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ロニクル 日大全共闘の徹夜団交1968(昭和43)年9月30日46年前のことです。この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全学集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されました。日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。さて、30日に戻ると、3時頃に古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭はこれまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長ら学生幹部を当局に告発。秋田議長らには逮捕状が出されるに至ります。こうした当局の態度が問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる結果となりました。
2014.09.30
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クロニクル 日中国交回復1972(昭和47)年9月29日42年前のことです。9月25日から日中の国交回復を目指して、中国を訪問していた田中角栄首相以下の日本側代表団は、この日、周恩来首相以下の中国側代表団との間で、日中共同声明に調印、およそ半世紀振りに日本と中国との国交回復を実現しました。「声明」は前文で、日本が過去において中国に与えた重大な「損害」について、「深く反省」し、「戦争状態の終結(不正常な状態の終結)と国交の正常化」を謳い、9項目からなる本文では、1、日本は中華人民共和国政府を、中国における唯一の合法政府として承認する。2、中国は対日賠償請求権を放棄する3、両国は貿易・海運・航空・漁業などの協定締結交渉に合意する。等の内容が盛り込まれました。これに伴い、日本と台湾政府との国交は断絶、民間交流だけが残される形になりました。それから42年、最近の日中関係は、国交正常化後に限れば最悪の状態にあります。『ひょっこりひょうたん島』と違って、国土の位置は動かせませんし、過去を顧みても、相互の交流が大きな実りをもたらしてきたことも否定できません。互いにとってプラスとなる、良好な関係を築く努力を、政も官も財も民も、続けるべきだと、私は考えています。
2014.09.29
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クロニクル 長銀,リップルウッドへ1999年(平成11)年9月28日15年前のこの日、金融再生委員会は、前年(1998年)10月に一時国有化した日本長期信用銀行(略称長銀)を、米国の投資ファンド、リップルウッドに譲渡することを、正式に決定しました。リップルウッドは翌年6月、新たに新生銀行と命名して営業を再開、同行を再生した上で株式を公開、保有株の値上りで利益を得ると言う企業再生の手法をとり、新生銀行は2004(平成15)年2月に株式公開に漕ぎつけるなど、短期間で再生を遂げました。長銀は、バブル期の過大な不動産融資のツケで経営が傾き、債務超過が疑われる状況に陥ってしまったのですが、98年7月30日に誕生した小渕内閣の下で、大蔵省は住友信託銀行に長銀の救済合併を依頼し、8月20日には、小渕首相と宮沢蔵相が2人揃って住信の頭取に直々の要請までしたのですが、長銀の不良債権の実態が明らかにされないままでの合併に、住信は最後までOKを出さず、この構想は日の目を見ませんでした。そして、金融国会と称された与野党の攻防を経て、ようやく10月に入って金融再生法が成立。それから間もなく、長銀は自ら金融再生法に基づく一時国有化を申請、実質的に破綻しました。政府は申請を受けて、長銀の全株式を買い取り、公的資金で預金などを払い出すなどして、譲渡可能な姿とした上で、長銀株式の譲渡先を探したのですが、日本企業の応募はなく、僅か10億円という捨て値で、前述のリップルウッドが落札しました。住信を始めとする日本の金融界は、自らも不良債権の処理に苦しみ,僅か10億円の出資にすら、手を上げることが出来なかったのです。その限りにおいて、私は、リップルウッドは日本の金融危機の救世主の役割を果たし、ノンリスクで(不良化しそうな債権には、瑕疵担保条項がつけられていました)利益を上げた、先の読める投資家集団であったと考えています。逆に言うと、日本の金融機関はだらしがなさ過ぎました。バンカーの誇りはいったいどこにやってしまったのでしょうね。嘆かわしい限りでした。
