、旧ASEANの中でも最も経済発展が遅く、「お荷物」扱いまでされているフィリピンの場合は?うーん、サービスは最悪です!何度頼んでも、一向にやってくれない。やっと出来たらと思ったら間違ってる。道はいつも渋滞で、不便この上ないです。・・・が、フィリピンの人々はかなり人懐っこく、頼んでもいないのに話かけてきてくれます。旅から帰ってきた時も、空港から重い荷物を抱えて、ジープニー(相乗り自動車)を探していたら、「駅行きはあれだよ」と教えてくれた親切なおばさん。結局、急いで飛び乗ったそのジープニーの行き先は間違っていましたが、運転手のおじさんは、「あれに乗り換えな」と丁寧に教えてくれました。アジア人は総じて温かいと言われますが、その中でもフィリピン人は格段に親切です。改めて実感してしまいました。確かに経済は豊かではないですが、人々は豊かです。満点です。まあ、僕が言いたかった「発展と人間性の関係」とは要するに、「物質的に豊かになった反面、精神的になった」と、一昔まえから言われている日本の問題ともとは同じだと思うのです。この「経済的な豊かさと、精神の豊かさは反比例する」という問題ですが、もちろん国民性も影響しているので、多少の違いはあるでしょう。しかし、それでも「経済発展は、人々から何かを奪ってしまう」という点はどの国にも共通していると思います。「一体何が原因なのか」。ASEAN5カ国を通じて、再度考え直してみましたが、やはり一つ言えることは、「人とのつながりの消失」のようなものだと気づきました。豊かになると生活が簡略化、機械化されます。これがいわゆる「便利」という事だとおもうのですが。例えば都市ならどこにでもあるATM。だれに聞かなくてもお金は引き出せます。例えば交通手段や道。整備され案内が充実するにつれ、聞かなくても移動に困りません。例えば24OPENのコンビニや自動販売機。値切るなど会話することもなく、いつでも目的のものが手に入ってしまいます。あまり発展していない田舎では、これらのものが利用できず不便ですが、その分、地元の人と触れ合えます。でも都市化というか発展するにつれ、その必要もなくなります。人と関わらなくても生きていけます。これがちょっと疑問に感じたことです。でも、こんな事を言えるのは観光目的の人だけ。やっぱり地元の人は便利なほうがいいし、特に貧しい人は豊かになりたいと心から願ってる。「人とのつながりがなくて寂しい」というのは僕の自分勝手ですね。うーん、どうしたものでしょうか?ここまで考えておいて何ですが、僕の思考回路は停止してしまいました。何かいいアイデアがあれば教えて下さい。フィリピンも発展し、彼らからホスピタリティーが薄れていってしまう時が来るのでしょうか・・・?それでは悲しすぎます。今は確かに遅れをとっているけれど、それは言い換えれば、経済的にも精神的にも豊かな国になれる可能性が十分あるということ。そのためにも、この問題を考えていこうと思います。
Jan 15, 2005
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今、大学はクリスマス休暇です。 クリスマスはフィリピン人にとって最大のイベント。日本で言う、お正月のようなものでしょうか。 僕の住む寮も、フィリピン人は皆、実家に帰省してしまい、ガランとしています。 さて、私はこの休暇を利用して、フィリピン南部の島、ミンダナオ島のダバオ市(フィリピン第3の都)に一週間滞在してきました。 では、この島について2回にわたりレポートしてみます。 まずはミンダナオの現状です。1.ミンダナオ島は危険?! 国民の8割以上がキリスト教カトリックであり、敬虔なクリスチャン国として知られるフィリピンだが、実はイスラム教徒も5%ほどだが存在する。そのイスラム教勢力が集中しているのが、今回訪れたミンダナオ島だ。この島では政府との間の宗教対立が絶えることなく続いていおり、情勢は不安定だ。 国軍による空爆と、それに対するイスラム過激派組織アブサヤフやMILF(モロ・イスラム解放戦線)による誘拐やテロ事件が頻発し、和平協定を模索するも、いまだに解決の道筋が立っていない。 日本の外務省もこの地域に対して、「渡航延期勧告・渡航是非の検討・注意喚起」などの危険情報を出している。 当初、私はミンダナオ島中部のコタバト市で12月18日から開催された、「第三回ミンダナオ国民平和会議」に参加する予定だったが、偶然にも出発の4日前に、南部の都市の公設市場で死者のでる爆破テロが起こった。これにより一気に緊張度が高まってしまい、会議への参加は断念せざるをえなかった。(後から聞いた現地の人の話では、今回のテロはイスラム過激派によるものではなく、単にギャングの抗争ではないかということだった。) このように実際に事件は頻発しており、危険な地域であることは否定できない。