1

・子供たちの瞑想子供たちが瞑想で教導され、また教わるときは、特に初めに練習するための静かな場所が選び出され、そこにはどんな邪魔も入らないということが重要である。その際にはまた、子供が気に入る、そして子供に安全であるという考えや感情を与えるような場所もしくはスペースが選ばれることが重要である。それはラジオやテレビのスイッチが入っていない空間であるべきで、その空間は、他の人がいないこと。理想は、小さな瞑想コーナーが整えられうる自分の子供部屋である。しかしながら、その際より重要なのは、子供に瞑想を実演して見せることであり、教える人(両親のうち一人もしくは両方)が子供と一緒に瞑想することである。そのような手本が瞑想を学ぶ子供にとって重要なのである。というのは、子供は常に手本をまねしながら行動せずにいられない。この過程で、瞑想の間、子供に説明が与えられることはとても良い応用なのである。たとえば、それが特にどのような状態なのか。つまり、状況によってどのような思考と感情が現れているのか、どのような上達もしくは難しさが現れているかなど。事実、子供たちが瞑想に至るのは早すぎることはない。というのは、それは早く行われれば行われるほど、調和を取ることが際立って成長するから。つまり、義務教育の年齢において、学業成績も良くなるということは、そこから生じるポジティブな要素でもあり、同じく葛藤とポジティブに向き合えるよう発達し自己意識が強固になるという事実もある。それについて説明している手ほどきは、必須の事でもあり、子供と一緒に瞑想しそれに子供が習うべく手本でもある。その際、子供に過大な要求をするのではなく、子供に自由な意志と子供自身の能力の成長の可能性が与えられることも重要である。これが意味するところは、そのルールは、子供が何も強制されるのではなく、子供ができる時間の長さだけじっとしているべきということ。次第にじっとしている時間が長くなるが、そのことは瞑想をつかみ、それゆえ進歩が生じていることを意味する。子供が落ち着きのないあるいは活動的または大変活発な子供ゆえに、じっとしていることが負担になるなら、むしろ姿勢、体を動かすことあるいは体操練習の簡単な方法で表現することが適しており、それから次第に静かな瞑想が生じる。子供の活発さが続くなら、静かな瞑想の前に運動の瞑想を行うこともできる。その瞑想は、とりわけ短時間の踊りであり、子供と一緒に実施される。適切に存分に暴れさせ静かになる方法も一つのチャンスであり、子供はある状態に5分、10分もしくは15分それ以上じっと座っていられる。多くの大人のように、子供たちも良質で適切な瞑想音楽、彼らのお気に入りの短い物語もしくは子供たちが鮮やかに思い浮かべることができるようにされたファンタジーを好む。子供に物語やファンタジーが語られるか、読み聞かせるとき、子供がそのまま静かに座り、聞くことに集中するなら、話すときの声は静かに、心地よくそして調和のとれたものであるよう注意が払われなければならないが、その際、子供を注意深く観察し、子供の呼吸に気付かなければならない。その語りは、すなわち子供の呼吸に合わせられているべきで、常に子供が息を吐くときに話されるべきである。なぜなら、このことはリラックスすることと受容能力にとって好機であるから。同様に、このことは瞑想について教える人、母、父、もしくは他の子供に気に入られ、好ましい教育者にも適用される。話すときに子供の呼吸リズムに合わせることは、子供の腹部に手を当てる身体接触同様にとてもメリットがある。このことはまた、子供の呼吸のリズムが大変良く感じられ、話をそれに合わせることができるというメリットがある。子供たちはとても感受性が細やかな性質を有しているので、子供たちは何の束縛も受けずに体で感情を行動に移して発散することが、あるいは自由に行動を転換させることによって内的な緊張を消散させる必要もあり、同様に休息と静寂の機会も必要なのである。それを考慮すると、子供にだけ多くの助力になるのではなく、この全体は教える人にとって大いに教訓にもなり瞑想的な効果もある。このことは他方ではまた、子供たちが両親やその他の教える人たちからだけ学ぶだけでなく、大人たちも非常に多くのことを子供たちから学べることを示している。子供たちが歳を重ね、それによって彼らの理性と知力が成長すると、彼らは自らの内面の価値への注意を喚起し、自分自身でそれに対して関心を持ち、自分自身の内面に気を配ることや観察することを把握する。そうして、彼らは自らの内的な宝物を発見し、この宝を理解し、絶えずさらに拡大する。彼ら自身の性格を発見し、自分自身を形成する。そしてまた徳や長所も学びとり、これをすべて備え、生かすのである。そしてそれゆえにまた、大人がとても多くのことを子供から学ぶことができる可能性が生じるのであり、それによって、学ぶことが双方にとって、どんな人間にも見逃してはならないとても価値ある要件であることが判明する。大人たちによるこの学びの時に大切なことは、子供の瞑想の間や瞑想以外のときも詳細を観察し、子供のすべてを知覚し、子供に瞑想の練習は先入観なく、ニュートラルに実行すべきであることを指摘すること。つまり、もしもやしかしということなしに。大人同様、子供もすべてを成り行きに任せ、作用させなければならない。このことは、子供に忍耐強く説明されなければならない。子供が何か間違っている場合は、穏やかにきっぱりとそれについて指摘しなければならない。けれどもその際、批判したり、批判的な顔をしたりすることはしない。そしてまた否定的な発言はやめなければならない。というのは、この発言は子供の瞑想を援助するのではなく、子供の憤りと無関心を助長するから。また、偏見を引き起こし得ることはすべてやめなければならない。というのは、さもなければ子供から自己決定の全ての可能性を奪うからであり、子供に自己発展のあらゆるチャンスを渡さずにいることを意味する。ビリー 2018年正しく思うこと 高等生命体の創造エネルギー 瞑想の目的・叡智と調和の時代昨年、シューマン共振が過去最大のパワー120を計測した。年末に、その4倍にあたるパワー450を観測する。私たちは本質的な能力を取り戻すということをしている。25860年周期で銀河の巨大な中心太陽のセントラル・サンからのエネルギーに大きな影響を受ける位置へと、地球がその影響を感じられる水瓶座時代に突入している。水瓶座時代(1844年2月3日より始まり1937年に急速に進展し、2030年に地球は転換期を終え、黄金色の光線の中にまばゆいばかりの光に浴することとなる)とは2155年間続き、意識の進化の時代でもあり、叡智と調和の時代でもある。アトランティスとムー大陸の偉大な文明社会は2万年以上もの歳月の間、ずっと平和を維持してきた。今と同じような経過をたどり、終焉を迎えることとなる。時を経て、今日、地球人が文明を再び築いて科学技術を学び直すまでに何千年もの歳月が費やされることとなった。宇宙艦隊・プレアデス・オリオン・リラ・ベガ人たちは、世界的に人口を劇的に抑制できるこの僅かなチャンスを逃してはならず、私たちが様々な種族であるというハンディを乗り越え、種族としての多様性を逆に活かして進化できるようにと願っている。エゴを脇に押しやり、意識領域を自在に旅することのできる者は、自分だけが当てはまる生まれてきた意味を見出せるはずである。エゴの力の及ばない意識領域で創造の存在を発見し、全ての生命形態が創造エネルギーと力によって一つに結ばれているということをしることが出来るのだ。本質とは何かを理解すれば、物質的な意識の目的に気付くことがいっそう容易となるでしょう。瞑想(日々の生活において、以下のことが留意されなければならない)1.すべての仕事と比較して十分な睡眠をとること。2.個人の自由は、正しい意味において育まれること。つまり、本当の内面の自由が育まれること。3.個人の喜びは、快く認められるが、その際個人の喜びは、病的な欲求、悪癖、激しい欲望や享楽の上には築かれない。本当の喜びは、内面の喜びであること。4.日々の単調さをぶちこわすこと。このことは、本当の正しい内面の態度によって実現されること。5.人生は、調和のとれた感覚において、本当に、喜びに満ちて享受されること。6.些細なことにも喜ぶこと。7.人生におけるさまざまな状況の滑稽さをまじめに取り合わず、この滑稽さも、冗談や非難もひどく深刻に受け止めないこと。8.常に自分の目標を定め、その目標を見て、本当に最善の力で努力すること。9.自分自身の力と能力を扱うことでマイスターになり、常に、これらを最善の能力へと発展させること。10.成功は決して受け継がれる事柄ではなく、人生のつらい仕事と自己克服に対する報酬であること。○言うべき言葉〈日々の生活において、人間は次の言葉を繰り返し自分自身に言うべきである〉1.まことに、私は創造観念の最も輝かしい創造である。2.まことに、私は創造の秩序および私自身と完全に一致している。3.まことに、すべてが私にとって最良となる。なぜなら私は創造の観念の成果に生きているからである。4.まことに、想念において想像においても感情においても、私が成功するためにいかなる抵抗もないことを私は知っている。5.まことに、私は何でもでき、常に成功する運命にあることを知っている。なぜなら、そうなっているからである。6.まことに、私は自分の運命を鍛造する鍛治屋であり、健康、平和、平穏、愛、尊敬、畏怖、成功、そして豊かさを自分へ引き付ける意識と心の磁石である。7.まことに、自分の想念が自分の力であり、その力で自分のすべてを決定することを、私は知っている。8.まことに、自分の想念は私の意識と潜在意識の力であり、私はあらゆる瞬間にその力と結ばれている。9.まことに、私は嬉しく、幸せで、愛に満ちている。10.まことに、私は創造意識と、そして自分自身とも一つである。11.まことに、私の人生と活動は成功からなる。なぜなら私は最も成功したものが成功であることを知っているからである。12.まことに、私の人生は成就である。なぜなら私の中ですべてが成就されるからである。それは私自身が成功だからである。ビリー1978年無意識に正しいことを行えば、正しい結果がでる
2021.01.09
閲覧総数 2104
2

○セミヤーゼの言葉祈りとは、基本的にあなた方の言語で祈りという名称で実際に表現しているものとしてのみ、捉えられるべきである。つまり祈りとは、本当は人間自身の霊に希望を呼び掛ける形をとった一種の願いなのである。その意味は、私が必要とするあれやこれやを与えて下さいというもの。しかし、自分の霊の力と知識と能力を意識した真の霊的人間は、もはやそのような祈りを行わない。というのは、彼らはすでに自分たちの霊の全能の力で、何でもできるということを熟知して生きている。この理由から、彼らは自分たちの霊の全能を絶えず有効に活用しようとしている。でもこれは霊的でない人間にはできない。そこで、意図的な祈りによってその霊を活性化しなければならない。もっと詳しく言えばこうである。霊的な人間は、絶えず自分の意識および霊の力と能力を極めて意図的に活用するが、懐疑にさいなまれ自分を卑下している非霊的な人間は、祈りによって願望を表明するにすぎない。しかも通常、彼はこの願望を一度たりとも自分自身の霊や創造に向けることはなく、宗教に依存する何らかの高次の権力や力に向ける。しかし、それらは本当は存在しないか、または見当違いのものであって、創造への呼びかけは一度もない。教派や宗教に毒され祈りに依存する人間は、何らかの偶像や神々を信奉しても、創造を信奉することは決してない。祈りに依存する人間の誤った道は、あらゆる願望や呼び掛けにおいて空想へと続き、彼は法則に反して無理やり自分の願望を実現しようとする。ある事物は霊的な考え方において、意識的思考が理解できるのとは異なる仕方で呼ばれたり表現されたりする。だから、特定の事物に対して様々な概念が用いられるが、それらの深い意味について通常意識の人間は少しも知らない。残念なことに、それは宗教の利点でもあり宗教家はこれらの概念を、自分の都合の良いように変えたり評価したりする。あなたが挙げた祈りに登場する数々の概念は、それぞれ次のことを意味する。 a)全能:全知、万能で、無限に賢く、普遍的に真で、完全に論理的で、万物を愛する b)聖なる:統制的な/統制を行うなど(讃えるなど) c)天:霊の王国/霊王国、霊的生活など d)地:肉体/物質的生活など e)糧:全能/意識の栄養/霊の栄養 f)罪:発達と認識に必要であり、それゆえ犯さなければならない過ち霊的な潜在意識であれば、霊的な思考形態を苦もなく把握し受け入れることができるので、祈りでは純粋に霊的な思考形態が用いられる。それによって、多数の言葉を連ねた無意味なおしゃべりは不要となる。たとえ、意識それ自体は霊的形態で示された表現を理解できないとしても、霊的な潜在意識によって霊と協力して、逐一理解し評価する。非霊的な人間は、たいてい宗教にとらわれていてこのような知識を与えられていないために、霊的思考形態の意味するところを解釈できない。他方このような人間に、これらの知識を説明してやることもできない。なぜなら、彼らはその意味を把握できないから。まさにこれを裏付けるように、人を惑わす宗教はお喋り祈りを作成する。これらは非霊的な人間が、意識レベルで説明したり把握したりできるものである。だからこうした邪悪な惑わしによって、その人間は宗教や教派に身を捧げるようになる。それというのも、自分自身で言葉や意味が理解できる祈りを何らかのものに差し向けると、自分の中でそのものに対する信仰が育ち、押し付けられた信仰の奴隷となってしまうから。しかし、イマヌエルは祈りを布告したとき、それを利用する人間が言葉の意味を理解せず、したがって、安易に信仰に陥ることはないと考えていた。けれども、霊的な潜在意識はそれらの言葉の意味を理解するので、祈りが十分に利用された場合、人間の霊的な諸力は呼びかけに呼応し、それらの言葉が望む形で発達する結果となる。しかも意識は、それが本来意識自身には理解できない祈りによって要望、要求されたものであるということを知らない。このような方法で信仰の影響を受けることなく、徐々に認識と真理に関する知識が獲得される。人間が自分でその意味を少しも知らない事柄をなし、それらの物事から極めて特定の帰結や結果が生じるなら、たとえ当の人間が意識によって知ることがなくても、それらはまさに今呼びかけられた諸力の影響に他ならない。人間が無意識に正しいことを行えば、法則によって正しい結果が出るようになっている。しかし、人間が信仰によって意識的に、たとえば祈りのような特定の形で何かを企て、それが実際に待ち望まれた結果をもたらすならば、これらの結果は信仰と空想に起因するものであり、信仰に依存した意識の中で生み出されたものである。では、イマヌエルが作成した祈りを解釈してみよう。○何万年も昔から唱えられている言辞全能なる私の霊よ、あなたの名が讃えられますように。あなたの王国が私の内に具現され、地にも天にも、あなたの力が私の内に広がりますように。日々の糧を今日も与えたまえ。そして私が自らの罪を認め、真実を認めますように。誘惑や混乱に陥れることなく、誤りから救いたまえ。あなたは私の内なる王国であり、力であり、そして永遠の知識です。全能なる私の霊よ、(私の内にあって全知、万能で、無限に賢く、普遍的に真理で、万物を愛する私の霊よ)あなたの名が讃えられますように。(あなたの名前は万物に対するあなたの能力の統制的な力を私に証明します)あなたの王国が私の内に具現され、(あなたの全能は私の内で私の思考の意識性にまで広がっているので、私は与えられ集められた私の知識と力、英知と真理、さらに普遍の愛、平和および自由を、意識された能力において活用し、展開し、利用します)地にも天にも、あなたの力が私の内に広がりますように。(あなたの力が私の内で、私の身体そしてすべての霊的領域において意識され確実となりますように)日々の糧を今日も与えたまえ。(あなたの全能を日々私の内で働かせ、展開させ、私の無知に知識と英知の栄養を与えたまえ)そして私が自らの罪を認め、真実を認めますように。(それによって私は自分の発達の途上で犯した過ちを認識し、取り除くことができます)誘惑や混乱に陥れることなく、誤りから救いたまえ。(私が物質的で世俗的な物事や誤った考え方によって錯誤の道を行き、邪説によって信仰依存に陥ることのないようにして下さい)あなたは私の内なる王国であり、力であり、そして永遠の知識です。(なぜなら、あなたの全能、すなわちあらゆる時代にわたって続くあなたの絶対的な能力と知識の力は私の内で意識されているからです)※( )は、セミヤーゼ解釈○言うべき言葉〈日々の生活において、人間は次の言葉を繰り返し自分自身に言うべきである〉まことに、私は創造観念の最も輝かしい創造である。まことに、私は創造の秩序および私自身と完全に一致している。まことに、すべてが私にとって最良となる。なぜなら私は創造の観念の成果に生きているからである。まことに、想念において想像においても感情においても、私が成功するためにいかなる抵抗もないことを私は知っている。まことに、私は何でもでき、常に成功する運命にあることを知っている。なぜなら、そうなっているからである。まことに、私は自分の運命を鍛造する鍛治屋であり、健康、平和、平穏、愛、尊敬、畏怖、成功、そして豊かさを自分へ引き付ける意識と心の磁石である。まことに、自分の想念が自分の力であり、その力で自分のすべてを決定することを、私は知っている。まことに、自分の想念は私の意識と潜在意識の力であり、私はあらゆる瞬間にその力と結ばれている。まことに、私は嬉しく、幸せで、愛に満ちている。まことに、私は創造意識と、そして自分自身とも一つである。まことに、私の人生と活動は成功からなる。なぜなら私は最も成功したものが成功であることを知っているからである。まことに、私の人生は成就である。なぜなら私の中ですべてが成就されるからである。それは私自身が成功だからである。もし人間が正しく考え、知ろうとするのであれば、唯一、創造のみ、または霊を最大の力として認め賛美するのがよい。実際、人間の概念からすれば創造は神と呼ばれるべきである。なぜなら神という言葉は創造を表すべきだからである。言うまでもなく人間にとって、突然、神ではなく、創造または霊に祈るということはなじめないことでしょう。しかしこの試みをあえてすることをすべての人々に勧めたい。そうすれば祈りの形態が変わってきて、底知れない安らぎに包まれるという独特の確認をすることでしょう。また、その人は祈りが聞き入れられ、人生が好転し、幸せになったことを確認することでしょう。創造に語りかければ、創造の一部である人間の霊が自ずから語りかけられるのであるから、何の不思議もない。創造は実際にすべての生命の上に立つ、最も素晴らしいものである。そしてそれだけでも、人間から創造として尊重され、敬われ、認められるに充分に値する。宗教が押しつけようとする神に対する崇拝と尊敬は不自然であり誤っている。これを知っていながら宗教の神に祈るものは創造の掟に反しており、霊的な完全性に至る発展の道、すなわち霊的な知識と創造的な英知への道を妨げることになる。
2020.02.03
閲覧総数 1894
3

皆さんが聞きたいことや知りたいことについて話す前に、次のことを明確にしておきたいと思う。太古の昔から、文化的な出会いや経験をもたらしたとされるものは、それらは実際に起こったことがない。しかし、その前にこれだけ。残念ながら、私が約4000〜6000年前を意味する昔の初期には有効な宗教が出現していた。これは通常、多神教に関連したもので、それによって多数の神々の宗教的崇拝がそれぞれ行われていた。様々な神や異なる神、女神だけでなく、自然の精霊や神として崇拝されていた人々も、今日でも馬鹿げたやり方で行われている。古代世界の宗教は多神教であり、これらの信仰には神や女神のほか、自然の精霊や人を神として崇めるものがあり、馬鹿げたことにそれは現在でも行われている。古代の宗教のほとんどは、私の見聞きしたところによると、約6000年前にさかのぼると多神教であり、これらの信仰には神々の世界があり、元々生きていた人物の何世紀も前からの伝承に基づいた人物であることが多い。しかしながら、これらの伝承は時間の経過とともに、実際に起こったとおもわれるものでますます頻繁に装飾され、それに加えて幻想が生み出され、それに加えておとぎ話に絶えず新しいものが加えられて装飾され、さらには人が聖人のような人物に祭り上げられ、最終的には全体が完全な非現実的なものにしか対応しなくなった。これは記号の形でも起きており、石の碑文、石の像、彫刻、文章などでも起きている。これらは今日、科学者によって額面通りに受け止め、もはや疑問を抱かない。そのため、科学的に証明された主張であっても、実際の現実や真実とは一致しないことが少なくない。そのため、イマヌエルやモハメッドの疑惑のある、作られたことのない発言や教えに関する嘘、ごまかし、誹謗中傷など、本当の現実や真実とは一致しない科学的に証明された主張につながることがよくある。年代記などの文章で記録された純粋に歴史的な性質を持つ事実であっても、歴史家、宗教家、哲学者、その他のいわゆる学者や科学者のあらゆるジャンルの人たちによって、額面通りに受け止められその真偽が問われることはない。彼らに本当の真実について質問した。そのため現在まで存在する、石に彫られたり、動物の皮や樹皮、パピルスなどに記録されたりした、古い古代の文字、文章、彫刻、記述などはすべて考慮されていない。古代をはるかに超えて、人間によって作成された。これはすべてを自分の理解、評価、解釈に従って作り、その結果、自分たちのためだけに自分の個人的な視点から解釈し、理解し、想像し、修正した方法で物事や事実を記録して、地球人から生み出されたもの。このことは今日までも続いており、現在もそうであり、将来でもそうでしょう。今日ではあらゆる教科書、すべての新聞記事、すべてのテレビやラジオの放送、その他あらゆる場所で毎日見つけることができる。なぜなら、関係する地球人の個人的な感触はすべての人に不可欠に記録されており、これがその人だけにどのように当てはまるか認識される。これは、私の発言を理解するために必要と思われることを述べるが、これ以上説明する必要はない。さて、ここからは皆さんが知りたいことである。今日の仏教は、ゴータマ・シッダールタが教えや法として広めた教えが原型となっているが、ゴータマ・シッダールタの教えは、現在の仏教とは異なるものであった。原始の教えは、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教などに絶対的に反対していた。それは、有神論的宗教や有神論的宗派に対応しておらず、その結果、全能の神への崇拝を一元化するためのものでは決してない。しかしもし私が今、仏教について話さなければならないとしたら、全体がかなり広範であり、より正確な説明のために脱線が避けられないので、そのためにはより長い時間をかけて、しかも何度も説明と解説を繰り返さなければならない。しかし、これから言われること、説明されることすべてに耳を傾けて欲しい:原初の教えは、信仰でもなく、宗教でもなく、哲学でもなく、ましてや宗派でもなかった。なぜなら原初の教えは、多くの人々が自分自身を発見し、考えられるすべてのことで自分自身をコントロールし、自分自身を真の独立した人間にし、また自分自身を助け、人生の悪しき陣営から自分自身を解放し、そして自分自身を築き上げるための信頼できる方法を示した貴重なガイドであった。それは意欲を持った人々が、その教えに従えば、内と外の平和を見つけ、自らの努力で外的な悲惨さから解放し、真の人間になるための確実な方法を示した原初の教えであった。つまり、当時のゴータマ・シッダールタの教えについては、今日の「霊の教え」や「真実の教え」、「創造エネルギーの教え」、「生命の教え」のように、プレヤーレンであるクラデーナ・アイカリーナが11歳の時に「真実の静かなる革命」と呼んだものと同様に、人々の意識の発展を促進させて成熟し構築できるようにする自分自身と、自分自身の真の能力を使い、自分自身を助けることができるようにすることであった。これに基づいて、ゴータマ・シッダールタの教えがあり、その生涯の物語、教え、彼の仕事などがある。しかし彼の生存中に、敵対者、知ったかぶり、間違った解釈や宗派の創設者によってすでに完全に改ざんされ、彼の死後さらに歪められて、それによって本来の教えから分裂して仏教の宗派と呼ばれるようになった。というのも、ゴータマ・シッダールタの基本的なオリジナルの教えが、仲間や他の信仰を持つ人々への憎しみという点で徹底的に変えられ、改ざんされ、それが迫害、追放、殺人、虐殺、破壊、戦争をもたらした。その何よりの証拠は、今日のビルマに見つけることができる。そこでは、ミャンマーのアシン・ウィラトゥという僧侶のイスラム嫌いで過激なビルマ仏教の宗派が、国民の大部分を占めるイスラム教徒を圧迫し、軍によって国外に追い出し、それによって殺人や虐殺も日常的に行われている。一方で、他の堕落した仏教グループの他にも、チベットのラマ教や、モンゴルや満州・ツングース文化圏、さらにはブータン、シッキム、ラダックなどで広まっている仏教の形態についても言及する必要がある。チベットのラマ教の仏教宗派だけを見ても、それはミャンマーと同じくらい多くの悪さを現している。なぜなら、ラマ僧やパンチェン・ラマ僧がそこで行っていることは、ゴータマ・シッダールタの頭から帽子を吹き飛ばし、彼は嫌悪感、恥ずかしさ、痛みで墓の中で振り返るだろうから。 