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リンボーさんから季節外れのハガキが届いたのが5月のはじめ。音信不通だったこすりつけさんから久しぶりに連絡がきたのは、リンボーさんのハガキを裏返して読もうとしていたまさにそのときだった。「近いうちにそっちに行こうと思う」というような意味のことをおそろしく回りくどい表現でこすりつけさんは言った。リンボーさんのハガキの件でか?「そうや、それ以外に何がある?」というようなやり取りで済むようなところを、言葉尻を装飾しながら延々と続けるのは我々の悪い癖だが、それはどうでもいい。とにかくこすりつけがやってきたのは5月24日。新宿の小田急ハルクの裏の裏あたりの指定された店は扉を開けると目の前に急な階段があって、階段の上では店員とおぼしき細くて若くてきれいなおねいちゃんが少しかがみこみ気味で「お一人ですか?」ときいてきた。階段の下から上を覗き込んだときにもしおねいちゃんのパンツ見えそうだったらどうしようかとかなぜか妙に照れながら登っていきながら「いや、待ち合わせで」と告げるとおねいちゃんは迷うことなく店の奥のテーブルを指して案内してくれた。ちなみにおねいちゃんはパンツが見えるような服装ではなかった。我々に用意されたテーブルのすぐ隣にはピアノが置かれていた。テーブルに着こうとしたとき奥に座っていたこすりつけはオレに目もくれずピアノのおっさんと話をしていた。テーブルには大きいサイズのジョッキがなぜか3つありほとんど空だった。リンボーさんは黒いズボンに白いシャツのシンプルな格好だった。ただしズボンは革ではなく綿とかウールのやつだったし、10年ほど前にはトレードマークだったはずのちょんまげはなくなり髪は短く切り揃えられていた。今でも下着を着けていないかどうかを確認するのは忘れたが、聞かなくてよかったとも思っている。この店はリンボーさんの行きつけらしく、もう20年も通っているといった。リンボーさんはあの最初オレを案内してくれた細くて若くてきれいな店員をはじめ、常連客として店の誰とも親しげにしていて、どういうわけかこすりつけもピアノのおっさんとは知り合いのように話していた。オレはどうしたらあの細くて若くてきれいな店員とお近づきになれるのか心配になった。「で、なれそめは?」ジョッキ(大)を2人で3杯開けてもまだ本題に入っていないようだったからどの局面でも本題から入る癖があるオレが必然的に切り出すことになった。リンボーさんのハガキには、結婚したことを知らせる内容が記してあったのだった。「話すと長くなるけど、」と前置きしたリンボーさんは結婚相手の生い立ちから語り始めた。そこから話すんじゃ長くなるだろうなと思いながらオレは話を聞いていたが、途中からピアノの演奏が始まり、こすりつけは演奏のほうに集中しだしてしまっていた。リンボーさんの実年齢は45~6だったはずだが、見様によっては30代前半にも見えないこともなく若々しい。リンボーさんと始めて会ったのが何年前かは忘れたが、実年齢より10個も若く見えるような印象は今をもってしても変わらない、とは言い過ぎだろうか。そのリンボーさんは「この歳にして初めて結婚することになるとは夢にも思わなかったよ」という意味のことを何度も口にしていたが、「この歳」というほど歳を意識することもないような気がした。その証拠に、このとき語ってくれた結婚相手とのなれそめ話は「おまえは中学生か!」とつっこみたくなるような純情さや臆病さがちりばめられていたからだった。平日はOLとして働き、休日には商店街の洋服リフォーム店の手伝いをしていたユウコさん(仮名)は、客として自転車のサイクルジャージを直してもらいにくるリンボーさんと顔馴染みになった。ある日商店街のイベントに誘われたリンボーさんが会場に行くと、そこにユウコさんがい、、というくだりから物語は急展開するかと思いきやまだだったり、中学生が高校生になって進学したり就職したりしてこのまま離れ離れになるんじゃないかというぐらいの物語展開や時間経過が語られていった。「結局、どんな時間の使い方をしたかでその人が決まってくるわけや」という意味のことを得意げな顔でこすりつけは言ったが、オレはそうは思わない。今まで何をしてきたかではなく、たとえばこれから何をしようとするかで人は決まるものだと思っている、ということを言ってもこすりつけは、意見の違いを正そうともせず、「それがお前らしいところや」と、これも得意そうにまとめただけだった。我々は最初に出会ってからおそらく10年以上は経過しているはずだった。たとえばこの10年を振り返ると、あの頃は確かに若かったとしか言いようがないことも少なからず思い出された。過去を積み上げて今が出来上がったのか、今から何かを積み上げて未来になるのか、だんだんどちらでもよくなってきていた。痛風の持病を持っていることになっているオレはそれでもジョッキ(大)を2杯飲んで、それからはワインにした。リンボーさんの痛風レベルもかなり高いことをこのとき知ったわけだがまだ発作には至っていないようだった。こすりつけは最近羽振りがよろしくなっていることを得意げに語るもんだから会計はまかせることにした。いつものことながらいうべき言葉を言い忘れて帰る癖がある。とってつけたようで申し訳ないが、一言付け加えておく。結婚おめでとうございます。お幸せに。
2013.05.26
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友人から寒中見舞いが届いた。「ブログ10年以上も続いてることにびっくりしました」ということが記されてあった。いまだに年賀状に「ち○こ」とか「う○こ」とか書いてくるのと比べると、非常に気の利いたメッセージだった。振り返ってたどってみるとたしかに10年以上前にここを開設していた。たとえば11年前の、29歳だったとしてそのときの日記を3つ4つ読んでみた。非常にどうでもいい日常のことをよくも大したことのように書いているなあ、とか、二日酔いを自慢するような日記が多いなあ、とかいう印象を受けた。中には恥ずかしいことも書かれていそうだったが、そこまでくまなく読み返してはいないし、10年前の自分が書いたことなんか、ほとんど他人が書いたものとも思える。ブログを始めるときにひとつだけ自分にルールを課した。「書いたものは消さないこと」だから10年続いているというよりも、10年間消されずに残っているだけともいえる。ここのほかにもいろんなSNSをやってみたけど、なにかよそ行きのことをかかなきゃいけないような気がしてそれが面倒でほとんど長続きしていない。そういえば「書きたいことを遠慮なく書く」という思いも当初はあったかもしれない。思ったことをそのまま書く、というのとは違う。何を書いて何を書かないか、その都度細かい選択というか決断はしていたと思う。そういえば、一時期は毎日ここに何か書くという縛りをも自分に課していた。なぜそんなとち狂ったことをしようかと思ったかは今となっては思い出せないけれども、そういった経験は間違いなく、今の自分に活かされているとは思う。さておき過去を振りかえるのはこの辺にして、近況でも発表しようと思う。まず夏に買った幸福の木はこの冬の寒さにやられて枯れてしまった。茶色く萎れた葉を全部ハサミで切り落として剪定してみた。木は冬に葉を落としてまた春にはあたらしい芽をつけたりするが、果たしてそうなるか。あいかわらず下手な将棋で遊んでいる。NHKの将棋トーナメント観戦と、日々の激指コンピュータ対戦は習慣になった。将棋トーナメントのMCをやっている矢内理絵子女流棋士は、コンピュータ将棋のキャラクターにもなっていて、負けそうなときの表情がまたかわいい、勝勢になったときの笑顔も素敵だから、のきなみ負けてあげてるけど。正月にひいたおみくじは「吉」だった。「この人は苦労おゝきうまれつきなれど、すこしづゝ小さい望をもちてしんぼうすれば、ついには大望とげるべし、神仏を念じてよし」と書かれていた。まあ悪くはないのだろう。神仏に関しては、わりと「星座占い」は信仰しているほうだと思う。前年は「ざいほうを くるまにつみて ゆくべしとなり」という啓示だったにも関わらず、特に財宝を積むようなこともなく1年を過ごした。今年はぜひとも大望をとげたいものである。最近、軸足は仕事におかれている。半年ぐらいかけて計画して開発したやつが今年この1月に世に出たばかりなのである。24時間365日、高負荷のまま稼働し続けなければならないミッションクリティカルなやつである。このごろたまに、システムが急に止まってしまうような夢をみる。もちろんそんなのは悪夢である。この話は、もうちょっと落ち着いて他人事になったら書くかもしれない。
2013.01.27
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「ザ・シークレット」という本が流行っているというので読んでみた。結論を言う前に、願い事から書き記しておこうと思う。「年末ジャンボで6億円当たると信じて疑わなかった私は見事当たり6億円手にしました。ありがとうございました。」というようなことを心から願うと本当に願いが叶いますよ。という「引き寄せの法則」が偉大なる秘密、つまり「ザ・シークレット」。2ちゃんで火がつき拡散していって、2007年が初版のこの本は今になって増刷を重ねているらしい。この本のいうことを忠実に実践していれば思い描いたような富を手に入れられるなら誰でも億万長者になれるんじゃないかと考えがちだけども、そもそも億万長者になる自分をイメージするというところが難しい。この本によると、たとえば億万長者になることを目標としたら、まず「願う」。そして「信じる」。さらに「受け入れる」。というようなステップを踏まなきゃいけないらしい。「億万長者になりたいなー」と思ったら、「私は億万長者です」と思って生活しなければならず、「ボクは億万長者で幸せです!」として「宇宙」に感謝しなければならない。仮に、願い、信じ、受け入れる、ことで全ての願いが叶うとしよう。いや、たぶんこれは本当のことなんだろう。ただこの「願い、信じ、受け入れる」は、かなり高度な【技術】のような気がする。で、この技術を身につけるには、朝起きたら洗面所にいくまでの一歩一歩を、感謝して踏みしめなければならないらしい。朝起き掛けの一歩ごとに「ありがとう、うれしい」と心から思うというのである。朝の一歩を感謝せよといわれてそれをし続けられる人はおそらくものすごく意志が強くエネルギーに満ちているから、自分の思い描いたようにすることも可能なのだろうというような気がする。あと、否定的なことも言ってはいけないらしい。聖人君子のような考えを持ちながら、目標をイメージ化して強烈に願い、信じて、受け入れる。うん、確かにこれをやれば、全ての願いは叶いそうである。明日からそうやってみることにする。
2012.12.08
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休日は朝起きてアタマがフレッシュなうちにパソコンに向かって仕事に関することをやって、昼時ぐらいになるとフレッシュだったアタマもぼやぼやしてくるから止め時を探りつつ午後の1時か2時ぐらいになって、仕事が片付いたときからご褒美としてビールを飲み始める。午前中から飲み始めることはまずないが、3時ぐらいからが平均的開始時刻で、仕事が片付かないときは5時や7時になることもある。仕事といっても平日にやり残した仕事を休日に処理しているというわけではなく、ときには自分なりに深く掘り下げてみたり、不明確なことを明確にしたりするための時間として使う。定められた就業時間内が試合だとすれば、休日にする仕事は試合のためのトレーニングなのかもしれない。休日に時間を割いてまで攻略すべきテーマが与えられているのは幸いなことだと思う。でなければ休日を過ごすために仕事とは無関係の趣味を探さなければならない。ビールを飲みながら日曜の午前中に撮りためておいたNHKの将棋トーナメントのビデオで将棋観戦する。この習慣もだいたい1年続いている。一生うまくならないと思っていた将棋の実力もなんとなく向上したような気がする。今年の3月に法事で実家に帰ったときに、これも一生かなわないと思っていた親戚のおじさんに勝負を挑んで勝ってしまったというちょっとした事件があったけれども、そこからもさらに実力はあがってきたような気がする。気がするというだけで、軒並みコンピュータとしか対戦しておらず、おのずと必勝法も偏っているから人と対戦したらどうなのかはよくわからない。しかしながら先週末だけは、上記のようなパターンから逸脱した週末を送った。休日まるまる本を読んでいた。「マルドゥック・スクランブル」。先日買った観葉植物に似ている名前だが園芸書ではなく小説で、しかもSF。SF小説を読むのはもしかしたらはじめてかもしれない。戦時中にタイムスリップするとか、精神世界に入り込むとか、架空の近未来兵器をめぐる闘争だとかがテーマの小説は読んだことがあるけれども、まるでSFを前面に押し出した小説というのはなかなか選び難かった。マルドゥック・スクランブルなるSF小説を読もうと思ったのは、「天地明察」という時代小説を読んで面白かった冲方丁(うぶかた・とう)のほかの作品を読んでみようと思ったからだった。概要を端的にいえば、天才的美少女が戦闘し成長する、というような物語なのだけれども、このアニメのような設定の小説全3巻を、ほぼ2日で全部読んでしまった。これだけ集中してひとつの本を読むのははじめてと思うほど途中でやめられず、読み終わった翌日には、なにか世界が変わったような気分になるほどだった。これの何にそれほど引き込まれたかと考えると、物語の面白さに加え、集中と緊張がほぼ最初から最後まで続くような設計の構成であり文脈だったからなのだとも思う。この人はきっかり仕事をする時間を決めて、それとは別に休日は休日として仕事以外の楽しみを見出すようなことをしているのかと考えた。この人とは作家のことである。休日に釣りやゴルフを楽しみとしながら、これほど集中力に満ちた仕事ができるとは考え難い。プロ棋士が紡ぐ棋譜や、プロ作家が編む小説とかいう仕事の成果は「労働」から生まれるものではない。プロにはおそらく休日という概念はないんだろうなあ。ときにうちのドラセナマッサンスクランブルはこんな調子。下のほうの葉がのびてきて、力強くなってきた。
2012.09.30
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何日か前に昔一緒に働いていた銀行のおねいちゃんからメールがきて、今の仕事を辞めようと思う、転職した人のアドバイスをききたい、といった趣旨の相談を受けた。オレの転職は果たして成功だったのか失敗だったのか、まだ結論付ける時期には到達していないけれども、転職したこと自体は、正解だったろうとは思う。一生涯安泰であろう銀行のおねいちゃんと違ってオレの場合、持てるものをしぼりとられて使い古されて先細るだけだから、わずかでも希望のもてる場所で自分を磨きたいという欲求にかなう職場というか立場というか、そういうものを手に入れられたという点においては、転職という事業は成功したともいえる。希望は手にいれたかもしれないが、何かを失ったような気もする。それは自信とかかもしれないし、長いものに巻かれていた身分かもしれないし、誰彼かとの人間関係かもしれない。失ったものについての未練はないけれども、失ったものがあることは確かだ。希望を手に入れたと同時に、なにも持たないただの人になったような気分になった。メールをくれた銀行のおねいちゃんは、今の仕事がうまくゆかなくて上司にプライドを傷つけられたりして辞めることを考え始めたらしかった。他人の転職にアドバイスするほど転職に詳しくは無いけれども、今の仕事が辛いからといって他の仕事を探すような転職はよくないということは、感覚的にわかっていたような気がする。せめて他にいいところを探してから辞めることを決断したほうがいい。というようなことを返信した。もちろんもっと短いセンテンスで。数日経ってまたおねいちゃんからメールがきて、結局転職するのは考え直したらしい。オレのアドバイスが効いたというわけではなく、ナントカさんやナントカさんにも色々相談してみた挙句に決断した、ということをいちいち付け加えるあたりのなんというか負けず嫌いさというかプライドの高さというかそういうのもなんとなくかわいらしく思えたから、いちいちつっかかるのもやめておいて、早く偉くなってオレに仕事まわしてくれ、とか大捜査線的なセリフで締めくくってやりとりは完結した。早いもので転職してからもう1年が経とうとしているけれども、まだ地に足がついた感じがしないし、これからも宙に浮いた感じがしそうな予感たっぷりだけれども、この感じは悪くない。
2012.09.20
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2週間かそこら経った後のうちの幸福の木の写真。前のと比べるとやっぱり退化してるようなきがする。。来年やり直すか!