だが現地に詳しい人によれば、「危険度」は一様ではなく、ダバオ市などは比較的安全だということだ。特に危険な地域は南西のスールー海やその海に面した地域だという。ここは陸路での移動は絶対に避けるべきだと言われた。 「ムスリムの子供たち」ダバオのモスク前で2.フィリピンの「大義なき戦争」? 争いの構図を整理すると、フィリピンにおける「キリスト教とイスラム教の争い」・「テロとの戦い」と捉えることが出来る。現在、混迷を極めているイラク情勢とも重なる部分があるが、実際、昨年5月から始まったアメリカのイラクへの攻撃以降、フィリピン政府によるイスラム過激派組織への攻撃もまた強まっていったと聞く。なぜ政府は彼らを攻撃するのか? フィリピン政府は、ミンダナオ島のMILFを、9・11テロを実行したとされるアルカイダや、アメリカ政府にテロ組織として認定されている東南アジアのイスラム系組織ジェマーイスラミヤ(JI)と関係があると断定して、アメリカの「テロとの戦い」の後ろ盾を背景に攻撃を強めてきた。 だが、MILF側は関係を否定しており、「意図的にテロリストが潜伏しているとでっちあげて、我々の拠点を攻撃している」と政府を非難している。 「ミンダナオは森林や天然資源(石油・石炭・鉱産物など)が豊富で、大きな利権が見込まれる地域。政府がそれらを手にしたいがために、邪魔なイスラム勢力をアメリカの後ろ盾があるこの時期に追い払おうとしている」と考える人も多い。 ちょうどアメリカがテロ撲滅を掲げる一方で、石油利権獲得、軍需産業育成を目論んでいるのと同じような構図だ。 先月末にも国軍によるテロ組織の拠点を狙ったとされる空爆があった。「戦争の大義」があるにせよ、ないにせよ、ここでもイラクと同じように多くの民間人が犠牲になっている。家を追われ、厳しい暮らしを強いられている人が数多く存在している。 そして何よりも問題だと感じるのは、このフィリピンの地域紛争を、‘単なるイスラム過激派による反乱’と片付けてしまい、関心が払われていないことではないだろうか。 今までにも何度か訪れたことがあるが、今回の旅でもダバオ市のモスク(イスラム教寺院)を訪れた。 モスクに行き、ムスリムの人たちと接して、いつも感じるることがある。 彼らに対する自分の中の‘固定観念’だ。 「イスラム=あご髭=狂信的信者=テロリスト」とイメージだけで勝手に悪い方向に考えてしまっている自分がいる。 「メディアを通じてではなく、実際に自分の目で確かめてください」。昨年、東京・広尾にあるモスクを訪れた際に、サウジアラビア人ムスリムの方に言われた言葉を再び思い出した。 私たちにとって馴染みの薄い分、ムスリムに対するイメージは、どうしても受け入れがたいもの、いや、否定的なものになってはいないだろうか。 もし、もっと多くの人がミンダナオ島のイスラム教徒に対して関心を寄せることが出来れば、お互いの懐疑心は薄れ、和平への道は徐々に見えてくると思うのだが・・・。 *フィリピンのメディア集をUPしました。フィリピンの新聞、テレビ局のホームページです。ぜひ一度見て見て下さい!
Dec 26, 2004
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フィリピンの道端で売られる奇怪な品々。 3回に渡ってレポートした「あなたはこれを買いますか」シリーズの最終回! さて今回はどんな意外なものが?!3.最終回 私はまだ実際に出会ったことはない。これは知人から偶然にも聞いた話だ。 フィリピン南部、ミンダナオ島ダバオ市の街角には、「電動ドリル」を売る男が出没するらしい。 噂によれば価格は約1000ペソ(約2000円)。庶民の一日の平均収入が200から300ペソ前後と言われる地方の物価で考えると、かなりの高額商品だ。 私は知人と共に、この奇怪な彼の行動を巡って、様々な議論を交えることになった。 Aさん「彼は、一体どこからドリルを仕入れたんだろうか?」 Bさん「大量購入しないと利益はでないからきっと、その手のルートを持ってるんだろう」。 Cさん「高価なドリルなんて買う奴はいないよ!工具店の前で立って売ったって、普通は店の商品の方を選ぶよ!売れるはずないのに、どうやって彼は家計を支えているんだ?」 Dさん「いや、でも「壊れたものは自分で直す」というのがフィリピン人の基本的な考え方だよ。需要がないとも言えないよ」。 Eさん「もしかしたら彼は騙されたんじゃないか?騙そうとした男がサクラを使って、その場でドリルを買わせて見せた。それを見て、これはいい商売だと思い込んだ彼は、男に頼んで購入し、それを売ろうとしたんだが、実際はなかなか売れない、とかね。」 一同「それはありうる話だね。一種のマルチ商法かも」。・・・延々と議論すること1時間強。 私たちにも疲れが見え始めたころ、知人のBさんはこんな噂を聞いたといって話始めた。 