チベットのラマ教の残虐性だけを説明しようとすると、それについて何冊もの本を書かなければならないが、ゴータマ・シッダールタの本来の教えとはもう、全く関係のない、完全に間違った仏教の教えを実践している、仏教宗派がどうなっているのか、その一端を紹介する本をお勧めする。昨日と今日の仏教の宗派主義、特にラマ教とそのパンチェン・ラマ、そして同様に卑劣なダライ・ラマ・テンジン・ギャムツォについて、実に明確な洞察を得るために、ヴィクター&ヴィクトリア・トリモンディ,パトモス出版,デュッセルドルフの著書『ダライ・ラマの影』という本がお勧めである。ゴータマ・シッダールタの実際の人生と仕事は、完全に虚偽で、嘘や誹謗中傷に満ちた伝承によって今日知られているものとは事実上全く異なっていた。彼は瞑想が非常に重要な役割を果たし、それを通して常に平和と調和を得る人生を送っていたが、彼は彼らが偽造したものとは非常に異なって説明し語ったので、多くのことが伝えられていたものとは異なっていた。なぜなら彼は、非常に多くのことを彼の死の前後に存在する偽装された伝承が示すものとは、完全に異なる方法で非常にたくさんのことを説明し語ったために、多くのことが伝えられているものとは異なっていた。これは、イマヌエルやモハメッドの場合と全く同じで、彼らの教えや仕事などは、時間の経過とともに、すでに生涯、特に死後の長い間にわたって改ざんされており、彼らの口から出た言葉は否定され、空想され、帰属されて、どんなに努力しても超えることが出来ないほど、その内容は灰のような嘘と中傷でいっぱいの聖典に仕立て上げられている。ゴータマ・シッダールタは20世紀に流布した、ある疑惑の真の伝承を読み上げられて質問され、その多くは真実ではないと断言した。例えば、彼の人生、知恵、特別性は生まれた時から予言などされておらず、彼の一族は王族の地位にも就いていなかったという。彼の家系は王族ではなく、小さな貴族に過ぎず、父親は釈迦族地域の小さな摂政だったという。彼の家族は、下級貴族である妻のヤソダラーと息子のラーフラ、そしてハシタ(Hasita)、アバーヤ(Abhaya)、ジュナナ(Jnana)、ガウリマ(Gaurima)の4人の娘で構成されていたが、彼の時代には女の子や女性は劣った存在であり、実際には悪い価値のない品物としてしか扱われていなかったが、彼はその全員を愛し尊敬していたという。彼は、人間の男女はどちらも同じように平等だと考えていたが、どちらかというと女性の方を少しだけ尊重していた。なぜなら、女性は生命を与え、生命を維持する存在であり、それなしには生命は生まれず、存在し得ないから。これに対してシッダールタは、若い女の子と女性は軽視され評価されず、しばしば誘拐されてベシャバサ(Veshavasa)(売春宿)に監禁され遅かれ早かれ殺害されたのは、シッダールタと彼の人生について書いた伝承の作者によって隠されたのだろうと説明していた。しかし、当時のネパールやインドがそうであったように、私自身が長い間、インドやネパールで目撃してきたように今もそうなのである。シッダールタはしばしば数日から数週、家族を離れ28年間、教師として国中を禁欲主義者として歩き回り、人々に教え、自分の瞑想の方法と人生の意味を見つけて理解するようにと教え、また、神は存在しないので助けてくれない、だから自分で自分自身を助けて、すべての病気や苦しみ、運命のいたずら、そしてすべての悪や災難から自分を解放しなければならないと教えた。それでも彼は、それほど長い間無欲ではなかったし、誤って伝えられているように家族を捨てたわけでもない。また、彼の説明によると、彼は他の賢人や経験者の教えを使わず、彼自身の洞察力、経験、個人的な体験のみを用いており、それらを明確かつ曖昧さもなく表現している。このことは彼もまた、自分はただ自分の瞑想を実践し、すべてのことに関して自分の道を進み、すべてのものの真実を自分で探し、それを評価し、そこから深い知識とすべてのことへの遠大な理解を得たと明確に述べている。彼だけが、人生に必要なすべてのもののつながりを見つけて認識し、自らを知識人、賢人とした。このようにして、彼は内面的に欲望や仲間よりも上になりたいという欲求から解放された。そのため、彼が常に様々な社会階級の人々から大きな賞賛と献身を示され、彼が偉大な悟りを持った人と呼ばれたとき、それは彼にとって不便で恥ずかしいことであった。これに対して、彼は恥ずかしそうに説明しながら、断らなければならない要素が非常に多かった。しかし、すべての防御策が実を結ぶことはなく、ブッダとしての評判を取り除くことができなかった。彼がこの評判を諦めてくれればありがたい。さらに彼は、それが彼の心にはないので、自分の教えを基礎として拡大すべきである大きなコミュニティを作ることは絶えず拒否しなければならなかった。確かに彼の周りには、常に彼の教えに従う信者の面倒を見てくれている数人の忠実な男女が居たが、彼はこの方向ではこれ以上何もせず、全体を開かれた学習共同体として維持したいと考えていた。そうしないと、信者の動きが生じてしまい、それは彼の目的とは一致しなかった。シッダールタは、信仰組織を持たずに、一人または小さなグループで公然と演説を行ったため、このようにして社会的に異なる階級の人々をものにすることができ、そこから教えを伝える伝統的な学校のようなものが発展し、それが多くの人々にとって人生の教えとなった。それはまた、「真実の教え、創造エネルギーの教え、生命の教え」に通じるものである。しかし、その全てが羨望を呼び起こし、敵だけでなく、彼が生きている間にも邪悪な敵が現れ、彼を嘘つき、詐欺師として侮辱し、教えを偽造し、シッダールタを罵り、彼の教えを不可能にする陰謀論としてそれを利用した。このことは、支持者や知ったかぶりの人たちが、彼の生前や死後にすでに彼の仕事全体や彼の人となりを美化したり、最後の例が証明しているように、個人の裁量や理解に従って彼の本来の教えを偽造したりする一方で、嘘の解釈の改ざんされた作品が、今日、シッダールタとすべての真実の事実を超えて世界中に配布されており、すべての仏教徒に嘘と誹謗中傷の作品として、仏陀やダルマの、本当の本来の教えとして押し付けられていることを意味している。時間の経過とともに、ゴータマ・シッダールタの本来の教えは、他の宗教や宗派の誤った教え、習慣や儀式など、特に中国やチベット、日本で宗教として土着していたものや、現在でもかなりの割合で残っているものと非常に強く混ざり合ってしまったため、完全に変化してしまい、本来の教えとは一致しないものとなってしまった。シッダールタの教えに関する限り、それは様々な原則を持った生き方に対応していることにも言及しなければならない。その中には、全人類の間で非暴力またはアヒムサが優先されるべきだという原則が明記されている。この非暴力はもともとヒンドゥー教やジャイナ教にも普及していたもので、シッダールタによる彼の教えも含まれていた。そうして彼が説明したように、これらを行った。これは完全に正しく「真実の教え、創造エネルギーの教え、生命の教え」で、基本的に表され、教えられている。彼は人々とすべての生き物が、ヒンドゥー教やジャイナ教の規則に反して、支配者と人々によって邪悪で暴力的な虐待を受け、その結果、人々があらゆる種類の事件によって殺されているのを見た。そしてこれは、無意味にそして快楽のためだけに殺された他の多くの生き物に関しても起こった。そうしてこのことが、彼が自分の教えの中に、倫理的な責任(善と悪を区別する行動や言動を実行すること)を含める理由であり、それは公正で真の人間であるために不可欠であり、従わなければならないものであった。そうして人々が守るべき、そして果たすべきこの重要なルールの中には、シッダールタが明確に強調していたことを私は今でもよく覚えているが、責任感、誠実さ、そして必要な尊重の観点から持続可能性を実現するために、すべての価値観に関して非常に特別な注意と心遣いを払う必要があることも含まれていた。これは人々の正義、透明性、協力的な共存を保証するための唯一の方法であり、したがって特に、一般的なグループに関連するだけでなく、公共および社会的な関心事やニーズなどに対して責任の共有を保証する。なぜなら全体が完全に、そして必然的に重要であり、それによってのみ、すべての生態系、地球、自然、そうしてあらゆる属や種の動物と植物のすべて生きものの機能が保証されるから。倫理的な行動だけが、すべての生きとし生けるものの全体の機能を可能にするが、それには思いやり、注意と心遣い、優れた道徳的な規律だけなく、好意、参加、配慮と親しみ、人々への尊敬と尊重、そして存在するすべてに対しても必要である。非暴力またはアヒムサの教えは、ゴータマ・シッダールタがその最初の教えの中で解釈し教えたものだが、「真理の教え、創造エネルギーの教え、生命の教え」を通して教えられているように、そうあるべきであるということを目指している。これは人間でも、動物でも、他の生き物でも、いかなる形態の生命に対しても、苦しみや強制を与えてはならず、痛みや暴力を一切振るってはならないという事実に基づいている。また、拷問、懲罰、死刑などの罰や、苦痛、強制、痛みなどの暴力を人間に加えてはならず、動植物の自然界での狩猟、魚類、動物、鳥類などの捕獲によって、動植物の生命の破壊、全滅、根絶などの形態でも起こるべきではない。この非暴力の教えは、メソポタミアまで人々によって広められ、教えられ、続いていた。書かれていない、最初のヒンドゥー教の行動様式でもすでにこのように保持されていた。しかし、ある変化をきっかけにすべてが崩れ去り、この原理が注目されなくなり、最終的には忘れ去られてしまった。また、仏教徒の間でもこの非暴力の誓いはそれぞれで、1844年に始まった近代よりもずっと前におけるアヒムサの誓いは現代では理論に過ぎない。今日の世界中の多くの仏教徒にとって、人間、動物、家畜、その他あらゆる属や種のすべての生きとし生けるものを傷つけないというルールに従うことは、もはや義務ではなく、自発的な行為なのである。そのため、不正をしてはならない、憎しみや嫉妬を育ててはならない、戦争をしてはならない、テロや暴力を振るってはならない、他人に悪意を抱いてはならない、嘘や中傷や陰謀で人を侮辱したり悪口を言ったりしてはならない、というルールと同様に、この古代のルールは現在も破られ、背かれている。ゴータマ・シッダールタの元々の教えは、今日の仏教とは本質的に異なるだけでなく、信仰の主要な宗教であるキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、ユダヤ教をはじめ、世界的な大小さまざまな神の宗派とも大きく異なる。しかし、今日でも受け入れられる仏教は、シッダールタのオリジナルの教えの一部としてある程度対応しており、宗教的な教義にも宗派的な教義にも対応していない、神の誤認、世界観の教義、哲学の教義、または同様に脳のない信仰に基づいた教義の構造物に対応していないため、まだ半分は受け入れられている。その結果、仏教が発生した絶対的に正しいオリジナルの教えは、その有鈎な起源において、シッダールタがそれを作成して教えたように、信仰や信念の問題ではなく、精神的な進化を目指し、理解と理性の使用を目的として、あらゆる点で人生の正しい対処をするための、「正しい生き方の教え」、「自己認識の教え」、「経験の教え」、「自己啓発の教え」であった。(ゴータマ・シッダールタは紀元前563年にネパールのルンビニで生まれたヒンドゥー教徒で、実母はマーヤー〈チベットではギュトルルマと呼ばれているが、他の地域ではマヤデビ、マハマヤと呼ばれている〉、実父は摂政のシュッドーダナ・ゴータマであった。シッダールタ自身もヤソダラーと結婚し、彼女との間に息子をもうけ、ラーフラと名付けた。ゴータマ・シッダールタは、紀元前483年に80歳でインドのクシナガルで死去した)。シッダールタ自身が63歳の時に語っていたように、彼は14歳の少年の頃から自分の観察を通して、非常に多くの悲惨さを認識していた。例えば、遠く離れたあらゆる地域の非常に多くの人々が様々な病気や孤独、あるいは恐ろしい運命のいたずらに苦しみ、絶望的な貧困と飢餓の中で生活していることなど、多くの困難に対処することができない状況を目の当たりにした。さらに彼はこれに反して、健康で栄養豊富な裕福な金持ちがすべての人道に反して庶民を搾取し、多くの人々を農奴にして酷使し、虐待し、あらゆる出来事や健康問題、疫病、飢餓、そして人生の一般的な価値の欠如に全く無関心であることも気づいたと述べた。金持ちなどの富裕層は、非常に甘やかされた人々で、不満や憎しみ、妬みや貪欲、そして悪徳や中毒、快楽への欲望に悩まされており、庶民に対して全く冷酷で無慈悲な態度をとっていた。その多くは自分たちのために最善を尽くすことだけに耽溺し、仲間には絶対に災いしかもたらさず、それが広がっていただろう言われていた。この点についてシッダールタが語ったことは、実際に当てはまり、少しずつ改善されるまで長い間続いた。しかしそれは、一部の人々が彼の教えに従った結果としてもたらされたものであり、彼が7年間でその教えを完成させ、知性と理性を駆使して自らの力で拾い上げ、多くのことを学んだ後の21歳の時に広め始めた。彼が新しく作成された教えによって、彼の言葉通り、彼の信奉者となった多くの人々の生活環境は良くなったが、一方で、彼の教えに従う努力をしなかった他の人々はどんどん悪化して腐っていき、スラム街で惨めな生活を送るようになっていった。シッダールタは自分が、瞑想的な考えに深く夢中になることで、自分自身を指導しコントロールすることを学び、それによって彼は自分自身への道を見つけたと説明し、それから彼の信奉者によって仏と呼ばれたので、彼の教えは仏教道と呼ばれた。このようにして、彼の瞑想を通して、彼は自分自身と自分の道を見つけ、すべての苦しみから自分自身を解放し、そして彼の教えを練り上げて作り、それを通して、人々にも同じようにしてより良い人生への道を示すことができる可能性を広げたと言った。そうすれば人々も、自分自身と自分の強さと能力を認識し、苦しみから抜け出し、再び通常の生活を送ることができるようになることにあった。とにかく彼は、彼らの宗教、信条、外見、社会的地位、彼らの道徳や行動などで判断したり、軽蔑したり、他の人と違う扱いをしたりすることなく、謙虚に生活し、自分の仲間に真摯に向き合い、彼らを喜ばせ、すべての人を平等に扱い、そして彼らのために尽くして、慎み深い生活を送っていたと、少なくともそのように彼は語っていた。ゴータマ・シッダールタの仕事と行動により、彼は多くのことについてのさらなる知識へと導いた。それは私がすでに述べたように、古い信念と言葉によると、彼は人々から仏陀または悟りを開いた者と呼ばれるようになった。また、ゴータマ・シッダールタは、人々に様々なことを深く教え、見返りを求めずに自分の知識と経験を伝え、彼の教えを教えることで、人々が個人個人で自分を教育し、自分自身を助け、苦しみから解放され、生きがいのある人生を送ることができるようになったと述べている。しかしありがたいことに彼は、自分の生活に必要なすべてのものは、彼の信奉者から自発的にそして要求なしに受け取ったが、彼はいつも家にあったもので事足りていたので、それを必要としなかった。それは約2500年前のことで、そこから私が今言ったように、シッダールタは人々から仏陀と呼ばれていたので、仏教が誕生し、彼自身は自発的に貢献しなかったが、失敗に終わったと説明している。しかしシッダールタが、20世紀の現代までの主張されている混じりけのない伝承について述べ、説明したことは、今日の彼の教えと人生を取り巻くすべての既知の事実や疑惑の事実と比較すると、嘘、偽り、誹謗中傷以外の何物でもない。主張されているすべての伝承の大部分は、実際には、シッダールタ自身が表現したように許しがたい恥ずべきことである、比類のない真実に対応している。これもまた、イマヌエルやモハメッドが同様に、嘘、改ざん、欺瞞、悪意、誤解、狂信などによって彼らの教えから捏造されたすべてのものを公言し、神の妄想宗教へと導いた。ゴータマ・シッダールタは、自分の教えが19世紀の未来にどのような結果をもたらすのかを知ったとき非常にショックを受けたが、彼は真実を知り、彼の死の日を迎えた後、不利な事態を防ぐことができるかもしれないと考えて、彼の人生の最後の17年間はより一層、自分の教えを守ることを決意した。シッダールタも同様に、来るべきものを受け入れようとせず、自分の教えを広めるための努力をより一層強めることで、いくつかの、あるいはすべての物事をより良く前向きに変化できるという意見を持ち続けていた。これは彼が、未来の事実を体験した後に率直に語ったことであるが、彼は自分の人生で自分自身を体験し、自分が生きている間にすでに彼の教えの偽物が流通し、彼の真の教えを完全に間違った形で変えて広め、悪を教えるような信仰団体が生まれていることを知っていた。したがって将来、いわゆる真実の伝承が、自分と自分の教えに最も邪悪な方法で適用されることになっても、その場合これらはおそらく、最も邪悪なあらゆる妄想よりも改ざんされることはないだろうと、彼は理解することができていた。仏教は、インダス川流域やメソポタミアなどのアジアを中心に世界中に広まり、現在では世界第4位の宗教とされているが、そのような宗教ではない。すでに説明したように、仏教は本来、宗教や宗派とは無縁のものであった。そのため、今日、ゴータマ・シッダールタの本来の教えとはほとんど共通点がないにもかかわらず、誤って完全に宗教と呼ばれている。しかし、本来のヒンドゥー教と同様に、仏教は信仰の問題ではなく、したがって、宗教や宗派でもなく正しい生き方の教えなのである。しかし、それが変わったのはかなり前のことで、宗教学の看板を背負った知ったかぶりの人たちの仕業である。前にも述べたが、一度ははっきりと言っておく必要があるので、もう一度繰り返す。残念なことに地球人の間では、仏教においても、知ったかぶりの活動要素によって分裂し、その結果、宗派が生まれ、それぞれの間で見解や意見が異なり、それに応じて教えなどの見解なども異なっているのが一般的である。ゴータマ・シッダールタが説いた真の教えは、すでに説明したように、神と神を騙る偉大な妄想的信念組織であるヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教とは対照的であり、有神論的な宗教ではなく、そのため、全能の神への礼拝の集中化を目的としたものでもなかった。そのためシッダールタの時代には、仏教の起源となった彼の教えは、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教などの大宗教や、その他の世界中の大小の宗教や神の宗派とは本質的に異なっていた。現在も出回っている、シッダールタが教えていなかった偽装された仏陀の教えは、宗教的な教えにも、宗派的な教えにも、哲学的な教えにも、またそれに類する信仰に基づく同様の教えの構造にも対応していない。シッダールタがそれを作成し教えたように、その有効な起源における真のオリジナルの教えは、何度も明確に述べ、強調しなければならないような信仰の問題ではなく、知性や理性を使うための認知能力の個人的な開発、そしてあらゆる生命との正しい関係における自己認識と、人生に正しく対処するのを目的とした「正しい生き方の教え」、「自己認識の教え」、「自己発見の教え」であった。人々が考えて実行することはすべて、良い効果や悪い効果を生み出す。人は、この点においても正しい洞察を得るために悟りを開かなければならず、それによって本質的に正しい判断をし、正しい言葉を選び、正しい話し方をして、正しい答えを出し、嘘をつかず、そして間違った言葉で他人を傷つけないように、本当の現実とその真実の中で生きていくのである。常に正しい行動をとり、正直で高潔で価値があり、盗まず、騙さず、誹謗中傷せず、殺さず、また、あらゆる方法で正しい生活を追求し、他の生き物に害を与えず、善を行い、そして前述のように、正しく悟りを目指して努力し、必要な注意と正しい心を思考と感情に向けること、これらはすべて多くの必要な価値観を正しく集めることに相当し、瞑想を通して常に存在し続けるためのものである。ゴータマ・シッダールタのオリジナルの教えの本質は、心の中の瞑想と内なる平和の資質に対する注意、そして調和、正義、生命の尊重、愛、義、人間であること、英知に関連する深い思考作業に基づいて要約したものである。しかしシッダールタが、彼の瞑想の方法の中で考慮しなかったもの、そうしてそれ以来、仏教の瞑想の教えでも、他の外国の教えのどこでも、それはすべての瞑想の母であり、すべての学習の主要な要因を形成するもの、つまり実際の瞑想の基本的な要因が教えられたり、そのさらなる価値について言及されたりすることはなかった。基本的な瞑想の要素(Meditations-Grundfaktor)、連続した状態の毎日の瞑想(Dauerzustand-Tagesmeditation)、一日の目覚めの瞑想(Tageswachbewusstsein-Meditation)瞑想とその様々な方法に関して、瞑想の実践全体に与えられているものの他に、これは他のすべての瞑想に先行する、毎日の、意識および無意識(潜在意識ではなく)の連続した状態の日常的な瞑想を指すが、太古の昔から地球上のすべての瞑想の教えでは知られておらず、その結果、それは決して教えられず広められなかった。連続した状態の日中の瞑想は、一日の目覚めた意識の中で行われる日中の目覚めた意識の瞑想に対応するもので、この瞑想は、横になったり、座ったり、立ったり、歩いたり、また、動いたり、あらゆる活動の中で行われ、これは意識的な方法と無意識的な方法の両方で行われる。ここで無意識的方法とは、潜在意識とは関係のない意識の前のレベルに相当し、記録-編集-処理-切り替え-変更-再生のレベルに対応する。根本的には、瞑想の最初のそして最も重要なステップは、日中の目覚めた意識の中で一定の状態の毎日の瞑想に関して、毎日の心の中の注意の継続的な瞑想である。これは特に注意すべきことが重要であるだけでなく、すべての中で最も重要な瞑想である。これは、常に生じている思考とその結果として生じる感情を意識的に制御して育てることになるからである。この感情は、現在考えられていること、感情で作られたこと、行われていること、話されていること、実行されていること、扱われていること、そして行動の面で実行されていることなど、すべての人に集中的に占められている。昼間の目覚めている意識の継続的な毎日の瞑想を通じて、この瞑想が進んでそして意識的に実践されているならば、あらゆるものが意識的にも無意識的にも、徹底的にコントロールされている。それによって、行われたこと、行動したこと、言ったこと、そして扱われるすべてが完全にまたは少なくとも大部分が正しく実行され、エラーなしになる。日中またはその日の仕事の後に、休息の状態や休息の瞑想のために、連続した日中の瞑想状態が日中の覚めた意識の中で中断された場合は、思考を停止する必要がある。これによって、落ち着いて瞑想を続けることができる。第754会見 ビリー同様に固有の周波数を持つ その1
2021.04.30
閲覧総数 2091
4