2014.09.28
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日敗戦の年ですから、69年前のことです。この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間会談しました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇と軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したと言われます。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実に、両者の力関係が読み取れます。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に利用する、これがマッカーサーの戦略でした。写真掲載に関して、当時まだ天皇=現人神説に捉えられていた山崎内務大臣は、「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と語って、掲載した各紙を、発禁処分としました。直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁解除を命令し、写真が無事掲載される一幕もありました。
2014.09.27
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クロニクル 伊勢湾台風上陸1959(昭和34)年9月26日55年前のことになります。奇しくもこの1年前、56年前の翌日27日には、静岡県伊豆地方に大きな災疫を齎した狩野川台風が襲来していますから、まさに2年続けての災疫でした。この日、死者・行方不明者合わせて5,101人という、明治以降で最大の被害を齎した伊勢湾台風が襲来しました。伊勢湾台風は、最大瞬間風速48,5メートル、風速30メートル以上の暴風圏が、半径300キロメートル以上という超大型台風でした。この日紀伊半島潮岬付近に上陸すると、時速70キロメートルの猛スピードで北北西に進み、岐阜・富山両県を通過して、いったん日本海に抜け、翌27日には、東北地方に再上陸し、合わせて39道府県に大きな被害をだしたのです。被害家屋は50万戸、被災者数は1,532,954人に及びました。特に被害が大きかったのは、愛知県と三重県で、伊勢湾台風の襲来と満潮の時間が重なったために、5,3メートルという高潮に襲われたこと、また木曽川、長良川が決壊して、桑名市は、全市が水浸しとなり、三重県川越村では、1,500戸が全滅の憂き目を見ました。
2014.09.26
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クロニクル 怪人21面相森永も脅迫1984(昭和59)年9月25日今年で30年になるのですね。半年前の3月にグリコの江崎社長を自宅から拉致し、高額の身代金を要求、その後毒入りのグリコ製品をばら撒くと同社を脅迫していた、怪人21面相を名乗る犯人グループから、この日標的を森永製菓に変えたと,新たな脅迫状が在阪のマスコミ各社に送られてきました。書状には青酸ソーダが同封されており、森永製菓に1億円を要求したことも記されていました。以後マスコミ各社は、この事件をグリコ・森永事件と呼ぶようになります。事件は犯人グループの1人と思われる人物がコンビニに毒入り菓子を置くところと思われる、店側の防犯ビデオの写真が公開されたり、同じくキツネ目の男の似顔絵が公開されたりしましたが、遂に迷宮入りし、今日まで未解決のままになりました。森永への脅迫は10月に入るとエスカレートし、京阪神や中京地区の店に、「毒入り危険」という警告文をつけた森永製菓の菓子7個が置かれるなど、次第にエスカレートし、その後も計18個の菓子が置かれる大騒ぎとなりました。森永製菓の売上げは激減。年末にかけ、社員が総出で、社員直販なので、ここで買う菓子は安全ですと、必死の売上げ作戦を展開するなど、大きな社会問題になりました。脅迫は丸大食品、不二家、ハウス食品にも及びましたが、薬品の売上げが伸び、多角経営の進んだ明治製菓は外されるなど、食品専業で脅迫しやすい企業を狙い撃ちしていること、巧みにマスコミを利用して、消費者の不安を煽っていることなど、相当の悪知恵の持ち主が仲間に加わっているらしいことが、推量できました。犯人たち、今どうしているのでしょうね。
2014.09.25