2012.09.09
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今日は土曜日というのに会社の研修を受けてきてぐったりして帰ってきて酒を飲んで落ち着きを取り戻して、割と酔っぱらいながらこれを書いている。酔っぱらって書くと書いたものの品質が落ちるという話もあるけれども、酔っぱらうとテンションがあがって書きたいことはあふれて出てくるのに対して指先がついてゆけないのかもしれない。さておき、どんな研修だったかというと「ゲームで経営感覚をつかめ!」のようなものだった。6名ずつ3グループになってテーブルを囲み、モノポリーのようなゲームをしてゆくうちに、収益はにゃはにゃ表とかキャッシュフローとかの書き方を身につけ、利益を上げるためにはどうすればいいかを考えられる頭ができあがってくる、というのが、その研修を受けてぐったりして帰ってきて酒を飲んでいるオレが思ったあらましである。商品を安く仕入れて高く売り、粗利の合計が固定費(人件費や設備維持費)を上回ればプラスになる。という仕組みの中で、いかに効率よく商品を仕入れ、人件費をおさえ、競合なく高く売るか、ということを体感するまでに3ゲーム、まる一日かかったというわけだった。このようなプログラムは月に一度4,5回行われるらしく、100人にも満たない規模の会社の中の18人に、経営のいろはを叩き込んでどうしようというのかという疑問もないでもないけれども、なんとなく思い描いていた経営と、ゲームとはいえ実際をシミュレートするのとではポイントが違っていたことがわかったりして、結構有意義だった。IT業界では、ゲームとかオフィスとかのパッケージ商品を売るような会社でない限り、だいたい人の労働力を切り売りするようなビジネスになりがちだけれども、人によって品質はばらばらだし、欠陥商品も多くあるだろうし、抜群に品質がいいからといって、高く売れるわけではないというのもあって、ゲームのように簡単には計算できないけれども、いつもお金の感覚を持って人を見るようになれ、ということなのかもしれない。研修を受ける前は、洗脳されたらどうしよう!とか思っていたけれども、そんなつもりもなさそうだし安心しているけれども、実はこういうのを受け入れているあたり、すでに洗脳されてるのかもしれない!
2012.09.08
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幸福の木についてだけれども、いきなり枯らしてしまった。枯らしたというか、日焼けという症状らしい。日当たりのいいところと思って直射日光ががんがんあたるところにおいておいたら半日で上のほうの葉の一部が焦げ付いたようになった。よくよく調べてみるとこの植物、熱帯性のくせに真夏の日光にあてると日焼けするとか書いてあった。植物のイメージとして、夏は日に当たり大いに成長する盛りと思い込んでいた。夏の終わりにジャングル的な育ち方をしてくれたらとかいう期待もあった。確かに近所のグリーンショップでも、「真夏は直射日光にあてずに」とかいう注意書きが書かれた植物もみかけたが、うちのは熱帯性だし大丈夫だろうとふんでいたのだけれども、楽観的な観測はことごとく外れていたようで、うちの幸福の木は、まるで幸福でないことを象徴するかまたこれから不幸が訪れることを暗示するかのように、葉の一部が黒ずんでしまった。ちなみに、幸福の木に花がつくと不幸が訪れるとかいう信仰だか迷信だかがあるらしい。それを逆手にとれば、枯れたら幸せが訪れるとも考えられなくもない。
2012.08.31
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園芸を始めてみた。構想ではきゅうりかなにかの苗を買ってきて、鉢とか土とか肥料をとかをごにょごにょやってプラントを構築するような作業をイメージしていた。きゅうりを題材にしたのは、近所のホームセンターにいってみたときにそれしかなかったからで、先週から他の園芸店を探してみて回ったりして、なにから手始めに取り組むべきか真剣に考えていた。仕事でもこれほど真剣に探究心を持って取り組めばいいという話だけども、取り組むべき仕事が固まったので、すくなくともあと3か月ぐらいはなにも探究しなくてもよい。仕事は仕事で一生懸命やって、仕事以外の時間にどうリラックスするか考えたときに、植物的なものを見たり気遣ったりするのは悪くないんじゃないかと思う。とはいっても、リラックス目的で園芸を始めようと思ったわけではない。はす向かいの家の夫婦が夏休みに旅行にでかけるにあたり、庭の植木の水やりを依頼された。最初は面倒とも思ったが、ひきうけた以上、あずかった植木を枯らしてしまうようなことはあってはならず、できるかぎり生き生きとさせて引き渡したいという欲求も生まれた。いざみずやりを始めてみるとこれが予想以上に楽しく、毎日枯れてはいないかとか、育ちすぎてしまったらどうしようとか考えながらの観察も悪くはなかった。はすむかいの夫婦が旅行から帰ってきたときの成果としては結果としてなんとか現状維持は保てたようで、形式としてではあろうけれども感謝の言葉と旅行の土産をいただくことができた。小学校だか中学校だかの夏休みの課題として、鉢植えの花を持って帰って育てるというのがあったことを思い出した。去年死んだじいさんに鉢植えごとあずけたまま何もせず過ごし、夏休み明けに学校に持っていったら他の誰の鉢よりも立派に育て上げたという評価をもらった。ちょっとだけ後ろめたい気持ちと、じいさんやるなあとかいう誇らしげな気持ちも抱いたものだった。何の植物か忘れたが、高く太く伸びた茎から色艶のよい葉っぱが豪快にこぼれるほど生えていてバランスがよく、今になって思えばちょっと芸術的な仕上がりだったのかとも思う。近所の園芸店に立ち寄った時点では何を買うかまだ決まっていなかった。葉ぶりの美しさや鉢の大きさ、値段等の観点で物色したが決め手はなかったが、「幸福の木」という名前にくぎ付けになった。850円。値段も悪くない。鉢や土が一体になっているのも簡単でいい。買ってきてみた。
2012.08.25
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二転三転したけれども、システムのクラウド化の案件を獲得し、9月から晴れてプロジェクトとして進行することになった。4月の半ばからAzureの検討を初めた当初は、新しい技術で開拓し甲斐があるし、だし、先不明瞭な部分も多くて実現性に不安がある一方でやりがいも同じくらいあると感じて集中して取り組んだ。そこから2か月ぐらいしてほぼ先の見通しが立ったところで、新バージョンのリリースや予算の出し渋りに遭遇に勢いをくじかれたことで一度速度が落ちて、再度プロジェクトが現実味を帯びてきて、7月ぐらいにほぼ要件と設計がかたまったあたりになると、もう決まりきった仕事をするだけだし、ほとんどやる気も失せてきて、これから新しいプロジェクトに取り掛かろうというのにちっともテンションがあがらない。同時進行でやってるAmazonの手伝い仕事はなんというか体制というか命令系統がぐだぐだで、「ぐだぐだなんだけど」とちょっとイライラ感を現してみたら若い子に若干キレ気味になられて、オレも調子を合わせていたら周りが引き気味になったりで、なんとなくうまくかみ合っていない。その若い子は今のプロジェクトを抜けたいと思っていて、それに対して周囲は情報を引き出して共有しようとしているのにあいまいな情報しか展開せず、だからグダグダになっているのにそれを指摘すると今度は「そんな資料をまとめる時間がありません」とやる。つまりは自分の仕事を減らすか先送りにしたいのぐーたらなだけなのだけれども、なにしろエースプログラマでハマったときの生産性は相当高いので、周囲は彼に強く言えない空気があるし、彼は彼でものすごくプライドが高い。確かに手は速いかもしれないが、人との約束は守れない、やりたい仕事しかやらない、というのでは仕事にならないというか、趣味でやっとれ、という感じだけど、何しろエース君だからへそをまげて明日からこなくなられても困るってんでどうにもならない。ここまで書いて気づいたが、なんとなくオレも若いころはこんなだったような気もする。だからといってその今若い彼に愛着が湧くわけでもなく、必要以上に嫌っているわけでもない。迎合するつもりもないし、教育してやろうとかいうおせっかいもない。じゃあ何をそんなに引っかかっているのかというと、わがままなエース君をちやほやしてる周囲に対してかなあ。やっぱりそれもどうでもいいかもしれない。どれも目的を達成するまでの障害物にしかみえない。それはそうと、園芸でもはじめてみようかとおもっている。さしあたり、きゅうりとかがいいのかな?
2012.08.23
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竹島とか尖閣とか、最近にわかに領土問題が過熱してきていて、ネット上ではほぼ「韓国憎し」と「日本弱腰」という意見が大勢を占めているように見える。日本人の立場としては、ひとんちの敷地の一部を「ここはオレのものだ」と主張してくるやつに対して、いい感情を抱くわけがないし、面倒だからといってくれてやればいいじゃんという気持ちも起こるはずがない。とはいえ個人的には、竹島に領土問題が存在することも、竹島が日本の領土ということも最近まで知らなかったわけだから、本質的にはどちらのものでもよいとも思っている。ただ、韓国の態度は不愉快だから、あげてもいいけど、やっぱりあげない、とかいう意地悪をしたくもなる。ともあれ竹島をめぐる問題に対する意識はその程度である。領土問題といえば、北方領土はもう返還してもらえないんだろうか。ロシアが戦後の混乱に乗じてほとんど火事場泥棒のようにかすめ取ったわけだけれども、そうやって略奪したものを堂々と自分の領土と主張しているのは頭がおかしいんじゃないかとも思う。もっとおかしいのは、例えば土地を買ったとして、買った土地や家に対して固定資産税がかかることである。自分のものなのに持っているだけで税金をとられるとか法律がどうかしているようにも思う。なけなしの金をはたいて買った家ははたして自分の持ち物なのか、国の領土なのかなんなのかよくわからない。
2012.08.17
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13,14,15 と、夏休みをとった。これが15,16,17とかだったら、私の人生暗かった(藤圭子) ということにもなりかねないけど、幸い最も夏休みにふさわしい日程だった。特に予定があったわけではなく、客の休みにあわせたというだけではあるが、世界で一番熱そうなこの夏のピークだったような気もしていて、こんな暑いのに仕事なんかしていられるかとの意見もあり、結果としてこの時期には仕事を休むのが正解だったと納得している。世の中効率化効率化うるさいもんだからかどうかしらないですし、或いは年齢のせいかもしれないですし、効果とか有効とか技ありとかのポイントにならないような無駄な動きはしたくなくなってきましたし、つまりだらだらしているだけの夏休みだったですし、効率化効率化とかとはまったく無関係な時間の使い方をしていたですからね、『「あえてダラダラすること」があなたの毎日に健康と創造力をもたらす 』のような記事を見かけましたし、ああだらだら悪くなしですし、「ですし」を多用してみましたし、スポーツ選手は「ですし」を多用しすぎるわりに、使い方まちがってません?
