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(公民館の歴史講座等で講師をして、よくお世話になっている三浦忠司さんが地元紙の賞をもらいました。おめでとうございます。以下は地元紙の記事の転載です。)「三浦忠司先生。まだ若いが実に熱心。やがて当地の歴史学を背負って立つだろう」八戸の文化に大きな足跡を残した故工藤欣一さんが、1980年に」本紙への寄稿に記した一文だ。その言葉通り、八戸地方の歴史研究の第一人者として、誰からも頼られる存在になった。歴史研究の道に足を踏み入れたのは、青森県立高校で政治経済の教諭として働き始めた23,24歳頃だ。知人に明治時代の古文書の存在を知らされ、調査に携わったのがきっかけだった。研究する中で、後に八戸市立図書館館長になる故西村嘉さんと出会い、県南地方への赴任を機に、研究にのめり込んでいく。西村さんに「あれについて調べてみないか」と次々誘いを受け、「はちのへ水物語 水道二十五年史」(八戸市、78年刊)や「青森県の地名」(平凡社、82年刊)の執筆に参加することになった。帰宅後に夜中まで執筆し、朝6時に起きて学校へ行く生活は大変だったが、「やらなければ」という使命感があった。「最初の大きな仕事で、一番思い出に残っている。本になると充実感があり、『またやろう』という気持ちになった」やがて、自身の研究の中心は八戸藩の歴史に定まっていく。資料を読み解くだけでなく、「八戸の資料を使って研究したものを、全国の学会誌に発表する」「全国の中での八戸の位置付けも考える」ことも大切にしてきた。地元だけでなく、全国各地の図書館に足を運んで、論文を読みあさった。81年には、西村さんや地元の愛好家と共に八戸歴史研究会を結成した。相互研鑽を積み、会員の論文や書評を掲載した機関紙「八戸地域史」(2023年に休刊)を第60号まで発行した。「最初の古文書に出会ってなくても、遅かれ早かれ歴史研究はしていたと思う。しかし、西村さんとの出会い抜きには考えられない」と研究人生を振り返る。92年に八戸市で開催した「安藤昌益国際フェスティバル」の実行委員会事務局長を務めたことも、深く印象に残っている。専門的に昌益の研究をしていたわけではないが、昌益の資料が多く残されている八戸市立図書館に集まる全国の研究者の話を横聞きして詳しくなっていった。「学者の大会ではなく、市民を中心にしたい」という研究者の思いを受け、芝居の上演を企画したり、海外からゲストを呼んだりと奔走し、フェスティバルを成功に導いた。一過性のものにならないよう、その後も安藤昌益基金の設立や催し開催など、昌益の名を広める活動に携わり続けた。現在も県内外の講演会や原稿の執筆に引っ張りだこだ。「私が受けた恩を若い人に返さなければならない」と後進への声がけ、支援も忘れない。「あれをやろう、これをやろうという決まったものはない」頼まれて深く調べていくうちに、形にして残そうと論文を書く。ひととの関りから始まった研究活動はこれからも続く。
2024.11.26
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ORICON NEWS の記事の一部転載です。国立がん研究センターの最新調査によると、大腸がんは、国内で年間約15万5,000人が診断されており、がんの部位別で罹患者数(男女総数)が1位と、多くの人が罹患しているがんだ。1960年代は5000人ぐらいの患者数だったのが、2019年には7万人を超え、右肩上がりに増加している。その背景について、高橋医師は、WHOで報告されているデータから、過体重=肥満や運動不足、そして加工肉や赤身の肉などがリスクを上げているのではないかという説を紹介。また、リスクを下げるものとして野菜や果物の摂取を挙げた。アルコールはその他のがんでは、発症リスクが高くなるものとして指摘されているが、大腸がんにおいては、あまり強い相関にないと言う。罹患者数が多く、気を付けたいがんであることに違いない大腸がんだが、「日本の手術は技術が高く、そこはひとつ安心してほしい」と高橋医師。「大腸がんの手術治療は開腹手術から腹腔鏡下手術に、さらにロボット支援手術へと変化しつつあり、低侵襲の手術に変わってきています。現在の手術による切除率はどのステージにおいても高く、平均97%。また、ステージ1~3全体の5年生存率に関しても86%と、その他のがんと比べると高い。ただし、治療による後遺症のほか、再発率が16.5%なので、それは念頭に置く必要があります」【大腸がん手術治療の主な後遺症】 1 排尿障害 ・直腸がん手術時の自律神経の損傷による障害 ・残尿が増えたり尿が出しにくい症状 2 性機能障害(特に男性) ・直腸がん手術時の自律神経の損傷による障害 ・男性の○起障害や射○障害 3 排便障害 ・直腸がん手術跡の排便回数の増加 ・肛門付近で腸をつないだ場合に、便汁や粘液の染み出し、失禁再発率はステージで異なり、ステージ1~3全体として20%弱だが、術後の補助化学療法も進歩し、再発予防に寄与できているという。 「再発出現率は5年以内が97.3%で、5年を超えて出現する割合は0.43%です。つまり、術後、5年間の緊密な経過観察が重要で、再発時には、適切な治療を受けることが肝要となります。ただ、できれば7年から10年、見ていただければさらに安全か、と思われます。転移した場合の予後は、状況によって大きく変わりますが、他のがんに比べると、比較的“向き合いやすい”と感じています」大腸がんは、進行すると『便がでにくい』『血便がでる』などの症状がでるが、無症状でも進行がんになることも少なくないという。高橋医師がかつて、無症状の患者74例を調査したところ、61%(45例)が進行がんだったと明かす。さらに、この時の無症状患者74例のうち、大腸がん発見の動機となったのは、便の潜血反応による検診が78%、バリウム・内視鏡が22%とし、定期的な検診による早期発見と早期治療を呼び掛けた。※がん情報サービス(国立研究開発法人国立がん研究センターがん情報センター) がん種別統計情報 【高橋慶一医師】 グレースホームケアクリニック伊東 院長、元がん・感染症センター都立駒込病院外科部長。
2024.11.26
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地元紙の記事の転載です。八戸市民病院が今年、19年ぶりに生体腎移植手術を再開した。7月には青森県南地方の男性患者に移植し、既に職場復帰を果たしている。県内では弘前大学医学部付属病院でしか手術を受けられなかったが、北奥羽地方の患者が遠方に行かなくても移植治療を望めるようになった。担当するN消化器外科部長は「身近に移植できる環境を整えることで、希望者の助けになれば」と話している。腎移植は、腎臓機能が廃絶した「末期腎不全」の患者に有効な治療法の一つだ。生体腎移植は、親子やきょうだい、夫婦間などで行われ、ドナーの腎臓2個のうち1個を摘出して患者に移植する。国内で行われている腎移植の約9割を占めている。人工透析に比べて生活への制限が少ない点などが利点で、N医師も「患者にとって理想的な治療法ではないか」との認識を示している。日本臓器移植ネットワークによると、2023年末時点で脳死・心停止後の人をドナーとする「献腎移植」の希望者は約1万4千人いたが、同年の移植実績は約250件にとどまる。臓器提供者が少なく、手術できる病院も限られることから、平均待機年数は14年9ヶ月と、他の臓器に比べても圧倒的に長い。市民病院では1980年に1例目の生体腎移植を実施した。献腎移植と合わせて、23年までに20例の腎移植実績がある。ただ、生体腎移植については、合同で手術を行っていた他病院との間で術者の融通が難しくなり、05年を最後に中断した。その間に手術方法が変わり、再開を模索する中で、人員確保も課題となった。一方、県内で唯一、生体腎移植を実施していた弘前大学病院では、移植件数が年々増加してきた。こうした中、実績を上げる同病院の後押しがあって、市民病院でも再開に向けた動きが加速し、昨年8月、N医師を中心とした業務遂行組織が発足して、手術再開に至った。今年7月に行った生体腎移植では、県南の40代男性が、60代の母から移植を受けた。ドナーの母は4日後、男性も約3週間後に退院した。男性は職場復帰も果たし「地元で受けられて良かった」と感謝を口にしていたという。生体腎移植再開を機に、市民病院は窓口となる「移植外科外来」を新設し、一層の周知を図っている。N医師は、「まずは選択肢の一つとして、生体腎移植を知ってもらいたい。患者の希望に応えられるよう、私たちも引き続き準備を整えていく」と話している。
2024.11.25
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図書館に、川柳の本を探しに行ったら、下の「NHK思い出テレビ60年」という写真集が、目立つところに並んでいました。早速、借りてきました。最近は、昔のことが懐かしく感じられます。加齢し、もう間もなくかなと思うと、過ごしてきた時代がが愛おしくなります。説明抜きで、写真だけを掲示しています。若い人には面白くないかもしれませんが、「あぁ、そうだったか」という人が1人でもいてくれれば、うれしいです。
2024.11.25
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光星高校吹奏楽部の定期演奏会に行ってきました。会場は生徒、父兄なども含めてほぼ満席でした。3部構成で、休憩2回を含めて、約2時間演奏しました。新入生14人を加え、総勢41名と顧問3名が一丸となって練習に励んできました。吹奏楽コンクールでは、今までは小編成での参加でしたが、今年初めて、大編成で出場しました。その結果、八戸地区大会では金賞を受賞し、青森県大会に進みましたが、惜しくも銀賞に終わりました。この日の演奏で、3年生は吹奏楽部を卒業しました。新学期からの活動記録です。第1部はコンクールの課題曲を中心にしています。第2部は映画音楽です。第3部は生徒さんの耳に馴染んでいるポップスを演奏しました。曲の演奏中に、前に出て来て独奏する場面が何度もありました。また、演奏の合間に、マイクを持って二人で会話することもありました。「2014年に流行った歌をやろうよ」「10年前か・・・」これを聞いて思いました。高齢者にとって10年はあっという間に過ぎてしまい、ついこの前ですが、今の高校生の10年前は・・・、小学校低学年です。そういえば、あの頃の10年間は長かったと、今でも思います。加齢とともに、時の流れは早くなっていきます。もう一つ、皆さん、全身から若さが溢れ出ていて、あぁ、この人たちは青春をしているのだと羨ましく感じました。自分の同時代は、若さなどには気が付かなかったです。過去を振り返ってみると、あぁ、あれが若さだったんだなと、納得がいきます。とても楽しい時を過ごすことが出来ました。そして、いろいろと考えさせられました。ありがとうございました。
2024.11.24
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続けて、現代ビジネスの記事の転載です。2020年、女性の半数が50歳を超える。2024年、全国民の3人に1人以上が65歳以上になる。2033年、3戸に1戸が空き家になる。2040年、自治体の半数が消滅する――人口カレンダーで人口減少ニッポンの「不都合な真実」を暴いた累計100万部突破のベストセラー『未来の年表』シリーズ。①金融・・IT人材80万人不足で、銀行トラブル続出②公務員・・60代の自衛官が80代を守る③住宅・・30代が減って、新築が売れなくなる④鉄道・・駅が電車に乗るだけの場所ではなくなる⑤インフラ・・水道料金が月1400円値上がりする⑥寺院・・多死社会なのに寺院が消滅する⑦物流・・運転手不足で、10億トンの荷物が運べない「日曜日の初耳学」では、林修氏の熱烈オファーにより、人口減少問題の第一人者として河合氏が登場。少子高齢化による人口減少で沈没の危機にある日本社会の未来とその解決策について語り合った。まず、『未来の年表』では未来をどう予測しているのか――。2030年には百貨店も銀行も老人ホームも地方から消えることや、今後東京で高齢者が増えることで手術が半年待ちになることが紹介された。「人口は予測ではない、過去に行ったことの投影なんです。だから、外れる外れないではなくて、過去を見ればわかるんです」(河合氏)この国の出生数が100万人を切ったのが2016年のこと。それから急激なペースで減り、今年上半期の出生数は38万人となり、1年間では75万人ほどになるのではないかとも言われる。これは国の予想より11年前倒しで少子化が進行していることになる。東京一極集中が進み、「地方消滅」が叫ばれている。政府は過疎地域への移住を推奨し、空き家を安く貸すなどの対応をしている。だが、「こうした移住政策はやめるべき」だと河合氏は言う。さらには、「この先、『ポツンと5軒家』はやめるべきだ」と主張する。どういうことだろうか。山里に行くと90代1人暮らしの人だらけという光景が珍しくない。そこに30代の家族が移住したとする。10年後には高齢者が亡くなり、若い移住者だけが残ることになる。「ポツンと5軒家」から「ポツンと1軒家」の状態になるのだ。すると、わざわざ1軒のために、電気やガスや水道を提供しないといけなくなり、他地域のインラフの料金もアップする。実際、2043年には水道代が1.4倍以上になるという予測も出ている。しかし、地方移住にも希望はあると河合氏は言う。現状の移住政策では一極集中を是正できていないが、「地方集住」という形であれば可能性があるのではないか、と。人が住む地域と住まない地域を明確に分けることができれば、そこには民間事業を残すことができるという。最低10万人の商圏を維持できれば、そのエリアは持続可能と言われている。番組では秋田県が例として取り上げられた。2015年には約102万人だった人口が2045年には約60万人に減少。60万人ということは10万人の商圏が6つしかない。そうした状況となる秋田県の生き残り策は「秋田市に全部移住するか」「秋田県を秋田市と名乗るか」だという。仙台と並ぶ100万都市にするために、多少の痛みを伴ってでも大胆な変化をしていかないとこの先の変化には対応していけない。人口減少による影響は、生活に欠かせない場所にすでに現れている。具体的には、「2030年には大型ショッピングモールは維持できなくなる」という事態が起こる。見込んだお客さんが来ず、場所によっては閉店が始まっており、今年だけで25店が閉店しているという。想定以上に人口減少が進んでいるのだろう。これから何が起きるのかといえば、既存の商店街が壊滅し、ショッピングモールが閉店し、地方には何も残らない未来の到来だ。しかし、政治(家)は解決してくれなさそうだ。人口減少は10年単位で取り組まなければいけない問題なのだが、票にならない政策は食いつきが悪いのだという。それでも、今からやれば、正しく対応すれば、豊かな日本は続けられると河合氏は語った。日本では2042年から本格的な人口減少が始まる。人口を増加させることは難しいため、人口減少を前提にどうしていくのかを考えなければいけない。人口減少時代において、生産性・成長を維持していく経済モデルを作ることが大事になってくる。「まだ日本が経済大国でいられるうちに、戦略的に縮める必要があります。これまでの産業を維持していこうと思うと、どこの分野も人材不足になってきて維持できません。日本は各分野に産業があるので、捨てるものは捨てて残すものは徹底してよくしていくべきでしょう」(河合氏)具体的には、日本より人口が少ないドイツやフランスなどのヨーロッパ型を目指すべきだと河合氏は提言する。例として挙げるのは、自動車会社フォルクスワーゲンのポルシェというブランドだ。ポルシェの昨年の売り上げは約28万台で約50億ユーロの営業利益があった一方、フォルクスワーゲンの売り上げは約457万台で営業利益は約25億ユーロだった。フォルクスワーゲンがポルシェと同じ利益を生み出すには、900万台近く売らねばならない。ここから言えることは何か。生産量も労働者も消費者も激減する日本にとって、「高品質なものを高付加価値で売る」というモデルを築き上げることが急務となるということだ。
2024.11.24
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地元紙の記事の転載です。八戸藩の稗(ひえ)(1834年)三合一揆から190年が経過したのに合わせ、講演会「大一揆の舞台をゆく」(歴史の街づくりの会主催)が久慈市文化会館で行われ、市内外の歴史好きが一揆の背景や影響などに理解を深めた。1833(天保4)年の凶作を受け、八戸藩は農民1人につき「一日稗三合」を食い分とし、生産した残りは全て相場より安く買い上げる施策を打った。強引な手法に農民が反発した。1834年1月の久慈・大川目村を皮切りに農民が蜂起し、全領地の一揆に発展した。農民2万人超に寄る八戸藩最大の一揆となった一方、死傷者や打ち壊しなどは確認されず、統制の取れた行動だったとされる。講演では、八戸歴史研究会の三浦忠司会長が、一揆が久慈で起こった背景や藩の対応などを説明した。「藩日記には首謀者や参加者、その処罰については見受けられない。大規模な一揆で首謀者がいないのは不自然だ。一揆は処罰された野村軍記を追い落としたい藩の勢力が協力して行われた権力闘争だったのではないか。城下に突入しなかったのも、事前に把握されていたようだ」との見方を示した。引き続き、歴史を活かした街づくりの会の弥藤事務局長が登板し、「久慈地方の先人は度重なる一揆から、現実の不正義に関わることで、社会の変革が可能であることを学んだのではないか」とまとめた。「大一揆」の作者・平谷美樹さん(久慈市出身)との自由討論も行われた。(三浦さんは八戸市下長公民館での講演で、藩と名主との間に合意があったとの考えを示していました)
2024.11.23
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現代ビジネスの記事の転載です。この国の人口はどこまで減っていくのだろうか。今年1年間の出生数が70万人割れになるかもしれず、大きな話題となっている。 そんな衝撃的な現実を前にしてもなお、多くの人が「人口減少日本で何が起こるのか」を本当の意味では理解していない。ベストセラー『未来の年表 業界大変化』は、製造・金融・自動車・物流・医療などの各業界で起きることを可視化し、人口減少を克服するための方策を明確に示した1冊だ。 ※本記事は河合雅司『未来の年表 業界大変化』から抜粋・編集したものです。2020年の国勢調査は、日本の総人口を1億2614万6099人だとした。国勢調査における人口減少は2回連続である。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2040年までの20年間だけで1500万人以上も減る。その一方で出生数の減少スピードはコロナ禍の影響もあって加速しており、人口減少が下げ止まる気配は全くない。このままではズルズルと国内マーケットは縮小していく。だからと言って、外国人をあてにするのも難しい。国勢調査によれば外国人人口は前回調査より43.6%増加し過去最高となったが、この5年間の増加数はわずか83万4607人にとどまる。とても日本人の減少幅を穴埋めできる数ではない。外国人観光客も、感染症の波が繰り返し起きている現状を考えると過度の期待は禁物だ。 まさに八方塞がりである。もはや多くの企業は国内マーケットの縮小を前提として経営戦略を立てざるを得ない。 高付加価値化による収益構造の転換が急がれるが、海外マーケットに活路を見出せる企業は軸足を移すのも選択肢となろう。だが、「海外マーケット」と言っても広い。進出する国を間違えたならば、大きな痛手を受けるだけで終わる。海外マーケットの取り込みには時間がかかるためだ。現状では魅力的に映っても、数十年後には先細りしていく国もある。こうした国は避けたほうが賢明である。その代表格が中国だ。経済にかつての力強さが見られなくなったからでも、米中対立の狭間で苦しむことを危惧しているわけでもない。もっと構造的な問題が横たわっているからである。2020年の中国の国勢調査によれば、同国の総人口は世界最多の約14億1178万人だったが、これから人口減少によって巨大な消費マーケットや豊富な労働力を短期間で失っていく予測されているのだ。言うまでもなく中国は巨大な人口を武器として短期間で経済発展を遂げたが、現在ピークにあると言ってよい。経済的に結びつきの強い隣国ではあるが、深追いしすぎると命取りとなりかねないのである。中国の総人口がどれぐらい減るのかを見ていこう。人口減少については中国政府も認めている。問題はそのペースだ。速ければ社会の負担は大きく、経済成長にブレーキをかける。そこでポイントとなるのが合計特殊出生率となる。中国政府は2020年の国勢調査に合わせて「1.3」と公表した。これは国連の低位推計が前提としている値に近い。そこで、低位推計による2100年の総人口を確認してみると6億8405万人だ。80年かけてほぼ半減するということである。ところが、「1.3」という数値については、中国国内の学者からも「実態より高い」といった異論が噴出している。中国国家統計局は2000年の合計特殊出生率を1.22、2015年については1.05としてきており、各国の研究者には「実際には1.0~1.2程度」との見立てが少なくないのだ。「1.3」に否定的な見方が強いのは、中国政府が発表した他のデータが深刻なこともある。例えば、2020年の年間出生数は1200万人とされたが、2019年の1465万人と比べて18%もの大激減であった。 わずか1年で2割近くも減るというのは尋常ではないが、中国が毎年発表してきた年間出生数にも疑いの目が向けられてきた。それが国勢調査で一挙に表面化した形だ。国勢調査は0~14歳人口を2億5338万人としたが、該当する年の年間出生数を足し合わせても2億3900万人ほどにしかならず、1400万人もの食い違いが生じたのである。 各年の出生数は政府が発表してきた数値よりも少ない可能性が大きく、中国の人口はすでに減少に転じていると分析する学者が少なくない。