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クロニクル 西南戦争終了へ1877(明治10)年9月24日137年前になります。この日、郷里鹿児島の城山に篭っていた、西郷隆盛ら旧薩摩藩士を主力とする反乱軍は、政府軍の総攻撃を受けて、西郷や桐野利秋らが自刃し、西南戦争は終結を迎えました。熊本城攻略に失敗した西郷軍は,熊本を撤退して、人吉、都城、宮崎と転戦したのですが、苦戦を続けて、遂に鹿児島に引き返す決定をします。しかし、数と物量に勝る政府軍は先回りして鹿児島市内を抑えており、やむなく西郷軍は城下を見下ろす城山に篭り、政府軍と対峙したのです。9月1日のことでした。しかし、兵力400名弱、小銃僅かに150丁の西郷軍は、8個旅団約5万名の政府軍の攻撃になすすべもなく、この日の総攻撃を迎えたのでした。西郷の自刃により、2月以来、7ヶ月に及んだ西南戦争(近代日本における最大の武力反乱でした)も、遂に終りを告げました。 ここから時代は、武力ではなく言論による反政府運動=自由民権運動の時代へと、軸足を移してゆきます。
2014.09.24
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クロニクル 久保山愛吉さん死す1954(昭和54)年9月23日60年前のことです。この年3月1日、焼津のマグロ延縄漁船第五福竜丸が、米国が大気圏内核実験を強行したビキニ環礁の、航行禁止区域外で操業していて、大量の死の灰を浴びました。水爆の威力が、米軍の推定よりもはるかに大きく、指定された航行禁止区域のはるか外まで、死の灰が降下したことが原因でした。事情を知らない漁船員たちは、降り積もる死の灰を浴びながら23人の乗組員全員が、甲板での作業を続け、全員が原爆症の症状に苦しみながら帰港し、そのまま全員が入院しました。その中の1人で特に症状の重かった久保山愛吉さんが、秋の彼岸のお中日にあたるこの日、半年近い闘病と、ご家族、仲間、治療に全力を尽した医師団、そして唯一の被爆国民として原爆症の苦しみと痛みを共有しえた全国民の願いも空しく、遂に亡くなりました。「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい。」この言葉が、久保山さんの最後の言葉だったそうです。私はこの時、小学校の6年生。プロ野球(この年は魔球の杉下投手の大活躍で、中日ドラゴンズが優勝しました)や大相撲(最近は全く見なくなりました)の記事を中心に新聞に親しみはじめた頃でしたが、久保山さんや第五福竜丸、原爆症関連の記事は、読みやすかったのでしょうか、良く読んでいた記憶があります。そして第五福竜丸の被爆と久保山さんの闘病の報道は、8月の杉並の主婦たちの署名運動をきっかけに、日本が世界に発信して大きなうねりになった、原水爆禁止運動に結実して行きます。核兵器、原子力発電所など、命あるうちに廃絶出きると良いのですが……
2014.09.23
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クロニクル イラン・イラク全面戦争に突入1980(昭和55)年9月22日34年前のこの日、既に小競り合いを続けていたイランに対し、イラク軍は本格的に主力軍による越境攻撃を仕掛け、イラン領土への侵攻を開始しました。そうしたイラクの越境攻撃を、イラン革命の自国への輸出を恐れるサウジアラビアや湾岸諸国はこぞって支持し、フセインのイラクに対する資金援助を惜しまなかったのです。イラン革命の輸出を警戒するアメリカもまたイラクを支援、対仏大同盟軍に包囲されたフランスさながらに、イランは対イ大同盟軍に包囲されながら、粘り強く戦い抜き、革命の防衛に成功したのです。
2014.09.22
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クロニクル 室戸台風襲来1934(昭和9)年9月21日台風シーズンですね。来月いっぱいは、警戒が必要でしょうか。ちょうど今年で80年になります。この日、午前5時過ぎ、高知県の室戸岬に超大型の台風が上陸しました。台風は午前8時過ぎには大阪市に達し、最大瞬間風速60メートルを記録する猛威を振るいました。その結果、四天王寺では国宝の五重塔が中段から倒壊、搭の下に避難していた20人が下敷になりました。また大阪各地の木造小学校164棟が倒壊、児童676人、教職員18人が犠牲となりました。滋賀県の瀬田川鉄橋では、東海道線の下関行き急行列車が強風に煽られて転覆、175人の死傷者がでました。また大阪湾の高潮は4メートルに達し、多くの船舶や家屋が飲み込まれました。被害は大阪と兵庫を中心に2府32県に及び、死者・行方不明者3246人、家屋の全半壊88046戸に達する大きな被害となりました。当時は、台風でも休校にならず、列車も動かしていたのですね。今との感覚の違いに驚きを感じますね。