2012.08.15
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昨日、提案し続けてきたプロジェクトの3回目か4回目かのプレゼンを行い、反応はすこぶるよくて部長クラスはあっさり決断し、いよいよこれまでの努力が成果として実って、オレも客先の担当者も大喜びし、周囲も祝福してくれた。ところが今日、やっぱり細々と今までのようにやらざるを得ない方向に転がるかもしれない、というふうにトーンダウンして、昨日の喜びがあった分、落胆までの高低差が激しく余計に落ち込んだような気持ちになった。プランAはプロジェクトとして人員を投入し、早期に問題を解決するパターン。プランBはプロジェクト分の仕事をオレの労働だけで均し長期化させるパターン。昨日傾いていたのがプランAで、今日になってぶれた挙句に浮上したのがプランBなのはいうまでもなく、プランBは追加のキャッシュフローが発生せず、問題の解決も先送りになり、誰にとってもよいことがない。プロジェクトが解決すべき問題の一つにはコスト負担もあり、負担分を節約したほうがいいというのは全員が共有した認識であったが、一夜明けてみて「今期絶対にやらなければならないシズル感に欠ける」という意見が台頭してきたのだった。オレが業務委託を受けている分も客にとってはコストであり、ずっとそのコストがかかるのであれば枠内でやるべき、という理屈もうなずけるが、コストのことを気にして問題を先送りしていることを棚に上げているだけである。このことは客先の話で、客の担当者も同じ気持ちでいるようだけれども、オレとは身内ではないからストレートには言わないし、オレもいうべきことといわなくてもいいことの区別には慎重になっている。手のひらを返され落胆したとしても、落ち込んだり、ぐちの一つもこぼしたりはできないのだ。自分の会社に対しても、言い訳したりぐちぐち言ったりしない。この案件が実れば(お金の流れを生めば)会社にとってももちろんオレにとっても嬉しい限りだが、実らなかったとしてもただ売上が上がらないというだけで、特に怒られはしない。立場的には技術者であり営業ではないからだ。少なくとも表だっては期待されていないということになる。つまり本件に関してオレは極めて孤独な状況下にあり、身内にも客にも誰にも愚痴をぐちぐち言えないので、ここでこうして書いているというだけである。あー飲みにいきたい!
2012.08.09
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将棋の谷川てんてーは「構想力」の中でこんなことをいっています。「構想力」とは「先を見通し、イメージする力」。構想力に必要なのは4つ。「知識」「正確な状況判断」「先を見通す正確な読み」「時間の管理」「先を見通す正確な読み」はそのまんまテーマとかぶってる。それはおいておくとしても、これを全部満たそうとするのはかなりハードルが高い。とくに「正確な」というところが。私が思う構想力は、「先をイメージして、そのイメージを実現させる意志」というのが近く、正確さは重要ではない感じ。さて、まずは先をイメージすることからですかね。
2012.08.07
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この1週間寝不足気味だったのはオリンピックのせいではなくてゲームのお誘いが続いたためだった。この週がゲームウィークだったのは、クランのチームリーダーいわく「かみさんがこどもたちと親戚の家にいってるから」だったため。昨日金曜はお誘いがなかったから少しでもアドバンテージを得ようとオフラインで練習していて、うっかりそのまま寝そうだったが、熱くて眠れなかった。ゲーミングルームにはエアコンがなく、夏は暑くて冬は寒い。昔はエアコンなんか無かったようなことを思えば堪えられる、とかいう理由を思い描きつつ、それで何年もしのいでいる。季節による気温をある程度体感しておかないと、四季の豊かな日本人であることを忘れてしまいがちだしね。土曜の今日は久しぶりによく寝た。また暑がるため炎天下に外へ出かけようとしたら、雨がぱらついてきたため断念。じゃあゲームを始めようとPS3を立ち上げたらゲームの更新プログラムが走りはじめて始められず、手持ち無沙汰でこれを書き始めた。今まだ43%。最近はゲームのプログラムにバグやバランスの悪さが残っていたとしても更新プログラムでパッチを当てられるからゲーム会社もそうとう楽になったと思われる。5年ぐらい前に当時6万円ぐらいで買った60GBのPS3は今なお動いているけれども、ゲームが盛り上がってくるとファンの勢いが高まり轟音と熱風を撒き散らしている。そろそろ買い替え時かもしれない。そういえばドラクエが発売されたらしいけれども、オンラインのドラクエはちょっとやる気がしない。ぱふぱふじいさんとかに出会うのが愉しみの一つだったのに、普段の調子で挨拶とか会話しなければならないような世界をあえて冒険したいとは思わない。とここまで書いてまだ53%。いったい更新にどれだけ時間かかるんだ。
2012.08.04
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「がんばれニッポン」とかきくとまるでニッポンががんばっているようであり勘違いしそうである。日本が何個メダル獲ったとかいう話題でにぎわっているけれども、メダルを取っているのは個々の個人か団体であって、国家としての日本はメダル獲得に何も貢献していないということは改めていうまでもない。同じ日本人として日本人選手を応援している人たちも、メダル獲得にはなんら関与しておらず、だから獲得できなくても失望する必要はないし、批判する資格はない。最近テレビがうるさい。録画映像の実況とかメダル獲得者へのインタビューばっかり流れていてなんだかおしつけがましい。応援を強要されているようでもある。嫌なら見なきゃいいじゃん、という話でもあるが、自由意志のみで生きているわけではないので見たくなくとも見なければならないこともある。大人とはそういうものである。面白い試合とか好きな種目とか、好みの選手とかだけ応援したらよい。メダルの個数に何の意味もない。
2012.08.02
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昨日は初めてSOCOM4の協力プレイを職場の仲間として盛り上がった。職場の仲間とはいえ客だから接待ゲームともいえるかもしれないし、接待ゲームだからといってわざと負けたり必要以上におべっかを使ったりはしない。今日はゲーム疲れで寝不足気味だけど、会社携帯を機種変更(キャリア変更)してもらい、auの営業と会話したりしていつもよりは変化のある一日だった。残念ながらauの営業は女子ではないけれども、総務に新しく入ったっぽい女子とも話せたし最近ではラッキーデイの部類に入る。最近ぱっとしないのは、外で女性と会話してないからかなとも思う。職場自体は女子率が高いのだけれども、SOCOMフレンドたちは全員男だし、気分が浮つくようなこともないしね。SOCOMリーダーいわく「今週カミさんいないから毎日やるよ!」と全開モードになっている。仕事ではこわもてだが、家じゃ奥さんに頭があがらないのは、どこの家庭も似たりよったりか。スカイプで会話しながらオンラインゲームで遊ぶのは、子供のころに誰かんちに集まってファミコンするのと同じようなノリだね。
2012.08.01
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今日はどの占いも最低ランクだったせいか朝からいいことはなく仕事にも身がはいらなかった。ちなみにやじうま占いは12位で、Yahoo!占いは61点。Yahoo!占いの最低点は51点だから、61点は平均以下。仕事をとりまく状況はぱっとしない感じだし、追い立てられてる感じでもなくなってきて、自分プロジェクトもやり直す必要があることがわかり、今日はだいぶ脱力していた。今は映像を表示したり変換したりするシステム全般の面倒を見ているけれども、自分プロジェクトは新しい圧縮方式でWeb上に流れるパケットをキャプチャーして映像に変換する、という仕掛けを検証しているけれども、1か月ぐらい前に思いついた構想がまるで逆のやり方だったことに昨日気づいた。公的な技術資料を目を皿にして読んでいてそのことがわかったのだけれども、映像を描画するにはプル方式とプッシュ方式とがあって、Web上のパケット(ライブソース)を描画するときに、プル方式を適用すればいろんな応用ができる、と考えてずっと検討してきたんだけれども、うまくゆかないから調べていたら、当該サイトにプッシュじゃなきゃダメと書いてあることに行き着いたのだった。昨今の技術文書はネット上にあることが多く、手段を実現させるのは手軽に探し当てられるけれども、体系だてて構造を説明したりしていないから全体像を把握しにくいし、できることは書いてあってもできないことがわからなかったりする。まずプルかプッシュか紛らわしいし、プルとプッシュでできることできないことを簡潔にまとめておいてほしい。それにしてもパケットを映像に変換するぐらい、どこかで誰かがやっているに違いないが、調べた限りではものすごく面倒な手続きをしなければならないんだけれども、そろそろ心が折れてきてもいいものだろうか。
2012.07.31
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オリンピックが始まって、どのテレビでも中継や結果が流れているから普段興味のないスポーツでも見ることになり、日本人選手が出ていると応援したくなるあたりオレもだいぶにわかナショナリストのはしくれと思う。応援するほうは国対国のまるで戦争のように競技をとらえており、各代表選手が負けたら局所的な作戦が失敗したような失望になり、獲得したメダルの個数は戦果のように捉えられ報じられる。「サバゲー」はオリンピックの正式種目として認められないのだろうか。各国の軍人がチームを組んでBB弾を打ち合いポイントを競う。拠点制圧とか人質奪還とか侵攻対防衛とかの種目があって、種目毎かその合計のポイントでメダルが決まる。テレビ中継は選手(兵士)のヘルメットにカメラを装着したら臨場感が出る。中世の戦争を模した大規模な団体戦も面白いかもしれない。フェンシングのような判定装置付きの甲冑を着た兵士(選手)が東西に分かれてポイントを競う。武将級は馬に乗っていて、戦局がこう着すると一騎打ちがコールされてポイントは5倍になる。駆逐艦同士の砲撃を競い合ってもよいかもしれないし、ミサイル発射解除を目的としたサイバーテロ合戦なんてのもありかもしれない。きっとそうった種目に反対する人とか出てくるんだろうなとか、選手がその国の軍人でかためられたら疑似戦争みたいになって、負けようものなら軍隊の資質を問われることになるのだろうし、とかいうようなことを考えながら見るオリンピックの夏は熱いね。
2012.07.30
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ユニクロでポロシャツを買ってきた。ビジネス用のポロシャツは全部で6枚になった。この夏はこれを着たおして、あるいは来年も着たりして、痛んできたら夏の寝巻きにしたりしようと思う。ユニクロのポロは1枚990円だった。定価は1980円だったが、1ヶ月前は1280になっていて、今やセールとはいえ990円になっていた。池袋東武の9階と10階がユニクロ専用フロアで、都内でも有数の延べ床面積を誇る支店だろう。東武に入っている他のアパレルテナントは20~30%オフの赤札がついているものもあったが、元の定価がポロ1枚8000円もしたら、半額でも割安感はたかが知れていて、そのためユニクロに比べたらその他の高級ブランドはまるではやっていなかった。ちょっと興味のありそうな目つきで商品を見ようものなら、いらっしゃいませーなにかおさがしですかー、のような声がかかり、探していたとしてもひとりでさがすよー、とか、ただのひやかしだよー、とか思ったとしても口には出さず、値札を見るに至ったとしても、やっぱりたかいねユニクロぐらいになんないの、とか思いながら、8階催事場のさらに上の、昔は着物とか絵画の特設フロアだった9階10階のユニクロへ到達した。先月990円だったメタルギアのTシャツは780円。ポロシャツは広告どおり990円。あと1ヶ月も待てばもっと安くなるかもしれないが、あと1ヶ月先にはもうポロシャツは必要ないから今がまさに買い時。今日の占いは世界がオレ中心に廻っているような特別にいい日という判定だったが、今のところポロをゲットした以外にいいことはあまりない。それと今テレビで柔道を見ながらこれを書いているが、エビなんとかという日本の66キログラム級選手は、kosてんてーの若い頃に似ている。若い頃知らないけど!
