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毎週土曜日、出戸の会堂で、いつもやっているのがこども楽器クラス。ギターとピアノ、ドラム、ベースと教会の日曜学校に来ているこどもたちや、そのお友達が集まってそれぞれがやりたい楽器を練習しています。12月のクリスマス会のあと、しばらく「冬休み」ということで練習をオヤスミしていたんだけど、今日からまた再開です!!去年の最後はいっとき15人近くのこどもたちが集まって楽器が足らないというピンチにΣ( ;゜O) なんとか一人に1台とはいかないまでも、充分な楽器が与えられるように祈っていたら、なんと、ほとんどの子たちがお母さんやお父さんに楽器を買ってもらえたんですって! こんな形で楽器がそろうとは。 すごいなあって感謝しました。祈りってどんな形で実現するかは私たちは想像できないけど、必ず神様って聞いてくださってるんだな、と思います。コードもたくさん覚えられて、新しい曲を練習中!もしかしたら、みんな私よりもう上手になってるかも(笑)バンドとかできたらいいな~楽器クラス後のひとコマ。お菓子に群がる軍団はほとんど男の子たち!
January 14, 2006
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63章に続き、預言者の祈りが続く。彼は主のさばきと救いの御業の確かさを称えるとともに、民の罪を自らの罪として告白し、悔改めの祈りをささげた。罪の重さを認めて告白し、主の前にへりくだるとき、主はどのような罪をも赦されることを感謝しよう。彼は神を「父」と告白したように、私たちも大胆に父なる神へ近づき祈ることを覚えたい。そして、私たちを造られた方を覚えて身をゆだねるとき、主は陶器師のように私たちを新しいいのちへと造り変えてくださる。(KA記)
January 12, 2006
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(1~6)神に敵対するものに対しては、神ご自身の手によって必ずさばきの時はやってくることが記されています。さばきもあがないもすべては主の御手に握られていることを覚えたい。(7~14)預言者は主のあがないのわざを感謝し、賛美する。しかしその一方で御霊を悲しませ(10)「どこにおられるのか」と神様を見失うイスラエルの民たちの姿がある。(15~19)「どうかお帰りください」(17)背信の民たちのために預言者は主の熱心と力あるみわざをもとめてひたすらとりなしの祈りをささげます。今もなお、主はこの世にあってとりなすものを求めているのではないでしょうか。滅びにむかう魂を覚えて私たち自身がとりなしてとして熱心に祈り求めていきましょう。(HH記)
January 11, 2006
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「シオンのためにわたしは黙っていない。エルサレムのために黙り込まない」(1節)「黙る」とは「静まる」と同じことばです。どうか、神様の救いの約束に信頼して、どんな時にも祈ることを覚えたい。それが信仰にたつ生き方です。神様が私たちの救いのために働いてくださるのです。5節には「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。」とあります。聖書は神が私たちを喜んでくださっていると語っています。神がそんな風に私たちのことを思い受け入れてくださっているということは何と感謝なことでしょうか。(YS記)
January 10, 2006
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この章の1,2節は主イエスが故郷のナザレの町の会堂で朗読された箇所である。ここを読まれた後、「今日、この聖書のことばがあなた方が聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と、ご自分の使命を語られた。主イエスこそ、心の貧しいものに福音を伝え、罪のために悲しんでいる心を癒し、悪(サタン)の束縛から民を解放し、恵みの時代を開かれた。この素晴らしい恵みにあずかった私たちは、「悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の変わりに賛美の外套をつけさせられた。」(3節)のである。私たちは素晴らしい救いを与えてくださった、主によって大いに楽しみ、喜ぼう(10節)ではないか。
January 9, 2006
