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退院してから自宅にて 少し疲れたな~疲れたときなんかには、物思いにふけることがあります どこにも、吐き出す事ができないモンですので・・・ふとね、随分年取ってしまったなぁ~ などとね♪ 一番楽しかったのは、学生時代、高校生の時でしたねぇ田舎から出て行って、恩師の先生がたくさんの兄弟弟子との絆を授けてくださったとき、今まで人も少ない片田舎から来たので立派な強い兄さんがたくさん出来たのはものすごく嬉しかったですよそう、あの頃は気持ちのいい兄弟達がいっぱい居て、そして誇り高い兄達が道場を駆け、そんな兄貴達に近づけたらと懸命に励みました 剣道のお稽古が済み、兄貴たちが連綿と磨き上げてきた黒光りする道場で一緒にじゃれあって遊んだ弟ができた時もそうでした そこには、欲も得も打算も何もなく厳しいけれど楽しい日々でしたそして32年、病を得て帰った故郷は益々、人の数も減った寂しい過疎の村になってしまっていました高校を卒業して少ししたころ、好きな女の子が出来て将来を誓い合い、勤め先の先輩のお姉さんたちにも『写真を見せろ~!』だの『紹介しろー!』だのとからかわれたり冷やかされたりしたもんですあれだけ好きだった会社ももう合併してすでに今はなくなり、あの女子社員の先輩たちの顔もお名前しか浮かんでこないほど時も過ぎてしまいましたきれいな人たちだった事しか覚えていません彼女のお腹に赤ちゃんもでき、幸せの絶頂! お仕事もがんばろう!ってときに 病気でね・・・ 子供も一緒に逝っちゃいました・・・元気で生きて生まれることが出来ていたら、もう32歳のはずです ひょっとしたら、もう2~3人のお父さんになっててもおかしくはない歳ですそしたら、私はおじいさんです 済んだ歴史に『たら』と『れば』はないですけど、残念ですねぇ・・・ 私は、彼女、朋ちゃんが病気の時、私の血を輸血するしか出来なかった全然十分な事ができなかった結果的に助ける事ができなかった若くてまだお金も十分持っていなかった私が買ってやれたのは24金の安物の指輪しかなかったけど、最期の最期までしてくれていました3日間の病院での結婚生活でしたこれで将来、子供や孫が出来たり、成長を楽しみにする事がなくなりました 一生の後悔です せっかく新しい命が宿っていたのにです・・・強がって、意地のプライドのと言っていられたころが懐かしい・・・病気になったのは、自分のせいだから誰の責任でもないことはわかってるんです別に孤独ってワケじゃないですけど、32年・・・長いようで短いような空虚な32年・・・割り切ったつもりでも、忘れる事ができなくてなにか、仕方なく生きてきたような感じです心の中にぽっかり空いた空白を埋める事はできませんでした 普段、元気なときや、健康だった時は意地やプライドで快活を演じてはいましたけど、今のようになってしまうと誰も見ていないところでは、無性に寂しくなって、泣き叫びたい時があります 幼い頃、懐いていた多くの人や憧れた先輩方ほど早く逝ってしまわれました少し前には、恩師も旅立たれ、田舎に引っ込んでしまった私の周りには誰も、気を許した先達も仲間も居なくなりました・・・あの頃に戻れるなら何もいらない・・・周りには頼れる師匠や憧れた兄貴達やふざけあった弟達が大勢居て、みんな笑ってた記憶しかないあの暖かい記憶がなんとも心地いい毎日が煌いていたあの頃・・・ ごくたまに、耐えられなくなって、嫁の朋ちゃんに『そろそろ、そっちに行っていいかな? 迎えにきてくれないか?』と問いかける時がありますホントは、そんなに強いワケでもないし、むしろ私は涙もろいところもあるモンですから『さびしいよ~ 会いたいよ~!』って思いっきり抱きしめて、あの胸に顔をうずめて泣きたい思いに駆られる事もありました それはあの人のほかには、誰にも、たとえ親兄弟にもできない事ですでもねぇ どんなに会いたくても会えないし、行きたくて行けるところでもナシ・・・無断で行ったら、また大先生に大声で怒鳴られそうですし・・・ でもあっちには懐かしい人や恋しい人が多すぎるんです夢で会うことが多いんですけど、夢の中の私は、私はまだ目も見えて耳も聞こえ、体も自由で・・・まだ歳も若い私が居て、真っ黒な髪の時代の師匠、まだ小さい頃の弟、建や太一がいて『いじめられたら言って来い』って言ってくれた兄貴が居て(助けてくれるのかと思っていたら鍛えなおしてくれるつもりだったそうですけど・・・)んでね、手術で麻酔がかけられて効き始めてしばらくしたとき『よっ! 原田! どうした?』