2012.07.29
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休日の朝は自分プロジェクトを少しでも進めようと、少なくとも昨日の夜はそう思いやる気たっぷりだったが、朝になってみるとオリンピックの開会式で世間は賑やかしくなっていて、夜寝苦しかったのか非常につかれていて、パソコンを立ち上げてパスワードを入力してはみたものの、デスクトップ画面を見たとたん何もやる気がおこらなくなり、パソコンはどっかにおしやって、新聞を広げた。オリンピックの映像を見ているよりは、なにかそれらしいことが書かれている新聞を眺めていたほうが気が紛れるが、情報の内容には興味がない。政治や経済のことが気になるわけではなく、自分自身がどう生きてゆくかが重要であり、世の中のことは自分とはあまり関係がない。ただちゃんとした文脈の文字を目で追って理解したような気になると、起きがけの状態からアタマが人間らしくなってくる。白髪の目だってきたもみ上げを染めてシャワーを浴びたら12時近くになっていて、立ち上げたままのパソコンをちらと見てもやっぱりやる気はおこらなかったからエアコンを効かせた部屋で本でも読むことにした。今はチャンドラーの「長いお別れ」を読んでいる。ずいぶん前(10年以上)に買ったままにしておいたやつをたまたま見つけて初めて読んでみたが意外に面白い。洋モノだし古典(1950年代の作品)だから、勉強的な意味以外で読むことはないと思っていたのだけれども、読んでみるとその印象は間違っていることに気付いた。文体は村上春樹に似ている。たぶん村上春樹がチャンドラーの影響を強く受けているからだと思うけれども、この「長いお別れ」のマーロウとその友人の関係は、「1973年のピンボール」ともよく似ているから、シチュエーションもパクっているのかもしれない。最近になって村上春樹はチャンドラーの翻訳もしていて、インスパイアされた作家へのリスペクトによるオマージュみたいな意味なのかもしれない。とかいうことを考えながら読む楽しみよりも、やっぱり言葉の使い方がなんというか、新聞の無機質やネットのデタラメな文脈と比較するまでもなく、芸術であるなあと思いながら、うとうとしてきて寝て起きたら午後も3時を回っていて、ビールを飲むにはちょっと早く、かといって知的生産活動をする気分でもないから家の前の掃除をして、フタバにでもでかけた。フタバはゲームショップと本屋とレンタルビデオ屋の複合施設であり、ようはツタヤみたいなものだが、マイナーな駅にある施設としてはその規模は大きく、まさにオレのためにあるような店である。前に音楽プレーヤーの中の曲を入れ替えたのは3ヶ月ぐらい前だからそろそろ新しいのを仕入れて一新しようと思い、借りたのはビヨンセ、アリシアキーズ、メイシーグレイ、メアリーJブライジ、ティニーシャケリー。上記とは無関係に、最近のお気に入りはケイシーバタグリア。Kaci Battaglia - Body Shots(日本語字幕付)ステキ。だけど日本語字幕は何をいってるのかさっぱりわからない。
2012.07.28
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昨日は悪酔いしたせいか今日は全然仕事に身が入らない。身が入らなくても体調が悪くても表面上は客の期待を裏切らないのがプロとしての鉄則だから、身が入らないなりに約束はまもりつつもだらだらと仕事をしたり休憩をしたりネットで情報を取得したりした。毎朝携帯に届く今日の占いには「インターネットで情報収集が幸運のカギになります」と書いてあったが、何一つとして幸運に結びつくような情報は得られなかった。そういえばドラクエ10が発売されるらしく、いろんなところでPRの情報がひっかかってくる。1~9までやっているし、10もちょっとはやってみたいと思いつつも、オンライン専用となっており、いまさら知らない人と冒険の旅に出てもそんなに楽しめなさそうだから、youtubeの動画でも見てやった気になろうかなと思う。そういえばMGO(メタルギアオンライン)のサービスが6月に終了した。職場でガンシューティング的なゲームをやってるという話になって、MGO終わるしじゃあ最後にやりましょうか、ということになった。サービス終了日の0時までやって、楽しかったね、しゃんしゃん、となった。もてあました余韻を消化しようと、SOCOMなるオンラインゲームをやってみたもののそれほどまでには盛り上がらず、やっぱりMGO最強との認識はいよいよ高まった。次のMGOは月額課金になる可能性が高いけれども月500円ぐらいなら払ってもいいかも。そういえばドラクエ10は月に1000円もかかるらしいけど、そんな大上段にかまえて本当に客があつまるのだろうか。モンハンもやったことないし、対戦ならともかく、協力プレイが楽しいとは思えない。協力しなければ倒せないほどの敵を一人で倒すところにスキル向上という楽しみがあり、そこがゲームの本質だと思うのだけれども、いつも他力本願のままで楽にゴールドやアイテムを稼ごうとするのは遊びじゃなくてビジネスの発想に近い。ともあれ、ドラクエではまたすれ違いシステムがあるらしいし、9のときのように日本中がドラクエで沸き立ったのの再現になるんだろうか。だいぶすれ違ったなー。なんだっけあの有名なマップ、ひろゆきじゃなくて、ほら、ここまででてるんだけど。。
2012.07.27
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kosてんてーから昔の日記「スタバのシステム」をつきつけられて思ったのは、これって10年近く前じゃん!てことだった。今ナナメ的に読み返してみて概要を述べると、レジが2つありオレはその中央で早いほうに受け付けてもらおうと待っていると、どちらかのレジに後からきたおっさんが並びそのレジが早く進んだからオレはちょっとまてよオレが先だろといってトラブルになった、不愉快だった。ということである。正直、10年経った今も変わっていない。おとといぐらいも、これと同じようなことをやっているような気がする、というのは言い過ぎかもしれないが、これと同じ気持ちは今でも持ち続けている。あまりにも当たり前のことなのでとりたてて発表することもないとは思うようになったかもしれないけど、アタマのおかしいシステムとか、とち狂った正義漢をふりかざすやつとかに対する嫌悪を忘れたわけではない。忘れたわけではないけれども、発表しなれければならないほどのことでもない。こうして発表するテーマや重点が時とともに変わってくると、あの人はちょっと変わった、という印象を持たれるのかもしれない。道ばたにけなげに強く咲いてる一輪の花に焦点をあてるのか、繁華街で出会ったゆきずりの女に焦点をあてるのか、そのどちらかを選んで発表することで客観としての人格は形成されてゆく。実体が観測者の影響を受けて変わるとかいうのは量子力学が何か知らないけれども、発表された一部を切り取られて人格を判定されてたとしても、アアソウデスネぐらいにしか思わなくなってきたあたり、だいぶ素粒子に近づいてきた。
2012.07.26
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週の半分ぐらいは新大久保で仕事していて、仕事でかかわるようになって初めて新大久保に来たけど、なんというか通り一面、韓国である。K-POPや韓国スーパーやオムニ食堂が立ち並び、韓国人や日本人観光客や、そのいずれでもない何人かわからないアジア人も金髪の欧米人も行きかっていたりして、コンビニでもなければここが東京や日本であることが信じられないほどである。朝は半裸のような女たちとすれ違い、昨夜の吐しゃ物をよけながら職場へ向かう。夜は繁華街に集まるおばちゃんやおねいちゃんたちに阻まれて駅までの距離を歩くのに困難するから車道をショートカットしたりして歩かねばならず秩序もなにもない。一度ランチで入った韓国料理屋でラーメンを頼んだら辛(シン)ラーメンがでてきた。インスタント麺をそのままゆでて、玉子とネギをトッピングしただけの原価100円が、580円もして以来、一度も韓国料理屋に入っていない。海賊版DVDやライセンスなしのポスターを売る店先で「ホットック」なるファストフードを求める客が長蛇をなす。ホットドックではななくホットック。どんな食べ物かはよく知らない。
2012.07.26
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「10年後にはきっと、せめて10年でいいからもどってやり直したいと思っているのだろう。 今やり直せよ。未来を。10年後か、20年後か、50年後からもどってきたんだよ今。」ふとみつけた名言集サイトから。http://www.meigensyu.com/quotations/ranking/page1.html出典:2ちゃんねるの就職板 だそうである。投票ランキング1位。しびれるねい。やりなおそっと!あと好きな名言は(何回かゆったかもだけど)、「させてくれ」と女にお願いしているうちは半人前である。 鍛練して「してください」と頼まれるようにならなければいけない。将棋の米長てんてーの言葉である。あなたのすきな名言は?
2012.07.26
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AWSのインスタンスがリージョンをまたがってコピーするのが極めて困難なことを知り、またイチからインスタンスを作り直すようなことを今日はしていた。LinuxOSにapacheやMySQLを入れたりしてサーバーを構築する作業にもだんだん慣れてきたけれども、想像以上につまらないのは、構築してあたりまえというか、環境ができて初めてシステムのスタートラインになるわけで、そこにのっかるアプリがなければシステムとしての価値はない。環境を構築したところで、プラスのポイントになることがないのである。だからつまらない。アプリにしても、そうとう画期的な仕掛けでもなければ、動くのが当然とされていて、クリエイティブなところはあまりない。それでも困難な仕事を瞬時にこなしたりするところは、プラスポイントとして誉められてもいい要素になる。ひきかえサーバ構築は地味である。いかに障害やセキュリティにつよくても、落ちたり侵入されたりしないシステムであることが当たり前だから、苦労して堅牢なクラスタを組んだところでだれも誉めてはくれないし、金銭面も含めその必要性すら理解され難いような特性を持っていたりする。前の職場では完全な分業体制が敷かれている中で、専門性を帯びたそれぞれの役割を果たすことが求められていた。サーバーを構築する「インフラ」と、そこにアプリを乗せようとする「開発」は部署が完全に分かれており、どちらかというとお互いに対立関係にあったように思う。インフラはのきなみ男くさく、たまに女性もみかけたが、女のインフラはなにをしゃべっているのかさっぱりわからない人が多かった。女性の脳はインフラを説明するようにはできていないのかもしれない。これは女性蔑視というわけではなく特性を述べている。その点開発チームは女性も多くインフラに比べると華やかなところがあり、言語障害のような男の開発者が多い中で、女性はシステムの挙動を擬人化したり、専門用語をかみ砕いたりすることに威力を発揮し、主にシステムを使う側とのコニニケーションに長けていたような印象がある。今は完全な分業を敷くほど裕福な職場ではないから、開発もインフラも両方やらなければならないし、それを人に説明するような性質の仕事ものっかってくる。開発に没頭する仕事は、グランブルーのように素潜りで深く潜っているようなイメージで、一旦入り込むとしばらく言語障害のようになる。インフラは全体を見渡し完全性を求められ男性的で、それらを説明したり資料化したりするのは女性的ということで、本来は一人がくるくるといろんな役割をするのは非効率的なような気もする。とは思いながらも、合議制で意思決定が異常に遅いあの完全分業の世界にはもう絶対に戻りたくないという思いもある。一人ひとりが非効率なのはトレーニングによって効率的になってくるけれども、組織の仕組みとして非効率なのはもう救いようがない。このごろよく報じられている東電の経営体質の問題は、それを問題とも思わないところに病理はあり、JRやら郵便やら銀行やら銀行やらなんかも同様で、という話は長くなるからやめておくとして、そろそろ帰る。
2012.07.25
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「ググる」という言葉があまり好きではなく、ググるのはあくまでも最終手段としており、ググってしまったらなにかに負けたような気持ちになっていたようなときがあったが、そうもいってられなくなり、今では日に100回はググっているかというほどにググなしでは生きられない身体に変わった。例えばこういう構成のシステムを組みたいけど、実現可能かその手段があるかわからないときの定跡は「ググる」だが、それはあくまでも世に氾濫している情報を取得しているに過ぎず、つまり使い倒されて枯れた情報という一方の側面はあるが、ベンダーがもっとも速く情報を公開する場所として活用している場合も一方にあったりする。いずれにしても情報は断片的であり、部品としての情報を紡ぎ合わせて使えるようにするのはググる側の我々だ。情報の送り手は一様にしめしあわせて、断片だけのせておくから、組み立てるのは自分でやってね、というルールのもと公開しているものとも思えなくもない。はじめから完成された形の情報がぽんところがっているようなことはまずありえない。サンプルのソースコードとか、手順を一部を記したものとかをかき集めながら目的を達成するのは一苦労だから、完成されたシステムのサンプルとか、流すだけでいいスクリプトなんかがごろごろ転がっていることを期待して探したとしてもたいがい徒労に終わる。メシの種になりそうな情報も載っていない。ビジネス指南のサイトでは、スキルをどう伸ばすかとか、スキルよりも変化に対応することの重要性を説いたりする方法は書いてあっても、どの商品をどこから仕入れてどこにどれだけ売ったら儲かるかとかいうようなことは書かれていない。ググって出てくる情報には価値がない、とはいわない。ボランティアなのか自己顕示欲なのか、あるいはベンダーの意向を受けたプロジェクトなのかどうか知らないけれども、枯れた技術に関しては、うまくまとめられた技術文書がごろごろ出てきて、ほとんど専門の技術書なんかいらないくらいの網羅性と応用性と多様性とを検索結果はもっている。個人のブログを技術公開サイトのようにしているのはあれは仕事でやっているのだとしたら有意義だと思うし、単なる趣味だとしたらその公益に奉仕する姿勢は聖人君子のようである。いつかひとつのテーマに沿ったブログ運営をライフワークのようにしてゆけたらいいとも思う反面、まだ一つのテーマに決めたくはないという思いもある。一つのテーマに特化して深く掘り下げて極めるのか、広く浅く構えておいてどんな変化にも対応できるようにしておくか、ということについては、ほぼほぼ答えはでているんだろうけれども、深い人になるという変化にも対応しなければならないしね。
2012.07.24
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今日は一言も誰とも話してないような気がする。気がするというだけで実際は「パスワード借用していっすか」「鍵借ります」のような事務的な会話はしている。それぐらいはしても、誰とも話してない感につつまれている感は否めず、そう思うたびになんとなくオレって孤独かも?と思ったりしてハードボイルドだどう?(ワイルドだろう?のふしで)。コニニケーション重視になると技術がおろそかになり、技術に没頭するとコニニケーションの仕方を忘れる。バランスよくしたらいいと思うが、その場のノリで仕事を引き受けたりして、お金がでないなんてことになったら全部自分がやらなきゃいけない羽目になるから駆け引きは慎重にせざるをえない。このあたり根が技術者で、いいかえれば百姓の小作人どまりな風情であり、つまり一生羽振りがよくはならないことを暗に運命づけられているような立場なのかもしれない。慎重や堅実さはあるものの、勢いや強さみたいなものには欠ける特性を持っているのではないかと分析している。あくまでも立場の話であって、おのれの人格が慎重で堅実だとはいっていないのであしからず。一日を丸々無口で過ごすのと因果関係があるのかないのか知らないが、よく「仕事中は不機嫌そう」というようなことを言われる。酒を飲んでいるときの会話として、上機嫌な今と比べて仕事中は不機嫌そうだ、というような文脈である。難しい顔をして酒を飲んでもつまらないし、本当に気分がいいからそりゃ口角も上がる。ひきかえ仕事中はのきなみ考えごとをしながらパソコンの画面に向かっており、笑いながら考え事をできるほど器用でもないし、キーボードをタイプするときの指圧は高く、自分でいうのもなんだが速度は非常に速いため、カリカリイライラしている印象をまき散らしていて、だから周囲は必要以外のことをはなしかけづらいとかなのかもしれない。ただあまりなれなれしく必要以外の話を仕事中にされても本質的には楽しめないから、話しかけられないぐらいがちょうどいいともいえる。「えーもっとこわいひとかとおもってたー」とかいう会話を宴会で女子と交わす楽しみもあるしね。とはいえ、どちらかというと軽微なストレスは不機嫌さで抵抗するよりも神経回路を一部遮断することで回避するような構造になっているらしく、つまりは今日も明日も療養としての酒を飲むわけである。