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今年も多くの年賀状をいただいた。以前、年賀状は形式的でムダではないかと思ったときもあったが、日ごろご無沙汰している方からの挨拶をいただくのは消息を知ることができるのでうれしく思う。最近はパソコンの普及で家族の写真入りの年賀が多くなってきている。なかでも愛息子、娘だけの写真が多く、子供たちの成長ぶりの早さに驚くのとともに、彼らのために日々祈り、苦闘し、喜んでおられる親御さんの姿が目に浮かぶのである。新しい年も、ひとりひとりのために家内と心を合わせて主に祈り、祝福を期待している。いただいた年賀の中で、クリスチャンの弁護士の先生が書かれた言葉が印象的であった。そこには 「最近、《お金でかえないもの》というエッセイに心が惹かれました。『金銭を愛するものは金銭に満足しない。富を愛するものは収益に満足しない。これもまたむなしい』(伝道者の書5:10) お金で家を買えるが 家庭は買えない お金でベッドを買えるが 安眠は買えない お金で時計は買えるが 時間は買えない お金で本は買えるが 知識は買えない お金で地位は買えるが 尊敬は買えない お金で薬は買えるが 健康は買えない お金で血は買えるが いのちは買えない希望、愛されること、永遠のいのち、人生の目的を知ること、罪のゆるし、さまざまな恐れや試練に打ち勝つ力…人が生きるために必要な《お金では買えない大切なもの》を、今年も紹介できたらと願っています。」と書かれていた。以前にその先生の講演で、いろいろな事件や訴訟の背後にあるものの多くはお金が絡んでいると聞いたことがある。お金をどう扱っているかによってその人の心が見えてくるものである。金銭に対する態度が信仰のバロメーターとも言われているが…今年もそれぞれが神から預けられているお金を正しく管理し、知恵をもってそれを活用し、お金では決して買えない大切なものを多くの人に紹介して神をお喜ばせしたものである。この年も、神が豊かにみなさんの経済を祝福されることを祈る。
January 8, 2006
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イスラエルに対し、主の救いと回復の預言が与えられていると同時にイザヤ書が記された当時のイスラエルの民は義人に心を留めることなく、はなはだしい堕落と偶像礼拝にふけっていた。主はイザヤに対し、民が主に帰ることができるように道を整えよ、と命じ、心砕かれて、へりくだる人を生かす、と約束された。主が彼らの背きの道を知りながらも、彼らが帰る道を備え、導き、罪を告白し信仰を告白するものを癒す、と約束された。しかし主の招きを拒むものには平安がなく、その罪とともに吐き出される、と語られる。(KA記)
January 5, 2006
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「なぜ、あなたがたは、かてにならぬもののために金を費やし、飽きることもできぬもののために労するのか。私によく聞き従え。そうすれば、よい物をたべることができ、もっとも豊かな食物で、自分を楽しませることができる。」(2節)「主において、思い煩うのはやめなさい。」あなたの思い煩っていることは、主においては、主につつまれているならば、すでに解決されています。あなたにはこの神が備えてくださっている明日があり、それはあなたを苦しませたり悩ませたり悲しませたりするようなものではなく、あなたに喜びと平安と感謝と賛美とを与えるものです。この神の救いは人の思いをはるかに超えたものです。人知をはるかに超えた神の道がイエス・キリストという形をとって、またみ言葉として与えられるときに、私たちの生涯に大きな変化をもたらします。11節に「そのように、わたしの口から出る私の言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。神の言葉、神の約束は、必ず私達の上に成就するのです。私達はそのことを信じるものとして生かされていることを覚えたいものです。(YS記)
January 3, 2006
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2006年の幕が上げられた。先週は元旦から始まる週の一日一章(聖書通読)の原稿を作成するために(今年も数名のメンバーと共に作成できることを喜んでいる)旧約聖書イザヤ書54章~60章を読んでいて「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ」という箇所が目に留まった。インド宣教に生涯をささげたイギリスのウィリアム・ケアリは1793年にインドに渡り、1834年に召されるまで「神から大いなることを期待せよ。神のために大いなることを試みよ」と語った言葉を文字通り貫いた生涯だったといえる。彼はインドにはじめて伝道したイギリス人で「近代海外宣教の父」と呼ばれている。イギリスのインド統治の方針と相容れなかったため、苦悩の中で伝道し続けた。あるとき、聖書翻訳こそが自分の使命であることに気づきベンガル語聖書を完成するに至る。インドの宣教の前進に大きな働きをしたのはいうまでもない。今日から始まる新年、神に大いなることを期待している。神が私たちを通しご自身の栄光をあらわされ、大いなるみ業が成されるということを考える時心がわくわくしてくる。イザヤ書60章の中に「起きよ。光を放て。」とある。私たちが主のまことの光で輝くものとされ、暗闇にいる人々に希望といのちを与える者であることを確信している。