◯生命の哲学(霊の教えの手引き) 多くの人々は霊の教えについて完全に誤ったイメージを抱いている。なぜならば彼らは、その言葉で宗教的なものか教派的なものを想像しているから。しかし、霊の教えはそうしたものとは微塵も関係ない。たとえ敵対者や悪意ある者、キリスト教会その他の宗教の教派代理人、誹謗中傷分子およびメディアがこれと反対のことを主張しようともである。 こうした悪意や完全に誤った観念、無理解、宗教や教派の影響を受けた信仰形態、さらにはメディアの煽り立てなどによって、霊の教えおよび霊の教えの推進者について、現実および真実とは全く掛け離れたイメージが作られている。霊の教えを受け入れる人々は世界改良家、秘教徒、現実離れした者、神秘主義者、教派主義者と罵られ、知ったかぶり屋、服従、不遜、菜食主義や完全菜食主義と非難されるが、敵対者たちは霊の真の教えを何も知らなければ理解もしていないのである。 霊の教えが真の平和主義と真の愛、人間性、平衡、平和と愛、内面的な自由と真の平和、真の人間性、調和、肯定的な想念と感情を持った積極的な生き方、そして知識と英知を与えているということを、彼ら敵対者は全く知らない。 そのために、宗教、教派、哲学その他の世界観、およびそれらの実践と平和主義を偽った策謀が称賛されたり驚嘆されたりする一方で、霊の教えに好意を持つ人々の生き方は、社会や現実から掛け離れたものと見なされる。だが本当は、我を忘れて非現実的なものとかかわり合っているのは、霊の教えに好意を持つ者ではなく、宗教、教派、哲学その他の世界観の誤った教えを信じている者の方なのである。 霊の教えに対して、広く偏見が持たれ非難が加えられているにもかかわらず、すでに霊の教えに取り組み、その研究に努め、そこで教えられている創造の法則性に準拠して生きるまでに理性の発達した人間は存在する。 ここで明言しておかなければならないのは、霊の教えは秘教や宗教や教派や、教団その他のカルト主義ではない。 それはまた霊験あらたかな万能薬でも、何らかの奇跡を起こさせる教えでもなく、成果を達成しようとするなら何事も懸命に働かなければならないことを諭す教えである。それはまた生まれながらの名人はなく、焼き鳥になった鳩が口の中に飛んで入ることはない、ということを教える。 さらにこの教えは、忘我や神性というもの、そしてまた他人に対する優越は存在しないことを明らかにする。なぜならば人間は、誰も平等であり、他の人間に比べて価値が高いとか低いということはないから。 霊の教えは人々に自分の想念や感情や情動、さらに日々の生活における自分の活動や行動に実際に関連づけた教えを与える。そのための掟もしくは推奨があるが、それらは主として次の49の原則で表現される。1)人間はだれも自分でみずからの人生の意味を問い求め、見出し、そして自分の生活と活動を改善するためにそれを活用しようとしなければならない。2)人間はだれも自分自身でなければならず、それゆえまた自分自身の指導者として、独自のめざましい着想を生み出し、それを追求し、実現しなければならない。3)人間はだれも自分の理性と理解力を働かせて、自分に対して最良で有益なものを求め、自分の意志で自己を形成し、そして自分自身の欲求に自発的に従うようにしなければならない。4)人間はだれも常に自分自身であり、まったく独自の強烈な体験を持ち、決して隷属させられたり屈服させられたりすることのないよう、自己を形成しなければならない。そうすることによって、あらゆる点で特に想念と感情、そしてまた決断、見解、意見、情動および行動などにおいて、自分自身の内面的自由と外面的自由を維持しなければならない。5)人間はだれも自分自身に対して必要な好意と愛情を示し、自分の中で安心感を覚えなければならず、そしてまた自分自身の想念、感情、情緒、行為および意見などを理解できるよう自分に対して誠実でなければならない。6)人間はだれも高い目標に到達できるという自信を持てるように、その想念、感情、着想、願望、欲求および行動などを整えなければならない。しかしそれらの目標は常に、自分の才能や可能性の実態に適っていなければならず、突拍子もないものや高すぎるものであってはならない。7)人間はだれもあるがままの自分を見、かつ知らなければならず、自分を完全無欠の世界と思い込んではならない。なぜならばそのようなことは、どんな人間にも不可能であり、それゆえだれもが学ばなければならず、したがって、誤りや不完全性を免れられないから。つまり人間にあってはすべて明瞭で、何もかも正しく、自分が同胞より優れているということはあり得ない。8)人間はだれも他の人間と意識の点で違っていること、したがってどんな人間も、他人と全く同じように知的ではあり得ないことを常に十分意識していなければならない。だからといって同胞を愚かだとか、レベルの低い人間と評価したりしてはならない。そのようなことはたとえ同胞が宗教や、それどころか教派に囚われている場合でも許されない。そうであるにもかかわらず彼らもまた他の人間とまったく同じく、創造と自然に基づく生命と進化的学習の法則性に組み込まれている人間だから。9)人間はだれもみずから努力して物質的な領域だけでなく、意識、性格、人、徳、想念と感情および心の領域においても、公正な人、誠実な人、分別のある人、志向の高い人などとして自分の生存と実在的な義務を形成し履行するよう努めるべき。それによって人間は、自分自身を高めようとする明確な動機を作り上げなければならない。ただし宗教、教派あるいは何らかの形で、自分を貶めることがないようにしなければならない。10)人間はだれも自分の理想主義を価値のないもの、証明できないもの、疑わしいもののために使うべきではなく、自己を真の本質そのものにおいて認識し、それをいっそう改善して完全なものにし、さらには外に向かって実現することに特にその理想主義を向けるべき。なぜならばこのような真の本質は、進歩と成功をめざすものの本来の本性、したがって生命の形成の根源だから。11)人間はだれも何らかの事柄を信じるのではなく、常に根本的な真理を求めるべき。それは人間がすべてを徹底的に究め、すべてを考え抜いて、その理性と判断力と健全な論理を働かせたときに、自分自身の内にのみ見出すことができる。こうして人間は、真理を自分自身の内にしか見出せないが、それはまた人間が、自分の中で決して証明できない事柄に対する何らかの信仰に固執しない場合に限られる。信仰とは証明ではなく、愛すべきもの、望ましいもの、正しいものとして受け入れることにすぎず、それに対して真実度を引き合いに出すことはできない。信仰はまさに証明可能な真理という事実が欠如しているがゆえに、証明能力を完全に欠いている。12)人間はだれも安易に信仰に身を任せてしまって、論理、悟性および理性によってみずからの内に真理の事実性を探求して認識し、自分の生活や生活様式を通して実践し遵守しなければ、長年あるいは一生涯にわたって探し求める本当の真理を発見することは決してできない。13)人間はだれも自分の知識、能力、真の愛情、本当の幸福、能力と可能性、そして英知と人間性を進歩的に形成し実践して、人間にふさわしい真に進化的な人生を送るとともに、同胞に対してもこの方法で力になれることに最高の目標を見出すべきである。14)人間はだれも何よりも自分自身、したがって自分の人格、自分の性格、自分の徳、想念、感情および行為に心を配って、すべてが正当であるように、また誤った目標を追いかけ、非現実的な事柄の信仰にはまり込むことのないよう全力を尽くさなければならない。15)人間はだれもその収入や財産を分別のあるやり方で管理して、非現実的な信仰の事柄に浪費してはならない。なぜならばだれもが、正当な存在でなければならず、またそれなりの可能性と生存が与えられているならば、自分自身の面倒を見、不当にも同胞に負担をかけたり、寄食者のように振る舞ったりすることのないようにすべきだから。16)人間はだれも常に現在を生きるとともに、未来を見つめ、その形成に配慮しなければならない。しかしその一方で過去を考察し、そこから学んで、成功、認識および進歩を達成しなければならない。17)人間はだれも平穏と平和を必要としている。それゆえ、人間はまた自分の静かな時間を必要とし、絶えず忙殺されているべきではない。それは一人でいるときでも、同胞と集うときでも、家族や集団においてもそうである。人間はだれも無為を必要としている。なぜならばそうした無為によってのみ、心を落ち着け、自己を回復できるから。しかし自分自身の想念や感情が犠牲にされたり、憤懣の種になったりすることがないように、また同胞の怒りを招くことがないように、無為は常に適度なものにとどめ、度を越してはならない。18)人間はだれも絶えず真理のみを求め、決して救済の教えを求めたりしないように常に心掛けなければならない。なぜならばそのようなものは本当は哲学、宗教、世俗、教派、その他のイデオロギーの流派にも、学問の流派にも存在しないから。救済の教えはいずれにせよ、いつも信仰上の詐欺か、少なくともいかさまか、犯罪的な金儲けに等しい。本当に価値があるのは、常に実在、すなわち健全な悟性と理性の使用と現実的な論理の上に築かれた現実のみである。19)人間はだれも同胞に対して率直で正直でなければならず、どのような理由からであれ、思い上がって同胞に害が生じるような仕方で支配してはならない。これは家族の中でも、どのような集団においても、酷評や冷遇、その他不当なことが起きないようにするために言えること。20)人間はだれも自分の内面的な自由と外面的な自由に注意を払って、純然たる物質的な事柄や価値であれ、家族や何らかの集団における人間関係であれ、束縛を脱することができなくなる、あるいは、解放への措置に不安を感じさせるような事柄に決して縛られてはいけない。21)人間はだれも政治、哲学、教派、世俗、科学、宗教、またはその他イデオロギーの何らかの形態を決して真の真理とか、本当の真の知識などとして受け入れたり、理解したりしないよう常に注意すべき。なぜならば実際に、どんな教えも極めて子細に検討すべきであり、そうすることによってのみ実際の真理を究め、現実を知ることができるから。22)人間はだれも自分の生きた人生が、たとえそれが何年であろうと、目的も意味もなかったというようなことは決してないことを常にはっきり認識していなければならない。生きられた人生はそれ自体において何も失ってはいない。なぜならば生きられた各々の瞬間が、確実にその意図を満たし、たとえ結果はわずかにすぎなかったとしても、進化の成果をもたらしたから。23)人間はだれも感覚を常に明晰で理性的に保つべきであり、自分で熟考し、思案し、究明し、認識し、理解する可能性を奪うような持続的な感化力を持った何らかの教えに身をゆだねてはならない。人間が何らかの事柄や教えとかかわろうとするときは、十分な時間をかけて自分の想念と感情、熟慮と着想などを働かせて、すべてを徹底的に究明し、自分自身の内に結論と真実を見出すことができる可能性を、常に考慮しなければならない。24)人間はだれも人間関係を大事にし、家族の絆や、友人、仲間および知人との関係に打ち込むよう注意を払わなければならない。両親、兄弟姉妹、友人および同胞全体は、常に喜びと平和の泉でなければならず、しかもそれはあらゆる点で結び付け、広げる作用を持つ自由に基づくものでなければならない。25)人間はだれも人生が有意義なものであり、安心感と庇護されているという感情を伝えることができるよう注意を払わなければならない。このような感情は、同胞と一緒にいるときでも自分一人でいるときでも表されなければならない。26)人間はだれも自分の人生に愛、幸福、喜び、平和、調和、平衡および自由を見出せるように、自分の人生を充実したものに形成しなければならない。27)現実に即して生きようとする人間は、だれも健全な自尊心と自信を抱き、持ち続けなければならない。なぜならばそうすることによってのみ、自分自身に関して健全で自分を維持する進歩的な想念、感情や行動が有効に働くことができるから。28)人間はだれも常にどんなときでもその礼儀や徳性、仕事や意見、知識や教養において身近な周囲だけでなく、より広い社会においても真の人間として認められ、尊敬されるように振る舞わなければならない。29)人間はだれもこの世を去った後も自分について良い思い出を残し、死後はうるわしい想念の中に生き続けることができるように生きなければならない。30)人間はだれも自分の人生に同胞が関心を持ち、彼らの想念と感情の中で自分が尊敬されるように生きなければならない。その中には邪悪な関心を持った敵もいようが、彼らを許すがいい。なぜならば憎しみではなく、平和と許しこそが愛の所業だから。31)人間はだれも同胞の良き共同体に囲まれているのを感じるべきである。人生の共通体験が愛と平和、自由と調和、そして各人の幸福を増進するでしょう。32)人間はだれもその人生において想念と感情の豊かなものや自発的なもの、愛情に溢れたものを発達させることができるよう熱心に努めなければならない。そうすれば自発的にまたある点においては、慎重に各人の人生が常に新しく、善意と喜びに満ちた肯定的な方向を見出すでしょう。33)人間はだれも一生のあいだずっと、あらゆる点で自ら人生を充実させ、そして学習や知識の収集において、英知の形成において、満足のゆく仕事の遂行において、真の愛と調和および十分な配慮において、平和と自由を守るように努力しなければならない。34)人間はだれも常にすべての事柄に対して心を開くべきである。そうすればその人生において、絶えず多くの神秘的なものや興味をそそるものを見出すことができる。それらは人間を驚かせ、感嘆させ、その喜ばしい驚愕は息もつかせず、いつまでも若さを保たせるでしょう。35)人間はだれもたとえ自分に対して敵意を抱いていようとも、すべての人間と率直、良好で、愛情に満ち、平和で調和の取れた自由な関係を維持すべきである。憎しみは原則として隣人を害することはなく、憎んでいる当の人間自身を害する。なぜなら、自らの憎しみを満足させることは当人の恥辱となるから。36)人間はだれも人生や人間存在の意義に関する問いに常に心を聞き、そうした問いを一つの欲求としてそれらについて熟考し、また同胞と語り合って、真理の認識を得なければならない。37)人間はだれも自分にとって重要なことは、同胞にも伝えて説明でき、それについて理解が得られるという感情と確信を持たなければならない。38)人間はだれも自分を悩ませ苦しめるものは、同胞に理解され、それについて有益な助言や、その他の援助を期待できるという感情と確信を持たなければならない。39)人間はだれも自分の人生が自分自身にとっても、自分の家族にとっても、自分の縁故関係や共同体にとっても、あらゆる肯定的な意味において、有利で有益なものとなるように堂々と生きなければならない。40)人間はだれも問題や紛争から安易に逃げ出すことなく、それらを解決する方法を探し克服するよう努めるべき。41)人間はだれも人生に出現するあらゆる課題や困難と向き合い、それらを乗り越えることができるように十分な自信と健全な自尊心を築く義務がある。42)人間はだれも自分や同胞に発生する何らかの緊迫した事態にうろたえたり、落ち着きを失ったり、不安になったりすることがないように常に心掛けなければならない。43)人間はだれも可能な限り人生のあらゆる状況を意識し、慎重に形成すべきである。44)人間はだれもたとえ不鮮明で混乱した不愉快な状況下におかれても、自分を打ちひしぐような想念や感情に陥らないように自己形成すべきである。45)人間はだれも気の進まない想念や感情を解きほぐし、適切に対処して、それらに身をゆだねることがないよう絶えず備えていなければならない。46)人間はだれも同胞と交流をはかり、それによって自分の姿勢を表現し、自分の意見や学習の関心を表明するように努めなければならない。47)人間はだれも自分の人生における目標を定め、これらの目標を思慮、注意深さ、関心、動機、そして自信をもって追求し、達成すべきである。48)人間はだれもいかなる状況にあっても、自分の人生を生きるに値するものと認めなければならない。49)人間はだれも自分の行動を自分自身で決めなければならず、外的な事情や、同胞や、宗教、教派、哲学、科学または何らかのイデオロギーによって決めてはならない。 霊の教えを遵守する状態とは、忘我の状態や、具体的な世界のあの世の経験などでは絶対にない。つまり、現実の現世の経験や意識の境界を越えた状態や経験と、感覚的に認識可能な世界の限界を越えることではない。要するに、いわゆる超自然的なものや超感覚的なものの状態ではない。 霊の教えの遵守は、宗教や教派でいう悟りの状態とも異なる。宗教や教派の悟りは単なる空想力に根ざし、それに応じた幻視やその他の幻覚を引き起こすが、霊の教えの遵守は、真の自然と生命の尽きることのない可能性を認識することに基づいている。 人間は自分自身の中で、このような生命の状態が開かれると、はるかに多くの決意、愛、内面の自由、悦び、平衡と調和、そして一段と多くの生きる勇気、生命力、内面の平和、知識と英知を獲得できる。そしてまた、他の人間や動物相と植物相のすべての生命形態に対しても、はるかに多くの誠実で実効的な共感を得る。全般的な安寧も、より高い水準に向上し、自然と惑星の繁栄に対する理解も強まる。 すでに述べたように、霊の教えに規則はまったくなく、それは人間が自立的に自分自身の動機や欲求、そして意志から自分の最高の生命状態に専念することを教えるものである。同じ意味で人間は、道徳と倫理に関してすべてを自立的に評価し、何らかのなじみのない不当な規則などを強制されるべきではない。 すべての事柄を自分で判定することは、何よりもおよそあらゆる生命の尊厳に対する畏敬と尊敬に基づいており、それはまた因果の法則の現実性、すなわち原因と結果の法則は宇宙全体で有効であり、あらゆる点で、厳密かつ必然的であるということについて、人間はさらに意識を高めなければならないということに基づいている。 霊の教えは信仰に立脚するものではなく、信仰を育てるものでもなく、したがって、死後の天国を信じるものでもない。神や愛について説くのとは裏腹に、復讐欲や報復欲に駆られて罰を求め叫ぶこともない。霊の教えが説くのは、人間は現今の物質的な人生を生き、生殖、成長、生と死の過程に組み込まれていて、死んだ後は存在しなくなるということ。 この場合、人間の霊形態あるいは人間が分有する創造霊の一部はあの世の領域に移り、そこでいわゆる死後の生として生まれ変わるまで滞在する。意識と人格は、霊形態から成るこれらを包含している総意識体のあの世の領域に消散し、そこで解消されて中性的なエネルギーになり、そこから総意識体によって新しい意識と新しい人格が生み出され次に転生する霊形態と一緒に生まれる。 霊の教えの根本的な教えは、霊形態が生まれ変わり、もしくは転生し、そして新しい形態の意識と人格がその都度新生することにより、いわば生命の永遠性が存在しているということ。しかしこれは永劫に、つまり永遠に存在し続ける霊、もしくは霊形態の生命の永遠性という意味で理解すべきであり、意識と人格の形態は現今の物質的な人生においてしか存続せず、肉体が死んだ後は解消されて消滅し、新しい形態の意識と人格に場所を譲る。こうして生命の本質である霊、もしくは霊形態は生き続けるが、物理的肉体はいつか死に、霊形態の生まれ変わりのため、そして新しい意識存在と新しい人格のため、将来いつか取り換えられなければならない。 このことから明らかなように、同じ意識と同じ人格が生まれ変わると主張する旧来の誤った教えは妥当ではない。 なぜならば本当は、転生の能力があるのは人間の霊、もしくは創造的本性を持った霊形態のみであり、意識と人格ではないからである。同様にこの教えから明らかになるのは、人間の創造的な霊形態は、唯一人間の物質的な肉体のみに再び生まれ変わることが出来るが、他の何らかの生命形態、たとえば、動物の肉体に生まれ変わることはできないということ。 霊の教えは人間は、人生を自分の進化と全体の進歩のために活用し、あらゆる変節を抑制すべきであることを明白にする。教えはまた人間は、人生を健全で誠実な枠内で享受すべきであるが、苦しみや否定的なものも否認してはならないと説く。なぜならば否定的なものも、肯定的なものと同様に進化と進歩に必要だから。さらにこの教えは、人間は勇気を奮い起こして、意識的にその苦しみと喜びに、そしてまたすべての否定的なものや肯定的なものに挑戦すべきであると告げる。なぜならばそのようにすることによってのみ、人間は成長し、進化と進歩を果たすことができるから。 このように誤りも、認識と誤りの除去も、喜び、幸福、苦しみと痛みも人生に属している。なぜならこれらも、学習と進歩および進化の構成要素であり、それらなくしていかなる成功も起こり得ないから。これが生きる道であり、人間はこうしたあらゆる事柄に接して、その意識、その人格、その性格、さらにその愛、知識と英知、内面的な平和、内面的な自由、喜び、調和および平衡が成長する。 そうして人間は、これらすべての高い価値を自らの内で活動させ、絶えず改善することによって強くなり、そのことが本人の生活状態だけでなく、家族や友人や知人の状況にも、近隣やより広い周囲にも、そしてついには社会にも影響を与えるのである。 ビリー・マイヤー
2020.02.17
閲覧総数 1333
5

〇アラハト・アテルザータの言葉〈アラハト・アテルザータ(サンスクリット語)=「時を観照する優れた者」 受信者「ビリー」エドゥアルト・アルベルト・マイヤー(1975年5月15日から8月11日まで)〉 君は自分の内部に私の想念を捉えたことをいぶかしがっている。だが、まもなくいぶかしがる必要がないことを理解するでしょう。私は、君たちの古い言語でアラハト・アテルザータと呼ばれる霊形態である。物質的形態における私の生存は大昔に終末を迎え、それ以来君たちよりはるかに上位にあって君たちの知らない境域の実存在にいる。私の実存在の時間は、極めて長い時を経て実在となった。それは創造に関する法則を遵守して、知識と英知に、力と威力になった。無限の時間が経つうちに、霊は肉体から解放され、転生を消え去る過去へと押しのけた。それは創造に近づき、力と威力に溢れ、完全性の成就を目指し努力している。私の想念が君の内部に押し入り、インスピレーションによってある書物を伝えるので、それを書き留めよ。私は時を観照する者として、物事の真理をそれらの起源と結末において認識した。これからその真理を、君を通して君たち人間に理解できる言葉で開示しよう。だから私の想念を追い、それを不変の正しく読みやすい文字で書き留めよ。君の水準と私の水準との間の境界には、長い時間の隔たりがある。その境界は、君の時間計算では何十億年も離れていて、霊的次元の障壁を形成している。私はこの自分の形態において、空間と時間を超えて交信し、過去と未来を現在にもたらすことができる。それゆえ私は現在、自分がいる真理の遠い霊的未来から、この現在において君の霊的水準のある過去に到達して、君たちの形態にとって重要な意味を持つ事柄を君に伝えよう。君との交信は、霊的・インスピレーション的な特性に基づいているため、君は自分からは送信できない受信機の役割を果たすだけである。その理由は、私の霊的本質が、高次の霊形態にしか立ち入りを許さない高次水準に入っているためである。現在の地球人に例外なく該当する低次の霊形態は、我々のもとに到達できないばかりか、交信によって我々とコンタクトを取ることすらできない。他方、我々は自分たちの形態において、あらゆる霊水準に入り込み、低い水準のあらゆる実在する者に自分たちの言うことを理解させることができる。我々自身にとって限界は上方にのみ、創造の水準に向かって課せられている。我々もまた霊的に努力して、この水準に上昇しなければならない。以上述べたことは、君たちも我々も犯すことも避けることもできない創造の法則である。私の本質の霊形態が、君たちの現在の時間に現れ、君の水準の知性とインスピレーションによってコンタクトを取ることは例外と見なされる。こうしたことは、すでに過ぎ去った過去にも大きな例外として見なされてきたが、来るべき未来においてもそうでしょう。説明のために言っておくと、このような交信で最後のものは、君たちの時間計算で約2000年前に我々によって行われた。それ以後は、これを再び行う必要性もなければ掟もなかった。それゆえ君は、君たちの世界で、我々が2000年来再びコンタクトを取る最初の低次の霊形態である。その理由は君が、しばらく前から、君たちより高次の生命形態と情報コンタクトを取っていることにある。前回2000年前に、我々に伝えられたところによれば、君に関する情報は非常に驚嘆に値するものだった。君の霊の発達は、君の時代よりはるかに進んでおり、君はあまたの住民の中で稀な例外と見なされる。君は予言者の水準にまで発達し、予言者として自分の使命を果たすでしょう。機運が熟していなかった2000年前には、我々によってインスピレーションを与えられた者は我々の教えを有意義に広めることができなかった。それゆえ君は、この使命を今この新しい時代において果たす。だがそれは、かつて我々の教えから誤った邪悪なカルトが生まれて、あらゆる虚偽が隅々にまで紛れ込み、地球人を現代に至るまでとんでもない意識の奴隷にしてしまった当時のようであってはならない。君たちの現在と未来の時代の予言者として、私が伝えることを広め保つために、前回2000年前に我々によってインスピレーションを与えられた者より多くのもっと優れた可能性が君にはある。それゆえこれらの手段を活用したまえ。ためらうことはない。君の声を山々に轟かせ、偽りの予言者の邪説を滅ぼすのだ。なぜなら彼らは、意識を劫罰に追いやり、あらゆる認識を妨げるからである。彼らは、我々や他の水準からインスピレーションを受けたと主張するが、それは真実とは遠く掛け離れている。彼らの大仰な著作は、いかなる論理や真理とも無縁な溢れる空想の産物にすぎない。多くの者は妄想と虚偽が募り、インスピレーションによって霊形態を捉えたとか、捉えるだろうと思い込んでいる。彼らは霊とその諸形態を知ることなく、自分自身の想念や願望や着想を書き言葉に表しては、自分をも同胞をも欺いている。我々がこの2000年間あらゆる交信を控えてきたのに、どうして彼らが我々や他の高い水準からインスピレーションを受けることがあり得ようか。それにもかかわらず、多くの地球人は厚かましくも、我々や他の高次の水準とコンタクトを取っていると主張する。だが真実は、そうではない。彼らはその根本要素からして霊形態を捉えることができないのに、そんな連中にどうして我々が知識と英知を与えることができようか。だから私は、過去2000年間にわたり、我々の水準からも、他の高次の水準からも交信が行われなかったと繰り返し説明している。この種の交信と称するものはすべて、交信の事実を主張し、またこれからも、し続けるであろう当の地球人の欺瞞と自己欺瞞に帰する。さあ、君の意識の力を高め、私が伝えることを書き留めよ。その準備をしたまえ。君の使命は多くの時間を必要とするだろうし、君の感性を受信可能な状態にしておかねばならないから。 地球の人類は、巨大な宇宙の変革を目撃する段階に入った。この新しい時代は思考する人間の見る目には、ますます鮮やかにはっきり写る。それにもかかわらず人類の大部分は、無知と意識の奴隷化の奈落にいる。そのためこの衰退の原因を究明し、それを君たちにメッセージで示すことが必要となった。しかしまた、霊を理解し、意識的および霊的調和のある未来への新しい道を示すことも同じ起因から必要である。それゆえ地球人は、その目と耳を開け。その奴隷化した想念を、あらゆる邪説や虚偽を、あらゆる邪悪から引き離せ。意識の感性を、真理の認識に向けて開くのだ。無窮の宇宙を仰ぎ見るがよい。そこには久遠の星々が湛えつつ荘厳な静寂と崇高を支配している。星々は創造の秩序の中で、普遍妥当な創造の法則の調和に包まれて、従うべき掟を守りながら、数千年、数百万年にわたりその軌道を描いている。これらすべての星々の上には創造の法則と掟、永遠の摂理と生成、そして果てしない発生における時を超越した存在と消滅が支配している。