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牛久駅のひたち野うしく寄りに隣接した場所にある踏切です。牛久市の中心部にある踏切で、交通量が多くなっています。踏切名の「ぶどう園」は、この先にある日本初のワイン醸造場といわれる「牛久シャトー」が由来で、踏切が通る道路も「ぶどう園通り」と呼ばれています。ぶどう園踏切 50K883M所在地:茨城県牛久市田宮
2024.03.10
牛久駅の龍ケ崎市駅よりにある踏切です。駅の裏側に広がる住宅地の中にあり、狭い踏切ですが比較的交通量があります。踏切名は付近にある地名「柏田町」が由来です。柏田踏切 50K357M所在地:茨城県牛久市牛久町
2024.03.01
今回は、青梅鉄道公園に保存されている蒸気機関車のうち、大正時代に製造された8620形と9600形を掲載します。8620形のトップナンバーである8620号です。8620形は旅客列車にも貨物列車にも使用できる汎用性の高い国産蒸気機関車として1914年(大正3年)から製造開始され、主に東海道本線や東北本線などの幹線で活躍しました。昭和初期からは地方線区への転出が始まり、戦後は主に地方での貨物列車牽引や入換用に活躍し、国鉄での蒸気機関車の末期にあたる1960~1970年代まで残った車両もありました。現在でもJR九州に58654号機が残り、「SL人吉」などの観光列車として活躍していますが、SL人吉は2024年3月で運行を終了することがアナウンスされています。また、2020年には人気アニメ「鬼滅の刃 無限列車編」に登場する「無限列車」の牽引機関車のモデルになったといわれています。8620形のトップナンバーとなるこの車両は1914年(大正3年)に汽車製造で製造されました。ナンバープレートです。番号下部に「形式 8620」と刻印されています。9600形9608号です。9600形は国産初の貨物列車牽引用蒸気機関車で、1913年(大正2年)から製造開始されています。それまでの輸入蒸気機関車を参考にしながらも日本の路線状況を考慮した設計とされ、主に幹線での貨物列車牽引に活躍しました。後継の蒸気機関車と比較すると速度は劣るものの、強力な牽引力が評価されたため戦中は中国や樺太に送られた車両も存在し、戦後は主に石炭輸送列車の牽引機として北海道や九州で活躍しました。この9608号は、日本国内に現存する9600形のうち最も番号が若い車両となっています。1913年(大正2年)に川崎造船所(川崎重工業を経て現・川崎車両)で製造されました。ナンバープレートです。番号下部に「形式 9600」と刻印されています。
2024.02.04
常磐線と並行する国道6号から分岐する小道と交差しています。道幅が狭いため人の通行のみ可能となっています。踏切名は付近の小字が由来となっています。籠田踏切 49K943M所在地:茨城県牛久市牛久町
2024.01.28
2024年最初の記事になります。今年も、「わさびくま日記」をよろしくお願いします。今回から、2023年8月末で一時休園となった「青梅鉄道公園」に保存されている車両を掲載していきます。青梅鉄道公園は鉄道開業90周年記念事業の一環で、1962年に開園しました。園内には明治期から昭和期までの蒸気機関車をはじめ、電気機関車や電車などの展示もあります。2023年には鉄道開業150周年記念事業の一環として青梅鉄道公園のリニューアルをすることになり、同年8月末から2025年度末まで休園中となっています。休園直前となる2023年8月にここを訪れ、保存車両の撮影を行いました。「その1」では明治期に日本に導入された蒸気機関車を掲載します。鉄道開業から明治時代末期まで、イギリスやアメリカなどから輸入された機関車が活躍しました。5500形蒸気機関車の5540号です。5500形は1897年(明治30年)にイギリスのべイヤー・ピーコック社で製造された旅客用機関車で、官設鉄道をはじめ現在の東北本線などを運営していた日本鉄道や現在の総武本線を運営していた総武鉄道などで主力として活躍しました。明治末期、大正から昭和初期まで第一線で活躍し、一部の車両は関東大震災や太平洋戦争をも生き抜いて戦後まで活躍をつづけた車両もありました。この5540形は戦後まで活躍した車両のうちの一つです。ナンバープレートです。製造銘板は当時のものが失われており、小型のものが取り付けられています。2120形蒸気機関車の2221号です。2120形は主に貨物用の機関車として輸入されたもので、通称「B6」とよばれていました。この2221は1905年(明治38年)にイギリスのノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社で製造され、当初は日本陸軍が満州で使用していた車両でした。日露戦争後に国鉄に移籍し、戦後の1960年まで活躍しました。ナンバープレートです。こちらも製造銘板は当時のものが失われています。青梅での展示に向け大宮工場(現・JR東日本大宮総合車両センター)で整備された際の銘板が残っていました。