January 1, 2006
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12月31日の夜11時から、教会でカウントダウンパーティ持ちました。まずは、2005年守ってくださった神様に感謝のお祈りと賛美。私たちの教会ではいろんなゴスペル歌います。いわゆる賛美歌っていうものから、ゴスペル、それにポップスぽいものまで。英語が原曲のものを日本語訳したのが多くて、時々和訳に違和感(?)があるものの、慣れていくと「いい曲だな~」と思います。賛美を歌うのをプレイズ&ワーシップとよくいいますが、ただ、歌を歌うのではなく、神様にささげる歌ということだから歌詞がダサいとかカッコいいとか、音楽が新しいか古いかということは重要ではなく心が問題ですものね。その後、2005年を振り返って、何人かの人が一言ずつコメント。感謝な気持ちを分かち合いました。それから聖書のお話。「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」という聖書の言葉からショートメッセージがでした。カウントダウンは成功して、秒読みちゃんと時計どおりできました(笑)パーティの後に恒例の年明けカップラーメン。けど時間が遅いので、お持ち帰り組もちらほら。なにはともあれ、2006年のスタートです。今後ともヨロシクです
December 31, 2005
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この間、シゴト納めのときに、同僚に聞かれました。「クリスチャンでもお正月お祝いするの~?おせちとか食べるの~?」って。…え??そりゃ、もっちろん!!でしょ♪( ̄一* ̄)ってかその質問にビックリしてしまいました(笑)だって日本人だもん。楽しいことはハズさないですよん。うーん、きっと欧米とかのイメージがあるんかな。うちはクリスマスも祝うけど、お正月もお祝いします。お祝いといっても、鏡餅とかしめなわ(あれこんな名前だっけ?ミカンみたいなんついてるやつ)とかは飾らないけど、おせちも食べるし、年賀状もかくし、お年玉ももらう♪(ヤ、もうあげなくちゃいけない歳…)今日も年賀状書くのに必死でした。「元旦」とか書いてるくせに絶対、1日にはつかないね^^;その代わり、初詣で神社とかは行きません。初もうでで、教会にいく。去年1年、感謝だったことを振り返りつつ、新年も祝福たくさんくださる神様に感謝しよ~!ってことで礼拝をもちます。 その後は、なぜか毎年恒例のボーリング大会!さ、その前に、今日は大晦日のカウントダウンパーティ用のカップラーメン買いに走りますっ!年越しそばならぬ、年明けラーメンなんです(^^♪
December 30, 2005
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主は救いの神、正義の神である。主の約束に全面的に信頼できないでいる民に対して、「私はあなたの神、主であって海をかきたて、波をとどろかせる。その名は晩軍の主」(15節)と主の権威と力を示して、その力ある主がとらわれ人を解放し、大いなるあがないを与えてくださる神であると語られる。私たちが地の上に住む古びて消え去るものに目を向けるときに、人の顔を恐れ、人の言葉を恐れ、目に見える状況に振り回されてしまう。しかし、「海をかきたて、波をとどろかせる」万軍の主に目を上げて歩むとき、私たちのうちから恐れは消え去り、環境を支配して歩むものとなることができる。私たちはどんなときにも主に目を上げて歩むものとされたい。(DT記)(2004年からスタートしている八尾南福音教会聖書通読の箇所です)
December 30, 2005
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イスラエルでは離縁状をだせば離婚することができた。また貧しいものは、債権者に自分の子を奴隷として売り渡した。しかしイスラエルの民がエルサレムから連れ去られたのは、父である主が民の母であるエルサレムに対し、離婚状を出して離縁したのでなく、自らの罪のために、一時的な別居状態におかれていたのであり、まして父がその子である民を外国に売り渡したのでもない。主との関係は保たれており、あがないの約束は果たされる。しかし預言者を通して主が呼びかけたときに民は答えなかった。主の声を聞かないものは、自分の知恵や力で歩もうとして主のさばきの道を進むが、主を恐れるものは苦しみの中を通ろうとも主が私たちを助けられる。(KA記)(2004年からスタートしている、八尾南福音教会の聖書通読の箇所です。)