そして人類よ、地球を見下ろすがよい。そこでも同じ創造の法則と掟が冷厳な秩序のもとで貫かれている。人間も、地球およびそのあらゆる多様な生命形態も、創造による創出の連鎖のちっぽけな、しかし重要な環としてこの法則と掟に組み込まれている。自然が創造によって与えられた法則と掟の中で生き、人間の手に触れられることなくその生存を成就するところでは、美と尊厳、そして力と偉大さが支配している。しかし、人間の介入や、不自然で非論理的な秩序と修正の跡が見えるところでは、一切の美と尊厳、力と偉大さ、そして秩序は消滅する。こうして自然は、巧まずして人間の理性と悟性の欠如の証となる。それなのに人間は自らを万物の霊長と呼びたがる。人間はそのような妄想に生きており、自分の頭に冠を載せているだけだということを自覚しない。しかもその冠たるや、人間には大きすぎて支えきれず、その重みに人間は今にも押し潰されそうなのである。事実、地球人は現代までに素晴らしく大きく発達した。そして憎悪、悪徳、欲望、快楽、困苦、そして流血を引き起こした最もたちの悪い邪説とカルトに駆られ、自ら深い奈落の縁に、妄想という野獣の罠の前に進み出た。そして地球人、すなわち世界を支配し、水と空気と火を征服した万物の霊長である人間は、真の人間であることを、そして霊形態に従って生きることをもうずっと昔に忘れてしまった。それによって人間は、共同体において価値ある人間として人間の間で生きるということもすっかり忘れた。すべての人間は純然たる物質的な事物を追い求め、霊的なものにかかわる一切の事柄をひどくないがしろにしている。人間は考えられる限りの太古から、ひたすら権力を獲得しようとした。そして手に入れたらそれを、ひたすら奴隷化と隷属化のために利用した。戦いは鬨の声であり、勝利は地獄の示現であった。人間は意識を奴隷化する愚劣な邪説によって、強制と偽善を生み出し、それらを通して名誉と自由について語ったが、その意図は意識の奴隷化、あらゆる点での利用と搾取、そして絶対的な従属にほかならなかった。地球人は、素顔を見せることをとうに忘れてしまった。というのも地球人は、カルト的な邪説の始まりとともに、素顔を自分自身の内に埋葬して失ってしまったから。今では地球人は、色鮮やかな仮面を被って見せびらかしているにすぎない。だが、それらの仮面はなんとも無味単調、無関心・冷淡で画一的な印象を与える。多くの地球人は野獣か、あるいはカルト的邪説の才気のないロボットになってしまった。英知に関して才気のない彼らは、最小限の霊的な真理も知らず、ひたすら権力、欲望、物質主義、そして同胞と自分自身に対する憎しみにすべての努力を注ぎ、地上の日々を、そして年月を邪悪で不誠実に送っている。地球人はこの世の一切の事物を、その悟性と理性によって分類し整理した。そうすることによって地球人は、一切を自分に服従させた。そしてこの服従こそ、地球人があらゆる努力を払って手に入れようとするものなのである。地球人にとって仮象は、実存在の真理以上に重要であった。霊と創造の永遠の真理が地球人の根本要素において失われてしまい、地球人はすでに早い時期に宗教の非現実的な教えにしがみついた。宗教の奴隷化する邪説は、自己欺瞞に陥っている地球人にとって、真理と英知において創造のあらゆる法則と掟よりも身近で価値が高い。地球人はその極めて希薄な宗教的で錯誤した人生観ゆえに、真の創造の法則と掟に反して人間の法的規定を作成することによって、非現実的な宗教との調和によって人類を改善でき、あるいは今よりも良く生きられる明るい未来へ導けると信じた。地球人は自分の中で、創造の本質に関する知識を失ったので、物質的な手段と宗教の邪説によって、人間を無理やり生かそうとした。その理由で地球人は、宗教の邪説と関連した偽りの約束や、やはり偽りの理想と偶像によって多くの人類を魅了した。この道はやがて最悪の規模の奴隷化、意識の束縛、搾取、そして憎悪、欲望、悪徳へと導いた。まだわずかでも信頼が残っていたところでは、それは即座にとどまるところを知らず、邪悪な不信と激しい憎悪に姿を変えた。こうして地球人はますます真の生命から、創造の起源の霊的な定めから遠ざかっていった。人類は、最も古い真理と英知に関する知識を失った。つまり人間は万物の尺度であり、またそれ自体、創造による固有の完壁なる被造物であるという知識である。しかし時代が変遷し新しい宇宙時代に入った今、地球人がその感性と思考を方向転換し、霊的生命の本来の価値である創造と霊の真理に、再び取り組むことが強く求められている。これまでは人間の生命形態が地球の領域だけでなく、無限に広がるこの宇宙の至るところに住んでいるということを知っていたり、推測したりしていたのは、地球人のごくわずかな一部にすぎなかった。自分たちの霊が、物質的感性では知覚できない創造的なものの境域に突入していることを知っているのも、これら人間のうちごくわずかな一部である。しかし創造自体は、すべての霊形態の本来の故郷である。霊的な拡張と深化を目指して努力し、達成して、それまでの人生観を改めるのは、個々の人間のためになることである。その人生観は、純然と物質主義的で非現実的信仰という軌道をたどり、それによって霊の真理をひどい劫罰に追いやった。しかし方向転換は、容易ではあるまい。その道は蔓や茨が生い茂っているから。このうえなく明確な真理において、しばしばまさにこれとは正反対の道を歩まねばならない。人間は自分の創造的な霊が実在することを通して、永久に不滅の部分を持っていることを学ばなければならないからである。創造的なものと共に作用し、宗教に見られるように卑屈な役割を果たすことのない霊である。自分の霊が創造的な機能を発揮して、創造自体において完全であることを保証するために、霊そのものが完成しなければならないということを、各人が自分で証明しなければならない。しかしこの認識を獲得したすべての人間には、そこから自分自身の物質的な生命を背後に押しやって、その霊的な生存を、絶えず変転しながらも永遠に持続する創造の偉大な観点に導くという、避けることのできない義務が生まれるのである。真理の人間は偏見がない。偏見を抱いていると、探索と発見と誠実さが妨げられるからだ。真理の人間は、すべての真理と英知が時間を超えて永遠に続く流れの中にあり、したがって先入観は、実在する権利を持たないということを非常に正確に知っている。英知の事実たり得るのは真理の事実のみであり、その他のいかなるものもそれに組み入れられない。生存するものはすべて円を描いて完結しなければならず、これはあらゆる出来事の大いなる進行を貫いている法則である。原因と結果は法則と掟に従って秩序づけられているとき、あらゆる領域で妥当性を持つ。先入観はそれ自体の内に、懐疑と虚偽のあらゆる非論理を宿している。だからある人間が歩み寄り、この伝達を受け入れるならば、人間の甚だしい弱さをはっきりと認識するでしょう。つまり、先入観に基づく懐疑と批判の状態を超越しているか、それともなおも偏見が彼を支配し続けるかということ。しかし依然として先入観にとらわれているならば、彼はこのメッセージを脇へのけて、偏見を持たずに真理を探索できる者に委ねた方がよい。宇宙あまねく多様な生命形態が姿を現わし、それらはすべて然るべき法則を根底としている。解き明かすことのできない秘密である無限の持続と無限の変転をもたらすのは、創造による目に見えない偉大な作用である。この宇宙において生命の息吹のあるもの一切が、解き明かすことのできない神秘に満ちた法則によって、空間的および時間的に拘束されている。同じ法則のもとで存続する霊形態だけは、時間にも空間にも屈服しない。しかし、霊形態は創造を起源とし、創造的であるから移ろい行くものの法則が、その実存在を損なうことはない。君たちの地球に生きているものも、ことごとく時間的なものと空間的なものの支配下にあり、同じく時間的、空間的な存立の法則に制約されている。それは、物質的な空間状況と時間状況が結合したものである。物質的な空間状況と時間状況は、その存立において冷厳な秩序の規則性、すなわち物質的形態における空間と時間の変転、粗大質料物質の発生と消滅を表している。地球人に関して過去に経過したすべての事実を認識すると、次の事実を学ぶことができる。すなわち、地球人がまだ創造の法則と掟を遵守し、それらと調和して生きていた最も古い過去において、地球人の霊的局面と思考形態は完全に所与の自然法則と一致しており、それにより冷厳な秩序には幸福、知識、英知、平和、自由および愛、そして平穏と満足が属していた。しかし、宗教に変節する邪説を通じて創造の真理から、そしてまた創造の法則と掟から自己疎外することにより、悪質な事柄、たとえば憎悪、不和、奴隷、流血、嫉妬、欲望、エゴイズム、争い、その他霊にふさわしくない多くの現象が培われ育まれた。これに関連して人間に定着している陰性的に変節した、根本となる破壊的な力を分析して明るみに出し、人間を意識の荒廃から連れ出してくれる真理と自由と英知の道を開示することが重要である。しかしこの道が示され得るのは、同時に人生の根源的な意味、およそ人間はなぜ現にある形態で生きているのか、ということの本来の意味が解き明かされる場合に限られる。過去数万年もの間、非常に多くの偉大な霊的人間が地球上に生き、この大きな問いに対し、どのように、どこで、そしてなぜという答を見出そうと努めた。しかし彼らの努力は無駄に終わり、現代まで伝えられているその思想は、これまでとまったく同じように踏み付けにされて不毛のままである。これらの教説や教示の多くは、知ってか知らずか改竄され、非現実的な宗教的ドグマに流用されて見分けがつかぬまでに変えられた。不滅の真理がこのように無視されたり、改竄されたりしたのは、それらを遵守することが人間にとって決して楽ではなかったからだが、そのために人間は現代に至るまで悪い結果を甘受せねばならなかった。しかし、真理を告げ、真理のために闘う者、すなわち真の予言者は踏み付けられ、追放され、命を奪われ、辱められた。そうしたことが起きる時代は、君たちの地球ではいまだに過ぎ去っていない。多くの新時代の賢者や真理の告知者も、同様に類似の迫害を受け、耐えねばなるまい。なぜなら宗教に惑わされた多くの地球人は、彼らに悪意を込めて自分たちの狂信の報復をするだろうから。しかし、時代の変転とあらゆる真理が出現する新しい宇宙時代は、彼らの戦いを助け、彼らに勝利をもたらすだろう。現代の地球人は、甚だしい物質的な快楽と享楽の内に生きている。彼らが言う心配のない生活とは、ひとえに物質的世界に依拠したものである。そこでは上等な衣服、瀟洒な住宅、贅沢な食事と飲み物、金銭的な成功と利益、そして快楽や悪習を満たすことが最も決定的な役割を果たす。人間は、これをその誤った非霊的な思考形態において満足した現世の生活と呼んでいるが、そこに真理に対する知識が欠如していることは言うまでもない。大多数の人類の現世における人間の努力は例外なく、できるだけ早く労せずに、多くの場合計り知れないほどの物質的な富を手に入れ、他人に対する権力を獲得することである。物質的な富のレベルと、この世界における社会的地位や職位が人間の価値を決定する。だが本当は、唯一の価値である霊的価値は完全に無視、嘲笑され、踏みにじられて愚にもつかないものと呼ばれる。現代では人間の名望は、金銭的な資産や地位と肩書きによってしか評価されない。これらの人間にとって、平穏で心配のない晩年を送ることが、最後の望みを果たすことであり、彼らはなおも自分たちが到達した文化の高さを誇りに思っている。到達した文化の高さに対する地球人の誇りは、物質的な成果という最小の価値に立脚しているが、霊的発達が考慮されていなければ、どんな文化的価値も認められない。高貴な人間性を削ぎ落とされた生活も、何らかの意味で文化と呼ぶ権利はまったくない。極めてあからさまなエゴイズムこそ、人間の思考と行為と作用の最も強い原動力であるが、人間はあまりに臆病なのでこの事実を意識もしなければ、自分自身に対して密かに認めることさえしない。地球人には真理に対する勇気が欠けており、また腐敗した偽善において無思慮にのうのうと生きているので、君たちのもとには理解というものが存在しない。各々の人間は一人ひとり外界から隔離して生活し、自分自身を欺き、呪い、隣人が呼吸をするのを許しながら生きている。地球人がどれほど偉大な発明や発見をしようとも、それによって人生の真の意味がますます破壊され、根絶され、またかろうじて残っている最小限の霊的価値が最終的に失われるならば、何の役に立つだろうか。学界でどれほど探索や発見が行われようとも、意識が恐ろしく奴隷化され、また人間が物質的な発見や成果のために誇大妄想を抱いて、自分は創造自体であると思い込んで生き始めるならば、何の役に立つだろうか。しかし太古において、地球人の先祖がそうであったように、大昔から地球では金持ちと学者は指導的な立場の人々であった。彼らの知識は膨大なものとなり、特殊な専門分野に分けなければならなくなった。だが、彼らの知識や探索、発明や発見は、どれも純然と世俗的かつ物質的な事柄に変節し、それによってすべての意識の発達が妨げられ、抑圧され、奴隷状態に追いやられた。霊的な真理が忘れられて、文字どおり意識の呪いが育まれた。君たち地球の人類は現代に至るまで、さらに現代を超えてなおその影響を耐え忍ばなければならない。この底無しの奈落への落下はまだ停止に至っていない。というのも、落下のものすごい速度にブレーキを掛けるための決定的な措置は、ようやく今講じられようとしているからである。しかしこれらの試みは、いや応なく付きまとう新しい時代の過渡期の作用や影響によって繰り返し損なわれ、挫折を余儀なくされるでしょう。途方に暮れるほど多くの新しい宗教的カルトは、新しい時代に真理が続々と出現するのを損なう。なぜなら昔から人間は、新しい時代や変転が始まる時には迷妄に影響されるから。宗教的な邪説によって生まれるこのような迷妄は、特にそのような時代に激しさを増す。宗教の邪説や、科学およびその他の世界の学者による知識は、それ自体の内に言い知れぬ因子の形で、致命的で壊滅的な破壊の芽を宿している。そのことは学界にも、普通の地球人にも認識されなかった。人間の生命における一切のものは、完全に非物質的な水準を持っていることを誰もが故意に、あるいは無意識に見逃した。その水準は物質的・科学的事実とも、宗教的ドグマとも相いれず、倫理的境域にその反響を見出すのみである。悟性的科学も、宗教的ドグマや空想的解釈もその行為と行動によって、霊と意識の進化を保証する霊的・倫理的、意識的・倫理的な力を解き放つことはできない。まったく逆にそれらはこの憶測を受け入れる人間を、この質量に対する間違った信仰へと誘惑してこれに従属させる。これら惑わされた人間が、物質的に思考する者となるのは避けがたい。彼らはもはや、どんなことがあっても迷妄から離れようとはせず、そのためにしばしば真理の告知者の命を奪う。しかしこれは、現代と未来の非常に悪い特徴であるのみならず、過去においてもそうであった。地球人は数千年来、自分勝手に作り上げたドグマに従って生きており、まさに彼らの中でも常に最も悪質で権力欲の強い者が、民衆の指導者や宗教の指導者の地位、さらには秩序と道徳の番人の地位を手に入れたのも偶然ではない。こうした連中のおかげで、昔も今も深い霊的認識、それと同時に倫理的道徳、そして意識的な認識と教示の獲得を目指す人々が、異端者として世離れした夢想家、革命家気取り、反逆者として片付けられて迫害され、無残に殺されたり殺戮されたりしている。かつて人間が見つめ、そして現在見つめているところに見出すのは、ただ流血、憎悪、錯誤、隷従、欺瞞、不信と惑乱、非論理、虚偽、そして邪説のみである。開かれた目と開かれた意識・感性をもって物事をその真理において見、認識できる人々の前にも、至るところで同じ悪質な像が現れる。不信と憎悪、エゴイズムと宗教的邪説が、数千年にわたって地球の民族を惑わし盲目にしてきた結果、全人類は自分の内で混乱して不和になり、今日ものすごい速さで自分自身の滅亡の淵に向かっている。現代、悪と堕落は限度に達し、見境のない破壊の暴威が人類をつかみ、地上の世界に死と滅亡と壊滅をもたらす。このための礎石は、すでに数百年も前に置かれたが、その発生の起源は数千年も前に遡る。当時と変わらず今日も最大の破壊者や独裁者は、自分を英雄か空想上の神の右腕と思い込んでいる。神は彼らを復讐と規律を旨とする監督として、民族の上に据えたことになっている。そして彼らに従属する民族は、自分自身の意志からにせよ、あるいは自らの意志に反してであるにせよ、彼らを英雄として敬い、讃える。統一が統一を保つことができるのは、分裂したり、分離が引き起こされたりしない間だけである。統一が分割されたら、それはもはや全体ではなくなり、相対的完全性の価値は失われる。これはあらゆる存立の法則であり、生命の法則である。この法則により、創造の冷厳な秩序から生まれるすべての発展と安全が保証される。この法則は地球人にも妥当する。地球人の統一は、人類全体の共生においても、個々人の内部にも融和を形成する。しかし人間が、この融和を失った結果、分裂が生命を貫いている。自分自身における分裂、思考形態における分裂、行動における分裂、隣人との分裂、そして周囲のすべての世界との分裂が。それだけではない。この人間の分裂は、自然と創造の法則を具現しているあらゆる事物に対して、つまり創造自体に対しても見られるようになった。実に、創造の輝く全能の前でさえ、地球人は分裂を止めようとはしない。分裂は不完全さの中でも、最悪のものの一つである。不完全はあらゆる壊滅的なもの、致命的なものをもたらす。それゆえ人間は、不完全の呪縛に支配されている限り、不正、困苦と悲惨、病、喧嘩、争い、そして曽悪、死、腐敗という結果も全部引き受け耐えなければならない。というのはそれらは、一切を包含する分裂と統一との分離から生まれ、自ら作り出した必然的な結果として人間の生命に脈打ちながら流れているから。地球人の多くはこのことを知っているに違いない。なぜなら彼らは、すべてのことを自分自身の体で耐え忍ばねばならないからである。だが彼らは、良い方向に転換する道を知らない。彼らは確かに、この破壊的な状態から抜け出ようとひたすら努力しているが、抜け出す方法は彼らには秘められたままである。彼らのより良い人生や、精神的な充足への願望と押さえがたい衝動は理解できる。しかし同時に、ここで不可解なことが始まる。多くの真理の告知者が地球上に生き、創造の秩序の真理と英知を告げた。彼らは愛情を込めて語り、厳しい言葉で叱り、多くの言語を操り、地球のあらゆる民族に真理と知識と英知を告げた。しかし人間は彼らを無視し、迫害し、殺すことによって、創造の正義を嘲笑した。予言者は創造の真理と英知、その法則と掟、そしてすべてを包み込む創造の愛をもたらした。だが彼らは、人間に踏み付けられ、呪われた。地球人は、すでに昔から囚われている宗教の非現実的教えから敢えて離れることなく、霊の教えの真理と英知を冒涜した。地球人にとっては、宗教の空疎な偽りの約束の方が、創造の真理よりも重要になってきた。それゆえ地球人は、創造の法則と掟、そして予言者を冒涜し、踏み付け、殺し、壊滅させ、いよいよもって、自分たちをすでに支配している宗教の邪説によって、欲しいままに意識を完全に奴隷化できるようにした。地球人に真理と英知をもたらし、それによって創造に関する知識に根差した生活を示して、創造およびその法則と掟に至る道を示すべく、多くの試みが成されてきた。だが、いかなる試みも成果がないまま、真理の船は例外なく座礁して、地球人の無理解という底無しの深みへと沈んだ。真理を探し求める人間は、悪の根元をつかんだことは一度もなく、したがって認識を見出すことは決してできなかった。悪の根元をつかめなかったのは、彼らの人生に対する解釈が表面的で誤っており、本来の使命を失ったためであった。それというのも彼らが、無限の実存在の渦巻く源泉を、非現実的な宗教的ドグマに置き換えて、狂気に終わらせてしまったからである。時間を超えたものは永遠であり、この時間を超えた永遠の内に創造の力および全能の真理と英知が安らいでいる。人間がこの真理に近づき、それを目指して努力すればするほど、創造の秩序を生み出す法則と掟に従うことが容易になる。人間が、創造の真理およびその法則と掟を承認して遵守するならば、その人生において無限に持続する秩序が光り輝く。平穏、平和、そして愛が空間と時間を貫いて人生に伴い、創造の調和が完全であることを物語る。地球上のあらゆる出来事の中心には、地球全体で最も発達した霊形態を持った人間がいる。彼は、地球のあらゆる自然法則の中に認めることのできる創造の秩序の唯一無二の法則に従って、世界のすべての事柄を秩序づけ、評価しなければならない。個体として人間は、自分に課せられた様々な使命を持っている。第1に人間が義務づけられている使命は、発達の段階に応じて与えられた時間にわたって、自分の生命を維持すること。第2に義務を果たすように心がけ、霊的、意識的に可能な限り発達して、霊の進化を重要な真理として承認しなければならない。共同存在としては種を保存して、霊の教えに従って子孫を教化し、育てる使命がある。さらに人間は、自然の共同秩序に順応し、適合する義務を負わされている。この共同秩序は自然が、生き方の模範を示しているように、あらゆる点で自然の進化を保証する。人間の種の保存は、地球の宗教の邪説が明言するように、単なる繁殖の公式で表されるものではない。種の保存とは、自然法則を遵守すること。それは神聖で、見通しが利き、統制的な遵守である。しかし、単なる繁殖の公式は神聖ではなく、見通しも利かなければ統制的でもない。なぜなら繁殖は、あらゆる自然法則に反して意味なく大量に増やすからである。地球人が単なる繁殖の公式に従い、創造と自然のすべての法則をないがしろにしているということは、多少なりとも意識の発達の軌道を歩んでいる人間には明白である。人類は節度も節制もなく増え続け、統制のない低俗な形で子孫を生み出している。君たちの地球は、5億の人間の生命形態を支え養うことができるが、地球人は35億(1975年現在)もの人間を生み、わずか数百年の間に、何百万という人間が正常でない死に方をしなければならないほど、ひどい人口過剰を招いた。地球人の無思慮と宗教の邪説のために、人類は際限なく増え続け、それまでは少数の人間に限られていたので食い止めることができた諸々の問題が、言語に絶する規模に広がり統制不能となった。種の保存の法則を破りないがしろにしたため人類は、わずか数百年の間に大規模な人口過剰に陥り、それとともにありとあらゆる問題や困苦、そして退廃が増大するのは避けられなかった。地球人が、その使命を正しい意味で果たしつつ生きるならば、彼は創造によって与えられた冷厳な秩序の内に生きることになる。しかし地球人が、秩序をないがしろにして逸脱するならば、その代償を払い、結末を引き受けることになる。だが地球人は、この秩序を踏みにじり甚だしくないがしろにした。そして今地球人は、その結末を引き受けなければならない。地球人の物質的な生活領域の最も重要な使命の一つとして、人口過剰を極めて強硬な措置で食い止め、人間の数が正常な5億人基準の水準になるよう努めなければならない。現実は、地球人の生命形態をこの数しか許さないのであるから、再びこの数値を達成しなければならない。この道を進むことは単純でも簡単でもない。というのは、達成すべき目標を認識するには、最初に悟性と理性が勝利を得なければならないから。この目標に至る道とは、次のようなものである。地球の運命を司るすべての者、すなわち責任者たちは規則を公布し、いかなる家族も10年の間に配分して子供を3人以上生まないという成果を達成するよう心がけなければならない。男性の人間的生命形態は、30歳以下および40歳以上で子孫を作るべきではない。しかし何よりも緊要なのは、節度なく人口過剰になった国は、7年間にわたって出産停止のための絶対的な規則を公布して、自然に従って人口を減らすこと。地球が支えきれる人口は、肥沃な土地の平方キロメートル数によって計算してよい。これは個々の国、個々の国家についても算出できる。生命を養い維持するための自然法則の真理によれば、肥沃な土地1平方キロメートル当たり12人の人間的生命形態を見積もることを許している。1平方キロメートルの肥沃な土地は、12人の人間的生命形態以外に、野生の自然に生息しているすべての動物と、人間の必要を満たす動物を心配なく養うことができる。この場合整理するという無秩序感覚を持った人間が、秩序なるものを自然の野生動物や、本来の自然秩序に持ち込むには及ばない。この法則を守り注意を払うならば、飢餓は完全に無くなり、多くの病気は芽のうちに摘み取られる。それによって、環境汚染や大気汚染の問題、そしてまたこれと関連する他の多くの問題も解決される。戦争や、その他類似の逸脱行為も大幅に減少し、地球人は自分の隣の人間がまことに隣人であり、人間はお互いの間で相互に必要とし合っていることを再び学ぶ。再び愛と調和がその妥当性を獲得し、地球に平和が戻るでしょう。それゆえ目下の急務は、人口を基準値に保ち、または基準値まで減らすこと。なぜなら最も解決が困難な問題は、地球における人間の生命形態の人口過剰に起因しているからである。目標に至る道は遠く険しい。そしてまず地球人の中で、理性が勝利を収めなければならない。その道は実は、目標に続く唯一の道である。それというのも、第2の道や妥協の道は存在しないからである。それゆえ地球人は、上に述べた道を歩み、地球と同様、自分自身も自然の正常性に戻るよう努めなくてはならない。