北京大経済学院の蘇剣教授も、2019年に北京で開催されたマクロ経済に関する会議において、「2018年に減少に転じた可能性がある」との分析結果を公表している。さらに「1.3」を疑わせることになったのが、中国国家統計局の年報だ。2020年の出生率(人口1000人当たりの出生率)を8.52人と発表したのである。これは比較可能な1978年以降で最低であり、10人を下回ったのは初めてであった。 そもそも人口統計に限らず中国の統計データはかねて信憑性を疑われてきた。これらのデータを総合的に判断するなら、多くの研究者が指摘する1.0~1.2台と考えるのが自然だろう。合計特殊出生率が1.0~1.2台ならば、母親世代と娘世代と比較して出生数がほぼ半減していくこととなり、総人口はとてつもなく速いスピードで減っていくこととなる。これを裏付けるような衝撃的な研究レポートがこのほど西安交通大学の研究チームによって発表された。合計特殊出生率が1.0の場合、2050年には中国の総人口は7億人台になるというのだ。中国政府の“言い値”の通り「1.3」が持続したとしても2066年には7億人台になるとしている。あと30年を待つことなく総人口が半減する事態となったならば、社会の各制度を改革している暇がなくなる。半減に至るまでもなく年金をはじめ人々の暮らしにひずみが生じ、社会の混乱が避けられないだろう。『大国空巣』(=空っぽの巣の大国という意味)の著者でもある米国のウィスコンシン大学の易富賢研究員は、2020年に発表した論文で中国の総人口を12億6000万人と推計している。さらに、2100年の総人口は4億人を割り込み、3億人台にまで落ち込む可能性があるとの予測も示している。ここまで減ったならば、中国社会は現在とは全く異なる姿となる。中国が激しい人口減少を招くことになった要因は「一人っ子政策」である。中国政府は、自らまいた種に苦しんでいるのだ。危機感を募らせた中国政府は1組の夫婦が子どもを3人までもうけることを認める政策の大転換を図ったが、その効果は疑問視されている。かつて条件付きで2人目の子どもを認める緩和策を講じた際も、思うような出生数の回復につながらなかったからだ。多くの人は、国の政策で制限を受けているから子どもを1人で諦めているわけでなく、個々の夫婦が意思として1人しかもたないようにしているのである。人口が減ることだけが課題ではない。むしろ、中国は人口減少の過程で起きる高齢化の進行に苦しむこととなるだろう。国家衛生健康委員会によれば、2020年11月1日時点における65歳以上は日本の総人口を上回る1億9064万人を数えた。高齢化率は13.5%だ。すでに圧倒されそうな人数だが、中国の高齢化スピードは速く高齢化の本番はこれからだ。2060年には高齢者数のピークを迎え、この時点の高齢化率は33.8%に達する。3人に1人が高齢者という社会である。高齢化の進行に伴って勤労世代(20~64歳)は減っていく。国連の低位推計によれば、2020年の9億2978万9000人から、2100年には3分の1の3億752万7000人になるという。今後40年間は、日本と同じく勤労世代が減りながら高齢者だけが増えるいびつな社会になるということである。これを65歳以上の高齢者に対する25~64歳の人口比率でとらえ直すと、2050年には1.9となり、早くも2人の勤労世代で1人の高齢者を支えなければならなくなる。合計特殊出生率が「1.3」よりも低ければ、もっと早い段階でこうした社会が到来する。 すでにいくつもの省の年金積立金の枯渇危機が伝わってきているが、勤労世代の負担は年を経るごとに大きくなる。それは、やがて若者の不満の高まりや労働意欲の減退という形で表れることだろう。 年金生活になれば、若い頃のようには消費できなくなる。必要とするモノやサービスも年齢とともに変わる。すなわち、実際の人口が減少する以上にマーケットは縮むということだ。中国政府は人口減少に伴う経済面のマイナス要素を技術革新によってカバーすると考えているようだが、社会としての“若さ”を失うにつれてイノベーションを起こす力も弱っていく。中国には、十分に豊かになる前に衰退がはじまることを指す「未富先老」という言葉があるが、これらの人口データを見る限りそうした未来は避けられそうにない。いくつかのシンクタンクは、中国のGDPが米国を追い抜くといった予測をしているが、夢物語に終わるかもしれない。実現したとしてもつかの間のことだろう。中国は今、大きく変貌し始めているのである。幻想にいつまでも追いすがり、闇雲に突っ込んでいったならば、日本企業は国内マーケットの縮小と中国マーケットの変質という2つの課題を同時に抱え込むことになりかねない。日本の人口が増えていた時代ならまだしも、国内マーケットが崩れていく過程においてはあまりに重荷だ。これまで多くの企業が成功した国だからといって、今後もうまくいくとは限らないのである。どこの国のマーケットに将来性があるのかを知るのに、既存のイメージに頼り、中途半端な情報に振り回されるのではあまりに危うい。初めて本格的な海外進出を目指す企業はなおのことだ。現地のデータを可能な限り収集し、慎重に分析する必要がある。つづく「日本人はこのまま絶滅するのか…2030年に地方から百貨店や銀行が消える「衝撃の未来」」では、「ポツンと5軒家はやめるべき」「ショッピングモールの閉店ラッシュ」などこれから日本を襲う大変化を掘り下げて解説する。日本の人口減少問題(2)に続きます。
2024.11.23
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「是川縄文の日」の催しが開かれました。この日は無料です。八戸では是川縄文館も、根城にある博物館も、フラッシュをたかなければ、写真撮影は可能です。ただ、ここの展示物には漆を塗ったものが結構あり、保存のために一部が暗くなっています。土面作りや、勾玉作りは子供たちで混んでいました。ボランティアガイドの方々が、お手伝いをしていました。そのため、この日はボランティアガイドの方の案内は中止していました。さわってみよう、縄文の道具の部屋です。縄文のムラを再現しています。国宝・合掌土偶はこのような格好で出土しました。中央の右端に風張1遺跡があります。この写真を見ると、左脚が身体から離れていることが分かります。立派な椅子に座っていないと、まずいことになります。11時に到着した時は、チャームは売り切れで、合掌土偶のお菓子は1個のみ、マドレーヌは10個ほどありました。抹茶入りのマドレーヌをお付き合いしました。千葉学園高校は、縄文の衣装も作っていて、是川縄文館の通路に展示してあります。館内には食堂があります。以前あったカレーは、現在、作っていません。せんべい汁を食べました。盛り付けが丁寧で、中に何が入っているのかが分かりやすいです。正体不明なのが「せんべい」です。出汁が効いていて、美味しかったです。展示物の見学は2回、巡りました。ボランティアガイドさんの説明があれば、もっと理解しやすかったと思いました。後日再訪して、案内をお願いしたいと思います。
2024.11.22
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讀賣新聞オンラインの記事の転載です。関東地方や九州地方が主産地のサツマイモが、寒冷地である北海道内でも生産量を伸ばしている。温暖化で栽培しやすい気候になってきたことや、「甘みが増す時期が他県産より早い」という特徴が流通上のメリットになっている。全国シェアで見ると、まだ1%にも満たないが、生産者は新たな高収益作物に育てたいと期待しており、集出荷を担うホクレン農業協同組合連合会も「北海道を全国有数の産地に」と後押しする。10月中旬、石狩平野にある新篠津村でコメや麦などを生産する男性(45)がトラクターで牽引(けんいん)する車両を使って畑からサツマイモを掘り起こし、車両に乗り込んだ家族らがミニコンテナ(かご)に収めていた。男性が本格的にサツマイモ栽培に取り組み始めたのは一昨年。近年の「焼き芋ブーム」により国内外で需要が高く、定植後に病害虫防除などの管理作業がほとんどいらない利点に着目した。今では村内12戸の農家が加盟する新篠津村農協甘藷(かんしょ)部会の部会長も務める。ただ、主産地の茨城県のような水はけの良い火山灰土壌ではないため、春先に土を細かく砕くなど畑作りの工夫を重ねてきた。生育は順調で、今年は2・3ヘクタールの畑で人気品種「シルクスイート」など約50トンを収穫した。男性は「サツマイモは将来的に高収益が期待できる数少ない農作物。味は主産地のレベルに到達できていないが、改良を重ね、安定経営の『武器』にしたい」と意気込む。農林水産省の作物統計調査によると、昨年の全国のサツマイモ生産量は71万5800トン。このうち、鹿児島県が21万5400トン、茨城県が20万200トン、千葉県が9万1300トンで、上位3県で全体の約7割を占める。北海道は1870トン(ホクレンのまとめでは1273トン)で1%にも満たないが、ホクレンによると道内産はここ数年で大きく伸びており、今年の生産量は1907トンと、一昨年の3倍となっている。「農業王国」の北海道でサツマイモの栽培が少なかったのは、寒冷地には不向きな作物とされてきたことに加え、収穫後の洗浄、選別、貯蔵といった手間がかかる作業を産地だけで担うのが難しいという事情もあった。そのためホクレンでは、協力企業の苫小牧埠頭(苫小牧市)が苫小牧港に昨年整備した、サツマイモの一元集出荷施設(選果場)を活用。生産者には収穫後の負担を極力なくす方式にして生産を勧めている。今年は同村を含む道内一円の25農協から約650トンを集めた。ホクレンの担当者によると、近年は温暖化の影響で、定植から収穫までの積算温度(毎日の平均気温の合算値)が高くなり、サツマイモに適した気象条件という。また、でんぷんが糖に変わって甘みが増す「糖化」が、他県産では収穫後の12月以降に進むのに対して、道産は収穫時の10月頃と早い。昼夜の寒暖差が大きいためとみられる。このため、出荷時期が九州、関東産が本格的に出回る前の「端境期」にあたり、流通上の大きな利点だとしている。サツマイモ関連情報を発信する一般社団法人「さつまいもアンバサダー協会」代表理事の橋本亜友樹(あゆき)さん(46)は「暑い地域では作りにくくなってきており、適地は東北以北だとも言われている。北海道の大規模、効率的な農業が、サツマイモにも生かされ、生産が伸びることを期待している」と話している。(サツマイモの産地は南国だとばかり思っていましたが、東北や北海道に適地が移って来ているんですね。知りませんでした。)
2024.11.22
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●地元紙の記事の一部転載です。五戸町と八戸市をつないでいた旧南部鉄道沿線を歩く催しが行われました。各地点で、同鉄道の元社員が運行当時の様子や思い出を紹介した。参加した人は往時に思いをはせながら、始発駅の尻内駅舎があった八戸駅西口付近から、五戸町の「ごのへ郷土館」まで、約8kmの道のりを歩いた。案内を務めたのは元社員のHさん、Sさん、Tさん。参加者は「ごのへ郷土館」に集合してから、路線バスで八戸駅西口へ移動した。尻内駅跡地では、Tさんから「駅舎はそれほど大きくなかったが、人や物がたくさん行き交い、一日中慌ただしかった。駅長は駅舎で寝泊まりしていた」と解説を受けた。出発後、国道454号や浅水川沿いなど、線路が通っていた場所付近をたどり、張田駅、正法寺駅、七崎駅、豊崎駅の跡地を巡った。五戸町に入り、志戸岸駅近くの志戸岸天満宮では、Sさんから「神社よりずっと高い場所を線路が通っていた。冬場は大変だったが、列車が良く走ってくれたと思う」と説明を聞いた。その後、15分ほどで終点の「ごのへ郷土館」に到着し、完歩できたことを喜んだ。(南部鉄道は1968年5月16日午前9時48分に発生した十勝沖地震で壊滅的な損害を受け、復旧しないまま廃線になりました。前日まで降っていた大雨のため地盤が緩んでおり、地滑りや土砂崩れが発生しました。南部鉄道の沿線では被害が大きく、南部鉄道自体も壊滅的な打撃を受けました。マグニチュードは7.9、八戸の震度は5でした。南部鉄道の関する動画は「こちら」からご覧いただけます。4人の生徒が生き埋めになり死亡した「旧剣吉中学校」に関する動画は「こちら」からご覧いただけます。●東奥日報の記事の転載です。「菊駒酒造(五戸)破産開始決定」五戸町の菊駒酒造が20日までに、青森地裁十和田支部から破産手続き開始決定を受けた。同日発行の官報に掲載された。開始決定は7日付。同社は「菊駒」の銘柄で日本酒を製造していたが、販売低迷を受け2023年に日本酒の生産を停止し、23年9月で従業員を全員解雇していた。信用調査会社の東京商工リサーチ八戸支店によると、負債総額は調査中。
2024.11.21
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マネックスメールマガジンから、岡本兵八郎さんが書いています。米国の大統領選挙はトランプ前大統領が圧勝であっけなく終わってしまいました。今更なのですが、日本と違うアメリカの大統領を選ぶシステムをおさらいしましょう。大統領選挙では2種類の投票が行われます。それぞれの州の「選挙人」を選ぶのと、「大統領の人気投票」が同時に行われます。選挙人の数は、その州の人口に比例しており、各州ごとに選挙戦が行われます。ほとんどの州では、その州で最も多くの有権者の票を得た候補者が、その州の全選挙人票を獲得する「ウィナー・テイクス・オール」という仕組みです。一方、人気投票は、ハリスさんか、トランプさんのいずれかの大統領候補を直接選ぶことができ、単純に全国規模で有権者にどれだけ支持されているかがわかります。ただ、最終的に誰が大統領になるかは、人気投票ではなく、選挙人団(全国で選ばれる選挙人の集まり)の得票数に基づいて決まります。ですから、人気投票はあくまでも参考ということになるのです。その選挙人団投票においては、合計で538の選挙人団の得票数のうち270票獲得した方が勝ちとなります。トランプさんは312票を獲得、ハリスさんの226票を大きく引き離し勝利しました。人気投票でも前投票者数148,965,481人のうち、75,981,870 人(50.1%)の国民がトランプさんに投票、ハリスさんに投票したのが72,988,059人(49.9%)と、こちらでもトランプさんが過半数をとりました。因みに2016年の選挙では、民主党のヒラリー・クリントンさんが全国での人気投票で多数を得ましたが、トランプさんが選挙人団で勝利し、大統領に選ばれました。逆に2020年の選挙では、トランプさんは人気投票では勝ったものの、選挙人団でバイデン大統領に負けてしまい大統領職を失ったのです。 人気投票をみると、今回の選挙ではハリスさんより300万人ほど多くのアメリカ人がトランプさんに投票したことになります。この300万人を多いと見るか、少ないと見るかは意見の分かれるところですが、私は決して少なくないと思いました。今回の選挙については、直前のアンケート調査等ではトランプさんの人気が高まっており、なんとなくトランプさんが勝つかなと思っていたものの、私は最終的にはアメリカ国民は物議をかもしやすいトランプさんより、ハリスさんを選ぶのではないかと考えていました。 それは日本人としても、ハリスさんの方が、国際関係においても世界の常識的な行動をとるだろうからと、日本にとってもよいだろうという希望的観測があったのかもしれません。しかし、投資と同じように、結果が全ての選挙において、今回アメリカ人はトランプさんを選んだのです。では、何が今回の選挙で勝敗を決めたのか、何か一つの要因がという単純なものではないものの、経済が大きな焦点であったことは間違いないと思います。このコラムをお読みになっている皆さんが、毎朝起きて最初に知るアメリカのニュースというと、昨夜のニューヨークダウやS&P500の値動きではないかと思います。2024年の米国株は、選挙の前でも堅調に推移しており、なんども史上最高値を更新していました。ここだけを見ると、アメリカの経済は絶好調と思えます。ただ、「ウォールストリート」(金融街)と、メインストリート(一般市民や庶民の生活)の状況は違うと言われています。本来株価指数は、経済の先行指数と言われているものの、「経済」が良いという意味が、全ての国民の経済状況が良いという訳でないのが近年特に顕著になっているようです。実際今のアメリカのメインストリートでは、堅調な株価指数とは裏腹に、生活に困っているアメリカ人は少なくないと言います。今回の大統領選挙のキャンペーンの最中のことです。アメリカのテレビを観ていて印象に残ったインタビューがありました。トランプ候補に投票すると言っていた男性なのですが、レポーターに「なぜトランプ氏に投票するのか?」と聞かれたその回答は、「実はトランプは嫌いなのです。でも、今の生活レベルに耐えられなく、バイデンではダメ。ハリスもダメで、トランプに投票せざるをえないのです」というものでした。選挙の結果をみると決してこれは、マイノリティな意見ではなかったようです。調べてみると、アメリカ人のほぼ4割が住宅費の支払いを行うため食事を減らしたというニュース記事があったり、国民の7割以上が経済的不安を抱えていると認めています。インフレの高騰が多くのアメリカ人の生活を襲い、バイデン政権の2期目と言われるハリス政権では現状を変えることは難しいと判断したのでしょう。トランプさんは、それを変えることができると装うことで今回の選挙に勝ったのです。果たしてトランプさんが今後4年で、アメリカの歴史に残るようなレガシーを刻む業績を上げられるのか、しっかりと見ていきたいと思います。マネックス証券 チーフ・外国株コンサルタント 岡元 兵八郎
2024.11.21
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地元紙の記事の転載です。八戸港に1日、岩手県沖で操業した大中型巻き網船10隻が、サバ計1255トンを水揚げした。サバが1千トンを超えたのは2021年11月以来年ぶりだ。主力魚種のサバは近年、記録的な不漁に陥っていたが、ハマは久々の豊漁に沸いた。魚体は小ぶり主体ながら、脂乗りが良く、本格的な秋サバの季節が到来した。八戸港では10月30日に505トンの水揚げがあり、岩手県沖に形成された漁場に向けて、北海道東や銚子港、大津港(茨城)を拠点にしていた船団が終結した。31日夜から1日朝にかけ、洋野~宮古沖で13カ系統が操業し、うち10カ系統が八戸港に水揚げした。この日は、サバを積んだ運搬船が早朝から続々と八戸港に入り、市第一魚市場前の岸壁で水揚げした。入札の結果、10キロ当たり1439~1500円の値が付いた。缶詰の加工原料や、冷凍用になるとみられる。市場関係者によると、魚体は250~300g程度が中心だったものの、30日に漁獲されたサバよりも脂乗りが増しているという。300g超えの大きいものも1~3割ほど交じった。第一魚市場では、船から揚げたサバを輸送するトラックが目いっぱいの稼働状態になった。水産関係者は「10月から漁獲は続いていたが、1千トン以上も獲れるほど急に増えて驚いた」と話した。巻き網船団による道東沖のマイワシ漁が10月末で終了したため、今後は三陸沖でサバを狙う船団がさらに増えて20カ系統以上になる見通しだ。卸売業・八戸魚市場のF市場部長は「秋サバの季節に入ったと思う。小ぶりが多くても脂が乗っていて身質がいい。これからも続いてくれれば」と期待を寄せた。一方、八戸港では1日、大中型巻き網船団が道東沖で漁獲したマイワシの、今季最後となる水揚げも行われた。4隻が計485トンを上場し、10キロあたり511~450円で取引された。
2024.11.20