2024.01.12
東京貨物ターミナル駅のすぐ脇にある大汐線2か所目の踏切です。この踏切は大汐線と、付近に車両基地のあるりんかい線(東京臨海高速鉄道)の回送線が通っています。りんかい線の本線には踏切がないため、この踏切はりんかい線で唯一の踏切となっています。踏切付近は駐車場や倉庫などが並び、人通りはあまり多くありません。この踏切も羽田空港アクセス線開業に伴い廃止が予定されています。踏切名は所在地の地名が由来となっています。浜松町方を眺めます。左側が大汐線、右側がりんかい線回送線です。現役のりんかい線回送線には架線が張られています。羽田空港方を眺めます。写真左側にりんかい線の大井車両基地が見えています。回送線は現役なので線路も設備も綺麗ですが、大汐線は架線も取り外されており草木に覆われています。八潮踏切(キロ程、幅員不明)所在地:東京都品川区八潮(2023年最後の記事となります。今年も、「わさびくま日記」をご覧いただきありがとうございました)
2023.12.28
先述した「救援センター踏切」から東京貨物ターミナル寄りに進んだ、都営バス「3号バース前」バス停の脇にある踏切跡です。警報機等は残っていませんが、高さ制限を示すワイヤーが張られていた柱や照明器具が残っています。道路はすでに通行できなくなっていて、周辺は駐車場となっています。線路の脇にはアスファルト舗装された跡が残っており、かつて道路が通っていたことがうかがえます。この踏切の詳細は不明ですが、先述した「救援センター踏切」の設備等が新しいことから、この場所は救援センター踏切の旧踏切だったと思われます。(国土地理院地図等で確認すると、現在の救援センター踏切の場所には元々道路はなく、代わりにこの場所に踏切があったことがわかります)付近の架線柱には踏切番号を示す「1」の表記があり、ここが踏切だったことを伝えています。
2023.12.24
東海道貨物線のうち、(旧汐留~)浜松町~東京貨物ターミナル間の「大汐線」と呼ばれる区間にある踏切です。この区間は貨物駅だった汐留駅と東京貨物ターミナル駅を結ぶ貨物線として1973年に開業しましたが、汐留駅の廃止や都営大江戸線の工事などの影響で1998年から現在まで休止中となっており架線も取り外されてしまっています。この踏切はそんな大汐線区間の最初の踏切で、付近にある倉庫などに向かう大型車がひっきりなしに通行しています。設備は比較的新しいものの、列車の運行はないため遮断機などは取り外されています。しかし、今後は羽田空港アクセス線の一部として休止中の大汐線が活用されることとなり、大汐線は20年以上の時を経て列車の運行が復活します。アクセス線の計画では、大汐線区間にある踏切は立体交差化して廃止することとなっており、近いうちにこの踏切も見られなくなると思われます。踏切名の「救援センター」は、かつてこの付近に1983年~2006年まで存在したインドシナ難民等の支援施設「国際救援センター」に由来しています。センターは現在、閉所されているため、この踏切名のみに名残をとどめています。踏切付近の線路を眺めます。長年列車の運行のない線路は錆びつき、草が生えています。高圧線は残っていますが、架線は取り外されています。非常ボタンの銘板には「バラスト処理センター通路」と記載されていました。救援センター踏切 7K555M 幅員15.0M所在地:東京都品川区八潮
2023.12.15
住宅街の中を抜けていく幹線道路が交差している踏切で、昼夜問わず交通量が多くなっています。踏切名は交差する道が生実町(おゆみちょう)に続いていることが由来です。生実踏切 5K254M 幅員9.7M所在地:千葉県千葉市中央区鵜の森町・蘇我
2023.11.11
自動車の通行ができない小さな踏切で、付近の住民のみが利用していそうです。踏切名の「社宅」は付近に以前あった川崎製鉄(現・JFEスチール)の社宅に由来しています。現在は社宅はなくなり、一般の住宅が立ち並んでいます。社宅前踏切 5K104M 幅員2.0M所在地:千葉県千葉市南町・若草
2023.11.05
