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詩人たちの島
倉田良成『ささくれた心の滋養に、』を読む
倉田良成著『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』(笠間書院)を読む
倉田良成の『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』((笠間書院)を読み返しながら、倉田さんの「知」のあり方に目を見張る思いがする。この本は絵画論・音楽論プラス古典芸能論・書評やウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』評や俳諧について書かれたものからなり、それを大きく分けて三部とし、「絵・音・言葉」と名づけたのであるが、私がこれらを通して幻視し、聴き、読むのは、彼が「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いている「心の存在」・「私」に他ならない。
―世界にいること、つまり対象を官能し指示し認識している、というのが「私」であるという事実、言い換えればそれは必ずしも「ウィトゲンシュタイン」や「倉田良成」である必要はないが、限りなく比喩的に言って「心」をファンクションとしない世界は誰にとっても存在しないということである。極論すれば、存在にはつねに、言うなれば「透き間」がつきまとうのだ。この透き間が、言語にとっては本質的なのである。それは像を生む。透き間のないところに像は生まれず、言語の発生を支える心というのも存在しえない。―
『論考』の考え、「言語」と「世界」の関係を「内的な写像関係」とみる、それを倉田流に解説したものの一つとして書かれている。「ウィトゲンシュタイン」である必要は必ずしもないが、ここでは「倉田良成」である必要が要請されている。前掲の引用を強引にも私はこの本の全体像を示唆するものとして読みたいのだ。「世界にいること、つまり対象を官能し指示し認識している」という「私」という事実の「現前」。それぞれの「本」の持つ「像」というものがあるとすれば、倉田良成のこの本の「像」とは、まさに「世界にいること」の歓びと痛みの「現前」、その切なさに染め上げられているのである。そして、その「対象」は、ここに呼び入れられた付録をふくめて二十九編のエッセイという形式で、倉田良成という存在に不可避な「透き間」が生み出す「心」を関数(ファンクション)とする世界として、その(言語)像として私たちのもとに送られてきている。私にとっては難解な「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」の言及から始めたのは、倉田の書くものすべてについてだが、そこで言われていることをなんとかして理解したい、そして倉田と同じように味わってみたいと思わせる切迫さ、これは全然押し付けがましくはなく、言うならば、清潔な切迫さというようなものを常に私が感じるからである。ウィトゲンシュタイン・ノートは、その典型で、このエッセイの魅力をもっとうまく紹介できたらなと思いながら、書き始めたのだが、力不足は否めない。いずれにせよ、私たちは、この著者初めての「芸術論集」で、「世界にいること」つまり「対象を官能し指示し認識」する仕方の、倉田の好きな言葉で言えば「無碍」な在り方を発見することになる。アカデミーや自足の世界から限りなく「無碍」な時空に倉田良成の「知」の「星座」あるいは「布置」(コンステラツィーオン)が横たわっているのを。
『俳諧昭和ノ巻』について。これは著者が捌き手になり、三名の連衆と巻いた歌仙である。倉田は解酲子(かいていし―解酲は宿酔を醒ますというほどの意味か。由緒があるらしいが今は調べていない)という俳号を持っている。彼が向うのは現代の俳句というよりも、芭蕉につながる「俳諧」の世界である。この世界にどうして彼がひかれたのか?どのような研鑽を積んだのか?つまびらかにしないが、連衆にあてた形で書かれた「捌き文」を読むことで、上記の疑問の愚劣さが暴かれるだろう。
―過ぎにし日々の起伏はるかに あきを
松柏をけぶらせて降る山の雨 天女