地球人は、物質的であると霊的であるとを問わず、あらゆる生命領域で対立する力の作用と反作用に遭遇する。生命の働きはすべて、この陽と陰、善と悪、内面的なものと外面的なものの対立の法則において振動している。君たち地球人は生活のあらゆる分野で、この巨大な相互作用に絶え間なく遭遇する。君たちはそれを善と悪、陽と陰、内面的なものと外面的なものからだけでなく、喜びと苦しみ、死と生、昼と夜、夏と冬、熱さと冷たさ、愛と憎しみなどからも知っている。君たちはまた、男性的なものと女性的なものにおいても知っている。それらはそれ自体では二つの対立する力であるが、合体することにより全体として統一されて超統一体として現れ、あらゆる生殖の行為、すなわちあらゆる生命の原理・原則を具現している。およそ2000年来、この知識は君たち地球人に忘れ去られていた。なぜならそれは、宗教と科学の邪説によって排除されたから。この2000年間に、君たち人類の間で無知がまるで疫病のように蔓延し、真理を埋めてしまった。しかしすべては、時代の流れに従わなければならず、地球人もその例外ではない。それゆえ現代において、新しく賢い予言者が生まれないわけにはいかなかった。彼は、真理の基礎壁を新たに築くのに十分偉大でしょう。彼は2000年来、初めて再び真理をその根本要素において認識した唯一の地球人であり、数十年にわたり非常な労力を払い真理を探究、探索し、そして見出した。その際に、高次の霊形態によって導かれ、教示され、育成されたということはほとんどなかった。なぜなら彼自身すでに霊的、意識的に高い価値と、人生を真理に捧げるという善き意図を持って生まれついたから。彼のまことの知識は、君たちの時代と未来において最も膨大なものとなり、宇宙の多くの世界はいつか彼の教えに従って生きるでしょう。彼は我々のこのメッセージの受信者であり、君たちの時代の偉大な予言者であり、自分自身の意識と霊の活動によって真理を見出した。彼はすでに、たびたびその巨大な知識の一部を書き留め、記録した。その知識は非常に偉大であり、本当の真理の枠内にあるが、それは我々の賞賛に値する。彼のことを多く知っているので我々は、地球人の思考形態や人間の感情世界を解明するために、彼の言葉の正確な再現を使用するつもりである。したがって以下に掲げるものは、君たちの新しい予言者の思考形態に対応しているが、それは我々の知見とも非常に正確に一致している。以下の文書は、彼の言葉を君たちに確実に理解できる形で、すなわち深遠な真理の形で忠実に再現したものである。君たち地球人は、その真理を認識し、遵守しなければならない。なぜならそれは自らを調和に導き、霊的思考形態に至る道をならす方法を示しているからである。 多くの地球人は奇跡を信じているが、それとともに自分自身が進化の歯車装置の中に巻き込まれる努力をすることなく、自動的に巻き込まれていると信じている。彼らは宗教的形態の迷信に囚われて、神は自分たちの全運命と、したがってまた進化を操ると思い込んでいる。そのため彼らは、謙虚にすべての運命を神の手に委ねさえすれば、霊と意識の進化は必ず起こるだろうという観念を抱いて生きている。ここに至って、地球人はなんと馬鹿げた迷信に陥っていることだろうか。というのは、地球人の運命を自己の力で導いたり、操ったりできるような神はどこにも存在しないから。すべての努力、したがってまたあらゆる観点で進化を追求する努力も、地球人自身にかかっている。このことを地球人は、皆明確に知らなければならない。そして決していかなる奇跡にも頼ってはならない。それらは非現実的だからである。しかし無限に続く時間の懐で、かつて奇跡が起きたためしはなく、これらかも絶対に起こるまい。奇跡とは何か説明できないものを意味するが、説明できないものは何も存在しない。なぜならそのような奇跡は、創造のすべての法則と掟に反することになり、それによって創造自体は、自らの実在を放棄することになるからである。創造の上、下あるいは中に説明できないような出来事が出現し得るとしたなら、どうして奇跡は、創造として実在することができようか。だが、君たち地球人の目から見ても、奇跡は一度も起きたことはない。なぜなら君たちにあっても奇跡は、非現実的で創造の法則に反すると思われるから。地球人は、自分に説明できないものは何でも奇跡という名称で呼ぶ傾向がある。地球人は、宗教的な邪説に依存しているので、この名称に関する傾向はさらに神的なものに向かう。まことの知識と英知が欠けているところでは、自然の説明が完全に欠如し、地球人は解決を仮想のもの、宗教、神、そして何らかの聖人や聖物に求める。だから地球人は、自分に説明できないものはなんでも奇跡という名称で呼ぶ。しかし新時代の幕開けとともに、これらの奇跡に関する邪説はいよいよ過去のものとなる。なぜなら新時代は、真理と霊の本当の教えを求めるからである。非現実的なものはことごとく忘れ去られ、過去に押しやられる。それは、新時代における意識のまことの進化において、実在する権利を持たないから。地球人にとって存在するのは、創造の法則と掟の永遠の支配のみである。これが霊の法則と掟である限り、地球人は自分の中に住まう霊の力によって、極めて意識的にこれらの法則と掟に従って生き、それによって自分を完成させることができる。それゆえ地球人が、この霊の法則と掟の冷厳な秩序に組み込まれ適合すればするほど、彼の中で意識的に知識、真理および英知が増え、彼の内で巨大な意識の力が成長して身につけた知識と能力により、その力を技能として応用できるようになる。こうして地球人は、創造のすべての力に対して文字どおり心を開く。これらの力は無限に広がる宇宙から愛の生き生きとした流れとして彼の内に流入する。この道を進むとき、地球人は創造の秩序およびその法則と掟に適った生活を送るだけでなく、霊と意識の進化のまことの道、したがって完成の道を歩む。愛の法則は、創造のあらゆる法則の原則である。そしてこの法則は、君たち地球人の原則も具現している。したがって、すべてに対して普遍的な愛から振る舞わない者は、秩序の掟と定めの法則に反する。それゆえすべてに対して、あらゆる生命形態に対して、したがってまたすべての同胞に対して、無私の普遍的な愛から振る舞う者だけが、自分の内に真理と認識につながる決定的な力を呼び覚すことができる。この愛の法則に従うことによってのみ、認識、真理、知識および英知を集め、それによって新時代との結び付きを見出す可能性が保証される。新時代、すなわち水瓶座の時代は、平和と愛、知識、真理と英知、そして進歩の時代である。それは最高度の霊と意識の進化の時代、久しく求められたすべての目標を達成する時代である。これは法則に適った発展であり、法則に適った真理の認識である。それゆえ新時代に向かって心を開き、新時代の予言者の英知に耳を傾け、自分の内に受け入れる者は、創造の法則と掟の実在と作用を意識するようになった。今や、真の愛を無私に実践することが、かつてないほど緊急に求められている。すべての思考と行為と行動は、真の愛によって高められなければならない。普遍的な意味における愛だけが、知識、英知および真理を獲得するのに必要な力を奮い起こすことを可能にする。それによって、陰性的に変節した世俗的な事柄や欲求を、すべて放棄することができる。特に君たちの世界では、白色人種がこのような教示を必要とする。なぜなら彼らは大方が生半可な知識しか持っておらず、愚かな邪説にたきつけられた妄想によって、地球の全人類を劫罰の奈落に追いやるから。温和な有色人種は数百年来、そして現代に至っても、白色人種に宣教され、キリスト教に隷従させられている。それはかつても今も、専制、野蛮、奴隷状態と結び付いており、その信仰は罪のない人々が流した血でしたためられている。愛の隠れ蓑の下で殺人や殺害、奴隷化や搾取が行われ、人間は意識の発展を奪われている。君たちの世界の有色人種が、今ほどひどく節度を失ったことはかつてない。自分たちを地球の支配人種と見なしている白色人種は昔から変節していたが、それはこれからも長く続くでしょう。君たちは、自分たちの時代を啓蒙と人道主義、人間性の時代と呼んでいるが、それは嘘とペテンの空疎な言葉にすぎない。なぜなら実際は、現代こそ非人間性、非人道主義、幻惑が、かつてないほど甚だしい段階に入っているから。真理は、殺人と殺戮によって押しのけられて、奴隷化する狂った宗教と政治支配が再び強化され、それらに新たに悪質な権力を保証する。それが今日、君たちの世界の状況である。昔もそうであったが、かつては今日ほど甚だしく邪悪ではなかった。今日も昔と同様、真理の告知者が現れ、無知と搾取と奴隷状態の無気力から引きずり出そうとしたとき、宗教と政治に権力を維持させるために、最も恐るべき、最も非人間的な手段さえ用いられた。あらゆる手段を用いて権力の維持を図ろうとするのは、たとえその方法は変ったとしても、数千年来同じであった。地球人はここで過去に起き、今も行われている拷問を思い出すがよい。そうした拷問は、節度を失った権力亡者とその手先が、過去も現在も、そしてこれからも使い続けるだろう。そしてこれらすべてのことが、過去も現在も政治家や宗教の代表者とそれらの追随者が説く、自由と愛の隠れ蓑の下で行われている。こうしたぞっとするような全状況において、いったいどこに自由と愛があるのか、どこに理性と悟性があるのか、どこに知識と英知と真理があるのか。実際、どこにもない。なぜなら無知、権力欲、幻惑、その他多くの陰性的に変節した力が幅を利かすところでは、愛や知識、真理や英知は存在せず、創造の法則と掟は決して承認されず、創造自体も承認されないからである。こうした状況が空想に満ち、現実離れした仮想の力に道を開ける。それは神々、天使、聖像などで幻惑する宗教の道であるが、決して真理の道ではない。欺瞞的で、意識を奴隷化する宗教に従って生きる人間は、創造の凄まじい力とその無限の愛を理解したり、把握したりできない。いわんや、彼らはこの愛を使うことを理解したり、把握したりすることはできまい。彼らは創造の実在について何も知らない。なぜなら彼らの感性は、宗教の邪説によって、神々とそれらに帰せられた事柄に囚われているからである。彼らは、非現実的な信仰の臆見の内に生き、まことの知識と英知を蔑んで退ける。まことの知識と英知は、山をも動かすことができる。これは言葉の最も真なる意味において、その過程を通して物質が変換され、移動され、そして再び変容されるということ。地球人の知識から、真理の理解と創造の実在が失われているので、地球人は物質変換の過程も理解できない。君たち人類の大部分にとって、霊と意識の世界への眼差しはまだ暗く、それどころか多くは盲目である。なぜなら良心よりも、頭脳が強いから。そのため35億人の地球人(1975年現在)は、意識・霊生命および水瓶座時代の新しく始まる時代に続く道を見出せない。現代地球では、大方はまだ密かにではあるが、霊的態度の相違が見られる。個々の小さい集団は真理のかけらを認識しているか、あるいは真理について何らかの示唆を受けている。いずれもまだ、信仰や宗教の非現実的な事柄に囚われているとしても、それらの極めてわずかな断片的知識を働かせることにより、真理は徐々に広がることができる。境界科学者や精神科学者は、残念ながらまだあまりに非現実的な物事や信仰に囚われているが、今後数百年の間に、真理が地球人に到達する道を、見出すのに重要な役割を果たすでしょう。彼らは新時代の予言者と、それに続く真理の告知者によって教示され、その真理をさらに広めるでしょう。今日なお数十億の地球人が、富とあらゆる物質的なものの側に立っているが、他方では次第に霊的なものの力、したがってまた真理の力が発展している。知識ある者の数は徐々に増え、それによって邪説が排除されるでしょう。今日まだ宗教信者の数は、その頂点に向かってとどまることなく増えているが、それは短期間のうちに非常に急速に変わるでしょう。幻惑する宗教も、権力欲に憑かれた政治家の統治と同様、衰退が避けられないでしょう。なぜなら、自然のすべての法則と掟の真価を再び発揮させる、霊的な指導者が登場するから。したがって現代、本当に知識ある者の数はまだ極めて少ないが、それは見渡しきれないほど多数の集団に成長するでしょう。時間の経過とともに、彼らは創造的な意味で発展し、彼らの子孫もその指針に従って教育するようになるでしょう。これらの子孫は、未来の人間すなわち愛と真理を求める水瓶座時代における地球の未来の担い手であり、形成者となるでしょう。これら地球の未来を担う者たちは、彼らの先祖が真理を求めて数千年間にわたって戦った後に、再び目を輝かせ、喜ばしく屈託のない感性で人生を生きることのできる者たちである。※水瓶座時代(Wassermannzeit):新しい時代。黄金時代。 地球つまりゾル太陽系(我々の太陽系)が、銀河系中心太陽を公転する銀河系星座から直接影響を受ける領域内に位置している。水瓶座時代とは、霊的な時代、真の真理の時代、寛容と啓蒙と愛の時代、知識の時代、自由の時代、英知と調和の時代である。しかしこれらはすべて、苦しい闘いを通じて勝ち取らなければならない。水瓶座時代は、他の星座の時代と同じく、地球時間で2,155年間続く。したがって、次の水瓶座時代は、黄道十二宮をすべて通過した後、すなわち地球時間で25,860年後に再び訪れる。 現在の水瓶座時代は、中部ヨーロッパ標準時の1844年2月3日11時20分に始まった。それ以前の地球は魚座時代にあったが、その時点を境に魚座時代から水瓶座時代への過渡期に入った。この過渡期は総じて185年間に及ぶ。そして1937年の初め、つまり中部ヨ一口ツパ標準時の1937年2月3日11時20分に魚座の最後の影響から解放されて過渡期後半に入り、急激な発展を始めた。2029年に過渡期が終わり、太陽系はその後の1970年間、水瓶座時代の金色に輝く宇宙光の中にいる(これが黄金時代と呼ばれるゆえんである)。したがって、次の時代へ移るのは、41世紀への変わり目である。すなわち、中部ヨーロッパ標準時の3999年2月3日水曜日、11時20分に、ゾル太陽系は山羊座時代に移行する。
2020.03.02
閲覧総数 1182
6

〇セミヤーゼの言葉人間は創造的なるものを知らないため、誤った教え、すなわち意識を隷属させる教派や宗教に惑わされているので、非常に多くの過ちを犯し、間違った場所に真の宝を探そうとして、自然と創造のあらゆる秩序や法則のすべての規則を破る。そのような人間は人間社会の法律をいかに厳密に守ろうとも、宇宙における創造的なるもののあらゆる法則と規則および秩序を破り続け、人間的で物質的な苦しみや不安、問題、恐怖、誤った教え、誤った指導、弱さ、不幸、霊的および意識的な無知、意識的な隷属および制約に囚われる。現実から遊離した教派や宗教、人間的な無知のために、まさに最も価値あるものを把握できない。このような無知と誤った道に導く宗教や教派その他の誤った教えが、すべての価値あるものの源泉、生命の中の生命、あらゆる知性の光、すなわち霊と創造を、人間の目から覆い隠している。だから、日常生活とその経験の全領域を創造的なるものと考えなさい。いつでも、どこでも、あらゆる事物の中に自分自身を見出しなさい。自分自身が万物となって、万物の中に創造的なるものを呼び覚まし、それを認識し経験しなさい。なぜなら創造は万物の中にあり、万物は創造の霊によって生かされているからである。そのため万物は万物において一つなのである。ここで問われるのはもし人間が霊の道を知らなければ、どうやって自分自身を万物と同一視するべきかということ。ただたいていの場合人間は、その肉体を自分自身と同一視している。しかし人間が真理を取り組もうと心がけ、内面的に創造の存在と霊的な現実に合わせればどうなるでしょう。全世界が自ずと本当の霊的な現実と真理へと溶け入る。創造的なるもの、霊的なものの唯一の原理があまねく支配するのである。では、人間はどうしたら自分自身を万物と同一視できるのでしょうか。まず、自分が実際にどのようなものであるか見つめることが必要である。たいていの場合人間は、その肉体を自分と同一視する。人間は自分の肉体を宝物のように大切に取り扱い、養い、献身的に世話をする。誇らしげに安物のがらくたや、くだらない妄想で自分を飾り立てるが、一方で、自分の意識は痩せ衰えさせている。ほんの少し痛いだけで、腹を立て不機嫌に他人に当たり散らし、それどころか嘆き、泣き始め、自分を哀れみ、あるいは自ら命を奪うのである。自分の肉体をわけもわからず偶像視し、虚栄や不安、懸念やプライド、そして様々な問題を纏わせる。何もかもが肉体中心なのである。しばしば物質的な財産を自分の肉体と同一視することさえあり、周囲の人間がうっかりそれに触れると、腹を立てたりする。それに比べて、意識と霊の真理を認識する人間はどうするでしょうか。このような人間は、世界および宇宙のあらゆる事物や生物と自分自身とを同一視するでしょう。創造と霊の英知に満ち、知識、真理、愛と認識に満ちた人間は、過去において万物は真理から生まれ、現在も未来も生まれ続けることを知っている。それゆえ、そのような人間は自分をありとあらゆるものと同一視する。彼はその意識的な存在の深奥において常に万物と一体となるでしょう。彼は自己の深奥において霊的な意識および宇宙の万物と自分を同一視する。その一方、物質的に思考する他の人間は、自分の肉体、金銭や財産と、誤った言葉や教えと、自分の声の響きと自分を同一視するのである。しかし、人間が自分を宇宙の万物と同一視すると、憎しみや欲望を自らの内に宿すことができなくなる。自己中心的な区別をしなくなるから。彼は万物の本質と一体となったからである。他の人間なら何かを自分だけの所有物にするでしょうが、霊的に思考する人間はそのものをその内にある真理と同一視する。つまり、すべてを内面的に所有する。自分と真理を同一視することによって、彼から一切の恐怖が消え去る。それどころか、彼が一体となっているこの創造と霊の真理は、彼に向かって振り上げた敵の手を逸らせて、その当人を打つことさえできる。霊的に思考する人間は保護され庇護されており、自然全体も彼に対して好意的である。そして敵でさえも最後には彼に仕えることになる。敵からの攻撃によって、霊的に思考する人間の中の意識的な理性の力はさらに大きな力へと発展し、邪悪で卑劣で堕落したすべての者を制圧する。結局敵の行為は、意識的創造的に思考する人間の成長と真理の認識に役立つだけなのである。敵は真に思考する人々に災いや、不幸や、良くないことを望む。批判、知ったかぶり、虚偽、中傷、異議、誤った主張、誤った教え、嘲笑、非難によってそうした人々を絶滅できると思っている。しかし、彼らは自分を傷つけるだけ。なぜなら、彼らの行為は自分たちの愚かさと無知の証明であり、そして、創造的に思考する人間はそこからさらに多くのことを学び、その霊と意識はいっそう偉大で力強くなるでしょう。このような真実が、単なる暗示だとでもいうのでしょうか。そんなことを主張するのは狂気の沙汰でしょう。というのもそれは完全な誤りだから。それは絶対的な真理なのである。誤った考えをする者や、誤った道に導かれた者や、宗教に依存する者の場合、その生活はおおむね悪質な暗示、誤った思い込み、謬説や妄想に満ちている。このような害悪を除去する唯一の可能性、唯一の方法は、これらすべての人間的妄想を一切無効にする真理を根本から認識し、それらに従い、そして創造と霊と自然の至高へ物質的意識の力を発揮させること。人間が次のことを確認すれば、すべての非現実的な暗示や人間的な空想は正される。私は創造の一部であり、創造の一部すなわち霊が私に生命を与えていると。創造と霊の力、真理と現実の他は、すべて妄想と幻想であると知ることによって、生命を発展させようとする人間の熱意が減じることは決してなく、むしろそれは予期しないほどに高まるでしょう。真理とみなすことができるのは、現在も真理であり将来も真理であるものだけである。それは永遠に信頼でき、いかなる場合でも決して修正を必要としない。真理は、別の時代や新しい時代に適合させる必要がない。真理はあらゆる時代を通じて不変だから。真理は永遠に同一であり、たとえ言い方は異なっても常に同じ響きを持っている。真理とは、いつの世にもいかなる場所でもその上に構造物を構築できる岩盤である。真理は生命以前に存在し、生命以後にも存在する。短い期間しか存続しないものは危険であり、ひどい欺瞞であり、誤った教えである。創造と真理は今日も明日も常に同一であり、常に変わることなく、永遠に同じ価値を持つものである。その名も形も変わらない。なぜなら、創造と真理は名も形も持たないからである。だから、創造的なるものにしがみつきなさい。創造だけが真理なのだから。真理は創造そのものと同様に不滅である。真理は永遠であり、相対的に完全である。それは人間がすべてのエネルギーを使い、意志のすべてをかけるだけの価値を持つものである。というのも真理は決して人間を欺くことがないからである。だから、真理にしがみつき、何事においても変わらぬ冷静さと喜び、知識と愛、そして強さと英知を持って泰然としていなさい。創造的なるものだけが無限の英知と真理であり、そこには一点の誤りもあり得ない。だから、創造の英知から力を得て、自らの霊と意識の中に英知の光を探しなさい。真の人間は空間内で自分の手を動かさなくても、もう何十億回も創造的なるものに触れることになるとよくわかっている。なぜなら創造的なるものはいかなるときでも、どこにでも遍在しているから。真に現実的な人間は、筆舌に尽くしがたい無限の力に満ちた創造的なるものがあまねく存在し、どこに行こうとも自分を取り巻いているという真理を知るとき、喜びにあふれる。創造的なるものは果てしない平和に満ち、無限の認識に満ち、そして相対的に最も完全なものである。それは、自己の内と外にあまねく存在する至高の霊的意識が繰り広げるあらゆる奇跡の泉である。真の人間の喜びは、霊的生命そのものと同じく無限である。霊的にも意識的にも急速な進化を遂げるために、創造的に思考する人間はあらゆるものを創造的とみなす。彼は何かを見るや否や、そこに創造的なるものを見出す。彼が見ているあらゆる事物の背後に、またそれらの現象形態そのものの内に、常に創造的なるものがある。だから創造的に思考する人間は、至高の経験を手に入れようとして、あちこち走り回る必要がない。認識と経験を積むには、今いるところが常に最善の場所なのである。霊と意識は彼自身の中で育まれるのであって、どこか別の場所で育まれるのではない。彼は自分自身の思考と行動を通じて、霊と意識を育まなければならない。これを認識することによって、その考え方は聖なるものとなる。彼とともにある万物も、足下の土でさえも聖なるものとなる。創造的に思考する人間は、創造と自己の内部に宿る霊を経験すべき時を未来に見るのではなく、今この現在に見ている。それによって彼は、意識の貧しい普通の人間にとって遠くはるかな未来に生きているのである。が、多くの場合、それは全く理解されない。真に創造的に思考する人間にとって時とはいつかではなく、いつもこの現在を指すのである。真理を見るために、彼に肉眼は必要としない。彼は自己の内部を探求し始める。すると真理は彼にとってますます現実的なものとなる。なぜなら彼の物質的意識に代わって彼の霊がこの現在においてすべてを観るからである。基本的に地球人の間では心霊術が非常に盛んに行われている。でもそれらは非常に素人っぽく、取るに足る知識や成果はない。いわゆる心霊治療の99.7%以上は詐欺、自己欺瞞、ペテンによるものである。全く意図的に誤ったことが主張され、それが魔法めかしたトリックで強調されている。極めて多くの場合、自己欺瞞が見られる。なぜなら心霊術者は、あの世の存在者や死者が自分たちの呼びかけに答えると思い込んでいるから。そのような種類の霊媒師はテレパシーによる潜在意識の波動に対して非常に敏感であり、その能力によって他人の潜在意識や記憶のデータバンクとつながり、過去や未来の出来事を経験する。内情を知らぬ人々や無知な人々は、霊媒師が本当に霊媒能力を持っていると信じている。だから彼らは霊媒行為によって、自分自身や親戚やあるいは自分でもとうに忘れて思い出せない他の人のことについて語られるとよくびっくりする。無知で非論理的な人間は、単なる口寄せも本当の心霊術も行うべきではない。それらは第一に、意識の混乱が生じる恐れがあるので、実施する人間にとって、精神的、意識的に非常に危険である。第二に、彼らはありとあらゆる可能性によって騙されたり、茶化されたりする。でもそれは死者によるものではない。死んだ生命体があの世の境域においても総意識体の形で持っているのは、自分が物質的な世界で集めた知識だけである。もしこの死んだ生命体を物質的な世界から呼び出せたとしても、その生命体はまさに自分が物質的な世界で習得したことしか説明することも語ることもできないでしょう。とりわけ宗教的ドグマや狂気は、最も重大な要因となる。死んだ生命体が出現するのを見たとかその声を聞いたとか称して、再三再四、生きている者を惑わす。なぜかと言うと、人間の物質的な思考に含まれている狂信的宗教的な要素が、多くの場合人間の人生において支配的な役割を果たしているから。多くの死者はその存在が呼び出されることに納得しないでしょう。だから呼び出されていたとしても、生きている者を悪質なやり方で騙す。多くの死者は悪意をもって茶化し、偽りの予言をするでしょう。でも、そうした予言は的中することもあるでしょう。無知な人間はそれを信じ、まるで磁石のように事件を引き寄せるから。ところで、真の形態の心霊術もあるにはあるが、それをなし得るのは私たちが知る限り4人だけである。しかも彼らは自分たちの能力を隠している。けれどもこの形態において呼び出されるのは死者ではなく、より高次の存在者や他の境域の存在者である。