って特徴のある聞き覚えがある懐かしい声が聞こえました あの声は、絶対間違えないし忘れることができないない先輩、私があこがれ、懐いていた好岡先輩の声に間違いなかったと思います なぜこのとき、好岡先輩の声が聞こえたのかはわかりませんけどとても懐かしい いつのまにか涙が止まらなくなっていましたこの人が『田舎から出て来て寂しくなったら、オレのこと本当の兄貴と思っていいからがんばれ!』って言って励ましてくれた人なんです 始めて会った時にはすでに、技術も身長も何もかもが大きすぎて、それでも頼りになる先輩でしただから、出来る限りじゃれついて引っ付いていたんですずっと、先輩の背中を追っかけて剣道をしてきました近づけるとは思っていなかったけれど、それでも近づけたら良いなぁと思いながらついにそこに至る事ができませんでした あの麻酔が効いて朦朧としていたとき、『原田!』とか『カズ!』とたくさんの私を呼ぶ声が聞こえましたまちがいなく、先に逝った兄さん達や縁者のみんなの声です一番デキの悪い弟子で、だめな後輩、手のかかる弟だった頃が一番懐かしいなんて皮肉ですね この人たちの前でなら思いっきり泣き声をあげても恥ずかしくはないんです変でしょ? 麻酔の効果のまぼろしなんですかね?(知らんがな)以前も麻酔の時こんなことがよくあったりして、自分では不思議でもなんでもなかったんですけど もう少し、正気なときにでも出てきて欲しいもんですそれにポニーテールの背中までの長くて黒い髪が似合う彼女が居て・・・お惚気みたいになって、アレなんですけど、彼女はオム焼きそばが得意だったんですよとっても上手でしたそれは、お料理上手な伯母やその娘、イトコのお姉ちゃん達からもお褒めがあったほどなんです おかげで板前になった今でも、オムソバが大好きなくせに思い出してしまうのであまり作りたくないんです身内には可愛がってくれた伯母やこずえ姉ちゃん達が居て笑い話やシモネタ好きなじい様たちやお料理の上手なばぁ様たちも・・・ 夢でみんな元気で笑っていましたもうみんな、私を置いて逝ってしまいました『また会おう!』そういって別れた兄弟達とも音信不通になってはや久しいです熱血なアイツも クールな彼も、陽気な彼も、みんなどうしているだろう?元気だろうか? 子供は大きくなったかな?連絡を取ろうにもわずかな弟達の消息がわかるのみになりました私は特に注目されるわけでも優秀なわけでもなかったけれど、兄弟が大勢居るのは心強く、とても楽しかったもう私は竹刀を握る事も、兄たちのように道場で優雅に舞うように剣を振るうこともできなくなったけれど・・・これからの弟弟子たちは私の分まで元気で健康でがんばって欲しい老いて病んでしまった私が孤独感にさいなまれる時、兄弟達にとても会いたいんです あの世と言うか、死後の世界があればみんなと、また楽しく暮らしたいです見た事はないけど、死んだら渡る虹の橋とか言うものがあるらしいけどそこまで嫁は迎えに来てくれるかな・・・もうしそうだったら嬉しいなぁでもそこは飼い主をおいて死んだペットがたくさん飼い主が来るのを待つところらしいからひょっとしたら、私が生まれたときから一緒にいたあの大きな犬、真っ白いフカフカの体だったから名前はシロあいつがいるかもしれないなぁ・・・彼女も犬が好きだったしなぁ・・・家族3人とあのワンコ、一緒に虹の橋を渡れたら・・・ 私、少し弱気になっているのかな?幼い頃に通った小学校も中学校もとっくに廃校となり 修業した高校の道場は、年季の入った黒光りする床も近代的なフローリングに変わり先日の入院時『がんばれ 戦気!』と気合を入れてくれた齋藤の兄さんがもうすでに指導者の立場に立っておられます 嫁が入ったお墓は阪神淡路大震災で跡形もなくなってしまい嫁の両親縁者も震災で亡くなってしまいましたので記憶にしか彼女は居なくなってしまいました その嫁はいつまでたっても、20歳のまんまで若くて綺麗でした赤ん坊を抱いていました 赤ちゃんができた時少しぽっちゃり太って恥ずかしがっていましたけど、私はそんな彼女がとても好きでした『お産のときと、子育てに髪は短いほうがいいからショートカットにしようかなぁ』って言っていたのをムキになって止めたのも古い思い出になってしまいましたまだ病気が発覚する前、『カズちゃん! あんた私に1人しか子供、産まさん気なん?』とか言われて焦ったですね・・・それに引き換え私は随分歳をとってしまいカッコ悪くなってしまいとても恥ずかしいです愉快でない思い出は、時間が風化させてくれるものですが、きれいな思い出は時間が経つほど益々きれいに鮮明に心に残っていくものだと最近身にしみて感じるようになりました だから、今でも独り身でいるんですけど・・・世間で再婚する人、出来る人は幸せで強い人だなと思います 私はそういう気持ちになる事はできませんでしたこれは家族にも明かさなかった事ですから身内からいくら再縁を勧められても拒否するので実母などは『あれはなぜ結婚するのをあんなに嫌がるんやろ?』