「多分あれは合図なんだよ。例えばドリルを持っている男に「今日は黒いのはないの?」と聞くとする。すると男は「あるよ」と言って、それを渡してくれるんだ。それは何かって?‘麻薬’に決まってるじゃないか!」 一同「その話が本当なら、相当フィリピン人はキレるね。そう簡単には見つからないルートだ」。 ・・・いくら議論しても、その晩は話が尽きることはなかった。 こんな話題でも、まじめに議論しあえてしまうフィリピンはやはり‘不思議の国’だ。 「MADE IN JAPAN」を世界に広めた、マーケティングの得意な日本人でさえ、考えもつかない商品・販売戦略を仕掛けてくる路上物売りの男たち。 彼らに言わせれば、「売れない商品だから売らない」のではなく、「売れたら、かなり儲かるから売る」ということだろうか? 考えれば考えるほど訳がわからなくなる。 だが一つだけ確かなことは、やはりフィリピン人は相当に柔軟で自由な思考をしてるということ。自分の考え方の狭さを改めて思い知らされます。 さて次は一体どんな奇怪な商品を持って現れるのだろうか? フィリピンを訪れた際は、ぜひ路上売りをチェックしてみて下さい。フィリピンが一段と面白くなること間違いなしです。 終
Dec 25, 2004
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フィリピンの路上に突如現れる不思議な物売りたち。彼らが売りに来る奇怪なものとは?3回に渡って送る特別企画 第2弾!!高級レストラン、高級住宅街、ビジネスオフィス、そして官公庁が密集するマニラで最もイケてる街、「マカティシティ」。日本の新宿、銀座、青山、恵比寿、麻布、霞ヶ関、六本木に大手町あたりを1つに合体させた街と言えば想像しやすいと思います。そんなスゴイ街の一角にある日本料理店入り口で、これから贅沢にディナーを楽しもうとしていたところに、男は突如現れました。筒のようなものを持ち、「マニボ!マニボ!」と連呼して近づいてくる男。何のことだかさっぱりわからず怯えましたが、注意深く耳をたてると、そう!!彼は「マネーボックス=貯金箱」と言ってるじゃありませんか!デザインは丸い筒状の缶に、タバコブランド「マールボロ」のロゴステッカー。長さは約30センチと結構大きい。一杯に硬貨を貯めれば、相当な額になりそうだった。更に驚いた事に、男は一人だけではなかった。同じ方向から立て続けに3人も同じ貯金箱を売りに来たのだ!!・・・でもここはマカティシティ。フィリピンで最もリッチな人が集まる街。どう考えてもケチ臭い貯金箱は不要です。「塵もつもれば山となる」。『貯金箱売りは豪遊する金持ち達に「初心に戻れ!」とでも訴えているのだろうか?』私は一瞬思ったが、どう考えても思いすごしのようだった。見向きもされないまま、4人の男達は欲望の街に消えていった。貯金箱をもって。路上売りの奇怪な商品 2 「貯金箱」 続く
Dec 24, 2004
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熱気と排気ガスでいつでもムンムンとする南の島国フィリピン。 ここでは目的もなく街を歩いていると、日に焼けた色黒のおじさんが色んな物を売りに来る。 日本では見かけない光景のせいか最初は戸惑うが、これが結構便利だ。暑いときには、「ミネラルウオーター」を持っている。眩しいときには、「サングラス」はいかが?とやってくる。そして、一服したいときには、ばら売りの「タバコ」だ。吸わない人には、キャンディーもある。これだけなら、「よく考えてるなー」と関心してしまうが、やっぱりここは摩訶不思議の国フィリピン。これでは終わりません。たまに意味不明なものまで売りに来ます。そこで今まで道端で出くわした、数ある意外な商品の中で、特に印象に残ったトップ3を紹介したいと思います。今日から3回にわたる特別企画です!PART 1 ある晴れた日の午後。私はATMで現金を引き出すため、長蛇の列に並んでいた。 どんな時でも、やたらと長いフィリピンの待ち時間。 20分は待っただろうか。私は暑さでフラフラとしかけていた。 そんな意識がモウロウとする中だった。その男が姿を現したのは。 左手に6つ、右手に1つ。何か引き金のようなものがついたものを持っている。 私はそれが何だかよくわからなかったこともあり、好奇心からまじまじと見ていた。 男は私が興味を持っていると悟ると、すかさず前までやってきた。 「シュ!!シュ!!」男は急に液体を吹き掛けてきた。思いのほか、液体は冷たく涼しい。 「ほらいい代物だろう?安くするよ!1つどうだ?」 彼はなんと実演つきで、巧みにそれを販売促進してくるではないか! 「そうか!右手に1つしか持っていなかったのは、実演のためだったんだ・・・!」 変なところに関心してしまった私だが、確かにそれはきめの細かい霧を出す、良い「きりふき」だった。 が、そこはATM前。これからお金を引き出そうとする人々には、どう考えても必要ない。というより通常、道端で買うものではない。いくら暑い国とはいえ、体に吹き掛けるための道具でもない。 ただ、彼の優れた点は、炎天下で冷たい霧を吹きかけ「実演販売」をすることで、顧客に興味を持たせることを意識していたことだ。 しかし、私の口から出た言葉は「ノーサンキュー」。 断るや否や、彼は特にガッカリした様子もなく、足早に次のターゲットを探しに去って行った。 路上売りの奇怪な商品 1 「霧吹き」 続く