2012.07.23
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iPhoneを買ってみてから半年になるが、まだ一度も通話したことはない。試しにメールは出してみたことはあるけれども、普通の携帯も解約しておらず、会社の携帯もあるので、わざわざiPhoneでメールしなければならないようなことにはならない。本質的にはスマホとかiPhoneは必要なかったのだけれども、必要以上に毛嫌いもしておらず、街行く人がパネルに指をスライドさせているのを眺めて、オレもあの動きをさせたくなってみたという軽い気持ちで購入に踏み切った。踏み切ったのはいいものの、アプリとやらは大して面白くもないし、メールが画期的に打ちやすくなったということもなく、ブラウザ用と、あとは主にゲーム機としてしか使っていない。しかしながら、iPhoneを使っていなければ知り得なかったツールの存在を知ることになったりとか、世の中はこれほど進化していたのかというような文化を知ることになったりとか、収穫はなかったわけではない。iPhoneで覚えたツールで便利なのは、EverNoteとDropBoxである。なにをいまさら、と思われるかもしれないが、たかだか1年ぐらい前までは、たった20GBのファイルサーバー領域を100ぐらいでシェアしようという職場にいたし、その職場はインターネットを見ることすらゆるされていないようなところだった。そこでよくシステムの仕事をしていたと思うけれども、本質的には9割方、システムとは無関係のことをして時間を浪費していただけと、今になってあらためて思うのである。その件はあとで気が向いたら書くことにして、ともあれEverNoteとDropBox。EverNoteは、iPhoneの便利ツールとして知るところとなったが、iPhoneでこれを一度も使ったことなく、もっぱらパソコンで使っている。会社と自宅と客先と、複数箇所にパソコンがある場合、手順やコマンドや備忘録を記したメモの管理も煩雑になりがちだが、EverNoteというメモ帳に記しておけば、いつでもどこでも同じメモが見られるのである。ちょっと前にこれをやろうとすると、どこかにサーバーをたてたり、そこにアクセスするためのツールを使ったりして、一筋縄ではいかなかった。そういった準備が結局面倒になり、メモは紙でとか、記憶に頼ったりとか、同じところを何度もググったりとか、もうぐったりであった。DropBoxは、共有のファイル置き場ツールで、メモ帳より大きな資料たとえばパワポとかPDFとかエクセルとか、ときにはシステムを丸ごとおいてその受け渡しに使ってみたりとかいうようなことができる。なんと2GBまでなら無料である。USBメモリを使うことが禁止されているような企業は多く、スティックを取り出したり指したりするときにはなんとなくどきどきするけれども、DropBoxならフォルダにファイルを置くだけで、遠隔地のPCから取り出せるようになる。ときには2台のPCをならべて、DropBox経由でファイルのコピーをしたりもできる。こういった便利なサービスが世にあふれていたということは、iPhoneを使ってみるまで知らなかった。しかも無料で提供されているということは、2GB程度のクラウドストレージ領域は、無料の価値しかないということでもある。システムをサービスの材料としているわれわれは、これらに勝る売り物を考えないと、食い扶持がなくなるということでもある。ちょっとクリティカルな問題として、真剣に取り組む必要があるかもしれない。と今頃言っていても遅いのかもしれないけれども。
2012.07.22
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今リビングにあるkのテレビを買ってから10年経ったかどうか覚えていないけど、買ったときの金額は20万だったから、10年も経ってくれていないと困る。ブラウン管のテレビが突然ばちんと音をたてて壊れたときに、液晶テレビがそれでも安くなったからといって買ったものの、翌年あたりから値下げの勢いが加速し出し、5万以下とかで買えるようになる今に至る間に、20万の家の液晶テレビも老朽化してきているのだろうが、悔しいから壊れるまで買い換えたりしない。その記憶の定かではない10年の間にテレビを取り巻く環境は変わった。ビデオテープレコーダーがHDDレコーダーに代わり、やがてブルーレイになった。ケーブルチューナーはアナログからデジタルになり、ステレオはCDとカセットプレーヤーがなくなり、アンプとレコードプレーヤーだけになった。テレビやスピーカーにパソコンやモバイルを繋げる必要がでてきて、これにゲーム機と扇風機を加えたら、テレビの裏の配線は大混乱だ。全ての機材と配線をとっぱらって再構築したいと思ったのは、仕事が影響しているのかもしれない。オレは今どういうわけか「インフラ」チームの中にいて、パソコンやサーバーを配置したり、電源やネットワークの線を繋いだり、その負荷や障害やセキュリティ対策を考えたりする人が間近にいるようなところで、インフラ以外のことをする人として仕事をしている。つまりオレ自身は、インフラとは無関係なのだけれども、周り全員インフラな環境なのである。オレ以外のインフラたちは必ず男である。インフラを職業としている女子には出会ったことはなく、ここでもまさにそうだった。そして彼らは一様にガンダムかミリタリーが好きなのである。まあその話をすると長くなるのでいつか述べるものとしておくとして、テレビの後ろのごにょごにょした配線をどうにかする作戦、名づけて「大作戦」を本日1300(ヒトサンマルマル)時、展開セリ。テレビやオーディオにパソコンを繋いだりしてみた成果として、以下のようなコンテンツを作ってみた。Rihanna特集 (youtube)
2012.07.21
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マイクロソフトのWindows AzureとAmazonのAWSの両方のクラウドサービスを使ってみた感想としては、AWSのほうがよい。開発・運用する側の立場としてである。ユーザから見た場合は、のっかっているシステムが期待通りの働きをしてくれて、支払っている金額分のサービスが受けられればいいだけだからどちらがいいとかいう議論は成り立たない。比較観点は開発側からしかありえないわけだが、取り回しのいいAWSに人気が集中するのは当然といえるかもしれない。アプリケーションをパッケージ化してインスタンスに放り込むWebロールは「CLOUD SERVICES」に名前を変え、より一般的な位置づけのサービスになったが、新しいポータルサイトのアイコンの並び順は、「VIRTUAL MACHENES」に最上位の座を明け渡してしまった。システム側からしてみたら、手の届かないところで勝手にアプリが動いている状態よりも、仮想マシンを立てて、ナントカをインストールして、その上にアプリを置いて、というような使い方のほうがしっくりくるのかもしれない。個人的なことをいえば、「VIRTUAL MACHENES」が世に出る前(2012/06/07以前)のWebロールに取り組んでいたため、いまさらIaaSに戻りたくないという抵抗感はあったが、VMも使ってみればWebロールより数百倍も簡単で、SaaSの利点を差し引いても、その優位性を見いだせずにいる。そもそもマイクロソフトのパートナー企業との繋がりがなければAzureという選択肢も生まれなかったところに営業の売り込みもあって採用するに至り、もうかれこれ3か月も評価しているけれどもその中で大規模なバージョンアップがあったりして、イチから設計をし直さなければならない危機に直面したり回避のために時間を費やしたりして、大分ふりまわされていることも、AWSに傾く一因であるともいえるかもしれない。いずれにしても時間が経過し、Azureもこなれて枯れてくれば世に浸透してゆくのだろうし、AzureかAWSかというような戦いは繰り広げられてゆくのだろうけれども、サーバーを買ってデータセンターに置いて、というような道はほぼほぼ無くなってゆくものとは思われる。ルーターやNICといった言葉も、機材を指すものとしてではなくファイアウォールのような、概念としての使われ方になってゆくに違いない。ネットワーク技術の概念は、何一つ理解していないわけだけど。
2012.07.20
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今日はリフレッシュ休暇である。特に予定もない。予定を立ててどこかに出かけたりすることがどちらかというと億劫な側の人種なのでいつも予定は立てない。予定を立てたりして時間や社会に拘束されるのは、本質的な自由時間の使い方とは思わない側の人間でもあるので、休日の予定がないことについて特に恥ずかしいとも思わない。休日になにも予定がなくて嫌な思いをするのはこの世の中では子どもだけだ。ボクは大人なので休日にはなにも予定がないほうがいい。本を読んだりゲームをしたり、時には仕事をしたりするが、今最もやりたいことを休日にする。これが大人の休日の過ごし方に違いない。暑い日が続いている。暑い日に飲むビールは格別だが、暑いからといって一日中クーラーにあたっていては、格別なはずのビールの旨味も半減してしまう。暑い日には暑がってこそ、暑い日のビールの恩恵を受けられるものだと信じて疑わないので、休日の今日は意味もなく散歩に出かけた。散歩といえば老人の趣味のようだけれども、夏の暑い日にわざわざ日にあたりにゆくのだから、日光浴みたいなものである。海へ出かけて陽にあたるのも、近所を徘徊して陽にあたるのも、目的としては同じようなことだと思う。そういえば先週末、川へ見に行ってきた。荒川である。夏だから海へ行こう、とするのは夏に涼を求める欲求からの行動だろうけれども、まっさきに海を思い浮かべるのは若さゆえの短絡的な考えにすぎない。つまり海とは子どもがいきたがるところであり、その証拠にちっとも涼しくない。オートバイの後ろで太ももや太ももや肩などをさらけだし、「やーんこんなにやけちゃった」とかいって赤くなった皮膚を誇示する女子はその若さゆえの価値はあるものの、つまりは子どもっぽさが抜け切れていない。日焼け止めを塗りたくって海へ行こうとするちょっと背伸びした女子も意味がわからない。日焼けしたくなければ海へ行かないのが一番だということを知ってか知らずかのアンバランスさが、これがまたいいところなのかもしれないけれども。夏に海に行くよりは、山のほうが涼しかろう。ということではあるが、確かに山に登ったほうが涼しいけれども、山に登るよりは家でクーラーにあたっていたほうが涼しいには決まっているから、涼をもとめるための選択肢にはこれも入らない。夏にどこかへでかけるのは、暑がりに行くためである。だから川へいってきた。荒川である。
2012.07.19
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これから先3年のIT業界の重点はなんでも「クラウド」と「ソーシャル」なんだそうだ。クラウドは確かに便利だと思う。エバーノートやドロップボックスといった個人向けツールたちはかかせない感じだし、AmazonやAzureによる仮想化ソリューションは想像以上によくできてる。一方、ソーシャルってなんだ。フェイスブックをやってみたけど子供っぽいやりとりばっかりでつまらなかった。ちょっと前にmixiとかやってみたことがあったけど、あれとほとんどかわらないというか、お行儀よくて閉鎖的で虚飾に満ちていてとにかくうさんくさい、というような印象。お行儀よくしましょうよ、という流れに嘘でも乗れないオレは、ビジネスチャンスを獲得する資格はないってことだろうか。ビジネスチャンスてなんだ。さておき、ちょっと思うことがあり、これからしばらく毎日日記を書き続けることを心がけようと思う。心がけるというだけであり、書き続けることを宣言したわけではないから万が一書き続けられなくてもペナルティーは生じないが、書き続けようという意思を表明した以上、そうなったときには少なからず負い目ぐらいは生じるはずである。このところインプットすることばっかりで、ひとつもアウトプットとして形になったものはなかった。阿久悠は毎日日記を書いていたそうである。ソーシャルとは無関係に、思ったことをただ垂れ流す(ストリーミング)作文をちょっとやってみようと思うのである。
2012.07.18
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忙しいときには、忙しいのを収めるためにフル回転しているのだけれども、いざ忙しいのが収まってみると、フル回転は急には止まらないから、フル回転のまま後片付けをさっさと済ましてしまい、ほとんどやることがなくなったときには、ああこれで一息つける、とは思わず、まだ回転は収まっていないから、もうやることなくなっちゃったんだっけ?のような気持ちになって、勢いにまかせて新しいことをはじめたりするのだけれども、だんだん回転は収まってきて、するとその勢いにまかせて始めたことが重荷になってきて、これを空回りと呼ぶかもなわけだけれども、自分の速度と周りの速度とのバランスがうまくとれないようなことになってくる。ボクはこの速度で歩きたいのに、周りが遅くて思うように歩けない、つてターミナル駅とかでよくいらいらするのと同じで、周りについてゆけないとか、周りがついてこないとかいうのはストレスになるから、遅くてもいけいないし速過ぎてもいけないし、速度のコントロールは非常に重要だけど、否応なしにフル回転を求められて、つっぱしってみたはいいものの、つっきっちゃって誰もついてこれなくなった、なんてのはよくある話で、結果として孤立して、孤独とかいう新しいストレスを抱えてしまうことになったりして。忙しいのが例えば2ヶ月続いて、1ヶ月は死んだようになるとかそういうんじゃなくて、いつもフル回転でいたらいつのまにかそれが通常になっていて、そしたらまた伸びしろが増えてきてとか、そういうのがいいね。
2012.06.02
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「忙しい」とはりっしんべんになくすと書くからつまり心を亡くすことである。とはどこかの教育放送で聞いた言葉で、前にも引用して何か書いた記憶がある。いくら忙しくても心を亡くすようなことはないつもりだけれども、知らず知らず何かが失われていっているのかもしれない。仕事に関していえば、忙しいという状況になっている時点で負けている。仕事がたくさんあって充実しているのではなくただ単に忙しいだけというのは、自分がうまく振舞えないことが大概の原因である。だからおのれの忙しいことをまるで武勇伝か英雄譚のように自慢げに語るのは恥ずかしいからやめておくとして、ここ最近日記を書いたりしていないのは、忙しいということが原因ではなく、ただ単に優先順位の問題だ。そういえば戦国無双のような絵葉書に一言だけ「親方になった」とだけ書いてよこしてくれた奴は、相変わらず充実しているんだろうか。
2012.05.17
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年があけたがおめでとうはいわない。なぜなら昨年親戚筋に不幸が相次ぎ喪中ということになっているだから。年賀状も今年はお休みにしたのだけれども、喪中はがきを出すのも野暮だしと何もせずにいたら、届く人からは例年通りの楽しい年賀状がとどいたりして一方的に楽しんだりして申し訳なく思ったので、この場を借りて(自分のだけど)斯様な申し開きをするとともに、皆様にとって今年一年楽しくあるように祈り申し上げます。さて去年は10月から職場が変わって、環境も仕事も新しくなって、特に11月半ばからは休む暇なく働いた。試用期間で有給休暇がないからというだけではなく土日も働いたし、大晦日は紅白が始まる直前までがんばった。3が日は休もうと決めたがブックオフの新春セールで買ってきたのは技術書だった。失われたものを取り戻そうと必死そうだけれども、それほど切羽詰まった感じでもなく楽しくやっていられるのは、オレもそうとう図々しくなってきているからかもしれない。ここで一句、「ざいほうを くるまにつみて ゆくべしとなり」今日ひいたおみくじに書かれていたのの引用である。卦は「吉」と出たけど、大吉の次ぐらいにいいかもしれない勢い。財布に入れておくものとする。あなたのおみくじには、どんなことが書かれていましたか?