と、私のことを不思議に思っていた様ですね事実そう言ってもいましたし・・・嫁にするのは一生に1人だけでいいんだよ!私の母方の祖父も早くにおばあちゃんと死別して一生1人だったのは知ってることのはずだしね~ この祖父のこういう一本気なところを尊敬していましたし・・・これには答えたくもなかったんで反応しませんでしたけど、気持ちを知ってほしいとは思いましたけど、まぁわからなかったでしょうねそれでも、生きることをあきらめないで生きていかなければどんな事があっても、生き続けると約束した事を破る事になります あまり普段神仏を拝む事のない私でもそういうところでは尊重してしまうのはどうしたことなんでしょうね? まぁ、有体に言えば自決するような根性もないヘタレということなんですけどねただ、向こうに行ったときに笑って『来たよ~』って言えるようにしたいものです そうしたら、師匠にも、大先生にも『悔いのない人生だったか?』と聞かれたとき(まずそう聞かれるハズです)『はい! ありません! ただいま参りました』と胸を張ってお答えできると思うんですそうしたら『だいぶん、ゆっくりやったな♪』とおっしゃると思います贅沢な話しですけど、親子3人での、小さな暮らしはこの世では実りませんでしたがそんな3人とつつましい暮らしをしながら、また昔のように私の控えの場所である師の左の後ろに控え、お仕えしながら病や苦しみや痛みのない世界で先輩や師匠筋と楽しく剣道を楽しみたいんです 『相変わらず、応用のきかん まっすぐしか能のない、成長せんやつやな』と笑っておっしゃる事でしょうけど・・・治療が終わってしまい、経過も悪くないので まだもうちょっと先になりそうです師匠や兄さんたちに『また、みんな一緒ですね 人生の役目を終えて、次に来る弟を迎えにいきましょう』次に会うのは誰かわかりませんけど、それが誰かは大先生か先生がお示しくださるでしょう『来たか? 次はお前だったんか? また一緒に剣道やろう!』と言えればいいですね それまでは、寂しくてもがんばらないと仕方がないですねきっとまた、兄さんたちや師匠方、みんな達に会えますよねあまり男らしくない女々しい話しでしたね~ という妄想、独り言でしたそれではまた・・・
2017年02月22日
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今日は建国記念日、古い言い方だと紀元節ですね~手術の日が近くなって来たし、少し思うところを書いておこうかな? 先日、フェイスブックに何気なくつぶやいたら、兄弟弟子たちからの声が聞こえたんですよ回復したら弟弟子のお店に行って一緒にお酒を飲もう!って とても嬉しかったですよ♪本当は先輩、後輩の間柄なんですけど、なぜ私が兄弟と言う位置づけにしてるかと言うと今は亡き師匠の先生からそういう絆を授けてもらったからなんです だから先輩は兄、後輩は弟、という接し方をしてきましたその兄弟子たちともしばらく接点がなかったんですけど、(うつる種類じゃないですけど少し厄介な病気になっちゃったんで田舎に引っ込んで暮らしていますんでね) 一杯やろう!の声はうれしかたんですけど、ひょっとしたらダメかもわからないです、手術が上手くいっても人工透析が待ってるの確実なんですよ~なので気力が萎えてしまう前に、少し言いたいこととが母校の剣道部の後輩にあるんです 届かなくても仕方がないんですけど、今度の選抜高校野球の兵庫県代表に選ばれたでしょ?私が37年前に高校に入る事になったきっかけも後に高校野球で私の先輩になる人たちの活躍を見たのがそもそものきっかけだったんです んで、高校に入ったはいいんですけど私は野球なんて全然知らないし、普通に自分の流れのまま剣道の道を選びました田舎の先生の勧めです(体の弱い生まれだったので鍛えて生きるための体を作る必要があったからです) 入った学校には師となる先生とその又先生(大先生(おおせんせい))が別の大学に移っては居られたんですけどご健在で居られ、すさまじい技術や識見を持った先輩が綺羅星のようにたくさん居られました その先輩たちはそれはそれは厳しかったですよ決して甘えた事はお許しにはなりませんでしたし、しつけや身の回りの所作にはとても厳しかったです 履物を揃え忘れたり、うっかり剣道具を跨いだり、稽古着や袴を畳むのを手抜きをするのを決して看過なさいませんでした普通にぶん殴られたものです 電車では剣道具を持っている時は邪魔にならないよう気を配り、年配の方や赤ん坊を抱いた女性のために万一にも席を奪うような事があってはならないと教えられ、そのためには自分が席に座る事もほぼなかったほどです 席を立って譲ると言う事は、それだけで他の人に余計な気遣いをさせてしまうから初めから座るな!