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久しぶりに更新です。 病気でなかなか更新できませんでした〓 スマソ 病名 『恋の病』 ってなんでやねん(-_-)/ 本当は『うつ病』です。 医者とかには行ってないんですが、『あーうつ病やわ』と自覚してる。 友達とおってもなんか楽しないし 仕事もやる気おきひんし そんなこんなで大学のリポートもスクーリングもやる気でえへん。 大学に関してはまだ1回で、取れる単位少ないし問題ないはず ただ最近ほんま付き合いが悪なった。 大学忙しいから・・・って嘘ばっかやなって感じる。 なんかまだはやいけど今年一年腐ったなと思う今日この頃なのでした。
2007年12月17日
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職場の組合の運動会がありました 一応大阪市の東部・北部・西部・南部というかんじでチーム分け 50m走は東部・北部がほぼ独占で西部からは1人だけ。 綱引きは3位で リレーも男女共3位でした。 どれも東部・北部がつよーい感じで・・ 最終結果 ☆★☆★ ★優勝☆ ☆★☆★ 目立って勝った競技は無かったんですが何故か優勝に〓 皆さんすごく喜んでたみたいです。 私はタバコ(ピース(旧)とビールの後の障害物で逝きました(ノд`;) バットの周りをクルクルまわるのが痛手でした。 (意識が) 飛んで飛んで飛んで飛んで (アルコールが) 廻って廻って廻って廻って廻るぅ~☆ 細かい事は覚えてませぬ( ^ω^) ~その夜~ 実は6月位からイザコザがあってお互いに全く口聞いてない人がいました。(職場でも) 挨拶すらしてなかったかな〓 その人に運動会の結果をメールしたんですよ 予想道り返信は来ませんでした〓 ~次の日の夜~ 突然、返事が返ってきて、 1日位たってるし、何書いてあるか怖かったんで メールを開けるか悩む俺 ・・・開封 とそこには・・ 普通に『返事遅れてゴメン。来年もね☆』 的な内容でした 普通やけど そんなんでも、半年ぶりの普通の会話になるし、少し嬉しくもあって家で泣いた 先週の土曜日なのでした。 書くの遅い・・(^ω^;)
2007年10月21日
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1円け~たぃが無くなってしまぅ日が近づいてきましたね!携帯販売ランキング(9月24日~9月30日)で1位はシャープ製のスリムワンセグ「W52SH」で、2位はカシオ計算機製の防水ワンセグ「W52CA」が獲得。W52SHは連続首位記録を「12」らしいです。(*ノ´∀`) 番狂わせはカシオ計算機製のデジカメケータイ「EXILIMケータイ W53CA」。前回の8位→3位まで上がってきた。携帯は続々新モデルが出てくることもあり、順位を上げるだけでも大変なのに(´・ω・`)ごぼう抜き(´・ω・`)2週連続で3連休となった9月は、週末セールなどで夏モデルをかなり値下げする販売店を多かったみたいで・・値下げは高機能な機種ほど割安感を感じられるが、EXILIMケータイ W53CAの躍進もやはり「この機種がこの価格なら」と思えたんでしょうね。 au端末はここ最近、新モデルの発表直前あたりからちらほらと大きな値下げが確認され、最終的に新モデルの発売前なのに「現行の最新モデルが1円」になってます。通話料値下げ・機種値値上げに向けてラストスパートみたぃに。個人的には通話料よりも基本使用料値下げのがいいですけどね!!彡サッ
2007年10月08日
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秋ですね~会社帰り6時くらいに家に帰るんですが空は真っ暗(*ノ´∀`)まだ、太陽が完全に沈む手前くらいですが暗いi||i(つω-。`)i||i一方スポーツは盛り上がりの季節ですね☆いいなぁと思ったのは 野球・楽天イーグルス山崎 武 選手!39歳で2冠とかヾ(。・∀・)ノワチョ-ィ♪三振合わせたら三冠(*´艸`)歳とっても輝いていられるような大人は偉大だとおもった今日この頃です!
2007年10月07日
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ガソリンの高騰がつづいていますね(´・ω・`)私もCBR400に乗ってるんですが、あまりの高騰ぶりにビックリですすでに知ってる人も多いかもですが、ガソリンは気温が低い時に入れるのがお得なんですよ^-^」どのくらいお得なのかっていうことを朝のTVで見ました1℃気温あがると100ml単位で1.6ml増えるみたいですヾ(。・∀・)ノワチョ-ィ♪微々たるものですがなぃよりは全然いいんでガソリンは寒いときいれましょう☆
2007年10月06日
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~日本における生涯教育理念の政策化と、国及び地方における課題について論述せよ。~日本ではどのように生涯教育が提案されることになったのであろうか。 日本での第二次世界大戦前の社会教育は国家からの国民の教化的政策的な色彩が濃いものであった。しかし戦後は社会教育法が1949年に制定されて、公民館、図書館、博物館などの施設が誕生し、専門講座、文化講座、母親学級、成人学級、高齢者学級が生まれ、さらに大学通信教育、文部省認定社会通信教育なども国民の自発的な学習活動を援助してきた。しかし、戦後復興期から高度経済成長の時期に向かうにつれ、高校・大学進学率の上昇、科学技術の発達、核家族化、都市化の発展、中高年齢層の増加など社会教育をとりまく状況が変化し、物質社会、利潤追求の社会が個性の喪失、人間疎外、世代間の断絶などの社会問題が深刻化した。このような社会状況の大きな変化を受け、1971年に社会教育審議会が「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方につて」という答申を出し、社会教育は社会状況の変化に対応するのみでなく、各人の個性や能力を生涯の各時期の課題に応じながら最大限に引き延ばす必要があり、各種の学習を支援する社会教育を展開する必要があるとされた。こうして、家庭教育、学校教育、社会教育を有機的に統合した生涯教育が提案された。 しかし、この頃生涯教育はまだ理念的、抽象的なものであった。 昭和50年代に入って、学歴社会による受験戦争の過熱、偏差値教育の行き過ぎなど学校教育の状況がさらに変化した。こうして、学業不振児、校内暴力、登校拒否、いじめ、高校中退者の増加など「教育の荒廃」指摘されるようになった。その反面、新聞社、テレビ局、デパートなどの民間の教育機関では、カルチャーセンター、文化教室などが次々主催され、多数の成人が学習活動に積極的に参加するようになった。企業でも体系的で専門的な学習プログラムを社員に用意するようになった。このような社会状況の変化の中で生涯教育への期待が次第に高まり、1981年中央教育審議会は「生涯教育について」という答申を出した。 この答申では人が生涯にわたって成長していくためには、各ライフステージにそった学習が必要であるとし、人々の各時期における望ましい自己形成を可能にする学習が提案された。このような社会背景から生涯教育は、人権を守るため、社会的抑圧から各人を解放するため提案されたと考察することができる。ここで答申の内容を少し述べていく。人間は、その自然的・社会的・文化的環境とのかかわり合いの中で自己を形成していくものである。教育は、人間がその生涯を通じて資質・能力を伸ばし、主体的な成長・発達を続けていく上で重要な役割を担っている。現代の社会では、我々は、あらゆる年齢層にわたり、学校はもとより、家庭・職場や地域社会における種々の教育機能を通じ、また各種の情報や文化的事象の影響の下に、知識・技術を習得し、情操を培い、心身の健康を保持・増進するなど自己の形成と生活の向上とに必要な事柄を学ぶのである。したがって、今後の教育の在り方を検討するに当たっては、人々の生涯の各時期における人間形成上及び生活上の課題と,社会の各分野における多様な教育機能とを考慮に入れることが必要である。変化の激しい社会にあって、人々は自己の充実・啓発や生活の向上のため、適切かつ豊かな学習の機会を求めている。これらの学習は、各人が自発的意思に基づいて行うことを基本とするものであり、必要に応じ自己に適した手段・方法はこれを自ら選んで、生涯を通じて行うものである。その意味では、これを生涯学習と呼ぶのがふさわしい。この生涯学習のために、自ら学習する意欲と能力を養い、社会の様々な教育機能を相互の関連性を考慮しつつ総合的に整備・充実しようとするのが生涯教育の考え方である。言い換えれば、生涯教育とは、国民の一人一人が充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習を助けるために、教育制度全体がその上に打ち立てられるべき基本的な理念である。そのような理念のもと現代の日本の生涯教育に関する状況を少し述べていく。我が国においては、国民の多様な学習意欲の高まりや教育に対する強い関心・要求に対応して、それを充足する様々な学習機会が提供されている。社会における最も組織的、計画的な教育機能として、幼稚園から大学に至るまでの学校が整備されており、さらに職業や実際生活あるいは教養向上のための専修学校や各種学校がある。公立学校だけでなく私立学校もたくさんあり、選択肢がより多くあることも魅力である。学区の再編・統合のもと、さらに学校の選択肢が増えていくと思われる。 次に社会教育として、各地域において住民の学習要求や地域の特性に応じた各種の学級・講座・芸術文化活動・体育・スポーツ活動あるいは奉仕活動など多種多様な事業が推進されているほか,各種の社会通信教育も行われている。また、勤労者のための職業教育・訓練の場として、公共職業訓練のほか、企業内教育・訓練をはじめとする職場の内外における現職教育が盛んである。さらに、新聞・放送・出版などの各種の情報媒体を通じての教育・文化活動や、近時都市を中心に発展しつつある民間の教育・文化事業があり、また教養・趣味・スポーツなどにかかる個人教授所も多く見られる。 最近では、各地でそれぞれ地域の特性を生かした生涯教育への意欲的な取り組みが進められている。例えば、教育・文化施設の面では、特色のある公民館・図書館・博物館・文化会館などを新設したり、あるいは一部の都道府県で広域的な学習事業・研修・情報提供など各種の機能を備えた生涯教育センターなどの総合的な社会教育施設を設置するなど積極的な姿勢も見られる。また、既存の施設を活用するための工夫・努力も払われており、小学校・中学校・高等学校などの施設が、住民の体育・スポーツ活動や文化活動のための場として提供されつつあるのもその現れである。 ここから、日本の持っている課題について述べていこう。今日我が国の家庭については、一般に社会とのつながりの弱さや子供に対する過保護・しつけの不足などが指摘されている。このため、今後生涯教育の基盤としての子供の性格と態度の形成にかかわる親をはじめとした家族の努力が期待されるとともに、行政施策の面でも家庭教育への適切な援助が求められている。また、家庭が各人の人間形成や精神的充足の上に持つ影響は,成人や高齢者にとっても大きい。近年,前述のように成人が学習する必要性や要求が高まりつつあるが、これらの人々のために容易に選択することの可能な効果的な学習機会ができるだけ広く用意されることが望ましい。このため,学校教育,特に大学教育をはじめとする高等教育の制度や運用方法の一層の弾力化,柔軟化を図る必要がある。現在、地域社会における人々の多様な学習活動を助ける上で、社会教育は重要な役割を果たしているが、その施設や教育内容・方法においてなお不十分な面が多い。このため、施設や事業・指導者など社会教育全般について一層の充実を図るとともに、個人学習の援助など新しい分野や方法についても開発を進めるべきである。 生涯教育を進めるに当たっては、個人の自主性が尊重されなければならないが、同時に人々の学習意欲を育て、その学習環境を配慮がなくてはならない。このため、学習機会や内容・活用方法などの情報を人々に提供する事業・学習の内容や方法について助言・援助する学習相談体制の拡充を図るべきである。
2007年09月26日
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~ユネスコにおける生涯教育論の提起と社会的背景、及びその後の生涯教育論について論述せよ。~ フランスのラングランは1965年パリで開かれたユネスコの成人教育推進国際委員会の初めて生涯的教育の理念を「生涯教育」という言葉で現代に提示した人物である。生涯教育の理念は「個人が生まれてから死ぬまでの生涯にわたる教育」と「個人及び社会全体の教育」の統合にあるという。つまり、生涯教育を個人のレベルで考えるだけではなく、国民、社会全体の教育として考えようというわけである。 1972年ユネスコ本部で開催された「生涯教育に関するシンポジウム」でラングランは以下10点のような生涯教育理念を提案した。1.教育は人生の一時期に限定するのではなく、全生涯にわたるものである。2.教育は知識の習得に集中していて抽象的なものではなく、知的・情緒的・審美的・職業的・政治的・身体的といった多面的な人間に、全体として具体的にかかわりをもつものである。3.職業教育と一般教育、定期的な教育と形式的な教育、学校教育、文化と教育などさまざまな教育活動を分離・隔絶するものではなく、人格の全体的・有機的な発達を考慮して、さまざまな教育の間の連携もしくは統合するものである。4.集積されてきた既知の情報を啓示することが教育の目的であるとする知識観に立つのではなく、知識や理性や人格は生成しているという弁証法的な見解に立脚すべきである。5.教育的な規制、外部からの強制を加えることによって、規制の文化価値を習得させることに重点を置くのではなく、1人1人が持っている個性や独自性や自分自身の持ち味に従いながら、自発的・自主的に発達し成長し続けることを重視する。6.教育を「文化遺産を伝授する手段」とみなすのではなく、絶えざる自己発達の過程そのものが教育であり、教育は成長の手段である。7.教育は選別の道具と考えるのではなく、未熟な時期の一回限りの選別が有害であると考え、人間がもっている資質を、一生涯にわたる成長のそれぞれの段階で、余すところなく開花させるものである。8.教育というものを、学校、大学、技術専門学校など、故意に分離させられている分野に限定されるものではなく、教育というものを、仲間関係、家族、職場、教会、政党、労働組合、クラブなど、人々の実際生活とかかわりのあるさまざまな環境や状況の中にまで拡大させて考える。9.図書や講演や学校や大学制度など、教育の媒体となるものや訓練に一定の階梯を設けるものではなく、教育の機会を選択を選択するにあたっては、所与の環境の中に利用可能な媒体があるのか、また個人や社会の能力にそれが適応しているのかどうかが唯一の決め手である。10.教育は教師によってのみ行われるのと考えるのではなく、ときにより、状況の違いに応じて、社会全体が教育の機会を提供するものである。 このことから、生涯教育理念について重要なことは、教育は生涯にわたって続くのであるから、教育が生活と深く結びつき、教育が人間の生活原理になる必要があると思われるのである。 では、なぜこの生涯教育理念が提案されるに至ったのであろうか。生涯教育が提案された社会的背景には以下のような問題があったからである。 第1に、1960年代以降世界的に社会的環境が急激に変化した。科学技術の革新は経済、社会機構に大きな変化をもたらし、日常生活に及んだ。その結果生まれた新たな職業生活・家庭生活・社会生活に対応していくには、学校教育だけでは不充分になった。従って学校卒業後も自ら主体的・自己創造的に急変する社会に対応できる能力を身につける必要性が出てきた。 次に、生きがいや自己実現への欲求が高まった。第二次大戦後の衣食住の確保という切迫した状況が改善されて、生活にゆとりが生まれた。また家電機器の普及により家事労働が徐々に軽減し、さらに医学や医療環境の進歩・改善によって平均寿命が延びるようになった。その結果、自由時間が増え、それまでの仕事一辺倒の人生から、さまざまな学習活動を通じて自己の内面や心を豊かにしたり、自己実現・自己創造をはかりたいという人々の欲求が高まった。 3番目には、高校や大学の受験戦争の激化、学業不振児や非行問題、学校間格差の広がり、学歴主義の進行などのさまざまな教育の歪みに対する反省。そのため、こうした教育問題を解決しうる、新しい教育理念の創出が期待された。 これらが、生涯教育理念が提案されるに至った社会的背景の問題である。生涯学習・生涯教育という言葉が使われるようになったのは、もう40年以上も前のことですが、日本では、高齢化社会の進行にともなって、近年、その重要性が再認識されるようになってきました。では、現在その生涯教育はどのようなものがあるのであろうか。生涯学習の方法としては、カルチャーセンターや図書館、公民館、博物館、大学のオープンキャンパスなどの教育施設に直接通って学ぶ「通学スタイル」が一般的である。通信教育やカルチャーセンターなどは、スタンダードな生涯学習の場である。また、身近な公民館や図書館等でも、いろいろな趣味の会やスポーツクラブ、サークル活動が行われています。最近は、インターネットの普及により新たなスタイルも確立してきたのである。大学も、在校生だけでなく、一般に向けたオープンカレッジという公開講座を開き、生涯学習を奨励しているところも少なくありません。通信教育や、インターネットを使ったe-ラーニング等の「遠隔学習スタイル」も、生涯学習の場として定着してきた。生涯学習には、合宿や研修など、一定期間宿泊するかたちをとって学んだり、技術を身につけたりする「宿泊スタイル」もある。昔は、居住場所や時間・学費等の制限があってなかなか学ぶことができなかった人も、自分の都合に合わせた生涯学習プランを立てて、だれでも気軽に参加することができるようになりました。また、ボランティアなどのNPOスタッフとして活躍している主婦や学生もいます。このように、生涯学習の機会は、わたしたちのまわりにあふれています。中高年の方――子育てを終えた主婦や、定年退職した方も――、第2の人生を歩むべく、それらの機会を活用して、生きがい・やりがいを感じる学習活動をスタートしています。生涯学習という名前のとおり、わたしたちの人生は一生が勉強です。そこから得られるものは、きっと、あなたにとっても、かけがえのない宝となるに違いありません。 生きがい発見のため、スキルを身につけるため、あるいは健康体を維持するためなど、目的な人それぞれです。それでも生涯学習によって人生が充実したものになることは間違いありません。ラングランの生涯教育理念から半世紀、現代でいう「いつまでもいきいきと」というような考え方が世界で広がってきてるのではないであろうか。最後は書くこと尽きました・・・以上(。´ー`)/~~フリフリ