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東洋経済ONLINEの記事の転載です。2024年春、ジャーナリストの山田稔(64)さんに膀胱がんが発覚、肺にも転移しており、ステージ4でした。医師が語る病状説明を淡々と受け入れ、がんとの共存の道を選択した山田さんは、抗がん剤治療を経て10月に膀胱の全摘出手術を受けました。本連載(今回が初回)では、がんと向き合う日々を記します。2024年春。明らかに身体に異変が起きていた。1月の会合を機に、酒がまったく飲めなくなった。ビールをグラス1杯飲んだだけで気持ち悪くなり、受け付けないのである。日本酒もダメ、ウイスキーもダメ、梅酒もダメだった。連日、夜中まで飲み歩いていた夕刊紙の記者時代が嘘のようだ。2月中旬以降、頻尿が襲うようになった。最初は3時間に1回ほどだったのが、2時間に1回、1時間に1回という具合に深刻化。時折、血尿が混じる。もはや耐えられないと、3月に入り居住地域の泌尿器専門のクリニックを訪れた。その時はまだ「前立腺肥大か、最悪の場合は前立腺がんか」といった思いで受診した。問診から下半身のエコー検査に進み、「後で血液検査を行いましょう」という医師の声にも「前立腺」との思いは消えなかった。ところが事態は一変した。しばらくして再び診察室に呼ばれた。そこで医師が口を開いた。「膀胱に大きな物体が映っています。残念ながら腫瘍の可能性が高いですね。血液検査どころではありません。一刻も早く大病院で詳しい検査を受けてください」「前立腺肥大」なんて甘い幻想はたちどころに消え去った。医師は3つの病院を示し、その中から選んでほしいと言う。自宅から一番近い大学病院を選んだ。医師はさっそく紹介状を書いてくれ、すぐに連絡して行くようにと念を押した。帰宅後、もやもやした頭を整理しようとパソコンで膀胱がんのことを調べる。クリニックの医師は「浸潤している(膀胱の壁にどれだけ深く及んでいるか、深達度によって筋層非浸潤性がんと筋層浸潤性がんに分類される)とは限りませんから」と何度も言ってくれたが、エコーで見た限り腫瘍はかなり大きかった。これは覚悟したほうがよさそうだ。さっそく大学病院に連絡し、3月13日に診察を受けることになった。この日の診察の流れが次の通り。紹介状チェック→問診→内視鏡による膀胱診断→採血→CT撮影→レントゲン撮影→心電図撮影→輸血(診断後)ひと通りの診察が終わって、担当医師は、診察室でこちらの顔をじっと見て診断内容を伝えてきた。「進行性の膀胱がんです。膀胱内の大半を腫瘍が覆っていて、肺とリンパ節に転移が認められます。ステージ4ですね。あと、左右の腎臓それぞれに水腎があります。膀胱内の尿管の出口が腫瘍でふさがれているため、尿が行き場を失い腎臓に逆流したりして、尿が腎臓にたまっているためです。また多量の血尿のため重度の貧血が認められます。立ち眩みや息切れがあるでしょう」なるほど、そういうことだったのか。医師の理路整然とした説明に納得せざるをえなかった。さらに医師が続けた。「今の事態を放置すると腎機能が低下し、腎不全を起こして1カ月も持たないかもしれません。まずは急いで腎機能回復の対策を最優先しましょう」 おっしゃる通り。がんで死ぬ前に腎不全で死んではたまらない。で、どんな措置をするのだろうか?医師によると、腎瘻造設術といって、背中から腎臓に向けて穴をあけ、カテーテルを留置して尿の流れを確保する措置。手術としてはそう難しいものではなく比較的短時間で終了するという。ここまで説明を受け、おおよその運命を察知した。そこで医師に聞かなくてはならない質問がある。「予後はどうですか。生存期間はどのくらいでしょうか」ひと呼吸置いて医師が宣告した。「厳しい言い方になりますが、現状はかんばしくないですね。(腎機能回復後に行う抗がん剤治療で)よほど抗がん剤が効けば別ですが、最悪の場合は1年ちょっと、という事態もあり得ますね」現時点でわかる事実を淡々と伝えられた。包み隠すことなく、余計な同情もいたわりもなく、事実を事実として言及する医師の姿勢に好感を抱いた。この医師なら任せても大丈夫だろう。そんな思いを強くした。 「進行性膀胱がん」「肺とリンパ節に転移」「ステージ4」「余命1年ちょっと」といった言葉が頭から離れない。喫茶店に立ち寄って、コーヒーを飲みながら考えをめぐらす。医師の言葉を反芻しながら、事実は事実として受け止める。いたずらにあらがっても仕方がない。65年近く生きてこられただけでも十分じゃないか。やり残した仕事もないし、家族も元気だし。こうなったらがんと共存し、マイペースで生きていこう。いつしかそんな思いになっていた。帰宅後、容態を案じる家族(妻と娘)に、口頭で「進行性膀胱がん」との診断内容だったことを伝え、詳しくはメモを作成して渡すことにした。パソコンで今日1日の流れ、医師の診断内容、余命宣告をもれなく記載して2人に手渡した。2人は紙を受け取り、黙って読み込んだ。しばらくして妻が「私が毎日拝んでいるから大丈夫よ」と励ましの声をかけてくれ、娘は「症状がわかって対処法が明確になれば、それはそれでいいんじゃない」と現実を受け止めている様子だ。入院時には2人も同行して医師から詳細を直接聞くという。それでいい。久しぶりに家族との一体感を味わうことができた。さあ、がんとの共存生活がいよいよ始まるぞ。膀胱がんとは 膀胱がんは、膀胱にできるがんの総称で、9割以上は膀胱内部を覆う尿路上皮にできる尿路上皮がん。その他には扁平上皮がん、腺がん、小細胞がんなどもある。膀胱がんの患者数は全国で2万3185人(2020年)。男性1万7424人、女性5761人で男性患者が約3倍だ。死亡数は9598人(男性6388人、女性3210人)。生存率(ネットサバイバル=がんのみが死因となる状況を仮定して計算=2014-2015年、5年生存率)膀胱がん全体62.6%、Ⅳ期(ステージ4)18.3%(国立がん研究センターのサイト参照)膀胱がんⅣ期の一般的な治療法(肺に転移しているケースなど)①薬物療法(抗がん剤治療) 2種類の抗がん剤を点滴で投与して行う治療法はゲムシタビン・シスプラチン(GC)療法が一般的だ。この2種類の抗がん剤を使用することで約50%にがんの縮小が見られ、約10%は消失との報告もある。ただし効果の持続期間は平均で10カ月程度で、平均生存期間は14カ月と報告されている(四国がんセンターのサイト参照)。②薬物療法(免疫チェックポイント阻害薬) さらに①で効果がある場合の維持療法として、また①で効果がない、再発した場合の次の療法として、免疫チェックポイント阻害薬を使用する。ひと言で言うと、免疫が、がん細胞を攻撃する力を保つ(ブレーキがかかるのを防ぐ)薬だ。からだを異物から守る機構の司令塔とも言われる細胞集団のT細胞(白血球のうちリンパ球と呼ばれる細胞の一種)のアンテナやがん細胞のアンテナに作用して、免疫にブレーキがかかることを防ぐ。T細胞のアンテナにブレーキがかからないから、T細胞はがん細胞を攻撃することができる。ひところ話題となったオプジーボもこの阻害薬のひとつだ。③薬物療法(抗体薬物複合体) さらにパドセブ(エンホルツマブ べドチン)という薬を点滴で投与する治療法がある。①②で効果がなかったケースでは、かつては標準的な治療法がなかったが、2021年9月にパドセブが保険適用となった。パドセブの働きはこうだ。パドセブの抗体部分が、尿路上皮がん細胞の表面にあるネクチン-4と呼ばれるたんぱく質と結合。パドセブが、がん細胞の内部に入り込み、薬物が切り離される。切り離された薬物が、がん細胞の増殖を妨げ、がん細胞を死滅させるーー。国際共同第Ⅲ相試験(EV-301試験)では、従来の化学療法群と比較して全生存期間(OS)、無増悪生存期間(PFS)で優位な延長効果が認められた。■従来の化学療法に比べても優位 それぞれの中央値は以下の通りだ。OS:パドセブ(12.9カ月)/従来の化学療法(9.0カ月) PFS:パドセブ(5.6カ月)/従来の化学療法(3.7カ月) 全奏効率(治療後に腫瘍が縮小または消失した割合)は、パドセブ群40.6%に対し、従来の化学療法は17.9%。いずれもパドセブ群の優位性が明らかな結果である。さらに、今年9月24日、アメリカ・ファイザーとパドセブの開発を進めているアステラス製薬は「パドセブと抗PD-1抗体キイトルーダの併用療法について、根治切除不能な尿路上皮がんに対する一次治療として、適応追加に関する承認を取得しました」と発表した。このリリースの中で、パドセブとキイトルーダの併用療法群の有効性と安全性を、白金製剤を含む化学療法群と比較した第Ⅲ相EV-302試験のデータが紹介されている。全生存期間(OS)、無増悪生存期間(PFS)それぞれの中央値は以下の通りだ。OS:併用療法群(31.5カ月)/化学療法群(16.1カ月) PFS:併用療法群(12.5カ月)/化学療法群(6.3カ月)このようにⅣ期の患者でも多彩な治療法を選択することが可能になってきた。奏効率や生存期間も従来の化学療法に比べて延びている。とはいえⅣ期の患者の前途が険しいことに変わりはない。5年生存率は18.3%と2割にも満たない。薬物療法が効いたとしても、はたしてどこまで余命を延ばせるか。個人差が大きく、全ての患者がハッピーエンドを迎えられるわけではない。しかし、それは厳粛なる事実、運命として受け入れざるをえないだろう。次回は、腎機能回復の手術の様子を中心にお届けする。※①~③においは、それぞれさまざまな副作用が起こる可能性があるので、治療の際は医師とよく相談してください。山田 稔 :ジャーナリスト
2024.11.20
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●八戸経済新聞の記事の転載です。八戸在住の金山澤英子さんがどじょうすくいを披露する交流会「笑い満載 Eikoのどじょう掬(すく)い」が10月25日、るぽぞんANNEX(八戸市大工町)で開かれた。金山澤さんの知人が初めて企画。当日は、かすり模様の上着を着て、頭に豆絞りをかぶり、鼻先に銭を着けた金山澤さんが安来節に合わせて腰を振りながら登場すると、来場した15人の市民からどっと笑いが起こった。金山澤さんはステージで、上着の袖やズボンをまくり、時折笑みを浮かべながら籠を使って泥の中からドジョウをすくい、衣服や顔に跳ねた泥を落とすようなしぐさを披露。来場者も飛び入り参加し、腰を振って歩く独特の動きの指南を受け、「脚がプルプルする」「この歩き方だとおひねりがもらえない」「歩くだけなのに難しい」などと口にしながら交流を深めた。金山澤さんは2016(平成28)年ごろ、テレビでどじょうすくいの名人の舞を見たことをきっかけに、2017(平成29)年、どじょうすくいの伝承に取り組む安来節保存会東北支部に入会し、どじょうすくいを学んだ。「どこまでも笑いを引き出す名人の精神に涙した。気が付くと島根県の本部に問い合わせていた」と話す。2018(平成30)年、同保存会がどじょうすくいの技術を認定する資格の3級の審査会で異例だという「特別昇給」を受け、2級を取得。その後も、名人の舞の細かな動きをノートに書き込むなどして研究を重ね、1級の認定を受けた。現在は同支部を休会しているが、八戸でどじょうすくいの魅力を広めようと復帰を目指す。金山澤さんは「どじょうすくいは『歩き3年。間取(と)り5年。笑い8年』という。奥深さや、なんとも言えない笑いが起こることが魅力。良くないことも起こる世の中だが、私を見て笑ってもらい、笑いを広げていきたい」と意気込む。(ルポゾンは大工町にある喫茶店ですが、ビールもあります。夜の7時で閉店するのが欠点です。馴染みのお客さんが多く、以前はジャズの演奏会をしていました。入場料を取られました。様々な催しもしている、面白くて、変わった店です。)金山澤さんのどじょうすくいは、you tube 「天津木村のへぇ~第95回」で見ることが出来ます。八戸藩南部家シリーズ⑦です。●地元紙の記事の転載です。冬将軍到来―。青森県内は18日、冬型の気圧配置が強まり、上空1500メートルに氷点下9度以下の強い寒気が流れ込んだ影響で、平地でも雪が降った。十和田市では昼前から大粒のぼたん雪が降り始めた。官庁街通りの桜の木に残る色づいた葉は白く染まり、市民に冬の訪れを感じさせた。各地の午後4時までの最低気温は、六ケ所で今季最低の0・1度となったほか、十和田0・3度、三沢0・4度、三戸0・8度、八戸1・1度など。夜にかけてさらに冷え込み、雪が強まる地点もあった。 19日も津軽や三八上北の山沿いを中心に雪が降る見込み。青森地方気象台は大雪による交通障害や屋根からの落雪、電線や樹木への着雪に注意を呼びかけている。(八戸は昨晩19時ごろから気温が0度となり、その後、夜中には氷点下になりました。今日の最高気温は5~6度の予想です。朝目覚めても、布団から出るのがおっくうになりました。タオルケットと敷布等を洗濯し、外のベランダに干しましたが、ほとんど乾きませんので、ストーブを焚いている部屋干しに変えました。青森市では、平地でも雪が降ったようですが、八戸に住む私はまだ見ていません。八甲田山中の酸ヶ湯温泉の映像を見ましたが、すごい積雪です。)
2024.11.19
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●北海道新聞の記事の転載です。【根室】全国さんま棒受網漁業協同組合(全さんま、東京)は6日、国内最大のサンマ水揚げ拠点、根室市花咲港の今季水揚げ量(10月末現在)が前年同期比2.1倍の1万7941トンと、既に昨年全体を約5千トン上回ったと発表した。2018年以来6年ぶりの多さで、全国の水揚げ量も90%増の2万9344トンとなっている。秋の味覚としての需要は根強く、産地市場の卸売価格は前年並みを保っている。花咲港は14年連続でサンマ水揚げ日本一で、今季の全国の6割、北海道の9割弱を占めている。漁は8月10日に解禁され、道内では他に厚岸漁港が2.4倍の2571トン、釧路港が3.2倍の213トンとなっている。価格面では、花咲港は10キロ当たり単価は4%減の4831円で、水揚げ額は2倍の86億6700万円となっている。全国の水揚げ額は88%増の142億6900万円。(八戸でもサンマは安くなっています。中型の大きさでSスーパーは1尾100円です。Uスーパーは128円ですが、たまに100円の特売をしています。小ぶりなものが多いのですが、内臓は充分に苦くて美味しいです。)
2024.11.19
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国際交流協会の催しが、「マチニワ」と「はっち」で開かれました。2か所は表通りをはさんで向かい合っています。開会から10分ほど遅れて到着したのですが、舞台では十日市秀悦さんが「イサバのカッチャ」姿で、聴衆と会話をしていました。国際交流と「イサバのカッチャ」とはどのような関係にあるのかは分かりませんが、十日市さんは人気者ではあります。会場は盛り上がっていました。「イサバ」とは魚市場や路上で、魚を販売している所を指しています。「カッチャ」はお母さんの愛称です。この日の目玉はこれでした。初めての試みではないでしょうか。トートバッグを貰い、それに出身地を書いてもらうと、最後に景品がもらえるというものです。相手は外国人でなければならないと誤解して、外国人を探しながら、声を掛けていきました。見つけると会話をします。これが楽しかったです。皆さん、日本語が達者です。若い人がほとんどですが、気さくに答えてくれます。お国のことを聞くことも出来ます。バッグに出身地を書いてもらうのも問題がありませんでした。前もって話が通っていたのだと思います。ただ、「名前を書くのですか」と聞き返す人もいたので、そちらを書いてもらった人もいます。問題は、特にアジア系の人は見つけにくく、民族衣装で判断し、迫っていくと、これが日本人であることも多かったです。最後に会話した日本人2人に、「外国人でなくても構わないんですよ」と教えられましたので、二人のサインも貰いました。国際交流ですからと、誤解したことも、かえって良かったのではないかと思っています。最初に書いてもらったのはモンゴルのお二人です。その内の一人は首都から離れた、ゴビ砂漠の方の出身でした。丁寧にキリル文字でも書いてくれましたので質問すると、モンゴルでは、一般にはキリル文字を使っているとの答えが返って来ました。同じ「モンゴル」が並んでいますが、別々の人が書いています。国名だったか地名だったかは忘れましたが、発音を教わりました。何回やっても、そこにいた4人全員からダメ出しをくらいました。男の人が口を開けて、やり方を示しながら発音するのですが、数回やってもらって、やっとわかりました。「える」の発音だったと思いますが、「る」と発音するのではなく、舌を上顎の最前部、上前場の裏側にくっつけたまま、「る」と発音すると、やっと合格が出ました。韓国語にはこういう発音がいくつかあります。それを思い出して、真似てみると、合格となりました。日本語、韓国語、モンゴル語は兄弟言語ですが、モンゴル語と韓国語にはあって、日本語にはない発音もあることを知り、勉強になりました。中国山東省出身の楊俊吉さんは女性ですが、以前八戸に住んでいた友達の楊俊傑さんは男性です。青島の海洋大学で教えていると話したら、この方は青島の出身であることが分かりました。話しが盛り上がりましたが、男性の楊さんは、今は三峡ダムの完成で長江に沈んでしまった四川省の万県の出身です。朴さんとの会話では、韓国が正式には「大韓民国」であることを思い出させてくれました。国名は「韓国」と書くのだとばかり思っていて、書いている反対側から見ると、何なのかが分かりませんでした。読んでもらうと「大韓民国」と「大」と「民」が付いてみました。それでやっと分かりました。後に続いて読みあげると、朴さんは喜びました。先入観があると、正確なことを誤解してしまうことは多々あります。そういう失敗が多いと感じじるようになったのは、老化現象なのか、それとも、今までもそうだったのを、今頃やっと自覚するようになったのかは、分かりません。名前に関しては逆さで見ながらも、ちゃんと読めましたので、褒めてもらえました。十日市秀悦さんと一緒に舞台に上がっていた左端の少年は、ネパールの出身です。会場で見つけましたので、サインをお願いしました。この子はネパールの文字を書けないので、お父さんの所に行って、お父さんに書いてもらいました。この日は屋台が出ていて、お父さんはカレーやサモサなどを売っていました。屋台の風景です。インドネシア、ネパール、「その他料理と飲み物」という正体不明な料理、それにタイ料理が並んでいました。お父さんは奥から2番目にいます。最初に向かいの「はっち」2階で蘭州ラーメンを食べていました。ネパール人お父さんのサインのお礼に、カレーはもたれるといけないので、サモサとナンを買い、持ち帰りました。一番奥にいるインドネシア料理の店「エナック」には何度も訪れています。持ち帰りの料理を売っています。NHKの先、更上閣の入口に店があります。元は三春屋地下で売っていました。地元のスーパーUが時々東南アジアの料理の弁当を並べます。インドネシア料理もありますが、エナックの方がはるかに美味しいです。最初に食べたのは蘭州ラーメンです。普段は食堂なのですが、この日は蘭州ラーメンのみを作っていました。本物かを問うと、食堂のおばちゃんが「そうです」と断言します。この人に特訓を受けたと指さす先には、中国人らしい、年が少し上のお兄ちゃんがいました。蘭州の出身か尋ねると、「上海」だと言います。味の念を押すと、「大丈夫」と自信満々でした。食べ終わって1階に降りると、バンブーダンスをしていました。私も勧められました。高齢化して動きが鈍くなっていますし、リズムにものれなくなりましたので、遠慮しておきました。足をはさまれたら痛そうです。こちらのお姉ちゃんたちが、二人でそれぞれに竹の両端を持って動かします。おじさんが一人で飛ぶ練習をしていました。今度はおじさんも、坊やが踊るのを手伝っていました。最後にタイ料理店「アピ」が一番辛いと説明した「タイソウメン」を食べながら、カラオケを聴きました。「アピ」は日本人向けに辛みをほとんどなくしています。確認すると「タイソウメン」を勧めました。「ただし、ソウメンは日本のものです」との断りがありました。それなら汁は本物かと期待しましたが、やっぱり、辛みがほとんどない日本人向けの味付けでした。外国人が書いた書道が展示してありました。日本の字も書けなかった人たちが、1週間後にはこのような立派な書を書いたのだそうです。左はミャンマー、中央上はタイ、そして右側はモンゴルの文字です。中央下は、モンゴル文字を抽象化したものです。日本の書道展示会でも抽象化した文字がありますね、あれです。トートバッグに書いてもらった文字を数えて、景品の飴玉1個と、米500gを貰い、帰宅しました。
2024.11.18
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itv⑥あいテレビの記事の転載です。15日、愛媛県に「サイゼリア」が初出店しました。 愛媛への出店は47都道府県中、41番目です。何と言っても“びっくりするぐらいの安さ”が売りのサイゼリヤ。1杯100円のワインや1皿300円のドリアなど、初めて訪れる人必見のサイゼリヤの魅力を取材しました。 サイゼリヤが出店したのは、今治市にオープンした「そよら今治馬越店」です。 この日は、開店前から店の外で待つ人の姿も… ――何時くらいから並んでいる? 男性客「朝6時くらいから」――1番のお気に入りは? 男性客「エスカルゴ。あとオリーブオイルにフォカッチャをつけて食べるのが美味しい」 そして、午前10時に店がオープンすると、店内はあっという間に満席に。1973年にチェーン展開を開始し、全国に1000店舗以上を構えるサイゼリヤですが、創業52年目にして愛媛初出店が実現しました。 サイゼリヤ最大の特徴が驚異的な安さ。創業者の正垣泰彦氏が、創業間もない頃に「食べないと損」と思われるような店づくりを目指し、商品の価格を従来の3割ほどに値下げしたところ、店に長蛇の列ができた…という経験から、経営理念の1つになっているんだそうです。 定番メニューの1つ「ミラノ風ドリア」は、なんと1皿300円。 <滝香織アナウンサー> 「クリーミー! ちょっと甘めでコクのあるミートソースにホワイトソースが合います。これが300円とは驚きです!」創業以来、物価高騰や消費税の導入を経ても、メイン商品は価格は据え置きどころか、値下げしているものもあります。 食材を商社を通さずイタリアから直輸入し、国内外の自社工場で加工することで、この低価格を実現しているんだそうです。 サイゼリヤはアルコールメニューも充実していて、特にワインが手軽に楽しめるのが魅力の1つです。グラスワイン(120ml)は赤・白ともに1杯100円! また、一般的なボトルワイン2本分(1,500ml)にあたる「マグナム」サイズが1本1,100円と、他のイタリアンレストランと比較してかなりリーズナブルとなっています。このほか、スパークリングワインやロゼ、赤・白のボトルワインも種類が豊富で1本1,100~2,200円。「グラッパ」と呼ばれる食後酒(アルコール度数40%)も1杯300円で提供しています。 例えば、1,000円でサイゼリアを楽しむなら… (1)辛みチキン 300円 (2)ほうれん草のソテー 200円 (3)ミラノ風ドリア 300円 (4)グラスワイン2杯 200円 合計 1,000円 なんて頼み方も…。おつまみメニューも充実しているため、こんな感じでリーズナブルに“サイゼ飲み”を楽しむこともできるんです。 愛媛に初出店したサイゼリヤですが、直近でも初出店を果たした県は多くあります。 岩手県…2022年6月初出店(現在4店舗) 青森県…2023年5月初出店(現在5店舗) 徳島県…今年10月初出店 一方で、2024年11月現在で未出店の県もあります。高知県・長崎県・大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県の6県です。 しかし、大分県については今年12月中に大分市の「トキハわさだタウン」にオープンすると発表されています。 また、来年1月下旬には北海道函館市に市内初出店する予定だということです。 今後、愛媛県内の他の市町にも出店されるのか、期待が膨らみます。(以前にも書きましたが、昔はイタリア料理とかイタリア産ワインは庶民的な価格でした。それでいて美味しいので、人気がありました。油断している間に、いつの間にか高級料理ということになってしまいました。イタリアに住んでいる漫画家のヤマザキマリさんが語っていました。イタリアにいて貧乏している時に食べていた貧乏人のための安価な料理が、日本では高級料理として高い値段を取っているのには違和感があると。世代は違うものの、私とは似た感覚であることを知って、安心しました。その点、サイゼリアは昔のイタリア料理をそのまま実現しているのがうれしいです。頑張ってほしいです。八戸の北隣にあるイオンモール下田店にはサイゼリアがありますので、たまに食べています。八戸にあるイトーヨーカ堂が撤退した後にはイオンが入ります。テナントとしてサイゼリアと無印良品がテナントとして入店してくれれば、うれしいのですが・・・。もしそうなっても、開店時の行列には参加しません。八戸にセブンイレブンが初めて進出した時に、新規開店を待って、朝から並んでいた人の事が地元紙に載っていました。年齢と名前から同級生と分かりました。「一番乗りを目指した」と発言していました。)