ってことです自然でないと意味がないんですよ 大人になって、こいうことがぜんぜん出来ない自称剣道家とか指導者と称する紛い物剣士がたくさんいる事に驚きました 私もかつて、その現実に驚き、ヨネザワクニオという先輩に噛み付いた事もありますヨネザワ先輩がそれをみることになった原因ですからね多少の段位を頂き、ましてや学校の教員を務めているものにも多いのにはあきれてしまう事も多かったですね 私の兄弟子たちの中にはヘタな高段者など完全に軽視している人もたくさんいましたし、その実力も今の高校生では想像もできないくらいでしたその兄弟子たちを鍛えた大先生が自分で厳しい稽古を課したとおっしゃっていたほどですから・・・ 警察の師範も勤められた、大きな体の範士八段の先生がですよ私も大きいほうではなかったけれど大先生には襟首をつかまれた猫みたいなもんでした そんな大先生に師事したおかげで、他の3人の範士の先生に知己を得る事ができ教えを請うことが出来たんですその結果、本物の剣士に触れることができ、偽者を見分ける目ができたんですけど それをあまり、とやかく言おうとは思いません言ってもわからないものに言っても無駄ですし、第一わかりませんから・・・ 何処からか?誰からか? 母校の後輩クンたちに届く事を願って一言書きおいておきますキミ達は報徳の魂を受け継ぐもの、いつごろからか君や私達の兄弟子たちが持っていた厳しさが失われ所謂いい子達の集団になってしまった現実があること その結果、試合結果にめぼしいものが散見できにくくなってしまったことキミ達は普通の高校生ではない! 君たちの先輩の一時期は中学生と言えど警察学校の初任課、(警察学校の学生ですね)の剣道経験者程度なら試合稽古しても負けることなど無かったんですよ まして、高校生にでもなれば警察でも機動隊の特別練習生に向かっていくほどの手腕でした今では考えられないでしょ? 昔はこれが報徳でしたよ剣道の業前だけじゃありませんけどね すごい精神性がありましたよまず、そんなに先輩たちは口数が多くも無かったですしね でも後輩を鍛えはしても知らん顔をして放置はしなかったですよ私たちも気軽に先輩方に口なんて利けなかったですもん 気軽にどころかしゃべる事など無理でしたよ今はね、新しい先生もいらっしゃる事ですし、私の3歳上の先輩もおいでになるのは知っています2つ上の先輩も稽古にお見えでしょ? しっかり教えてもらって立派な報徳剣士になって欲しいものです そんな事を言っても、もう私は何もしてあげる事はできなくなってしまったけれど言い置く事で精一杯のことがあります 稽古は無茶をしても無意味で効果は何も無いですけど、無理をしなければ強くも上手くもならないってことです(まぁ私は、ムチャのせいかわかりませんけど病気になっちゃいましたけど)そしてじぶんではムチャしてるな!と思う程度ではまだまだ無茶まで行っていないのが事実だと言う事 そして自分だけが強くなっても仕方が無いでしょ?次の世代につなげないとね? 時代時代によって兵庫の高校剣道界も強豪が入れ替わって行ったでしょ?世代交代や継承が上手くいっていないからなんでしょうけど、一時期育英高校がとても強くなったけどいまはどうなのかな? まさか、関西学院や他の県立高校にてこずってはいないと思うけど・・・もしそれがあたってしまっているのなら君たちの先輩たちはとても嘆いてしまうと思いますよ まぁ剣道の試合だけではその結果だけを見てしまいがちだけど・・・本当は剣道の中に何を見出すかが、とっても大事なんだ そのための努力と試行錯誤の後に生まれる結果がとても重いんですよでもまぁ、君たちには『勝敗は時の運』と言う言葉は許されない立場だし、むつかしいと思うけどね だれでも、壁には当たることもあるさ本物が見えるようになればまぁ大丈夫だと思うよ よく高段位に目がくらむけど、まぁ中には段位と釣り合ってないのもいたりしますからよく真偽を見極めるようになって欲しいものです本物は必ずいますし、むしろその方が多いはずですから・・・ある範士の先生は『八段になってやっと1人前、七段ではなぁ玉石混合、8段受けるのもほんまかいな?いうのがたくさんおる』ってよくいっておられましたよ 私が言う資格など何処にもありませんけど・・・ まぁ色々言いたい事もあるけど、もう私も口やかましい年寄りになりかけているのはあまり嬉しくないので・・・報徳の後輩クンたちよ がんばってくれ! 何処からかゆったり見ているよ まぁできれば、先生と大先生に彼岸であった時、土産話でも出来れば嬉しいよ!
2017年02月11日
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