2014.09.21
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クロニクル マゼラン出航1519年9月20日495年前になります。日本は戦国時代前期の混乱期にありました。そんな時代でしたが、遠くユーラシア大陸の西の果てでは、コロンブスやガマの航海の成功から、大西洋を往来したり、アフリカ南岸経由でのインド交易などが、冒険野郎達の血を滾らせていました。そうした中でこの日、世界一周航海でお馴染みのマゼランの一行が5艘の船団を組んで、265人の仲間と共にスペインの港を出発しました。インド貿易でポルトガルに名を成さしめたスペイン王家に対し、ポルトガル人のマザランは、大西洋経由で、噂の高い香料諸島に向かうという、野心的な計画を提出。ようやくその実現にこぎつけたのでした。一行は南アメリカ大陸を南下し、マゼラン海峡を通過して困難な旅を続けました。マゼランにとっての誤算は、大西洋の数倍に及ぶ太平洋の広さの知識がなく、旅の途中で壊血病により、多くの仲間を失ったことでした。隊長のマゼランをも失った一行は、なおも航海を続け、旗艦のヴィクトリア号1艘だけとなったのですが、1522年の9月8日にセビリャの港に帰還したのです。265人の乗員のなかで、生きてスペインの土を踏んだのは、僅か18名だけという、犠牲の多い旅でしたが、確かに世界一周の航海でした。
2014.09.20
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クロニクル アルジェリア臨時政府成立1958(昭和33)年9月19日56年目になります。この日、北アフリカのフランス植民地アルジェリアで、血みどろの独立戦争を戦っていたアルジェリア民族解放戦線が、臨時政府の樹立を宣言しました。仏領インドシナの一角、ヴェトナムでホー・チ・ミンをリーダーとするヴェトミン軍との戦いに敗れ(ディエン・ビエン・フーの戦い)フランス軍がヴェトナムから撤退したのが1954(昭和29)年ですから、僅かに4年後のことでした。フランスの植民地支配は現地住民の強い反発を受け、民族解放を目指す現地住民の独立運動との、血みどろの戦いに巻き込まれることが多かったのです。映画「アルジェの戦い」は実話を基として脚本が出来たのですが、民衆の海に隠れたゲリラとの戦いに疲労困憊したフランス軍は、ここでも民族解放戦線との戦いに敗れ、臨時政府の誕生から4年後の1962年、アルジェリアは念願の独立を達成するのです。このアルジェリア、ジャスミン革命のチュニジアの隣国ですが、アラブの春と称された若者中心の一連の動きは、この国を素通りしました。北アフリカ諸国の中で、最も激しい解放戦争を戦い、独立を達成した過去を持つために、長期独裁政権の登場を許さないだけの政治経験を国民が積み、10年程度での政権交代が、平和的に続いていているからだろうと、私は考えています。
2014.09.19
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クロニクル ウィーン会議始まる1814(文化12)年9月18日ちょうど200年前ですね。日本では滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が刊行された年に当たり、翌年には、『解体新書』の翻訳が完成する。そういった時期でした。この日、ナポレオン戦争後のヨーロッパの新秩序をどうするかを擬するための会議が、講和会議を兼ねてオーストリアの首都ウィーンで始まりました。世に名高いウィーン会議です。会議の主役は、もちろんオーストリア宰相メッテルニヒでしたが、実はもう1人の主役が敗戦国フランスの外相タレイランでした。映画の『会議は踊る』はこの会議を指しています。「会議は踊る、されど進まず」という有名な一言も、誰の言葉か分からないのですが、会議の出席者の1人のグチとも本音ともつかない一言です。
2014.09.18
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クロニクル 南北朝鮮、国連に同時加盟1991(平成3)年9月17日23年前のことです。この日、大韓民国(南朝鮮)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、国際連合に南北同時加盟を果たしました。朝鮮半島は日本の降伏後、長く南北に分断されたまま今日に至っており、ヴェトナム、ドイツと続いた分断国家の統一の流れに、ただ1国だけ乗れずにいます。国連への同時加盟で、いよいよ南北朝鮮も統一へ向けて動き出すのかと思われたのですが、その後また、膠着状態に入っており、民族の悲願の達成は、先送りされたまま、現在に至っています。出来ることなら、生きているうちに、南北の統一した姿を見たいのですが……。