2007年09月25日
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~ジョン・ロックにおける子どもの教育論、特に習慣形成や賞罰法を中心に述べよ~ ジョン・ロックの教育論は一般に「紳士教育論」と言われ、それは生まれたばかりの子どもの「心の中には生まれながらに刻み付けられた観念や原理は存在しない」というタブラ・ラサ説を土台にして構築された、教育万能主義的な論である。子どもが生まれながらに観念などを持っていないのであれば、成熟した人間の心の有り様はいかにしてもたらされるのか、ということに関する説明でロックは「経験」という一語をもって述べている。さらにロックは経験主義論の代表者らしく「この経験に私たちのいっさいの知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する」と言い切っている。教育が万能であるというこの論はまさしく、経験主義者のロックらしい教育観に根ざしている。経験主義者であるがゆえに、ロックの考えた人間の生まれながらに有し得る性質を重視しないという人間観から生じたこの教育観は、字の如く教育が絶対的に万能であるという考えと同時に、「教育さえすれば子どもを立派な人間にすることができるという楽観主義的」な教育への考えも存在せしめている。このような教育観を持つロックが、子どもを立派な人間にするための具体的な教育法としてタブラ・ラサ説に則って重視するのは、習慣づけと身体的訓練、精神的訓練である。子どもの心は初め、外界の印象を何も受け取っていないとするロックの教育論ではまず、感覚的教育から始めるべきであると主張される。これは一つ一つの対象への観念や知識を得ることは、感覚が起因していると考えられるからである。つまり、白紙の子どもの心には感覚を通して知識や観念が刻まれる。そして、子どもはそれらを記憶して一つ一つの対象の名前を知るのである。しかし、幼児期の子どもが一度誤った観念を持ってしまったならば、その子どもは一生、対象への誤った認識を持ちうる危険性もある。ゆえに子どもには正しい観念を、正しい方法で持って習慣づけるという形態で教育を施さなければならないのである。ロックの紳士教育論の言う「紳士」とは健全な身体と道徳、そして知識を有している人間を指す。ロックは健全な精神を子どもが得るために、親たちが為さねばならないこととは「理性的に適した事柄にしか同意しないように」することであるとし、このようにして親から施される精神的鍛錬によって、子どもは自分の欲望を我慢し、欲望が自身の内部でいくら強く膨らみ動いても、理性が最善として示すものに従うことができるようになっていくのであると考えた。そしてそのためには、子どもが両親の意思に従うように教育すべきであるとした。このような厳しい鍛錬は、その厳しさゆえに子どもが反発の念を抱くこともある。だからこの鍛錬は子どもが非常に幼いときから行われ、習慣づけられていなければならない。しかしロックは、これを行うための具体的な方法は単に強制であってはならないとしている。指導者は子どもに対して威圧的に命令するのではなく、子どもたちが完全に行為を習熟するまで繰り返しやらせることが重要なのである。そしてロックはその一連の習得までの過程の流れこそが、習慣づけられなければならないことであると考えている。さらにこの一連の流れが、子どもが指導者に対して従順になることを目標とするようになってはならず、「子どもが自発的に善い行為を行うように習慣づけられるべきである」ともしている。しかし、その方法として規則を闇雲に多く作ることや、それに伴って子どもを叱る回数が増えることは望ましくない。規則は必要最低限のものにとどめ、重要視するのは子どもがその規則を確実に守れているかどうかである。具体的な教育法のうち、身体的な教育法においてロックは、甘やかしの排除によって子どもはできるだけ自然に、且つ健康に生活するべきであると考えた。それは具体的にいうと厚着をさせないであるとか、早寝早起きの習慣を身につけさせるといった細かな規則の習慣化であり、ロックはこれによって子どもの健康な生活が成り立つとした。その多くは彼の出身国である英国を基準にして考えられたものであり、それらが一概に総て正しいといえるわけではない。また作法の教育においてロックは、礼儀作法も子ども自身の経験に基づいて習得されるべきと考えた。この場合の訓練もまた叱りつけるだけではいけない。作法を教えるとき、子どもには何が正しい行動なのかを示し、その動作を繰り返させることが必要なのである。そしてなにより「善良な性質と原理」を子どもが理解し獲得することが重要なのである。そして年長のものとの関わりを通してそれを学ばせることこそが、子どもに作法を習得させる最も有効な方法であるとしている。ロックが主張する子どもへの賞罰の方法は評判法である。これは賞罰を子どもの名誉心と羞恥心に働きかえることによって行い、肉体的ではなく精神的に賞罰をすることで、子どもを外面的あるいは強制的に教育するのではなく子どもが自発的に善い行いをするように習慣づけるためである。またここで述べている「罰する」という行動は、子どもに対して非常に厳しいものであっては、ほとんどその役に立たないものであり、それどころか教育においては却って害が大きいとさえロックは述べている。この賞罰へのプロセスはまたタブラ・ラサ説と経験論とをもとに考えられ、その賞罰が行われる理由となる規則を子どもたちが幼いときから定め、それが子どもたちにとって極めて当然なことと思われるようにすれば「あらゆる争いや小言の機会はさけられる」のである。しかしこの方法をとることは、子どもに段階的に自由を与えることを前提としているとはいえ、親あるいは指導者が子どもを支配しているという形をとる事になるのではないだろうか。これに関してロックは「導く」という言葉を多用するが、いくら理性的に規則を定め、罰を与えようとも、そこに子どもの自由は存在し得ない。ロックの教育論は子どもに対して厳しいものであるが、ロック自身人間を性悪説的な存在と認識しているわけではない。ロックは子どもには理性と感情とを区別する能力があり、さらに理性を尊重することもできるとし、また子どもに対して自由を認めている。これは彼の著作にある「年令がすすむにつれて子どもには自由が与えられなければならない。」という言葉によって明言されている。またこの言葉からは、子どもが大人になるまでに生活の様式が習慣づけられ、それによってすばらしい紳士として成長させられなければならないという意味も取れる。そしてロックは、ここで子どもに対して認めた自由は子どもの成長に従って拡張され、また許されていくべきものとしている。それゆえに指導者は、どんな場合であっても「注意や規則をどんなに説き聞かせたところで、その実践が習慣にまで確立する以上のことをそのことに期待してはならない」のである。ロックはその著作において自由は子どもたちには「何の益もありえない。」また、子どもたちは「判断力が乏しいので拘束と訓練とが必要」とも述べている。子どもたちに自由を認めるが、しかしそれに価値を認めていない。教育万能主義を掲げるロックの、経験論に根ざす教育観において素晴らしい紳士を育成するための教育には、自由よりも厳しい訓練が必要ということである。いいリポート見つけたのでそのまま使いました(*ノ´∀`)
2007年09月23日
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~ペスタロッチーの教育学について考察せよ。~まず、はじめにペスタロッチーの生涯について少し述べておく。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチーはスイスの教育家・教育思想家である。彼は、1746年、チューリッヒに生まれる。ペスタロッチーは、幼い頃からチューリヒの近くのヘンク村で牧師をしている祖父のところへよく遊びに行っていた。そこでペスタロッチーは、チューリヒの子供たちとヘンク村の子供たちとの境遇の違いに心を痛めたとされています。どのようなことかといいますと、チューリヒの町の子供たちの多くは裕福な家庭であり、みんな学校に行って勉強していた。しかし、ヘンク村の子供たちの多くは貧しく十分な学校教育を受けることがないまま、働いていたからである。このようにしてペスタロッチーは、幼いころからこの人たちを救いたいと思うようになっていったのである。チューリッヒの大学で、最初は牧師になって貧しい人々を救いたいと思い神学を、そのうちもっと直接的に人々を救いたいと考えて弁護士をめざし法学を志しました。そこでルソーその他の革新的な啓蒙思想に触れ、政治の改革を求める学生組織「愛国者団」に入る。その後、農業経営のかたわら、貧児・孤児の教育事業に着手する。しかし、一時はうまくいくかに思えた学校も次第に経営に行き詰まり、やがて閉鎖せざるをえなくなったのである。農場経営に行き詰まってからペスタロッチーは、しばらく文筆業に精を出したのである。そうこうするうちに隣国フランスでフランス革命が起こったのである。この革命はスイスにも波及し、環境が大きく変わったのである。1798年にスイス革命が勃発し、革命政府ヘルヴェーチア共和国が成立し、ペスタロッチーは革命政府に教育の面での奉仕を申し出ましたのである。それは、新政府は学校の整備を課題としていたからである。最初にペスタロッチーが派遣されたのは、環境があまり良質でないシュタンツという村であった。この村は、革命政府に最後まで抵抗したためフランス軍によって焼き討ちされた村だったからであったからである。親が殺されて孤児になってしまった子供たちを修養する施設で、ペスタロッチーの教育実践が始まったのである。シュタンツの孤児院にきた子どもたちは、乞食をしたり泥棒をしたりして何とか生きてきた子供たちであった。子供たちは大人を信用できなくなっており、ペスタロッチーがどんなに優しくしても、はじめは誰もわかってくれませんでした。しかし、時がたつにつれペスタロッチーの心を理解するようになったのです。ペスタロッチーの喜びは本当に大きなものでした。でもその喜びもつかの間、わずか6ヶ月での孤児院は閉鎖されてしまいました。フランスの軍隊の病院にされることになったからである。今度はブルクドルフという町の小学校の先生になり、どんな子どもでも学べるような教科書や教材を作り始めた。そのうちペスタロッチーのことが認められて、ブルクドルフ城に学校を創ることができた。これがブルクドルフ学園である。ここでペスタロッチーは自分が考えた教育方法をメトーデと名づけ、それを広めるために『ゲルトルート児童教育法』という本を書いたのである。この本を読んだ人がたくさんブルクドルフ学園にやってきてペスタロッチーの教育についての考えや方法を学びました。こうしてペスタロッチーの名はヨーロッパで有名になったのである。そして、多くの国々から本を読んだ参観の人々が集まり、教育実践研究のセンターとなって、ヨーロッパ、アメリカにペスタロッチー運動が広がったのである。その後スイス革命に対する反動の時期がやってき、ペスタロッチーはブルクドルフをさらねばならなくなったのである。いろいろな誘いがあったが、結局ジュネーブに近いイヴェルドンという町のお城で学校を開くことしたのである。この学校をイヴェルドン学園といい、ペスタロッチーはあまり授業をしないで、本を書いたり教員養成をしたりしました。このころからペスタロッチーは自分が考えてきた教育についての考えや方法のことを基礎教育の理念とよぶようになった。基本的なことはメトーデと同じである。ペスタロッチーは自分が考えた教育方法をもっと世界中に広めることで、世界中の子どもたちが楽しく生き生きと学校で学べるようにしてやりたいと願っていたのである。 ペスタロッチーが望んだのは、すべての子どもの教育でした。1806年にはまだ当時珍しかった女子学校を併設し、1813年にはスイス初の聾唖学校を設立しました。1818年にはイヴェルドンの近くのクランディに貧民学校を創りました。貧民学校の設立はペスタロッチーの長年の夢であった。しかし、残念ながらこの貧民学校も経営不振のため1年足らずでイヴェルドン学園に吸収されてしまいました。ペスタロッチーは1826年、人生の最期のときを、ノイホーフで迎えた。82歳であった。ペスタロッチーは死ぬまで貧しい子どもたちのことを考えておった。この当時、貧しい子供たちは働く手段をもっていません。国家の力が大きかった時代、どんなに努力しても、どんなに好景気であっても結局は貧しいままです。でも学校に行って勉強をして、いろいろな知識と能力を身につけたら、何か人の役に立つ人間になれるのです。ペスタロッチーは子供たちが「自分が有用な価値のある人間だということ」に気づき、安らぎのある人生を送ることができるようにしてやりたいと心から願っていたのである。 ここからはペスタロッチーの教育学について詳しく考察していきたい。ペスタロッチーは子供には、将来発展する素質が備わっており、この素質が子供のうちから発展するように助成していくのが教育だと考えているのである。子供は生まれながらには、まだ動物的であるにすぎず、これを根絶することが、教育なのであると考える古い教育観に反対するのである。わかりよく言えば動物的な本能をなくし、人間的な理性に変えていくという教育を反対しているのである。真への認識、美の感情、善の力、これらは、子供が生まれながら有しているものであるのだ。教育者は、子供の内的本性が自ら実現していくのを援助することに専念しなければならない。子どもの内的本性に備わっていないものを外部から注入することは教育にはふさわしくないのだ。子どもの本性は、白紙ではなく、既に将来成長する能力を内的に有している。この能力を自然に即した形で伸ばしていくことが重要なのだ。この教育観を「有機的・発生的」と呼んでいる。またペスタロッチーが教育の重要な柱とおいているのが「直観の原理」である。直観とはつまり、精神がその知覚する対象を、直接に知的に把握する作用のことである。これを言い換えるならば、直感ではなく直知である。ベルクソンの説においては、直観によってのみ実在は捉えられるとされている。この直観という作用において、判断や推理といった思惟作用は存在しない。ペスタロッチーの教育方法とは、この直観を全ての認識の基礎的な素材として、未だ概念としては不明瞭であるそれを、整理し秩序を与えることで明確な存在にしていくというものである。このためペスタロッチーは直観をあらゆる認識の絶対の基礎と認め、直観に関する先行者であるコメニウスやルソーらの事物と感覚、感受を重視した直観とは異なる姿勢をとっている。ペスタロッチーはこれらの精神的作用を教育方法としたがゆえに、具体的な彼の唱えた子どもへの教授法とは、容易なものから学び始め、段階的に習熟し知識を積み重ねていくという、漸次的な教育法であった。
2007年09月22日
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昨日、科目別最終試験を2教科だけ受けてきました。 ヽ(・ω・。)ノ=ヾ(`・∀・)ノ=ヽ(。・ω・)/ハイ、トンです。(σ・ω・)σ 試験がおわった後はなんかやる気がおきませんのぉ そんなこんなでゲームしてました(*´∀`) 8時位にリポートしないとなと思いはじめ個人blog漁ってました♪ 大学のリポート共有サイトは引用しすぎたら指摘されんので 基本はblogから引用させてもらってます。 自分の力は付きにくいですが、俺は人間ずっとは頑張れねぇと本気で思ってるし、引用のしすぎと批判されようが そんなの関係ないっ!!×3 はい、おぱぴー♪ 単位さえとれりゃ過程など知らねぇ)ぁ 今日書いたというか片方は〇〇パクったリポートは近々掲載予定(。-∀-)♪
2007年09月17日
