2023.11.06
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テーマ: 進撃の巨人(137)
とうとうアニメ版進撃の巨人が完結しましたね…
確か初めて原作に触れたのが息子が生まれる前だったので
10年以上にわたって綴られた物語を
ドキドキハラハラしながら眺めてきました。

アニメ版完結おめでとうございます
原作者の諌山先生もスタッフの皆様も
本当にお疲れ様でした。
素晴らしい物語をありがとうございました


​​​​​​​​​​​ラストは原作改変となる説もありましたが、

むしろ原作では綴られづらかった箇所まで深く掘りこんだような
素晴らしいアニメ化完結編で御座いました。

ひとつひとつ挙げて語りはじめたら
もうどこまでも終わりそうにありませんので、
拙いながらもその中で
私がいくつか思った感想をば綴っておきます




◆進撃の巨人 The Final Season
 完結編 (感想)

​内容のネタバレ普通に含みます​。 ​​ 未視聴の方はご​​ 注意。





​ 崖へと追いやられる群衆と赤ん坊


地ならしに追い詰められて
崖へと追いやられて落ちてゆく、
モノクロームで描かれる絶望する群衆の中、
そこだけカラーで描かれた母親と赤ん坊。

母親はそのまま崖から落ちてゆくものの、
赤いおくるみの赤ん坊だけは
まだ崖の上にいる人々の手から手へと受け渡され

そして生き延びる。

というシーン。


お気づきの方も多かったかもしれませんが、
これは 映画「シンドラーのリスト」のオマージュ ですね。

腕章をつけさせられたユダヤ人たちが
列になって追い立てられたり殺されたりしている
モノクロームの画面のなかで、

赤いコートの少女だけが
丘の上から眺めるシンドラーの目に鮮やかにうつる。
(※ここからシンドラーの心情に変化が起きる)


という、物語の中のかなり重要な場面です。



(映画評論サイト「Rotten Tomatoes」の​ MovieClips ​より)

進撃の巨人作中の「エルディア人」と
現実におけるユダヤ人に起きた出来事の相似については
腕章やゲットーなどで暗示されてきましたが、

まさかのここで
この「シンドラーのリスト」オマージュが入ってくるとは
思いもよりませんでした…感服。


「絶望し死をも覚悟した大人たち」と
「なにも知らない幼子=生命の象徴」の対比
まさしくそのままこの両作中で描かれており、

モノクロの漫画である「進撃の巨人」原作ですでに

 希望(=赤ん坊)を捨てずに守ろうとした』

という場面として泣けたものですが、

今回のアニメ版では
この場面がさらに 鮮やかに印象深くなった

「シンドラーのリスト」では
この後、この赤いコートの少女も死を迎えるのに対し、
「進撃の巨人」では
この赤ん坊は生き延びることになり、

これはシンドラーの無念に対しても「救済」であり
かの名作へのリスペクトにもなっているという
そんな構図も意図されたのではないかと感じました。




​ エレンとアルミンとの「道」での会話


原作発表時には虐殺肯定ともとれるとして
色々と物議をかもしたアルミンの言葉が

原作と流れも中身も変えずに
きちんと改変されていたことにとても胸熱。

作者である諌山さんが
このシナリオ部分を書かれたとどこかで見かけましたが、
それほどまでに「きちんと伝えたかった」という
作品への思いや愛がこめられているのを感じました。

そしてミカサを傷つけたことで
エレンをきっちり殴り飛ばしたアルミン、やっぱり漢だよ…


ただの愚かな子供であるエレンが
世界を滅ぼせるほどの力を持ってしまい、

それでも自分の仲間たちを救いたくて
考えに考えぬいて、何度も試行を繰り返して

それでも人類の8割を滅ぼすという
この道にしかたどり着かなかったのだという、

そんな エレンの悲しさ も表現されているのが
たまらなかったところに

『エレンに壁の外の世界を教えたのは自分』
『ありがとう、壁の外を見せてくれて』
『ともに背負おう、二人で』
『地獄に一緒に落ちてやる』

つまりは 「一人にはしない」 とエレンに言ってやれる
アルミンの友情の深さと熱さがとても良かった…

さらにはそこで抱きあい、
次は地獄で会おうと覚悟を誓いつつも、

ミカサの胸に抱かれたエレンの首を見て
思わず叫んで号泣してしまうのが
こちらの胸にもグッときました…


「長い夢」でジークと生きることの意味を問答した
『葉っぱとボール』の場面も良かったし、

「進撃の巨人」の語り手として
アルミン以外にはなるほどあり得ない んだなと

そんなことを思わされるほど
完結編全体にわたって見事に描かれたキャラだったんだと
このアニメ版では思わされました。




​ ユミルの「愛」


ここの解釈はやはり色々とあるのではと思いますが、​

結局のところユミルの未練、
愛情に憧れを抱きつつも愛情経験値不足であるユミルが
見たかった、知りたかったこととは、

「人知を超えるほどの力を持った女(=ユミルと同じ立場)」
「大きな過ちを犯した愛する男(=王と同じ立場)」 に対し、
自分がとった選択とは異なる、どのような行動をとることができるのか

だったのではないか。と思いましたがいかに。
(だからエレン曰く「ミカサでなければならない」のですね)



たとえば”ありえたかもしれない未来”として描かれた
山小屋逃亡ENDの場面のように

結局のところ何も解決できないけれど
すべてを投げ捨てて最期まで2人きりで過ごす

という選択肢もあり、

大虐殺者となってしまったエレンを
殺してでも止める

という選択肢もあり、

結局は後者を選び取ることになったけれど、
そのどれもが間違いなくミカサの愛の形であり、
ユミルが知り得なかった愛の示し方であり、

ユミルはミカサの心をのぞき込むことで
愛の形にはさまざまなものがあることを知り、
そして納得したのではないかと。



原作には無かったと記憶していますが、
(↑確認したらありました。失敗失敬

「椅子に座る王を貫く槍」と「娘たちを抱くユミル」 の場面が
アニメ版で描かれたことでそのあたりがはっきりしたように思います。

このときユミルは
自分が選び取れたはずの選択肢のひとつを示されて、

さらにこれならば巨人の力が継承されることもなくなるわけで
「この過去もあり得たんだ=この未来もあり得るんだ」と思えたからこそ

「王の願い=エルディアが未来永劫巨人の力で世界を支配する」
からも解放され、

巨人を延々と作り続けることも無くなったため
巨人をこの世界から消滅させることができた。

というエレンの願いも叶うENDという
物語としては完璧なまでの結末を迎えることになったという印象です。

自分の部族であるエルディアの繁栄のために戦争を続けた王が
2000年前の世界の状況としては
そこまで悪だったり愚かだったりしたとも思えないというのが
ちょっと悩んでしまうところですが






そういえば、

この「ユミルの愛」について書いていて
ふと私が思い出したのが、
確か 車田正美「スケ番あらし」 の一場面。

「惚れた女が間違った道に進もうとしていたら
 殴ってでも止めてやるのが男の愛」
(※ちょっとうろ覚え

というセリフ。

さすが昭和だなぁ。とか、
今じゃアカンよな問題にされるよなこれ。とか、
そういうことはとりあえず置いておくとして

男女が逆で、
殴ってでも止める、は
殺してでも止める、となりましたが、

これが最終的に導かれた解だったというのは

​​​​​​やはり「愛」というのは
真摯なものであり普遍なものであるのかなぁ。などと
思ってみたりして







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最終更新日  2023.11.14 09:45:01
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