Dec 23, 2004
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今回は前回に引き続き、フィリピンの刑務所を訪れた際のレポートです。2.騙された日本人 ~これでいいのか!フィリピンの警察・司法~ 所内の教会で一休みしていると、少し照れながら高島さんはやってきた。モンテンルパ刑務所には現在、5人の日本人が収容されているという。高島さんはそのうちの一人だ。 笑ったときの歯の白さと、強い日差しで焼けた黒い肌が対照的で、穏やかそうな印象を受けた。とても親しみやすい。でも時折見せる彼の表情はどこか寂しさが漂い、憤りと無力感が混じっているようだった。 「何が何だかまったくわからない。私は何も悪いことはしていないのに・・」。彼は自分がここに収容されていることがまったく理解できないと話し始めた。金を取られた挙句に騙されて、刑も決まらぬまま3年間もここに入れられているというのだ。 彼がフィリピンに訪れたのは6年前。人材派遣関係の事業を始めたそうだ。最初の数年間は事業も軌道にのり順調そのものだった。 しかし2001年、事業を起こしてから3年目に思いがけない出来事が彼を襲う。不法就労を斡旋した罪と詐欺罪で訴えられたのだった。 お世話になったフィリピン人に、6人のフィリピン人労働者を日本に案内して欲しいと頼まれたそうだ。そのとき一人当たり200ペソをもらったという。それがもとで、訴えられる羽目になったそうだ。 訴えを最初に出した本人は、高島さんから金を取った後、姿を消したらしい。そして今は案内を引き受けた、6人のフィリピン人たちを相手に係争中だということだ。今彼の人生は、ずっとストップしたままである。 内部の事情に詳しい彼の話によれば、この刑務所に収容されている人のうち、10人に3人は無実だろうということだ。冤罪のケースは、特にレイプの罪で収容された人が多いらしい。 確かに先日、ある政治家がまったく面識のない女からレイプの罪で訴えられるという報道があった。無実を主張し、全面的に戦うことを誓って数日後、訴えていた女が急に起訴を取りやめた。女はどうやらこの政治家を陥れるため、裏で誰かに操られていたということだった。 この国の政治家の汚職は有名だが、警察や司法もまた倫理が欠け、金次第の世界であると言われている。あまり信用はおけないようだ。 警察が「交通違反を見逃す代わりに金をとる」というのはよく聞く話。ギャングと手を結び、強奪金の分け前を貰っている警察もいるそうだ。 また警察は検挙率が低いことでも有名。というより犯人を捕まえるシステムが整備されていない。ある知人からこんな話を聞いた。 自宅に泥棒に入られた際、絶対に捕まえようと指紋の採取を申し込んだ。高い金を払ってだ。しかし一向に調査が進まない。「指紋の照合はどうなったのか」と尋ねると、そもそも指紋のデータを警察は保管しておらず、まったく無意味だったそうだ・・。 問題は司法にもあるときく。「裁判官が被告に金を要求して断られると、罪を重くする」「検察が事件関係者から金をもらい、起訴事実を軽くする」などだ。一体どちらが犯罪者なのだろうか。 フィリピンで警察取材をした経験のある、現地の日系の新聞社記者はこのように話してくれた。 「フィリピンの法は、貧しい人や外国人などのマイノリティーには厳格に適応される一方で、金持ちには非常に甘い。権力を持った人には罪を逃れる抜け道が多く用意されている」。 フィリピンの階層社会が依然として根強いのは、社会の不正を暴くべき警察や司法の倫理が崩壊している事も大きな要因だ。刑務所にいる囚人の冤罪が本当に事実であったとしても、立証する手段は、これまた‘お金’以外にはないだろう。一部の強欲な人のために、多く人々の人生が台無しにされてしまっている。力の無い人が法に頼れないなら、何に頼ればいいのだろうか・・・。 高島さんは刑務所に来てから、教会に通い、熱心に聖書を読むことを欠かしていないそうだ。 「苦労していた時は神様を信じていた。でも金が入るようになり、何でも出来るようになると忘れてしまっていた。人間はすぐに変わってしまう。俺は全部試してきたからわかるんだ・・」。 宗教心のない私だが、このときの高島さんの言葉は重かった。 フィリピン人は敬虔なクリスチャンだとよく言われる。「彼らがあれほどまで熱心に神様を信じるのは、社会に頼るものがないからかもしれない・・・」。私は高島さんの言葉を聞きながらそう考えていた。
