詩人たちの島

詩人たちの島

天皇の逝く国で



この本の日本語版が出たのは今から十年前の一九九四年だった。加藤典洋の書評を読み、すぐに購入したのを覚えている。加藤の書評も、当の本をすぐ手にとって読みたくさせるほど素晴らしかったが、この本はそれ以上に強烈なインパクトと感動を与えて、しばらくの間はいつも持ち歩き、友人たちに読むのを勧めたほどだった。
八九年の昭和天皇の病とその死去がもたらした日本社会の奇妙な「自粛」騒動の分析をプロローグに、そして九十年の現天皇の皇子の婚儀のスケッチをエピローグに置いたこの本は端的に言えば、「天皇の国」の中の「まつろわざる市民」の物語である。エピローグにある印象的な対語を使うなら、「欺瞞を正そうとする人々」の「欺瞞を捨てようとする人々」に対する戦いのルポルタージュである。前者は武力行使の禁止をうたう憲法第九条が骨抜き(欺瞞化)されていくのを正そうとし、後者は欺瞞を「現実」と見ることで、それを捨て去る多数派のことである。
服従しない市民・「欺瞞を正そうとする人々」は、確信的なサヨクでも進歩的な知識人でもない。この本の主人公たちは、沖縄の「スーパーマーケット経営者」、山口の「ふつうの女」、長崎の「市長」である。この市長の意識は市長という一般的イメージから隔絶しているという点で服従しない市民に等しい。三人の闘いの根幹にあるもの、それをノーマ・フィールドは「倫理的な想像力」と規定する。過去の悲惨と苦難の体験を深い共感によって我がものとしながら、同時に他者や他国に対する加害者としての歴史的責任をも担う主体たらんとする想像力。高度経済成長以来グローバリズムの市場原理に到るまで優先され続ける経済的価値のもとに隠蔽され、抑圧されてきた諸問題と彼らは真正面からぶつかることになる。あえてではない。自らの日常の生の誠実な「具体」が、草の根の神話や伝統を意図的に組織し、人々を根深いコンフォーミズム(順応主義)に安住させようとする権力の公的な「抽象」の欺瞞を暴くことになっただけである。もちろん権力だけではなく、公的機関やマスコミの提供する共通の価値や慣習に眠り込んでいるわれわれも含めてだが。彼らの闘いに寄り添いながら報告する著者自身もアメリカ人の父、日本人の母の間に生まれ、その出自から来る自他の様々な偏見と闘ってきた人で、自身もこの本の主人公の一人であろう。   
去年彼女の講演を聴く機会があった。「灰色の現実」という言葉で、イラク戦争後の日米共通の閉塞感を指摘し、それでも「正義の奇跡的な到来」を待ち望むために、闘いを続行しなければならないと静かに決意を述べた。この本の現実は昭和の終り。今の現実の方が「灰色」の混迷と抑圧の濃度をさらに増している。しかし、この本の主人公たちの気品のある生き方に励まされつつ、日常生活を「一人ひとりの責任の根拠地」とすることで私に可能な省察と批判をねばり強く遂行するしかない。ノーマにならえば、この世界への愛着ゆえに。

2004年8月22日 琉球新報 読書欄コラム「晴読雨読」掲載

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