宮本武蔵は、慶長5年(1600) 17歳の時、関が原の戦いで石田光成らが率いる西軍に加わったが西軍は敗れ、落ち武者となって諸国を遍歴しながら武道に励んだ江戸初期の剣豪。この武蔵、慶長9年(1605)京都の兵法家として名高い吉岡一門に挑み、吉岡清十郎を蓮台野(現在は佛教大学の敷地内)の対戦で勝ち、更にその弟の伝七郎を三十三間堂でも破った。吉岡道場は、一門の面目に賭けて17歳の吉岡源次郎を名目人として、最後の一戦を挑んだ場所が、この一乗寺下り松。
武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ。きょうこそは武蔵が一生の大事。」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持ちを一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場へ駆け向ったという。
武蔵は、この決闘では源次郎をはじめ70数名もの門弟を相手にしたが、勝利している。
八大神社は詩仙堂の坂上にあるが、訪れる人は少ない。詩仙堂へは何度も訪れたが私もこのたび初めて足を踏み入れた。写真の右手にはそのときの下り松の切り株を掘り起こし祀ってある。宮本武蔵の銅像は若々しく見える。
二天一流武蔵の像や山桜
人気ブログランキングへ
PR
キーワードサーチ
コメント新着
カレンダー