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ところが現在は、子どもは四六時中管理されています。子どもが子どもらしく息を抜けるところがありません。子どもらしさを発揮できるところがありません。子どもらしさが発揮できる場所や時間を大人が作っても、やはり管理されているのには違いがありません。子どももよい子を演じて、子どもらしく振る舞いますが、心の中では辛さが続いています。その結果、子どもたちはとてもストレス刺激に弱い状態になっています。
2007年03月30日
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その子どもの属する社会の一つに学校があります。元来学校は子どもの要求に応えて、子どもの能力を伸ばすところでした。子どものための学校でした。ところが時代の経過とともに、学校は学校のための学校になり、子どもたちは学校を維持するための対象となってきています。それでもまだ、子どもたちが学校から離れたとき、その子どもなりに過ごせる場所と時間があったうちは、子どもたちはそこで子どもらしさを取り戻せて、親や学校に順応することができました。
2007年03月13日
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子どもを一生懸命よい子に育てようとするのは、親として普通に行っていることです。多くの親が子どもに可能な限りの愛情を注いで、子どもを育てています。子どもも親の愛情を感じて、子どもにとってうれしいことも、辛いことも、その子どもなりに受け入れて成長しています。その子どもなりの性格を形成して社会に出て行きます。
2007年03月09日
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親として子どもの将来の幸福を考えて、子どもに関わっていくのは当たり前のことです。親だからできることです。子どもも親の要求を受け入れて、子どもなりに成長していきます。その子どもなりの性格を形成していきます。その際に、子どもが親の要求を受け入れられないと表現したとき、親は親の腕力で子どもに親の要求を受け入れさせるか、親の愛情を代償に、子どもに親の要求を受け入れさせます。場合によっては親の要求を受け入れない子どもを放棄したり、放任する場合もありますが、その場合は親が子どもに対する愛情を放棄してしまった場合です。
2007年03月08日
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子どもを不登校にして申し訳ない 不登校になった子どもの辛さが分かるようになった親の中には、「もっと早く、親が子どもの辛さに気づいていたら、子どもを不登校にさせないで済んだのに。子どもを不登校にして申し訳ない」と言う親がいます。子どもに優しい親は、子どもを苦しめたという意味で、子どもを不登校にしたことを後悔しています。確かに子どもは学校での辛さを親に訴えても、聞き入れてもらえなかったので、辛かったことは事実です。
2007年03月01日
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母は「何で壁に字を書くの?何で手を切るの?何で?何で?」と、私に対する絶望と悲しみの涙を目にいっぱい溜めながら私を問いつめました。私も母に背を向け母に気づかれず泣いていたのです。バケツの水をばさっと床にまき散らすと、母は「やめてよ!床が腐る!」といって、まいた水を拭き取りました。そして同じように「何で床に水をまくの?何で私が嫌がることをするの?何で?何で?」と、私に対する絶望と悲しみの涙を目にいっぱい溜めながら私を問いつめました。
2007年02月21日
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「死にたい、死ぬまで暴れてやる!。死ぬまで血を流し続けてやる!。わかってもらえるまで血を流し続けて死んでもいい、もっと血を塗りたくってやる!」という、私自身も訳の分からない、体の奥から涌き上がる衝動に翻弄されて、私は毎日のようにリスカをし、その血で壁に字を書き続けました。その私が書いた字を、すぐ側から両親は消し続けました。私のことを全く理解しようとしない両親しか、私にはいなかったのです。
2007年02月20日
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苦しくて苦しくて、死を選択する直前の私の訴えを、両親は消し続けたのです。やっとの思いで訴え続けた私を無視して、何事もなかったかのように、毎日が過ぎていっていました。無視され続ける私。私は激しい怒りを感じるとともに、悔しさとむなしさを感じて、また暴れざるを得ませんでした。「わかってくれ~」私は暴れるという、声なき声で叫び続けました。けれどその私の訴えは、押さえつけられ、無視され続けられて、誰にも届かなかったのです。
2007年02月08日