Dec 18, 2004
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ネタを仕込み中なので、今回と次回は今年8月に訪れたフィリピンの刑務所について書いてみます。1.モンテンルパ刑務所の実態 黒い鉄の扉をくぐるとすぐ、炎天下の中庭でバスケットボールの試合をする光景が目に飛び込んできた。多くの観客が白熱した試合を見ようと周りを取り囲んでいる。野次を飛ばす者もおり、かなりの熱気だ。 少し歩くと、今度はビリヤードで遊ぶ男たちの姿があった。真剣だ。私が興味深そうにゲームを見ていると、物売りがよってきた。売っていたのは、ファーストフード店で出るプラスチックごみを加工して作ったという、動物の形をした置物。面白いので1つ買ってみた。10ペソ(約20円)。 さらに歩くと、市場やサリサリストア(小売店)があり、食料品から日用品まで自由に売られていた。 一見すると、そこは一般的なフィリピンの町と何も変わらなかった。ただ一つ、町の周りが‘高い壁で囲まれている’ということを除いては・・・。 モンテンルパ刑務所。マニラから南方にバス、ジープニーを乗り継いで約40分ほどの所にある。 山下奉文・フィリピン派遣軍総司令官ら、日本軍の将校や民間人がフィリピンでの虐殺行為の罪を問われ、戦後この刑務所に収監されたことで日本でも有名だ。「東京裁判」と同じ時期に、米軍総司令官による軍事裁判「マニラ法廷」が開かれ、197人が有罪判決をうけ、80人が処刑されている。 フィリピンで最大規模の刑務所とされ、現在は無期懲役、死刑判決などの重い罪を言い渡された男性囚人約5000人が収容されているそうだ。 刑務所というより、「一つの町」という印象を受けた。前述したように内部は「何でもあり」の状況だ。日本の刑務所のような厳しい規則はなく、義務的な労働などもない。町中を歩くように、囚人たちは所内をブラブラしており、お喋りを楽しんでいる。携帯電話をもっている囚人も多く、外部とのコンタクトは自由に取れるようだ。 持ち物検査はあるものの、面会を希望する家族は比較的簡単に出入りできる。実際、私も見学者として容易に中に入ることが出来た。 このように、刑務所とはいっても、外の社会との隔絶はあまり感じられない。そのためか、凶悪犯罪の囚人たちが、まわりにウロウロしているというのに、あまり不安を感じなかった。 中を案内してくれたのは日本人教会のMさん。面会するためによく刑務所には訪れるという。キリストの教えを囚人たちに説き、更生を促しているそうだ。 その彼の話を聞いて驚いた。所内は上下関係のある社会で、全てお金次第だということだった。 囚人たちはいくつかのグループに分かれており、それぞれボスが仕切っている。ボスは囚人達を子分にしており、上納金を取っているのだ。 そして大金を持っている権力のあるボスの中には看守を買収している者もいるらしく、売春もクスリも存在する。逆に上納金の払えない貧しい囚人は働かされるそうだ。 さらに刑務所に関する面白いエピソードを本で見つけた。 レイプ事件で終身刑を受けた下院議員が、刑務所内にクラブハウスつきのテニスクラブ、商店街を開設。所内に特別居宅を建てて住んでいるというのだ。多くの囚人を子分として使っている。彼は所内の建物を修復したり、道路を舗装したりして、受刑者のためにベッドまで寄付。所内の市長のような存在になっているということだ。(「現代フィリピンを知るための60章」明石書店) 「金=権力」という構図が所内にはしっかりと定着している。「富めるものはひたすら富み、貧しきものはひたすら貧しい」という、フィリピン社会の縮図のような場所だ。 日本では最近、看守が囚人に対して拷問のようなことをして死亡させた事件があり問題になった。悪人だからといって、人権を無視したような罰を課すことは確かに問題だ。それに厳しい規律を課すことのみが更生だとは、必ずしも言えない。 しかし被害者側にしてみれば、あまりにも自由なこの刑務所の状況は許せないのではないか。私は、「更生とは何か?囚人にとって必要なのことは何か?刑務所とはどうあるべきか?」ひたすら考え込んでしまった・・。 その後、所内の教会へ。 そこで囚人として収容されている、日本人の高島さんに会った。彼から刑務所内の規律の問題だけではなく、フィリピンの警察や司法の腐敗という問題を聞くことができた。 ウワサ以上にそれは、人権侵害ともいえるひどいものだった。 さて、次回は続編「2.賄賂社会~フィリピンの警察と司法~」を書いてみます!