2014.09.17
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クロニクル モース博士大森貝塚発掘1877(明治10)年9月16日大森貝塚発見者のモース博士の来日については、以前に触れました。博士の来日は、同年の6月18日でした。博士は到着2日後の20日に、知人を訪ねて、船で到着した横浜から(ヨコハマのハトバから~ふねにのーって…と歌われたように、飛行機のない当時、日本の首府への表玄関は横浜港でした)、新橋まで汽車に乗りました。その車窓から大森海岸周辺の地層を見て、そこが貝塚であることを確信したことについても、その時記しました。その確信をいよいよ実行に移したのが、137年前の今日だったのですこの年発足したばかりの草創期の東京大学教授への就任を要請されたモースは、迷った末に受諾し、9月12日から教壇に立ち、最初の日曜日となったこの日、助手や学生等を伴って大森海岸を訪れ、ここが間違いなく貝塚であることを確認したのです。日本で考古学という学問分野が発足し、認知された瞬間でした。高松塚を始めとする古墳群、三内円山遺跡などの縄文遺跡の発掘などの、目覚しい成果の原点は、ここにあったのです。
2014.09.16
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クロニクル 麻原彰晃の死刑確定2006(平成18)年9月15日8年前ですね。この日最高裁は、麻原弁護団から提出されていた特別抗告を棄却しました。その結果、ようやくオーム真理教の教祖、麻原彰晃に対する死刑が確定しました。弟子達には、次々に死刑判決が確定していただけに、いたずらに裁判を引き伸ばしていた弁護団の対応には、問題が残りました。それにしても、彼の死刑は8年経ってもまだ執行されていませんね。
2014.09.15
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クロニクル 住専8社の不良債権総額8.4兆円に1995(平成7)年9月14日19年前です。この日、大蔵省は実質的に破産状態に陥っていた住宅金融専門会社(略称住専)8社に対する立ち入り検査の結果を発表しました。それによると、8社合計の不良債権総額は8兆4千億円に達するという事でした。8社のうち7社の不良債権額は自己資本を大きく超えており、7社の倒産処理はこの時点で不可避となり、7.6兆円に達する7社分の不良債権を、誰がどれだけ負担するかが、大きな政治問題になりました。民間会社の不良債権処理が何故政治問題になるのかというと、そこには、金融機関でもある農協を救済すべきか否かという問題が横たわっていたからです。
2014.09.14
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クロニクル 大阪万博閉幕1970(昭和45)年9月13日44年前の今日、この年3月14日に開幕した大阪万博が、183日の会期を終え、閉幕しました。元経団連会長の石坂泰三氏が会長を務めた、日本万国博覧会協会が目標とした総入場者数は、3000万人でしたから、1日平均で約17万人が必要でした。ところが開幕当初の出足は悪く、開幕3日目の3月16日には、163,857人の入場者しかなく、開幕直後にこれではと、関係者は大いに心配したそうです。ところが、この心配は杞憂に終わり、3月16日の入場者数は、会期全体を通じての最低入場者記録として残り、以後春休み、5月連休、夏休みと入場者数は漸増を続け、最高入場者数を記録したのは、会期も終幕に近い9月5日の835,832人でした。結局入場者数の合計は、64,218,770人となり、目標の2倍を超えたのです。この入場者数の記録は、2010年の上海万博に更新されるまで、40年間にわたって歴代最高であり続けました。入場券の売り上げ350億円、食堂や売店の売り上げ405億円を記録しました。一番人気のパビリオンは、アポロ11号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館でした。万博会場に敷設された「動く歩道」は、その後各地で使われるようになり、缶コーヒーもまた、万博会場で販売されたものが評判を呼び、その後ヒット商品になったことが知られています。ファミレスが各地に誕生する契機となったのも、大阪万博からだったですね。
2014.09.13