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9月になりましたね☆土日が夏休みの残り香のようです。ところでところで競歩って知ってますか?今も世界陸上で長居公園を歩いています。驚くべきはそのスピードのはやいことはやいこと・・・50km競歩をみてきましたが驚きですマラソンと違うところはおなじところ何回もぐるぐる回るんですねとぃぅことゎ・・・・周回遅れキタ━━━━ヽ(・∀・` )ノ━━━━!!!!でも周回遅れされている選手もすっごぃはやぃんですよ)汗どんくらぃかとゆうと。マラソンの距離・・つまり42.195kmを3時間半くらいで走るんです・・ぃや歩くんです!それだけちょっと見て家帰りますた涼しいし家でほのぼのしながら見てるほうがぃぃ( ^ω^)日本がんば ヾ(。・∀・)ノワチョ-ィ♪競技場に入ったらお金かかるんで見にいきません)ぁ
2007年09月01日
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~現代の道徳教育の課題について述べよ。~ 道徳教育とは、自然なこころある行動をうながす教育のことである。現在は、学校で行われる道徳教育については、学習指導要領に規定されており、「道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うもの」であるとしている。さらに、小学校・中学校・中等教育学校の前期課程には、道徳の時間が年間あたり35単位時間(1単位時間は、小学校45分、中学校50分)設けられ、各学校によって異なるがだいたい1週間あたり1校時割り当てられるようになっている。ミッション系の私立学校では道徳の時間は設定されておらず、代わりに宗教の時間が設けられていることが多い。欧米にはこういう時間がなく、宗教教育などで代替されている。ここで、現在定められていることを明確にするために文化科学省小学校の学習指導要領を使い、学年ごとの目標がどのように推移しているか見てみよう。まず全体の目標として、道徳教育の目標は、第1章総則の第1の2に示すところにより、学校の教育活動全体を通じて、道徳的な心情・判断力・実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。道徳の時間においては、以上の道徳教育の目標に基づき、各教科、特別活動及び総合的な学習の時間における道徳教育と密接な関連を図りながら、計画的・発展的な指導によってこれを補充・深化・統合し、道徳的価値の自覚を深め、道徳的実践力を育成するものとする。〔第1学年及び第2学年〕1 主として自分自身に関すること。健康や安全に気を付け,物や金銭を大切にし,身の回りを整え,わがままをしないで,規則正しい生活をする。よいことと悪いことの区別をし,よいと思うことを進んで行う。2 主として他の人とのかかわりに関すること。気持ちのよいあいさつ,言葉遣い,動作などに心掛けて,明るく接する。身近にいる幼い人や高齢者に温かい心で接し,親切にする。3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。身近な自然に親しみ,動植物に優しい心で接する。4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。父母,祖父母を敬愛し,進んで家の手伝いなどをして,家族の役に立つ喜びを知る。〔第3学年及び第4学年〕1 主として自分自身に関すること。自分でできることは自分でやり,節度のある生活をする。よく考えて行動し,過ちは素直に改める。正しいと思うことは,勇気をもって行う。2 主として他の人とのかかわりに関すること。礼儀の大切さを知り,だれに対しても真心をもって接する。生活を支えている人々や高齢者に,尊敬と感謝の気持ちをもって接する。3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。自然のすばらしさや不思議さに感動し,自然や動植物を大切にする。生命の尊さを感じ取り,生命あるものを大切にする。4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくる。我が国の文化と伝統に親しみ,国を愛する心をもつとともに,外国の人々や文化に関心をもつ。〔第5学年及び第6学年〕1 主として自分自身に関すること。生活を振り返り,節度を守り節制に心掛ける。真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。2 主として他の人とのかかわりに関すること。時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。3 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。4 主として集団や社会とのかかわりに関すること。公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし,進んで義務を果たす。だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める。このように学年があがるにつれて、自分の周りの世界が広がっている。ここで、現代の道徳教育の課題について考察してみよう。21世紀は「心の時代」だと言われている。学校をめぐるさまざまな事件、受験戦争の激化・不登校・校内暴力などや、特に歴史などでは近隣の国々と日本の間の過去の関係やその理解の仕方などで、変化してきている。現代社会はめまぐるしく変化しており、その変化は急激なものがある。その中において、よりよく生きていく「生きる力」を身につけることが望まれている。最近は、若年層による凶悪な犯罪が多く見られるようになった。また経済の不安定さもまして、まさに世の中は不安定な先行き不透明な時代になったといえる。よりよく生きていくためには、豊かな心が基盤となって自ら考え自ら行動してよりよい生き方を身につけていく資質を身につけていかなければならない。心豊かに一人一人がこの課題を真摯に受け止め実践していかなければならない。学校教育においては、それらの資質を育て高めていかなければならない重要な課題と期待がよせられている。 なぜ道徳教育が必要であるかというと、児童・生徒が自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決しようとしたり、自分を律しつつ、他人と共に協調し、他人を思いやったり感動する豊かな心をもつこと。よりよく生きようと考えたり、行動したりして、自己の「よさ」を自覚しながら、自分自身の喜び、痛み、悲しみ、願いに気づき、相手もそうであろうと認めていく中でより高い価値に向けてそうありたいと意欲をもつ姿としてとらえる。自分たちが行っている行為がどのような道徳性をもっているかを知り、自らの成長を実感できたとき、更によりよく生きようとする。その向上心を持たせるために基本的に成績として道徳は評価しないが、何からの形で評価が必要だと考える。そこで、教師は、日常の観察やその記録、日記や作文の表現、道徳の時間でのノートなどから一人一人をよく把握することが大切である。そして、子どもたち一人一人にその道徳性について認めたりアドバイスをしたり、みんなの前で紹介したりする。このような教師の支援は、子どもたちが認識している道徳的価値や内容について広げたり、深めたりすることにつながり、子どもたちの更によりよい行動をしようとする意欲になる。そして、子どもたちのおこした行動に対してまた評価をし、新たな支援を試みていけば、子どもたちの意識は継続し、道徳的実践力は高まっていくと考える。このように、支援と評価は表裏一体で、連続して行うことにより子どもたちの意識も継続される。 私達は、学習に子どもが主体的に取り組んでいるか。特定の子どもの発言に偏っていないか。話し合いがねらいに向かって深まっているか。発言の背景をくみ取れているか。気付きや成長を見逃していないか。そのようなことを気をつけなければならない。個人的にゎ課題が見えにくい感じがして・・・自信なぃですがめんどくさいのでこれで・・・w( ^ω^)ノシ
2007年08月25日
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なんとかPC復旧しました^^;昼のブログ更新時ではまだインターネットがかろうじて繋がる位でした~まぁのんびりっと のら~り くら~り また~り インストール 再起動 の連続やっと完了( ^ω^)あとは辞書ツールを少しずつふやしてければイイナ☆今回なぜ初期化からやり直ししなくなったのかというと・・・・多分・・・ウイルスバスターの期限切れヽ(`Д´)ノ注意しましょぅね(´・ω・)βyёヾ(。・∀・。)ノβyё
2007年08月19日
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「こころが健康である」とはどういうことなのか。講座の内容も参考にしながら自ら思うところをまとめなさい。 こころの健康とは、いきいきと自分らしく生きるための重要な条件である。具体的には、自分の感情に気づいて表現できること(情緒的健康)・状況に応じて適切に考え、現実的な問題解決ができること(知的健康)・他人や社会と建設的でよい関係を築けること(社会的健康)を意味している。人生の目的や意義を見出し、主体的に人生を選択すること(人間的健康)も大切な要素であり、こころの健康とは「生活の質」に大きく影響するものである。また、個人の資質や能力の他に、身体状況・社会経済状況・住居や職場の環境・対人関係など、多くの要因が影響し、なかでも、身体の状態とこころは相互に強く関係している。 心身症という名称があるように、以前から、ある種の疾病の発症や進展に心理的な要因が影響することが知られており、最近ではこの関係が実証されてきている。例えば、ストレスが多いと風邪などの感染症にかかりやすくなること・心臓病などの病気にかかりやすい性格や行動があること、などがある。 こころの健康を保つには多くの要素があり、適度な運動や、バランスのとれた栄養・食生活は身体だけでなくこころの健康においても重要な基礎となるものである。これらに、心身の疲労の回復と充実した人生を目指す「休養」が加えられ、健康のための3つの要素とされてきたところである。さらに、十分な睡眠をとり、ストレスと上手につきあうことはこころの健康にとって欠かせない要素となっている。こころの健康が乱れたとき。つまりこころの状態が良くない症状がでたとしよう。パニック病状や解離症状・精神分裂病・躁うつ病・人格障害・薬物依存・痴呆などがある。有名なものを挙げるとうつ病がある。うつ病はこころの病気の代表的なもので、多くの人がかかる可能性を持つ精神疾患であり、自殺のうち、かなりの数はこのうつ病が背景にあると考えられている。こころの健康を維持するための生活やこころの病気への対応を多くの人が理解し、自己と他者のために取り組むことが不可欠である。そのようなことが繰り返され、ストレスがたまってきて自身や周りに被害がでることがある。そうならないための予防活動には、生ずる前に対策を講じ、予防につなげること(予防)・生じつつある危険に対して介入し、予防すること(介入)・不幸にして生じてしまった場合に人々に対する影響を少なくすること(後の対応)が挙げられる。予防としては、職場や学校や地域を通じ、一般の人々に自殺の危険因子・直前のサイン・適切な対応法などについての知識の普及を図ることが挙げられ、特にうつ病の症状と、有効な治療法があることの理解を広める必要がある。また、かかりつけ医・教師・保健婦などは、危険を早期に発見できる立場にあることから、予防のための知識を持ち、さらに精神科医などの専門医との連携を図る必要がある。介入は、危険の高い人を早期に捉えて、迅速に適切な治療を受けられる環境を整える必要があり、まず精神科医療が充実することが前提となる。地域の保健医療関係者が協力して、事態を減らすための取り組みを行い、減少した事例もある。同じ場所で行われる傾向が見られる。他の事態に影響を受けて行われることが観察されており、特に周囲の者に危険性が高まることが指摘されている。このような連鎖的な自殺を防ぐために、地域で自殺が生じた時には、周囲の人に対する支援や、適切な報道がおこなわれるようにするなどの対策を講じる必要がある。また、海外では、専門家がきっかけや受けた治療などを調べて、背景を明らかにし、この結果を予防に役立てる取り組みが行われており、日本においても、有効な対策を立てるために、統計や警察庁の実施する調査では十分に捉えられない背景を明らかにする必要があると考える。
2007年08月19日
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パソコンが壊れました。 ってことでケータイから更新です〓 復旧したらリポやるかな・・・
2007年08月17日
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大学の夏季すくーりんぐ最終日です~〓 毎日、大阪-京都往復はちょっと面倒臭かった・・ 教育学科の人達とはまだ共通するものがありますが、違う学科になると講義も全く変わり・・ 同じ大学やからたまに会うかもしれないけど、通信大学なんで学校来る回数少ないんですね^^; なんだか寂しいです こういうときって電車の中でのMDから別れの歌ばかり流れてきます。 ~別れるケド、相手を応援してる~ そんな感じの曲ってイイデスョネ 19『果てのない道』 コブクロ『YEEL』 Mr.Children『another world』 あと失恋の曲とかも大好きです〓 元気にはなれんケド、しみじみできるので〓 コブクロ『miss you』『あなたへと続く道』 スキマ『奏』 でもそれは気のせいじゃなくて事実です そんな曲しかMD入ってなぃんだから(/ω ・`) 彡サッ MDのアーティスト一覧 ω・`)ノ▽▼▽▼▽▼▽▼ 19 aqua timez BUMP of CHICKEN(スペル?) B'z CHEMISTRY DEEN EXILE GLAY KinKi Kids Mr.Children SMAP ケツメイシ コブクロ シャ乱Q スキマスイッチ タッキー&翼 福山雅治 藤井フミヤ ポルノグラフィティ ゆず 約20グループです MDに入ってる曲が350~400位なので・・・ グループ数少なっ・・・!! 大学の皆さんトンは10:30が限界っぽ 今日はタク使わんと帰れましたヽ(・∀・)ノ それじゃまた明日祭でね~( ・∀・)ノシ
2007年08月15日
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~二酸化炭素削減について~1997年の京都議定書での要点をまとめると二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素などの気体を削減する。先進国の温室効果ガス排出量について、法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定。途上国に対しては、数値目標などの新たな義務は導入せず。日本の目標は6%である。ここでは、二酸化炭素を主に取り上げていくとしよう。二酸化炭素は赤外線領域に強い吸収帯を持つため、地上からの熱が宇宙へと拡散することを防ぐ、いわゆる温室効果ガスとしてはたらく。二酸化炭素の温室効果はメタンやフロンにくらべ小さいものの、排出量が莫大であることから、地球温暖化の最大の原因と言われている。地球温暖化による気象や自然環境への影響では、気温や海水温の上昇、海水面の上昇、異常気象や激しい気象の増加、気候の変化、生態系の変化、植生や地形の変化などが挙げられる。また、平年通りの雨の降り方をすることは少なくなり、極端に少なかったり、集中豪雨となったり、長雨になったりすることが増えるということである。海への影響も地球規模の気温上昇に伴い、海水温なども上昇する。平均海水温が3℃上昇するだけで、東京湾に生息する魚類が熱帯魚になるともいわれるように、生態系が変化するといわれている。さらに、気温や降水量と同様に、海水温についても、今後平均温度が上昇するにつれて、変動幅も大きくなることが予想されている。これにより、大気の流れや海流が変わったり、変動が激しくなったりすることによるもので、異常な低温や高温をもたらし、異常気象や生態系への影響をもたらす可能性があるとされる。社会や経済への影響では、食糧生産や飲料水への影響、激しい気象や気候変化による物理的な被害や人的な被害、生活環境の変化、経済システムの変化、社会制度の変化などが挙げられる。 そうならないように私達は削減に説教的にならなければならない。削減方法は大きく分けて個人レベルで出来るものと企業レベルでしかできないものる。企業レベルではリサイクルや建物の緑化がある。特にアルミ缶・スチール缶・ペットボトル・紙製容器包装・プラスチック容器包装、小型二次電池、塩化ビニル樹脂製建設資材については、リサイクル識別表示マークの表示を義務付け、製品が廃棄されたときに容易に分別収集して資源として再利用できるようになっている。しかし、メーカーは赤字に転じることが多く、世間で認識されているほど行われていない。また、ほぼ全てのリサイクルは環境によいわけではなく、「リサイクル=環境に優しい」とは限らない。例えば、紙の再利用法で古紙配合という方法がある。しかし現状ではこの方法で配合するときに使う燃料で二酸化炭素が大量に排出され、逆に環境に良くないという意見が出てから撤退するメーカーもでてきているのが現状である。他にもバイオマスの利用や燃料電池・ハイブリッド車など、二酸化炭素の削減を目指した代替エネルギーの開発も急ピッチで進められている。個人レベルでできることは電力節約のため、冷暖房の温度調節やゴミ分別など簡単なものである。二酸化炭素は現在の大気中にはおよそ0.037%の濃度で含まれるが、氷床コアなどの分析から産業革命以前は、およそ0.028%の濃度であったと推定されている。濃度増加の要因は、主に化石燃料の大量消費と考えられている。決して、たかが0.00数%といってその現実を軽視してはいけない。そして自分だけやっても無駄と思ってはいけない。私達一人ひとりが意識して温暖化について防止策をし、考えていかなければならない。
