学びの泉 ~五目スパゲティ定食~

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第97号



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さすがの信州も、今年の夏はいつにない猛暑です。生徒がいっぱい
になると塾のクーラーもあまり効かず、特に動き回っている私は授
業が終わるとグッタリの毎日です。

それでも「処暑」を迎え、吹く風にわずかながら秋の気配を感じる
ことができるようになりました。秋になればあっと言う間に冬が忍
び寄る信州の気候。名残の暑さを惜しむ気持ちで、もうしばらく辛
抱です。

では歴史の用語シリーズの続き、今回は鎌倉時代です。


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   <用語の意味を掘り下げる(その5:歴史(4))>

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1:「幕府」

「幕」の字は「莫」(隠れて見えない)+「巾」(布)で、ものを隠し
て見えなくする覆い布という意味。戦で将軍の本営(戦略基地)に幕
を張って軍事の指揮をしたことから、将軍が政治を行った所を
「幕府」と呼んだのです。

転じて、将軍や武家政権そのものも「幕府」と言うようになりまし
た。「幕府の力が衰え...」とか「幕府を倒す」などというとき
は、場所ではなく政権のことを言っています。

あくまでも武士の政治に関係した用語ですから、平安時代までと明
治時代以降は登場しませんね。鎌倉、室町、江戸の三期だけ(と言
っても700年近く)存在した強大勢力だったわけです。明治以降
は「政府」と名を変え、現在に至っています。

ただし、「幕府」という呼び名は江戸時代中期以降にできたもので、
たとえば鎌倉時代の武士は、将軍やその居所を「鎌倉殿」と言って
いたようです。


2:「執権」

鎌倉幕府の執権と言えば、ご存じ北条氏...。「執権」は政所
(まんどころ)の長官の呼称ですが、将軍を補佐し政治を取りまとめ
る最高の役職でした。実質的には政策を決定する中心的な役割も果
たし、力を伸ばしていきます。

いつの時代でも、表に出るトップよりNo.2の働きが重要なのです。
摂政や関白、室町時代の管領、江戸時代の老中などもそうですね。

やがて執権北条氏は侍所(さむらいどころ)の長官も兼ねるようにな
り、源氏の将軍が3代の実朝で途絶えてからは鎌倉幕府の実権を握
るようになりました。

それでも北条氏は将軍になったわけではありませんよ。将軍は別に
立て(藤原氏や皇族)、自分たちは執権の地位にとどまり続けながら
政治を動かしていたのです。陰の実力者という役割に徹したわけで
すね。

ところで「執権」という漢字は「権力を執(と)る」、すなわち「政
権を握る」という意味です。初めからこういう結果になることは目
に見えていたようなものですね。


3:「御家人」

この用語は鎌倉時代と江戸時代で少し意味が違います。まず鎌倉時
代は将軍の家臣である武士をすべて「御家人」と言いました。「家
臣」とはすなわち家来のことですね。

もともとは平安時代に貴族に仕えた家臣、従者を「家人(けにん)」
と呼んでいました。それが鎌倉時代になって、将軍とその家臣と関
係に受け継がれたんですね。将軍(鎌倉殿)への敬意を込めて「御」
の字を付け、「御家人」と呼ばれたのです。

「御恩」と「奉公」という言葉も、平安時代からあったとも言われ
ていますが、普通は鎌倉時代の将軍と御家人の関係を指しますね。

この場合の「御恩」は将軍から御家人への土地(領土)、「奉公」は
御家人から将軍への軍役(兵として戦う)、経済負担ということにな
っていますが、完全なギブ・アンド・テイクと言うにはほど遠く、
御家人側の負担が相当大きかったようです。

因みに江戸時代の「御家人」は、将軍に仕える武士のうち、「御目
見得(おめみえ)」の資格がない者たちの呼び名です。「御目見得」
とは、将軍と直接会話できるという権利。この資格を持つ武士は
「旗本(はたもと)」と呼ばれました。

つまり、江戸時代の御家人は人を介してしか将軍と話せなかったわ
けです。伝言ゲームのように、途中で内容が変わってしまうことも
あったかも知れませんね。


4:「御成敗式目」

「貞永式目」とも呼ばれる、日本最初の武家法(武士が作った武士
のための法律)ですね。この法令が制定されるまで貴族社会に対す
る法律や土地・荘園に関する法律はありましたが、武士に対する明
確な法律はなかったのです。

さて、この名前、「貞永」の方は、単に作られたときの年号を採っ
たもの。「式目」は「決まり、定められたもの」という意味で、特
に中世、法律などを箇条書きしたものに用いられています。では
「御成敗」は何でしょう。

時代劇や昔話などで「成敗してくれる!」というのを聞いたことが
ありますか? この場合の「成敗」とは「こらしめること。処罰。」
という意味です。

「喧嘩(けんか)両成敗」という言葉もありますね。けんかになるの
は双方が悪いのだから、両者ともにペナルティを与えるということ
です。

「御成敗式目」の「成敗」にもその要素が入っていますが、それだ
けではないようです。「成敗」には他に「裁くこと」「政治を行う
こと」という意味もあります。北条泰時らは、幕府運営と武士たち
の統制・裁判のための基本法としてこれを制定したのです。

内容は、土地、財産、道徳、守護・地頭の職務内容、裁判、家族制
度など多岐に渡っています。それまでの法律文書と違って、比較的
分かりやすい言葉で書かれていたこともあり、全国各地の武士に広
く知られることになりました。

御成敗式目の基本方針は、室町幕府や戦国時代の各大名たちの法律
(分国法)にも受け継がれました。また江戸時代には、寺小屋などで
教科書としても使われたようです。

次のサイトに御成敗式目全文の現代語訳が載っているので、興味の
ある人は読んでみてください。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/goseibaishikimoku/index.html


5:「元寇」

1274年と1281年の2回にわたり、元が北九州に攻め寄せて来ました。
正式には1回目を「文永の役」、2回目を「弘安の役」と呼ぶので
すが、この2回をまとめて呼ぶのが「元寇」という用語です。

この「元寇」の「寇」の字、他でもお目にかかりますね。そう、
「倭寇」です。「倭寇」とは簡単に言えば海賊のこと。ということ
は、「寇」にはどんな意味が含まれていると思いますか? 良い意
味ですか、悪い意味ですか?

「寇」の字には「乱暴する、荒らし回る」「侵入して荒らす賊」な
どという意味があるのです。荒くれ者、悪い奴というイメージです
ね。

つまり「元寇」という用語は、二度の事件を総称する日本側の呼び
方なのです。悪いのは元で、正義は日本にあるとする考え方が「寇」
の字に込められているのです。

当時の情勢をかえりみると、必ずしも元だけが悪いとは言えない、
日本側があまりにも世界情勢に疎かったのだという見方もあるよう
です。中国やモンゴル側にとっては、「寇」の字を使われることは
心外でしょう。

特に歴史の用語は、主観の入らない中立的なものにすべきだと私は
考えるのですが、みなさんはどう思いますか?



では、今回はこの辺で。次回は室町時代からです。




   (執筆:エクセルゼミナール 小林良行…長野市稲葉日詰)



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