詩人たちの島

詩人たちの島

田中郁子『ナナカマドの歌』


田中郁子『ナナカマドの歌』

田中郁子の『ナナカマドの歌』から聞こえてくるものは、ひそかな声の切実さである。「にんげんの無数の訣別と約束の日々」(「ナナカマドの歌」)を歌うのだが、そこから浮かびあがるのは、ベンヤミンの比喩で言えば、<生きられた生活という絨毯>に他ならない。織るように歌い、歌うように織り上げてゆく。しかし、織物(テクスト)そのものが問題なのであって、詩人が経てきた場所や歳月での個人的な生の哀歓―織り込まれた経糸や横糸を突き抜けたところで、この声は「にんげん」の生と魂の行方を、問い直すのである。忘れ難い一行「波うつしげみに深く生まれたのでした」(「ナナカマドの歌」)がある。「深く生まれ」るという言葉ほど、この詩人を代表するものはない。銀色のススキが一面になびく野原で、「ふるいちちやはは」の生誕という奇蹟が演じられる。「あたらしく生まれる」彼らは「わたし」にむかって「いってきます」といいつつ「わたし」が「いま きた道を/やすらかに帰っていく」。「いってらっしゃい」と「わたし」は手を振る。「いってきます」と「いってらっしゃい」というありふれた日常の言葉が聖句のように響き、生み出されたものと生むものとの交換が果たされる。声が生むのは、思想や観念ではなく、感情でさえなく、「あたらしく」「深く」生まれることへの祈りである。
田中郁子は「冬」の詩人でもある。「はてしなく降る白の旋律」(「白の旋律」)を伴いつつ。春、「もくれんの花が咲いているというのに/雪がしんしんと降ってくる」(「降ってくるのだ体の中に」)。出征の父をおくる記念写真の背後に咲いていた木蓮。今はじめて、その「もくれんの木がゆれている/知らなかったよ/さよならと手を振っていたのだ/気づかれてはならなかったのだ」ということに気づく。詩人にとって季節や花々、総じて自然とは作品以上のもので、それは深く生きていて啓示に満ちたものだ。セピア色の写真のなかで、木蓮は長い歳月をゆれていたのである。「気づかれてはならなかったのだ」という感懐の射程は深くて苦い。
切実な声だからといって、ユーモアがないわけではない。シャクナゲの蜜を満喫した蜂たちが、レースを編む「わたし」の周りを飛び交う(「日を編む」)。「誰にも見えないものを編んでいると それは自分の顔以外に編むものはなく(略)ただクスクスと笑う以外にないのである 何度もほどいてきた自分の顔に向き合う時 体すれすれに跳びまわる蜂は わたしのひそかな笑いを 外に洩らさないように 羽音をたてて 幾重にもまわってくれているのだ と思われてくる」。この笑いは、エデンから追放された後のイブの笑いかもしれないが、私には聖母の笑いのようにも思える。

 岡山の新見という雪深い「辺境」で、ひそかな声がひそかに編みこまれてゆく。それは、性急で野心に満ちた文学の「求婚者」たちを拒絶するペーネロペイアの仕事である。

                (「現代詩手帖」07年11月号掲載)

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