2007年08月15日
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~様々なメディアにおいて男女はいかに描かれ、伝えられているか?事例を挙げて説明せよ。~ ジェンダーとは先天的・身体的・生物学的性別を示すセックスに対する、社会的・文化的性別のことを一般に日本ではジェンダーという。この場合の「ジェンダー」という用語それ自体には、良し悪しの価値判断を含むものではない。一方、欧米においてのジェンダーは、生物学的性の概念を含み、また文化的な差異とも異なるものとして認められる。メディアの種類としてはCM・アニメ・ファッション・絵本など様々なものにも通じることである。今回グループで話し合ったのは【CM】についてである。現在、CMは主に番組の合間に流れています。調味料・自動車・化粧品・飲料・食べ物など種類は様々である。話し合いの中でわかりやすかったものを3点ほど挙げていく。まず飲料についてである。ビールは汗だくの男の人が気持ち良さそうに一気飲み、酎ハイでは女の人が飲みやすさ・さわやかさが伝わってくるものが多いのである。インスタントコーヒーでは専業主婦のお昼、缶コーヒーではサラリーマンの男の人一服のシーンを利用している。このように役分けがお決まりになってきている。そこには企業戦略もあるだろうが、生ビール・缶コーヒーのように外で飲むものは男のサラリーマン、家で少し飲むようなものは女の主婦とそこにジェンダーが少なからずある。自動車においても高級車は中年の仕事ができる男性、ワゴンなどは人数が多い家族、軽自動車は女の人とこちらも役分けがされている。化粧品においてもそのほとんどが女性である。それも化粧は女の人がするものというジェンダーである。どのようないま述べた点からどのような点がジェンダーかというと男性は外で働いて稼ぎ、妻や子どもを養い、家庭を守る。女性は家庭内で育児や家事全般を担い、家庭を守る。この点が描かれている。しかし、本当にそうであろうか。確かに描かれてはいるが、それは現在変わりつつあるものと考える。事実、少し前の世代まではそのようなジェンダーがあった。現在は、その残り香があるように思える。やはり、女性の社会進出が進んできたといっても、それは近年のことであり、部長級・重要役員級はまだ男性が大半を占めているからである。それに伴いCMも作成しているので、これから時代がすすむにつれて無くなっていであろう。 本当に変わらないものは、女性は腋毛を剃り、化粧をする。男性はオフィスにおいて、スラックスを着用して勤務する。このようなことであろう。社会と同様にジェンダーは絶えず変化する。高度成長期には給与労働者の増加、経済力の高まりと共に性別役割分業が一般市民の生活で発達したが、現代日本では少子化や高齢化で労働力不足の広がりが懸念され、女性の労働力化が進んでいる。専業主婦よりも、キャリアウーマンのような暮らしが増えてきたと共に、経済的理由などからシングルライフを選ぶ独身者が増してきている。 現代においてジェンダーはだんだん無くなりつつある。まだ、男の人・女の人の違いがあるという固定概念が強いように超えなければならない壁は多いが、一人ひとりの意識のもちようによって無くしていかなければならない問題である。
2007年08月12日
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~マスコミの影響力について簡潔にまとめた後、自分の考えも述べよ。~マスメディアは、新聞社、出版社、放送局など、特定少数の発信者から不特定多数の受け手へ向けての情報伝達手段となる新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等の媒体を指す。マスメディアにより実現される情報の伝達をマスコミュニケーション(マスコミ)と言う。マスは、大衆の意味だとされることが多いが、社会集団や大衆・大量などの意味もある。世論の形成に際し、メディアでの扱い・メディアからのコメンテートのさじ加減は大きな影響があると言える。メディアの批評は情報操作と批判されることも多い。それほど影響力があるといえる。主なマスメディアは電波系ではテレビ・ラジオ、印刷系では新聞・雑誌がある。近年、PCの復旧・インターネットのブロードバンド化なども進んだことによりインターネット、つまり掲示板やブログなども情報源の1つとなっている。マスメディア業界は多くの国民に迅速かつ正確な情報を伝える性格上、高い公共性が要求される。また多くの人員、綿密な情報網が必要な為、新聞・テレビ業界に参入できるのは一部の限られた企業であり、情報の独占性ゆえ大きな競争は無く規制緩和の影響も大きく受けることは少ない。また大手マスメディアはその公共性ゆえ、博物館におけるイベントやスポーツ大会の主催者、又は協賛者になっている。しかし、情報の独占性ゆえにマスメディア事業者の方針にそぐわない意見は切り捨てられ一方的な思想に偏りやすい傾向が見られ、また企業の巨大性ゆえ新規参入者に対しては政治的な圧力を使って事実上参入をストップさせる行動も見られる。マスコミ企業の欠点を補完する役割として一般市民が記者となって取材活動を行う市民ジャーナリズムに期待する向きもある。また取材には資金と組織力が必要なため、インターネット時代においても新聞社などマスコミ企業の優位性は変わらないと思われるが、取材中心の通信社的な役割に縮小し、評論や世論形成は個人のウェブサイトが中心になるという見方が多い。ここで、報道における問題点を述べていこう。知識、新しい情報等が伝えられることで時代に対応した便利な生活が送れる一方で、「落ちこぼれ」「ニート」「~族」「負け組」「高齢化問題」「~系」などといった、人の在り方を否定的に扱う言葉を作ったり、否定的に伝えたりすることも行われている。そのために、国民に差別意識や偏見意識、敵対的な感情等を伝え、いじめを助長したりしかねないような弊害も多くなってきている。さらに、プライバシーの侵害が生じたり、モラルに欠けていたり、偏向や誇張が含まれる場合もある。テレビなどの大衆メディアにおいては、エンターテイメント性への偏重、マスメディア側の正確な知識の欠如、それに起因する対案無き表面的な社会・政策批判、専門家・コメンテイターへの丸投げなどといった多種多様の問題点がある。またマスメディアは身内に非常に甘く、メディア側の不祥事が故意に小さく報道されているとの批判もある。例えば、2004年11月に新聞社の記者が運転免許取消中に無免許な上、飲酒運転という極めて重大な犯罪行為が起こりました。新聞社はその時点では一切報道せず、2006年9月に事実が明るみになってからようやく新聞社も報道するも、その扱いは非常に小さかったというものである。このように他国のメディアに比べ客観的、中立的に報道するということが欠けている面があるので、大学にジャーナリズム学科、つまりジャーナリストを育成する大学がもう少しあってもいいであろうと思う。私達は、より正確な情報を手に入れると共に、一方的な情報に踊らされないためにも自分自身の考えもしっかりと持ち、マスメディアから配信される情報を鵜呑みにしない事が望ましいであろう。
2007年08月12日
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~様々なメディアにおいて男女はいかに描かれ伝えられているか?事例を挙げて説明せよ~ ジェンダーとは先天的・身体的・生物学的性別を示すセックスに対する、社会的・文化的性別のことを一般に日本ではジェンダーという。この場合の「ジェンダー」という用語それ自体には、良し悪しの価値判断を含むものではない。一方、欧米においてのジェンダーは、生物学的性の概念を含み、また文化的な差異とも異なるものとして認められる。メディアの種類としてはCM・アニメ・ファッション・絵本など様々なものにも通じることである。今回グループで話し合ったのは【CM】についてである。現在、CMは主に番組の合間に流れています。調味料・自動車・化粧品・飲料・食べ物など種類は様々である。話し合いの中でわかりやすかったものを3点ほど挙げていく。まず飲料についてである。ビールは汗だくの男の人が気持ち良さそうに一気飲み、酎ハイでは女の人が飲みやすさ・さわやかさが伝わってくるものが多いのである。インスタントコーヒーでは専業主婦のお昼、缶コーヒーではサラリーマンの男の人一服のシーンを利用している。このように役分けがお決まりになってきている。そこには企業戦略もあるだろうが、生ビール・缶コーヒーのように外で飲むものは男のサラリーマン、家で少し飲むようなものは女の主婦とそこにジェンダーが少なからずある。自動車においても高級車は中年の仕事ができる男性、ワゴンなどは人数が多い家族、軽自動車は女の人とこちらも役分けがされている。化粧品においてもそのほとんどが女性である。それも化粧は女の人がするものというジェンダーである。どのようないま述べた点からどのような点がジェンダーかというと男性は外で働いて稼ぎ、妻や子どもを養い、家庭を守る。女性は家庭内で育児や家事全般を担い、家庭を守る。この点が描かれている。しかし、本当にそうであろうか。確かに描かれてはいるが、それは現在変わりつつあるものと考える。事実、少し前の世代まではそのようなジェンダーがあった。現在は、その残り香があるように思える。やはり、女性の社会進出が進んできたといっても、それは近年のことであり、部長級・重要役員級はまだ男性が大半を占めているからである。それに伴いCMも作成しているので、これから時代がすすむにつれて無くなっていであろう。 本当に変わらないものは、女性は腋毛を剃り、化粧をする。男性はオフィスにおいて、スラックスを着用して勤務する。このようなことであろう。社会と同様にジェンダーは絶えず変化する。高度成長期には給与労働者の増加、経済力の高まりと共に性別役割分業が一般市民の生活で発達したが、現代日本では少子化や高齢化で労働力不足の広がりが懸念され、女性の労働力化が進んでいる。専業主婦よりも、キャリアウーマンのような暮らしが増えてきたと共に、経済的理由などからシングルライフを選ぶ独身者が増してきている。 現代においてジェンダーはだんだん無くなりつつある。まだ、男の人・女の人の違いがあるという固定概念が強いように超えなければならない壁は多いが、一人ひとりの意識のもちようによって無くしていかなければならない問題である。
2007年08月12日
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明日できたらスクーリング分2教科(4単位分)更新予定で!!今日ゎ飲み会でつかれましたぁ~まだ続いてるケド~( ´艸`)大学仲間から更新しろっていわれたのでちょっとだけ先にド━━ヽ(゚∀゚)ノ ━━ン!っと更新しときますたそれじゃ~今日ゎおーるで~1・2・3・・・o(`・∀・)ノダー
2007年08月11日
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~小学校において教育相談を行う場合、どのような点に注意しなければならないか。不登校を取り上げて説明せよ。~教育相談とは、児童生徒の学校生活における学習相談、生活相談、進路・就職相談などを包括しての呼び名である。実際には、学業不振、非行、いじめや不登校などから、受験まで、子どもや親の悩みや相談に応じることで、担任面談や三者面談などの機会を利用して行われる。教育的カウンセリングの訳語といわれることもあるが、カウンセリングというと、正確には教師は聞き役で、自分からああしたら、こうしたらといった提案はしないものであるが、学校現場での教育相談は、ケースによっては積極的に提案をせざるを得ないことも多く、「教育相談」という表現の方がより適切だろう。教育相談の種類は、様々であるが、ここでは『不登校』というキーワードを取り上げてみよう。不登校とは、広義には在籍の有無にかかわらず学校に登校しない状態のことである。日本の一般的な用法では、経済的理由や、病期による長期入院等を除いて、在籍していながら学校にある程度の期間登校していない状態のことである。別称で「登校拒否」とも言われている。公式な定義では、「不登校児童生徒」とは、「何らかの心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にあるため、年間30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を除いたもの」としている。一般的に不登校が大きな問題とされるのは、小学校と中学校である。これは義務教育制度が、学齢日本人の全員出席を目指している制度であり、小中学校がその時期の就学先学校に当たるからである。このため、一般的に学校側は不登校児童生徒に対して、再登校するように働きかける例が多い。また、義務教育の対象ではないものの、高校生にも不登校問題は存在し、学校にもよるが積極的なサポート態勢を取る例が多い。高校の場合は特定校に不登校生徒が集中しやすいためである。これによる2005年度の公式統計では、全国で約13万人、1、2%程度とされるが、これも定義の揺れに伴い少ないとも、多いともさまざまな意見がある。不登校はかつていじめの増加によるものだ、という考えがあったが、全ての不登校がいじめ被害に起因するものではないので、一面的であり、全ての事実を的確に述べているとは言いがたい。また同様に、「不登校は病気である」という考えもあるが、現在の不登校の定義は身体的・精神的病気によるものを除外して考えることが大勢であり、治療の対象ではないとされる。しかし、病識のない精神疾患の可能性を考えれば、精神医学的アプローチを初めから否定するのは適切ではないとする見方もある。 不登校の原因は人それぞれである。いじめ・教員との相性問題・教師の問題行為・学業上の不安・コンプレックス・社会の学校・進学・就職に対する状況・価値観の変化・不登校の一般化による相乗効果などがあり多種多様である。そこで、1995年からスクールカウンセラー導入された。スクールカウンセラーは、在学者の相談にのり、その心理的な解決を図ることを目的としておかれる。学校カウンセラーともいう。文部科学省の指導では、臨床心理士の資格を有する者が務めるものとされている。また、1996年、全国通信制サポート校協議会として日本オルタナティブスクール協会(通称JASA)が設立。サポート校とよばれ、通信制高校と提携することにより単位取得を目指している。サポート校では、不登校経験者を多く受け入れており、不登校経験者の居場所として広く認知されている。また、日本の学校システムでは、特に初等・中等教育において年齢主義が強固であるため、一度つまずくと一般的にはなかなか元に復帰しにくく、このような状況からも一度不登校を経験してしまうと、例え何かのきっかけで登校できたとしても、学力不振により再度不登校になってしまうケースも多くある。サポート校では、そのような生徒に対し独自のカリキュラムにより、個々の生徒のニーズに合わせた教育をおこなっている。 そして、政策とは別に各地では「親の会」と呼ばれる不登校の子どもを持つ親のネットワークが構築されている。活動としては、学校という「居場所」を拒絶している生徒に対して、学校以外で気軽に通える居場所の必要性・現実的に学校が不登校者のために割くことができる人的、時間的な資源の問題・学校で問題がおきているのに学校だけで対応することへの問題などを考える会である。 書籍としても不登校をテーマにしたものが数多く存在し、いまや一大ジャンルとなっている。対象者の種類には「保護者向けに書かれた本」、「教員向けに書かれた本」、「当事者向けに書かれた本」がある。また内容の傾向としては、「復学を勧め、具体的な復学支援の方法を紹介している本」、「学校に行かないという選択肢を積極的に勧める本」、「不登校経験者に向いている高校やフリースクールなどの教育機関を紹介する本」、「純粋な研究書」などがある。 このような社会環境が取り巻く中で『不登校』への対応としては、一人ひとりの生徒ともっと向き合い、学校全体・学校のもつネットワーク全体でサポートしていくことが大切である。このことは、精神的に不安定な児童に接していくわけですからその際に特に気をつけることがある。例えば、学校に行ける者でも、登校の際に心身症的症状としての腹痛やめまいなどが現れたり、登校しても保健室や各学校が用意した特別教室までで、自分の学級までは行けないなどの状態もある俗に「保健室登校」などと呼ばれる。そのような学校に対する不適応の現象も総称して、不登校という事もある。このような場合に保健室にいくことについて指摘したりしてはいけない。なぜならば、その特別教室にいるスクールカウンセラーや保健室にいる校医は児童にとって先生とは別の存在であるからである。成績をつける先生と違い、生徒を評価していくことがないためである。そのため、児童は平等に皆をみてくれている良い話し相手であり、良い相談相手となるのである。成績に関係がない分先生に話せないことも話せるのである。そして、保健室・特別教室は「癒しの場」として、学校内の「自分の居場所」の一つとなっていくのである。そして、スクールカウンセラーとも協力しなければならない。本来、カウンセラーとは相談者の秘密を守るものである。しかし、児童の保護者も先生も知らないであろうことで重要な問題も話すことがあります。それだけスクールカウンセラーとは信頼されているものなのです。しかし、問題を解決するにはカウンセラーだけの力では無理があります。保護者・担任の先生・カウンセラー・地域の協力などが不可欠です。 私達は、生徒の秘密を守らなければいけない。しかし情報を一部で共有することも大切である。情報流出と情報共有とは紙一重であるのでこの点は慎重にならなければならない。問題の解決はすぐでなくてもいい。一番怖いのは、途中放棄である。放棄してしまえば児童が見捨てられたと感じるからである。児童・生徒がまた学校に気持ちよく登校していけるようにしていかなければならない。