2024.11.18
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南郷産業文化まつりが2日間にわたり開催されました。その初日に行ってきました。この祭りには何回か行っていますし、昨年も行きました。南郷は、八戸と合併する前は南郷村で、ジャズで村おこしをしていました。年1回、夏に開かれるジャズフェスティバルには、渡辺貞夫さんをはじめとした、有名な演奏家が参加します。その会場の近くに「ジャズの館」という建物があります。ジャズに関する写真が展示してあり、喫茶店もあります。 中沢中学校に演奏が終わったところです。南郷産業文化まつり期間中、このジャズの館で、毎年ジャズの演奏会が開かれます。過去数年は問題なかったのですが、昨年は定員を超えたので、入場できませんでした。コロナ明けが関係していたのかもしれません。昨年は、開始30分以上前から行列が出来ていました。その状況を、隣の建物で、でソバを食べながら、窓越しに見ていました。南郷はソバの産地でもあり、当日は店内の他に屋台でもソバを提供しています。ソバを食べ終わってから行列に並びました。間もなく整理券が配布されたのですが、私の30人ぐらい前で終了となりました。この時期は、ちょうど新ソバの季節でもあります。この日も、テントの左側に小屋があり、そこでソバを調理していました。ソバそのものは当日、地元で既に打ったものを使っています。地区の中心になっているのは産直施設です。正面に見えます。隣に宿泊所もありますが、事前に予約しないと泊まれません。駐車場は広く、問題ありません。今回のジャズの演奏は、1日目は地元、中沢中学校のジャバンドクラブ、2日目はデヴィッド・マシューズさんを加えて大人が演奏します。昨年の経験から、2日目は長時間並ばないと入場できないことが想像されました。デヴィット・マシューズさんは、昨夏のジャズフェスティバルでも演奏し、喝さいを浴びていた人です。私を含めて、田舎者は並ぶのが苦手です。ですが、無料で、しかも有名人が来るとなると、一転して、八戸人は努力をいとわないのは、過去に何度も経験しています。そこで初日の、中沢中学校ジャズバンド部の演奏を聴くことを選択しました。中学生といっても、ジャズフェスティバルに参加した演奏者から、直接指導を受けています。ジャズの館の入口には若い大人の男性が立っていました。入場制限をしているのかと、がっかりしながら一応「入れますか?」というと、「どうぞ、どうぞ」と言うではないですか。席は半分ほど埋まっていました。演奏が始まってからも、曲の間に入ってくる観客がいて、最後は満席になりました。中沢中学校ジャズバンド倶楽部は、アルトサックス2名、テナーサックス2名、トランペット4名、トロンボーン1名、バス1名、ドラムスが交代で2名、ピアノが1名、そしてバスが1名の14人編成でした。ピアノは24歳の顧問の先生、エレキギターを持っているバスは卒業生です。現役の生徒は3年生が4名、2年生が1名、1年生が7名でした。司会をしたのはテナーサックスの女性で、多分部長だと思われます。独奏する時間が最も多かったのも、この生徒でした。8曲が終った後、アンコールも1曲演奏しました。満足して会場を出たあと、体育館と、その周辺で開いている屋台を見物しました。途中、紅葉が綺麗でした。ここの紅葉は有名で、夜には照明で照らされます。木に絡まった蔦も紅葉していました。見えにくいですが・・・。到着した体育館の中と、その周辺には出店がありました。最初に食べた「南郷牛」の串焼きは、全て食べましたが、どれも美味しかったです。肉もネギも、最高でした。ハロウィンという催しがあり、私はその内容をよく知らないのですが、それに関するものがありました。体育館内にも、関連するような展示がありました。最後に体育館周辺にある出店の状況を紹介します。並んでいるのは、名物のソバが目的です。ただし、ここにはかけソバのような汁物しかありません。米にも行列ができていました。地元の米・まっしぐらが10kgで4800円とお買い得でした。5千円から変更になった理由は分かりません。帰宅後スーパーに行くと、Sスーパーは6280円、Uスーパーは6380円でした。すれ違った人でただ1人の女性が、この米を抱えていました。安いのは分かりますが・・・、重い。葉付き大根を持っている人は多かったのですが、体育館内で販売している出店で持ってみたのですが、これでもかなり重く、購入するのに躊躇するのでした。鯨汁、クジラ焼きなどを食べました。南郷村は出稼ぎで、鯨捕鯨船に乗っていたのは有名です。2百人以上が働いていました。まつり会場内には、クジラ打ちの銛(もり)の現物が展示されていますし、大洋漁業の寄付で造られた「大洋公園」も近くにあります。鯨汁と鯨炒めです。鯨汁にはクジラの脂身が入っています。鯨炒めは普通のクジラ肉を炒めたものですが、冷めていて、美味しくありませんでした。右側にあるのがクジラ汁です。白味噌仕立てです。鯨の炒め物です。冷めていて美味しくありませんでした。作り立てだとどうでしょうか?体育館会場では、「八戸圏域文化財魅力発信事業」の一環で制作した「文化財バトルカード」をプレゼントしていまた。多数の中から2地域を選べるのですが、五戸町と南部町をもらいました。(1人1地域ですが、二人で行きましたので)①五戸町です②南部町です。最後にパンフレットを掲載して、終了します。
2024.11.17
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ytvの記事の転載です。 大阪大学らの研究グループは、大腸が右側と左側で異なる役割があることを世界で初めて明らかにしました。大阪大学と国立がん研究センターの研究グループは、大腸がんが小腸から遠い大腸の左側に起こりやすい理由の解明などを進めるため、100人以上の大腸と小腸の一部を採取し解析しました。 すると、これまで大腸の役割は単に「水分吸収」を担うと思われてきましたが、研究で水分の吸収を担うのは主に大腸の左側で、右側は小腸と同じく、体に有害な異物を排除する働きをしていたことがわかりました。 さらに小腸は全身の免疫の中枢を担っていて、大腸がん進行の制御に関わっていることも新たにわかりました。今後は小腸の免疫力を活用した、がんの新たな治療法の開発が期待されます。
2024.11.17
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10月20日、八戸市公会堂大ホールで、八戸市民フィルハーモニー交響楽団の秋の名曲演奏会が開かれました。語りやバレエなど、今までになかった仕掛けもあり、新たな楽しみ方を知ることができました。演奏会は2部構成でし第1部は「読み聞かせとオーケストラ」。1曲目はシューマンの交響曲第3番変ホ長調Op.97「ライン」の第1楽章でした。普通に、楽団が演奏しました。熱演でした。2曲目は、八戸市出身の声楽家・中村元子さんがアニメ映画「となりのトトロ」の読み聞かせを行い、語った場面に合わせて楽団が映画音楽を演奏して、一緒に物語を表現しました。楽団の背景には、映画の場面が語りや演奏に合わせて、次々と写真で映し出され、更に臨場感を醸し出ていました。この曲の最初は楽器の紹介でした。「となりのトトロ」の曲を演奏しながら、木管から始まり、金管、打楽器と個別の演奏が進み、最後はオーケストラの中心となる弦楽器が紹介されました。楽器の音色が分かるように仕組まれている、学習用の曲でもありました。その後は「となりのトトロ」の曲が、楽団全体で演奏されていきました。第2部「バレエとオーケストラ」では、八戸市のシューネマン・力丸純奈バレエスタジオとの共演で、チャイコフスキーのバレエ組曲「白鳥の湖」と、バレエ用に振り付けされた喜歌劇「こうもり」序曲も演奏しました。楽団の生演奏に合わせて、バレエスタジオの団員の方々が、楽団の前方で踊りました。今回初めて八戸市民フィルハーモニー管弦楽団の指揮をする辻一平さんは「音楽を聴くだけでなく、言葉でも、目でも楽しめる演奏会でありたい」と語りました。辻団長は、異なる団体と、このような形で、今後も交流を深めていきたい」としています。20分と、いつもよりは長い休憩時間がありました。その間に舞台では楽団の位置を奥に下げ、前面に空白地を作り出しました。それが幅10m位と、狭いのです。奥の楽団の居場所も同じぐらいの幅で、これ以上狭くは出来ません。バレエを見るのは初めてでしたので、心配になりました。この広さの場所で飛び跳ねて、大丈夫なのか?いざ始まってみると、やはり踊りは楽団に近い、つまり空いている舞台の後方を使っていることが明らかになりました。素人目には、舞台から落ちてしまうのを警戒しているように見えました。登場したバレエの踊子は、最初は違和感がありませんでした。バレエと称するものを見るのは、漫画でバレエ団の話を読んだのを除けば、初めてです。なるほど、これは良いものだと、感動しながら鑑賞していました。生演奏の楽団が後ろで演奏しています。ここまでは良かったのですが・・・。ところが、踊り子が段々と、小柄になって行きました。遂には、小学校に入る前の背丈まで縮んでしまいました。それでも、それなりに立派に踊っていました。バレエ団は総動員で頑張っていることが分かりました。根性が入っています。しっかりと練習してきたのでしょう。そういうことは理解した上で、思い出すことが最近ありました。それは1週間前に経験した、青森県弦楽研究会の「Autumn Festival」でのことです。初めて聞く団体でしたが、弦楽研究会という名前でしたので、ちゃんとした演奏会だとは思いました。ただ、ひょっとしたら発表会かもしれないとも、少しではありますが、感じました。最初に青森県弦楽研究会の説明がありました。簡単にいえば、今まで入っていた全国組織を抜けて、八戸市と十和田市、それに青森市のバイオリン教室がこの団体を作ったということらしいです。ということで、後の予想が当たってしまいました。演奏者は大人から小中学生、そして年少のお子さんまでと、幅広いのでした。演奏した曲目です。更に遡ると、何年か前のピアノ教室の発表会に行った時も、同じでした。やはり小学校に入る前のお子さんから、大人までが出演していました。この時は、小さい方から順番に登場しました。小学生は両手を交差させて演奏していました。中学生になると足がペダルに届くようになり、それを使いました。この辺りから安心して聴くことができます。高校生はもう一人前で、最後に登場した秋田大学大学院の女性の演奏は、それまでとは格が違う、迫力のあるものでした。年の若い順に演奏したので、どのように成長していくのかが分かり、とても勉強になりました。今回のバレエと、その前のバイオリンは出場する順番が前後していましたが、このことが分かり、なおかつ、子どもさんも年齢の割には上手で、よく練習してきたこともはっきりしていました。とにかく、これらの3つの演奏会に行って、聴きに行くことの価値を感じ、感動したことをお伝えして、終わりにします。よかった、よかった!!!
2024.11.16
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日刊スポーツの記事の転載です。喫煙者、色素の濃い飲料(赤ワイン、コーヒー、お茶など)を好む方など、歯にステイン(着色汚れ)がつきやすいタイプの患者さんは一定数います。こうした悩みを解決するために、通販などでは実に沢山のアイテムが売られています。規格に則って作られた医療器具と異なり、形状も材質もさまざまです。安全性がわからない以上、専門家としてはこうしたツールはおすすめしづらいというのが正直なところです。自力で剥がそうとして、かえって歯を傷つけてしまうことがないよう、まずは歯科医院で適切なプロケアを受けましょう。その後行うセルフケアに関しては、歯のコンディションによって気を付けるべきポイントがあります。これまでの研究によって「ステイン予防には清掃剤(研磨剤)配合歯磨剤の使用が効果的である」と報告されています。清掃剤の代表例は炭酸カルシウムや無水ケイ酸などですが、これらはステインよりも硬度が高く、歯のエナメル質よりも硬度が低いので、理論的には歯を傷つけずに機械的にステインを取り除くことが可能です。しかしながら実際の口の中では、細菌の代謝や唾液の恩恵によって、脱灰(歯の表面からカルシウムやリン酸が溶けだすこと)と再石灰化(再び取り込まれること)が絶えず起こっています。酸性状態にさらされ硬度が下がっている歯面では、清掃剤で歯が摩耗するという文献もあります。脱灰が生じる「臨界pH」よりも低いpHをもつ歯磨剤もあるため、こうした製品でだらだらと長時間磨きつづけることがリスクにつながる可能性も否定できません。歯磨剤を使わずしっかりプラークを取り除き、その後、清掃剤配合の歯磨剤を使用してさっと仕上げという方法が安心です。複数の歯磨剤を同時に使うと、相互作用によって効果が打ち消し合うことがあります。1ケア1種類にとどめましょう。
2024.11.16
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東奥日報の記事の転載です。(八戸の水産加工会社も漁船を持つ漁業会社同様、独立して仕事を続けることが困難になっているようです。)青森県野辺地町のホタテ加工大手「マルイチ横浜」(横濵充俊代表取締役社長)は21日、八戸市の水産加工会社「ヤマヨ」(藤田和弘代表取締役社長)と11月1日付で資本提携し、ヤマヨの株式譲渡を受け同社を完全子会社化すると明らかにした。マルイチ横浜グループは計6社、年商約150億円となる。八戸港の主力魚種であるサバやイカなどが不漁となる中、販売先の共有などでスケールメリットを生かし、経営基盤を強化する狙い。同グループは現在、マルイチ横浜、ヒラメなどを扱う「八戸フーズ」(八戸市・関川保幸代表取締役社長)、ブリやキンメダイなどを扱う「クボタフーズ」(平内町)のほか、「シーフーズ」(野辺地町)、「七戸クオリティフーズ」(七戸町)の5社で構成、年商は約120億円。資本提携によりグループ全体の従業員は従来の約390人から約470人になる。資本提携は新設分割方式で行う。ヤマヨの社名、代表の藤田社長は変わらず、従業員の雇用・処遇は維持。同社の資本金は、これまでの500万円から4千万円に増強される。 マルイチ横浜とヤマヨは昨年11月、業務提携を開始。人事交流や工場の生産面で協力し合っている。営業面では、グループ取引先との合同商談にヤマヨが加わっている。藤田社長は「小売りや外食など出会うことがなかった業種で新規開拓できている」と提携の効果を実感していたという。資本提携について、横濵社長は「当社はホタテ、ヤマヨはサーモン、(2年前にグループ傘下に入った)八戸フーズはヒラメというように、扱う魚種が異なり、グループ内ですみ分けができる。販売先や仕入れ先を共有してともに成長していきたい」と語る。藤田社長は「イカ、サバが取れない今、魚種を変える順応性がないと生き残れない。今後もより良い商品を消費者のために作っていきたい」と意気込んだ。ヤマヨでは現在、商品の品質向上や職員の職場改善のため、主力工場の空調設備の更新など1億円規模の改修工事が進められている。
2024.11.15
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産経新聞の記事の転載です。人気バラエティー番組を数多く手掛け、現在は執筆活動にも力を入れている演出家のテリー伊藤さん(74)。仕事漬けだった40代に頻尿などの男性更年期障害の症状に悩まされ、泌尿器科への通院が始まった。「診察を受けて生活改善につながった。頻尿の症状は今もあり、最近は紙パンツも使っていますが、活動範囲が広がり、いいことずくめ。恥ずかしくなんかないですよ」。病を受け入れ、ケアをしながら、人生後半戦を謳歌している。症状が出始めたのは30年以上前、テレビの仕事に没頭していたときです。最初は体温調節ができなくなり、夏でも寒くて厚着をしていました。次に頻尿に悩まされた。1時間ごとにトイレに行きたくなる。そのうちに身体症状だけでなく、集中力や持続力がなくなりました。トイレの症状をどうにかしたくて、泌尿器科へ行ったんです。当時は男性更年期障害という言葉は聞きませんでしたが、医師からは「仕事のし過ぎだ」といわれました。年間10日くらいしか休まず、毎日5時間ほど眠れたらいいほう。新番組の総合演出を任され、プレッシャーやストレスもあったんだと思います。「睡眠をしっかりとり、運動すること、体を冷やさないこと」。そうした生活改善の指導を受け、ジムにも通い始めました。今も当時教えてもらった股関節の血流をよくする体操を続けています。泌尿器科は男性特有の疾患を扱う専門医です。問診は性機能の話にも及びますが、恥ずかしいなんて思わなくていい。お医者さんも看護師さんも、そういう話を1日に何十件と聞いているから、何てことなく受け止めてくれるし、適切な治療法を教えてくれます。泌尿器科の分野で何か困っている症状がある人は、絶対に行った方がいいですね。 頻尿の症状は今もあり、通院は続いています。若いころのように戻ることはないと思う。そりゃそうでしょ。車に例えるなら、74年前の車に乗っているわけです。さびも出るし、メンテナンスも必要。それでも自分なりのスタンスで人生を歩んでいくしかないんじゃないかな。5、6年前から紙パンツを愛用していますよ。今はカッコいいデザインもあるんです。中高生時代の仲間とSNS(交流サイト)上で、グループトークをするんですが、紙パンツのことを情報共有しています。「スポーツジムにはいていってもカッコ悪くないぞ」「普段はいていると安心だぞ」って。お笑いの演出家だったからかもしれないですが、紙パンツ、全然恥ずかしくないですね。40代で運動をするようになって、体を動かすことが好きになりました。今も週に数回、1~2時間は歩いています。それから、5年ほど前から極真空手を習い始めました。空手の世界では「テリー伊藤」という名前や経歴は、まったく通用しないでしょ。そういう「ままならないこと」に挑戦するのがすごく楽しいですね。◇テリー伊藤 昭和24年生まれ。東京都出身。すし店勤務などを経てテレビ番組制作会社に入社。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」など人気番組を手掛けた。昭和60年に独立し数々のテレビ番組やCMを演出した。「お笑い北朝鮮」など著書多数。
2024.11.15
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相変わらず暑くて、水を飲みたいです。乾き切ってしまいそうな身体なのに、なぜか汗は出ます。「泥水は飲むな」と誰かが叫んでいます。この頃になると、逃亡する日本人を相手に、食べ物を売る人たちが現れてきました。ほとんどの人が度重なる略奪に遭って、貴重品は持っていませんでしたが、隠し持っていた人もいたようで、買っていました。この日は大勢の人たちが農家の家や土間、小屋、軒下などに寝かせてもらいました。指輪や時計を貰って、「家に泊まっていきなさい」と言ってくれた朝鮮人がいたらしい。次の日、人々の疲労と衰弱は、極限を越えているようでした。もう逃げも隠れもせず、長い行列になって、南朝鮮への一本の焼けるような白い道を歩いて行きます。栄養失調に真夏の太陽はあまりに残酷です。年寄り、子供が日射病で次々と倒れていきます。天内さん一家は気力だけで、列の最後を歩いていました。振り返ると、倒れている人の服を剝ぎ取っている光景が目に入りました。そして行列の後をゾロゾロと付いてくるのでした。この日は一番困難を極めた一日でした。栄養失調のためにすっかりお腹が出っぱって、顔がむくんだ妹さんが、天内さんのボロボロの服をしっかりつまんで、歩いていました。8月14日、この日も朝から暑い日でした。喉の渇きに耐えられなくなった人たちが、半分死人のようになって、自分の尿を手ですくっては、口に運んでいました。天内さんも完全に思考能力も感情も失せて、何の感慨もなくこの光景を眺めていました。多くの人がこの日、倒れていきました。「見えた。あれが板門店の礼成橋だ」と叫ぶ声が聞こえました。待ちに待った三十八度線突破、しかし境界線には見張り兵がいます。少し遠回りして南朝鮮に入りました。「あぁ、遂にここまで来た。母も妹も生きている」横たわっているお母さんと妹さんの手を握りしめながら、「生きていてくれてありがとう。一緒にここまで頑張ってくれてありがとう」と繰り返していました。そして首にぶら下げていた袋の中から青酸カリの袋を出すと、その白い粉を指先でぱらぱらと土の上にまき散らしました。土を踏んだのはウィチョンプ(義政府)と呼ばれている所でした。ここでDDTを掛けられ、ジープで開城にあるテント村に連れていかれました。見渡す限りのテントでした。蚊が多いところでした。マラリアの恐怖が襲います。それは現実になりました。お母さんに続いて天内さん自身も感染しました。高熱に苦しんでいたことは、覚えていません。8月21日早朝、ジープに載せられてソウル(京城)に移動し、釜山に向かう貨物列車に載せられました。「何日も待っているが、未だ乗船できない」「ここまで来たのに、昨日子供が死んでしまった」ぐったりしているお母さん、衰弱している妹さん、天内さんも限界に近かったです。「早く船に乗せて」と祈りながら待って、1週間後にやっと、乗船することができました。米国船の地下に持つ置き場にすし詰めにされて、身動きが出来ないほどでした。それでも待ちに待った帰還船です。文句は言えません。疲れ切って横たわるお母さんを見て、その生命力の強さを思いました。元々精神力が勝っていましたが、結核性肋膜の熱にあえぎながら五十五里を歩き通し、衰弱と栄養失調の身体に襲い掛かったマラリアに打ち勝ち、多くの人が命を落とした中で、かろうじて命を守り通したのです。妹さんはお母さんに抱かれて、安心しきったように眠っています。栄養失調でお腹が飛び出し、顔は青くむくんでいました。明日はいよいよ佐世保上陸という時にコレラが発生しました。三千人が海上隔離されました。コレラは狭い船内に蔓延しました。白い吐液と下痢便にまみれて死んでいく人たち。患者を隔離することもなく、日々が過ぎていきました。多くの人が死んでいきました。水葬され、遺体は遠くの海に引かれていきます。この時に鳴らされる哀しいドラの音が、今も耳を離れません。そして屈辱的な検便。看護師の前にお尻を出すと、棒のようなものを肛門に突き刺されるのです。「引揚者と言われただけで陥る劣等感」の原因の一つがこの検便です。一人でも陽性者がいると、また上陸が延期され、沖での隔離となります。42日目にやっと、ハリオ島で小舟に乗り換えて、佐世保に上陸することができました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引揚げ後、福井の祖母の家に身を寄せました。天内さんが疎開していた所です。その後お母さんが、師範学校時代の恩師の世話で、九頭竜湖のふもとにある、福井県大野郡穴馬村荷暮(にぐれ)の分校に赴任することになり、天内さんも転入することになりました。昭和22年の年が明けて間もなく、お父さんが平壌から引き揚げてきました。よく春、職探しをしました。しかし、公職追放の身ではいい仕事もなく、結局獣医を開業することになりました。青森県の南部地方は日本一の馬産地だということでした。翌春、名古屋で勉学中のお兄さんを連れて、山桜の咲く荷暮野山を後にしました。生活の目途がついたら迎えに来るはずが、容易にその日は来ませんでした。この時期、八戸でお父さんとお兄さんは大変な苦労をしていたことを、後で知りました。11月、雪で閉ざされる前に、お父さんのいる八戸へ行くことになりました。一緒に暮らすことを楽しみにしていた祖母は、福井地震で倒れた家の下敷きになって、亡くなってしまいました。病弱なお母さんの手助けになりたいと、自ら看護師の道を選んだ妹のかほるさんは、秋田の日赤高騰看護学校の卒業式を目前にした2月27日、雪に埋もれた秋田で姿を消してしまいました。当時かほるさんは生徒会長をしており、お年寄りや貧しい人たちの高額医療費を嘆き、街頭で署名活動をしていました。北朝鮮の工作員の手記を読むにつけ、確かにかほるさんは目を付けられる要素を持っていると、天内さんは思っています。お母さんは引揚げ後も数々の病気に見舞われて、心身ともに苦労の連続でした。常に見上げるほどの強靭な精神力を持っていたお母さんもがんには勝てず、64歳で逝ってしまいました。引揚げ後を第二の人生と言って「地域の人たちのために」を肝に銘じていたお父さんの木村一栄さんは、97歳という長寿を全うしました。「天内みどりさんのお話を聞いてきました」はこれで終わりです。お話しを聴いて感じたのは、天内さんの精神の強さでした。