それらは往々にして意識の面で非常に高度なレベルまで発展を重ね、多くの誤った教えを離脱して賢者となった。そしてこれらの霊形態もしくは存在形態は、まだ生きている者のどんな質問にも正しく答え、決して騙したり茶化したりしない。根本的に言えば口寄せなどの形態の心霊術は、何よりもまず死者にとって望ましいものではないでしょうし、生きている者には何の益にもならず、凶事しかもたらさないのが真相である。すでに言ったような偽の形態の心霊術まがいも同様である。だから人間は決して死者に呼びかけようとしてはならない。それは全くのナンセンスであり、意識障害を起こす恐れがあるから。この、人を惑わす邪悪な偽心霊術を禁止するだけで、あなた方の世界から非常に多くの困窮や悲惨が取り除かれることでしょう。価値があるのは高次の形態の心霊術だけであり、この場合は死者ではなく、より高い霊の境域や高度に発達した存在者に呼びかけたり問いかけたりできる。先ほども言うが、地球には現在(1975年6月16日現在)そのようなことができる人間が4人しかいない。いわゆる全欧州圏には、現在この4人の真の能力者のうちたった一人だけ住んでいないが、その名前を挙げることはできない。もう一つ知っておいてもらいたいのは、すでに一度話したことのある宇宙の変革に関すること。要するに水瓶座時代のことで、これは黄金の時代とも言われている。まず、最初にはっきりさせておかなければならないのは、この時代に関する宗教的な解釈は絶対に事実ではなく、故意に誤って解釈したものだということ。水瓶座時代が宗教的に告示された終末の時代だという主張の背後には、無責任な狂信がある程度潜んでいる。決して、この新しい時代は終末の時代ではない。この時代こそ真に現実的な生命をもたらすのだから。この時代になって初めて、すべてが最高の水準に引き上げられ、自然の摂理に従って霊および意識を発展させることが可能となる。でもそうなるには、この時代が始まってから数百年もかかるでしょう。この時代本来の真価が発揮されるのは、2029年2月3日中部ヨーロッパ標準時の11時20分からである。しかし、新時代がもたらす変革の力はすでに1844年2月3日から始まっており、それ以来地球ではすさまじい変化が矢継ぎ早に起きている。新時代は犠牲も強いる。宗教的狂気、コンピューター技術やその他の技術、宇宙航空技術、遺伝子技術およびすべての科学の急速な発展、犯罪の激増、絶滅戦争など、これらはこの時代特有の典型的な現象である。水瓶座時代への過渡期の前半は1844年から1937年まで93年続いた。この間に地球は、魚座時代の一番外側の放射域へと脱した。1937年2月3日、中部ヨーロッパ標準時の11時20分に、本来の水瓶座時代への過渡期後半が始まった。この日から、急激な革命的事件、発明、発見、戦争や暴動などが日常的に相次いで起こった。他の時代にはないこと。しかしまた水瓶座時代の始まりとともに、真に霊的で意識的な生命の始まりも保証する。地球の太陽系全体とそこに生息する無数の生命形態は、この新時代の影響を受けることになる。ありとあらゆるものがその影響を受ける。なぜなら、それが宇宙の法則だから。全宇宙のすべての惑星の動きとあらゆる生命形態を支配するこの法則によると、地球は宇宙の様々な出来事を経て1844年に新しい時期に入った。この時期には、創造と自然に由来するものを除き、それまで存在し効力を発揮していたすべての秩序が進化に伴って変化したり消滅したりする。新時代の訪れとともに、地球人によってつくられ、それまで効力を持っていたあらゆる秩序が立て直され、変更され、進化し、変化し、あるいは廃止される。このような画期的な変化の起源は、私達が中心太陽と呼んでいる巨大な中心星の放射線領域にある。地球の太陽系もしくはゾル太陽系はこの中心太陽の回りを25860年かかって一周し、あなたがたの言う横道十二宮に相当する十二の時代を通過する。地球もしくはゾル太陽系は、銀河およびその中心太陽を約3億1800万年かけて一周し、すでに銀河系中心太陽の黄金の放射線の外側の縁に進入したところである。それは全銀河領域で変化や変動をもたらす最も強力な放射線である。水瓶座時代は、この放射線にちなんで黄金の時代とも呼ばれている。それは巨大な進化をもたらす革命の時代、新しい時代、偉大な時代、奇跡の時代なのである。しかしそれは多くの災禍も伴う。特に宗教の面で、および新しい発見や成果の応用の面でそうである。地球人は数百年を経て初めて無分別と無思慮に打ち勝ち、すべてを創造と自然の法則に従って整えるでしょう。水瓶座時代は、偉大で刺激に富んだ時代なのである。この非常に高貴な黄金の時代はその後の時代にも作用し、通過する横道十二宮すべての時代に影響を及ぼす。この黄金の時代に人間は自然な霊的で意識的な進路を見出すが、そこに至るまでには幾多の混乱を切り抜けなければならない。無数の人間が教派や宗教に惑わされて命を落とし、悲惨な最期を遂げるでしょう。しかし宗教や教派の誤った教えを逃れ、霊の真理と知識と英知の中に身をおく者は幸福になることでしょう。地球上ですさまじい革新が起きるでしょう。知性のみが尺度となることはなく、霊の知識と霊の能力がはるかに重視されるでしょう。霊的なるものの高い領域を感受し、これと調和を保って歩んで行けるほどには、霊と意識が充分に発達していないものはすべて、抹消されて取り除かれる。なぜなら、それはあらゆる形で生命をむしばみ脅かすものだから。すべてが頂点を極めたとき、霊を妨げるものや霊を隷属させるもの、意識を妨げるものや意識を隷属させるものはすべて破壊されるでしょう。その筆頭に挙げられるのは宗教と教派である。それらは意識とその発展を最も邪悪な形で抑圧するものだから。新時代の到来により、純粋な陰の力と純粋な陽の力はすべて地上から一掃され、それによって健全で中立的な均衡がもたらされうる。この変革の道を切り開くものは、宇宙の法則、万物を生み出す創造と自然の法則である。
2020.07.11
閲覧総数 1394
7

マインドクリアリング世界人口過剰解消会議と新しいウイルスの生体への影響無限であり、不変なものだけが、真理と知恵である地熱発電で惑星の全エネルギーを賄えたビリー 今、私が感情的な行動について語るならば、私は望むと望まざるとにかかわらず、このことについて立ち上がって表明しなければならず、実際にこの呼称にはほとんど異論がないと言わなければならない。なぜならば、オイゲン・ブロイラーがスファートから学んだことは大体正しいのだが、それによっていくつかのことを十分に理解しておらず、その結果、スファートが何年もの間、私に心理学を教えてくれたときに説明してくれたように、心理学と精神医学の不完全な部分をそのまま地球人に教えてしまった。というのも、スイスの精神分裂病の研究者であり、精神分析医であるブロイラーが教えてくれたことよりも、あなたの父であるスファートから多くのことを学んだから。情動性が残念ながら今日でも完全には正しく理解されておらず、そのため教え方も不完全であるという事実は、情動性が認知過程を伴わない短い衝動のような感情的な興奮にのみ対応し、したがって感情的な生活と気分的な生活の全体にのみ対応し、ゆえに情動、感情、気分、意欲にのみ対応するという事実に基づいている。しかし、私の観点からすると、このような感情的行動の解釈や説明は、実際の感情的プロセスの全体像とは完全に一致しないため、部分的には受け入れることができる。一方で、心の人生は精神の状態で誤って定義されている。というのも、心は精神の特定の状態に対応しているのではなく、まったく異なる何かに対応しているからである。ただし、この点については、話が飛躍しすぎてしまうので、ここでは触れない。他の多くのものと同様に、特に心理学では多くのことが誤解されている。例えば、感情についても誤って説明されていたり、正しくなかったり、不完全だったり、同じように間違って評価されているし、愚かな構築全体と心理テストの使用なども同様である。つまりこれは、感情という誤った教えにもあてはまることで、それは感情の全体と認知プロセスのない心の生活にのみ限定されているから。これは、思考の世界に加えて、感情と精神という結果的な要素が目の前に置かれているにもかかわらず、それなしには行動が全く起こらないという。したがって、思考が起こらなければ、感情や精神的な動きも起こらず、その結果、ネガティブであろうとポジティブであろうと、いかなる種類の感情的な動きも起こらない。その結果、否定的であれ肯定的であれ、すべての感情は先行する思考を必要とし、そこから最初の動きが形成され、それから必要な感情が生まれ、さらにそれ自体に対応する動きが生成され、それがさらに形成されて精神に影響を与え、先行する思考や感情の肯定的または否定的な方法に従って精神を整える。つまり、ネガティブであれポジティブであれ、どんな感情も、意識的または無意識的な対応する思考や感情、そして精神の状態に依存していることを意味する。ただしこれは、情動状態が鋭くなったときにすぐに先行するのではなく、すでにそのずっと前から、つまりこのような対応する思考や感情、そしてそれらによって破壊された心理状態は、もっと前に発生していたものであり、それが蓄積されて保存されている。そして、この蓄積はキャラクターの永続的な記憶の中で行われ、生涯にわたって残り、適切な、あるいは不適切な機会に影響を与える感情行動の引き金となる。その結果、これらは間接的に、何時間も、何日も、何週間も、何ヶ月も、何年も、何十年も前に生じた意識的あるいは無意識的な思考や感情、そして精神の状態に基づいている。その後、そのすべてが処理されず解決されなかったため、キャラクターの永続的な記憶に保存され、生涯のあらゆる機会に感情を呼び起こすために、適切または不適切な瞬間ごとに感情的に爆発する。それぞれ考えることや思考は、認識の意味で制御されなければならないということを意味するものではなく、したがって、理性や知性によって制御されなければならないということでもなく、思考全体が合理的で論理的な方法で処理されなければならないということでもない。つまり結果として、意識的に行動を制御して情報を変換する必要がないことを意味する。だから原則として、思考、感情、精神の状態は、場合によって意識的であったり、無意識的であったりするが、決して潜在意識ではなく、意識と潜在意識は異なる要因であり、これは明らかに地球の心理学では知られていない。つまり、意識的な活動が行われる場合には、必然的に意識的な思考とそれに対応する感情が先行することになる。しかし、情動の行為として、すぐに、突然にいわば制御できないほどの閃きが起こるような情動が発生した場合、これには必然的に無意識の思考と、同様に無意識の感情と、それに対応する精神状態が先行することになる。このようにして、単独で感情が発生する。つまり、以前の思考、感情、精神の先行する動きを意識的に認識することなく、異常で爆発的な反応行動や短絡的な行動が起こり、その発生と順序は実行者がコントロールすることはできない。それぞれをコントロールできないという。このように感情の爆発をコントロールできないのは、通常、恐怖、怒り、激怒や憤怒、嫉妬、失望、不快感、復讐心、報復などが原因である。無意識のうちに(地球の心理学には知られていない)感情的に影響を与えるキャラクターの永久的な記憶に保存されており、そしてそれらを解消しようとする努力がなされなければ、あらゆる可能なまたは不可能な機会に、常に制御不能な状態で勃発することになる。感情の意識的な解消がない場合、必然的に特に、個人的に攻撃性から解放されるための努力をしていないイライラした人の間で、感情の爆発が頻繁に発生することになる。多くの場合、このような人たちは、攻撃性の影響が邪悪な方法で支配的要素となり、その結果、殺人や過失致死、暴力が行われ、復讐が行使され、報復が要求される。さらなる影響は、パニックの発生、パートナーとの衝突、自殺行為、自発的な性格の悪化、逃避反応、また嫉妬、憎悪、敵意、性的な行為、哀れみなどの状況でも発生する。病気、苦しみ、期待、希望、考え、感情、仮定などに関連して。感情は激しい興奮と精神の動きによって引き起こされるという地球の心理学的主張、異常な心理的緊張が生じる状態は無意味である。なぜなら感情は、外部の出来事や内部の心理的なプロセスによって引き起こされる一時的な精神の興奮や感情の高まりには何ら対応しない。しかし、情動や感情という感情の全体は、それぞれに影響する。感情的行為は、認知的プロセスを伴わない短い衝動的な感情的興奮と、そこから生じる情動、感情、気分、本能などの感情的な生活と心の生活の全体ではなく、全体が、意識的または無意識的な思考、感情、精神状態からのみ起因しており、それらは以前にキャラクターの永続的な記憶に蓄積され、感情的に爆発的な方法でそこから放出されたものである。さらに、そのような感情的な行動は、これも言わなければならないが、道徳的な気分、行動、または悪い気分などには対応しておらず、通常は数時間、数日、数週間、数ヶ月、場合によっては数年続き、習慣にさえなり得る。それぞれ、情動、感情の爆発、あるいは感情的な行動は原則として、短時間の昔ながらの思考・感情・精神の高まりに対応している。過去のある時点で、意識的に激しい興奮を引き起こし、沸騰して燃え上がり、制御されていない激しさと人間の無関心の結果として、人の永続的なキャラクターの記憶に蓄積されるだけでなく、繰り返し感情の爆発を起こしてきた。プター あなたは、さまざまな事柄や分野での知識で何度も私を驚かせる。それは、あなたの知識だけでなく、あなたの手作業の技能についても考えさせられる。ビリー これは完全に普通のことで、何の問題もない。あなたのお父さんのスファートと私の人生では私にとって良い教師だった。プター、しかし、私が知っていること、できることは、それを学ぶ機会があっただけで、特別な知識や技術ではないことは確かだと思う。最終的には、どんな人でも、自分の人生や経験したことすべてを学ぶことをいとわず、生きようとする意欲があれば、それを身につけることができる。経験を、意識的に知識として獲得する。そして、その人が本当にそれを実行し、それをやってのければ、自分の技術の面でも多くのことを知り、理解し、実行することができる。そうすれば、そのような人は努力しない人と比べれば、知っていることもできることも少し多いが、だからといって特別視する必要はない。私たち地球人は、単にこのような人を万能者と呼んでいるが、このような人は知識や能力が多少高くても、生涯を通して学び続ける人々でもあるといえる。 プター 与えることができないだけで、それはおそらく価値がないでしょう。 ビリー 何? プター 大丈夫、気にしないでください。予測について話をしたが、私が見つけたこの予測は...。しかし、もしあなたが1947年に書いた、父の遺産の中から見つけたこの予言を欲しがるなら、私はそれを回収して今すぐあなたに渡すことができる。 ビリー もちろん、話に出てきた予知夢では家の中で追跡できず、どこかに消えてしまっているからね。ベルナデットは今、その一部を見つけたが、これは彼女がコンピューター上で私に向けて発した次のものだけを見つけた: 1947年9月7日、エドゥアルトから連邦評議会への手紙上記のすべては、スイス国家によって容認され、それにもかかわらず私たちの祖国を中立で平和なスイスと偽って呼ぶ犯罪に対応するもの。しかし、お金儲けのために、世界中で戦争や殺人の材料が売られ、多くの人々が殺害され、甚大な破壊が引き起こされているとき、高く評価されている中立性や自由はどこにあるのでしょうか?これは、ビューレ社が第二次世界大戦の開戦前から戦時中にかけて、利己的な金銭欲からすでに行っていたことであり、他のスイスの軍需品メーカーが政府の許可を得て行っていたことと同様に、現在も継続して行われている。彼らはナチス政権に軍需物資を供給すると同時に、同じく犯罪者である米 国にも軍需物資を供給している。米 国は世界征服に熱中しており、すべての国家を服従させようとしている。そのため、これからは世界中の争いや反乱、戦争、破壊を促進するためにあらゆることを行い、最大の核保有国になろうとしているが、これは新しい千年紀にも続くでしょう。その過程で、米 国がすでに世界の多くの国でなくてはならない存在になっているとき、ロシアと中国はますます米 国に挑戦することになり、スイスもまた、主に最前線で第一位の米 国と同様に、犯罪国家と武器取引を行うので、犯罪的にこれを支援することになる。これらの取引は、世界中の何千万人もの人々に死と不幸、破壊と消滅をもたらす殺人的な取引であり、スイスも武器輸出で大きな責任を負うことになる。世界の多くの国で起こり続けている戦争やテロ活動、そして今後発生するであろう大規模な殺人、横行する不幸、飢饉、さらに伝染病などは、何十万、何百万もの人命を奪い、難民の波を引き起こすことになるでしょう。Eduard Meier, Niederflachs 1253, Bülach/ZH プター あなたはこれを、スイス連邦評議会への予言の序章として、父がノートに記したように、世界に広めることを目的とした予言とともに書いたのだが、私はこの予言を見つけることができなかった。私が今見つけたあなたの他の予測は、あなたが連邦評議会で策定したものの中に導入されていない。 1947年5月16日の日曜日に行われたこのもう一つの広範な予言は、その内容が非常に多岐にわたっており、複数の予言に対応しているだけでなく、私の人生でこれまでに遭遇したことのないものでもある。私が言わなければならないことは、私の心を動かし、表現しなければならない考えに対応しているので、どうか邪魔しないでください。当時、あなたがすべてを書いていたとき、あなたはわずか10歳の少年だったが、あなたよりもはるかに年上の大人たちが何人も手伝ってくれていた。父は、あなたを少年として判断するのではなく、多くの大人よりもさらに考え、理解し、論理的に判断する大人として判断するようにと言っていたが、それにしても、当時のあなたの若さで成し遂げられたことは、私にとっては驚き以上のもの。幼い頃から親に育てられ、生活に必要なことを教えられてきた私たちでさえ、長い人生の中でこれほど似通ったものは知らない。さらに、あなたが集めたすべての情報は、単純な予測以上のものに非常に合致している。その上、全体の中には、ある時間名のついた来たるべき出来事への言及があり、それは今後数十年から千年の終わりまで、年単位で詳細に述べられている。では、今からそのノートを再現する。軍隊や組織の支配者、権力者、その他すべての責任者、すべての首長、指導者、ローマ法王、すべての宗教や宗派の説教者や牧師、そして地上世界のすべての人々へ。 私はまだ10歳の少年だが、地球上の人類に恐ろしく邪悪な変化をもたらすことでしょう、来るべき時代についての知識を持っており、それを予言的に書き記して世界に広めている。なぜなら、人間は良い方向に変化せず、ますます堕落し、互いに無関心になり、疎外感を抱くようになり、金に貪欲になり、宗派にこだわるようになるから。最初に言っておかなければならないのは、私はまだ言語や文章について広範な教育を受けていないということ。だからこそ、私が言わなければならないことや説明しなければならないことを、私の目的に応じて私が予見して伝えたいことを文章化するためには、5人の大人で高い教育を受けた友人たちの助けが必要なのである。また、私の予言が英語、イタリア語、フランス語に翻訳され、複製され、彼らの資金援助によって各国に送られるようになったのも、彼らの助けによる。これは、地球上のすべての国の父親と国の指導者、すべての国の有名な重要な日刊紙の編集局、経済、宗教、民間の重要な組織、軍隊の指導者、記者、ローマ法王、有名なジャーナリスト、さらには特派員、レポーター、当局、ラジオ局、テレビ局などに向けたもの。Eduard Meier, Niederflachs 1253, Bülach, 6 June 1947現在から未来にかけて地球上で起こるすべてのことは、これから膨大に増えていく地球人類が引き起こす犯罪に対応しており、すべての政府がまったく無責任に推進し、容認し、また人々自身が誤った、利己的な、理不尽な方法で、理解も理由もなく押し進められている。そのためには、地球上にあふれかえる膨大な人口過密が第一の原因となり、その無数のニーズによって、制限のない災害が引き起こされ、地球全体に広がることになる。今日、私はオーバーポピュレーションという言葉を作ったが、これはずっと未来に引き継がれ、まだ理解力や理性のあるすべての人々の間で、世の中から排除できないキャッチフレーズになるでしょう。未来の非常に早い段階で地球に溢れた人類は、今から、地球上のすべての国のすべての完全に無責任な政府の協力を得て、地球上で、場所で、大規模で広範囲な破壊を今までになく推進している。また、将来的には、何百万ものあらゆる生命体の世界全体で、破壊と絶滅が起こるでしょう。その結果、自然界の多くの属や種、その動植物、それぞれ全植物界、全動物界、その他の生物、空気、森、草原、牧草地、野原、庭園、沼地、さらにはすべての山、泉、小川、湖、川、海、北極、南極、砂漠、原生林などが破壊され、消滅し、絶滅する。そして、今から第3千年紀の初めまでの間だけでも、1,400種以上の生物に影響を与え、様々な属とその種が完全に消滅してしまう。しかし、新しい千年紀においても、この種の破壊、消滅、絶滅は続き、数十年後には200以上のさらなる絶滅という悲しい結末を迎えるでしょう。鳥類、哺乳類、その他の動物、生命力の強い昆虫、蜂、蝶、スズメバチ、魚など様々な生物が完全に絶滅してしまうと、人間にとって重要な食用植物の受粉や受精ができなくなり、実を結ばず、時間の経過とともに枯れてしまい、絶滅してしまう。人の手で直接受粉させるだけでなく、人工的に受粉させる努力もするが、それでは長期的には重要な食用植物の受粉問題は解決しない。根本的には、過剰に成長している地球上の人類の食料調達に関しては、食糧そのものの調達が最大の問題であり、そのためにはより多くの食用植物を栽培しなければならず、そのためにはより多くの肥沃な土地が必要となるが、まさに人類が増えれば増えるほど、その土地は常に少なくなっていく。人間の成長に伴い、必要なもの、不必要なものが次々と生まれ、それは人間が新しく生まれるたびに増えていく。そしてこれらのニーズは、今日すでに存在し、太古の昔から存在しているが、今日だけでなく、将来においても何らかの方法で満たされなければならない。なぜならばこれから到来し、地球上に人口を過剰に増やしていく人類は、限りなく貪欲で、快楽に溺れ、休日や旅行に溺れ、また、無意識のうちにお金を欲しがり、さらには、自分自身のために必要なすべてのニーズを限りなく独占してしまうから。そして将来的には、これが生活環境全体を悪化させ、強力になりつつある人口過剰による自炊にも影響を与えることになり、その結果、必然的により多くの食糧を栽培し、収穫し、加工しなければならなくなる。これに加えて、すでに数十年後にはすべての自然食品ではもはや十分ではなく、お腹を満たし、空腹を満たすが、病気や苦しみをもたらす化学的に製造された食品を使わなければならないという事実もある。食糧の自然栽培は、すべての土地、すべての草原、畑、牧草地、湿地、そして小川、川、湖、池、海などのすべての水、さらには山や地球そのものを、強奪し、略奪し、その結果、ゆっくりと破壊していくことでしか行われない。これに加えて、あらゆるものが健康を害する化学毒物で汚染され、食物の植物や人々、自然やその生命体、さらには地下水やすべての水を汚染するだけでなく、大気も汚染される。その結果、無数の人々が重度の病気や、将来一般的になるであろう重度の不治の病である癌など、体中に伝染することも稀ではない病気に悩まされる。食糧需要の際限のない増加に加えて、将来的にはより多くのあらゆる種類の商品を生産しなければならない。一方では、出現しつつある大量の人類の欲を満たすために、他方では、そのために必然的に発生する産業と経済を発展させ、それによってのみ将来のすべてを保証する。将来的には、地球、すべての自然システム、動植物、そして気候が、人類の過剰な質量の増加に伴って大規模に破壊されることは避けられず、おそらく差し迫った崩壊の端緒に至ることは避けられないでしょう。地球はあっという間に人口過剰になり、将来的には地球上の広い範囲が食用のために乱獲されて不毛の地となり、広大な森林や原生林が無責任に伐採され、完全に破壊されることになるでしょう。原生林は基本的に有害な熱放射を吸収して気候の温暖化を防ぎ、大気中の湿度を調節して降雨量などを調整している。しかし、伐採された森林や原生林は、表面の肥沃な土壌が20〜30cmしかなく、それを農家などが植えると2年ほどで溶出してしまい、使い物にならない耕せない荒れ地、非生産的な土地になってしまう。これが乾いて消え去り、すべてのものが枯れ死んで、森が枯れて、黄色くなって、発育が悪くなって、完全に荒れ果ててしまう。そして、それが新たな森林や原生林の伐採につながり、何度も何度も繰り返されることで、気候は否応なく影響を受け、ますます温暖化していく。将来、栽培され、収穫され、加工され、市場に出されるものは、人類の質量が増え続け、急速に成長した結果、やがて過酷な肉体労働ではなく、機械や設備によってのみ行われるようになるでしょう。そしてそれは、今日では考えられないような新しい発明に基づいた、さらに高度な電子技術によってのみ、すぐに可能となり、それはすべての作業や処理の手順が自動化されるでしょう。