2007年08月11日
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~特別活動の役割を整理し、学校行事をひとつ例にしながら指導する際に注意する点を具体的に説明せよ。~ 明治時代後期から、各学校では、修学旅行や運動会などの学校行事が独自に企画され、その教育的な意義が認められていた。また、運動部などの部活動の設置とともに学校内の自治会的な活動も盛んになっていった。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦降伏後には、学習指導要領が試案という形で発表された。当時は、自由研究という教科が、通常の教科で学習したことを有機的に発展させて学ぶ時間として想定され、この教科「自由研究」が現代の特別活動の原型になったといわれている。しかし、教科「自由研究」については、理解が進まず、また現場における適切な実施も困難であったため、直後の学習指導要領の改正時に廃止され、小学校では「教科以外の活動」に、高等学校では特別教育活動に再編された。この後、はじめて「文部省告示」とされて準法令的な性質となった1958年(昭和33年)告示の学習指導要領では、小学校・中学校・高等学校を通じて「特別教育活動」に名称を統一した。(ただし、特別教育活動には、学校行事が含まれていなかった。)その後、1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)に告示された学習指導要領では、それまで包括されなかった学校行事を統合し、名称を「特別活動」に変更した。そして現在は、文部科学省の指導要領、特別学習の目標を小学校・中学校・高等学校別に分けられている。小学校では、「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図るとともに、集団の一員としての自覚を深め、協力してよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる。」とある。内容は大きく分けて学級活動・児童会活動・クラブ活動・学校行事の4つがある。特に学校行事においては、学校行事においては、「全校又は学年を単位として、学校生活に秩序と変化を与え、集団への所属感を深め、学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うと。」とある。中学校では、「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、集団や社会の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てるとともに、人間としての生き方についての自覚を深め、自己を生かす能力を養う。」とある。内容は学級活動・生徒会活動・学校行事と大きく3つに分かれる。学校行事においては、「全校又は学年を単位として、学校生活に秩序と変化を与え、集団への所属感を深め、学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。」とある。高等学校の特別活動の目標も「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、集団や社会の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てるとともに、人間としての在り方生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う。」と中学校と同じとなっている。しかし、内容は中学校と違いホームルーム活動・生徒会活動・学校行事の3つに分けられている。また、盲学校,聾学校及び肢体不自由者又は病弱者を教育する養護学校については、特別活動の目標,内容及び指導計画の作成と内容の取扱いについては,高等学校学習指導要領第4章に示すものに準ずるほか,次に示す3点によるものとする。1 指導計画の作成に当たっては、生徒の少人数からくる種々の制約を解消し、積極的な集団活動が行われるよう配慮する必要があること。2 生徒の経験を広めて積極的な態度を養い、社会性や豊かな人間性をはぐくむために集団活動を通して高等学校の生徒及び地域の人々などと活動を共にする機会を積極的に設けるようにする必要があること。その際、生徒の障害の状態や特性等を考慮して、活動の種類や時期、実施方法等を適切に定めること。3 知的障害者を教育する養護学校において、内容の指導に当たっては、個々の生徒の知的発達の遅滞の状態や発達段階に応じて、適切に指導の重点を定め、具体的に指導する必要があること。 ここでは、主に小学校の特別活動の学校行事について述べていく。学校行事の活動内容について、分類すると次の5つに分かれる。1儀式的行事学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛で清新な気分を味わい、新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。2学芸的行事平素の学習活動の成果を総合的に生かし、その向上の意欲を一層高めるような活動を行うこと。3健康安全・体育的行事心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め、安全な行動や規律ある集団行動の体得、運動に親しむ態度の育成、責任感や連帯感の涵養、体力の向上などに資するような活動を行うこと。4遠足・集団宿泊的行事平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、集団生活の在り方や公衆道徳などについての望ましい体験を積むことができるような活動を行うこと。5勤労生産・奉仕的行事勤労の尊さや生産の喜びを体得するとともに、ボランティア活動など社会奉仕の精神を涵養する体験が得られるような活動を行うこと。このようにそれぞれの学校行事には目的がある。ここで一つ例に挙げてよう。小学校の特別活動のひとつに運動会が挙げられる。3の健康安全・体育的行事に分類される学校行事である。それぞれの小学校で行われる時期は違うものの、主に夏から秋に毎年行われるものだ。行事内容には、体操から始まり、個人競技のかけっこ・チーム競技のむかで競争・団体競技の綱引きなどが考えられる。体を動かすものが大半となっている。しかし、その運動会を開催するまでには様々な過程がある。運動会に必要な道具の安全確認・調達などは事務職員が消耗品費、備品購入費等で整えていきます。教員は主に児童達のサポートだ。そして、主役でもある児童達はというと、準備である。単に準備といっても学級活動やホームルームなどで学年競技の決定や選手分担もあるだろうし、自分達で考えた「道具」を作らせたりしてもいい。応援団にポンポンを持たせ、手の動きが派手に見せることや、新聞紙で作る空気鉄砲を持たせて、順番にパンパン鳴らす。大きな音が出ることもできる。紙笛などもある。笛は紙を折って少し穴を開ける。紙笛を最後にヒューヒューと吹く。このような簡単な道具からでも面白いものをつくることができる。ただ、あまりに指導や補助をしすぎるとそれに頼ってしまい、個性がなくなるということはしてはいけない。あくまでも自分達で考えさせ、そこを行動に移すということを学ばせてあげることが大切だ。このようなことから特別活動には、文部科学省の指導要領定められたこと以外にもたくさんの効果があります。それは、各教科のように自分で知識を高めていくものとは全く別物でただ単に覚えればいい。理解することができればいいというものではない。私達に求められることは「特別活動の中でも一人ひとりの児童と向き合い、それぞれの個性を伸ばし、集団の中での向上を図り、その中でも自己実現ができるようにしていくための指導や補助的役割」である。
2007年08月11日
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携帯の電池が一日持ちません。 (*つ´д`)つトンです。 非常に辛いです。 そんなこんなで100均へ GO!GO!o(`・ω・)ノゴー PCから充電できるコンセント 乾電池から充電する機械 充電池2本 計315円 やっす〓 百均好き((o(≧∀≦)o))
2007年08月10日
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夏のスクーリングが始まりました〓〓〓 夏季特休を全部使っての通学です。 3日いって日曜挟んでまた3日・・・ 5時半起き・・・ ァ━━o(´д`#)o━━ 憂鬱やけど転職したいと思う気持ちはあるので 気合いo(`・ω・)ノダー
2007年08月09日
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名探偵コナン 面白い・・(ノ∀`*)ペチ昼間の再放送な-の-に-見入ってしまったトンなのでした。コマーシャル終わるので(゙д゙)ノシ
2007年08月04日
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(´・ω・`) (´・ω・`)ウニュー (´・ω・`)モキュー (´・ω・`)ニマァー ・・・・ ・ ・・ か ・・お・ ・・か・・ ・・・へは・・・・・・・・かえ下さい。 !! 彡ササッ 電車を過ごすところでした。 ヽ(・ω・。)ノ=ヾ(`・∀・)ノ=ヽ(。・ω・)/ハイ、トンでした。(σ・ω・)σ そろそろリポートやんなきゃヾ(-`ω´-o)ゝ
2007年07月30日
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ドゥドゥ・ドゥドゥドゥ ドゥドゥ・ドゥドゥドゥ チャララーン ラーンラーン~~♪ (ぇっと・・・シュワちゃんの洋画テーマ曲の・・ ・・・ ターミネーターのテーマ♪) +.゜(●´ω`●)゜.+ トンです! さてさて科目最終試験でっす AM・2時 行く用意開始 また━りと準備すすめ AM・3時 試験会場わからな・・・ (ノ∀`*)ペチ 大学通信7月号(^ω^ )=3 ナ━━━(゛Д゛)━━━イ ピ━━━(゛ン゛)━━━チ AM・4時 きっと眼がおかしぃと思い朝早起きで探すことにー AM・7時 起床 眠いぜ コンチクショー AM・7時半 (〃☆∀☆)キラ~ン 大学通信発見 ワ(・∀・)オ 4 5 6 ・・・ 8 ガ━━━(゛Д゛)━━━ン 7月号だけナスビ 仕方なく友達に聞くことに(〃´-ω-)а ・・・・ 今日わ朝から ありがトン♪ (人・ω・)。+゜
2007年07月29日
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台風が大方過ぎましたね新潟県でゎ台風+つよーぃ地震も来たらしく・・お気の毒(´・ω・`)連休に旅行とかいれてた人もお気の毒(´・ω・`)連休も残り1日楽しみましょう(´・ω・`)
2007年07月16日
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~ENGLISH 1~☆REPORT☆Choose more then three lessons from your text books and write practical English sentences for your daily use from them.Lesson 1 --Greetings--Hello. It is after a long absence. Thank you for three times of lectures. The lecture was popular happily.Thanks to you, I was able to write the one of the report smoothly, too.Because I was always weak in a subject called the English, I have what I do not understand still more. Possibly send question votes cannot pigeon it, but then thanking you in advance.Lesson 2 -- introduction--I introduce my blog today. It is February of the last year that I began blog. The reason is because it wanted to make the opportunity the making of topic after a university begins.The contents should have written an interesting thing and a thing surprised at about the life of the usual times. However, there was not the material which seemed to be usable for update since I thought.Therefore I decided to ride one's reports which I wrote. I think that I have you take even a little into account when everybody was troubled with reports. Really "thank you". It was saved. When "had you say, I was glad.A week has slightly little update with one or two times. Unlike mixi, I follow without minding a rotation because the place that I can write is comfortable. Because I write URL in the next line, please take it good.http://plz.rakuten.co.jp/tontokorin/It is from both of a PC and the mobile telephone and can look. However, I may be tired from the small screen of the mobile telephone because there is very much number of the letters. I recommend that I watch it in the PC if I look.Lesson 5 -- Thanks --Then I was taken care of in various ways. I was really happy.I really thank for having received the subject that I should dislike happily. I reflect on having done two times of being late by late rising and poor physical condition. I'm sorry.Then I want to leave. Thank you very much. In addition, you should be able to meet because it is the lecture at the university. Good-bye.☆END☆
2007年07月12日
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京都市バスの運転 雑・・ 急停車、オーバーラン ドア開いたまま発車・・ 危ないジャマイカ(´∀`) そんなこんなで今日も大学遅刻のトンなのでした (゜Д゜)ノシ
2007年07月08日
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7月ですね 暑い(っ▽`。) これからもっと暑くなるかと思えば 心から溶けていきそうです。 そんなこんなで1日付でマジック・日本語でぃぅ手品が趣味なりました。 ☆(*・∀・)b 本屋にいってみると結構色々あるもので・・ とりあえずパーティーマジックとカードマジックの本を買って今日はここまで 焦らず急がず(。´ー`)/~~