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クロニクル 学校五日制始まる1992(平成4)年9月12日22年前のこの日、日本全国の公立学校で、毎月第2土曜日を休業日とする月1回の学校週5日制がスタートしました。4月新学年からではなく、学年半ばの2学期からの導入というところに、何か慌てて導入したらしいことが読み取れますね。3年後の1995年から、月2回(第2、第4土曜日)の5日制となり。それから7年後の2002年から、完全学校週5日制となり、今日に至っています。
2014.09.12
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クロニクル 日本で最初の公衆電話設置1900(明治33)年9月11日114年前になります。この日、新橋駅と上野駅に、日本で最初の公衆電話が設置されました。日本で始めて電話局が誕生したのは、1890(明治23)年の12月のことでした。電話局が設けられたのは、東京と横浜でした。このとき同時に、東京に15ヶ所、横浜に1ヶ所の電話所が設けられ、電話回線を持たない人々の、電話利用の便を図っていました。この電話所の電話が、公衆電話のはしりと言えなくもないのですが、設置されているのが、電話局の中でしたから、誰もが自由に使えるという雰囲気は生まれなかったようです。114年前、新橋駅と上野駅に設置された公衆電話は、新橋駅では、中等待合室の前、上野駅では駅長室前と、夫々通路に置かれましたので、電話の周知には役立ったのですが、料金が高めだったために、利用は大きくは伸びなかったといわれています。そうですよね。当時電話を備えていたお宅は、数少なかったでしょうから…。そのご、家庭に電話が普及するに連れ、公衆電話もあちこちに置かれるようになり、テレフォンカードが普及して…と、いろいろなことがありましたが、それも今では遠い夢の中のようで… いつの間にやら、公衆電話は簡単にはみつからないご時世になってしまいました。追記大雨の被害のニュースが続きます。ブロ友の皆様のお近くでも、テレビで放映される地域が増えているようです。皆様ご無事でいてくださると良いのですが…。幸いこちらは無事でございます。皆様もどうぞご無事で…。 お手伝いできることがあれば、お申し付けください。知人にも声をかけ、出来るだけのことはさせていただきます。 ザビ
2014.09.11
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クロニクル 最後のギロチン処刑1977(昭和52)年9月10日37年前の今日ですね。随分と最近まで使っていたのですね。この日、フランス革命期に利用の始まったギロチンによる、最後の処刑(首切り刑)が、フランスで行なわれました。それにしても、それから12年後の1989(平成元)年は、フランス革命200年の記念すべき年でした。この年競売で、何台ものギロチンが外国にわたりました。確か日本にも2台入っているはずです。このギロチン、誰でも無料で入場できる明治大学の刑法博物館に、実物と同じサイズの模型が展示されています。興味と関心のおありの方は、是非見学にいらしてください。
2014.09.10
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クロニクル 「きく1号」打ち上げ1975(昭和50)年9月9日39年前ですか。この日、宇宙開発事業団が、初めての自前の人工衛星として、技術試験衛星「きく1号」の打ち上げに成功しました。種子島宇宙センターの名が、一躍日本中に知れ渡ったのも、この日でした。その後も、しばらくの間は、打ち上げ技術が安定せず、失敗と成功を繰り返していましたが、今世紀に入って次第に安定し、今では打ち上げに失敗するケースは、少なくなりました。
2014.09.09
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クロニクル 林彪クーデターに失敗1971(昭和46)年9月8日43年前ですね。この日、中国共産党副主席で、中央軍事委員会の責任者として、党および軍で、いずれも毛沢東主席に続くNo2の実力者だった林彪が、政権奪取のためのクーデターに失敗、逃亡しました。当時プロレタリア文化大革命の渦中にあった中国で,林彪副主席は文革派の総帥的地位にあり、何故この時期にクーデターを起こしたのか、今もって謎に包まれています。わかっているのは、モンゴルへ向けての亡命飛行中に、乗っていた飛行機が墜落して、乗員と共に死亡したことだけです。墜落した飛行機は軍用機でしたが、どうやら追跡機に撃墜されたらしいことが、分かっていることはいるのですが……どうやら、この事件の謎は、永遠に明らかにならないのかもしれません。まさに権力の闇そのもののような事件でした。
2014.09.08