しかし当面は、第3千年紀まで続くでしょう、様々な種類の動力機械が多く使われ、それらは何十年も、そして新しい千年紀まで様々な仕事の分野で使われることになるでしょう。園芸に始まり、道路清掃、農業、道路工事、建築工事、鉱業、石油生産、石炭採掘などなど。地球上の石油から得られた燃料を使って、世界中で昼夜を問わず無数の爆発エンジンを稼働させることで、膨大な量の熱放射と排気ガスが発生する。これらは、人間の健康を害し、自然界の生命体にも負担をかけ多くの人を病気にさせるが、一方で、特に気候は深刻な障害を受け、不自然な気候の温暖化が強く起こり、そこから世界的な変化の結果、それによって巨大な自然災害が発生しているため、非常に深刻である。原始的な嵐や壊滅的な暴風雨、洪水、地滑り、土石流、落雷による大規模な森林火災や住宅火災などは、もはや世界中で避けられないでしょう。これらのことは、計り知れない経済的損失や人類の業績の破壊をもたらすだけでなく、様々な価値観の完全な破壊、多くの不幸、苦痛、悲しみをもたらし、多くの死を悼まなければならず、例えば、すでに効果を発揮し始めている気候変動のために、第3千年紀の初めまでに何十万人もの人々が自然災害の犠牲になるでしょう。例えば、1959年に1,900人以上の人命を奪うメキシコのハリケーンのように、今世紀中に発生する可能性のあるものは、いくつかしかない。その11年後の1970年には、東パキスタンでサイクロンにより34万2千人が亡くなり、そのわずか2年後には、ペルシャで異常な吹雪により5,900人の死者が出る。また、1975年には台風で約16万人の命が奪われ、中国は大きな苦しみと悲しみを背負うことになる。そして5年後の1980年、米 国では42℃以上の熱波で2,400人以上の人が亡くなる。いつの時代にも自然災害はあったが、地球の資源を搾取・乱用してすべてを破壊する人類の無責任な操作によって今後起こるであろうことは、これまでのすべての出来事を凌駕している。自然全体の膨大な部分とその動植物、そして熱帯雨林、草原、畑、田畑などの自然環境、さらにはヨーロッパの気候を左右する中央アジアの約7万平方キロメートルの広大な塩水域アラル海などの水域が破壊され、消滅することは深刻な結果をもたらす。数十年後、すなわち第3千年紀の初めまでに、アラル海は水の引き揚げによって恒久的に脱水状態に陥り、湖上、周辺、水中に生息するアユ、コイ、鯛、パイクパーチ、マイレンケ、ブルタマイバーベル(Bulatamai-Barben)、ミナミヌマエビなどの魚類やその他の生物が絶滅することになる。将来的に世界中で巨大な自然災害を引き起こすでしょう、今後出現する邪悪な行為である気候変動の全体は、全世界に溢れる人類の質量にのみ起源とする結論に基づいており、それによって地球上および地球内すべてのもの、すべての自然システム、膨大な数の動植物、すべての水域、すべてのもの、すべての人が破壊的、消滅的、絶滅的な操作によって破滅させられることになる。地球温暖化の原因は、常に成長し続ける人類にあり、前述の熱の放出だけでなく、何よりもまず、あらゆる種類の無数のニーズを満たさなければならないという人類の執着によって発生する。したがって、彼らの欲求を満たすために、すべてのものが自然の秩序の継続的な存在に向けられるため、地球、自然全体、動植物のすべての生物の犯罪的な操作によって、すべてのものが破壊的、根絶的に破壊され、地球全体の惑星上でかつて繁栄していた生命がゆっくりと停止するようになり、また、人類の過失によって気候が温暖化し、将来的に地球上のどこかで毎日のように自然の大災害が起こり、災害を引き起こすようになる。この点で来るべき時代には、人間が出現して以来、地球上で起こったすべての破壊、消滅、絶滅を上回ることになるでしょう。すべての働く機械の有害な熱の放出に関する限り、これらは公共交通機関の様々なモーター化された手段、自家用または業務用の自動車、飛行機、船舶、働く機械、ヒーターの使用、花火、ゴミ、ゴミ捨て場、森林、原生林、炭鉱、泥炭地、生い茂った乾燥地、その他あらゆる種類の火災、落雷、放火、火払いなどによって、その質量をさらに増加させる。これらの要因は、すべて気候に破壊的な影響を与える。また、地球の肺ともいえる熱帯雨林の無責任な伐採や焼却は、地球全体の気候を左右するが、森林資源への破壊的な介入の結果、ますます機能しなくなっている。これは、溢れかえる人類のあらゆる種類の多様なニーズに関する要求によるもので、彼らは自分たちのニーズを満たしたいと思っているが、それは地球という惑星、すべての自然システム、動植物を含む自然そのものそして気候は、破壊的な方法で嫌がらせを受け、破壊され、損なわれる。しかし、将来的には、爆発エンジンで作動する機械や乗り物などを何百万台も使用するだけでなく、無限に増え続ける地球の巨大な人口を養うために、何百万トンもの病気の原因となる化学毒物を無思慮に食用作物に散布することになるでしょう。そしてこれらの毒物はまた、自然や動植物にも大きなダメージを与えることに貢献し、それは多くの属や種の動植物を破壊し絶滅させてしまうことにつながる。そしてそれは、容赦なく増加する人類の質量に比例して着実に増えていくでしょう。これだけでなく、贅沢の必要性、旅行、快楽、悪徳、中毒、その他の数え切れないほどの執着の欲求、特に必要な食べ物に対する欲求が、すべての人口過多により増加していくでしょう。しかし全体としてこれが、地球温暖化の真の原因となり、それに伴う甚大な自然災害の結果としてあらゆる破壊を引き起こすことになる。このことは、溢れる人類の犯罪的な破壊的操作によってもたらされるすべての破壊、消滅、および絶滅の主要な原因とともに、これから起こるすべての悪や大惨事、未来の退化の本当の明確な理由を示している。将来的に急速に増加する気候変動と、それに伴うすべての非常に悲惨な自然災害は、間違いなく必然的に訪れ、途方もない破壊、絶滅、災害を引き起こし、多くの人間の命を奪うことになるという結論は、したがって、単に自然や気候を破壊する熱放射に基づくものではなく、根本的には圧倒的な数の地球人類と、そのすべての自然システムや動植物のすべてを破壊的に操作することにある。そのためには、数年かけて世界規模で制御された避妊を通して、それに続く、厳しく制御された避妊を通してのみ可能となる。地球は理想的には約5億2,900万人の人口で設計されているが、過剰な25億人以上の人口に対応することはできない。地球人類は、自分自身のためだけでなく、共生してこれに適応し、調和と平和を保つ必要がある。すべての自然のシステム、動植物のすべての自然の生き物を有する地球。それも、破壊的、消滅的、根絶的な影響を与えることなく。繰り返しになるが、森林や熱帯雨林の木を伐採したり、他の植物を駆除したりすることで、排出される熱を吸収することができなくなると言わざるを得ない。その結果、これらの有毒で気候に悪影響を与えるガスは大気中に蓄積され、世界中に拡散していく。これは、気候の温暖化や有害な影響を与えるだけでなく、すべてが必然的に自然災害につながるでしょう。巨大で破壊的な暴風雨、原始的な雨、雹や雪の嵐、砂嵐、そして氷河や南極と北極の永久凍土の融解が、今日すでに始まっている。しかし将来的には、すべてのものが非常に急速に増加し、ますます悪くなる。つまり、数え切れないほどの新しい子孫を目の当たりにし、産み出すことによって、人類の過剰な集団が、今後、地球と人類にはびこり、支配するであろうすべての災いを引き起こすことになる。そしてこれもまた、地球や自然、動植物やそのシステムすべてを搾取することで満たさなければならないという、あふれんばかりの人間の欲求による策略の結果であり、それによって気候やその他すべてのものを無制限に破壊することになる。特に、熱の放出が重要な要因となるが、それは人間が作り出すものであるため、気候を崩壊寸前まで追い込むことになる。そしてこれは将来的に、地球上の人類によって必然的に行われるでしょう。なぜなら、人類は過度な繁殖の結果として論理的思考を失い、その結果、愚かさに陥り、場合によっては自らの命を落とすことがあるから。これから人々は、自分自身に対しても、仲間に対しても、自然やその動植物、自然のあらゆるシステムに対しても、そしてすべてのものにますます無関心になっていくでしょう。これからの時代は、家庭はもちろん、路上や学校など、あらゆるところで喧嘩や不法行為が蔓延していくでしょう。特に家族内での殺人行為は政策上のやり方だけではなく確実に増加するが、特にヨーロッパに移民・密入国した難民による宗教的憎悪の結果として常に増加していく。彼らは、アラブの犯罪、殺人、狂信的なテロ組織に所属していたり、その組織に共感したりしている。その結果世界中に広がっている、礼拝所や信者、無防備な通行人、さらには治安部隊や役人などにテロを実行するテロリズムは、攻撃や殺人の増加を通じて大災害を広め、多くの悲惨と苦痛を生み出すことになる。これはヨーロッパに新たに出現した独裁政権の連合国は特に影響を受けるでしょう。しかし再び地球に戻ると、地球は空洞化し、自然の生息地のすべてのシステムが大々的に奪われ、取り返しのつかないほど破壊され全滅する。また、さまざまな種類や種の動植物の多くの形態の生物が完全に消滅し、苦しみや病気、伝染病によって多くの人々が奪われてしまうでしょう。すべての生息地は、際限なく増大するニーズと、その結果として猛烈に成長する地球人類のあらゆる破壊的な策略によって破壊され、また気候的な大惨事を引き起こすでしょう。未来は、自動車の排気ガス、森林や景観の大火災、あらゆる種類の熱放出など、あらゆる種類の有害物質による世界的な大気汚染と大気中の毒をもたらし、地球温暖化と気候破壊、すべての大陸での気候変動、さらには極地やすべての氷河、永久凍土の融解に関連して、危険な地球上のメタンガスがあらゆる場所で放出され、海底でも、海の温度が気候と同様に上昇するからである。このことはすべてが世界中のすべての政府とすべての人々によって容認されることになる。ただ、ヨーロッパでは連合の独裁政権が生まれ、ヨーロッパの多くの国がこの独裁体制に屈服し、次第に泥沼化していくことになる。また、愚かさに溺れた嘘つきで裏切り者の支配者や政党あるいはそのメンバーは、中立国であるスイスを、自分たちの祖国を、この独裁政権に裏切ろうとすることになるでしょう。理解しがたいことに法律で罰せられることのないこの恐ろしい危険な売国的試みに対して、1971年に出現する人民党だけが公然と反対し、他の党は完全にあるいは半分臆病になって身を隠すでしょう。しかし、中立性と自由が高く評価されているスイスが、愚かさと金銭欲の結果、裏切り者たちによって、この新興連合の独裁政権に強制的に売り飛ばされることになっている事実は変わらないでしょう。経済的な崩壊と中立性の無視の結果として、スイスは残念ながら外国での戦争と殺人の罪を負うことになる。すなわち、戦争と殺人の材料や武器、大砲、特殊な小型航空機を、兵器産業を通じて世界中に販売し、そのために反乱、内戦、テロ、戦争が繰り広げられ、それによって大勢の人々が殺害され、甚大な破壊が引き起こされることになる。これは、スイスのさまざまな企業や会社が、お金に対する利己的な欲から、開戦前や先の2つの世界大戦中にすでに行われていたことであり、今後も行われるであろう全体は、貪欲に支配された比類なき大きさの不謹慎さに他ならない。これは米 国の軍需品メーカーが政府の許可を得て行っていたことと同様であり、今後も継続して行われるでしょう。スイスはすでにナチス政権に戦争物資を供給しており、同時に世界征服に熱中し、常に多くの国家を従わせようとしてきた犯罪的な米 国 人にも供給していた。したがって、これからも世界中で紛争、反乱、戦争、テロ、破滅を促進するためにあらゆることを行い、援助と称して外国を侵略し、自分たちに縛り付けようとするでしょう。また、第3千年紀の初めからスイスの中立性は他の方法では無視され、いわゆる民衆の決議によって破られることになるでしょう。それも、平和ミッションを隠れ蓑にして、発生するであろう実際の状況を偽装して拳銃や長銃を使用することになる。外国での武力行使の平和ミッションには、機関銃で武装した軍人のほか、戦車やヘリコプターなどを加えて武力行使をする。これらの武装した平和ミッションやスイス軍のメンバーは、必要に応じて武器で身を守り、スイスの中立性の名の下に外国で人々を殺すこと以外には何もしないでしょう。米 国 人が広島と長崎に投下した犯罪的な原子爆弾の投下後、米 国は最大の核保有国になろうと目指しているが、やがて裏切りによって、ロシアや中 国、その他の国家も、致命的で破壊的にすべてを破壊するだけでなく、広い地域を汚染する核兵器や発電所を持つようになる。第3千年紀に入っても、危険な核の脅威が世界を支配し、恐怖を広め、冷戦時代の間に何度も核戦争の脅威が発生するが、今後75年の間に運命によって幸いにも防ぐことができる。米 国は、これまで他国への問題に軍事的干渉を通じて行ってきたように、世界の支配者になろうとするだろうし、それは新しい千年紀にも衰えずに続くでしょう。しかし、新しい千年紀では、中 国は世界に等しく進出し、権力を掌握するように努めるでしょう。広大な土地は、新しい千年紀に香 港と台 湾に再び到達しようと努力するのと同じように、中 国は今後数十年の間に、20億人もの拡大している人口に食糧を供給するために、世界中で広大な土地が買収されるでしょう。しかしその一方で、軍事力を持つ米 国の強者たちは、地球上に多くの災いを起こし続けることに休むことはない。なぜならば、彼らは無分別にも権力に執着しながら、邪悪な武力をもって多くの国々に軍事介入を通じて、世界中で自分たちが必要不可欠な存在であり続けるからである。武力による暴力、新しい千年紀の20年で、混沌とした政治の時代が米 国から始まる。この大統領は不正な票田買収、秘密裏の脅迫、嘘、誹謗中傷、偽りの約束によって自らを権力の座に就かせ、大統領の任期中には、その愚かさゆえに世界各国の支配者や国民の大部分を自らと、米 国に敵意を抱かせるという狂気に満ちた不謹慎な大統領による混沌とした支配の時代を迎えることになる。また、最終的には彼は、自分の党内でも不人気になるでしょう。それと同じように、彼は国内でも大混乱を引き起こし、感覚や態度で米 国 民を分断させてしまうでしょう。ロシアと中 国は、この狂気の真実を偽る悪名高い嘘つきで、誹謗中傷をし、そして自己犠牲主義者である米 国 大統領によって、第3千年紀の第2の10年以降、危険なほど愚かな挑戦と屈辱を受けることになるでしょう。この無知で無能で、頻繁に自己矛盾を起こすばかげた大統領の行動、行為、振る舞いを通じて、世界中で彼に対する憎しみが増大し、米国の人々も嘲笑に、さらされることになるでしょう。これは米 国で、世界中で蔓延している流行病が数十万人の命を奪うという事実に繰り返し責任を負うこの容疑の大統領による、国有テロに立ち向かわないから。大統領はまた複数の憲法違反の方法で、世界中に蔓延する米 国で何十万人もの命を奪う疫病の責任を負うことになる。なぜなら彼は、生命を脅かす病気を軽視して嘲笑し、その結果、保護的な予防措置が取られず、流行を封じ込めるための措置が講じられないからである。この犯罪的な米 国 大統領は、自己中心的な考えと絶えず繰り返される憲法違反、そして彼の政党が容認する秘密の地下に潜った極端な支配によって、すぐにそして、無制限に自分自身を際立たせ、また、人々の混乱した愚かで、称賛に満ちた国民の一部に支持されるでしょう。一方、法の代表者、党および人々からのすべての支持者は沈黙を保ち、彼の不吉な仕事のすべての年の間、彼を拘束されないままにする。この狂人を通して、世界中で米 国に対する争いが起こるでしょう。ちょうど彼が自国でテロリスト的な行動をとり、同様に争いを引き起こし、他の国では反乱や戦争の危険を呼び起こすのと同じように、世界中で米 国に対する紛争が発生するでしょう。したがって、この精神異常者に対しては何も行われず、それどころか、刑事憲法違反の犯罪行為を正当化するために、党の同志たちによって不当に昇進され、あらゆる行動を通じて政治的権力を維持することができるでしょう。スイスもまた、主に最前線で活躍する米 国と同様に、犯罪国家と武器取引を行い、それによって多くの国で不安や殺人、束縛やテロを引き起こすため、犯罪的に不安や紛争、戦争を促進することになるでしょう。つまり、世界中の何千万人もの人々に死と惨めさ、破壊と絶滅をもたらす利益追求型の殺人ビジネスであり、それによってスイスも武器輸出で大きな責任を負うことになる。しかし何よりも説明したように、米 国はこの点では第3千年紀に入るまで第1位であり続けるでしょう。今後、世界の多くの国で反乱やデモなどがますます頻繁に行われ、特に米 国が不当に暴力的な軍事介入を行い、何十万人、さらには何百万人もの人々を殺害する戦争が多発するだろうと思う。世界の大国と世界の警察のように振る舞う米 軍は、臆病な恐怖から、憎しみから、世界支配への中毒から、そして宗教的な妄想に基づいて、特にアジアで死、不幸、苦難、殺人、大量殺戮を広めるでしょう。彼らが異国の地を侵略するたびに、太古の昔から行ってきたように、原住民の処刑、女性、男性、若者、子供、幼児に対する犯罪を実行し、終わりのない悲しみと恐怖を撒き散らすでしょう。そうして米 国の軍隊は、先の世界大戦でも日本人に対して同じように犯罪行為をしていたことを、未来のヴィジョンとして示していた。女性を強 姦し、虐待した後にそのまま射殺するだけでなく、彼らの手に落ちて敵とみなされた他の人々についても、予測可能な例として次のように述べたい。これは3年後、つまり1950年から1953年までの次の10年間に、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の間で戦争が始まり、その過程で、同盟国である中華人民共和国と国連の軍隊が、当然のことながら最前線にいる米 国 人の指導のもとで戦争をすることになるでしょう。すでに朝鮮戦争の直後、すなわち1955年以降、米 軍は1970年代半ばまでベトナムで殺人と虐殺の戦争を展開し、無数の女性を強 姦し、用法にしたがって殺害するだけでなく、男性、若者、子供、幼児を銃殺するだけでなく、多くの人、特に子供や幼児の首をナタなどで切り落としたり、ナタなどで完全に惨殺したりする。しかしこれらすべてのこと、そしてそれを知ることは決して一般に公開されることはなく、非常に厳重な秘密として守られ、無期懲役どころか死刑にまで処される刑事犯罪になる。なぜなら、これらの虐殺が明らかにされた場合、米 国の法律では反逆罪や国家安全保障を危うくするものとして処罰されるから。さて、このような米 軍の堕落な行為がベトナムで行われるのは、北ベトナムと南ベトナムの間で今後何年にもわたって続く戦争の最中でのことである。もちろんこれは米 国や中 国の協力を得て、ソ連の支援も受けてのことだ。米 国はこの戦争で、1945年の広島・長崎への原爆投下のように、いつものように人類に対して全く無慈悲で犯罪的な行為をし、ベトナムの民間人に対しても甚大な犯罪を犯す。それは、軍の高級将校や政府の有力者の個人的な主導により、B-29爆撃機(先の大戦中、ビューラッハ/ヘリのホーレンゲンヴァルト〈Höragenwald〉の裏手にあるランゲンツィングゲン〈Langenzinggen〉に不時着した種類の爆撃機)を使って、多くの村や町、そしてその住民に、実質的に消火不能な油性のゼラチン状焼夷物質を浴びせるというもの。いわゆるナパームと呼ばれるもので、先の大戦で初めて米 国 人が日本の都市にナパーム弾を投下し、無数の人々が生きたまま焼かれたように、完全に非人間化された米 軍によって、将来ベトナムでも起こるでしょう。米 国のB-29爆撃飛行隊が5ヶ月の間に約32,816,000ヘクトリットル、数十万トンのナパーム弾を投下し、村や都市を炎の海に、人々を燃え盛る松明に変えてしまう。このベトナム戦争におけるもう一つの犯罪は、ベトナムの様々な信仰や民族グループの人々に対する宗教的憎悪と人種的憎悪の結果、人間性が退化している米 軍に命じて、飛行機やヘリコプターから複数の化学毒物を散布させるという、政府関係者の宗教的狂信者によって引き起こされるものである。これはベトナム人が、長期に渡って様々な病気に悩まされるような陰湿な方法で行われている一方で、ベトナム人の出生率を下げるためにも行われている。これらの化学物質の毒素は、子宮内の胎児を萎縮させたり、脳や体に重度の奇形を発生させたり、その結果、何万人もの重度の先天性欠損症を持つ新生児が生まれることになる。さらにこれらの化学物質の毒素は、非常に長寿命であり、その危険で破壊的で病気を引き起こす効果を長期間にわたって保持することになる。したがって何十万人、さらには何百万人もの人々が、触ったり、水を飲んだり、食事をしたり、あるいは土壌に沈着した毒素に触れることで病気になり、致命的な癌やその他の病気で死亡することになるでしょう。新しい植栽で成長しているすべての植物に吸収され、人間が食べるとそれらは毒物になる。公然と明らかにされたこと、つまり中立的な観察によって予見されていたことの事実と真実は、米 国 政府の極秘事項として扱われ、反逆罪には最も厳しい罰が与えられるものの、米 国 内およびベトナム全体の軍部からも完全に秘密にされる。その結果、米 国 政府のこの犯罪に関与しうるすべての人々は、生涯にわたって沈黙を守ることになるだろうし、これらの毒素の生産者、例えば、米 国の企業であるダウ・ケミカル社やモンサント・チェーンのモベイ社の責任者なども同様である。説明したように、ベトナムでは、米 軍やその空軍が化学枯葉剤で森林を完全に枯らして破壊し、敵のゲリラ運動であるベトコンが密集したジャングルの中でカモフラージュすることをより困難にし、彼らの食糧供給を破壊するとともに、食用畑や作物に毒を塗ってしまう。その結果、農民は作物をもはや収穫することができなくなり、多くの国民が飢餓に苦しみ、飢えて餓死してしまう。しかしこれは、残酷に堕落した不謹慎で、人命を軽んじる米 軍にとってはこれだけでは十分ではない。村を丸ごと焼き払い、文句を言ったり身を守ろうとしたりする多数の住民を容赦なく撃ち殺す。米 国が自ら余裕を持っていたずらをしたことは、ソビエト連邦が今日から計算して約27ヶ月後にカザフスタンで最初の原爆実験を実施するという事実など、世界中の他の国々も、今後同じように他の利益を許すことになるでしょう。1949年に最初の原子爆弾に基づいてソビエト連邦に売られた米 国の盗品図面によれば、1947年の時点で、すでに最初の原爆がつくられているという。1961年、ソ連は再びその名を馳せることになる。ソ連軍のパイロットが正式に、地球上で最初にロケットで地球軌道に打ち上げられ、円軌道で地球を周回してから無事に帰還する。1965年、ペルシャ皇帝レザー・パフラヴィーの攻撃を生き延びたものの、ペルシャで暗殺される。1961年以降、ソ連が地球を周回した時の結果から、この出来事は米 国に非常に不愉快な形で取り上げられ、それまですでに長い間実行されてきた宇宙プロジェクトが、より一層集中的に作業がフルスピードで取り組まれることになる。特に、第二次世界大戦中にナチス帝国でロケットの製造を担当していた元ナチスの技術者たちがそれに取り組む。米 国は今日これらの人々を引き受けて、月に飛ぶためのロケットを作り、それは実際に成功するでしょう。ソ連のロケットで地球を周回する偉業を成し遂げた後にこの技術を押さえたことから、この二度目の成功は認めるべきではない。だからこそ、ソ連をしのぐためにあらゆることが行われ、そのためにはあらゆる汚い手段を講じる。そして今から22年後の1969年7月に、これは地球上の人類が米 国に騙され、これまでで最も世界的な詐欺を信じ込まされるという事実につながる。すなわち、架空の月面着陸と宇宙飛行士による月面踏査の捏造である。これは米 国が今後ずっと、あらゆる手段の芸術と最新の技術を駆使して否定していくでしょう。この詐欺の理由は単にソ連を、脅迫的に屈辱を与えることであり、米 国を世界で最初の、最高の、そして最も技術的に発展した国家として見せるためであり、米 国は軍事的に装備して攻撃的かつ政治的に防御的に登場させ、その前でソ連が恐れをなして身を引くようにすることである。この大規模な詐欺では、現在だけでなく将来も考慮され、その結果、宇宙計画は厳密かつ厳格に運営され続け、発表された月面着陸を別の月飛行中に故障したように装う。この故障は、技術的な問題で予告されていた月面着陸ができず、その結果、ロケットは月の周りを一周するだけで、何の成果も得られずに地球に戻ってくるということを想定したもの。しかし、これはさらなる詐欺に相当する。というのも実際には、最初の詐欺以来さらに開発された技術によって、月面着陸が可能となり、実行されそれによって、月面車両の正確な着陸跡、足跡、走行跡が設定されることになるから。これは、地球からの遠隔地観測技術が向上し、月面をセンチメートル単位でスキャンできるようになったときに、米 国が主張する最初のとされる月面着陸が行われたことを証拠として示すために行われる。これと、1970年代に行われた月面飛行がいったん中止され、第3千年紀に再び行われたとすれば、それによって敷設されたその痕跡を見ることができるかもしれない。そして新しい千年紀に、中 国や新しいロシアなどの国々が再び月に接近すると、月は地球の近隣の惑星や、太陽系のより遠く、より深い領域へのフライトの出発点として機能するだでしょう。しかし、太陽系の領域が誤って宇宙空間と呼ばれていても、この領域は宇宙空間とは何の関係もない。正しくは、宇宙空間は太陽系全体の空間が終わるところから始まるが、この中には太陽系の空間領域だけがそこに存在している。さらに予測されることは、次のような結果になる。今後、急速に増加していく地球人類の大規模な集団は、その成長に関して理性のすべてを超えてしまうので、必然的に人々は、常に生きづらさを感じるようになり、その結果、心理的な面からもますます不安定になって、ますます頻繁にうつ病に陥りやすくなるでしょう。この事実は、危機的な状況下では特に顕著であり、特に、緊密な家族やグループの共存などにおいて孤立した状況が生じると、これらの状況は大きく悪化し、場合によっては、数多くの家庭内暴力、さらには殺人や過失致死が発生し、時にはそれが日常的になることもあるでしょう。