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私が壁に穴を開けたり、窓ガラスを破って荒れているとき、私は壁やふすまに、「おまえらを呪ってやる!」とサインペンで何回か書きました。その書いた私の字を、両親は洗剤や揮発油で、一生懸命、苦労をして消してしまいました。また、私が手首をカミソリで切って、その血で壁に書いた「おまえら、死ね!」という文字も、両親が消してしまいました。両親は壁の字を消すことだけに一生懸命でした。私が拳でカラスを破っても、両親はガラスや窓を直すことばかりを気にして、そのときできた私の傷には全く配慮をしてくれませんでした。
2007年02月07日
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このような関係は母親と男の子の関係によく見られています。子どもが社会人になったときには、与えられた仕事は上手にこなせても、発展的な仕事には適していません。親から見たらとても性格がよい子どものように見えますが、自分が親から受ける評価を大切にするために、視野や考え方が狭い大人になっています。どうしても他人から受け入れられることが出来ないために、結婚や社会生活に障害を生じ易くなります。終わり
2007年01月26日
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たとえば、親は自分の子どもが親の思い通りに育って欲しい物です。親の思いを子どもに押しつけてそれからはずれた子どもを叱ることで親の思い通りに行動させようとします。それが子どもが幼いときから長年続くと、子どもが自分で判断できない子どもになり、判断を親へ依存するようになってしまいます。親としては親の希望する通りの子育てが出来たのですが、いわゆる親の子どもへの過干渉の結果、子どもは自主性のない、無気力な子どもになってしまいます。親も子どもが自主性がない、無気力だと言ってより一層子どもを親の思い通りに動かそうとします。いわゆる子離れをしない親、親離れが出来ない子どもの関係になります。
2007年01月25日
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どの親も一生懸命子育てをしています。親の持つ本能からの子育てと同時に、親の持つ知識から、子どもにとって一番良い子育てを、親にとって一番良い方法で子育てをしています。その親の子育てに子どもは答えて、子どもなりに成長していろいろな能力をつけ、心を発展させていきます。ただ、親の希望や要求が子どもを苦しめてしまい、子どもの成長を阻害するようでは、せっかく一生懸命にした子育てが報われません。大切なことは親の知的安心感からの子育てを子どもが受け入れてくれているのかどうかを感じ取る能力があるかどうか、親には問われることになります。
2007年01月24日
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大昔の人間も、その子育ては親の持つ本能からの子育てでした。ところが人間の文化が進歩すると、親はその文化が要求する物を子どもに要求するようになってきています。親がその文化の中で得た物からの子育て、親の知識からの子育てをするようになっています。その親の知的安心からの子どもへの要求は、決して悪いことではないですが、親の本能としての子育てがそれによって阻害されたときには、子どもは大変に苦しくなってしまいます。子どもは親の要求を叶えられないばかりか、子ども自身の生物としての成長も阻害されてしまう場合があります。もちろん、親の知的安心感からの子育てが子どもの要求と合致している場合には、子どもの成長によい効果を与えます。とても優れた子どもを育て上げることになります。
2007年01月22日
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人間以外の動物の子育てを観察すると、子育てとは親がその責任に置いて子どもの要求する物を与えて、子どもを自立させる過程と判断されます。子どもが要求する物を、親がその本能から感じ取り、子どもが納得するまで与え続ける過程と表現できます。それは人間にも当てはまりますが、人間には親の知的な安心のための子育てをする要素があります。その知的な安心とは、人間の文化が親に要求しているものです。たとえば経済的に豊かになるとか、学歴とか、優れた運動能力を持つとか、芸術的に高い能力を持つなどです。
2007年01月18日
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いじめられた子どもは学校制度の被害者であり、いじめたとして処分された子どもも学校制度の被害者であり、いじめのグループの子ども達も学校制度の被害者です。大人社会の被害者なのです。終わり
2007年01月17日