2024.11.14
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東奥日報の記事の転載です。青森県内最大のサケの遡上(そじょう)河川・奥入瀬川で、漁期が始まった9月から10月末までの2カ月間の漁獲数が200匹弱にとどまっていることが分かった。ここ数年、不漁が続いており、6年前まで年間6万~8万匹ほど取れていたことに比べると近年は激減状態だ。取れるサケが少ないと採卵・ふ化・放流のサイクルがうまく機能しなくなり、数年後の漁獲数に影響する。奥入瀬川鮭鱒(さけます)増殖漁協の戸来敏幸組合長は「全く取れない。このままでは本県産のサケがなくなってしまう」と危機感を募らせる。(八戸市の新井田川から分かれる支流の松館川に仕掛けている「やな」が、今年は見当たらないそうです。ここで漁獲したサケから卵を取り出し、同じく雄の白子をかけてふ化させ、生まれた稚魚を・再び放流していました。漁獲したサケは格安で販売していましたが、今年はこれもないそうです。おいらせのサケが不漁なら、近くの八戸もダメなのは想像できます。水温の変化で、北洋ではサケが育たず、代わりにサクラマスが増えているとの報道があったと記憶しています。)
2024.11.14
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収容所の中の人が、臨時の学校を開いてくれました。夏が来ると、収容所生活も1年になります。誰もがこの夏を逃したら、もう日本へは帰ることができないと思うようになり、南朝鮮まで歩いて逃げようという話が持ち上がりました。実際、日本人が歩いて行く姿を見たとか、逃亡が見つかって銃殺された人を見たとか、働きに行ってる先で朝鮮人が話していることが様々、伝わって来ました。何人かの大人たちが「日本に帰る」ために動き出しました。元気な人はどんどん単独で南へ向かっていましたし、住み込みで働き、収容所へ戻って来ない人もいました。残っているのは子供連れ、年寄り、病人などのお荷物になりかねない者たちばかりが残っていました。どの道がいいか、川はあるかなどを、地図を広げて検討し合いました。そしてほぼ手筈が整い、最終的には「希望者」だけということで話は決まりました。お母さんの具合は相変わらず良くないし、妹さんも栄養失調で、顔も体もむくんでいます。この二人を連れて55里を歩けるか心配で、子守のオモニに相談しました。反対されました。昨日も逃亡中の日本人3人が銃殺されているとのこと。そして、天内さんを養女にしてお母さんも妹さんも一緒に引き取ってくれる」とまで言いました。お母さんは「養女になれば一人は助かる。私は間違いなく逃亡中に死んでしまう」と言いますが、一緒にいたKさんが「養女になんか行かせない。お母さんは僕が守る」と涙を流しながら抱きしめてくれました。オモニに逃亡に加わることを告げ、お別れを言いました。オモニは黙ってうなずくと、多量な大豆を鍋で炒ってくれました。それにニンニクもくれました。ご主人は磁石をくれて「とにかく南に行くこと。飲み水に気を付けて」、お婆さんオモニは子供用のチョゴリを持ってきて「飢えた時はこれを着て、口がきけない振りをして物乞いに行きなさい」出発は8月8日、新月の夜と決まりました。元々、荷物はほとんどありませんでしたが、豆腐売りのためにお母さんが縫ってくれた、綿の代わりに乾燥させたヨモギが入っている上着は持ちました。南朝鮮までは道を使わず、山中を南下します。鉄条網の下に掘ってある穴を腹ばいになって潜り抜けました。熱っぽいお母さんの手と、小さな妹さんの手をしっかり握って、皆について行きました。夏草の生い茂る草原を、近くの朝鮮人に見つからないように、少人数になって、そっと身をかがめながら歩きます。見つかれば銃殺です。やっと森の中に逃げ込むことができました。銃声が聞こえます。夕方まで森に潜んでいます。食事は飯盒に入れたわずかばかりの高粱に、毎日、アカザばかりを入れてたべました。他にもカタツムリ、バッタ、キノコ、木の根などを食べました。太陽が沈み、辺りが暗くなった頃、出発します。石で造った間に合わせのかまどを壊して、人間がいた気配を感じさせないようにします。歩きながらオモニからもらった大豆やニンニクを食べ、お母さんや妹さんの口にも入れてあげました。ニンニクも1かけらを何時間もかけてかじりながら、歩いて行きました。夜になると細い農道に降りて、歩きだします。こっそりと大根やサトウキビを盗んで食べながら歩きました。ある時は農夫に見つかりましたが、子守で教わった朝鮮語で謝って、森へ逃げ帰りました。三、四日後、平壌から離れたという安心感と衰弱から、夜は眠り、昼に歩くという方針に変わりました。南朝鮮に続く道のあちこちにソ連兵や朝鮮兵が立っていて、通す代わりにお金や時計をせびります。お母さんは精神力の化身となって、ひたすら歩いています。妹さんは相変わらず足が痛いと言っては泣いてばかりです。また朝が来ました。歩き始めます。いつの間にか、あちこちの山中から南朝鮮へと通じる道へ人々が出て来て、長い長い列ができます。道端には転々と人が倒れています。死んだ母親に抱きついて泣いている幼い子。我が子の亡がらを抱いて呆然と座っている母親、座り込んでしまった年寄り。お母さんと妹さんは極限状態で、よろめくように歩いていました。親に死なれた子供は、同県人が連れて行くという不文律ができてきました。天内みどりさんのお話を聞いてきました 最終回の(6)に続きます。
2024.11.13
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朝鮮日報の記事の転載です。韓国の1人当たり国内総生産(GDP)が昨年に続き今年も日本を上回る見通しだ。国際通貨基金(IMF)が24日に発表した。IMFが同日公表した報告書「世界経済見通し」によると、今年の韓国の1人当たりGDPは昨年の3万5563ドル(約540万円)よりも1.6ポイント多い3万6132ドル(約550万円)と予測されている。一方で今年の日本の1人当たりGDP予測値は3万2859ドル(約500万円)で、昨年の3万3899ドル(約510万円)よりも3.1%減少する見通しだ。韓国との格差がそれだけ拡大することになる。韓国銀行の関係者は「今年上半期における韓国の名目GDP成長率は高い状態が続いているので、日本との格差はさらに広がると分析されたのだろう」とコメントした。IMFは今年の韓国の経済成長率を2.5%、日本は0.3%と予想している。さらに韓国のウォン安以上に「歴史的」と言われるほどの円安が続いているため、日本の1人当たりGDPをドルに換算すると相対的に低くなるとの見方もある。一方でIMFは来年の韓国の1人当たりGDPを3万7675ドル(約570万円)と予測した。これも日本の3万3234ドル(約510万円)よりも高く、来年も韓国の1人当たりGDPは日本を上回ることになる。IMFは韓国の1人当たりGDPについて「2027年にはじめて4万ドル(約610万円)を突破するだろう」と予測している。
2024.11.13
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秋が深まると、綿摘みの仕事は終わり、朝鮮の秋の風物詩ともいえる朝鮮漬けが始まります。これも手伝いました。この時のままに作っている朝鮮漬けは、家族にも友人にも好評です。朝鮮漬けの漬け込みが終る頃、平壌には厳しい冬がやって来ます。オンドルを焚いても、明け方の気温は氷点下20度にもなります。この時期、天秤棒を担いで、豆腐売りもしました。栄養失調で顔色も体調も悪いのに、シラミが媒体する発疹チフスが流行し、多くの人が死にました。凍った土は死体を埋められるほど深くは掘れません。結局、コモに包んで置いてくるだけですが、置き場もないほどいっぱいだともいわれました。次に襲ってきたのがジフテリアです。シラミが媒介する発疹チフスと違い、空気感染すると聞かされていたジフテリアは本当に怖かったです。これに追い打ちをかけたのがはしかの大流行です。そして今度はパラチフス。「今日は何人死んだ」という会話が、感情のない声で交わされる毎日でした。三月末になると、洗濯の季節になります。冬の間に着たチマチョゴリを洗わずに溜めておいて、春の雪解けの頃に、一斉に洗います。いつも差し入れをしてくれるオモニが洗濯する家を紹介してくれました。洗濯物を灰汁が入った汁で1時間以上煮ます。次に大きな釜からあげられた物を板の上に載せて、棒で叩きます。田んぼの中に干し竿が立っていて、網が張られています。そこで干します。長い冬が終わると、畑仕事に猫の手も借りたい季節がやって来ました。働ける人はほとんどが農家に雇われました。天内さんも高粱畑の草取りをしました。帰り道で焼き芋を買っていると、オモニが子守の仕事をしないかと誘ってきました。子守に慣れると、帰り際にお菓子や焼いたニンニクを持たせてくれるようになりました。信じられないことに、お父さんが目の前に現れました。軍服を着て、サーベルを下げ、鼻の下のヒゲも手入れが行き気届いていました。後ろにはソ連の将校も、兵隊たちもたくさんいます。お母さんと妹も一緒にトラックに乗り、食堂に案内されました。ソ連兵はトラックで走り去りました。お父さんの話によると、捕虜収容所に入れられ、身に覚えのない容疑で十日間、朝鮮の警察に身柄を拘束されました。同姓同名の別人だったことが判明して釈放された時には、収容所の人たちは既にシベリア送りになっていました。平壌駅でシベリア行きの列車を待っていると、馬をたくさん積んだ列車が入って来て、獣医を探し回っていました。お父さんが獣医だと分かったソ連側は、駅から収容所に連れ戻しました。栄養失調や病気で弱っていた多くの馬が元気になり、父は獣医として大切に扱われていたのだそうです。お礼に、家族の居場所探し出し、会わせてやると、船橋里の収容所に連れてこられたのです。食事を終えて外に出ると、暴徒10人ほどに囲まれ、お父さんに殴る蹴るの暴力をし、お父さんの顔は紫色に腫れあがりました。騒ぎにソ連兵のトラックが戻って来て、暴徒たちを後ろ手に縛って、どこかへ連れ去りました。ソ連兵に身体を支えられながら、お父さんが戻って来ました。お父さんは天内さんの肩を両手で包んで「お母さんとかほるを頼んだよ」という。天内さんは黙って頷きました。この日から収容所の中の人たちの天内さんたちに対する風当たりが強くなるのを感じたといいます。一方、同じ平壌の空の下にお父さんが生きているということに勇気づけられたお母さんは、少し気力を取り戻していきました。天内みどりさんのお話を聞いてきました(5)に続きます。
2024.11.12
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WEB歴史街道の記事の転載です。平安時代というと、大河ドラマ『光る君へ』で描かれるように、華やかな貴族たちの世界が思い浮かびます。しかし、そんな彼らもやはり人間。用を足していたことに変わりはありません。果たして、平安時代のトイレはどのようなものだったのでしょうか。しばしの間、臭い漂う平安の世界に、お付き合いくださいませ。以前、メディア関係の人からこんな電話をもらったことがあります。「今、貴族社会を扱ったドラマに関わっているのですが、トイレのことがはっきり解らないのです。日記などにも書いてないようですが、なぜでしょうか」と。そこで私は、「あなたは日記にトイレのことを書きますか。昔の人も今の私たちも考えることは一緒ですよ」という返事をしました。すると先方は何も言わず、「ありがとうございました」と。 しかし私も、平安時代の人々はトイレをどのようにしていたのか、知りたいところではあります。調べてみると史料が皆無というわけではなく、断片的な情報を得ることができました。これらを手掛かりに、平安時代のトイレ事情を少し探ってみることにしましょう。なお、発掘調査による考古学上の成果に見るべきものはありますが、残念ながら平安京に関しては明確な遺構が確認されていません。従って文献の面から探っていくことにします。人が生きていくうえで大切なことは、物を食べて排泄する、この繰り返しといってもよいでしょう。排泄するには場所が必要で、現代人はそれをトイレ(便所、厠〈かわや〉)と呼んでいます。普通、美味しいものが胃を通過すると汚物と化すため、排泄所は人目の付かない場所に設置されます。平安時代の文献に「隠所(いんじょ)」の語があり、それがトイレに相当します。 それでは宮中のトイレはどうだったのでしょうか。平安宮(大内裏)内の内裏図を見ると、東北隅にある華芳坊(かほうぼう)の南に所在する南北に長い建物に、「御樋殿(おひどの)」と書き込みがあります。これはトイレを指し、江戸時代の有職故実家が書いた『大内裏図考証』によると、御樋殿の南面と西面には塀がありました。またその書は『延喜式』(律令の施行細則)を引用して、徒役人(ずえきにん。徒刑に服した人)が囚人らを率いて宮城の四面を掃除させ、雨の翌朝には宮内の汚穢(おわい)や厠の溝などを清掃させていることを挙げています。 この囚人による雨の翌朝の厠の掃除は、平安時代にはじまったことではなく、すでに奈良時代初期に行なわれていました。内裏の西には、即位式をはじめ国家の重要儀式を行なう朝堂院があり、その正殿が大極殿(だいごくでん)です。久寿2年(1155)、ここで後白河天皇の即位式が行なわれ、その様子を記す『兵範記』に図が載っています。それによると、大極殿の北の昭慶門(しょうけいもん)東の一郭に、「御樋殿 立五尺屛風一帖」の書き込みが見られます。御樋殿には屏風を立てたことがわかり、おそらくその中に、樋筥(ひばこ。いわゆる便器)を置いたのでしょう。 天皇が暮らす清涼殿(せいりょうでん)では、北方の滝口のあたりに御厠殿(みかわどの)、御装物所(おんよそおいものどころ。御樋殿)が備わっていたので(『延喜式』『西宮記』『江家次第』)、天皇はここを用いたと考えられます。そして毎朝、樋洗(ひすまし)・御厠人(みかわやうど。宮中で雑用に従事し、主として便器の管理にあたった下級女官)らが、華芳坊南の御樋殿に尿・便を捨てに行ったのです。天皇の妻である中宮はじめ上級女性の場合、各々の部屋にトイレがあったかは定かではないですが、説話などにそれらしき記載もあります。そしてその多くは、持ち運びの出来る御虎子(おまる)、大壺(おおつぼ)、虎子(おおつぼ)、清筥(しのはこ)、尿筥(しのはこ)、尿筥(しとづつ)といった便器に排泄し、毎朝、長女(おさめ)・御厠人ら下級女官が、内裏東北隅の御樋殿に持っていったのです。また『源氏物語』(「須磨」の巻)には、「まして常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで」とあり、彼女たちは源氏が見知るはずもない身分低い女性であった、とあります。 かの清少納言は『枕草子』のなかで、積雪で作った雪山を子供らが崩さぬよう注視させたり、手紙を届けたり、犬が蔵人(くろうど)に打ちのめされているのを報告に来たり、と使い走りをしている「すまし」「長女」「御厠人」の姿を記しており、「物の数でもない賤しい者」と見下しています。栄華を極めた藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)が寛仁2年(1018)に再建された際、必要な家具、調度類の一切を源頼光が寄進して衆目を浴びました。『小右記』によると、その中に「御大壺一雙(いっそう)、御樋一具」とありますが、いずれも道長・倫子(りんし)夫妻用の便器でしょう。土御門殿に備えられた樋殿の具体相は判りませんが、道長が足に針を踏み立てて、歩けなくなったことがありました。そのとき道長は、円座(えんざ)に坐ったまま曳いてもらって「隠所」へ行ったといいます(『小右記』)。足の具合は1年ほど思わしくなく、「厠」から戻る時に誤って階(きざはし)から地上に落ちているのです(『小右記』)。そのことを道長は、自身の日記に「北屋の打橋(うちはし)より落ちる間、左方の足を損ねる、前後不覚なり」「夜の間、足腫れて痛く、為す方を知らず」と記しています。『小右記』の作者、藤原実資がいう「隠所」「厠」は、道長のいう「北屋」ないしその一郭にあったトイレ施設を指し示しています。それは土御門殿の北の対(北の建物)ないし西北の対(西北の建物)あたりにあったものでしょう。このように貴族の邸内には、御樋殿が設えてありましたが、そこに貯まった糞尿は、外の水路から暗渠(あんきょ)で引き入れた側溝を通して外へ流していたのです。 先述の宮中の汚穢(糞尿も含む)や厠の清掃の事例をはじめ、弘仁6年(815)の公文書がそのことを暗示しています。それは、築地を穿って水を引き、道路を水浸しにすることを禁じ、汚穢が見える形で流すことも禁止し、穴を掘って樋を設けて水とともに流すよう命じたものです(『類聚三代格』)。ところで道長と同じように、便所に行く途中で倒れるという事例が他にも見られます。寛弘元年(1004)の冬、帥中納言(そちのちゅなごん)こと平惟仲は「厠」を出る時に転倒し、腰を骨折して動けなくなり、喋ることもできなくなりました。そして陰嚢が腫れて前後不覚に陥り、数カ月後に他界しました。これは任地の大宰府でのことでありました(『小右記』寛弘2年〈1005〉2月8日条、『日本紀略』3月14日条)。さらに三蹟の一人、藤原行成は不調のなか夜中に「隠所」に向かう間に転倒し、一言も発せずに頓死しています(56歳、『小右記』万寿4年〈1027〉12月5日条)。奇しくも藤原道長と同じ日の死でありました。厠の場所に話を戻しましょう。万寿元年(1024)9月、後一条天皇は、関白太政大臣・藤原頼通の高陽院(かやのいん)へ行幸し、盛大を極めた競馬(くらべうま)を見物されました。『栄花物語』では「こまくらべの行幸」として一巻をこれに充て、『駒競行幸絵巻』という絵画資料も存在するほどに有名な催しでした。 この日の『小右記』に「艮(うしとら。北東)の角一間に御簾を懸け、御粧物所(およそものどころ)と為す」とあり、馬場殿の東北隅に御粧物所(御樋殿)を仮設しています。また長久元年(1040)、後朱雀天皇が叔父の内大臣・藤原教通(道長の子)の二条第へ遷御されたときのこと。この邸では寝殿を南殿(紫宸殿)とし、南の対(南の建物)を御在所に充てたことにともない、そこに御湯殿と「御樋殿」を設けています(『春記』)。このように、目立たぬ生活空間の西や北に便所と水回りの施設を配置することは、よく見られる現象です。後三条天皇を祖父にもち、臣下となった源有仁(ありひと)は、17歳で故権大納言・藤原公実の娘婿となっています。彼は詩歌・管絃に秀で、光源氏のような美男であったようです。 なお、妻の実妹に白河天皇の養女となり、鳥羽天皇の中宮となった藤原璋子(待賢門院)がいます。有仁は13歳の時、伯父にあたる白河法皇の御所で元服し、猶子となった経緯があり、この結婚は白河法皇の勧めるところでもありました。その関係からでしょうか、新妻の居所は白河法皇の大炊殿(おおいどの)となっています。新妻が有仁を迎える大炊殿の寝殿の一郭に御帳を設営し、繧繝縁(うんげんべり)の畳を三枚敷いて寝所としています。『長秋記』には「南方に沈枕(じんまくら)一双を置き跡方に大壺を置く」とあり、足もとには「大壺」(便器)が置いてありました。また、これとは別に寝殿の廊の東間を「樋殿」に充てており、ここには大壺と「紙置台」が置いてあったのです。