蘇我駅の近くにある、外房線最初の踏切です。住宅が集まっている場所で、人通りも多いため近年オーバーハング式の警報機が設置されました。この踏切の付近には内房線の踏切(大網里道踏切)もあります。踏切名の通り、交差する道路は大網街道の旧道となっています。大網街道踏切 4K815M 幅員8.5M所在地:千葉県千葉市中央区若草・南町
2023.11.03
物井~佐倉間最後の踏切で、先述の「相馬踏切」から少し佐倉寄りの場所にあります。住宅地が広がっていますが静かな場所で、交通量は少ないです。踏切名は付近の小字が由来となっています。大近踏切 53K372M 幅員3.0M所在地:千葉県佐倉市寺崎
2023.10.29
総武本線が寺崎トンネルを抜けたすぐのところにあります。付近は住宅地で、新旧の住宅が多くなっています。踏切名は付近にある「寺崎城跡」に通じる道路の一つだった「相馬小路」に由来しています。この道を上がったところに、「この辺りを相馬小路という」と書かれた石碑が立てられています。相馬踏切 53K167M 幅員3.0M所在地:千葉県佐倉市寺崎
2023.10.26
佐倉市に入って最初の踏切です。先述の「亀崎踏切」から500mほど進んだ場所にありますが、市境に川が流れているためここへ行くには大きく迂回することを強いられます。このあたりも列車の撮影スポットとなっており、時折カメラを持った人が訪れています。踏切名は付近の小字が由来となっています。宮の下踏切 52K366M 幅員3.0M所在地:千葉県佐倉市寺崎
2023.10.22
四街道市最後の踏切で、先述の「山野越踏切」から佐倉寄りに進んだ場所にあります。こちらも田園風景が広がる中にあり、踏切周辺は総武本線の列車を撮影できるスポットとして知られています。踏切名は所在地の地名が由来です。亀崎踏切 51K801M 幅員3.0M所在地:千葉県四街道市亀崎
2023.10.08
久しぶりの「国鉄型駅名標」の掲載です。今回は第二種、第四種駅名標を取り上げます。しなの鉄道(旧・信越本線)軽井沢駅にある国鉄型駅名標です。「スミ丸ゴシック」書体を使用した国鉄時代の標準的な駅名標のひとつで、所在地の表記もあります。漢字や平仮名の書体は現在JR東海が使用しているものとは若干異なっています。しなの鉄道の開業時に使用されなくなった旧1番線に設置されているもので、現在は保存車両とともにこの駅名標も保存されています。東北本線郡山駅にある国鉄型駅名標です。ターミナル駅などの主要駅に設置されていた隣接する駅名の記載がないタイプの駅名標です。「スミ丸ゴシック」書体で、JR東海で現在も使用されている書体とほぼ同じものとなっています。郡山駅にはゴシック体を使用したものも設置されています。こちらは所在地の記載がありません。真岡鉄道(旧・真岡線)茂木駅にある国鉄型駅名標です。書体等は軽井沢駅のものとほぼ同じですが、天矢場駅の開業によりその部分が修正されています。高崎線北鴻巣駅にある国鉄型駅名標です。珍しい非電照式の駅名標で、コスト的な問題から電照式は採用されなかったようです。JR東海で現在も使用されているタイプの書体となっています。北鴻巣駅の吊り下げ式駅名標はすべてがこのタイプで、JR東日本管内では非常に珍しいです。高崎線桶川駅にある国鉄型駅名標です。自立式の第四種駅名標で、丸ゴシック書体を使用しています。高崎支社管内では、駅名標に「海抜○○米」という標高の記載があります。
2023.09.17
広大な水田地帯の中にある小さな踏切で、住宅なども少なく交通量は少ないです。この付近は遮るものがほとんどないことから鉄道撮影スポットとして知られています。踏切名の由来は不明です。小字でしょうか?山野越踏切 51K308M 幅員2.7M所在地:千葉県四街道市物井
2023.09.14
JR物井変電所のすぐそばにある踏切です。以前は狭く小さな踏切でしたが、先述の「寺前踏切」が廃止されたのと同時期に拡幅が行われ、歩道も整備されました。しかし線路東側の道は狭いままなので、交通量が多いこともあり危険に感じます。踏切名は付近の小字が由来です。松葉作踏切 50K931M 幅員8.0M所在地:千葉県四街道市物井
2023.09.08
物井駅の佐倉寄りに隣接していた踏切で、先述の物井踏切と同様に駅の西口と東口を結ぶ道が交差していましたが2013年ごろに閉鎖され、廃止されています。廃止されたあとも物井駅のホーム先端部分には、この踏切の線路用の銘板が残ったままになっています。踏切名の由来は不明です。物井駅から踏切跡を眺めます。踏切の設備はすべて撤去されており、跡形もなくなっています。物井駅ホーム先端に残る銘板です。黒いテープで×印がされています。寺前踏切(キロ程・幅員不明)所在地:千葉県四街道市物井