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先生や大人たちは、いじめ事件が調べられて、首謀者が見つけられて、処分されて、それでそのいじめ事件は一件落着と考えます。それ以上いじめ事件を調べようとはしません。先生や大人たちの、きわめて単純な発想、いじめる子どもが悪い。悪い子どもたちを守る必要はないという発想なのです。ところが実際のいじめはきわめて巧妙に行われていて、きわめて単純に発想している大人たちにはその全体像が見えなくなっています。先生や大人たちは、「いじめは悪い、いじめる子どもが悪い」とだけ考えて、そのいじめやいじめる子どもを作り出す学校は少しも悪くないと学校を擁護して、いじめを生み出す学校の問題点を探そうとはしないのです。いじめは一部の問題がある子どもが行っていることであり、その子どもたちを処分したら、それ以上いじめの問題は起こらないと考えようとしています。いじめを見つけようとも、いじめに本気で向かい合おうともしません。いじめの問題を本気で考えたなら、教師が責任を取ることになり、教師の素質が問われ、その学校が崩壊し、学校制度が崩壊する可能性があるからです。
2007年01月16日
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いじめ事件が発覚すると、教師や大人は子どもたちに聞き回り、アンケートという形でいじめの関係者を調べます。そこでいじめのグループでは、いじめの首謀者を仕立て上げるのです。それはいじめグループの最下位に違い子どもが選ばれます。そのようにしていじめの首謀者として選ばれた子どもも、その後のいじめをおそれて、いじめの首謀者でないと反論をしない場合が多いです。いじめの首謀者として選ばれた子どもが、処分を受けることになってしまって、自分ではないと反論しても、聞き入れられない場合があります。またはそのまま処分を受けてしまう場合があります。
2007年01月15日
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いじめにより大きな事件や自殺者が出ると、いじめが注目されて、いじめている子どもが見つけ出されて、処罰を受けています。その際に気をつけなければならないことは、そのいじめている子どもとしてリストアップされて、処罰を受けている子どもの中に、実際はいじめのグループの階層構造の最下位近くにいて、いじめの責任を全て負わされている子供がいます。つまり、いじめ事件の全ての責任を負わされていて、または実際のいじめには関わっていなくてもいじめの首謀者として、濡れ衣を着されられている子どもです。実際のいじめ事件の首謀者は、別にいる場合です。
2007年01月09日
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また、いじめ、いじめられのグループの側にいた子どもの内で、いじめではないかと気づいて、先生などの大人に連絡した子どもについては、その大人に通報した子どもがこのいじめのグループから、嫌がらせを受ける可能性を感じられて、なかなか先生などの大人に通報できない場合が多いです。また、通報しても、先生などの大人はいじめだと分からないことが多いです。
2007年01月08日
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このいじめ、いじめられのグループに、何か大きなストレス刺激が加わった子どもが出てくると、その階層構造の下にいる子どもを酷くいじめることになり、それが最下位にいるいじめられっぱなしの子どもを酷くいじめることになり、周囲にいる子どもたちもいじめではないかと気づくようになります。それでもやはり、遊びの形でいじめが行われますから、いじめではないかと気づいても、いじめだとはっきりと分かりません。
2007年01月03日
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このいじめ、いじめられの集団は、部外者から見たら遊び仲間に見えます。とても仲良く遊んでいる子どもたちのグループに見えます。とてもいじめが行われているとは見えません。その他のしく遊んでいる姿に、同級生などの周囲の子どもたちが巻き込まれ、時には教師などの大人も巻き込まれて、遊びが行われます。それはますますいじめる子どもたちを楽しくして、いじめられている子どもは一見楽しそうに遊ばれていますが、心の奥底では辛さに一生懸命耐えて、遊ばれている時間を乗り切ろうとしています。
2006年12月28日
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このいじめられるのを避けるためにいじめる子どもたちは、絶えず自分がいじめる相手を逃がさないようにしています。自分がいじめる相手を逃がすと、自分がいじめられとても辛くなるからです。それはいじめられっぱなしの子ども(いじめの底辺)がいじめから逃げ出せないように、あらゆる事をされることになります。
2006年12月26日
