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僕のような素人に言わせると、ポリーニは20年経っても30年経ってもポリーニのままである。
最近、ティーレマンとの新録音を聴いたけれども、ポリーニのこの曲に対するスタンスはほとんど変わっていない、と僕は理解した。
僕の耳が正しいとするならば、彼は30代の頃から既に完成形であった、ということになる(もちろん、テクニックについては、昔から非の打ちどころがないし、70となった今でも全く衰えていないし、むしろ、ますます冴え渡っている。)。
一般論として、そのことに異論はないはずだ。
なにしろポリーニは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の録音を後期3大ソナタから始めた人なのだから。
このブラームスのニ短調ピアノ協奏曲については、ポリーニの3つの録音のうち、ウィーン・フィルの美音が聴けることにより、この最初の録音が、あとの2つの録音(アバド、ベルリンp・ティーレマン、ドレスデンsp)よりも価値が高い、と思う。
岩城宏之のあるエッセイの中で知ったことだけど、「おやじ(ベームのこと)の音楽を理解できるのは俺たちウィーン・フィルだけだ。」、「おやじの耄碌した棒(注:円熟したタクト)についていけるのは俺たちだけだ。」と、当時のウィーン・フィルのツワモノたちは自負していたらしい。
実際、当時、『オーストリア音楽総監督』という長嶋茂雄みたいな肩書きを持っていたベームがウィーン・フィルを指揮した音楽の中には、これは絶対にほかとはちがう、まったく格別なものだ、と思わせるもの(特に音色とか楽器の鳴り方とかそういう面において)が少なくない。たとえば、ブルックナー第7交響曲の冒頭のチェロ、来日ライヴのベートーヴェン第7交響曲の主題のホルンなど。
この録音もそうだ。
第2楽章の出だしの美しさは、初めて聞いたときは本当にびっくりした。
静かな寝室でまっさらなシルキーのベッドにもぐる感じで、ここちよい。
そして、重力というものを全く感じさせない。
こういう比喩にもならないブンガク的な表現はできる限り避けたいのだが、
「まるで天女の羽衣が空から舞い降りて来たかのような」
そんな音楽である。
個人的には、安易に「闘争から歓喜へ」と向かってしまう第3楽章が嫌いです。
なんにも解決していないだろ!
と突っ込みを入れたくなる。
ブラームスは、なぜこの曲を短調のままで終わらせることを拒んだのだろう?