2023.08.30
物井駅の四街道寄りに隣接している踏切です。駅の西口と東口を結ぶ道となっているため、狭い踏切ながら交通量は比較的多いです。物井駅周辺は近年、住宅が多く立ち並ぶようになり、田畑しかなかった景観が変わりつつあります。踏切名は隣接する駅名から取られています。物井踏切 50K122M 幅員3.0M所在地:千葉県四街道市物井
2023.08.27
東関東自動車道との交差地点近くにあります。物井地区と国道51号を結ぶ道が交差し、交通量は多くなっています。踏切名は「こづつみ」と読み、付近の小字が由来となっています。小堤踏切 49K794M 幅員6.5M所在地:千葉県四街道市物井
2023.08.20
先述の「栗山踏切」から少し物井駅寄りに進んだ場所にあります。抜け道としての利用が多いため、田園地帯にありながら交通量は多めです。この踏切は門型の警標が設置されています。踏切名は所在地の地名が由来で、この踏切の先に長岡地区の集落があります。門型の警標に踏切名が記載されていました。長岡踏切 49K247M 幅員6.0M所在地:千葉県四街道市長岡
2023.08.18
先述の「谷田踏切」から1km以上進んだ場所にあります。住宅地から風景は一変し、周辺は山林や田畑が広がっており交通量は少ないです。踏切名は所在地の地名が由来です。ちなみに総武本線には、横芝~飯倉間にも同名の「栗山踏切」があります。栗山踏切 48K858M 幅員2.7M所在地:千葉県四街道市栗山
2023.08.12
JR東海の発足期を代表する車両だった311系を掲載します。311系は1989年の東海道本線金山駅開業と、同線の新快速増発に向けて開発されました。民営化後のJR東海初の新形式車両となった211系5000番台をベースに、居住性に優れた転換クロスシートや車内へのLED式案内装置の設置などで快適さを追求し、端整な顔立ちとオレンジ色のラインが発足して間もないJR東海のイメージを強く印象付ける車両となりました。快適装備を生かして東海道本線の新快速を中心とした運用に長く就いていましたが、後継の313系が登場すると主に豊橋~米原間の普通列車の運用が中心となり、現在に至っています。名古屋駅で撮影した311系のトップナンバー編成、G1編成です。(クモハ311-1・モハ310-1・サハ311-1・クハ310-1)311系は211系とよく似ていますが、前面窓が曲面ガラスになり、前照灯の形状が角型になっていることで211系よりも引き締まったイメージを与えています。また、側面の窓配置も211系とは異なっています。名古屋駅で撮影したG2編成です。(クモハ311-2・モハ310-2・サハ311-2・クハ310-2)名古屋駅で撮影したG4編成です。(クモハ311-4・モハ310-4・サハ311-4・クハ310-4)初期型に当たるG1~G5編成までの特徴として、前面に列車番号表示器を装備していることが挙げられます。JR東海では列車番号表示器は使用していないため、211系と同様に車両番号を表示しています。豊橋駅で撮影したG8編成です。(クモハ311-8・モハ310-8・サハ311-8・クハ310-8)米原駅で撮影したG9編成です。(クモハ311-9・モハ310-9・サハ311-9・クハ310-9)豊橋駅で撮影したG12編成です。(クモハ311-12・モハ310-12・サハ311-12・クハ310-12)G6編成からは前面の列車番号表示器が省略されています。名古屋駅で撮影したG14編成です。(クモハ311-14・モハ310-14・サハ311-14・クハ310-14)名古屋駅で撮影したG15編成です。(クモハ311-15・モハ310-15・サハ311-15・クハ310-15)最終増備車となるG14・G15編成は、当初から一部の窓が固定式になっています。G2編成の車内です。内装はグレー系で統一され、落ち着いたイメージがあります。車端部の優先席部分には、黄色いシートカバーがかけられています。クハ310形のトイレ部分の壁面に開口部がありますが、かつてはここにカード式の公衆電話が設置されていました。公衆電話の設置は、特急車両を除くJRの在来線車両では初めてのことだったといわれています。G8編成の車内です。G6編成から内装に小変更があり、天井中央部の色がG5編成までのダークグレーからライトグレーに、貫通扉の色がクリーム色からダークグリーンに変わっています。211系5000番台や213系などと同様に、乗務員室の仕切り窓は大きく取られ、前面展望にも配慮しています。各車両の車端部には、LED式の案内表示器が設置されています。デジタル時計も装備されているのが大きな特徴です。車内の車番プレートは、国鉄型と同様のアクリル製となっています。
