詩人たちの島

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河合民子『針突をする女』を読む



『針突(はじち)をする女』では君子という名の三十過ぎの独身女性が主人公である。兄弟たちはすべてヤマトで生活をし、両親も死んだ真喜志君子は一人で那覇の泊にある先祖代々の家に住んでいる。その家を彼女は〈泊・高橋・紺地屋敷〉と命名する。

― 君子の家では、戦前、上質の絹を紺地に染めるのが副業だった。泊では、それは当たり前の女たちの風景だった。…紺地を染めている頃は、おばあさんの指は真っ黒で、針突があるなんて分からないくらいだった。母は、笑いながら君子へ聞かせた。ロウソクの炎が燃え尽きるように祖母は天寿を全うした。祖母の指には針突が入墨されていた。色白の肌にそれは控え目なトルコブルーのガラス玉のようだった。指の一本、一本に、一つずつ正方形が染め描かれていた。祖母は、派手さのない自分の針突が、白い肌と同じくらいに自慢のようだった。何をするにつけ祖母は那覇の士族である気位の高さで、那覇と那覇以外を区別したがった。―

 君子は、こう描かれた入墨(針突)をした気位の高い祖母の血を受け継いでいる。祖母はいつも君子にその入墨を見せながら「…後生まで持っていくのは、これだけよ。」と力強く語っていた。あるときは密やかに、その入墨を「…これは、ウミヌホーミブシ(海の女陰星)」と言いながら見せたこともある。東京での生活に破れて帰島した高校時代の友人、何もかも君子とは対照的で明るく快活な友人に、君子は自分の愛する男を「寝とられる」ことになる。友人と男との関係を君子は自分で露見し確認する。そういうことがあってから君子は小指に自ら祖母のように入墨を入れる決意をする。体だけはまだ男との交渉があっても、裏切られた君子の魂は空しく漂っている、その魂を拾おうと君子は思う。つまり、男との全的な一体感を求めるのだが、それが得られない、その「欲求を押さえるのは、祖母の耐えたという痛みしかないのだ」。九本の木綿針を束ね、「束を突き刺した。痛みが走った。奥歯がぎゅっと歯ぎしりした。白い肌から玉のように血が流れ出していく。…(中略)消毒する度に、君子は痛みを堪え、小指は、更に、訴えるように天へ向かって立ちつづけていた。それから君子は不自由な手で墨をすった。スッースッーと音をたてて溜まっていく液体は、真っ黒になっていき、…トルコブルーのガラス玉…。君子は、呟いた。小指の出血は、なかなか止まらなかった。傷口へ墨を塗り終えると油紙を載せて、小指にガーゼを置いて包帯を巻いていった。体中が、どくどく小指だけのためにあるような音をさせて、悩ませた。…これでいい。」と君子は思う。
 男と友人にその入墨を見せる場面が次に続く。男は二人の中が露見したということをまだ知らない。その夜、男はいつものように君子の家に来る。君子が問いつめる。「どうしたら、そういう風にふたりの女を抱けるの」と。君子は二人のうちの一人を選べというのだが、男はできないという。この針突はあなたのためにしたんだと君子、「死んで持っていくのはこれだけだわ」。男は「くどいんだよ。君子は…。君子を抱いていると、俺のすべてを吸い取られそうになる。…だから、明美も抱きたくなるんだ。…明美は俺に要求しないんだ。じゃれて、満足して、離れていく。」と開き直る。彼は選べないことを宣言する。最後のエピソードは悲惨だ。君子は慶良間島に一人で行き、夕陽の沈むのをながめる。そこで「君子の気持ちを受け止めようともせずに、振り子のように明美との間を渡っている男への不信が、君子にある決意をさせ」る。彼女は家に帰ると今度は針突をした小指を切断するのだ。

― …針突の指なんかいらない。ショーン(男の仇名―ビートルズの音楽が彼女たちの青春のBGMとして鳴っている。ショーンはジョンの子供だが。水島註)なんかいらない。こんな気持ちを後生まで持っていかない。君子は刃を時々親指で確かめて、丁寧に静かに砥いでいく。そして、指が逃げていかないようにテーブルの淵へ手のひらを当てて小指だけを載せた。バスタオルを厚く畳んで用意した。薬指との間がすでに血を流し始めたように張りつめていた。…指の間に水掻きがなくて良かった。ぬめぬめとしたもののない、すっきりと伸びた小指を見ると、それを振り下ろした。君子の叫び声が、紺地屋敷を響き渡っていった。ユウナも風に揺れて泣いているようだった。―