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クロニクル 西ドイツ成立1949(昭和24)年9月7日ドイツの統一から四半世紀近くが経過し、今では西ドイツと聞いても、若い方はピンとこないかもしれませんね。65年前のことです。この日、通称西ドイツ、ドイツ連邦共和国が誕生しました。旧ドイツのうち、米・英・仏西側三国が管理する地域(西ベルリン含む)です。この西ドイツの誕生を受け、1ヶ月後の10月7日、ソ連管理地域に東ドイツ、ドイツ民主共和国が誕生しました。ここに、米ソの冷戦体制が進む中で、ドイツは東西の分断国家として、米ソ冷戦の最前線に立つことになったのです。この東西ドイツ、1990年に統一ドイツとなり、現在に至っています。ドイツ統一から24年。日本の植民地だった朝鮮半島の統一は、いったいいつになるのでしょうね。
2014.09.07
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クロニクル 大政党に初の女性党首1986(昭和61)年9月6日28年前のことです。当時の日本社会党は、衆院で3分の1近い議席を持つ、大政党でした。現在では、そんな片鱗はどこにもありませんが…そしてこの日、日本社会党の党首選が行なわれ、土井たか子候補が大差で当選し、日本の大政党では、初の女性党首が誕生したのです。労組の出身者や労組の支援を受ける候補の多かった社会党にあって、土井氏(おたかさんと呼ばれていました)は同志社大学の憲法学担当の助教授からの転出組で、護憲のために政治家になったと語る市民派でした。この年7月の衆・参ダブル選挙で、1955年の左右社会党の統一以来の大敗北(衆院の獲得議席は85と、統一以来初めて100議席を割りました)を喫した同党は、イメージの一新と労組依存政党から、市民中心の政党への脱皮を目指す必要を感じ、市民派の土井氏に再建を託したのです。土井氏は、その溌剌とした発言や、庶民的なキャラクターで「おたかさんフィーバー」を巻きおこし、リクルート事件による政治不信や消費税の導入、宇野首相の女性問題などの自民党の失点もあって、3年後の89年の参院選で大勝、参院における保革逆転に成功し、「山が動いた」の名セリフを残しました。宇野首相の引責辞任後の首班指名選挙では、参院は土井氏を首相に指名し、衆院の指名した海部俊樹氏と指名が異なり、両院協議会を開く事になったのも、新鮮な経験でした。その後93年の細川連立政権の誕生では、女性初の衆議院議長に就任、「いかんものはいかん」のおたかさん節で、名物議長振りを発揮しました。
2014.09.06
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クロニクル 日比谷焼討ち事件1905(明治38)年9月5日109年前のことです。この日、日露戦争の講和会議が開かれていたアメリカ西海岸のポーツマスから、ポーツマス講和条約締結のニュースが飛び込み、日頃の大本営の発表から、戦争の実情を知らされず、ただ大勝利と信じ込んでいた国民は、日清戦争当時の下関講和条約に比べると、大きく見劣りする講和内容に、憤慨しきりとなりました。祝賀気分で日比谷公園附近に集まっていた群衆は、講和内容を伝えた近くの新聞社を、集団で焼討ちしたのです。どこに向けて良いかわからない、行き場のない憤懣、夢を破られた怒りが、事実を伝えた新聞社の報道に向けられるという、無軌道な爆発となって現れたのでした。
2014.09.05
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クロニクル 沖縄で米軍人による少女暴行事件発生1995(平成7)年9月4日19年前のことです。この日,沖縄で、米海兵隊員3人による女子小学生の拉致・暴行事件が発生しました。少女の両親による訴えで事件が発覚しましたが、海兵隊員が既に基地内に戻っていたために、在沖縄米軍は事件の加害者の身柄を沖縄県警に引き渡すのを拒否し、起訴後なら検察に引き渡すと突っぱねてきました。それでは十分な捜査は出来ないとする、沖縄警察と沖縄県は、日本政府に直接米国政府に交渉するよう求めましたが、問題が政治問題化するに伴って、本土復帰後も基地問題と、素行不良米兵の行動に悩まされ続けていた沖縄県民の不満が爆発し、10月21日には、事件に抗議する県民総決起大会に、8万5千人もの人々が参加、復帰以来最大規模の大抗議集会になりました。余りの勢いに基地使用に悪影響が出ることを怖れた政府と米軍が協議、聴取には弁護士が立ち合うことを条件に米側が折れ、3人の身柄は沖縄県警に移されましたが、日米地位協定の問題点の1つが、誰の眼にもはっきりと、映し出されました。そしてもう一つ、米国に対する政府と外務省、防衛省の弱腰もまた、はっきりと我々の眼に焼きつきました。