2023.08.06
総武本線の沿線に広がる「さちが丘」「つくし座」という住宅地と旧来の鹿渡地区を結ぶ道が交差しています。このあたりは線路を横断する道はここ以外にないため交通量は多いです。踏切名の「谷田」の由来は不明です。小字でしょうか?谷田踏切 47K637M 幅員5.0M所在地:千葉県四街道市鹿渡
2023.07.16
四街道駅の物井寄りに隣接している踏切です。四街道の中心街にあり、県道66号が交差していて交通量が非常に多くなっています。踏切名の「鹿渡」は「しかわたし」と読み、所在地の地名が由来です。鹿渡県道踏切 46K401M 幅員9.7M所在地:千葉県四街道市鹿渡
2023.07.13
四街道駅の都賀寄りに隣接している踏切です。比較的狭い踏切なので一方通行となっていますが、四街道市の中心市街地にあるため交通量がかなり多いです。踏切名は付近の地名「和良比」が由来となっています。和良比踏切 45K992M 幅員4.4M所在地:千葉県四街道市四街道
2023.07.04
四街道駅周辺に広がる住宅地の中にある踏切です。幅が狭いため自動車の通行はできませんが、線路沿いにも住宅が多く立ち並んでいるため通行する人は多いです。「とまれみよ」が残っているので元々は第4種踏切だったようです。踏切名の由来は不明です。付近の小字でしょうか?中三角踏切 45K720M 幅員2.0M所在地:千葉県四街道市四街道
2023.06.29
住宅地の中にある小さな踏切で、抜け道的な利用が多そうです。このあたりでは線路のすぐそばまで住宅が立ち並んでいます。踏切名は「あぜた」と読みます。四街道市内に「畔田」という地名がありますが、ここから離れているため詳細は不明です。畔田踏切 45K557M 幅員3.0M所在地:千葉県四街道市四街道
2023.06.09
車両の通行ができない小さな踏切で、「とまれみよ」もあることから元は第4種踏切だったようです。この周辺にも住宅が多いので、小さい踏切ながら利用者が多いです。踏切はここから少し離れた場所にある千葉市の地名「山王町」が由来と思われます。山王踏切 45K076M 幅員1.8M所在地:千葉県四街道市和良比
2023.06.04
四街道市最初の踏切となります。千葉市と四街道市の境界付近にある住宅地の中にあり、抜け道となっているためか利用者が多いです。踏切の存在を目立たせるため、門型の警標が設置されています。踏切名は「ろっぽう」と読み、付近の小字「六方野」が由来となっています。六方踏切 44K689M 幅員5.4M所在地:千葉県四街道市和良比
2023.05.31
「御成街道」と呼ばれる道路が交差している踏切です。御成街道とは江戸時代に、現在の東金市にあった御殿へ通じる街道としてつくられました。徳川家の鷹狩などを目的に、船橋から東金まで通じていた街道でした。交差する道も、この御成街道の一部だったようです。現在は交通量の多い幹線道路となっています。踏切名の「鎌池」は付近の小字が由来です。付近には自衛隊の下志津駐屯地や県立若松高校などがあります。鎌池踏切 44K150M 幅員11.0M所在地:千葉県千葉市若葉区若松町
2023.05.22
先述の「大広踏切」の少し先にある踏切で、住宅地の中にあります。警報機ではありませんが、注意を促すために門型の警標が設置されています。踏切名は大広踏切と同様に付近の小字が由来で、「中広公園」などもあります。中広踏切 43K492M 幅員4.5M所在地:千葉県千葉市若葉区西都賀・若松町
2023.05.14
都賀駅方面に通じる比較的広い道路と交差しています。珍しい門型の警報機が設置されており、遠くからでも良く目立ちます。踏切名は付近の小字が由来で、「大広公園」などもあります。幅員は5.0Mとなっていますが、おそらく5Mより広いと思われます。大広踏切 43K210M 幅員5.0M所在地:千葉県千葉市若葉区都賀・西都賀
2023.05.11
先述の「作草部踏切」が廃止されているため、この踏切が東千葉~都賀間唯一となります。東千葉駅周辺の住宅地を抜けて、丘陵地帯にさしかかるところにあります。交差する道路は狭いですが、踏切の先にも住宅などがあるため交通量は比較的多いです。踏切名は所在地の地名「高品町」が由来です。高品踏切 40K680M 幅員3.0M所在地:千葉県千葉市若葉区高品町