2012.01.03
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転職して2ヶ月と少し経ったが、どういうわけか目が廻るほど忙しくなっている。いそがしいという字はりっしんべんにぼうと書き、心を亡くすという意味であるから忙しくなってはならない、と努めようとしてきたがそれは間違いだった。忙しいと思わなければよく、つまり充実しているというように考え方を変えればよいのだ。実はこれまで、そんなに忙しいという状況になったことがなかった。世の中はこんなに楽なもんなのかと思いもしたが、次第に楽をすることに身体が慣れていってしまっていた。なにがそんなに忙しいかというと、まずはスピードが違う。「ざっくりでいいから今日中に調べて見積もっといて」とか、「じゃあ今日の夜打ち合わせして明日レビューしよう」とか、いつその資料を書くのかわからない。したがって宿題のように仕事を持ち帰らざるを得ず、ほとんど土日も仕事漬けである。量も違う。ふたを開けてみたら2万行ものプログラムコード持つシステムを2週間で完全にマスターしろとか泣ける美談だね。あと忙しい要素として、今まで体験したことのない技術に取り組んでいるから、ということもある。今まで、サーバー系OSでデータベースをうにょうにょして、とかやってたのが、Webカメラの映像をリアルタイムで携帯端末でもにょもにょ、というようなことをするようになった。畑違いも甚だしい。あと同時進行で「冗長化」という仕事もきている。「冗長化」ってなんだ?なんでも機材を2台づつ用意して万一の故障に備えるということらしい。えええオレインフラ知らないんですケド。ストレージなにそれ、て感じなんですケド。畑違いも甚だしい。あとは、二つ同時に新しい会社に入ったようなものであることも要因のひとつだ。とあるシステム開発会社に入社し、その一員として客先とを行き来しているが、客の用件を持ち帰ると社内でごにょごにょいわれ、修正して自社の総意として客に伝えると、望んでいたものと違うと言われる。あまねくすべての好みをひろわないと不和が生じたりするし、いちいちきいていると時間がいくらあっても足りない、ということになる。サラリーマンとはこういうことだったのか。目前に現れる全てのものが真新しくて、まるで新人くんのような気持ちになっているが、一定の年齢と経験を積み重ねてきている以上「その道のプロ」として扱われる。よって現場や自社では、泣き言のひとつもいえず、こうして一人で書いているわけである。「ああそれなら2~3日でできますよ」といったのは、前任者なら1日でやってしまうと思われるところを、引継ぎ者のビハインドとして幾分盛った返答ではあったが、やっぱりふたを開けてみると、異なるプロダクトから情報を参照していたり、変な名前のメールサーバーから自動メールを送っていたりして、一筋縄ではいかないことがわかったりしてだいぶ涙目。割とカツカツになってはいるけれども、客観的に見るとこういう状況はありがちだし、これまで退屈すぎたし、涙目ながら、いままさに充実してる!というだけいっておきたい。。
2011.12.10
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結論からいうと、禁煙は終了した。新しい仕事が忙しくなってきて、集中が切れたときや疲れを感じたときに、もうひとふんばりしなきゃいけなくなってタバコが欲しくなり、がまんすることと、このまま集中を切れたままにしておくこととを較べて、吸うことを選んだ。身体からニコチンが抜けたら吸いたくなくなるというけど、吸いたくなったのだから仕方がない。1ヶ月ぐらい続いたわけだし、初の大がかりな禁煙体験は一定の成果をおさめたともいえるが、結果としてタバコを吸わない人にはなれないようだったから、ここはまあ負けを認めようと思う。実は禁煙の前に「禁煙セラピー」という本を読んでいた。読むだけでやめられる、と書かれていたから、ほんとかよとおもいつつ読んでみたら、なんとなく禁煙しようという気になったし、1ヶ月も続けられたのはこの本のおかげであるという気もしなくない。「禁煙セラピー」の大意はこうである。「タバコは麻薬であるから、喫煙にはなんのメリットもない。リラックス効果や、集中を高める効果があるというが、リラックスと集中とは相反していて理屈としておかしい。錯覚に惑わされているだけである。だからやめたほうがよい。」というようなことを、本1冊分語りながら洗脳してゆく、という手法である。オレの場合、洗脳にはまったのかどうか知らないけれども、上の言葉を鵜呑みにしたから禁煙をしようと思ったわけではない。この本の何に影響されたかというと、たぶん禁煙のための「計画」に関する記述である。「この本を読み終えるころにはタバコを吸いたくはなくなっている。5日程度で肉体的な苦痛はなくなって、3週間で精神的な苦痛がなくなる。しかしながら1本でも吸ったひには、たちまちその効果は消えてなくなるであろう。」3週間は禁煙してみようと思ったのは上のことを信用したからに他ならない。結果として禁煙をやめたわけだから「禁煙セラピー」の効果も程度が知れているともいえるし、1ヶ月は続いたのだからそれなりの効果はあったかもしれないともいえる。今となってはどちらでもいいことではある。時を同じくしてオレはコンピュータアレルギーを発症したということは前に記録したが、症状としては手の湿疹つまり「手湿疹」という病名で、これは洗剤等を使った水仕事が原因でおもに主婦がなりやすい病気であることであった。そしてホルモンバランスの変化が症状に影響しやすいということもどこかに書いてあった。この手湿疹の原因がわかったかもしれないのである。あまりにも手湿疹の症状がひどいときに皮膚科がある病院を検索して診療を受けに行こうと思ったことがあって、クリニックを検索した。とある病院の診察種類に「皮膚科/アレルギー科」などと書いてあり、よろしくないところをいっぺんに診察してもらおうかとも思い他にどんなのを見てくれるのかとながめていたら、「禁煙外来」という項目も並んでいた。その診療方法について読んでみると、「男性ホルモン剤の投与」ということが書かれていた。つまり禁煙では男性ホルモンが失われるから投与が必要で、裏を返せば喫煙で男性ホルモンが高まる、ということである。そして男性ホルモンの主だった成分の一つに「ステロイド」がある。皮膚の形成に役立つあのステロイド剤の「ステロイド」である。つながった。禁煙によって男性ホルモンの生成が低下し、ステロイドの働きが弱まると同時に皮膚も弱くなり、手湿疹という形で発病した。弱まった皮膚は電気信号のようなストレスに対してアレルギー反応を示しぴりぴり感を生じさせた。この1週間ぐらい、喫煙を再開しているが、どういうわけか手湿疹はおさまりつつある。これこそ喫煙によって男性ホルモンが増え、ステロイドを生成する体内の機能が高まっている証拠ではないだろうか、いやそうに違いない。喫煙の健康被害ばかり取りざたされ、まるで悪者のように扱われるようになったタバコではあるが、男性ホルモンを増加させる効果があるなら、男性ホルモンが少ないことで発症する病気の治療に役立つというメリットがあるといえるのではないだろうか。そういえば最近、やたらと疲れを感じたり、テンションが上がらないと思うようなことがあったりしたが、それも禁煙の弊害だったのかもしれない。というようなことを考えていくと、やっぱり禁煙をやめたのは正解であったという結論で間違いはない。
2011.10.23
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コンピューターアレルギーが発症した。コンピュータアレルギーというと、パソコンとかの使い方に疎かったり操作など苦手だったりして、見るのも触るのも嫌というような、批判的精神や、反対の意思表示を指す言葉いう印象が強いけれども、オレのはそうではなく(いやあるいは潜在的な仕事嫌いから無意識に生じているものかもしれないけど)、パソコンのマウスやキーボードに触ると、主に手とか身体のどこかががかゆくなるというような、肉体的なアレルギー反応の症状が出ているのである。携帯電話や携帯ゲーム機など、なにか電気が通っているものであれば、のきなみ同じような症状が現れる。感覚としてはちょっと「ぴりぴり」する。電気が通ってなにかしびれるような感じである。それが続くと痒くなる。ちょっとしびれている感覚を、たぶん身体が勝手にかゆいと判断して「かゆい」と脳に信号を送る。ときには部分的に赤くなったりして、身体が勝手にかゆみに対抗する。オレは金属アレルギーでもあるが、ひどいときには金属を触っただけで「ぴりぴり」なることがある。このときの「ぴりぴり」はたぶんアレルギーを知らせるための警告のようなものであり、厳密にいうとコンピューター機器を触ったときの「ぴりぴり」とは性質が違うような気もする。しかし結果として、脳に「かゆみ」として送られた信号を身体が処理するという働きになる点において両者の症状は一致しているともいえる。1か月とか2か月前とか、ごく最近発症した。両手の手のひらの中央がなんだか荒れてきて、非ステロイド系の抗炎症剤を塗ってもなかなか治らず、というような状態でいたときにふと、パソコンを使う手が、かゆみをともなうしびれにおそわれた。この症状自体は、2年だか3年ぐらい前に一度経験したことがあり、それは手全体が、やはりアレルギーでかぶれたようになったときに現れたもので、ステロイド剤を塗って完治させた後には、ぴたりと止んだ。ちなみにそのときの発症の原因は、PSPのやりすぎであった。今回も同じようにステロイド剤を使うことを考えた。前回処方されたステロイド剤がわずかながら残っており、その使用期限が2011.11 であったのは幸いであった。薬を塗って2日程度経過したら荒れは収まった。さすが劇薬ステロイドである。ちなみにステロイド剤を多用するのはよろしくない。ステロイド成分は体内でも生成されるが、ステロイド剤に頼り続けると体内で生成される量が減ってゆくそうなのである。手のひらの荒れは治まったが、コンピュータをさわって起こる「ぴりぴり」感は治まってはくれなかった。PSPとかゲームはやらなければやらなくても済むといえば済むけれども、パソコンや携帯はそういうわけにもいかない。特にパソコンは仕事では欠かせない。このぴりぴりが長引くと、また手のどこかが荒れてくる。湿疹が出て、やがてやぶけて透明な汁が出て、その汁はおそらく細菌を含んでおり、手のあちこちに「飛び火」しては湿疹や水疱を拡大させる。湿疹が発生するや否や、大げさではあっても、絆創膏を貼って飛び火を未然に防がなければならない。さて「コンピューターアレルギー」というアレルギーが一般的なのか、ネットで調べてみた。調べてみたものの、このようなアレルギーはあまり浸透していないらしく、有用な情報は取り出せなかった。ただし、パソコンなどの電子機器が、アトピー性皮膚炎に作用するストレスの一因であるという一部の医者先生の見解が載っているサイトを見つけた。それによれば、かゆみの原因になっているのは細菌であり、細菌を殺すにはやっぱり抗生物質しかなく、そのためには病院へ行って処方箋をもらってこなければならない、という結論に達した。ステロイド剤だけを塗っても、細菌までは殺してくれなかったようである。確かに前回も、飲み薬を一緒に処方してもらったような気もする。おそろしいことにそのサイトには、脂肪肝がアトピーに影響するということも書いてあった。小児を対象とした話ではあったが、脂肪肝→アトピー性皮膚炎という図式かと思うと心当たりがなくもないからぞっとする。知らなかったことにしておこう。コンピュータを触るとぴりぴりくるというのは、これはいわゆる、電磁波アレルギーともいえなくもない。電磁波アレルギーがただの迷信であるとか、電磁波アレルギーと電磁波との間に関連がないことを証明した実験結果があるとか言われているけれども、少なくともコンピューターアレルギー体質なのはここに少なくとも一人はいて、機械からはなんらかの電磁波がきっと発せられているのだろうから、電磁波アレルギーは存在するとしてもよいだろう。というようなことをwikiで調べつつ結論づけようと思っていたら、チョコレートアレルギーなるアレルギーが存在するらしいこともわかった。チョコレートにはニッケルという金属アレルギーの原因物質が含まれているらしい。そういえば最近、チョコレートをよく食う。それは禁煙したことが少なからず影響しているが、そんなアレルギーがあるとは知らなかった。はたしてこれもコンピューターアレルギーの一因なのだろうか。無添加の石鹸は、いうなれば気休めである。無添加以外のものを体につけないというわけにはいかないから、せめて出来る範囲で気を使ってみたり、誰かに気を使ってもらったりしたいだけであり、使ってもらうぶんには大歓迎なのである。
2011.10.06