 これがこの短編の最終場面である。ここまで要約ともつかぬかたちで河合さんのこの短編を読んできて、どういうことが言えるのだろうか。たぶん、すべては君子の思いと、その入墨をし、そして最後にその指を切断するという行為にあることは確かだ。正直に言えば、入墨とその指ごとの消去という行為の重大さが、ここで描かれた三角関係の愛憎とどれだけ小説の構成上で均衡を保っているのかどうか、ぼくにはうまく判断できないところがある。ただ、その切実さだけは疑えないものとして書かれている。君子という女性に比して、その男のショーンや友人の明美などはつまらぬ存在である。君子の思いや行為は常に彼らのそれを大きく凌駕していて、この小説は君子という<地母神>のような女性の思いと行為ですべてが動いていくのである。

 もう少し遠回りをしてみよう。ぼくは、最初このタイトルの<針突>(はじち)の意味が分からなかった。読んでみて、それが刺青のことだと知ったのだが、折口信夫の「沖縄採訪記」(大正12年7月26日・全集第16巻)に三項目に分かたれて掲載されていた。以下のようである。

(はりつき)手の入れ墨は、23位からする。夫が若く見えすぎるからせよというてさせるのもある。33位までには、遅くともみなする。はじめの子が生まれるとつくのがほんとうだが、あまり若くてはせぬようである。人の女房でいて、これをせぬ先に死ぬと、極楽まわりができぬという。死んでから墨で書いてやるのもある。あれだけの入れ墨は、すべて一時にするのだ。豆のような旨い物をたべながらつかせるのである。(3日)

(はつき)はりつきのことである。女20歳以上、発達の程度によって、17、8位からもする。12、3、4頃、中の指3本に入れる。これを はつきぐわぁ という。宜野湾では、手の節に二本ある丸を、60以上になると、続けて長四角にする。(水島註、ここには折口のスケッチあり。この項は年齢での錯誤があり、よく分からない)

(成女式)別にない。ただはぢちをする。中指、無名指の下の部に小さく。これは20、21の頃である。妻となるとたくさんする。はぢちについて、こんな話がある。やまとの方へ嫁入って行った女が、戻って嫁になったしるしに手に矢のしるしを入れて行ったら、きたないとて戻された。それでする。(こう言うわけは、やまとへとられてゆくのを悲しんで、とられないためであろう)矢は悪魔よけ。今一つは、舟が泥海にのりあげて、どうもできないでいると、下からつきあげた手がある。その手に、こういうはぢちをしていた。舟は幸いに無事であった。それからするのである。(水島註・ここにもスケッチあり)<116頁>

 それぞれの採訪がどこの地域のものかよくわからないのが困るのだが、共通しているのは女の成年式のようなものであり、妻としての印でもあるということだ。そこから考えれば、君子の無意識のうちに私こそがショーンの「妻」であるという思いがあり、だからはぢちを決行させたのだとも読める。ショーンの店で、ショーンと明美に「私の針突よ」と言ってあえて見せるのも、そういう意図があるのだろう。
 折口を引いたからというわけでもないのだが、ぼくはこの短編を読んでいるときに、君子に<地母神>的な感情の大きさをしきりに感じていたが、それをうまく表現できないでいた。河合さんが、沖縄の昔の民俗(入れ墨)をこの作品に取り入れたのも、自分の感情の大きさを盛るための現代的な器がなかったからではないか。いや、この言い方はおかしい。脈々として河合さんに流れ込んでいる琉球の伝統や文化というものがあり、それによってしか表現できないもの、それがその伝統や文化によって否応なく育まれた感情というものだろう。
 折口は仁徳の后である磐姫の〈うわなりねたみ〉の激しさを称揚している。君子の嫉妬も現代人のような心理的な?嫉妬とは全くちがい、古代の万葉人のような激しさを秘めたものである。従って自らで自らに痛みに耐えながら入れ墨を入れるというのは「自傷行為」などでは決してなく、男への深い愛情であり、ひるがえって明美への激しい〈うわなりねたみ〉である。

 ところがショーンや明美には、その深さが全然通じない。彼らは「不思議そうにその小指」を見るだけであり、そこに込められた女としての、いわば血に血を継いだ思いを読み取ることが不可能なのである。君子のはじちは、この作品が書かれた時点での河合さんの自らの島に寄せる深い愛情のひそかな告白でもあったろう。しかし、同じ島に生まれ育まれたものでさえ、もうその意味は分からなくなっている。それは「トルコブルーのガラス玉」のように、あるいは「ウミヌホーミブシ」のようにしか生きられない。

君子はもう一回、自らの指に刻まれた大きなものを見つめる。今度はそれを永遠に指ごと断ち切るために。断ち切られたものはしかし永遠に消去されるのではない。今度は風に揺れて泣いているユウナのように、その不在を泣き続けるのである。それが君子の「自立」ということの代償である。

                           2003年10月19日



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