紙置台の存在は、白河法皇が糞ベラ(後述)ではなく紙を用いていたことを暗示しており、この時期には、上皇といった上級階層は用を足す際、紙を用いたのでしょう。庶民の排便事情このあたりで庶民の排便事情についても触れたいですが、これは至難の業です。彼らは、日記はおろか、物を書く術を知らず、説話や絵巻物といった間接的な史料から読みとるしかありません。10世紀後半のこと、関白・藤原頼忠の娘で円融天皇皇后の藤原遵子は、多武峰(とうのみね)の増賀聖人(ぞうがしょうにん)を招いて剃髪し、出家を遂げました。そのとき聖人は、大声で卑猥な事を言ったため、居合わせた女房たちは、開いた口がふさがらなかったといいます。帰りぎわに聖人は、皇后宮大夫の藤原公任(きんとう。皇后の実弟)に「年老いて風邪も重く、目下、下痢がひどく、それを押して参上いたしたが、もはや堪えきれず急ぎ退出いたす」と言って走り出し、西の対(西の建物)の南の放出の縁にしゃがみ込み、尻をまくって、容器から水をぶちまけるように下痢便をたれ流しました。その汚い音が皇后のところまで聞こえたといいます(『今昔物語集』)。 この絵画版ともいえるのが『病草紙(やまいのそうし)』(12世紀末の絵巻)の「霍乱(かくらん)の女」でしょう。縁先で四つん這いになり、庭に向かって「口より水を吐き、尻より痢をもらす」、尻を出してまさに水便の最中が描写されています。霍乱とは、下痢・嘔吐を伴う急性胃腸炎の症状のこと(服部敏良『王朝貴族の病状診断』)。この『病草紙』に出てくる家は、庶民層で屋内にトイレの施設などはなかったであろうことから、排泄は外で行なったと考えられます。平安中期の歌人として知られる橘季通(たちばなのすえみち。父は清少納言の夫の一人とされる則光)が高貴な家に仕える女房と深い仲になり、夜ごとに彼女のもとへ通っていました。それを知ったその家の侍どもは「この家の者でもない者がわが物顔に出入りするとはけしからん、懲らしめてやろう」と警備を固め、季通が女房の許から朝方に帰るのを待っていました。これに女房が気づいたものの、為す術がありません。 そこで季通に従っていた小舎人童(こどねりわらわ。貴人らに召し使われた童)の機転が物をいうこととなります。いったん帰り、迎えに来て状況を察知した彼は、たまたま「大路ニ屎(くそ)マリ居テ候」つまり、大路に屈んで大便をしていたこの家に仕える女童を捕まえ、衣服を引き剝ぎ脅したのです。すると、この女童の悲鳴を聞いた侍らが飛び出し、その隙に季通は屋敷を抜け出せました(『今昔物語集』)。かなり身分の高そうな家なので邸内に樋殿はあったと思われますが、誰もが使えたわけではなく、とりわけ女童のような軽輩は、邸外の空き地で用を足したのでしょう。庶民の家には樋殿の設備はなく、空き地があればどこでも用便をしたようです。ここで想起されるのは、暗闇のなか、小路の端に寄ったら「屎のいと多かる上にかがまり居ぬ」つまり、糞が沢山してある上に坐ってしまったという『落窪物語』の話です。さらに『餓鬼草紙』(十二世紀後半の成立)の「食糞(しょくふん)餓鬼」に見られる描写が思い起こされます。平安京のとある街角、崩れた築地塀や網代壁に沿った道端で、老若男女が小便や大便をしています。素裸になっている子供の姿もありますが、大人は尻を捲(まく)りあげて用便をしています。立ったままで尻を出している老人もいます。 みな一様に高足駄を履いていますが、これは足元や着物の裾などが汚れるのを避けるためです。よく見ると、排便中の子供が右手に木片を持っているのがわかります。それは終わった後に拭き取るための籌木(ちゅうぎ)、つまり糞ベラです。あちこちに便や使用済みの籌木が散乱し、中に紙らしきものも見えます。 庶民は屋内に便所を持たなかったようで、このようなところで用を足していたのです。そうであるならば、この草紙に描かれた場所は共同便所であり、高足駄は共同使用と考えられます。 臭い話はこのあたりでお終いにしましょう。【朧谷寿(おぼろやひさし)】 歴史学者。昭和14年(1939)、新潟県生まれ。同志社大学文学部文化学科文化史学 専攻卒業。平安博物館助教授、同志社女子大学教授を経て、現在は、同志社女子大学名誉教授、 公益財団法人古代学協会理事長、社団法人紫式部顕彰会副会長。著書に『藤原氏千年』 『藤原彰子 天下第一の母』『平安京の四〇〇年 王朝社会の光と陰』などがある。
2024.11.12
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宣川の小学校に収容されていた頃、朝鮮は独立していたとはいえ、全くの無政府状態で、治安も乱れ、もちろん外出も禁止されていました。1945年(昭和20)9月3日、宣川から南下する列車に乗り込みました。またも無蓋車です。停まっては進むを繰り返しながら、やがて南朝鮮の開城に到着しました。そこでさらに南に行くか、疎開本部のある平壌に戻るかが、日本人上層部で対立し、結局、北上することになりました。雨に打たれながら、ノロノロ運転で、停まったりを繰り返しながら、平壌に到着しました。平壌駅の引き込み線の行き止まり一帯が、当面の寝場所となりました。石炭殻の小さな山がいくつもありました。数日後、ソ連軍が進駐して来ました。ここでも悲惨なことが起こったようですが、具体的なことには触れていません。ある日突然トラックに乗せられて到着したのが、平壌の北町外れにある船橋里でした。土で造られているような粗末な長屋が3棟、鉄条網が張り巡らされている狭い敷地の中に建っていました。1棟には10ぐらいの部屋がありました。長屋の前方が炊事場、後方が便所でした。この建物は元々は日本の製鉄所で働かされていた朝鮮の人たちの宿舎だったそうです。「こんな所に暮らしていたのか、まるで家畜小屋ではないか」と、一瞬、息を飲みました。一歩入ると、湿ったかび臭い匂いが鼻を突きました。土の上に板が置かれ、その上にゴザが敷いてあるだけの床、小さな明り取りの窓には、ベニヤ板が揺れていました。お父さんが将校ということで、一番明るい場所が与えられました。(このことから、この建物の中の管理は、日本人がしていたことが分かります。)ダニとノミがひどくて、あちこちから悲鳴が上がります。世話係の人が来て、部屋中にDTTをまき散らしていきます。何もかもが真っ白になった所に薄っぺらな敷蒲団が敷かれていきました。お母さんと妹さんを含め、家族3人に1枚が割り当てられました。食事は朝晩2回、お椀に10粒の高粱があればいいほうで、食べるというよりは飲み干すという感じでした。無駄にエネルギーを消費しないために「動かないように」との指示が出ました。家畜以下の生活に、難民とはこういうものなのか、収容所とはこういう所なのか。食事について朝鮮側と交渉すると、持っているお金の全額を渡すことで、高粱粥の中に、少量ではありますが、大根の葉や馬鈴薯が入っていることがあるようになりました。「今日は芋が入っているぞ」との情報が炊事場から伝わると、部屋中が湧きたちました。給仕係は自分の家族に多くわたるように配るなど、えこひいきが目立ちました。やがて金日成政権も安定してきたのか、治安も良くなり、難民の使役が許されるようになりました。赤ん坊を背中に、働きに行く人もいました。元気な人は皆、働きに出るようになり、その人たちが昼ごはんやおやつを貰ったとなどと話しているのを聞くと、うらやましくてたまりませんでした。昭和20(1945)年秋、働きに出ていく人はほとんどが綿摘みをしているようで、自分もそれなら出来そうなので、働きに行く集団に交じって、初めて鉄条網の外にでました。綿を摘み、それを納屋まで運び、そこで埋まっている種を取り出します。最後に大人たちと同じ賃金をもらいます。帰り道には「物売り」の人たちが座り込んで商いをしています。初めてもらった賃金で焼き芋を買い、未だ温もりのある焼き芋を妹さんに握らせました。ぱっと輝いた目、美味しい美味しいと言いながら、少しずつ味わいながら食べています。明日も働きに行こうと心が弾んできました。天内みどりさんのお話を聞いてきました(4)に続きます。
2024.11.11
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AERA.dotの記事の転載です。ひと昔前は成人まで生きられるかどうか、と言われていたダウン症のある人たち。医療の進歩でいまや還暦超えも珍しくない。社会はどう支えていけばいいのか。「正直、両親は姉を施設に入れたとき、こんなに長く生きると思っていなかったと思います」長崎県諫早市在住の古川佳世子さん(56)は、7歳から医療型障害児入所施設で暮らす姉の内田祐子(まさこ)さん(60)に寄り添う。祐子さんは3年前に白内障、4年前には膀胱の手術を受けた。 「姉は『見えづらい』とか『痛い』などとうまく伝えることができない。白内障も、歩きづらい様子から周囲が気づいたんです」(佳世子さん)父親は9年前に他界し、母親は今年10月に88歳で他界した。2人の弟と協力し、姉を支える。「姉はきっと、なぜ母が面会に来ないのかと思っていると思います。母に会いたいだろうなぁと。だから私は、会ったときにスマホで母の写真を見せています。姉は自らタッチして、じっくり見ています」コロナの影響で面会制限があるなか、通院のための外出は姉とコミュニケーションをとれる唯一の機会で、佳世子さんは「大切な時間だから楽しみにしている」という。しかし診察前は、毎回、姉の体に異常が出ていないか、ドキドキするという。「これまでできていたことがいつできなくなるか」と心配している。■60歳以上がほぼ倍増 ダウン症は染色体が1本多くなって起こり、筋肉の緊張が低く、ゆっくりと発達する傾向がある。加えて、約半数の人に生まれつき心疾患があり、ほかにも消化器系の疾患など合併症も起きやすく、1970年ごろまでは平均寿命が10歳ぐらいだった。それが、医療の進歩などによって、最近では寿命は60歳程度とも言われる。日本ダウン症協会代表理事で、大阪医科薬科大学名誉教授の玉井浩さんはこう話す。 「2010年と16年のダウン症者の死亡時年齢を比較すると、60歳以上がほぼ倍増している。先天性心疾患や白血病・リンパ腫を乗り越えられれば、長寿は可能です」玉井さんによると、先天性心疾患の有無にかかわらず、成人になってから心臓の弁逆流を起こしたり、最悪の場合は僧帽弁逸脱症になったりすることもあるといい、手術後も定期的な受診が大切で、玉井さんは「サポートファイル(ブック)」の利用も勧める。病歴や処方薬、手術記録などの医療情報だけでなく、日常生活やコミュニケーションの方法などさまざま記入するもので、医療や福祉の利用の際に役立つ。日本ダウン症協会のホームページから無料でダウンロードできる「わたしの健康パスポート」もいい。「親御さんもお年を召していくと記憶もおぼろげになっていきます。ファイルで常に更新していくことで万一に備えられます」(玉井さん)合併症だけでなく、ダウン症のある人には身体的な老化徴候が早く起きやすい。 「ざっくりといえば、40歳のダウン症の方は健常者の50歳ぐらい。50歳になると、70歳の健常者ぐらい。外見だけでなく体力も、認知機能も低下します」背中は丸くなり、老人性色素斑(いわゆるシミ)などが出現する。年齢とともに、残尿出現頻度も増える。さらに成人期以降は、難聴や白内障、糖尿病、嚥下障害などさまざまな疾患が出てくる。40歳くらいになるとアルツハイマー病が出現することもある。「ダウン症のある方の認知症の早期発見に役立つとされているのが『DSQIID(知的障害者用認知症判別尺度)』といわれる、家族や介護者が記載して判定できるものがあり、若年期は2~3年に1回は判定し、これを基準値として、35歳を超えたら毎年行って比較すると良いと思います」(玉井さん)■手に職をつけさせたい諫早市のみさかえの園総合発達医療福祉センターむつみの家診療部の医師、近藤達郎さんは、長くダウン症患者と向き合ってきた。これまで診た患者数は1千人以上にのぼる。「ダウン症候群の方は、自分の感情に素直で、デリケートで明るくて笑顔も素敵。多くの方が元気で穏やかではつらつとされています。愛情を持ってご家族が支え、地域の社会資源を使いながら、年齢を重ねるにつれそのつながりを強くしていけばきっと幸せに過ごせると思います」ダウン症の子どもの成人後や高齢期を考え、本人に向いている仕事や作業を探し続け、地域や人とのつながりを築いている家族も少なくない。東京都世田谷区在住の神谷有子さん(59)の次男はダウン症で知的障害もある。その程度は「決して軽度ではない」という。中学生の時、福祉作業所で1週間の職場体験があった。2時間のタオルの四つ折り作業に飽きた息子に「ちゃんとできるように」と指導が入った。神谷さんには衝撃的だったという。「手に職をつけさせたい。それが彼の自信と生計につながれば」。この頃から次男がやりたいという何かを探すようになった。縁あって山梨県笛吹市のぶどう園の人々との交流ができ、東京から次男と夫と「週末農業」体験をしたときのこと。「収穫作業など、ところどころの参加であっても息子が楽しそうにしているんです。繰り返しの作業でも、完成品のワインという『成果』が出る。工程の一部が結果につながることが実感できる。これなら息子にもできるかもしれないと思ったんです」■家族で農園を立ち上げ 県主催の新規就農者向けシニア研修に参加。その後空き家バンクを通して6千平方メートルの農地付きの家屋を購入した。家族で立ち上げた「神谷ともいき農園」には知的障害者の団体が見学にやってくるなど、障害のあるなしにかかわらず多くの人に開放している。「子どものためにお金を残しておくという考えもあると思う。でも人と人とのつながりを大切にひとつひとつ積み上げていけば、将来すごく大きなものにつながるような気がしています」(神谷さん)次男は計算ができず、かみ砕いて説明をしないとわからないところもある。丁寧な説明が必要だ。「そんな息子でも人を見る目がすごく優れているんです」(同)夢は、農園に手伝いにくる多様な人を巻き込んで、賄い付き温泉付きの宿泊施設を作ること。「我々がいなくなっても持続できる何かを作っていきたい。超高齢社会。ダウン症があろうが認知症があろうが、できることをみんなでやって補い合う。助け合おうとする人たちが出てきて社会は変わっていく。人口が増えない限り、そうやっていかざるを得ないのかと思います」神谷さんは充実した表情を見せながら言った。 「息子が、人生で大切なものを教えてくれました」
2024.11.11
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新京駅に着くと、そこには日本に帰る関東軍関係の人たちでごった返していました。(一般人は見捨てられました。)馬の輸送に使われていた貨車にぎゅうぎゅう詰めにされて出発しました。(作家の「なかにしれい」さんは、こねを使って関東軍が逃げる汽車に乗り込むことが出来ました。やはりぎゅうぎゅう詰めだったでしょう。取り残された一般人の一人が、走り出した列車に必死につかまりました。その指を1本1本と離していって、最後は落としたことを目撃して、小説に書いています。)お父さんは馬が好きで獣医になり、軍馬補充部に勤務していました。天内さんの遊び場は牧場でした。お父さんに抱かれて馬にまたがり、満州里の荒野を駆け抜けた日のことが忘れられません。その後、満州里から釧路に近い白糠に移りました。この頃は、お母さんは乳飲み子だった妹の世話に追われていたこともあって、遊び相手はおばあさんでした。小学校2年の春、馬に関する論文が認められて、東京にある陸軍獣医学校の教官として赴任することになったお父さんと一緒に、家族も上京しました。世田谷区の下北沢に居を構え、代沢小学校に転校しました。しかし、穏やかな日々は長く続きませんでした。昭和16年(1941)7月末、お父さんが動員されて、満州に発つことになりました。出発の前夜、お父さんがお母さんに短刀の持ち方、自害の仕方を教えているところを、灯りの漏れるふすまの隙間から見てしまいました。大好きな祖母が、故郷の福井県にいる娘夫婦に引き取られました。やがて強制疎開になります。母方の祖母に引き取られて、福井に住むことになりました。やがて、国民学校の1年に入学する妹のかほるが東京から来ました。妹は母恋しさで、毎日泣いていました。昭和20年(1945)、お母さんは結核性肋膜炎で倒れてしまいました。しかも、3月5月の東京大空襲。お父さんはお母さんを一人、置いておくことは出来なかったのでしょう。母子3人は、親戚一同の反対の中、満州の新京にたどり着きました。お母さんはそのまま病院に直行しました。3歳違いの兄は、昭和20年(1945)陸軍幼年学校に入学します。全寮制でした。合格通知を受け取った時、お母さんが疲労のため、肋膜炎で倒れてしまいました。日本ではもうお母さんの薬を手に入れることは出来ませんでした。3月、5月の東京大空襲もあり、お父さんのいる満州の新京に行くしか道はありませんでした。天内さんは小学校に編入しましたが、日本では勤労奉仕などで、ほとんど勉強らしい勉強をしてきませんでした。(手旗信号とモールス信号のみを勉強していました)その天内さんに対して、「内地の子はこんなに勉強ができないのか」「軍人の子なのに、なんと出来が悪いのだ」などの教師の侮辱の言葉、それに応えるように「アハハ、アハハ」と笑う生徒たちには、耐えられない、惨めな思いをさせられました。この新京の生活は3ヶ月で終わりました。新京脱出の話しに戻ります。新京を出発して2日目、鴨緑江を通過しました。さらに南下し仁川に着きました。ここで列車を乗り換えて北上し、8月13日、宣川で下車し、日本人学校へ案内されました。難膝窩の教室に別れて入り、久しぶりに手足を思いきり伸ばすことが出来ました。獣医部の人たちと一緒なのも安心でした。お母さんの病気が悪化しましたが、15日には落ち着いてきました。しかしこの日に日本の降伏が伝えられ、青酸カリが配られました。群衆が襲ってきそうになりましたが、校長の「朝鮮独立おめでとう」と言いながら手を振り、私たちが「哀号」と叫んでいると、何の危害を加えることもなく、引き上げていった。天内みどりさんのお話を聞いてきました(3)に続きます。
2024.11.10
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先日、或るレセプションに着物で参加しました。場所はハーグ。国際刑事裁判所や国際司法裁判所がある、国連に似た雰囲気のある場所です。場所は某国大使公邸。人権擁護NGO(Human Rights Watch=HRW)のレセプションでした。ハーグもHRWも、極めて国際的で、各国・各民族、延いては各人の多様性を尊重する基盤がとても強い場所や団体です。以前からレセプションに着物で出てみたいと考えていたのですが、悪目立ちしないかとか、中々躊躇して踏み切れなかったのですが、ハーグ+HRWとは、これ以上に相応しい機会はないと思い、実施してみました。着物は二次元の物なので、折り畳んでパッキング出来るのでかさばらず、タキシードやスーツよりも荷物としてラクです。ブルー系の長着に、紺の羽織、黒系の帯をしていきました。果たして、大袈裟な反応は一切なく、普通にすんなりと受け入れられ、そして多くの人に「いいですね」と云われ、案ずるより産むが易しと云うか、大成功でした。これからは日本でも海外でも、タキシードを着るような機会に、いつでも着物で出掛ける自信が付きました。紺のスーツの中にも溶け込みやすい色合いも良かったかも知れません。今回のことで一番強く心に残ったのは、多様性が受け入れられることの大切さです。異なるものが、優しさと一定の敬意・理解をもって受け入れられると、受け入れられた者はきちんと立って前を向くことが出来る。私にとってそのような「受け入れ場所」は、いくつかあります。ベースとかドックと云うべき場所。友達が一番のベースでしょうか。自分もそのような役割を、友達に限らず様々な人に対して、ちゃんと果たしていきたいと思ったのでした。
2024.11.10
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八戸市歐盟大学講師・天内(あまない)みどりさんの「私の歩んだ道」というお話しを聴いてきました。天内さんは「芙蓉の花~北朝鮮引揚げの記録」という本を出しています。今回のお話と関連していますので、参考にするために図書館から借りてきました。この本は以前に一度、読んでいます。最初に天内さんの紹介です。「芙蓉の花」の末尾にあります。陸軍獣医の木村一栄を父とし、昭和8年青森県三本木(現・十和田市)で生まれた。幼少時代は満州(現中国東北部)満州里と北海道の白糠で過ごす。父の転勤、疎開、渡満、引揚げなどで、小学校は転校ばかり。白糠小学校、東京・世田谷の代沢小学校、福井市進放校、新京(現・長春)の在満国民学校、そして引揚げ後は、1年遅れて福井の穴馬小学校荷暮分校を卒業。昭和22年秋、穴馬中学から八戸の三条中学校へ転校。その後、八戸東高校、弘前大学文理学部を経て化学教師になる。平成3年退職。結社「コスモス」で短歌を学び、趣味の草木染めと書道に勤しんでいる。(講演時は91歳と、ご本人がおしゃっておられました。私の通っていた中学校で、1回だけ、休んだ先生の代理として、数学を教えに、教室に来たことがあります。当時は数学の教師が不足していて、私の担任だった社会科の先生が募集に際して手を挙げて、数学を教えていたことがありました。 熱血漢でしたが、心に残っていたんでしょう。大分経ってから、中学の同期会の時「皆さんには大変ご迷惑をかけた。1年ぐらいの遅れは何とかなるというので数学教師に応募し、教えたんだが、うまくいかなかった」と真顔で詫びていました。天内さんも同じような感じで、数学も教えていたのかもしれません。1回だけの授業でしたが、教え方は上手かったと記憶しています。私の周囲にいる、生徒だった人たちの間では、今でも評判が良いです。また、天内さんは転校が多いのも気の毒です。私は小学4年の途中に岩手県の水沢市に転校しました。今はどうか分かりませんが、学んでいることが全く別で、理解できなくて困りました。更に、小学5年の、これまた学期の途中に、1年経って、元の小学校の同じ学級に戻って来ました。水沢でやっと追いついたと思ったら、またまた、分からなくなりました。今でも明瞭に覚えています。八戸では、分数をやっていました。私は分数というものを見たことがありませんでした。近くに座っていた、近所に住む友達に教えを乞うたのですが、冷たいことに、教えてくれません。このことは随分時間が経るまで、恨んでいました。後になって、事情が分かってきたような気がします。あの時は、近所の友人も分数を理解していなかったのではないかと。恨んだのを申し訳なく思う気持ちになりました。天内さんも同様だったでしょう。満州の学校に入ると「本土の生徒は出来が悪い」と言われています。転校の不利だけでなく、当時、本土の学校では授業はなく、戦争の手伝いばかりしていたのですから。また、天内さんの、戦後生まれの弟さんは、既に亡くなっていますが、私が高校の時の同級生でした。一緒に自転車で恐山を往復したり、階上岳でキャンプをしたりしました。)昭和20年(1945)8月9日、ソ連参戦時、お父さんは関東軍補給獣医部の獣医中佐でした。お母さんは結核性の肋膜炎を患っていました。ついこの前、治療する薬もない日本から、薬を求めて、遠い満州に来たばかりです。満州では薬を手に入れることが出来るのでした。「ソ連が参戦した。お母さんと(妹の)かほるを連れて、日本に帰ってくれ。明日出発だから支度をするように」長女の私がしっかりしなければならないのだと、自分に言い聞かせました。この時、長男のお兄さんは陸軍幼年学校に入っていて、東京にいました。この学校は全寮制でした。「天内みどりさんのお話を聞いてきました(2)」に続きます。