2007年07月01日
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雨ですね! ジーパンの裾が濡れて・・・ それが足のスネにCritical Hit!! ガク((゜д゜))ガクブル((゜Д゜)))ブル 春夏秋冬ジーパン&グラサンスタイルを崩さない人なので痛ひ ヽ(・ω・。)ノ=ヾ(`・∀・)ノ=ヽ(。・ω・)/ハイ、トンです。(σ・ω・)σ 今日の一言 『梅雨なんて大っ嫌い^^』 (。・ω・。)
2007年06月24日
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叡空の許で煩悩と束縛と迷いの世界から離れる道を求めていた法然上人でしたが、師である叡空と論議を重ねるうちに、師匠が返って弟子となったように叡空が法然上人に敬意を払うようになりました。保元元年(1156)、法然上人24才の時に叡空と共に、嵯峨の「清涼寺」奈良の「興福寺」京都の「醍醐寺」「仁和寺」と求道の道へと進んだ。その間に諸宗の学僧の帰依をうけた。法然上人は各宗の教義に精通していたので、各宗の僧は口々に上人の幅広い学識を称賛しましたが、上人自身は迷いの世界から解脱できる法門を得られないことに悩んでいました。こうした時に唐の善導大師の「観経疏」の中の一句「いついかなる時でも一心に南無阿弥陀仏と唱えることを続けていけば、その者は阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生できる」に強くひかれた上人は一切の修行を捨て、ただ一向に念仏を唱える法門に帰依し、ここに浄土宗の開宗となった。43才の時でした法然の説く念仏「浄土宗」とは、念仏によって我々心の乱れた者も正しい生活と往生が得られるというものである。至誠心・深心・週向発願心があり、「私は煩悩にまみれた愚かな救われない衆生である。そのような私を阿弥陀仏は念仏すれば必ず救ってくれる」と説いた。念仏の仕方は、常に臨終の一念の思いで、実際の臨終はで念仏を持続する。念仏する数は多すぎて一回の重みをなくしてしまうことや、学に少なすぎて祈りをあまりしてないようにならないようにしていく。このことは1198述作の「選択集」という法然上人が66才のときに書かれた教義が書物を読めば、さらに理解が深まります。
2007年06月20日
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法然上人は、美作の国(現・岡山県北部)でお生まれになりました。父はその地で押領使として治安維持に当たっていた漆時国、母は秦氏の出身でした。保延7(1141)年の春、父時国がかねてより不仲であった稲岡の荘園を管理していた「明石定明」に夜討ちを仕掛けられ重症を負います。時国は傷が悪化し、臨終が近いことを悟り、「父の仇を討つために敵に遺恨を晴らすことになれば、汝もまた遺恨を受けることになり、この世に遺恨が尽きることがない。それよりも汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱せよ。」と遺言し、3月19日に息を引きとりました。 やはり、この時代夜討ちなどにあう理由の一つに「先代の仇」というものがあります。先代の犯したことが何であるかまではわからずとも、とうあえず因縁があるという理由で殺しあったり、傷つけあったりする。しかしながら、お互いに悪いのは相手方という根拠の無い確信があり終わりなき闘争になっていくのである。 法然上人の父時国はそのようなことを理解しており、ここで自らの仇を討つと法然上人も仇として、法然本人又は親族が傷ついてしまうことになる。そんな悪循環はやめ、誰もが救われる道を求めて欲しいと願い遺言を残された。 私は、このような遺言を知り、非常に周りのことや将来のこと、様々なことを考えている、素晴らしい遺言だと感じた。遺恨を自分のところで止めるということは中々できないことですし、それに相手のことも救ってあげれるようにと出家して仏道に入るようにと行く道を示してあることに感銘を受けました。
2007年06月20日
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ゴーダマ・ブッダは仏教の開祖の出家前の名前である。紀元前463年に、ヒマラヤのふもとの、現在のネパールにあるカピラ城のルンビニーで釈迦族の王子として生まれた。(紀元前566年、紀元前624年など諸説あるが、一般的には紀元前463年とされている。)父親は浄飯王、母親は摩耶夫人。伝説によれば、16歳の時に耶輸陀羅と結婚。29歳のときに羅喉羅という息子をもうけるが、息子の顔を見ることもなく夜のうちに出家の道を選び宮殿を抜け出した。つまり出家は29歳である。35歳で悟りを開き、45年間の布教活動のあと、80歳で入滅している。 29歳で出家の時の伝説が「四門出遊」である。ある日の事、城の東門から出ると、老人がブッダの目に止まったのである。ブッダは老人を見たことがなかった。御者に尋ね、御者はそれが老人であることを説明した。また、ブッダはそれが自分にも起こることを突き止めた。次の日に南門から出ると病人に会い、自分もそうなる可能性があることを知った。さらに次の日、西門から出ると死を悲しむ人が現われた。その死は突然起きたので、ブッダから隠すことができなかった。シッダッタは御者に尋ね、死の意味を知り、それが自分にもいつかは起きることを突き止めた。そして、四日目に北門から出るとブッダの前を出家僧が横切ったのだ。その時僧が、世俗のすべての煩わしさと汚れを離れて、もの静香で清らかな姿を保っているのを見て、感動したという。そうした想いから出家を決意したという伝説である。 出家して7年間の修行のすえ悟りを得ることに失念して修行を止めることを決めた。ゴータマ・シッダッタの修行はトータルで、やり方が足りないから悟ることができないとは思えることはできなかった。数多くの教師のもと、グルの元で学び、これ以上教えることはないと言われた。苦行が良いと教えられれば、とことん身体を苦しめた。断食が良いと教えられれば骨と皮だけになるまで、断食を続けた。考えられる、思い付く限りの努力を試みた。それでも、何も起こらなかった。ここまでしても、たどり着くことができない。もう止めよう。河で身体を洗い菩提樹の根元にくつろいで座った。どのくらい長い間座っていたか覚えていない。空が明るくなって行き、満月が沈み行き空が更に明るくなって行った。明けの明星が空から消えて見えなくなって行くのと一緒に悟りを得ることが出来たとされる。 80歳で入滅とされているが、その際の遺言は「諸行は無常であり、それ故にこそ努力せよ」。つまりいつも精進しろということである。入滅の原因は食中毒だという説がある。 その後、BC263年マウルヤ朝の時代に仏教伝道師(現在のインド)各地に派遣したことで急速に広まった。しかし、それぞれ各地の文化・民族・風土の相違により部派分裂が起こっていった。それで大東仏教が広まった。ブッダに還れという運動が始まったのである。そして、その大東仏教の基本とは自利と利他・出家と在家主義・誰でも菩薩の可能性があるということである。 それぞれの時代に、価値観や思想、世論などは変わっていく。日本の仏教の基本的立場が多くの民衆の心の支えだった時代もありました。現在の日本は宗教思想が薄れており、特になにも信じていない人が増えています。そんな中での基本的立場は、仏様など架空の人物を信じるなどは無理と思うが、努力を続けることなどは大切なことなので一知識として知っておくべきものだと感じた。
2007年06月18日
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法の下の平等とは、国民1人1人が国家との法的権利・義務の関係において等しく扱われなければならないという憲法上の原則のことである。日本国憲法においては憲法第14条に規定があります。14条1項に「すべて国民は、法の下に平等であって人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と記載されています。近代では当たり前のように知られていることですし、学校の授業でも世界史・公民としてでてくることですがその考えはどのようにして始まったのでしょうか。そこから説明していきます。 イギリスの哲学者ジョン・ロックの市民政府論では、人類は最初「自然状態」であったと考えられています。人が各自で理性に従って自由と平等な生活を送っていたということです。しかし、意見の相違での争いが出てきたときに正しい方もないし、裁きを守らない者もでてきます。そうして一人ひとりの権利が守られなくなるので国家(政府)を作るのです。国家の役割として立法・行政・司法があります。法をつくり、守らせ、それで紛争を解決する考えです。自由と平等は相反するものです。法で縛ってしまえばある程度の平等はつくりやすいです。しかし、必ず自由は制限されてきますし、平等なので頑張っても他人と差がつきにくい、報われにくいということです。そうなれば人々の活気が無くなってきて国家として成り立たなくなります。逆に自由すぎると、活気はでてくるかもしれませんが、勝ち組・負け組がはっきりしてしまい、一度失敗した人はなかなかやり直せなくなります。このように平等と自由のバランスが大切です。 では、どのような平等にはどのようなものがあるのでしょうか。原則として、「機会の平等」(自由と結びついた形式的平等)を意味し、内容としては、法の下の平等・両性の本質的平等・等しく教育を受ける権利や普通選挙・平等選挙などがあります。ただし、資本主義下で貧富の拡大した状況下での弱者の個人の尊厳確保のための修正理念として、平等の理念には「結果の平等~条件の平等」社会権と結びついた実質的平等・福祉主義も含むとされます。具体的に述べますと、まず憲法第26条1項に「すべての国民は、法律の定めるところによりその能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。」という規定があります。しかし、現実では1992年の学習指導要領が実施されて以来、学習離れ、基礎学力の低下が小・中学校で進み、家庭環境による教育の格差が広がり、高い教育の中心が公立から私立へ移っているという現実があります。それはつまりどういうことか。公立よりも私立の方が高い教育を受けられるということになります。経済的地位の差による教育格差が広がっている。このことにしっかり焦点を当てていかなければならないということです。次に両性の本質的平等です。日本国憲法第24条に婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。このように記載されています。記載されていても離婚等のトラブルは、やはりテレビや著書などでも多くとりあげられているように後を絶たないことから非常に平等をつくりあげるのは難しいことです。普通選挙・平等選挙についても同じようなことがいえます。普通選挙とは、普通選挙とは、ある組織において選挙の際に年齢や性別以外で信条・財産等の制限を設けずに選挙権を行使できる選挙形式を指す。とりわけ、国政選挙において財産等の制限を設けずに選挙権を行使できる選挙形式を指す場合が多い。狭義の普通選挙では男性だけが選挙権を持つ男子普通選挙とされ、広義の普通選挙では性別制限なく選挙権を持つ完全普通選挙と呼ばれています。しかし20歳以上とありますので、高卒後すぐに社会にでている人は18・19歳なのできちんと税金を納めていても選挙には行けません。やはりこのような場合もあります。平等選挙に関しまして、憲法第44条で(特別職公務員である)国会議員の選挙権、被選挙権について、「平等選挙」を保障しており、これに基づいて、公職選挙法は満20歳以上の日本国民に選挙権を与え、衆議院は満25歳以上、参議院は満30歳以上の日本国民に被選挙権を与える。とあります。しかし、平等な選挙権(投票権)が完全に補償されているかというと疑問が発生します。先進諸国並の選挙権年齢の18歳への引き下げ、永住外国人への地方参政権付与などもさることながら、選挙区当たりの有権者数を比較した「一票の格差」の問題があるためである。「一票の格差」とは、選挙区を区分して選挙をする方式では、州や都道府県などの境界、そして地理的な条件による境界を無視することはできず、一票の格差が完全に無くなることはありえません。これらのため、合理的な範囲を超えて不必要な格差がある場合が問題となる。議員1人当たりの有権者数が選挙区によって違うため、有権者数が少ない選挙区ほど有権者一人一人の投じる1票が選挙結果を左右する可能性は大きくなり、逆に有権者が多い選挙区ほど1票の影響力は小さくなります。さらに、各選挙区の有権者数を揃えても、選挙区毎に投票率が異なるため、投票率の高い選挙区の一票の影響力は小さくなり、投票率の低い選挙区の一票の影響力は大きくなる。このため、ある選挙区の落選者が得た票数が、別の選挙区の当選者が得た票数より多くなることがあるということです。実際に衆議院では昭和51年4月14日の最高裁判決で、「投票価値の不平等が、国会において通常考慮しうる諸般の要素を斟酌してもなお、一般的に合理性を有するとはとうてい考えられない程度のまで達しているときで、かつ、人口の変動の状態を考慮して合理的期間内における是正が憲法上要求されていると考えられるのにそれが行われない場合には、違憲になる」と判示しました。参議院の方でも地域代表的な性格が大きいことから、かなり投票価値の不平等については許容されています ただし、昭和58年4月28日の最高裁判決が5.26対1という格差を合憲としたことには学説からの批判が強いところです。これらのように完全に平等であることは不可能です。 そこで法の下の平等です。「法の下」という言葉は、法を執行して適用する行政権・司法権が国民を差別してはならない、という法適用の平等のみを意味することです。他にも色々な解釈はありますが大きくは変わりません。しかし、法の内容自体に不平等があると、それを平等に適用しても意味はありません。そこで、「法の下に」とは、法適用の平等のみならず、法そのものの内容も平等の原則にしたがって定立されたものであるべきだと考えます。つまり法の下の平等とは、法の内容も含めて平等を定義しているため、時代の流れなどによる法改正などをしながら変化しつづけるものだと考えています。
2007年06月10日
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現在の日本の教育が抱える問題として「家庭」があります。単に「家庭」といいましたが教育における「家庭」の役割は非常に大きなものがあります。子供らが育っていく中で最も身近で信頼できる存在です。しかし、現在その「家庭」が役割を果たしていないのではないかと感じこの問題を選択しました。 新聞やニュースなどでも取り上げられているように給食費未納問題やいじめ、学力低下や少子化など様々な問題があります。少し前までは、これらの問題は学校現場が悪いものとしてみられてきました。対応不足やしっかりと監督していなかったなどといわれていました。もちろん今の学校に責任もあります。しかし、どの問題もすべて学校の責任という訳ではありません。 給食費未納問題があります。学校には税金で補われている公費と学校が徴収金として保護者からあつめる私費があります。主に公費では学校運営に必要な消耗品・備品を購入します。そして私費では、生徒・児童に直接還元されるものを購入します。聴取金には主に児童(生徒)費・積立金・給食費・PT A会費があります。その中でも給食費では人件費や電気代・ガス代などは公費で補い、食材等の材料費のみ私費として補います。大体月に3400~3500円程度で約20食分一食当たり170円程です。私は栄養バランスもきっちり考えて衛生も管理してくれてこの値段は安値だと思います。生活が苦しい人にも救済措置として生活保護などもあります。しかし、それでも未納が増えているのはなぜでしょうか。給食費滞納9万9000人、原因の6割が「親のモラル」だとよくいわれています。 学校給食費の滞納問題で、文部科学省が全国調査結果を公表し、2005年度の小中学校の滞納総額が22億円超にのぼることを明らかにしました。 児童・生徒数で見ると、100人に1人が滞納していた計算になります。滞納があった学校の6割は、「保護者の責任感や規範意識が原因」と回答しており、経済的に払えるのに払わない保護者の存在が改めて浮き彫りになった。文科省は同日、「滞納が目立つ市町村や学校があり、給食の運営に支障が生じる可能性がある」として、問題の解消に取り組むよう各自治体に通知した。それでも43・6%に当たる1万3907の小中学校で給食費の滞納があり、滞納総額は22億2963万円だった。滞納率(本来徴収されるべき給食費に占める滞納額の割合)は0・5%。児童・生徒数では9万8993人でした。滞納が「増えた」と感じている学校は49・0%で、「変わらない」(39・2%)、「減った」(11・8%)を上回った。滞納世帯については、「電話や文書による説明・督促」「家庭訪問」などが行われており、法的措置を実施したり、検討したりしたケースも281件ありました。また、滞納があった場合、学校が他の予算などから補てんしたり、給食の材料の質を落としたりして対応していることもわかりました。