Dec 16, 2004
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さて、今日は前回に続き、パソコントラブル体験記2.故障編 & フィリピンのパソコン事情です。2.故障編 オークション詐欺にあい迷惑をかけた挙句、親に「もう1台パソコン買ってもいいですか?」などとは安易に頼めません。 「このままパソコン無しでやっていこうかな…」とも考えましたが、新学期は始まったばかり。。やっぱりこれでは宿題も出来ず、日本の情報も得づらく、どう考えても留学生活を充実させれないため、電話で頭を下げて親に頼みました。 許可をもらって早速購入。とはいってもフィリピンでは日本メーカーのPCも売っていますが、日本に比べ3割以上高いため、日本で買い送ってもらうことにしました。 このように、かなり面倒で、つらい思いまでしてゲットした愛用の僕のパソコンでしたが、5ヶ月しか経たないうちに、いきなり先日故障してしまいました。3度目の悲劇です。。 故障した当日は、大型台風「ウイニー」がフィリピンを襲っていました。。(ちなみに、フィリピンでは台風に名前がつけられます。)フィリピン北部のルソン島ケソン州で死者行方不明者1800人の大被害をもたらしましたが、僕のパソコンもその被害に巻き込まれたようです。。。 僕が住む寮では停電があったりしたにも関わらず、コンセントにつなげっぱなしにしていました。しかも後ですぐ使うからと、電源を切らずにしばらく放置したままに。。 これがどうやらいけなかった。。キーボードに触った途端、急に画面がおかしくなり、画面には、 “Operating syastem not found”の文字が。。 翌日、リカバリーしたり、システムエンジニアの方に頼んだりしましたが、ハードが壊れてしまっているとのことで、時すでに遅し。日本のサポートオフィスに電話したら、「交換するので送り返してください」と即答されてしまいました。 交換とは行っても、ここはフィリピン。一度日本の実家に送ってから、パソコンメーカーのサポートオフィスに送らなければならず、1ヶ月ほど新しいPCが届くには時間がかかるようです。 「交換するなら、すぐ新しいものを送っていただけませんか?」と聞いたところ、「いや、やはり一度見てからでないと無理です」と拒否されてしまいました。うう~、日本のメーカーもケチですね。 さらに、愚かなことにバックアップを怠っていたので、全データが消えてしまいました。。こっちで撮った写真も、がんばって書いた課題のエッセイもすべて。。 うう、悲しい。なぜか、自分の経験まで全部消されてしまった気がして、最近は憂鬱な日々が続いています。来週からクリスマス休暇でしばらく授業が無いのがせめてもの救い。はるばる海を越えてPCが僕の元に届くことを待ち望んでいます。フィリピンのパソコン事情1.電気事情 このように、よくパソコンを壊す僕ですが、これは別に僕の扱いが雑だという訳ではないようです。僕に限らず、留学生友達も頻繁にパソコンの調子が悪くなっています。少なくとも一人一回は必ず、何かトラブルにあっています。 聞くところによると、フィリピンは日本に比べて電流電圧が不安定で、特に天候の悪い時は、パソコンに負担がかかりやすいということでした。ケーブルをフィリピン対応のもの(240V)に変えるだけでは不十分で、出来れば変圧器をクッション代わりに使用するのがいいそうです。こうすれば、急な電圧の変化で大きな負担がかかったとしても、変圧器が壊れるだけで、本体は無事だそうです。 海外、特に電気環境があまりよろしくない地域でパソコンをつかう場合は、このように最大限の注意を払って使用しないと痛い目みます。以後、僕も気をつけます。2.ネット事情 さて、こんな風に書くと、フィリピンって最悪な環境だと思い込まれてしまうので、ちょっと弁解もしておきます。 確かに電気事情はよろしくありませんが、フィリピン、特にマニラなどの大都市に限って言えば、ネット環境はかなり進んでいると思います。 僕の住んでいる寮はケーブルインターネット(100MB)が個々の部屋に備えられてる以外にも、ワイヤレスインターネット(64MB)が使えます。サーバーダウンなどの故障は時々ありますが、さほど日本ともかわらない環境です。 街にはネットカフェがよく見受けられます。またスターバックスなど、フィリピンで最近流行のカフェではワイヤレスネットが使えたりと、案外いろいろなところでネットに接続できる環境があります。 ただ、個人の家にインターネットが普及しているかというと、そうでもないのが現情のようです。 僕の友達は課題をやるために、わざわざネットカフェで徹夜するという子もいます。一部のお金持ちを除いては、パソコンを持っておらず、カフェや学校のパソコンルームで使うのがほとんどのようです。 それでも期限までにちゃんと素晴らしいレポートを作ってくるフィリピン大学の学生には関心してしまいますね。