2023.05.02
久しぶりに総武本線の踏切です。総武本線の踏切で掲載していなかった東千葉~佐倉間の踏切を掲載していきます。早速紹介するのは現在は廃止されている踏切で、東千葉駅から都賀寄りに進んだ場所に存在していたようです。写真のように現在は防護柵のみが残っていて、踏切だった痕跡はほとんどありません。この場所のすぐ脇に道路と交差するコンクリート橋があり、ここが元々は踏切だったのかもしれません。錆びていてよくわかりませんが、この看板は高電圧電線に注意を促す標識です。「危険」「地上高五・二米 電線 一五○○ボルト」と記載されているようです。踏切名は「作草部踏切」のようです。現在「作草部」という地名は所在地からは離れているものの、かつてはこのあたりも「作草部村」の一部だったためこの名称になっていると思われます。銘板もかなり錆び付いているためキロ程などは不明です。作草部踏切(キロ程・幅員不明)所在地:千葉県千葉市中央区東千葉
2023.04.29
今回は外房線のトンネル一覧を作ってみました。番号は暫定で、間違いや漏れがあるかもしれません。〈外房線のトンネル一覧〉()は駅名、トンネル名称は太字で表記(千葉)千葉~土気間 トンネルなし(土気)1:土気(大網)大網~浪花間 トンネルなし(浪花)2:久保 ※未使用の「新久保トンネル」が別にあり(御宿)3:新第一浜(上り線)、第一浜(下り線)4:新第二浜(上り線)、第二浜(下り線)5:新第三浜(上り線)、第三浜(下り線)6:新新官(上り線)、第一新官、第二新官、第三新官(以上下り線)7:第一勝浦(上り線)、新勝浦(下り線)(勝浦)8:墨名9:上敷10:串浜11:船付山12:白畑13:不明14:不明15:西ケ谷16:鵜原(鵜原)17:天王山18:守谷19:興津(上総興津)20:浅間(行川アイランド)21:おせんころがし22:大沢23:小湊24:内浦(安房小湊)25:大風沢26:天津(安房天津)安房天津~安房鴨川 トンネルなし(安房鴨川)
2023.04.07
栃木県に入って最初の踏切です。久下田駅に隣接した場所にあり、周辺は住宅地が広がっています。このあたりは茨城県と栃木県の県境が互いに入り組んでいて、細い生活道路で県境を越える箇所があったりしていて面白いです。踏切名は付近を通る県道166号が益子方面に通じていることが由来と思われます。交差する道は益子に向かうかつてのルートの一部だったのかもしれません。益子街道踏切 8K740M所在地:栃木県真岡市石島
2023.03.18
真岡線で茨城県内最後となる踏切で、栃木県との県境に近い場所にあります。栃木県の真岡から茨城県の岩瀬(桜川市)を結ぶ県道216号が交差し、踏切名もこの道が岩瀬まで通じていることから名付けられています。岩瀬街道踏切 8K050M所在地:茨城県筑西市樋口
2023.03.12
住宅と田畑が混在する小道と交差する小さな踏切で、国道294号の旧道からは少し離れた場所にあります。交通量は少なめですが、先述の「雷神社」にはこの踏切のほうが近いです。第二、第三踏切は廃止されているようで欠番となっています。第四雷神踏切 7K764M所在地:茨城県筑西市樋口
2023.03.07
真岡線と並行する国道294号の旧道から分岐する小道と交差しています。周辺は田畑が多く、踏切の周りはソーラーパネルが多く設置されています。踏切名はこの先にある「雷神社」(樋口雷神社)が由来で、旧道との分岐部には大きな鳥居があります。1087年に建立された歴史ある神社で、地域に親しまれています。旧道との分岐部分にそびえる大きな鳥居です。第一雷神踏切 7K303M所在地:茨城県筑西市樋口
2023.03.02
2022年11月27日で定期運行を終了したいすみ鉄道のキハ28 2346。国鉄急行型気動車キハ58系の最後の現役車両として活躍してきたキハ28の最後の活躍を見に、2022年10月にいすみ鉄道を訪れました。今回は五井駅から小湊鉄道を利用し、上総中野駅でいすみ鉄道に乗り換えて房総半島を横断しました。上総中野駅では多くの人がいすみ鉄道へ乗り換えていきます。小湊鉄道のキハ200形といすみ鉄道のいすみ300形を一緒に撮影しました。上総中野駅~大多喜駅はいすみ302に乗車しました。キハ28は大多喜駅で見ることにしました。大原駅からの急行列車としてキハ52 125+キハ28 2346がやってきました。この組み合わせを定期的に見ることができるのもあとわずかになっていました。キハ28 2346には、撮影のために多くの人が集まっていました。