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そこで「いじめる子ども」、「そのいじめる子どもにいじめられているが、同時に他の子どもをいじめる子ども」、「そのいじめられていたが、他の子どもをいじめる子どもにいじめられる子ども」という、いじめ、いじめられの子どもの集団が出来てきて、その集団の中に、階層構造が出来てきます。その集団の中では、基本的にはいじめる子どもが一人(いじめの頂点)、いじめられっぱなしの子どもが一人(いじめの底辺)、いじめられるのを避けるためにいじめる子どもが何人(中間のいじめ)かという子どもの集団です。
2006年12月25日
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いじめられていた子どもの辛さはとても大きい場合が多いです。ですからそのいじめられていた子どもが他の子どもで遊ぶ場合、その遊び方はからかうという程度を越えて、いじめになっている場合が多いです。新たにいじめられる子どもが出てきます。
2006年12月21日
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いじめられる子どもがいじめる子どもに いじめられる子どもの中で、いじめられっぱなしではなくて、いじめられた辛さを何かで遊ぶことで解消しようとする子どもが出てきます。それはいじめる子どもが自分の辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするのと同じです。いじめられた子どもがその辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするとき、その遊ぶ道具がなくて、他の子どもで遊ぶ、他の子どもをからかうことで遊ぶ子どもが出てきます。
2006年12月18日
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訴えが消される 私が壁に穴を開けたり、窓ガラスを破って荒れているとき、私は壁やふすまに、「おまえらを呪ってやる!」とサインペンで何回か書きました。その書いた私の字を、両親は洗剤や揮発油で、一生懸命、苦労をして消してしまいました。また、私が手首をカミソリで切って、その血で壁に書いた「おまえら、死ね!」という文字も、両親が消してしまいました。両親は壁の字を消すことだけに一生懸命でした。私が拳でカラスを破っても、両親はガラスや窓を直すことばかりを気にして、そのときできた私の傷には全く配慮をしてくれませんでした。
2006年12月14日
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子どもの要求は100%認めること子どもが何かを要求するにはそれなりの子どもとしての意味があります。ただし大人にはそれが分かりません。ですから、子どもの要求を信頼して100%かなえてあげることが必要です。ただし、決して100%以上ではいけません。100%以上だと、子どもは親に依存を生じてしまうからです。100%以下では、子どもは親に不信感を持ってしまいます。親の理由として子どもの要求を100%かなえられないときには、子どもと交渉する必要があります。子どもは優しいですから、その交渉の結果を受け入れて納得してくれます。親に対して不信感を持ちません。
2006年12月13日
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子どもの行動を素直に認めること子どもの話を丁寧に聞くこと。子どもの行動や反応をそのまま素直に認めることです。大人は一般に、子どもの行動にいろいろな理由付けをして、理解しようとします。その理由付けが正しければそれでも良いのですが、まず正しいことはないです。子どもの行動や反応の大半は、受けた刺激に反射的に反応して行動しているからです。そこには大人の考えるような理由がないからです。
2006年12月12日
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スキンシップ母親とのスキンシップは、それだけで子どもの心に安心感を与えてくれます。母親とのスキンシップで、子どもの辛い心が消失していきます。子どもが辛ければ辛いほどスキンシップが大切です。抱いてあげること、手を握ってあげること、背中をさすってあげること、一緒に寝てあげること、一緒にお風呂に入ってあげることなどが良いようです。これは母親でなくてもできることですが、母親にしてもらうとその効果はとても強く作用します。
2006年12月10日
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ある場所で母親の愛情とは何ですか?との質問がありました。ある母親は時間がたつと分かること、またある母親は信頼だと、また、ある母親はスキンシップで伝わる物だと言いました。これらは当たっています。母親と子どもとの間の愛情とは、母親と子どもとの間の信頼関係と言い換えることができます。その母親と子どもとの信頼関係を高めていく方法は、次の三つになります。