2024.11.09
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Medical Doc の記事の転載です。肺がんの最大のリスク因子は「喫煙」です。しかし、非喫煙者でも肺がんになる可能性があることをご存知でしょうか。特に初期の肺がんは無症状であり、レントゲンの検査では発見できないケースも多く注意が必要です。そこで今回は、実際に肺がんを発症し手術を経験した青木さやかさんと日本呼吸器学会認定呼吸器専門医である古屋直樹先生に、肺がんの早期発見と治療方法について対談していただきます。古屋先生: 肺がん発覚のきっかけについて教えてください。青木さん: 最初に肺がんが発覚したきっかけは、2014年に受けた人間ドックのCT検査で見つかった小さな影です。当時はがんかどうか分からなかったので、定期的に検査することになりました。 古屋先生: 経過観察中はどのような心境でしたか? 青木さん: 経過観察の3年間は気が晴れませんでした。最初に受けた人間ドックの3年後には影も1.5倍に大きくなっていて、その際にがんの可能性が高いと言われました。 古屋先生: 肺がんを告知されたときの心境について教えてください。青木さん: がん家系で母も悪性リンパ腫があったので、ある程度は覚悟できていましたが、実際に告知されたときはとても怖かったですね。 古屋先生: 突然のことで不安になりますよね。青木さん: はい。肺がんに関する知識がなかったので、手術や手術後の生活が不安でした。世界から色がなくなって、見るもの全てがグレーに見えたことを覚えています。告知を受けたときに「私、死ぬんですか?」と医師に聞いたら「死ねないよ」と言われて気持ちは軽くなりましたね。古屋先生: 青木さんはがんにどのようなイメージを持っていましたか? 青木さん: 「がん=恐ろしい」ですかね。瞬間的に死を想像させるイメージです。 古屋先生: 肺がんについてはいかがですか? 青木さん: 男の人にかかりやすく、咳が止まらず苦しいというイメージがありました。古屋先生: 自覚症状はありましたか?青木さん: 何も症状がなかったので、イメージと違うなと思いました。初期症状にはどのようなものがありますか? 古屋先生: 初期の肺がんは無症状である場合が多いですね。そのため、肺がんを初期の段階で見つけるのは非常に難しいと考えられています。青木さん: 初期でがんを見つけようと思ったら定期的に検査することが大切ですね。 肺がんを疑ったほうが良い症状はありますか?古屋先生: 喫煙歴があり2週間以上止まらない咳や血痰、声枯れなどがある場合は積極的に医療機関を受診していただきたいと思います。特に初期の肺がんはレントゲンで見つけることが難しいため、肺がんを心配される場合は、CT検査の施行を医師と相談していただければと思います。青木さん: レントゲンだけでなく、CT検査を受けることが大切なのですね。 古屋先生: はい。一般的な健康診断ではレントゲンで検査することが多いと思うのですが、青木さんはなぜ2014年に人間ドックやCT検査を受けようと思ったのですか? 青木さん: 2014年当時は41歳だったのですが、40代になったら人間ドックを受けるよう先輩に誘われたからです。古屋先生: その先輩のひと言が大きかったのですね。青木さん: そうですね。それがなかったら検査も受けていなかったので、感謝しています。肺がんの原因について教えてください。古屋先生: 肺がんにおいて科学的に証明されている原因の一つは喫煙です。ただしタバコを吸っていないから肺がんにならないとは限りません。青木さん: 喫煙以外の原因があるということですか? 古屋先生: そうですね。喫煙以外の原因として遺伝子の異常があります青木さん: 肺がんも遺伝する可能性があるということですか? 古屋先生: 一般的に肺がんには遺伝性がないと言われています。遺伝子の異常は子孫への遺伝とは異なり、細胞の設計図である遺伝子の「突然変異」が原因です。青木さん: 日常生活で予防することは難しいということですか?古屋先生: はい。喫煙と無関係の肺がんは誰にでも起こり得ると考えられています。青木さん: 肺がんを発症しやすい年齢はどれくらいですか? 古屋先生: 肺がん患者の年齢中央値は75歳くらいだと言われていますが、20代で肺がんになる可能性もあります。 青木さん: 私は肺腺がんだと診断されたのですが、肺がんと肺腺がんの違いについて教えてください。古屋先生: 肺がんは、患者さんから採取したがん細胞を顕微鏡でみた細胞の形態の違いで「小細胞がん」と「非小細胞がん」に分けられます。「小細胞がん」は進行が速いのに対して「非小細胞がん」の進行は小細胞がんよりはゆっくりです。青木さん: 進行のスピードが違うのですね。古屋先生: はい。非小細胞がんは、さらに3つのタイプに分けられます。肺腺がん、扁平上皮がん、大細胞がんです。扁平上皮がんや大細胞がんは喫煙者に多いタイプの肺がんであるのに対して、肺腺がんは非喫煙者でも発症する可能性があります。青木さん: 肺腺がんは非喫煙者でも発症する可能性があり、進行速度は比較的ゆっくりだということですね。
2024.11.09
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●東奥日報の記事の転載です。八戸の水産業振興に貢献しようと、宮城県石巻市で主に生き餌販売を行う漁業会社「杉山水産」(杉山隆義代表取締役)が青森県八戸市の漁業会社から八戸港唯一の小型巻き網船団を購入し、10月からの本格操業を目指している。杉山代表取締役(54)は「われわれが操業することで、関連業界への経済効果も生まれると思う。少しでも八戸のためになれば」と話した。●地元紙の記事の一部転載です。10月7日、八戸前沖で本格操業を開始し、八戸港にカタクチイワシ(セグロイワシ)7トンを水揚げした。煮干しの原料となる。「成進丸」船団は本船(網船)2隻を主体に、計7隻で構成している。この日、船団は午前4時半頃に舘鼻岸壁を出発し、40分ほどの距離にある漁場で操業し、(マイワシ交じりの)カタクチイワシ27トンを漁獲した。このうち、20トン分は杉山水産の本業であるカツオ漁向けの生餌販売に回し、残る7トンを八戸市第1市場に上場した。魚を積んだ運搬船「第17兼神丸」は午前10時20分頃に帰港した。船団の漁獲は2020年シーズン以来で、その間は八戸港にカタクチイワシは水揚げされていなかった。煮干しを作る加工業者は「形は悪くない。鮮度のいい状態で持ってきてくれれば、いい煮干しの原料になりそうだ」と話した。船団は12月まで、八戸沖で操業する予定だ。●地元紙の記事の一部転載です。一方、三沢市沖の昼イカは今期も低調で、数量、金額とも過去最低のペースだ。過去にも、ピーク時の10分の1に満たない年もあった。昼イカとは昼間に、三沢沖などの太平洋沿岸で漁獲し、その日のうちに三沢漁港に水揚げされるスルメイカ「三沢昼イカ」のことで、翌朝には首都圏や仙台圏の市場やスーパーに並ぶ。鮮度や食味が高く評価されている。
2024.11.08
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テレ朝の記事の一部転載です。タコの価格がなんとマグロ超えする事態になっています。どうなる、たこ焼きのタコ。庶民の味として老若男女に親しまれているたこ焼き。大阪府が発祥と言われる日本のたこ焼きは、いまやワールドワイド。世界中から“引っ張りだこ”の人気です。スペイン出身の2人が熱々のたこ焼きをぱくり。すると…。「ホット」 口の中でハフハフしながら舌鼓。観光で来日した男性は明太子とトロトロのチーズが合わさったタコ焼きを注文。「おいしいね」 「たこ焼きを食べてみたかったんです。スペインにもタコを使った食べ物があるので。たこ焼きは3段階あって、最初はよく焼かれた表面。そしてたこ焼きの内側の柔らかさ、そしてタコの味わい。完璧」東京の「お台場タコ焼きミュージアム」に、たこ焼きの本場である大阪府の名店が集結しています。インバウンド需要が高まるなかで今、肝心のタコの価格が高騰しています。都内の鮮魚店を訪ねると、台湾産メバチマグロの中トロが100グラムあたり600円で売られています。一方、三陸産のマダコはボイルした足1本の価格が1146円。100グラムあたり699円です。 マグロよりもタコの方が100円ほど高くなっています。 「たこ焼きパーティー時々してて、最近は(タコが)高いから手が出ない」総務省の調査によりますと、東京都区部のタコの小売価格はこの10年、高騰が続き、今は100グラム507円。マグロは499円で統計以来、初めてタコの価格がマグロを超えました。 「急激に上がりだしたのは2、3年前。今までタコを食べなかった欧米の人々を含め、世界中のタコの需要が高まったことで一大産地であるアフリカでの漁が乱獲気味になっている。取り過ぎて資源の枯渇。あと一つは円安。2、3カ月前に国内産の価格を輸入品が上回ってしまったので、それ以来、輸入品の取り扱いをやめた。国内産一本」海外産のタコが特に高騰しているといいます。日本に輸入されるタコは西アフリカ産がメインで、モーリタニア産とモロッコ産で半数以上を占めています。モーリタニア産のタコを使うたこ焼き店では、タコ以外の具材も活用して乗り切っています。 タコの代わりに豚肉を入れた「豚トロたこ焼き」。さらに豚肉とアスパラ、チーズの組み合わせや「ホタテバター」などが味わえるセットも。世界的にタコが高騰するなか、ゆでダコなどを大手スーパーに卸している加工会社は新たな産地の開拓に力を入れています。「こちらがモーリタニアやモロッコ、日本で取れるマダコ。こちらがインドネシアで取れたワモンダコ」インドネシア産のワモンダコの魅力は安さ。アフリカ産や国産のマダコに比べて半額近くで仕入れることができるといいます。「インドネシア産のタコは足がマダコよりも長くて、身は皮がしっかりしていて歯切れのよい食感。価格が上昇しているなかで比較的、価格が安いワモンダコを何とか確保できないかと産地を開拓して進めて今にいたる」今後、加工品の原料として増やしていく方針です。 めばち鮪の中トロ画600円・・・。高いです。最近、八戸のスーパーの店頭には、青森県産・生の本マグロが並ぶようになりました。写真を添付します。 最初はSスーパーです。ここでは以前から、青森県産本マグロを売っていました。こちらは Uスーパーです。青森県産本マグロの赤味が100gで540円でした。切れ端が100gで10円引きでしたので、こちらを買いました。(青森県産本マグロといえば下北半島突端にある「大間のマグロ」が有名です。毎年、正月のセリで、億の単位で値段が付きます。先日は「津軽海峡の本マグロ」が、スーパーで売られていました。青森県産だと、日本海側の深浦で獲れたのが想像されますが、先日は料理屋で、八戸で獲れた本マグロを食べました。八戸産は珍しいです。日本海を北上する対馬暖流にのって、本マグロは移動します。そして津島暖流は、さらに北上する流れから分かれて、津軽海峡に流れ込み、最東端の尻屋崎辺りで親潮とぶつかり、本来は八戸沖へは本格的には流れ込みません。大間のマグロは1本釣りで、魚体を傷めないのが特徴です。テレビでも漁師が釣る映像が流れています。ただ、マグロ漁で食べていける人は十数人で、そのほかは貧乏しているのが真相のようです。「津軽海峡の本マグロ」となると、青森県では津軽半島の龍飛で採れたものが該当しますし、大間から約0km離れた対岸の函館付近で獲れた本マグロもそう呼べます。それらが大間の本マグロとどこが違うかがよく分かりません。大間の漁師が本マグロを探して、西側の津軽半島付近まで行くことがあることは聞いています。漁のやり方が違うのかもしれません。例えば八戸で上がった本マグロは、それを狙った1本釣りでないことは明らかです。それで生計が成り立つほど、水揚げがありませんから。)
2024.11.08
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地元紙の連載「思い出の繁華街 あの日、あの場所」の記事の転載です。中園裕さんが書いています。八戸市の新長横(ながよこ)町は、長横町から、ゆりの木通りを越えて南側に広がっていた新興の歓楽街です。(現在の写真を載せます。三日町方面から吹上小学校方向を見ています。この道路は中央通りと呼ばれていますが、三日町方面からの一方通行になっています。左側の先にある鍛冶町通りが、逆の一方通行です。この辺りは小学校の学区でしたので、記憶に残っていますが、後で出てくる日米会館の正確な場所がわかりませんが、ほぼこの辺りだというのは見当が付きます。)行先の道路は右側に曲がっています。先端に見えているのが吹上小学校です。(今度は逆に長横町や三日町方面を見ています。)戦前までは田んぼが広がり、閑散としていた場所でしたが、大地主だった林八十吉が戦後に日米会館を建設し、進駐軍相手のローラースケート場を始めました。会館は大字類家字縄手下の林駐車場付近にありました。スポーツ娯楽施設が満足になかったため大人気で、1955(昭和30)年1月28日には、ラジオ青森八戸放送局の開局記念祭会場にもなりました。(日米会館は、当時としては広い建物だったので、小学校の催しにも利用されました。その後、宮城公園に市民開館が出来、大きな催しはそちらへ移りました。その後、より広い体育館ができ、音楽祭なども催されるようになりました。本番前の練習で、ドラムを叩くや否や、すごい残響になり、奏者が驚いていたのを覚えています。最後に、待望の公会堂が出来、八戸にも、何にでも使える施設が出来ました。ただ、椅子の幅が狭くて、窮屈を強いられています。何とかしてほしいです。下の写真の辺りに、日米会館があったような気がします。前方にある「湯」の看板を右に行くと林駐車場に至ります。この写真では分かりにくいですが、右の斜め前方の通りは旭町です。)スポーツや文化の拠点ができたことで、周辺には飲食店や娯楽施設が建ち始めました。その中で最も人目を引いたのが、日米会館より少し西側(日米会館は通りに面していましたが、そこよりも鍛冶町寄りにあったようです)にできたキャバレーの「銀馬車」でした。八戸では草分け的な存在で、豪華な店内では連日変化に富んだショーが催されました。大勢のホステスによるサービスは、時を忘れさせるといわれたそうです。(随分、広いですね)お座敷で芸妓の踊りを鑑賞しながら割烹料理を味わうより、ショーを見て、華やかなドレスを着たホステスたちと語り合い、時にダンスも踊れる方が斬新だったのですね。戦後の開放的な世相にも合っていたのでしょう。銀馬車に刺激されるように、八日町に「みつや」、大工町に「白馬車」、長横町に「富士」と、相次いでキャバレーができました。1950~60年代には、高度経済成長の勢いもあってキャバレーが大いに流行したのです。当時、キャバレーで働いていたホステスたちは教養が高く、話題も豊富だったとのことです。本格的なキャバレー経営を目指していた経営者たちは、容姿容貌だけでなく、教養や会話力の高さなども重視してホステスを採用していたそうです。日米会館と銀馬車がけん引役となり、中央通りと鍛冶町通りを結ぶ東西の狭い複数の路地に、スナックやバーなどの飲食店が所狭しと建ち並びました。このため、新長横町の歓楽街は「八戸の上海」「長横町租界」と呼ばれたこともありました。歓楽街の利用客はサラリーマンや漁船の乗組員、商店主、近郊農漁村の青年、出張社員など、幅広かったようです。八戸市には巨大な臨海工業地帯があり、水産業も盛んだったことが、歓楽街を支えていたのです。1950~60年代に、北洋漁業が盛んだったことも見逃せません。漁船の乗組員は全員男性です。長い厳しい漁を終え、陸へ上がった彼らが、何よりも楽しみにしていたのがうまい酒と食事。そしてホステスたちが迎えてくれるキャバレーやスナックでした。当時、サラリーマンや漁師たちの給料は手渡しでした。「宵越しの金は持たない」と、大勢の男性が派手に遊んだので、歓楽街は大繁盛しました。しかし、銀行振り込みの時代となり、妻に財布のひもを握られた夫たちは、おいそれとは飲みに行けなくなったようです。懐事情が厳しくなったからです。下の写真が撮影された1980年代半ばごろの新長横町を見ると、小さなスナックや居酒屋が並んでいるのが分かります。(この場所の現在の姿です。面影はあります。)しかし、高度経済成長は昔日のものとなり、200海里水域制限の時代になって、北洋漁業も事実上の終焉を迎えました。テンポの多くは950~60年代に建てられたため、次第に老朽化が目立つようになり、場末の雰囲気が漂いつつありました。店主やホステスの中には、年齢や健康上の理由で、店を畳んだり辞めたりする人もいて、店舗数も減少し始めていました。新型コロナの流行もあり、飲食娯楽店の数が少なくなった現在、かつて隆盛を極めた新長横町の歓楽街を知る人は少なくなりました。市民が新長横町の名前を確認できるのは、中央通りにあるバス停の名前ぐらいでしょう。近年、八戸市の横丁街が人気です。いろいろな人々が気さくに語り合い、思いを共有できる雰囲気があるからでしょうか。安らぎを求めてやってくる人も多いと思います。けれども、そのような場所は、一度失われれば元の戻すことはできなくなります。新長横町の街並みも、その一つだと思うのです。
2024.11.07
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南日本新聞の記事の転載です。薬と光を用いて、がん細胞だけを狙い撃ちする頭頸部(けいぶ)アルミノックス治療(光免疫療法)による口腔がん治療が鹿児島大学病院(鹿児島市)で始まった。昨年から口腔外科領域に導入されており、実施するのは九州で初めて。光免疫療法は、光に反応する色素を付けた抗がん剤を使う。投与すると患者のがん細胞にくっつき、光の照射で活性化してそこだけを壊す。県内では、鹿児島医療センター(同市)の耳鼻咽喉科が、頭頚部がんの治療に2023年2月から提供している。 鹿大大学院医歯学総合研究科の奥井達雄教授(44)=口腔外科=によると、口腔がん治療の基本は手術。再発した人や再発リスクの高い人に対しては、放射線治療や抗がん剤を使った化学療法、免疫療法がある。光免疫療法はそれらに続く治療法だ。光ファイバーを通じて特殊な光を当てる照射は1回5分で、4カ所同時に実施できる。副作用で患部周辺が腫れる場合があるため、現在は気管切開が必要となる。ガイドラインに基づき、現状では既存の治療が難しい人が適用対象で、専門医による検討委員会が認可する。1回約400万円だが、高額療養費制度が適用される。県内1例目の治療は10月18日、70代の女性患者に実施。難治性の口腔多発がんで手術や抗がん剤治療を重ねており、新たな治療に望みをつなぐ。奥井教授は「患者の生命を守る武器が一つ増えた。症例を重ねていけば、手術の回避や侵襲性の少ない治療として広がっていくのではないか」と期待する。
2024.11.07
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●RAB青森放送の記事の転載です。鍋料理を一堂に集めた「あおもり鍋自慢」がきのう南部町で行われました。 あおもり鍋自慢は毎月22日を条例で「鍋の日」と定める南部町が年に一度開いています。俳優の永島敏行さんをゲストに迎え、弘前市の「がに汁」(トゲクリ蟹汁の間違いです)や五戸町の「桜鍋」など21のご当地鍋が提供されました。地元・南部町からは料理家の栗原新平さんが監修した「南部太ねぎと菊ボールの鶏鍋」と、町内の留学生たちがつくるインドネシア料理の「ソト・アヤム」が登場し、訪れた人たちが食べ比べていました。 ★来場者 「馬肉鍋やかに汁を食べました おいしかったです」 「いろいろな地域の味が楽しめていいのかなと思います」またリンゴやゼネラルレクラークなど、地元産の旬の農産物が即売されにぎわっていました。(左側の建物の前にも、屋台がずらりと並んでいます。店の前に行列を作っているので、店は見えません。建物のへりに人が群がっています。)(食べる場所はたくさんあるのですが、人が多いので探すのに一苦労します。当然、相席です。)(東通牛が見えず、豆腐だけが目立ちます。かき回してみると、牛が出て来ました。)(南部町在住のインドネシア出身の方が作っています。)(日陰になってしまい、中味が見えないのが残念です。上の写真の右下方の写真が分かりやすいです。容器が小さいのが気になります。)(五所川原市三好地区が出品している「三好みそ鍋」も、栗原心平さんが考案したものです。三好地区で収穫された野菜と、三好味噌、福士豆腐店の豆腐と油揚げを使った、三好地区だけの特別な鍋です。)蟹は弘前地方で花見の時期に食べられている「とげ栗蟹」です。産地は下北半島の付け根にある野辺地町です。隣の人が食べていましたが、美味しいと言っていました。最後にこの人形は何でしょうか?ナマズという説が有力でしたが、聞いてみるとアブラメ、一般にはアイナメと呼ばれています、でした。似ていない!!!