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禁煙を始めて3週間と1日経った。もちろんというか奇跡的というべきか、3週間の間にタバコは1本も吸っていない。2~3週間で体内におけるニコチンの99%は抜けるというから、3週間は続けてみようと思ってからその3週間目が到来したわけだが、実際にニコチンが抜けたかはともかくとして、タバコを吸わずにはいられないような感覚はなくなっているから、離脱には成功したと思われる。3週間はどんなことがあっても禁煙するかわりに、3週間経って吸いたい気持ちが残っていたら遠慮なく吸おうと決めていたし、もともとは永久に禁煙しようとはそもそも思っていなかったこともあり、3週間後の今頃は久しぶりのタバコに火をつけて恍惚となっている予定だった。しかしどういうわけか、このままタバコを吸わない人になってもいいような気持ちになっている。たばこ税の増税の話が持ち上がっているのがこの禁煙にいたる起因の一つというか、たった一つの根拠であるといってもいいが、ほとんど無抵抗のまま反対の意思も表明できず、税金を搾り取られ続けることにいい加減耐えられない。てゆーか健康に悪いからとか社会悪だから増税してもいいとかいう理屈に納得がいかない、そんなに悪者扱いするなら法律で禁止すればいいだけのことである!というようなことを熱く語りたかったわけではなく、禁煙を始めてから3週間目という節目が到来し、一定の成功を収めたものとしてここに実績を発表し、記録しておくものとするのである。節目といえば、タバコとは無関係に、昨日今日あたりはオレの人生の一つの「節目」に違いない。十余年働いた会社を辞めることにして、現場を引き上げてきた。世話になったお客さんのうちの何人かと挨拶を交わしてからまとめた荷物は、カバンの中におさまるぐらいの量だった。てみやげとしてもらったせんべいの紙袋のほうがかさばるぐらいだった。誰にも挨拶することなく、来週また来そうな感じで去ってきた。感慨も寂寥も特になかったから、特段書くこともなにもないのだけれども、俯瞰してみたりすると、やっぱり一つの節目っぽいからここに記録する。この十余年の印象としては、なんとなくだらしのない職場にいて、しまりのない仕事をして、目的もなくグダグダな日々を過ごしてきたな、ということぐらいである。その最期を飾るこのプロジェクトは、いろんな意味でグダグダのまま終わった。ある意味このだらしのなかった十余年を象徴しているような仕事あり、人間関係であった。グダグダの集大成と総決算だったといってもいいかもしれない。そこからようやく抜けられたんのである。環境が変わる不安と、新しい希望への期待が同時に訪れている。「節目」とはそういうものだとも思う。次の新しい仕事がどんなだか全くわからないから、グダグダじゃないとはいいきれないけれども、少なくともわからないぶん、期待できる余地はあるんじゃないだろうか。と思いたい。。追伸:バリの友人から絵葉書が届いた。自慢話だけじゃなく、無添加の石鹸とかそういうものを送ってくれたりしてもよいと思う。
2011.09.30
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さても禁煙中である。なにしろ1週間続いているから、高らかに「禁煙中」であるといいっていい身分であろう。完全にやめるつもりはなかった。でも1日だけ止められたら一生やめられるような気がして、その一日の禁煙に成功したので1週間続いている。肉体的な禁断症状が解けるまで5日、精神的な禁断症状が解けるまで3週間ときいているから、せいぜい3週間は、止めてみてどうなるかを身をもって実験したい。タバコを完全に絶って3日目までは、相当にきつかった。ニコチン不足による肉体の禁断症状がである。特に1日目はひどかった。めまいはするしカラダにチカラは入らないし、呼吸もうまくできないような気がしたし、なにしろとにかくむずむずうずうずしたりして落ち着かなかった。この症状がおさまるなら禁煙中断もやむなしと思ったし、これが3日も続くようならとうてい禁煙などできないとも感じた。4日目以降は多少楽になってくるが、日に何度か、差し込みのように「吸いたい」感じが襲ってくる。それは「疲れ」とか「眠さ」とかに似た感覚で脳からカラダに伝わってくるようであった。ああ、たしかに疲れたときとか、眠たいときには無意識にタバコを吸っていたかもしれない。たしかに5日目を境にして、禁断症状はおさまった。酒を飲んで強かに酔うとまだ吸いたくなる。確かに酔ったときも吸いたくなっていた。それ以外のときには、特別にがまんをしているわけでもなく、吸いたくなる感じはあまり襲ってこない。ただふとしたときに、たとえば朝起きたときや、出かけて帰ってきたときなど、あオレってタバコすわないことにしてるんだっけ、というような物足りなさを感じることがたまにある。5日後の次の区切りは3週間後らしいから、そのときに上のような感覚がなくなっていれば、完全な禁煙に近づいたといえるかもしれない。それにしても禁煙は、思ったほど辛くはない。初日こそ気が狂って発狂しそうだったけれども、それを過ぎればどうということはない。1日→5日→3週間 などと期限を区切っているのも効果的かもしれない。次の3週間目は9月の末だから、そのときに完全に吸いたくなくなっていればオレの勝ちで、やっぱりタバコを吸いたいとまだ思っているようならオレの負けとしてもよい。なんとなく、負ける気がしないけど。
2011.09.16
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もしも仮に、つぶやきたいと思ったら「ツイッター」っていうのは便利なんだろうか。使ったことどころか見たこともないのだけれども、世の中はツイッターで溢れかえっているらしいんだが、これ知らなくてだいじょうぶなんだろか。大したことをつぶやきたいわけではない。そもそも「つぶやく」ということ自体、たいした行為ではないからつぶやいてもつぶやかなくてもどっちでもいい。というよりもオレはこのブログで十分つぶやいているつもりなんだが、やっぱり本格的につぶやくには、ブログじゃなくて本場ツイッターがいいんだろうか。唐突だが、ななろくふ、さんよんふ、はちよんふ、ななごおふこれが石田流の出だしの棋譜である。この週末は将棋の定跡書の中の棋譜をパソコンの将棋ソフトに入力する作業をしていた。第何世代かの将棋マイブームの渦中にいまいるということは前にも書いたが、久保の石田流 (amazon)という本を買ってきて読んだら非常に面白くて、実戦にはあまり役にたちそうもないものの、技術的な論理がすばらしく、真剣にマスターしようかと思い上記の作業をするに至ったのだった。電車の中では詰将棋を解き、夜な夜な定跡書をトレースし、休日にはパソコンで棋譜データベースを打ち込むとか、ほとんど受験生なみの情熱で勉強に取り組んでいるわけである。受験生がこれほどの情熱を持ち合わせているかはさておくとして、この情熱をたとえば英語とか英語とか、資格試験のようなのの勉強に打ち込んで成果をあげれば、世間様もオレのことを少しは認めてくれようとは思うものの、やっぱり興味のあることとないことでは、熱中の度合いが違いますから如何ともしがたい。しかしこれだけ情熱を注いでも5手詰めの詰将棋を解けなくて悶絶する日もあるし、それは体調が悪かったり眠かったり酔っているからだということにしても、定跡書を読むにしても「6五銀」がどこかとっさにはわからなかったりするから、やっぱり才能はないのかもしれない、と思いつつ、天才は99%の努力である、という言葉も信仰したく、でも、人とサルのDNAは99%一緒なんだっけか。ともあれ、情報を詰め込むというインプット系の作業ばっかりしていると、なにがしかのアウトプットをしたい欲求が高まってくる。対戦すればいいじゃん、とはもっともな話だが、石田流を完全にマスターするまではネット将棋で対戦するのはしばらく封印することにしている。ななろくふ、さんよんふ、はちよんふ、ななごおふという将棋ソフトが読み上げる棋譜を何百回きいたかわからないから、そのまんまをつぶやいてみたくなり、このブログを書くに至った。つぶやくにもほねが折れる。
2011.07.24
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最近猫背が気になりだしてきた。昔から猫背ぐせはあったが、若い頃はあまり気にならなかった。ふと街角のガラスに映る自分の姿を見たときに、あれこんなひどかったっけ、と思い、胸をはって歩くことを心がけるようになった。年齢とともに筋力も衰えて背中のふんばりもきかなくなっていって、やがて老人のような姿勢になるのであり、その時間の経過を今まさに辿っているのだということを自覚して始めて、それに逆らってみようと思い立つのである。しかし、立って歩いていても気を緩めるとすぐにもとの猫背に戻ったり、椅子に座っているときはよっぽど気をつけていないとぐでーんとなる。四六時中気をはりつめているわけにもいかないし、姿勢に意識を集中させるのはせいぜい1分ぐらいが限界であった。筋トレをして肉体改造を試みるという手もあるのだけれども、その手の努力が長く続いた試しがないし、姿勢がたるんできたから筋トレを始めるというのも老人くさくていけない。「秀英 調整式背筋サポートベルト」なるものを買ってきた。グッズに頼るわけである。これで常に肩を反らしていれば、ホネのカタチから変わってゆくかもしれないということをちょっと期待したことによる。さておき東急ハンズでは、これのお試し版が置いてあり、試着可能だったのでまずは試着してみた。幸い周囲にはそれほど人はおらず、うまくつけられなくて恥ずかしい思いをするリスクはそう多くはなかった。この商品、パッケージの写真からも想像がつくように、対象は女性限定のようである。その証拠に、他製品のLサイズでは窮屈すぎてはちきれそうで、LLサイズでようやく装着できたのだった。構造としては、タスキがけのひもをウエストのベルトで締める簡単なもので、肩のヒモが腕を吊り上げて背中を反らしているようだった。翌日からこれを装着して歩いてみた。もちろんTシャツの上からこのベルトをしたままの格好だとアヤシイ人と思われるから、シャツを羽織って隠す必要がある。炎天下に2枚がさねはうっとうしいけれども、そうもいっていられない。ちょっと歩いた感じでは、確かに肩が後ろにひっぱられて、正しい姿勢になっていそうである。締め付けられるような感じがするのも、正しい姿勢への意識に作用して、肩甲骨あたりにチカラが入る。ところが1時間ぐらいすると、なんだか具合が悪くなってきた。ウエストのところでしめるベルトの圧迫が強すぎたようである。バリバリテープをはがしてフリーにすると、具合の悪いのが治った。商品パッケージのモデルはウエストでベルトを締めているから、それにならって同じようにしたのだけれども、男性用のサイズではないことから、胸のちょうど下あたり、みぞおちのところに巻きつけるのが自然だということがわかった。2日目以降は、結構長い時間着けていても平気になった。成果が現れたかというと、そうでもない気がする。まだ2,3日しか試していないのでそれほどの効果は見込めないだろうけれども、これを外したとたんにまたもとの猫背に戻ってしまって、それが前よりもひどくなっているような感じがある。それはそらした状態との振幅が広いからそう思うだけかもしれないとも思う。いずれにしても、結論づけるのはまだ早いと思われる。あと、一つだけ決定的なことがある。それはこのサポートベルトを外したときの、その解放感である。あるいは世の女性は、ブラジャーを外す(あるいは外される)ときの解放感のために生きているんだろうか。
2011.07.20
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Yahoo将棋のレートが1500台になった。1300~1499が初級者で、1500~1699が中級者という位置づけになっているらしい。ログインしているユーザーのリストには1499までだったときには青で表示されいた名前が、ピンク色に変わった。中級者のイメージカラーはなんとなく黄色だが、それだと見辛いためにピンクなのだと思うがそんなことはどうでもよい。とにかくレート上は中級者に昇格したわけである。とはいえ中級者を相手にするとなかなか勝つのは難しく、たまに初級者のレートに戻ったりすることはある。レートを上げるためにこのネット将棋をしているわけではないから、点数としてのレートが下がることにはこだわりはないけれども、下がるということは負けているわけだから、嬉しいわけもなく複雑ではある。1498点ぐらいだったときに1900点台のプレイヤーと対戦した棋譜をのせてみる。結果的にボクが勝ったので、上級者の証であろう1900点台というレートを持っていること自体がアヤシくも思われる。初級者狩りをして稼ぐとか、コンピュータ将棋でカンニングしたりすれば点数は上がるかもしれないから、実力が伴わないレートだけの上級者はいるだろう。■今週の棋譜■石田流三間飛車の本がブックオフで100円だったから買ってきてそれをベースにした戦法で最近は対局している。「振飛車(ふりびしゃ)」という、飛車を左側に寄せる戦法はなんとなく好きではなかったのであまりつかわなかったのだけれども、「居飛車(いびしゃ)」にこだわっていても勝てないものは勝てないので「四間飛車(しけんびしゃ)」から習いだして割と戦えるようになってきたけれどもやっぱりあまり面白くないから次は「石田流三間飛車」に挑戦中なのである。「三間飛車(さんげんびしゃ)」は、角の隣の位置に飛車を振る振飛車戦法の一つであるが、「石田流」とつくとちょっとかっこよくなるだけではなく、対抗手段を知らないとはめられてしまう奇襲戦法でもあり、初心者をたぶらかすにはもってこいの戦法でもある。ただし的確な反撃手段を知っている相手には通用しないどころか、見事な返し技を決められてしまうといういわくつきの戦法であったりもする。相手はレート1900ということもあり腕に自信があったのだろう。石田流の奇襲を防ぐ最も簡単な防御手段は、後手が4四歩として角の道を止めてしまうことであるが、このときの相手はそれをせず、石田流で仕掛けてこいという態度を示した。さすがにレート1900の懐に丸腰で飛び込んでゆくような無謀さは発揮できなかったものの、角交換からの急襲をみせつつ、返し技をけん制する「升田式」も取り入れつつ駒組を進めていくと、相手もそれにつられたのか受け気味な、どちらかというとのびのびとしていないような戦い方になっていったようだった。(余談だけれども、石田さんは江戸時代の棋士で、升田さんは昭和30年頃に活躍した棋士。 石田流を改良した「升田式石田流」は当時最強の戦法と謳われ大いに流行したそうな)30手目ぐらいまでは、主導権を握っているようでも、先手(ボク)側にこれといった仕掛け手段はなく、なんとなく王様を囲ってみたり端歩をついたりするしかなかった。33手目の7七角を見てどういうわけか後手が仕掛けてきて戦端が切られた。40手目の後手3一角を見てオレも仕掛ける。それから結果までの応接はちょっといまいちなところもあるけど、このレートにしてはなかなかいい戦いができたんじゃないかと思っている。結果として勝てたのでこうやって自慢げに棋譜を世に出せることになって、ボク本当によかったよ。