今回の調査結果について、文科省は「1人だけ払わなくても問題はないと軽く考えている保護者が多いのではないか」としている一方で、「経済的に困窮している保護者の中には、生活保護世帯などに給食費が補助される制度を知らずに活用していないケースが多い可能性がある」と指摘しています。そして、公的補助の制度の周知も図るよう、各学校に求めています。学校側は「払わないなら停止」警告も、実際に親の啓発に知恵絞っています。文部科学省の初の全国調査で、22億円を超える小中学校の給食費滞納が明らかになりました。各自治体や学校は滞納分を回収しようと様々な対策を取っているが、「滞納があれば子供への給食を停止する」と保護者に通知したケースもある。実際には給食をその子だけ食べさせないという措置はまだないようです。実際にやってしまうと学校が児童をいじめていますし、その児童がいじめられる原因にもなりかねないという背景があるからかもしれません。しかし、強硬措置に見えるが、保護者に現状を知ってもらうのが狙いで、滞納額の減少につながっているといわれています。 次にいじめの問題を取り上げます。 多くの人人は学校現場がどうなっているかは余り知りません。そして、ここ数年、学校教育に関わって発生している「いじめ」事件は、いっこうに解決の兆しをみません。もとより、この問題は、学校、家庭、社会などの抱える病理が複雑に絡み合って生起するものであって、いわば複合汚染とも言えます。とはいうものの、その防止方法がすべて学校教育に期待されており、学校側の責任を厳しく問う傾向が見られる。学校側に責任の存することは論をまたない。しかし、この問題はひとり学校側のみによって防止できるものでもないことです。学校側にのみその解決を迫ることによって、かえって生徒の管理強化を招き、問題をより複雑化あるいは潜伏化させかねないと思います。学校・家庭・社会などすべての人たちで「いじめ」がないかどうか見なければいけないのです。いじめと、けんかや暴行による生徒間事故とは、生徒が他の生徒に被害を及ぼす点においては共通する側面もあるが、その現象的性質を異にします。すなわち、生徒間事故は一般的に突発的・偶発的であるのに対し、いじめは、長期にわたり継続的に行われ、被害者であるいじめられっ子は特定しており、突発的・偶発的事故とは言えません。つまり、けんかの場合は突発的・偶発的事故になりますので止めることは難しいですが、いじめのほうは長い期間同じ人に対して行われているので比較的早い段階で気付くことが大切です。 そして、学力低下の問題は、ゆとり教育によって空いた時間は、勉強ではなく、テレビやテレビゲームで遊ぶことに費やされる傾向にあったりします。そして少子化問題も子供を産みにくい環境だからという意見もあります。産んでも今の社会では可哀想などをいう人もいます。自殺などの件数が多くなってきたり、少子化で子供の将来のことが心配であったり、そういった不安もありなかなか産めないきっかけを作っていくのだろうと感じます。 今まで数個あげてきた例は、「家庭」がすべて関係してきます。もちろん学校や社会の責任でなんとかしなければならない部分もあります。しかし、児童にとって一番身近にあって信頼できるもの。それは「家庭」ではないでしょうか。「家庭」が子供としっかりコミュニケーションをとり、子供がどのような誰とどのような遊びをしているなども把握できれば自然と子供から色々なことも話してくれるだろうと思います。そうして子供ときちんとした親子・家族関係もどんどん深めていき何でも話せるようにしていかなければならないと私はおもいます。最後になりましたが教育とは、社会をいきていくための家庭での教育の補助のようなものだと感じています。
2007年06月09日
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教育の概念と類似した現象を表す、「文化化」「社会化」「人格化」「学習」「発達」「教授」「陶治」の7つの用語と関連しながら述べていきます。 まず、「文化化」という概念はそれぞれの社会の成員によって獲得される知識や信念、芸術、道徳、慣例などの能力や慣習を含む一つの複合体で、アメリカの人類学者ハースコヴィッツによって唱えられました。それらを自らの中に取り入れ、他の成員達と同じように行動できる文化の担い手になる術を身につけることができます。その過程で個人の認知過程の発達に影響していくことにより自己同一性を確立させていきます。文化とは日常的で無意識のうちに学んでいくものだと思います。教育は、それ以外の文化、つまり日常的には学べない文化を意識的に教えたり、学ばせたりし、若い力が様々な能力を引き出していく努力をしていかなければならない。 2つ目は「社会化」です。概念はフランスの社会学者エミール・デュルケムが若い力を組織的に社会化することであると定義しました。社会を通じて自立した大人として単独行動の基本資質や、社会に共通する規範などを学ばせていくことである。教育ではその社会化を基盤としながらも、社会化に対して妥当性があるかどうかを批判的に判断できる能力を育てなければならない。 3つ目は「人格化」です。個人が多種多様な文化や社会基準に対して自らが判断して取得したり、変更・統合などしたりしながら自己形成していくことです。人格とは自分で作っていくもののようにも思えますが、それは少し違います。実際は人格化を教育していくための方向性の援助をしてもらっているのです。時代によって社会から求められている行動や文化的な要求も変わってくるし、様々な場合においても対応していかなければなりません。なので、教育は方向性の援助を果たして自己形成と自己実現を可能にしていく能力いかなければならないと思います。 4つ目に「学習」です。教育=学習と思われる方が多いように、この概念は教育学の中心概念のひとつです。概念は、経験を通じて行動や技能、能力、態度、性格、興味、知識など比較的永続的な変化が生じる過程と一般的には過程されています。つまり、一定の環境から刺激や影響を受けて様々なことを獲得していくことを意味します。ここで、注意しておかなければならないのは、学ぶのは学習者自信であることです。第三者がいくら学習を支援しても学習への「心構え」、つまりヤル気がなければ意味がなくなるのですから。それに、年少である場合善悪の区別がつかず両方学ぶ。そこで教育の役目として、学習者が学習意欲を喚起し、的確な援助をすることをしていななければなりません。例えば、教えていく合間にニュースなどの話題を少しでもいいから話していくことなども重要だと考えます。そうすることにより、学習者が世間のことにも興味を持ち、国際化に対応していくために必要不可欠な新聞などを見る習慣がつくかも知れません。それに違う話題で一息つかすことにより、「学習者の心構え」を再度保ちなおす役割もあると思います。自身が小学生・中学生・高校生と学んでいるときにも、ねむたくならない授業の多くが一息ついてくれる話題を提供してくれていました。このように工夫を凝らすことも大切だと思います。5つ目に「発達」です。「発達」には様々な意味でとられることが多い。体が成熟していく、精神的に成長していくような意味もあります。そのように人間的に発達していくことにより新しい自分や世界を開拓・発見させていくことである。「教育」としてそれをできる環境をつくってあげる。簡単そうにきこえますが、あくまでも支援ですので、決して過保護や過干渉であってはなりません。かといって放任や不干渉であってもいけません。個々と向き合いそれぞれにあった接し方を見つけなければならないのですごく難しいことなのです。人の数だけ接し方があるのですから。 6つ目に「教授」です。これも「学習」同様教育学の中心の一つです。形式、制度的な教育を援助する意図的で責任を自覚した教育作用です。主に学校のイメージです。現在、学校でも知識と意識、思考と行動を結びつけるのかは未解決であり、問題でもある。私としては、この「教授」は必要不可欠なものだと思いますが、伝えなければならないことが多すぎて限られた時間の中では非常に困難であり、未だ十分になっていないと思います。現在、ニュースや新聞等で取り上げられている児童の行動も問題になっています。もし、児童(他人)の考えていることはわからないといってしまえばそれで終わりでしょう。しかし、しっかりと「教授」によって知識・意識・思考・行動を結べなくても考えてあげることができるので、すぐには実を結ばないかもしれませんが少しずつならわかってくると思うのでしっかりと個々と向き合っていくことをする必要があると考えます。 最後7つ目は「陶治」です。あまり教育とは関係のなさそうな言葉ですが、概念の意味としては、内的な精神的本質を発展させ精神統一をする、形成原理により自由な自己活動により成立する、個性の本質によって各個人に特有の形式をもった統一であることの3つが挙げられています。現在の教育学では、教育をより広く理解し、陶治の上位概念としての見方が有力のようです。まとめとして、私の教育間を紹介していきます。現代は、少子化や学力低下問題の他にも、児童のいじめの問題など様々な問題がニュースや新聞でも取り上げられており、教育に対するニーズは高いと思います。国際化が進んでいるので、それに対応できる「文化化」・慣習や法律などを学び、社会に求められているものを取得する「社会化」・自分の考えをはっきりともち、行動し、責任をとれるようにする「人格化」などです。「教育」とは、そうした被教育者の社会的・文化的能力、自分を成長させていく努力をすることを身につけさせるために様々な援助・補助をしなければならない。それらの量は膨大で、それに限られた時間で伝えていく。それを可能にしていくように工夫を凝らす努力を怠ることなく続けていくことによって、自身の「教育」するという能力を高めていく。そういう姿勢を保っていくことも必要だと思っています。ただ、熱くなりすぎて過保護になってしまうことは注意しておかなければならないと思う。過保護は、被教育者に甘えを覚えさせてしまい、自分で考えるということをしなくなってしまうからである。そうかといって放っておくのもいけない。バランスが大切である。被教育者としっかり向き合い、個々の個性や能力・性格・適正などに配慮して援助・援助だということを意識しながら「教育」していくことが最も大切だと考えています。
2007年06月05日
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バーゲンいてきますた(・∀・)/ 月火水木金 仕事!! ┃ ┣━帰宅━勉強 ┣━飲み会━帰宅 ┣━友達と遊ぶ━帰宅 ┗━超勤━帰宅 土日 ┃ ┣━リポート ┣━疲労回復 ┗━友人と遊ぶ まぁこんな感じで一週間が終わるので 一人で買い物はうきうきです。 靴にベルト ・ネクタイにシャツ・ アクセETC... 総額 約2万ちょい!!! これだけ買ってもそんなけ!?安い(゜∀゜) うはうはなトンなのでーしーたノシ
2007年06月02日
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ラムネを空けたら噴射しました。 そして目に・・ しみるぅぅぅ ラムネの中でも『わさびラムネ』の効き目は抜群でした ちなみにわさびラムネは富士かどっかの名物っす 涙が止まらないトンでしーたーノシ
2007年05月31日
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ィョ--(・∀・)ノ--ゥ 最近忙しすぎっす 引越しというかトモダチと2人暮らしの話やら大学のもろもろ締切やら新しい仕事覚えるのやら 色々です。 スケジュール帳購入しょぉと思って約1年 買いに行くんの面倒くささと 書くことを続ける不安と戦ってます。 明日こそわ・・・
2007年05月30日
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教育の概念と類似した現象を表す、「文化化」「社会化」「人格化」「学習」「発達」「教授」「陶治」の7つの用語と関連しながら述べていきます。 まず、「文化化」という概念はそれぞれの社会の成員によって獲得される知識や信念、芸術、道徳、慣例などの能力や慣習を含む一つの複合体で、アメリカの人類学者ハースコヴィッツによって唱えられました。それらを自らの中に取り入れ、他の成員達と同じように行動できる文化の担い手になる術を身につけることができます。その過程で個人の認知過程の発達に影響していくことにより自己同一性を確立させていきます。文化とは日常的で無意識のうちに学んでいくものだと思います。教育は、それ以外の文化、つまり日常的には学べない文化を意識的に教えたり、学ばせたりし、若い力が様々な能力を引き出していく努力をしていかなければならない。 2つ目は「社会化」です。概念はフランスの社会学者エミール・デュルケムが若い力を組織的に社会化することであると定義しました。社会を通じて自立した大人として単独行動の基本資質や、社会に共通する規範などを学ばせていくことである。教育ではその社会化を基盤としながらも、社会化に対して妥当性があるかどうかを批判的に判断できる能力を育てなければならない。 3つ目は「人格化」です。個人が多種多様な文化や社会基準に対して自らが判断して取得したり、変更・統合などしたりしながら自己形成していくことです。人格とは自分で作っていくもののようにも思えますが、それは少し違います。実際は人格化を教育していくための方向性の援助をしてもらっているのです。時代によって社会から求められている行動や文化的な要求も変わってくるし、様々な場合においても対応していかなければなりません。なので、教育は方向性の援助を果たして自己形成と自己実現を可能にしていく能力いかなければならないと思います。 4つ目に「学習」です。教育=学習と思われる方が多いように、この概念は教育学の中心概念のひとつです。概念は、経験を通じて行動や技能、能力、態度、性格、興味、知識など比較的永続的な変化が生じる過程と一般的には過程されています。つまり、一定の環境から刺激や影響を受けて様々なことを獲得していくことを意味します。ここで、注意しておかなければならないのは、学ぶのは学習者自信であることです。第三者がいくら学習を支援しても学習への「心構え」、つまりヤル気がなければ意味がなくなるのですから。それに、年少である場合善悪の区別がつかず両方学ぶ。そこで教育の役目として、学習者が学習意欲を喚起し、的確な援助をすることをしていななければなりません。例えば、教えていく合間にニュースなどの話題を少しでもいいから話していくことなども重要だと考えます。そうすることにより、学習者が世間のことにも興味を持ち、国際化に対応していくために必要不可欠な新聞などを見る習慣がつくかも知れません。それに違う話題で一息つかすことにより、「学習者の心構え」を再度保ちなおす役割もあると思います。自身が小学生・中学生・高校生と学んでいるときにも、ねむたくならない授業の多くが一息ついてくれる話題を提供してくれていました。このように工夫を凝らすことも大切だと思います。5つ目に「発達」です。「発達」には様々な意味でとられることが多い。体が成熟していく、精神的に成長していくような意味もあります。そのように人間的に発達していくことにより新しい自分や世界を開拓・発見させていくことである。「教育」としてそれをできる環境をつくってあげる。簡単そうにきこえますが、あくまでも支援ですので、決して過保護や過干渉であってはなりません。かといって放任や不干渉であってもいけません。個々と向き合いそれぞれにあった接し方を見つけなければならないのですごく難しいことなのです。人の数だけ接し方があるのですから。 6つ目に「教授」です。これも「学習」同様教育学の中心の一つです。形式、制度的な教育を援助する意図的で責任を自覚した教育作用です。主に学校のイメージです。現在、学校でも知識と意識、思考と行動を結びつけるのかは未解決であり、問題でもある。私としては、この「教授」は必要不可欠なものだと思いますが、伝えなければならないことが多すぎて限られた時間の中では非常に困難であり、未だ十分になっていないと思います。現在、ニュースや新聞等で取り上げられている児童の行動も問題になっています。もし、児童(他人)の考えていることはわからないといってしまえばそれで終わりでしょう。しかし、しっかりと「教授」によって知識・意識・思考・行動を結べなくても考えてあげることができるので、すぐには実を結ばないかもしれませんが少しずつならわかってくると思うのでしっかりと個々と向き合っていくことをする必要があると考えます。 最後7つ目は「陶治」です。あまり教育とは関係のなさそうな言葉ですが、概念の意味としては、内的な精神的本質を発展させ精神統一をする、形成原理により自由な自己活動により成立する、個性の本質によって各個人に特有の形式をもった統一であることの3つが挙げられています。現在の教育学では、教育をより広く理解し、陶治の上位概念としての見方が有力のようです。まとめとして、私の教育間を紹介していきます。現代は、少子化や学力低下問題の他にも、児童のいじめの問題など様々な問題がニュースや新聞でも取り上げられており、教育に対するニーズは高いと思います。国際化が進んでいるので、それに対応できる「文化化」・慣習や法律などを学び、社会に求められているものを取得する「社会化」・自分の考えをはっきりともち、行動し、責任をとれるようにする「人格化」などです。「教育」とは、そうした被教育者の社会的・文化的能力、自分を成長させていく努力をすることを身につけさせるために様々な援助・補助をしなければならない。それらの量は膨大で、それに限られた時間で伝えていく。それを可能にしていくように工夫を凝らす努力を怠ることなく続けていくことによって、自身の「教育」するという能力を高めていく。そういう姿勢を保っていくことも必要だと思っています。ただ、熱くなりすぎて過保護になってしまうことは注意しておかなければならないと思う。過保護は、被教育者に甘えを覚えさせてしまい、自分で考えるということをしなくなってしまうからである。そうかといって放っておくのもいけない。バランスが大切である。被教育者としっかり向き合い、個々の個性や能力・性格・適正などに配慮して援助・援助だということを意識しながら「教育」していくことが最も大切だと考えています。