2006年12月09日
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子どもが母親の愛情を感じるときとは子どもが一番信頼する母親が、登校拒否、不登校の子どもに学校には行かなくて良いと言うことで、登校拒否、不登校の子どもの心の中の葛藤を解消してくれます。安全な場所で、子どもが辛い心を癒そうとする行動を、そのままそれでよいと認めてくれる母親の存在は、子どもにその自分の辛い心を癒そうとする行動に没頭し、それを卒業し、次の何かを求める行動に繋がっていきます。それと同時に、母親の存在は、それだけで辛い子どもの心を癒してくれます。それは母親と子どもとの信頼関係がいかに子どもの心を安定化させて、成長していくことを認めるからです。
2006年12月07日
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蛇足現在、学校制度をやっとの思いで終えて、就職という社会生活をしている人たちがいます。その人たちの中には、やっとの思いで仕事をこなしている人たちがいます。仕事以外のことを考える余裕がないです。当然結婚のこと、結婚の結果の子育てのことを考えることができない、考えても自信がないです。結婚生活に飛び込んでいけない人たちがいます。それも多いと言われています。あまりにもまじめに、よそ見をしないで、学校制度に沿って成長したために、社会の中で生きていく能力、問題の解決能力を育てることのできなかった人たちです。終わり
2006年12月05日
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学校の外の社会では、人はいろいろな問題にぶつかる可能性が高くなります。学校制度に乗って進んできて、社会経験がない人たちには、どのようにしてその問題を解決して、生きていったらよいのか分からなくなるからです。今まで失敗を経験していないから、失敗を経験してもその失敗を咎められてしまい、失敗を取り戻す経験をしていないから、社会の中ではとても不安になっています。
2006年12月01日
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現在の学校制度に乗ってどんどん進んでいける人はある意味ではかわいそうな人です。現在の学校制度が通用するような社会(昔の日本がそうでした)で生きていける人なら、それでも良いのですが、そのような人はほんの僅かな人たちです。多くの人は、いつか必ず現在の学校制度が、学校での経験が通用しない社会の中で生きていかなければならなくなります。今まで経験していない、自分の経験が役立たない社会の中で生きていかなければならなくなったとき、学校制度に乗って進んできた人たちは、社会経験のない人たちは、失敗を経験していない人たちは、とても弱い人間になる可能性が高いからです。
2006年11月30日
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この子どもの活動を見守ることは、親にとってははらはらどきどきです。子どもがとんでもないことをしでかさないかと不安になります。それでも子どもから「助けて」と言ってくるまで待ってあげると、子どもはその子どもなりに、良い経験、悪い経験(時には親にとってとんでもないことをするかもしれません。それも子どもにとって重要な経験です。子どもを罰するのではなくて、子どもが希望すれば、親が責任をとって子どもを守ってあげてください)、ありとあらゆる経験をします。その経験が、以後の子どもが問題に遭遇したときに、その子どもなりに解決する能力になります。自立して一人の人間として生きていけることになります。親にとって、社会の中で、とても頼もしい生き方をします。
2006年11月29日
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子どもが引きこもりをやめるには、親が子どもの不登校を良いことだと認めなければなりません。親が本心から子どもの不登校を認めたなら、子どもは安心して、自分の不登校を問題視しなくなります。その子どもなりの活動を広げていきます。その子どもの活動は家の中にとどまらないで、家の外、社会にまで広がっていきます。子どもの活動が広がると、子どもはいろいろな問題にぶつかります。その問題をその子どもなりに解決するなり、親の手を借りて解決するなりして、子どもの活動を広げて、その子どもなりの生き方を見つけ出します。
2006年11月27日
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不登校の子どもは潜在意識で学校が辛くなっています。学校が辛いことを親が認めて、学校に行かない生き方を親が認めると、子どもは元気に、学校とは違う社会と関わるようになります。子どもが学校で辛いことを親が認められなくて、親が無理矢理に子どもを学校に行かせようとすると、子どもは家の中に、部屋の中に、引きこもってしまいます。辛さに耐えるので精一杯になり、元気が出てきません。引きこもりを続けることになります。