2011.07.12
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システムエンジニアの仕事には2種類ある。一つは、複雑なものを感覚で捉えてイメージ化すること。もう一つは、イメージを言葉に置き換えて人に説明すること。既存のシステムの構造を理解しようとするとき、目前に現れる情報は全体の中のほんの一粒ずつでしかなく、これを一つ一つひも解いていくとものすごく時間がかかるから、ソースコードの1ページを0.5秒ぐらいの速度でめくっていってとりあえず全体を見渡すとなんとなく全体像が浮かび上がる。完全に理解する必要はなく、細分化しても、いくつかのパターンと例外とに分類すればよい。これがイメージ化する作業であるが、これだけだとおのれの頭の中に蓄積させるだけだから全くもってカネにならない。イメージを絵に描いたり文書化したり話したり表現することで我々は金をもらっているといってよい。右脳・左脳のおもしろ診断 (http://luckybrains.zero-yen.com/shindan.htm)これでオレは「右脳左脳タイプ」に分類された。『直感でとらえて論理的に表現、得する出世タイプ』悪くないね。
2011.07.11
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T-ara(ティアラ、と読むらしい)という韓国の女性アイドルユニットに釘付けである。T-ara "Bo Peep Bo Peep"(http://www.youtube.com/watch?v=kg8dxFoxCkc)この映像限定なのだけれども、こんなにすごいアイドルグループをこれまでに見たことがない。特に偏った性向とか、アイドルマニアというわけでもないけども、カンペキだと思うんだけれども。とこんなことをいってるような男は軽蔑されるんだろか。でも、ちょうかわいんだけども。
2011.07.10
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我々の仕事とはなにか、というテーマの雑談を、夜間待機かなんかのヒマなときに同僚と話したことがあって、その話を横できいていた新人の女の子が、「けんかになってませんでした?どきどきしてたんですけど」といっていたことを思い出す。オレにしてみればけんかどころか座興として楽しい会話だったし恐れられることは予想していなかったのだけれども、女性にどきどきしてもらうのはどういうわけかちょっと嬉しい気持ちになる。ともあれ、そのとき同僚としていた会話は以下のようなものである。もう何回か同じようなことを言ったり書いたりしてるかもしれないが繰り返す。我々の仕事はコンピューターのエンジニアであり、その存在意義は、複雑な計算や事務処理の速度をはやめて人の仕事を楽にすることにある。なのに8時間労働制が6時間制になったというわけではない。この仕事に果たして意味があるんだろうか。というような感じで話ははじまっていった。「今までの仕事をコンピュータが肩代わりしてくれるようになったからといって、企業としては余った人を遊ばせておくわけにもいかない。余った人は別の仕事をしてもらうか、それでも余るなら、クビをきられるしかないんじゃないかな。」クビを切られるというということはその人の生活がおびやかされるわけで、つまりコンピュータで仕事を効率化することは、雇用のクチを減らしている?つまり我々はクビを切られる誰かを不幸に運ぶ片棒を担いでいるってこと?「効率化されたら会社の経営は潤うよね普通に考えたら。そしたら雇用も増えるから問題ない。」たとえば効率化されきったらどうなる?これ以上ないほど完璧なシステムで経営が洗練されたら、それ以上雇用は増えない。「会社はいっぱいあるし、少なくとも世の中が完全にそんなことになるのはあと100年たっても考えられないからだいじょうぶだよ」200年先に完璧なシステムに到達するとして、それまで我々は、効率化とかいう名の下に、誰かの仕事を取り上げてメシくってるわけだよね。「そうだよ。効率化されきったと思われても、新しい価値を売るんだよ。コンピュータウィルスの危険性とか、セキュリティの脆弱性とか、不安を煽れば企業はいくらでも金を出している。コンピュータウィルスやハッカーがなくならないのはなぜか知ってるか?ビジネスだからだよ。」ああ、あれだな、薬剤会社が特効薬で儲けるために、病原体も同時に開発するっていうキメラワクチン。。て話がそれてるけど、じゃあコンピュータやシステムがどれだけ発達しても、目的が達成されるってことはないわけだな。「目的ってなんだよ。その目的とやらが仮に達成されたとしたら、我々の仕事は取り上げられる。そうならないように、目的は達成しないほうがいいにきまってる。あとはどれだけ引き伸ばすか、違う目的をぶら下げるかとかね。」ふん、オトナだねい。と鼻白んで軽蔑を表現してみたが、負け惜しみの捨て台詞のようだったと反省した。
2011.07.03
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「チームバチスタの栄光」という本を借りて読んだ。心臓外科手術中に不審死が相次ぎ、窓際医師がその調査にかりだされ謎を解いていくという医療ミステリーだった。最初はどうかと思ったけど、後半、主役級のキャラが出てきてからは結構面白くなってきてだいぶ満足した。医療ミステリーの本筋とは別にこの小説の根底には、病院という組織のうにょうにょしたところが、たとえば部署同士の権力闘争や人間関係の複雑さでもって描かれており、むしろそのことを書くためにこの作家は筆をとったんじゃないかというようなことが、文庫の最後の解説でも言われており、たしかにミステリー本体よりも病院の中味をのぞき見るような視点での面白さに読み手もひきこまれてるんじゃないだろうか。そこで描かれたり語られたりしているテーマはオレの思うところ、医療の目的は患者を救うことではなく、医療組織を運営することにあり、患者を救うのはそのための手段にすぎない。ということではないかと思われる。この小説の主人公は、手術中に起きた不審死の調査として、同組織内の仲間にたいして内部調査を行う役割を任じられる。疑いをもって聞き取り調査を行うということは、それだけで疎ましがられることになるし、調査には法的な強制力はないから、取り調べられるほうは話して不利益になるようなことは話そうとはしない。疑われるようなことをしていないにもかかわらず不利益になることを厭うのは、組織内での自分の立場を悪くしないための予防線であったり、よしんば誰かを貶めたいためのちょっとしたはかりごとであったりする。組織とは、このように個々の思惑が複雑に積み重なった挙句に出来上がったものであり、けして「組織とは」というような定義や法則に従ったものではない。組織は一枚岩ではなく、だから一筋縄ではいかない。というようなことを浮き彫りにしている小説でもある。病院に限らず、事件や恋愛を通して色々な組織の実情を暴く娯楽作品は昔からあって、有名なのでは白い巨塔とか野生の証明とか踊る大走査線とか、あとたぶん坂の上の雲も組織の理不尽や難しさを描いた小説だと思う。組織とはかくもゆがんでおるのかという類の話はいくつも浮き彫りにされてきたでもこれだけ浮き彫りにされているのにもかかわらず、組織と個人との戦いを描く話の種が尽きないということは、組織の体質は変わっておらず、これからもずっと変わらないのだろうとは思われる。恥ずかしながらオレも最近ようやくこのことにうすうす気付きはじめていたけれども、にわかには信じがたくを受け入れることができずにいる。医者の使命が患者を救うことならば、政治家は国を治め、人の暮らしをよくすることが使命あり、建築家は建築で、芸術家は芸術で、人を豊かにしたり幸せにしたりすることが目的であらねばならない。組織運営の糧に甘んじてその対価で生計を成すことを果たして目的としていいのだろうか!1というところを強く言いたいのはやまやまだけれども、まずは生活するために仕事をしているわけで、オレも偉そうなことは言える身分ではない。
2011.07.03
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「なにこれ意味わかんなーい」とかいうような女にはいろいろいってやりたくもなるが「あそうわかんないよねー」といって同調するのが一番いい。女は男と違って言いか悪いかではなく好きか嫌いかを論じているわけだし、話すという行為そのものが重要で話の目的は関係ないからだ。「その話、意味があるの?」もよく使われる。意味など関係なくて、ようするにつまらない、面白くないということを女性はこの表現にこめている。女性は今日のことや昨日のことや、日ごろ思っていることや目についたことをよく口にする。そのくせ男がそういうつまらない話をしだすと、「ふーん、で?」とかいっちゃったりして興味を示さない。ボクもただ日常のこととか見たまんまをしゃべっているだけなのに。「助からないと思っても助かっている」は、昭和に活躍した将棋の大名人、大山康晴テンテーの言葉である。この言葉の真意は知らないけれども、「絶望的だと思ったことがあったとしても、今こうして生きてるわけだし、ピンチになってもそんなに悲観しなくてもいんじゃん?気楽にいこうよ!」というふうにもうけとれなくもない。スマップとか槙原のりゆきとかのセカイですな。ちなみに棋士の言葉で最も好きで、座右の銘としてもいいと思っているのが、50にして名人初戴冠となった米長邦雄テンテーの、「させてくれ、と女にお願いしているうちは半人前である」この扇子欲しいんだが!そしてこの言葉には後編があって、「鍛練して「してください」と頼まれるようにならなければいけない。 なおかつ、そのお願いに充分に応えられなくてはならない。」深いねい。。
2011.06.28
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千駄ヶ谷の将棋会館に行ってきた。将棋会館へ行くのはこれが2回目である。1回目はちょうど10年ぐらい前、第2次将棋マイブームだったころである。野球ファンがプロ野球選手に強い憧れを抱くように、将棋ファンもプロ棋士に憧れるものではあるが、このときはプロ棋士に会いたい一心で将棋会館へ行ったわけではなかった。プロ棋士に憧れるには実力があまりにもお粗末だったから気後れするだけだったし、大盤解説のようなイベントがあったわけでもなく、あったとしても、ほお、とかへえ、とか言えるほどの理解力もないと思われ、さみしい思いをするだけだったからいかないのである。そういう意味でスポーツ観戦は、観戦する側にスキルが求められていないからうらやましい。野球ならホームラン、サッカーならゴールが決まれば大盛りあがりして、ビールでも飲んでいれば楽しいのは間違いない。その点将棋は地味である。派手な技が決まったときにはなんとなくわかったりもすることもあるかもしれないが、指し手にミスが出たときなどは、プロに解説してもらわないとほとんどそれがミスだとわからなかったりする。ビールを飲みながらばか騒ぎでひいきの棋士を応援したりしようものなら周りから白い目で見られそうでもある。ようするに敷居が高い。また話がそれているけれども、最初に将棋会館へ行ったのは、プロの棋士をひと目みたいからでも、観戦が目的なわけでもなく、単にどういうところなのか、あるいはどれだけ敷居が高いものなのか、ひやかしとして見てみたかっただけであった。そして昨日、10年越しの2回目としてふたたび将棋会館を訪れることになったがその目的は、「扇子」が欲しかったのである。扇子は将棋ファンなら一度は憧れる、プロ野球選手におけるファイテン、サッカー選手におけるミサンガ(古い?)のようなものではなかろうか。ロフトには季節モノとして今多くの扇子が売られているが、どれを手にとってもしっくりこない。広げたときのデザイン性や素材の軽々しさばかりが重視されて、折りたたむときにくしゃくしゃになったり、片手で広げられなかったり、柄のところの素材が竹ではなかったりしてどれもこれも手になじまないのであった。いざというとき落語でも一席ぶつにもやっぱりあの日本的なつくりの扇子でなくてはいけない。金属質の扇子でははっつぁんそばもうまくすすれやしないってんで白羽の矢が立ったのが将棋会館で売られている将棋仕様の扇子である。ショールームには当世を代表をする名だたる棋士の揮毫をプリントした扇子が売られていたが、ひいきの選手がいるわけでもないから、なんとなく羽生テンテーのを選んでみようとしたのだけれども、字が上手いとは思えず断念。やがて、書かれた字の上手さとそのメッセージ性に強く惹かれて選んだのがこの扇子。「助からないと 思っても 助かっている」みつおか!深い。。
2011.06.26
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