2024.11.06
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khb東日本放送の記事の転載です。暖かい海に生息しハワイでは高級魚として知られるシイラの水揚げが、宮城県で増えています。 女川魚市場で10月半ば、定置網で獲れた魚の中に金色の魚体に大きく出っ張った頭を持つ宮城県の海ではあまり見慣れない魚の姿がありました。 東北大学大学院片山知史教授「シイラという魚ですね」水揚げされる魚種の調査のために魚市場を訪れていた東北大学大学院の片山知史教授です。東北大学大学院片山知史教授「そんなにいつも多く取れるわけではないですけれども、10月に入って大量に取れてますね」シイラは暖かい黒潮に生息し、ハワイではマヒマヒの名前で知られる高級魚です。近年、女川での水揚げ量が増加しています。2022年の9トンから2023年は32トンに増え、2024年も10月半ばまでに既に25トンの水揚げがありました。東北大学大学院片山知史教授「宮城県沖で漁獲されるということは、黒潮系の暖水が東北の沖にある。今では、牡鹿半島の先は25℃近い高い水温の水がまだまだ残っているという状態」水揚げは増えているものの、日本ではあまりなじみがないため滅多に食卓に上がることはなく、市場での取り扱い価格も1キロ当たり90円ほどの低価格で取引されています。 漁師「大きい物から小さい物まで取れます。値段の安い魚ですね。/もう少し値段が上がれば良いかなと思っています」サンマやサケなど宮城県の海の恵みの中心となってきた魚の不漁が続く中、片山教授は新たに取れるようになった魚を有効活用することが大切だと話します。 片山知史教授「残念ながらサンマ、スルメイカ、サケが不漁です。せっかく宮城県沖にやって来た魚を有効に利用して食べるということが、これからも大事になってくる」
2024.11.06
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●「根城史跡と博物館が無料の日 2024年10月」、年2回無料の日があります。この日は史跡内に舞台ができて、様々な催しがあるほか、屋台も出て賑やかになります。博物館では八戸に関係する女性3人、「ねね(清心尼)、鶴姫、南部麻」に関する展示をしていました。①ねね:八戸氏(根城南部)の当主となり、母親の弟である盛岡南部藩主・南部利直からの指示で、遠野(現・岩手県)に移った人です。②鶴姫:薩摩から養子として来た八戸藩最後の藩主・信順に、数え3歳で嫁ぎました。③第14代盛岡藩主南部利剛(としひさ)の娘で、明治4年、第10代八戸南部氏の南部栄信(さきのぶ)に嫁ぎ、後に八戸南部氏第11代当主となるのが南部麻(1858~1913)です。この日は多くの人が訪れていました。本丸に至る手前の「根城史跡公園」です。ここはいつも無料で開放されています。普段は有料の本丸が前方にあります。暗くてよく見えませんが、正面には復元された本殿の屋根が確認できます。復元された根城本丸の全体像です。八戸では博物館も是川縄文館も、写真撮影は問題ありません。ただフラッシュ撮影だけは禁止されています。灯かりの関係からか、写真は焦点が合っていません。お許しください。櫛引八幡宮で、国宝の鎧がある国宝館だけは撮影禁止です。是川縄文館の国宝・合掌土偶は問題ありませんが、周囲が暗いので、うまく撮影できないのが現実です。戦に行くためにのろしを上げている根城の模様を再現しています。史跡根城の前掲です。茶色く見えています。温かい季節は茶色い部分がきれいな緑色の芝生になります。左側を流れているのが馬淵川です。左側にも根城の館は広がっていますが、住宅地になっているため、買収して公園に含めるのは断念しました。貴重な資料です。写りが悪くて申し訳ありませんが、最初に翻訳というか解説、続いてその資料を掲載します。ねねが移っていった岩手県遠野市とはお付き合いが継続しています。遠野の桜祭りでは、清心尼(ねね)が八戸から移ってきた時の行列が、毎年、再現されています。それに応じて、八戸の新井田でも、出発の行列が行われています。下の民俗品は、遠野市から寄贈されたものです。新井田からの出発式と、夏に開催される八戸三社大祭には遠野の方々が招待されています。以上「ねね(清心尼)に関する資料です。続いて「鶴姫」に関する資料だと思われるものを載せます。江戸時代の八戸藩の藩図です。桃色に塗られているのが八戸藩です。北辺が八戸市、その南に階上町があります。その南は現在は岩手県になっていますが、八戸藩の領土でした。沿岸部では洋野町と久慈市、内陸では軽米町、九戸村、葛巻町がそれにあたります。現在の三八城公園にあった八戸城というか館の模様です。江戸時代に盛岡南部から分かれてできた感じの、八戸藩に関する資料です。当時の航海は日本海が中心でした。八戸の、いわゆる輸出品は太平洋側航路を利用して運ばれました。八戸の財政改革に大いに寄与した大野鉄山(砂鉄をたたら製法で製鉄していました。これには軽米産の木炭が利用されました。ついでと言っては何ですが、秀吉が奥羽再仕置の際、最後の戦いになったのが九戸政実の一揆です。現在は二戸市にある九戸城で最後の戦いが行われました。その前哨戦として、二戸市の北隣にある姉帯城の戦いがありました。今回は、姉帯城に関する資料も根城本丸内に展示されていました。下の写真です。先日訪問しましたが、山城で、登るのに苦労しました。右下の茶色い広場が姉帯城です。姉帯城でほぼ皆殺しにされ、続いて攻められた根反城などは、姉帯城の惨状を聴いて、逃げ出したそうです。姉帯城と根反城は直線距離では1km、山道で3kmと近いのですが、文明の利器・自動車で移動すると16kmの距離になります。私たちはこの16kmを移送して、根反城の近くに到達しました。そこからすぐ向いにある根反城に行く道は、木立と雑草に覆われていて、とても歩いて行ける状況にはないそうです。整備が望まれますが、訪れる人が少ないと、予算も付かないのでしょう。私たちは、前もって御所野遺跡に、姉帯城と根反城に行く予定を連絡していましたので、館の学芸員が案内し、っ説明して頂きました。ありがたかったです。会場の屋台と舞台の模様です。長芋とリンゴを買いました。舞台では、八太郎地区の「おしまこ踊り」を演じていました。「ナニャドヤラ」という意味不明な歌に合わせて、盆踊りをしていました。「ナニャドヤラ」は八戸周辺で歌われていますが、意味が分からず、一説によるとヘブライ語から来ているとも言われています。新郷村にあるキリストの墓とも関連付けられて説明されることもありますj。この日は天候にも恵まれました。快晴で、八戸地方に特有の強風もなく、しかも数日間は寒かったのですが、この日の日中は暖かくなりました。観客とお取り手の浴衣姿が対照的です。観客の服装は、昨日までの寒さに適応しています。私も同じような格好でしたが、汗ばんできて、1枚脱ぎました。●根城城址公園のしだれ桜が狂い咲き・・・八戸経済新聞の記事の転載です。史跡根城の広場(八戸市根城)のシダレザクラの開花が10月24日、確認された。城は1334年に南部師行が築城したとされ、国の史跡に指定される。復元された安土桃山時代の城の周辺に植わる155本のシダレザクラは、近年は4月中旬から下旬に見頃を迎え、市民や歴史ファンの目を楽しませている。10月24日、八戸市博物館(同)の職員がシダレザクラに複数の花が咲いているのを確認。同史跡のXアカウントに写真を投稿すると、「季節を忘れちゃったのかな」「来週から11月なのに」(以上、原文のまま)などの反応があった。同館の職員は「これまでは気付かなかっただけかもしれないが、この時期にシダレザクラが咲いたのは初めてだと思われる」と話す。26日には、無料エリア「薬草園」周辺で花が咲いているのが確認された。訪れた市民は季節外れの花を珍しそうに眺めていた。同史跡の歴史解説を担う史跡根城ボランティアガイドグループの男性によると、シダレザクラは10年ほど前は5月中旬に咲くことが多かったが、年々開花が早まっているという。男性は「10月に入っても気温が高い日が多く、葉が紅葉する前に茶色く枯れているものもある。今年は木々の様子が違う」と話す。「11月上旬には本丸の大イチョウが見頃を迎える」とも。開場時間は9時~17時。本丸の入場料は、一般=250円、高校・大学生=150円、小中学生無料。月曜定休。
2024.11.05
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現代ビジネスの記事の転載です。本記事は丹羽宇一郎『老いた今だから』から抜粋・編集したものです。仕事に生涯を捧げてきた名経営者も85歳を迎え、人生の佳境に差し掛かった。通常、私は朝食後から午前一一時半頃まで新聞や雑誌を読んだり、インターネットでいろいろなニュースを見たりします。仕事をリタイアしたあとも前職に関係のあるニュースに目がいく、という人は多いでしょう。私もそうで、関心があるのは日本や世界の政治経済。あとは、大リーグの大谷翔平選手が勝った、負けたというニュースがスポーツでは唯一で、日本の政界のもの以上に見ています。ニュースを見ながら、大事だと思うことはメモしておきます。これは、私が若い頃にくらべて物忘れをしやすくなったからではありません。人間とは、そもそも生まれながらに「忘れっぽい生き物」だということを、過去の経験で痛感しているからです。日々、メディアを通して入ってくる情報のうち、翌日になっても頭に残っているのは、何割かにすぎない。一週間もたてば、ほとんど残っていない。それくらい、私たちの頭は忘れやすい構造になっています。ですから皆さんも、「ちょっと気になるな」と思うニュースがあれば、読むだけでなく、メモしておくとよいでしょう。かつては長時間座っていても腰痛など経験したこともなかったのですが、この年になると、同じ姿勢で座っていると筋肉が硬直して腰が痛くなってくる。そうなると、「ちょっと休むか」ということになり、そのままソファで寝てしまうこともあります。こうした時間のほかに、私は就寝前に三〇分ほど読書をすることが多いのです。 午後六時半から七時頃に夕飯をとり、ひと休みします。でも、そのあとの入浴が大変です。以前は、身体を洗うなど無意識でやっていましたが、今はちょっと身体を動かすだけであちこちが痛い。身体を洗うのは関節をものすごく動かす動作なのだと、この歳になって気づきました。洗髪してシャワーで流すときも、へたに身体を動かすと痛くなるうえ、お湯が耳の中に入ってしまい、始末が悪い。日常生活のなかで、「やはり若い頃とは身体が違ってくるんだなぁ」と実感することが本当に多くなりました。ベッドに入るのは、午後一〇時から一一時頃です。睡眠は、できるだけ七時間はとるようにしていますが、夜中にトイレに起きたりするので、朝までずっと眠り続けることはできません。ちなみに、二〇二一年にOECD(経済協力開発機構)が三三ヵ国を対象に行った調査では日本人の一日の平均睡眠時間は七時間二二分で、三三ヵ国中最も短く、全体の平均である八時間二八分より一時間以上短かったと報告されています。 ただ、歳をとってからの睡眠は、時間が長ければいいというわけでもないようです。厚生労働省が出している「良い目覚めは良い眠りから 知っているようで知らない睡眠のこと」というパンフレットには、「リタイア世代では8時間以上の睡眠を必要とする人は多くありません」と書かれているんです。 さらに、このパンフレットによれば、睡眠は、目覚めたときに「休養感」(しっかり休めたなという感覚)があることが重要だということです。しかし、歳をとると夜中にトイレに行きたくなって、睡眠が中断されることが多くなる。私もそうですし、読者のなかにもそういう方が少なくないと思います。人によっては、トイレに行くための動作に身体の痛みが伴う人もいるでしょう。私の場合、ベッドから降りるとき、身体の右側から降りるので、右腰が痛くなることがあります。どうしても降りる側に力が入ってしまうからです。個人差もあるでしょうが、目覚めたときの「しっかり休めたな」という感覚は、加齢とともに得にくくなるのではないか、というのが私の実感です。それでも、睡眠の質や時間について、私はあまり深刻にとらえていません。休養感が足りないときは昼寝をすればいい、五時間で目が覚めたときはベッドの上で身体を休めているだけでいいんだと思い、そうしています。
2024.11.05
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1対1の戦いが始まりました。危険なので、普段はこの演技は行わないということです。お姉ちゃんも参加しています。編み笠は盾の役目をしています。叩くと激しい音がして、臨場感を盛り上げます。抹香臭いものは常に焚いています。戦う時は武器をここにかざします。雄叫びは、しょっちゅう、あげています。11時間の演技というよりは戦いが終りました。
2024.11.04
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市民タイムスの記事の転載です。信州大学医学部付属病院(長野県松本市旭3)は、難治性逆流性食道炎に対する新しい内視鏡治療に取り組んでいる。逆流性食道炎は胃液などが逆流して胸やけや痛みを起こす疾患で、食生活の欧米化やピロリ菌の感染率低下を背景に国内で増加している。内視鏡の治療は薬が効かない場合の選択肢として2年前に保険適応され、信大では昨年9月から5例実施していずれも良好に経過している。現代の日本人は、高脂質の食事やピロリ菌の除菌が進んだことでかつてと比べ胃酸の分泌が増加。脂質の過剰摂取や加齢も要因に胃の入り口(噴門)が締まりにくくなり、逆流が起こる。患者は60、70代が多く、炎症を伴わない症状も含めると日本人の3人に1人ほどの割合で発症するという。新たな治療は、胃がん治療の技術を応用して日本で開発された。噴門周りの粘膜を部分的に内視鏡ではぎ取って縫い合わせ、治癒の過程で傷が収縮することで噴門が締まる。所要時間は1時間程度、入院期間も5、6日と患者への負担が小さい。信大病院では、専門的に学んだ消化器内科の准教授・岩谷勇吾医師(45)が手掛けている。逆流性食道炎には胃酸の分泌を抑える薬が有効なため難治性の患者はまれといい、岩谷医師によると北陸・甲信越で内視鏡の治療を定期的に実施しているのは同病院のみ。岩谷医師は「生死に関わる症状ではないため(難治性は)見過ごされてきたが、日常生活の質を下げてしまう。困っている患者さんに新しい治療を知ってもらえれば」と話し、かかりつけ医へ相談するよう呼び掛けている。
2024.11.04
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「三陸芸能大発見サミット」が3日間にわたって、八戸市で開かれました。多数の地域の民俗芸能が参加しましたが、今回は台湾台南市の団体が、市制4百年を記念して参加しました。金獅陣の演技を見ました。時々、解説が入りました。正確ではない可能性がありますが、概略でお伝えします。台湾台南市安南区本淵寮朝興宮金獅陣はお寺に伝わる武術ということです。勝手に少林寺と少林寺拳法のようなものかと想像しました。様々な武器を使います。特に武器を持っての戦いは激しく、危険でもありますので、普段は演じませんが、今回は特別に演じるとのことでした。今年は台南市の歴史400年目ということで、積極的に海外で演じており、八戸市での演舞もその一環です。八戸市も三陸芸能大発見サミットの中で、台湾台南市安南区本淵寮朝興宮金獅陣を招待しました。2日間にわたって演技しました。最初は「マチニワ」での紹介と、簡単な演技をしました。場所が狭かったので、夜に市庁前広場で演ずるので、是非見て下さいとのことでした。夜に出かけると、更に、「今夜は時間の関係で30分の演技に限られます。明日は1時間を使って全ての演技を披露します」との説明があり、次の日も出かけました。最初と最後は大きく輪を作って、グルグル回ります。各自、様々な武器を持っています。獅子も輪に加わっています。じょじょに中央に集まり、その後集団で、1対1の戦いをします。その後は各武器を持っての個人演技になります。女性です。目が光っているど派手な獅子です。後ろには子供が入っています。前後の人が一緒に回転しています。八戸の虎舞でも見られる光景です。獅子をあやしているのは、小学5年生です。いよいよ1対1の戦いが始まります。武器はそれぞれ違います。迫力が伝わるでしょうか?台湾台南市安南区本淵寮朝興宮金獅陣の演技を見ました(2)に続きます。
2024.11.03
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●この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。食品の大規模な値上げは2年以上続いている。22年2月のロシアによるウクライナ侵攻などで穀物や原油など資源価格が世界的に高騰。歴史的な円安が重なり、食品や原材料の多くを輸入に頼る日本にも、物価高の波が押し寄せた。帝国データバンクによると、主な食品メーカー195社が値上げした飲食料品は、22年で2万5768品目(平均値上げ率14%)、23年で3万2396品目(同15%)に上った。24年も11月までに1万1872品目(同17%)が値上がりし、この3年で延べ7万品目に達した。加工食品や調味料、飲料の値上げが目立ち、他にも菓子や乳製品、パンなど多岐にわたる。ニッセイ基礎研究所の久我尚子上席研究員は「購入頻度の高い物の値段が上がり、上昇率も高かった」と指摘する。物価高で子ども食堂の運営も各地で厳しさを増している。東京都板橋区の「まいにちおいで子ども食堂」は月曜を除く週6日、夕飯の弁当を作っている。10日にマンションの一室を訪ねると、運営スタッフがおかずを容器に慌ただしく詰めていた。1日40~50食ほどを用意するが、予約制で2週間先まで埋まっている。24年4~8月の食材費は前年同期の1・5倍ほどに膨らんだ。高騰する光熱費や部屋の賃料も大きな負担となっている。運営するNPO法人「キッズぷらっとフォーム」理事長の武井重雄さん(73)は「頑張って毎日開くほど運営は厳しくなる」とため息を漏らす。約40人の運営スタッフはボランティアで、運営費は寄付金のほか、大人の利用者の弁当代(300円、子どもは無料)と公的機関や民間の補助金で賄っているが、コストが膨らみ運営は苦しい。物価高が続けば、弁当代の値上げを検討せざるを得ないという。仕事帰りに弁当を受け取った女性(42)は子ども3人を1人で育てており、「家に帰ったら家事が山積み。料理したくても時間がないので本当に助かる」と話す。進学費用を工面するにも残業する時間はなく、「物価高で子どもたちにお菓子を買うことは減った」という。1人暮らしの女性(71)は両股関節の手術後、食堂に通うようになった。「台所に長時間立つのは難しいし、1人分の煮物を作るのも大変。弁当の提供はお年寄りにもありがたい。足が良くなったら恩返ししたい」と感謝した。武井さんは「半年後には収支がマイナスになってもおかしくないが、必要とする人がいる以上、やめるわけにはいかない」と語る。総務省によると、家計の消費支出に占める食費の割合を示す「エンゲル係数」は27・8%(23年)。調査対象が異なるため単純比較はできないが、1983年以来40年ぶりの高水準となった。エンゲル係数は生活の豊かさを測るバロメーターとされ、数値が低いほど家計に余裕ができ、生活に不可欠な食べ物以外にお金を回せることを意味する。第一生命経済研究所の熊野英生首席エコノミストは「日本が豊かではない国に変わりつつあることを象徴している」と話す。岸田政権は物価高の負担軽減策を手当たり次第に打ち出してきた。22年にガソリンや灯油などの価格を抑える補助金制度を始め、23年から電気や都市ガスも補助金で価格を抑える仕組みを導入。23年3月まで半年間は、輸入小麦を企業に売り渡す価格を据え置き、パンや麺類の小売価格抑制策を打った。低所得世帯を中心に現金などの給付も繰り返し、24年6月には納税者と扶養家族を対象に、1人4万円の定額減税を始めた。ただ、給付や減税はいずれも1回限りの措置。ニッセイ基礎研究所の久我氏は「負担軽減にはつながるが、可処分所得の増加は一時的に過ぎない。将来不安がある中で消費者は手元にお金をとどめやすい」として、負担軽減策による消費活性化の効果は限定的とみる。物価高を受け、各地の子ども食堂に多くの人が集まっている。福岡市南区の公民館で月1回開いている子ども食堂「100人カレー弥永」。野菜や果物を煮込んでからミキサーにかけて仕込んだ特製カレーが定番メニューで、高校生以下と60歳以上は無料(大人は200円)で提供している。8日昼には近所の親子連れやお年寄りら約80人が集まった。3人の子どもを連れて参加した20代の主婦は「定額減税だけでは(生活費が)足りない」と話し、安いスーパーでまとめ買いをする日々だ。日雇いの建設現場で働く男性(64)は、持病や体力の衰えに連日の暑さが重なり、この3カ月間は仕事に出られていない。所持金が尽き、初めて食堂を訪れた。最近は炊き出しの列に並ぶか食パンだけの日々が続いていたという。男性の手取りは今年になって1日8000円から8500円に増えたが「(物の)値段が上がり、(生活費が)ぜんぜん足りない。自民党は世襲議員ばかり。私のような人間の気持ちなんて分からない」とこぼす。党派閥の裏金問題が発覚し、総裁選は「誰にも期待できない」とあきらめたように話す。物価変動を考慮した1人当たりの実質賃金は、6、7月と2カ月連続のプラスとなっている。ようやく物価上昇に賃金上昇が追いつき始めたが、庶民の財布のひもは固い。総裁選では物価高対策が争点となり、候補者から「低所得者への給付を拡充する」「電気・ガスの抑制策は続けたい」と家計支援を訴える声が相次ぐ。第一生命経済研究所の熊野氏は「賃上げの裾野が広がらなければ、物価上昇を上回る賃金の伸びは実現できない。新政権は企業の競争力強化や生産性向上を支え、持続的な賃上げを実現させる必要がある」と指摘する。編集後記あらゆる物やサービスの価格上昇が続く中、生きる上で必要不可欠な「食」への影響は特に大きい。主食のコメも高騰し、手に入りにくい状況が続く。おかずの品数を減らしたり、肉や魚を買う頻度を少なくしたりしている――。多くの人が物価高を強く意識し「節約疲れ」が顕著になっていると感じた。物価と賃金がともに上昇する好循環の兆しが見えつつある一方、生活必需品の値上がりは、中低所得者と富裕層の格差拡大を生んでいる。
2024.11.03
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八戸から車で1時間ほどの所に、小川原湖があります。淡水と海水が混じる汽水湖です。シジミやシラウオ、ワカサギ、天然のウナギも有名です。小川原湖です。ここでキッチンカー祭りが開かれました。正式には第8回「おいでよ道の駅おがわら湖あつまれキッチンカー」と長いです。キッチンカーの台数が多いのが特徴です。47台が参加しました。この祭りを初めて訪れました。物産館の駐車場が会場になっています。肝心の駐車場は、満車が続き、10分程離れたところに停めなければなりませんでした。食べる場所には困らないようです。道の駅を覗くと、美味しそうなものが目に入りました。「特選しじみ汁」は食べ終えてから写しました。完売の貼り紙がありました。土日祝日は10食限定です。こちらは普通のシジミ汁ですが、やはり数に制限があります。特選に比べて、しじみの量が少ないです。当然、出汁の濃さも違うのではないかと思うのですが、ひょっとしたらだし汁は一緒なのかもしれません。前者に賭けて、特選を選びました。以前、しじみ汁付きの定食に加えて500円のしじみ汁を追加して食べたことがあります。定食に付いているしじみ汁は500円の汁に比べて出汁が薄いような気がしました。500円のしじみ汁は美味しかったです。今回、これはありませんでした。食べる人が少なかったのでしょうか?残念です。代わりにしじみラーメンがありました。1200円のおがわら湖セットは名産のしらうお・長芋と沼えび、しじみと豪華ですが、シジミ汁に不安があり、前回の経験からも、しじみラーメンを選びました。もちろん特選の方です。しじみを脇に寄せて、麺を写そうとしているのですが、それでもしじみはこのぐらいたくさん入っています。出汁にはしじみの味が出ていました。ラーメンの味が少し混じっているのが不満でしたが、我慢できないほどではありませんでした。完食です。もう一人はご覧の通りです。「半分以上は飲んだ」と言い張るのですが、残念です。出来れば私が飲みたいところですが、こちらも満腹で、どうにもなりませんでした。どんぶりも大きくて、量が多かったです。店内は空席がありませんでした。私と同年代と思われる爺さんが、酒を飲みながらおがわら湖定食と、普通のしじみラーメンを食べているのには驚きました。
2024.11.02
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地元紙の記事の転載です。ヒトを含む脊椎動物の受精間もない「胚」に存在し、脳の神経系などを作る役割を持つ「神経堤(てい)」と呼ばれる構造が、無脊椎動物のホヤで見つかったと、甲南大の日下部岳広教授(発生生物学)などの研究チームが23日発表した。脊椎動物の脳の進化の過程を知る手がかりになるとみられる。研究結果は23日付の英科学誌「ネイチャー」電子版に掲載された。チームによると、神経堤は脊椎動物の胚の中を移動しながら、脳や顔の筋肉など頭部の大半や自律神経細胞、色素細胞などを作る重要な役割を担う。脊椎動物が神経堤によって頭部を発達させてきたと考えられるが、進化の過程は現在でも明らかになっていない。チームは今回、脊椎動物に最も近いホヤの受精卵に、神経堤の可能性がある細胞を着色する遺伝子を注入し、胚の段階を経て成長する過程を3日間観察。その結果、着色した細胞から、神経細胞の活動を支える「グリア細胞」と色素細胞が作られたことを確認した。さらに神経堤に特徴的な移動の様子も見られたため、原始的な神経堤だと分かった。 日下部教授は「脊椎動物とホヤの共通の祖先で神経堤のイノベーション(革新)が起き、脊椎動物の頭部の進化につながったのではないか」と指摘。共通の祖先は約6億年前ごろに存在したと推定され、「今後は祖先の姿にも迫りたい」と話した。(先のお盆に、美味しいホヤを食べました。ホヤにもうまいものと、不味いものがあることを知りました。ホヤは好物で、何でも来いですが、残りの食べる回数を考慮すると、美味しいものが食べたいです。ただ・・・、高かったです。酒飲みにはホヤ好きが多いように見えるのですが、私は酒は飲みますが、弱いです、大酒飲みなのに、ホヤが食べられない人がいることも、この時に知りました)
2024.11.02
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