2006年11月21日
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社会に出たら、また疲れてしまうかも 不登校で引きこもっている子どもを見て、たとえ不登校の問題が解決しても、社会に出たらまた同じように働けなくなって、引きこもってしまうのではないかと、親が心配する場合があります。それは本当に不登校の問題が解決されたら、全く心配のいらないことです。不登校が解決すると言うことは、子どもがその子どもなりに熱意を持って生きられるようになっています。子どもを苦しめる可能性のあるいろいろな問題をその子どもなりに解決できる能力を獲得したから、不登校の問題が解決できました。
2006年11月20日
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多くの大人は、いじめる子どもをなくすと、子どもの間でのいじめはなくなると考えがちです。ところがいじめる子どもはいじめをしようとしていじめをしているのではないです。何か辛い状態にある子ども達のうちで、その辛さを解消するためにほかの子どもで遊ぶ子どもが出てきます。遊ばれた子どもが出てきます。その遊ばれた子どもがいじめの被害者です。つまり、子どもが親や学校により辛くなったとき、いじめを始める子どもが出てくるという事実です。いじめる子どもは大人の被害者だと言うことです。大人が子どもを辛くするから、いじめをする子どもが出てきています。その結果いじめられる子ども、いじめ自殺をする子どもが出てきています。終わり
2006年11月19日
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次に大人がよく知っておかなければならないことは、いじめを止めさせようとすると、いじめが酷くなる事実があります。大人がいじめに気づき、いじめる子どもに働きかけていじめを止めさせようとすると、多くのいじめは一見なくなったように見えます。しかし、大人達から見えないところでいじめが行われるようになり、そのいじめも酷くなるので、いじめられている子どもはいじめの存在を訴えなくなってしまいます。いじめられている子どもからいじめの存在を知ることは大変に難しいことです。また、大人が直にいじめる子どもに関わっていじめをなくそうとすると、いじめられている子どもが大変に辛くなる場合が多いです。
2006年11月17日
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そして何かはっきりとした事件となったとき、初めていじめと気づき、それまではいじめはなかったと、いじめには気づかなかったと、いじめを見つけられなかった責任を回避しています。今回北九州のいじめ自殺の事件でも、いじめていた先生の存在には、自殺した子どもの遺書が見つかるまでは、どの大人も気づいていません。それどころか優秀な先生としていじめた先生は理解されていました。それほどいじめが行われている最中にいじめを見つけ出すことは大変に難しいことです。
2006年11月14日
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子ども達の間のいじめは、遊びの形で行われていることを、大人達は気づくべきでしょう。子ども達が楽しそうに遊んでいる中の一部に、いじめが存在しています。ですから、いじめている子どもには基本的に悪いことをしているという意識はありません。そして何かの事件の形になって、初めて大人が子ども達の間のいじめに気づいています。子ども達の中には、楽しそうに遊ぶ子ども達の中にいじめらしきものがあることに気づくことがあります。その場合でも、いじめに気づいた子どもが先生や大人にいじめの存在を指摘しても、先生や大人達は子ども達の遊びの姿としてしか理解できません。
2006年11月11日
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現在、マスコミで、北海道と北九州のいじめ自殺のことがいろいろと述べられています。政府もいじめ自殺をなくするためにと動き出しました。そこで主に述べられていることは、いじめを早期に見つけ出して、いじめを解決しようという議論が主流となっています。ところが、いじめによる事件が起きてしまうと、その時点から振り返っていじめがあったことがわかりますが、子ども達の間でいじめがなされている段階で、大人達が子どものいじめに気づくことは大変に難しく、いじめの早期発見ができるかどうか疑問です。
2006年11月10日
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いい子を演じることが悪いことではないです。子どもがいい子を演じることは、親や大人にとって困ることがない子どもの辛さの解消法です。いい子を演じて、それが続けられる限り、そして、いい子を演じているうちに子どもの辛いことが解消するならば、辛いことが解消して、子どもがいい子を演じる必要がなくなりさえすれば、それでも良いのです。ところが不登校の子どもには、学校内がそれを許してくれなかったのです。学校内での辛さに耐えきれなくなって、いい子を演じ続けられなくなって、学校に向かって体が動かなくなってしまっています。終わり