2014.09.04
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クロニクル 王選手ホームランの世界新達成1977(昭和52)年9月3日37年前のことです。この日、ジャイアンツの王貞治選手が、後楽園球場でのヤクルト・スワローズ戦で,鈴木投手からホームランを打ち、ハンク・アーロン選手の世界記録755本を抜く、世界最高記録を樹立しました。王選手は1959年、早稲田実業を卒業と同時に長島選手の1年後輩としてジャイアンツに入団、4年目の1962年の後半戦から一本足打法に開眼、ホームランを量産するようになりました。この2年後の1964年(東京オリンピックの年)には、年間55本と当時の国内最高を樹立、年間記録では60本のベーブ・ルースに及ばなかったのですが、1962年から74年まで13年連続本塁打王になり、75年こそ阪神タイガースの田淵幸一選手に本塁打王の座を譲ったのですが、76年、77年の2年間は再び本塁打王の座に付き、実に本塁打王15回を数えるスラッガーとして活躍、この日、遂にアーロン選手の記録を更新したのです。時の福田内閣はこの偉業に喜び、2日後の9月5日には、初の国民栄誉賞を授与しました。王選手は結局引退した1980年のシーズンまでの通算で868本という生涯本塁打記録を残しました。ホールランの年間記録、昨年ヤクルト・スワローズのバレンティン選手が年間60本を打って、ようやく王選手の記録を塗り替えました。しかし、生涯868本という記録は、誰かが塗り替えるのでしょうかね。ちょっと想像がつきません。
2014.09.03
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クロニクル 米艦ミズーリ号上にて降伏文書に調印1945(昭和20)年9月2日この日午前9時、東京湾に浮かぶ米国戦艦ミズーリ号上にて、日本の降伏文書への調印式が行なわれました。日本側からは、政府代表の重光葵外相と軍代表の梅津参謀総長が、連合国側からは、各国代表とマッカーサー最高司令官が夫々署名し、ここに満州事変に始まる15年の戦争は、正式に終結を見ました。日本側は降伏文書に署名する人選に手間どり、難航の末に足の悪い重光外相におはちが回りました。米国側は足の悪い重光外相のために、わざわざ艦上に椅子を用意して丁重に応対してくれたのですが、軍部は、降伏の文字が文書に入ることに、最後まで抵抗するなど、情勢を弁えない幼児性を発揮しました。なんとも情けない連中です。この正式降伏後、589万人に及んだ軍人・軍属の復員が始まります。この589万人のうち、外地に314万人が派遣されており、完全復員にはかなりの時間を要しました。このほかに、特に中国、朝鮮、台湾からの、多数の民間人の帰国問題が存在したのです。本来であれば、民間人の保護を優先し、民間人を先に帰国させ、最後に軍人・軍属が引き上げるべきなのですが、当時の日本の軍部や政府には、民間人を重視する発想はなく、自己の都合ばかりを優先したことが、帰国時の大混乱と数多くの悲劇を生んだのでした。
2014.09.02
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クロニクル 原始女性は太陽であった1911(明治44)年9月1日今年で103年ですか。この日、日本で始めての女性のみによる文芸雑誌『青鞜』が創刊されました。発起人となったのは、平塚らいてう等、1901年創立の日本で最初の女子の高等教育機関、日本女子大学校の同窓生達でした。そこに与謝野晶子や長谷川時雨らが賛助会員として加わり、青鞜社という出版社を設立しての出版でした。青鞜社は、約款に「女流文学の発達を計り、他日女流の天才を生む事」を目標に掲げて出発し、創刊号に載った平塚らいてうの創刊宣言「原始女性は太陽であった」は、自我を大胆に肯定した、熱烈な日本版「女性の権利宣言」とも言えるものでした。そして与謝野晶子が巻頭を飾った「そぞろごと」という一文で、「山の動く日来る」と『青鞜』に大きな期待を寄せ、女性の新時代の到来を予言したのでした。『青鞜』の反響は大きく、「新しい女性」の出現として、世の注目を集めました。翌年には神近市子や伊藤野枝らが加わり、発行部数も創刊時の1000部から、3倍の3000部に増加するなど、女性達の圧倒的な支持を集めました。こうして『青鞜』は1916年2月の廃刊まで、近代日本の女性解放運動の先導者の役割を果たしました。
2014.09.01
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