かつて房総地区だけでなく北海道から九州まで全国で活躍したキハ58系の最後の現役車両となったキハ28 2346は、1964年(昭和39年)に帝国車輌工業(のちに東急車輛製造と合併し現・総合車両製作所)で製造され、主に山陰地区で活躍しました。国鉄民営化直前に北陸地区へ移り、JR化後も北陸で活躍してきました。いすみ鉄道には2013年に導入され、先に導入されていたキハ52 125とともに観光急行列車で活躍、車内にテーブルを設置してレストラン列車に使用されるなど、いすみ鉄道のシンボル的な存在となりました。しかし、車両の老朽化や補修部品の不足などの要因が重なり、2022年11月27日をもって定期運行からは引退することとなりました。急行型気動車の特徴だったデッキ付きの出入口です。「日本国有鉄道」の銘板と製造を担当した帝国車輌の銘板です。反対側のホームからキハ52+キハ28を撮影しました。どちらも国鉄を代表する気動車です。運用終了後に大多喜駅の車庫にたたずむキハ28を撮影しました。この約1か月後に、キハ28は大勢の人に見送られながら残念ながら引退しました。今後は不定期列車で使用されたあと、国吉駅で保存されるようです。
2023.02.12
真岡線と並行する国道294号の旧道から分岐する小道と交差しています。集落への入口となっているので、付近の住民の利用が多そうです。踏切名は付近の小字が由来です。本郷踏切 6K873M所在地:茨城県筑西市樋口
2023.02.10
ひぐち駅に隣接している踏切です。国道294号の旧道が交差し、交通量は多いです。踏切名はこの道が真岡市の中心部まで続いていることが由来です。真岡街道踏切 6K643M所在地:茨城県筑西市折本
2023.01.29
こちらも国道294号から分岐する道と交差しています。この付近にある中学校の通学路になっているため歩道橋も設置されています。踏切名の「口戸」は、交差する道路が筑西市口戸に通じていることが由来です。口戸は栃木県との県境になっている地区です。口戸踏切 5K564M所在地:茨城県筑西市折本
2023.01.22
真岡線と並行する国道294号から分岐する道と交差しています。交差する道は現294号と旧道を結んでいます。踏切名の「学校」はどの学校を指しているのか不明ですが、この踏切のある場所は小学校と中学校のちょうど中間地点となっています。第二学校下踏切 5K145M所在地:茨城県筑西市折本
2023.01.18
今回は、真岡線の普通列車で活躍する気動車、モオカ14形を取りあげます。モオカ14形は開業時から活躍していたモオカ63形の老朽化に伴い、2002年(平成14年)~2006年(平成18年)にかけて9両が導入されました。それまでのモオカ63形は、第3セクター鉄道向けにバス用の部品やエンジンなどを使用した「LE-Car」というシリーズのひとつで、従来型の気動車よりも小型でラッシュ時には輸送力を欠くという問題点がありました。モオカ14形は大型化したことで輸送力の向上を図っています。折本駅で撮影したモオカ14-1です。2002年に導入された初期型の1・2は富士重工業製で、同社の鉄道車両事業最終期に製造された気動車のひとつです。この2両のみセミクロスシート車となっており、前照灯の位置などが3以降と異なっています。茂木駅で撮影したモオカ14-4、モオカ14-8です。2003年以降に導入された2次車にあたる3~9は日本車輌製造製で、オールロングシート車となっています。前照灯の位置が左右の窓上に移動し、貫通扉上部には「ワンマン」を表示しています。このモオカ14形の2次車は、同じ日本車輌製で2007年に導入された松浦鉄道のMR-600形のベースとなっています。真岡駅で撮影したモオカ14-8です。真岡駅構内には車両基地があり、多くのモオカ14形が見られます。
2023.01.14
あけましておめでとうございます。2023年も「わさびくま日記」をよろしくお願いいたします。新年最初の記事は、真岡鉄道の「SLもおか」に使用されているC12形と50系客車を取り上げます。真岡鉄道では1994年からSL列車「SLもおか」の運行を行っています。「SLもおか」は臨時快速列車として土日祝日を中心に運行され、2022年6月には累計乗客数が100万人に達した人気の列車となっています。1994年の運行開始当初はC12 66号機のみが運行されていましたが、1998年には予備機としてC11 325号機が導入されました。2機体制となってからは重連運転やプッシュプル運転などが行われ、人気を集めていました。