(僕なんて、あれだけ充実した環境があるにも関わらず、しょぼしょぼのレポート&プレゼンテーションしか出来ません。詰まるところ、能力の問題のようです・・。) 3.世界が注目するフィリピン人のコンピューター知識 ネット環境以外にも、フィリピン人のコンピューターに関する技術や知識は買われているようです。 先日、新聞でみましたが、ウイルス駆除対策ソフト「ウイルスバスター」で有名なトレンドマイクロ社は、次々に出てくるウイルスを分析し対策するセンターをマニラに置いているそうです。 フィリピン人は人件費が安い以外にも、英語を話せる、また高いコンピューター知識を持っているということでこの国が選ばれたとのこと。 僕も偶然このソフトを使っていました。頻繁に新しいウイルス対策のプログラムが更新されておりますが、その裏では、24時間体制で休みなくウイルスと戦っているフィリピン人の努力があったことを知り、感激しました。 僕たちが日々、安全にパソコンが使えているのは、実は彼らのお陰だったんですね! 日本は政府開発援助などで彼らを支えていますが、彼らも僕たちの生活を色々な面から支えていることを改めて気づかされました。感謝です。 最近急激に普及しているフィリピンのケータイ事情なんかも今度調べてみたいと思います。ご期待ください。
Dec 12, 2004
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ブログ始めて、3日目になんとパソコンが壊れてしまいました。そんなこんなで萎えてしまい、書き込みが大幅に遅れてしまいました。 それにしても、パソコンが壊れるのはフィリピンに来てから2回目。こうも壊すのは留学仲間のなかでは珍しいほうです。友達からは“ともはパソコンを壊す新種のウイルス”とさえ言われ、かなり落ち込んでいます。 実は故障以外にもパソコンに関しては、来比して以来、かなり運が悪く、頭を悩ましてきました。 やっぱりPCがないと、かなり不便です。24時間営業で日本語の使用できるネットカフェは近くにはありません。課題をやれないどころか、メールも、日本のニュースも見れない。。来年就職活動があるのに、就活サイトにも頻繁にアクセスできません。。 というわけで、同情を買いたいわけではないのですが、今回と次回は僕のパソコンをめぐる悲劇の体験記をつづってみます。パソコントラブル体験記1.詐欺編 1.詐欺にあった経緯 はじめにパソコンが壊れたのは今年の6月、授業が始まってすぐの時期でした。 その時は不注意で画面が割れてしまい、現地でさえも修理費用は10万円以上かかるといわれました。それならば少しでも安くていいものを買おうと、最近利用するようになった、流行のネットオークションでパソコンを落札することにしました。 しかし、これが悲劇の始まり。“新品未使用!!お急ぎの方は個人的な取引に応じます”という文字に惑わされ、その出品者をろくにチェックもせずに、急いで取引をおこなってしまったのが災いしました。 指定された額を相手の口座に振り込んでも、いっこうにパソコンが実家には届かない様子。1週間経って、あまりにもおかしい!!と思い電話をかけたら、“何とか町の児童館”がでるじゃありませんか! “やられた!!詐欺だ!!”と確信した時には、時すでに遅し。警察のネット犯罪係に問い合わせ、被害届けを出したりもしましたが、お金が戻ってくることはまず難しい、ということでした。。しかも実際はオークションで出品を知ったにも関わらず、“個人的に取引した”といことになっているので、オークションの賠償規定にも該当せず泣き寝入りです。被害額17万円也。 2.急増するネットトラブル さて、僕も被害にあった、このネットオークションを巡るトラブルは、今年1~6月の間にYAHOO!オークションだけでも4000件を超えるとのことでした。安くていいものを買える流行のネットオークションを、僕は信じきっていましたが、かなり危険をはらんだものだという事を実感。相手の顔さえ知らないのに、17万円もの高額なお金を迷わず払ってしまった自分の感覚を、今ではかなり疑います。 “インターネットには無限の可能性がある”と、僕らの世代には考える人が多いと思いますが、これは一種の危険な考え方であると改めて感じます。無限の可能性がある分、無限の危険性も孕んでいるということを考える必要があるのではないでしょうか。 ネットオークションというシステムを考える以上に、これを利用した悪質な犯罪者を捕まえるシステムを構築するのは難しいと思います。現に最近はオークション利用者の増加とともに、被害者も増加しているようです。 例えば、僕が利用したYAHOO!には犯罪者を取り締まる権利はありません。YAHOO!に被害を届けたときも、“警察に相談して下さい”とメールで対応してくれただけでした。オークションのページには、被害が増加しているという注意を促す書き込みもありますが、微々たるもの。警察任せという感じです。 それではYAHOO!