この句、さいしょは「老杉をけぶらせて降る山の雨」でした。老杉がけぶっている、ということは前句の往時茫々の意を受けてはなはだよろしいものがあるのですが、老が句の表に出るのは打越の定年後(水島・注―解酲子の句「鯊釣りが面白くなる定年後」を指す)と差し合いになります。天女さんは老を謙遜の表現と見ていますが、捌きの独断でこれをもっと嘉すべき積極性として、杉を同じ常磐木でも松柏に変えさせていただきました。こないだ見てきた鶴見杉山社の田祭り神事の風韻も思い起こされます。場も名残の裏折立まできたところ。この捌きは一寸、天女さんの句を通じた愚生弱輩者の、連衆のみなさんに寄せる敬意(リスペクト)の面もあるようです。天女さんでも誰でも、ご自分でご自分のことをなかなか「松柏」とは仰有りづらいと思いますので。…五月十三日 解酲子 ―
これを読むと、この捌き手の優しさと懐の広さがよくわかる。私が言おうとして遠回りをするしかなかったもの、すなわち倉田良成の「知」のあり方、その実践とはこういうものなのである。「少なくとも、非日常性と日常性の間柄を、詩と非詩に擬するのは間違い」であり、「むしろありふれた日常性そのものを、祝祭に連続し、それを根拠づける一つの深みとして」考えようと倉田は言う(「歩くように生きる 高堂敏治『シンプルライフ』書評」)。「老杉」を「松柏」に変更することで開示されるものは、革命的な非日常などというものではもちろんない。それは「老」を謙遜から、「老熟」の賛歌としての「松柏」にかえることで生まれる日常そのものの喜びと祝祭、あるいは「敬意」の世界を出現させることなのだ。こういうときの倉田さんを私は思い浮かべることができる。はにかみながらもしてやったという少年のような眼の輝き。日常の関係そのものを「祝祭」に変化させる営み―「祝福の水平的配置」(「鶴見の田祭り」)―に倉田は芸能の根拠と特質を求めているのだが、そういう意味で「俳諧」も鶴見の田祭り神事と同じであろう。
「時間」、その経過は、人の魂を貧しくすることにも豊かにすることにも平等の「圧力」を掛けてくる。ウパニシャドに「無知におぼれている者はあやめもわかぬ闇を行く。明知に自足するものはいっそう深い闇を行く」ということばがある。時間の波のなかで無知におぼれず、明知に自足せず、しかも己の「魂への配慮」を忘れずに生きてゆくことは容易なことではない。ここで取りあげられている諸ジャンルのアーティストたちや、「風雅」という言葉で総括できるかもしれない彼らの「芸術」やパフォーマンスに総じて言えることは、この困難さを破局に向う紙一重のところで辛うじてバランスをとりながら回避し、時の「圧力」に耐えてきたということにほかならない。音楽の時間ほど、こういう様相を明瞭にするものはない。今、私は本書のなかの「ミシャ・メンゲルベルクの音 横濱ジャスプロムナードに行く」という卓抜なエッセイに言及されているエリック・ドルフィー最後のアルバム『ラスト・デイト』を聴きながら書いている。十八、九のときに倉田はこのアルバムを聴いたのだが、そのときピアノを弾いていた二十九歳のミシャ・メンゲルベルクが六十八歳という年齢になり、「横濱ジャスプロムナード」に出演した。それを聴いたときの感想だ。『ラスト・デイト』のオランダにおけるレコーディングから数えると四十年の時間の経過。そして、このレコードをはじめて聴いたときの少年倉田もこの時は五十歳である。
―メンゲルベルクのポートレートを一葉だに目にしていない私にしても、初めて見たその風貌は意外だった。上体のいかつい白猿という印象だが、一目よれよれの老人と言ってよく、…(中略)六十八歳とは聞いたが、同年代のニッポンのおじさん、おばさんたちと比べてみても、頽齢という言葉が浮かんできて仕方がない。登場して最初、駅で配られたとおぼしいテイッシュほか、手にしたものを用意されたグランドピアノ上のどこそこかに置こうとして果たせず、けっきょく足許の舞台板上にゆらゆらと立てて、それからいきなりはじまったインプロヴィゼイションという名の音楽、そして音楽という名の無私の祝福はわれわれを幸せにした。―
こういう「祝福」の時間に恵まれる、生きていてよかったという喜び、それをともに味わうことのできる最愛の人や朋輩たちがいるということ、時の経過とそのなかの苛酷な経験こそが実は「ささくれた心」にとっての一番の「滋養」ではなかったのか。あるいは「ささくれた心」が求めるのは「ゆらゆら」としながらも、「いきなり」今を無私の心で演奏する力ではないのか。その力こそが「二度とそれを取り戻すことは出来ない」と思われている「消え去ったもの」を取り戻し、倉田さんが書いているように、「取り戻せない」という言葉自体を「希望」の言葉に変えるのである。
「COAL SACK 55号」06・9月
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