2006年11月08日
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ですから、親や大人たちが、いくら子どもの様子を遡って考えてみても、いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか分かりません。いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか、はっきりと線を引けません。不登校になった子どもは、辛くなると少しずついい子を演じることを覚えていったのです。不登校になる子どもは頭がよくて優しいから、親が知らないうちに、いい子を演じてきています。
2006年11月07日
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学校が辛い子どもは言葉で、行動で、学校が辛いことを表現している場合もあります。学校が辛い子どもで、言葉や行動で、学校が辛いことを表現できない子どもは、学校でいい子を演じることで、学校での辛さをやり過ごそうとしています。いい子を演じ続けて、演じ続けられなくなって、不登校になっています。学校が辛い子どもは不登校になるまで、学校内でいい子を演じ続けています。そして不登校になって、親や先生方などの大人がことの重大さに気づいています。
2006年11月06日
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子ども自身がいい子であることと子どもがいい子を演じることとは、見かけはよく似ていて区別がつきませんが、子どもの心の中は真反対です。子どもがいい子であることは、子ども自身の喜びであり、子ども自身の能力を高めていきます。子どもがいい子を演じるときには、子どもが辛くても逃げられないから、やむを得ずいい子を演じてその場をやり過ごそうとする子どもの行動です。発展性がないばかりか、その辛さを解消するために、親や大人たちの嫌がることをどこかで行わなければなりません。いわゆる問題行動をする子とになります。
2006年11月04日
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いい子を演じるとは、ある人に子どもが責められて辛くなり、その辛さを解消する方法がないときに、そのある人に気に入られるような、そのある人が納得するようなことをすることによって、そのある人から逃げ出し、辛さを解消する方法です。子どもとしてはしたくないけれど、辛さを解消するために、仕方なく演じています。無理をして行っています。その場限りのいい子です。ですから、いい子を演じるには、子どもは自分を責める人の気に入るようなこととは何かを見つける必要があり、見つかったらそれをいかにも自分の本心から納得しているかのように、演技をしなければなりません。
2006年11月02日
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このようにして母親のそばで、家庭の中で、子どもの性格の基本が形成されて、子どもは少しずつ母親や家庭から離れた場所で、新たな経験を始めるようになります。そのときまでに形成された性格、親から見たらいい子の性格から行動をして、その結果が自分の喜びを生じるか、嫌な気分を生じるかで、自分の行動を繰り返したり修正して、習慣化して、新たな性格を付け加えて成長していきます。このようにして付加された性格がそれまでの子どもとは違った子どもを作り出して、親や大人たちにとって良い場合もあり、悪い場合もあり、それらを総合してその子どもその子ども特有の性格として、理解されるようになります。
2006年11月01日
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子どもの性格として判断される子どもの反応の仕方は、行動の仕方は、子どもの本能がどのようにして満たされていくか、どのようにして否定されていくかで形成されるとともに、親が喜ぶか、親が嫌がるかという要素からも形成されていきます。親が喜ぶ反応の仕方、行動をその子どもなりに発展させて、親が嫌がる反応や行動をその子どもなりに放棄して、子どもの性格を形成していきます。親との関係で自分の性格を形成していく過程を別な見方をすれば、子どもとは親にとっていい子でありたいと本能的に願って育っていく姿であるとも表現できます。どの親も子育てで一生懸命で気づくことはないのですが、親から見たら、子どもは「本質的にいい子」であることになります。
2006年10月27日
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