も頼りにしていた警察はというと、これもあまり対応はしてくれませんでした。最近でこそ各都道府県警察は、このようなタイプの犯罪に対する被害相談窓口を設けているようですが、増加する犯罪には追いついていないのが現状のようです。 インターネットという個人や場所を特定しにくいシステムをつかった犯罪は、従来の犯罪とは大幅に違い、取り締まりが難しく、かなり犯罪者は野放図になっているようです。 新しいネットを利用したサービスが次々に開発されていますが、更にそれを利用した様々な犯罪の手口は今後もきっと起こってくると思います。 今の段階では、利用者一人一人がネットに対する過度の信仰を改めて、常に危険や犯罪に利用される可能性もあるという事を意識する必要があると思います。ちょっとフィリピンとは外れた内容になってしまいました・・。ごめんなさい。さて次回は、体験記2、故障編 ~フィリピンのネット環境~を書いてみたいと思います。
Dec 11, 2004
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写真UPしました! 銃を手に取り、見定める夫婦。 東南アジアでも最大級の規模を誇る巨大ショッピングセンター、「SMメガモール」で先日、‘銃’の展示会が行われた。国内の多数の輸入業者がブースを設けており、週末ということもあって、会場内は大勢の人でにぎわっていた。 展示されていた銃は猟銃や拳銃といった一般的なものから、戦闘用ライフルまで幅広い。価格は2万ペソ(約4万円)程度からで、上限はきりがなかった。 会場には銃マニアが興味深そうに品を見る光景がかなり見受けられたが、多くの製品には「軍人や警察のみ」の表示があり、ライセンスを持っていても購入できない銃も多いようだ。(自費で銃を購入する警察のシステムも疑問だが・・。) フィリピンの法律ではもちろん、一般人は銃を購入できないようになっている。だが実際には使用できる人はもっと幅広いようだ。 フィリピン人の友人の話では、裕福なビジネスマンや公務員なども容易に銃は持てるそうだ。もちろん護身用のためにである。 驚いたのは、興味ぶかそうに銃を眺めている私に「あなたは日本人?あなたも買えますよ!」といって最新式の高価な銃を勧めてくる店員がいたことだ。ライセンスが必要と言うが、どこまで厳格に守られてるのか不安になった。 ライセンスによって販売規制がかけられてるとはいえ、いくらでも一般人が銃を手に入れられるルートはあるだろう。そして銃が蔓延し、犯罪が増えるから、また護身用に銃を持ちたいという人は増える。これでは堂堂巡りだ。 「銃から身を守るために銃を」の考えでは、余計に犯罪が増えるだけで、何の解決策にもならないということが、この展示会を通してはっきりとわかった。 ‘欠陥の多い銃の流通システム’も問題だが、‘誤った銃に対する認識’にも問題があるように思う。 フィリピンではライフルを手に持ち、威嚇するかのように立っている警備員や警察をよく見かける。そして新聞でよく目にするのが、「警官が犯人を射殺した」という記事。そしてそのような警官の射撃の腕前を称えるような記事さえある。 ここでは犯罪を犯した者は、容赦なく殺してしてもいい、という様な考えが強いように感じる。正当防衛のための道具という意識は少ないのだ。 銃が物理的に身近だということは、心理的にも身近になる。「相手は銃を当然持っている」という認識があるので、すぐに自分の銃に頼りたくなってしまうのだろう。 しかし悪さを働く人のほとんどは、貧しさが理由である場合が多い。今日の新聞にも「子供にミルクをあげるお金がなく仕方なくネックレスを盗んだ母親」という記事があった。銃を保持している人を狙っていたら、撃ち殺されていたかもしれない。 貧しいからといって、犯罪を犯すことは認められない。だが何の弁解もできないまま殺されたのでは、貧困という社会の歪みをただ覆い隠してしまうだけだ。 展示会の話に戻るが、確かに会場には銃から身を守るための、高度な監視システムや防弾ガラスなども同時に展示されていた。しかし、それはわずかなスペースに限られていた。 そして最も気になったのが、親に連れられてきていた子供の光景だ。彼らはずっしりと重い本物の銃を手に取り、遊び半分で構えていた。 この国では、私が考えていたよりもずっと、当たり前のものとして銃が存在している。この子供達も大人になり、身の不安を感じれば、犯罪の原因を考えていくよりも先に、銃を手にするようになってしまう気がしてならない。 治安に限らず、多くのフィリピンの問題の根底にある「貧困」は、何よりも先に解決しなければならない事だというのは言うまでもない。 銃依存症になっているフィリピン社会の治療法に限って言うならば、銃に頼らず、断固として遠ざけ無くしていくという意識を人々が持つことがまず必要だと思う。
Nov 30, 2004
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