しかし、SL2機を維持するために莫大なコストがかかっていたこともあり、C11は2019年をもって東武鉄道に売却されることとなりました。これ以降はC12の1機体制になって現在に至ります。現在「SLもおか」で活躍するC12 66号機は1933年(昭和8年)に日立製作所で製造され、鹿児島県や東北地方、長野県、福島県などで活躍したのちに1972年から福島県内で静態保存されていました。観光列車用のSLを探していた真岡鉄道がこの車両に着目し、1993年よりJR東日本大宮工場で復元作業がスタートしました。1994年3月より真岡鉄道で営業運転を開始しています。JR東日本乗り入れ用のATSも装備されていることから水戸線などで営業運転されたこともあります。C12 66号機のナンバープレートと製造銘板です。製造銘板は簡略化された小型のものが取り付けられています。現在、営業運転に使用されているC12形はこの66号機が唯一となっています。茂木駅で撮影したC12 66です。「SLもおか」に使用されている50系客車です。50系客車の元々のカラーは赤色ですが、SL列車のイメージに合わせ旧型客車と同じぶどう色に赤帯というカラーとなっています。オハ50が2両、車掌室付きのオハフ50が1両の、計3両が活躍しています。50系は地方路線で使用されていた旧型客車を置き換えるための新型客車として1977~1982年(昭和52~57年)にかけて製造されましたが、1987年の国鉄の民営化前後に気動車や電車への置き換えが急速に進んだため、製造から5年~10年前後で廃車された車両も非常に多くなっています。残った車両も観光列車などに改造されたものが多いため、原形のまま運用に就いている50系はこの3両しかなく非常に貴重な存在です。オハ50 11(旧・オハ50 2198)です。オハ50 22(旧・オハ50 2039)です。オハフ50 33(旧・オハフ50 2054)です。3両の50系はいずれもJR東日本上沼垂運転区に所属し、主に羽越本線などで活躍していた車両でした。元車番の2000番台は、寒冷地用に電気暖房を設置している車両となっています。50系の車内です。座席モケットが交換されている以外大きな改造は施されておらず、ほぼ原形のままとなっています。近郊型電車と同じボックスシートが並びます。50系はそれまでの客車と異なり、地方での通勤通学輸送を考慮して設計されたためデッキ付近にはロングシート部分があります。車番プレートです。改番が行われているためオリジナルのものとは異なっています。製造を担当した新潟鐵工所(現・新潟トランシス)の銘板です。地元を走る車両を地元のメーカーで生産した良い例といえます。
2023.01.07
折本駅の下館二高前駅寄りに隣接している踏切です。真岡線と並行する国道294号と旧道沿いの集落を結ぶ道が交差しているため交通量は多いです。また踏切の脇には歩道橋もあります。踏切名は所在地の地名が由来です。谷部踏切 4K493M所在地:茨城県筑西市谷部
2022.12.27
今回は、「夢空間」の車両のうち東京都内で保存されている寝台車「デラックススリーパー」(オロネ25 901)を掲載します。現在はレストランの一部として使用されており、個室で食事をすることが可能となっています。寝台車「デラックススリーパー」は、豪華ホテルのような設備を誇る個室「エクセレントスイート」1室と「スーペリアツイン」2室を備えた車両です。1989年に日本車輌製造で製造され、内装は百貨店の髙島屋が担当しました。外観は青とシルバーグレーに金色のストライプが入り、1988年に来日した「オリエント急行」の車両を意識したデザインとなっています。「エクセレントスイート」は、車両の3分の1を占める広い空間にソファーやテレビのあるリビング、セミダブルベッドを備える寝室、バスタブのある浴室を設けていました。「スーペリアツイン」はリビングこそないものの、シングルベッドが2つ並び、ソファーやテレビ、バスタブのある浴室を備えていました。現在では「四季島」や「トワイライトエクスプレス瑞風」などの豪華列車でスイートルームを備える車両がありますが、当時は破格の豪華さを誇っていました。周囲に木が植えられていることもあり、車両全体を撮影することはなかなか難しいです。車番表記です。独自の書体を使用したほかの2両とは異なり、伝統的な国鉄フォントを使用しています。所属表記と銘板です。「夢空間」の車両はすべて尾久車両センター(東オク)所属でした。
2022.12.24
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