2007年05月25日
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仕事で異動して急がしス・・・w今帰ってきてリポート^^;今日出来上がれば明日UPする予定です (((; ;;:: ;:::;; ⊂( ^ω^ ) ( ^ω^ )つ ;:;;;,,))...)))))) ::::) ((;;;:;;;:,,,." ヽ ⊂ ) ( つ / ;:;;))):...,),)):;:::::)))) ("((;:;;; (⌒) | (⌒) どどどどど・・・・・ 三 `J. し' 三 どどどどど・・・・・ 時間が走ってます
2007年05月24日
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2007年05月20日
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ブログの整理しました。大学もスクーリングが予定おおくなり、仕事も人事異動で初めてんとこに飛んで・飛んで・飛んで・飛んで~♪(頭が)回って・回って・回って・まわぁるぅ~ぅ♪ってことでブログもリポ中心にしていきますね^^;
2007年05月19日
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自己実現とはどのようなものを指すのであろうか。アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローの自己実現理論というのがある。「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。人間の基本的欲求を低次から生理的の要求・安全の要求(人間が生きる上での衣食住等の根源的な欲求)・親和(所属愛)の欲求(他人と関わりたい、他者と同じようにしたいなどの集団帰属の欲求)・自我(自尊)の欲求(自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める認知欲求)・自己実現の欲求(自分の能力・可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を図りたいと思う欲求)です。マズローは、自己実現した人の特徴として、客観的で正確な判断、自己受容と他者受容、自然な態度、自発性、自律、心理的自由などを挙げている。又、優秀な人ほどこの段階を駆け上がるのは速いが、自己実現を満たし、自己超越の域に達する人は極めて少ない。数多くの人が階段を踏み外し、これまでその人にとって当たり前だと思っていた事が当たり前でなくなるような状況に陥ってしまうとも述べている。 こうした自己実現をするためには行動をおこさなければいけません。そして情動の3つの側面を総合して動機づけを喚起し、行動をおこします。まず、情動とは、身体の反応や行動を総合したことです。そして3つの側面とは、情動経験・情動行動・対象に対する評価や位置づけのことです。動機づけの喚起の過程で何らかの障害や妨害によってさえぎられ同期の充足が妨げられることがあります。そのときにフラストレーションを感じることになります。 ここで動機づけと食行動について関係を述べていきます。ただ単に「食べる」といっても生理的要求からくるものもあれば、「美味しそう」だから食べたり、知識や人間関係の影響で食べる場合もあります。たとえば生理的動機だけなら空腹・満腹だけを判断するだけでよい。でも、現代の社会では「やせていること」・「少食」は女らしい行動として評価されることが多い。特に大変なのが青年期です。青年期は身体形成と性的熟成が生じる時期である。自分が成熟することを拒否するためや、「醜いおとな」になることを拒否して食事制限することもある。この場合は精神的ストレスから食べたいという欲求が急に生じて過食をしてしまうケースが多い。つまり拒食と過食とを繰り返して摂取障害を引き起こすこととなる。どのような症状がでるかというと拒食症では、やせることへの追求が定型として見られます。軽度のうちはその意志がそれほど強固ではないですが。また成熟嫌悪、女性性忌避、禁欲主義などに意味を見いだし、強く肯定します。軽症では感情の揺れ動きも少なく、治療者へも協力的です。重症になると著しい過食と嘔吐が習慣化したり、アルコール、安定剤、睡眠剤に強く依存することもあります。手首を傷つける、自殺を企てるなど自己破壊的行動も見られ、行動が衝動的になります。また、自分のぜい肉に家族のおぞましさがくっついている、お腹の中に真っ黒い固まりがあって、めちゃめちゃに突き刺してしまいたいなど、摂取した食事が悪いイメージとなって、そのイメージを生のまま表現するような訴えが多くなります。治療を始めることが困難になってきます。体重が22~23キロまで減少し、死亡する恐れも生じることがあります。早期発見により早期の多面的な治療が必要です。過食症では、自分の摂食行動が異常であるという自覚、食べることが止まらなくなるという恐れを持っています。抑うつ気分があり、無茶食いに伴う自己非難も見られます。このようなことが食行動の異常行動である。 食の異常行動につながる原因としてストレスがあります。この言葉は、物理学では「物体にある力が加わったときの物体内の力の不均衡、すなわち歪みである」と定義されています。医学の世界で初めてこの言葉を使ったのがセリエです。セリエによりますと生体が外部から刺激を受けて緊張やひずみの状態を起こすと、これらの刺激に適応しようとして生体の内部に非特異的な反応が起こります。非特異的反応というのは特異的反応の反意語です。特異的反応というのは「暑いときには汗をかく」というようなある刺激に対して決まった反応ですが、非特異的反応というのは刺激がどのような種類であるのかに関係なく起こる反応のことです。この非特異的な反応をストレスと呼びました。 ストレスの反応の仕方は主に警告反応・抵抗期・疲労期の3つに分かれています。警告反応は、刺激初期の反応で一時的に抵抗が弱まり、身体の調和が乱れます。抵抗期は、引き続き刺激を与えるとストレスに対する強い反応がみられ、まだ自分で被害緩和できる。疲労期は、さらに刺激が続くと抵抗力も次第に弱まって、刺激に対抗できなくなり疲労状態に陥る。 ストレスに対する対処行動(コーピング)とは行動は時にはストレッサーに対する一つの反応としてとらえられることもありますが、ストレス反応の解消やストレッサーの除去などを目的とした行動は、対処のための活動としてとらえる方が有益です。精神分析的自我心理学の立場をとらず、人間の持つ積極的対処、問題解決的対処を中心に考えようとする、心理的ストレス論者の立場をとったのはラザルスです。コーピングを「ストレスフルな交渉によって引き起こされる内的・外的要求を処理したり、減じたり、あるいはそれに耐えたりするような認知的、行動的な努力である」と定義しました。そして、コーピングをさらに問題中心型と情動中心型に分け、前者を人間・環境にまつわる諸関係での実際の条件において変化を起こさせようとするもの、後者を状況についての認知や解釈を変化させようとするものとしていました。問題中心型コーピング(人間と環境の関係がストレスの源である場合、そうした関係を管理したり変化させたりすること)と情動中心型コーピング(ストレスの多い感情を調整すること)の2つの主要な機能を持ちます。対処の概念はその基礎にあったり、近接研究領域にあったり、その統合枠であったりする諸々の概念や理論と多面的に絡み合っているため、対処研究の全貌を捉えるのは決して容易なことではない。また、近頃コーピングへの関心が非常に高まっているにも関わらず、コーピングがストレスと安寧の間でどのようにして媒介的な役割を演じているかについては、ほとんど知られていないのが現状である。 やはり自己実現が満たされない状況がつづくとストレスも溜まる。そして食行動の異常となっていく可能性もあるので日頃から周囲と効果的にコミュニケーションをとり、自分の考えなどもしっかりさせることが悪循環にならないための、また悪循環から抜けるための一番の方法だと思います。
2007年05月14日
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人にはそれぞれに心というものがあり、ものごとを考えたり、感じたりする。心とはなんなのであろうか。概念でいえば心は心臓がある部分を指すが、考え・感じたと認識するのは脳である。なので、古くから心は物質である脳の働きだという考えはあった。心を脳の働きであるという還元論という考えです。この還元論を受け入るには2つのことを了承しておく必要がある。一つは脳の働きが心の働きを生み出すのですが、脳の働きすべてが心の働きと直接関係しているわけではないことです。熱いものを触ってしまったときに手をすぐにどけてしまう「反射」や睡眠などの活動は意識せずに進行します。熱いものを触って熱いと思って手を離すのではなく、離した後に熱いと思うでしょう。また睡眠しているときは睡眠をとっているという自覚はないでしょう。もう一つは、実在するのは、脳の神経活動だけ考えるわけではないことです。神経生理学的分析レベルでは、個々の神経細胞の活動以外は虚構とみなされています。しかし、日常生活などでの記憶や感情などの経験こそが意味をもちます。では、脳の構造はどうなっているのであろうか。人の脳には約200個の神経細胞が詰まっていると査定されており、それぞれが約5000の他の神経細胞と連結され神経結合の総計は10の15乗になるといいます。人の高度な意識は、この脳の規模・複雑さにあるとも考えられています。それらの神経細胞はインパルスと呼ばれる電気信号により刺激伝達により伝わっていきます。このようにして色々なことを聞く・見る・感じた情報を意識していくわけです。ところで、この設題にもある無意識とはどのようなことなのであろうか。心臓を動かしたり、呼吸をしたりすることも無意識ということなのであろうが、ここでは心の病と関係した無意識について述べていきます。皆さんは精神分析学の始祖フロイトという学者をご存知でしょうか。元々は生理学者であり、「人を生物機械と見なす」人間機械論の支持者であった。「人の背後には、人が意識できない物質的メカニズムが働いており、そちらのほうが人間心理の本質なのだ」と考えていた。このような「人=生物機械」という思想が出てきた背景には、主として二つの理由がある。それは進化論と生理学のさらなる発展だった動物の心は物質的に記述でき、本能や情動の虜であると考えられていた。しかし、進化論の下で「人は猿の進化したものに過ぎず、人もまた動物に過ぎない」ことになった。「人間もまた物質的存在で、理性や自由意志などというものは錯覚に過ぎず、実際は本能や情動に支配されているのだ」とする経験論の流れをくむ思想がより力を増すことになった。これを進化論といいます。神経や脳の構造が明らかになり、脳の損傷と心理現象との間に相関があることが発見され、より脳&神経と心の結びつきが明確になっていった。「脳&神経」=「物質的メカニズム」に支配された心理という思想はさらに強まった。だが、その物質と精神がどのようなメカニズムで相関しているのか、という核心の部分に関しては、何ら見当がつかなかった。これが生理学である。そして、その後、精神科に転勤して神経症の治療に携わるようになると、そこで神経症の患者たちの中に、「自らの意思で自己を制御できず、原因不明の感情や衝動に翻弄される実例」を幾つも見て、「意識できないメカニズムが心理を支配している」という思想を強化した。そうしてフロイトは、心の中には意識できない領域があるという結論に達し、それを『無意識』と名付けた学者です。フロイトの『無意識』は、過去の抑圧された(思い出せなくなった)記憶や本能、感情などで構成されている。この無意識の部分は基本的に動物である。「常に快につながる行動を求め、不快を避ける」=「快感原則」に従って動くようにできている。神経症患者らの一見「どうしてそんな行動をするのか」不思議に感じられる行動でも、本人の【無意識】において、それは「不快を避け快を求める」行動として刷り込まれていると考えた。また神経症患者の場合だけでなく、一般の健常者の理性的な行動も快不快原理に基づいていると考えた。例えば、直接その人の快に結びつかないように見える行動も、それは子供の頃にそうした他人のためになる行動を取ると、親や大人にほめられて快となった、という記憶に結びついていると考えた。 しかしフロイトは快感原則には例外もあると考えていた。それが反復脅迫と言われる現象で、過去の不快な体験を繰り返そうとしてしまう症例を見いだした。些細な出来事などが抑圧された記憶を復活させるきっかけとなってしまい、再び不安・葛藤を追体験させることです。 そのほかの『無意識』に二重人格がある。一つの身体に複数の人格が交代で現れ、その交代も意識されていないなどのことをいいます。よく自分が二重人格だと言う方がいますがそれは違います。思考や行動もしっかり自分のことだと意識されている限りそれは統一した人格だといえるからです。例をあげると清楚な感じの女性Aは頭痛で意識がなくなることがあるといい精神科を訪ねた。ある日診察中に頭痛をおこした後、突然リラックスした態度で話し始め、Aの意識喪失中にでてきているBだと言い出した。Bは派手な格好が好きな感じで、BはAのことを知っていた。しかしAはBの存在を知らない。このようなことが二重人格だといえます。 認知心理学では、無意識という用語は単に気付かれない真理状態を指します。抑圧でも解離でも長期記憶のネットワークが途切れていて記憶を意識できない働きを認めます。精神分析学は、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えます。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することにより、症状が解消しうるという治療仮説があります。人には様々な悩みがあります。身体的障害や自分の容姿・能力の低さへの劣等感、心理的に健康な人でも進学・就職や結婚・離婚など人生の転機での意志決定などのことなどでも悩む。つまり人は生きていく上で葛藤から免れることはできないのである。大切なことはそれに向き合っていける強い自我を育成していくことである。心理学的には非常に深刻な悩みでも強い自我で現実に対する認識が、悩みによる苦しみを耐えている。または、その悩みに対する対処ができている場合には心理的に健康といえます。しかしその悩みに対し、非現実的・非適応的な反応が見られるときは『心の病』とみなされます。どのような況で、どれくらい悩むかは非常に大きな個人差があり、特に『心の病』に苦しむ人々を理解するときは、まず相談者の悩みを理解しなければならない。そして、ほとんどの『心の病』は攻撃することで悪化するということを知っておかなければならない。このようなことを踏まえて相談にのってあげて、それでも病的症状が出たならば、精神科医などのもとを訪れるよう勧めてあげたりするほうがよいであろう。
2007年05月12日
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風邪になってちょうど一週間です。 トータル咳回数は3000Hit程してそうな勢いです。 肺も随分鍛えられた感がビンビンっす(・"・)b そんな中今日は徹夜リポートの日(ノ ωノ) 追い込まれないとやらないタイプのトンでした。 ( ・ω-)ノシ 追伸 明日の日記は『心理学』リポです。
2007年05月07日
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すっかり風邪でもカラオケに行きました。 ヽ(・ω・。)ノ=ヾ(`・∀・)ノ=ヽ(。・ω・)/ハイ、トンです。(σ・ω・)σ どぅも一緒に行った友人から(σ・ω・)の風邪声が ゴブクロのクロちゃんに似ていると言われたので・・・ Let's採点(*´艸`) 選曲は もちろんコブクロの・・・ 『風見鶏』!!!! 何気なくぅ~交わした約束がぁ 心の~道を照らすょぉ~ ~中略~ OHH‐いつの日も 向かい風を探す風見鶏のように まっすぐ時代と立ち向かい生きて行きたい♪ 逃げ出さないように 流されないように 心に深く、深くぅ 突き立てたぁ風見鶏ィ~♪ щ(゜Д゜щ)ド・ドーン 100点満点中・・・・ 92点!! ((◎´∀`人☆ 上手い人からすると普通なんでしょぅが・・・ Avr70~80の音痴な私からしたら素晴らしきことなのです。 まぁその後も少し採点しましたが イマイチ・・ やぱり音痴は音痴ですた(´-`)ノ ゴホゴホ言い過ぎて 夢に『ゴッホ』がでてきそうなトンでした。 (´゜Д゜)ノシ
2007年05月05日
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