December 29, 2005
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(v1~3)主は母の対の中にいる時から私たち一人一人を選ばれ、今日まで守り導いてくださり、ご自身の栄光を現すために今も私たちのうちに働き続けておられる。(v4~6)このところでイザヤが語っているように、私たちも宣教の働きにおいて、何の変化も応答も見られないとき、疲れ、くじけそうになることがあるかもしれない。しかし、主は言われる「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまで、わたしの救いをもたらすものとする。」ただ純粋に主の約束を信じて更なる神の国の建設のために、共に前進していきましょう。(v7~26)エルサレムの回復を預言され成就された主は生きておられる。「すべてのものが主が救い主であり、力強き者であることを知るために」(v26)祈り続けていきましょう(HH記)(2004年からスタートしている、八尾南福音教会の聖書通読の箇所です。)
December 28, 2005
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ほとんどのご家庭ではもうクリスマスのイルミネーションなど取り外して、いよいよお正月の準備に忙しくされているところでしょうね。教会でもクリスマスのイルミネーション、26日に片付けました。けど本当は、25日が過ぎてもいつまでもクリスマスの飾りつけってしておきたいんですけどね^^;「サンタさん」のイメージがとっても強いクリスマスですが、本当はChrist(キリスト)+mass(礼拝する)っていうイミのクリスマスですから、クリスチャンとしては毎日がクリスマスでありたいな~、なんて。ま、飾りつけがなくてもそういう気分は味わえるでしょ、って言われたらそりゃそうなんですが(^^ゞ教会のメンバーの皆さん、お掃除お疲れ様でした。(シゴトに行っていてお掃除手伝えなかった教会スタッフでした←ヲイ!)
December 28, 2005
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見よ、私はあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた(2節)神は憐れみ深いお方ですが、私たちはその憐れみ深い御旨を拒み続ける非常におろかなものです。その裁きでさえも神は「あなたを練りきよめるため」と語られました。本当は見捨てられて二度と顧みられないものであるのに、神は裁きの中にあってもイスラエルの民を救おうとしておられます。その救いは単にバビロンから救い出すということではなく、その民のうちに平安と義とが回復していくという内側・外側両方の救いでした。罪のゆえに裁きをおうことも確かにありますが、私たちがたとい神にすがるものであっても、苦しみの炉の中を通されることがあります。そのようなときに、私たちは自らがなおも主の手に置かれていること、主が私たちをきよいものとするために御子の尊い血が流されたこと、主イエスの御心を知りたいものです。(YM記)(2004年からスタートしている、八尾南福音教会の聖書通読の箇所です。)
December 27, 2005
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イスラエルは神により頼まず、預言を信じようとせず、常に偶像を求めていた。この神への背信よって懲らしめのために、神はイスラエルをバビロンに引き渡された。バビロンという国は神の祝福を受ける価値のある立派な国だったというわけではなく、イスラエルを懲らしめるために用いられた神の道具にすぎないが、「私は特別だ」(8,10節)と思い続け、「自分の終わりのことを思ってもみなかった」(7節)ので自らを神の一に置いた、その高慢さの故に滅ぼされた。私たちは歴史の全過程を預言し、支配される神の絶対的な力をここでみる。私たちは偽りの繁栄や平和にとどまっていてはならない。神の憐れみによってこんにちがあることを覚えよう。(FT記)(2004年からスタートしている、八尾南福音教会の聖書通読の箇所です。)
December 26, 2005
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