2021.04.15
閲覧総数 1418
8

平和瞑想 預言世界人口過剰解消会議と新しいウイルスの生体への影響〇クウェッツァルの言葉1)地球人が持てる限りの愛と理性を傾けて、すべての攻撃や暴力行為や戦争を、あらゆる犯罪や憎しみを、すべての不和や不自由を、そしていっさいの復讐心や報復心に終止符を打つことを私たちは望んでいる。2)本当の正義と人間性そして、生命に対する真の畏敬で地球が満たされるように、世界中のあらゆる国で拷問と死刑が廃止され、すべての生命および肉体と心の不可侵権が尊重されて、法の保護下に置かれるような法律が制定されることを私たちは望んでいる。3)地球上で正常なレベルの人口と出産が追求され、そのために世界中で効果的な産児制限を実施することを私たちは望んでいる。なぜならば、そうすることによってのみ、過度な人口過剰を、そしてますます増える貧困や犯罪、隣人に対する憎悪、戦争、地球資源の徹底的な採掘、さらに新種の病気や伝染病、そして悲惨さを回避し、また阻止できるから。4)飢餓がなくなり、すべての人間が十分な栄養を摂取できるように、地球上のあらゆる人間が共に食糧生産を追求しその成果を配分すべきである。5)地球人は科学や農林業および利水などのあらゆる分野において、今後は破壊的であることをやめ、建設的、進歩的になってもらいたい。このことは大気の正常維持や、ますます脅威的となっている気候変動で人間の罪過によって生じている部分についても言える。6)地球人は意識的に愛と知識と本当の人間性という枠の中で発展を遂げ、創造によって与えられた進化を生命の最高の目標および意義として認識すべきである。7)地球人はあらゆる点において、実際に肯定的な進歩が生じるように科学を利用すべきである。8)地球人だけが全宇宙で唯一の人間の生命形態ではないこと、そして自分たちが宇宙全体の一部であるという認識と知識、経験と体験、そして知恵を地球人の内部で成熟させていくべきである。9)肌の色や人種や信仰に関わらず、地球上のあらゆる人間の間に、憎しみ、復讐、ねたみ、報復心、貧困、悲惨、殺人、虐殺、テロ、戦争がなくなり、最終的に真の平和、真の愛と自由で地球を満たすべきである。10)地球の国々が、それも最も貧しく発展の遅れた国までもが完全武装の軍隊を養い、それによって人間の本当の福利に使えるであろう、またそうすべきである何十億という金額を無意味に費消することをやめるべきである。世界の至る所で政治家や軍隊、そしてありとあらゆる組織が平和と自由、愛と人間性について語りながら、一方では途方もない財政的支出を正当化し、他方ではこれらの資金をますます多くの戦争やテロの目的のためにせしめ、さらに新しい兵器で新たなテロ行為や戦争を遂行できるよう兵器産業を煽り立てることをもうやめるべきである。11)地球上で考え方や信仰、肌の色や人種が異なる人間を憎み、迫害し、さらには拷問にかけたり、殺したりすることを最終的にやめなければならない。12)毎日何千トンもの食糧を利益上の理由から犯罪的にも廃棄したり、市場価格が低すぎるからと言ってあっさり川に流したり、家畜の飼料にしたり、腐るにまかせたりするのをやめなければならない。それらの食糧は数百万の人間、とりわけこの点では最大の受難者である女性と子供たちを餓死から守ってくれるのである。13)地球人が全員すべての大きな問題に対して、為す術もなく無力に向き合うのをやめなければならない。なぜならば、すべての強欲な者、無責任な者、良心のない者がその犯罪的な商売をやりたい放題やることができ、しかも全然責任が問われず、まだ公正で目的に適った国民管理の枠内で職務を遂行して、懸案を解決する能力がない政府の責任者もその責めを負うことはないからである。14)地球人は自分自身の責任を担い、この責任に基づき意識して進歩的に行動することを緊急に学ばなければならない。責任を安易に誰かに、あるいは何かに押し付けるということがこれ以上続いてはならない。なぜならば、個々の人間は自分自身の思考、感情、そして行為に対して責任を負っているからである。個々の人間は自分の責任を認識し、これを果たさなければならない。なぜならば、個々の人間が責任を認識し、これを果たすようになって初めて、隣人も同じようにしようと鼓舞されるからである。それによって他の人間もこれに同調して進み、最後には地球の全人類がこれに引き込まれるのである。15)個々の人間が世界もしくは人間を変えるために積極的に何かをしたいと思うならば、それは彼が隣人に模範となる限りにおいて実現可能である。だからすべての人間は、より善良な者、平和的な者、愛すべき者、自由な者、進歩的な者へと変わること、そして知識と英知に向かって変化することを自ら始めなければならない。すべての人間は自ら事を開始し、自己を発見し、そして自由で幸福な人生への道を発見しなければならない。すべての人間は最初に自分自身に対して楽観的な姿勢を獲得しなければならない。そこから初めて拡大という進歩が生まれ、それによって隣人が鼓舞されて共に歩むようになる。そして人間が意識的にこの方向で考えるならば、人間がすべてを自ら始めるときに、真の進歩のためのすべての手段と希望がそこにのみあるという驚くべき発見をする。16)人間は、自分の最も内面的な真の本質が何であるか、そしてそれが外面的な人格とどのような関係にあるかを、自己認識によって正確に認識し、経験し、体験しなければならない。17)残念なことに地球人は、政治的、経済的、科学的、軍事的、物質的、そして財政的な価値に最高のランクを与えてきた。しかし、それは価値のないことであり、それがもたらす恐るべき損害により生理的および心理的な安寧だけでなく、個々の人間の、さらには全人類の意識の発展も損なわれている。そのために真の賢者や哲学者が姿を消し、英知や哲学の知ったかぶりが幅を利かせている。彼らは世界とその人間を途方もなく無意味な戯れ言で溢れさせているが、それらは霊エネルギーと創造の現実性、正当性、そして法則性とは全く関係ない。これらすべての無価値なものを取り除いて、再び真の賢者にこの社会で相応しい位置を与えなければならない。現在地球にわずかしかいないそれらの賢者が、孤独な隠遁生活から抜け出て、人間に教示できるように準備しなければならない。しかしこの場合、無意味な宗派的な教説や原則を吹聴して、地球人を本当の真理から逸脱させて錯誤へと誘導する連中は、すべて背景に押しやらなければならない。18)地球人が学ぶべきは、生まれてから死ぬまで物質主義と金銭だけを追い回してはならないということである。つまり地球人は、政治的権力や軍事的権力を持っている者、あるいは巨万の富を貯め込んだ者だけに耳を傾けてはならない。これらを追い求めたり真似しようとしたりして、自分の時間や労働、努力や創意を、そして人生を棒に振ってはならない。それにもかかわらず人間がそうするならば、彼らは進化の可能性を失い、それによって自分たちの存在の意味を失う。もし直接的な形で命を失わないとしても、彼らは政治、独裁、軍事または財産の形態による権力者に従属し、彼らに賛同して歓呼の叫びをあげ、そして存在する者ではなく、見せかけだけの人間になるのである。19)地球人は政治、独裁、軍事、科学および信仰上の方向の違いから解放されなければならない。なぜならば、そうすることによってのみ、一方では創造の真理とその法則および掟の道を見いだし歩むことが、他方では個々の人間と人間社会全体が愛情に満ち、平和で、自由で、賢く、調和して機能することが保証されるから。誠に政治、軍事、経済、科学、哲学および信仰の形態のいかなる方向も他の方向に対して優位に立つことがあってはならない。もしそのような優位が与えられると、競争、憎悪、人種差別、信仰および政治の争い、不和、不自由、冷淡、無知、その他多くの無価値が生まれて、破壊、殺人や殺戮、そして戦争行為や誤謬を招くのである。20)地球人はその固有の理性と責任意識によって、善良で肯定的なものに変身しなければならず、それによって、自己の名誉を回復しなければならない。つまり地球人は独自の次元を切り開き、そのあらゆる不十分性および誤った希望や願望に卑しくも従属することから自らを解き放たなければならない。地球人は、創造の法則と掟に従いより高いものを追求する途上で、すなわち霊形態と総意識体の転生によって、しかもあらゆる論理的で、善良で、肯定的な形態で意識的に発展するという創造的な義務づけにおいて、多くの新しい人格を通して繰り返し新しい人生を生きるであろうということを想起せよ。しかしこれは各人が、固有の責任において自らその進歩に努める必要があり、社会もまたそれを可能にしなければならないということを意味する。当然ながらその場合、各々の人間は必要な仕事をするための努力を払い、それに対して報酬が支払われ、それによって何らかの形で自分の住居を手に入れることができ、また自己責任において食糧や衣料、教育や教養、および自分に発生するすべての必要を賄うことができるのである。21)地球人は、その真の最も内面的で創造的な本質を認識し、理解することを学ばなければならない。なぜならば、まさしくそれによってのみ、地球人は自分の肉体と、とりわけその物質的意識、その覚醒および発展と関わり合うことが可能になるからである。つまり地球人は、自己の最も内面的な本質およびまたその肉体と意識の固有の価値評価を体得し、この認識を自らに、もたらさなければならない。そうすると、物質的な意識の覚醒と肉体の現実的な知覚について、自分自身の最も内面的な本質の認識と意識的な覚醒が起こるのである。第215回会見 1987年というのは、戦争は、本当はそこから新たな戦争が、そしてもっと大きい争いが生まれるということを意味する。地球人類はこの真実を最終的に認識して、戦争、テロ、拷問、その他の邪悪な暴力によって人類と全世界を制圧し、その支配下に置こうとする権力者がもはや政権の座に着かないように図られなければならない。すなわち地球人類は一致団結して、罪のある恥知らずで犯罪的な国家権力者やテロリストたちから、強力な非暴力によって自らを解放し、それらを解任するか、または治安部隊によって逮捕して、確実に拘束しなければならない。そうした拘束は必ず終身追放の形でなされなければならない。しかもそれは確実に封鎖された執行場所、たとえば罪人が逃亡を企てることのできない、文明から隔離された孤島においてなされるべきである。このような措置は、罪人が何らかの人間や全国民に対して影響力やテロをもはや行使できないことを保証するためのものである。 エンヤーナ本当のところ、拷問や死刑のような極端で人間の品位を傷つける制裁によって、恐ろしい憎悪が培養され、そこからいよいよもって犯罪行為が増大するのである。誤った立法によって処刑されそれによって生命が奪われたすべての人間は、法的に命令された刑罰を与えられることによって殺害される。したがって、死刑を言い渡す者は殺人の罪を犯しているのであり、また死刑すなわち国家に命令された殺害を執行する者も同罪である。この際、何らかの方法でこの事柄に関係するものは、みな殺人幇助の罪を犯している。あらゆる死刑の執行によって単に復讐が行われているだけであり、これは人殺しの当事者になるだけ。そして、罪を犯した男や女を刑法で殺害することによって、問題は解決されない。このような問題のすべては、創造および自然の法則と勧告が引き合いに出され、これに関連してこの人間が徹底的に教導され、そしてこの教導を通して自分自身で非の打ち所のない法に誠実な市民になる、ということによってのみ解決されることが明らかになる。しかしながら地球上の人類は、政府当局の条令によって創造および自然の法則と勧告を習得し、それに従うことを勧められてはいない。それゆえ、すべては常に悪い結果に行き着く。更に、根本的に人口過剰が大きな役割を演じる。なぜなら人口過剰は犯罪と悪事をどうしょうもなく制動不能にますます増加させるから。そしてこのことは単純に次の事からのみ生じうる、すなわち全く間違って、そして創造および自然の法則と勧告に対して違法に振る舞われ、創造および自然の立法があるという真実が無視されているがゆえに。そうしてとどのつまり、すべてはなお一段とよりひどくなりいっそう悪化するのである。犯罪者も処刑されてはならず、したがって刑罰によって殺害されてはならず、そうではなく、処罰を与えながら教導がなされること、したがって釈明が求められ責任を問われるという形で許されているということを学ばなければならない。これは例えば次のような形である。すなわち男と女の犯罪者が別々に生涯人里離れた世の中から隔離された島に追放され、そこで彼らは自分たちの生活に必要なものはすべて、自分たちの手で自然から苦労して手に入れなければならない。そして時間があるときに自分たちの人生。自分たちの考えと行為ならびに自分たちの態度を、彼らに課された学習を通してより良いもの、善良なものに変革するのである。このことを通して彼らは真の人間になることが可能となり、そしてまた真の人間としていつか死ぬことができるのである。しかしながら、もし本当の現実を分からず、またそれに従わないならば創造および自然の法則に離反したまま留まり、そのことによってなお非常に多くの害を被ることになるでしょう。本当の平和というのは、理解力があり、分別のあるあらゆる人たちが、いよいよ暴力によらずに継続して平和を保ちながら、最終的な平和を生成するまで思慮深く意識的に歩み続けるために、最初の一歩を踏み出して初めて地球上において世界の人々のもとに生じるのである。愛とは、次のことに関する絶対的な確信である。すなわち、自分自身がすべてと共に生きるということ、共に存在しているということである。そう、存在するすべての中に:動物相や植物相の中に、同胞の中に、どのような種類のものであれ同じようにすべての物質と霊の生命形態の中に、そして全宇宙の存在の中に、さらにそれを超えた存在の中に。自由を尊重せよ。なぜなら、それはすべての人間とすべての生命形態の権利であり、財産だから。愛を尊重せよ。なぜなら、それは創造、人間、そして生命の本質だから。平和を尊重せよ。なぜなら、それはすべての良い発展と限りない進化を保障するものだから。調和を尊重せよ。なぜなら、そこには考え、感情、行動ならびにすべての物事の均衡が存在するから。日常の喧噪や苦労や慌ただしさに急き立てられることなく、いかなる境遇にあっても常に平静を維持せよ。平穏、平和、愛、そして自由、すなわち調和の中に見出される、すべての価値あるものを探し求めよ。毎日ある程度の時間、静寂を求めよ。なぜなら、それは君に休養と熟慮をもたらすから。地球人類の将来のあらゆる時点は、その過去と原始時代の起源に深く関わってきている。そこで理解を深めるために、歴史の初めのころの決定的な出来事について述べることにしよう。120億年前にヘーノクによって創造された一連の原始民族のうち、その一部が地球に渡来し、定住した。一方、彼らは地球で生まれた人間と混血し、初期の地球人が生まれた。そしてそれは今日に至るまでこの惑星上で、その地歩を守り抜きながら強烈な勢いで増加し、現在、様々な問題を世界中で引き起こし、世紀の変わり目において世界最大の問題となっている。この内容は、一部重複するところがある。しかしこれは、原始時代からのすべての出来事のよりよい概観を得るにあたって必要なことである。原始時代の概論に続く予言あるいは預言は、例外なく日時が明らかにされていない。また年代順も守られていない。その理由は、人々の恐怖やパニックを防ぐためである。予言や預言にまったく頼り、不安そうにそれに従って人生設計を行い、自分の決定能力をまったく使わない人が大勢いるのは遺憾なことである。このような人々は自己責任をまったく放棄し、すべての責任を他人、または運命に転嫁する。さらに預言は絶対的に的中しなければならず、変えることができないと信じているため、それに身も心も捧げるという人間が大勢いることは残念である。しかしこれは真実ではない。預言というものは、実現しなければならないのではなく、実現することもあるというものである。それは人間が預言に対してどのように反応するか、預言から何を得るかということにかかっている。予言と預言についてその違いを説明しよう。予言というのは一種の将来の予想であり、極めて広範にわたるカバラの計算によって得た非常に精確な結果に基づいて作成されるもの、あるいは形態による未来への旅を通じて未来を研究したものである。未来への旅は例えば技術的、または意識によるものがある。またあらゆる形態の未来のヴィジョンもその一つである。これによってもよく分かるように、予言は絶対確実に実現し、また避けることができないものであり、また変更や防止する可能性もないものである。それは未来をのぞき見ることによって、実際に、変更不能に、来たるべきときに起こることを見たものだからである。したがって予言はすでに存在する事実に、基づくものであり、その起源と発展過程を通じてある特定の結果が生じるはずであるというものである。それに反して通常、警告の機能を持つ預言は、その目的として、ある事実から何事かが起こるが、手遅れにならないうちに変化をもたらすように指摘することである。もし変化がもたらされなければ、預言は絶対確実に実現する予言となる。つまり考慮しなければならないのは、預言的発言や告知は常に変更可能であるということであり、それは人間の態度次第であるということである。したがって預言に行き着くまでの事実が進化的にみて好ましい形態に改善されれば、預言された出来事が将来実際に起こるということは確実ではない。この人間の思考と行動の進化的な過程は通常、来たるべきことについての詳しい知識を持たずに、生命の法則として、通常の発展過程によって行われなければならず、そのためある出来事の預言的告知は可能性の情報であると同時に警告でもある。すべての生命は自らを向上させ、感知、認識、経験、体験を通じて進化しなければならない。すなわち人間は努力によってはじめて成果が得られるのである。預言やその実現の時点が決してはっきりと提示されない理由の一つはそれであり、そうでなければある進化の段階を飛び越えることになり、それによって進化に隙間ができる。もう一つの理由は先に述べたように、預言の正確な日付や時間などは恐怖やパニックを引き起こしかねないから。さらに詳しく、はっきりした形で預言が行われるべきでない理由は、ある事実を知ることによって恐怖、憎しみ、妬みなどから膨大な破壊と破滅が引き起こされることもあるからである。そのため、ある預言的な数値は常に秘密にせざるを得ず、その結果すべてを真実に沿って理解し、耐えることができるごく限られた識者だけが完全に解き明かすことが出来るのである。プレヤール人のメッセージは本来彼らと我々人類の歴史と過去にその起源を有している。彼らは我々に助言を与え、助ける義務を感じているが、彼らの規則がそれを禁じているため、あからさまな援助を行うことはできないのである。地球人類の歴史と過去については、すでに詳しく記されているので、さらに説明する必要はない。また、宇宙からの深遠から新しく来た者たちが地球にもたらしたものは、残念ながら良いことや高度の進歩だけでなかった。惑い、争い、間違った生活様式、宗教としての誤った宗教哲学、イデオロギー、そして創造・自然の法則と掟からまったく背を向けることなど、多くの災禍をもたらしたということが知られている。残念なことに当時もまたこのような多くの弊害や悪などを、地球人類が好んで受け入れそれに従ったため、いち早く最悪の堕落に陥り、それを通じて邪宗や様々な退廃がますますはびこったのである。実際、すべての虚偽と破壊が意気揚々と、そして喜々として無責任に到来し、今日に至ってもそれはとどまるところを知らない。今日の地球人類もそこに端を発する、太古の祖先の直系子孫と自任するプレヤール人は、5万2000年このかた彼らの故郷の惑星でまったく平和に生活している。しかし彼らは、自分たちの太古の祖先との絆を強く感じることから、独裁的で無責任な祖先の行為が行われてから、すでに38万9000年たったにもかかわらず、当時の地球上で起こったことや、地球人類を誤った方向に導いたことに対して、連帯責任を感じている。この連帯責任感から、彼らは自発的に義務を果たすことを引き受け、私の仲介によって、以前のように地球人類が再び創造・自然の法則と掟に従って生活することを示すことにした。また、一人ひとりの人間が自分自身の生命だけでなく、隣人やすべての動植物を含め環境全体に大きな責任を担い、それを尊重し、遂行することを教えることもこの任務の一部である。プレヤール人の義務は彼らがノコデミオン・ヘーノク霊形態のミッションに協力することによって、彼らの末裔である民族を創造・自然の法則に戻すことを、霊水準アラハト・アテルザータの最高法院に約束したことに基づいている。そうすれば地球に住む彼らの末裔も、破壊にさらされているゾル太陽系の輝く宝石、美しく青い惑星で、再び平和と愛と調和のうちに生活することができるというものである。プレヤール人から地球人類へのメッセージは次のようなものである。1)地球人類に彼らの起源、歴史について一連の事実を伝達することによって、いかにしてすべての害悪が生じたのか、いかにして人間が神として同じ人間の上に立つようになったのか、いかにしてこれがイデオロギー宗教の虜に至ったのかということを、惑わされた者たちに説明する。言うまでもなく、偶像や聖者崇拝そして様々な宗教的カルトもそこから発生している。2)宗教が主張するような形の天国と地獄は存在しない。それは人間の内部の精神的・意識的状態である、ということを地球人類に教える。3)全宇宙を通じて唯一の創造があり、創造の神々などは存在しない、ということを教える。そして、この創造のみがすべての創造・被造物を創り出す力であり、それ以外の力は存在しない。創造自体は原初創造に進化するまでに8300京年の生命を有する。4)地球人類に霊の教えをもたらす。これは創造・自然の法則と掟、原則と思考の進化について多くの知るべきことを含んでいる。5)人間は600億ないし800億年の転生の周期に従って生きている。したがって繰り返し様々な順序で生まれ変わりながら進化し、いつの日か創造に入る、ということを地球人類に教える。6)人間としてのすべての生命形態は、一つの極めて小さな創造霊によって生命を与えられている。それは進化し、また物質的な意識と相まって生命を営む力でもある。7)地球に適合した人口について地球人類に教える(人口過剰を防ぎ、その他多くの人間や動植物の生命にかかわる事柄や環境、人間の態度や道徳について。それには、人間そのもの、生活さらに内外両面の自由、愛と調和、隣人愛、知識と英知、真理およびあらゆる責任も含まれている)。人間、家畜、人種、民族、国家は、それぞれ自ら得た運命に従って生きている。それによれば地球人類もまた他の助けを得ないで、自らの努力と責任のもとに、悟性と理性をもって自ら進化し、再び創造・自然の法則と掟に従った正しい道をたどらなければならない。その際、地球外知的生命は直接的な形での援助をすることはできない。というのも、インパルス・テレパシーによる計り知れないほどの助言や指針は間接的であり、それを受ける者たちには何らの自覚もない。そのため、それらの助言や指針が自らの発見物と勘違いするのである。もし、地球外知的生命が彼らの規定に縛られず、公然と援助するなら、第一に学習過程がないため地球人類は何も学ばず、遅かれ早かれ旧習に戻ることになる。次に地球外知的生命が再び神として敬われ、それを通じてまた新しい宗教やセクトなどが生まれることになるので、進化の意義に沿わなくなる。大昔から地球人類は、地球外知的生命を常に神と見なして崇拝してきた。これには挑発された地球外知的生命が自らを神格に祭りあげたこともあずかっているが、プレヤール人はこの件に関して、地球人類に一度徹底的に本当のことを知らせる責任を感じた。これはまた、地球人自身のことについても明らかにすることを意味し、それによって地球人類はついに自分自身を尊敬し、実際に自分が何者であるかということを知ることになる。つまり彼らは一個の生命体であり、あらゆる意味で独立しており、考えること、感じることそして行うことすべてに自分で責任を持つということである。そこにはマリオネットのように上に立って指揮し、操り、感情の向くままに褒めたり、罰したり、残虐に殺戮する神はいない。そして地球外知的生命は技術的面ではざっと8000年、意識面での発達は2000万から3000万年地球人より進歩しているにもかかわらず、彼らもまた地球人と同じようにありのままの姿で、つまり同じ創造・自然の法則と掟のもとにあって、同じように苦しみ、悲しみ、そして喜びや調和を知る、同じ創造によって生まれた人間として見るよう努めている。プレヤール人は地球人類を決して非難しないだけでなく、地球人に対して尊大な態度をとることもない。むしろ反対に彼らは情報提供などを通じて極めて協力的で、明らかに地球人類に対して友好的であることがわかる。さらに彼らはある程度の野蛮性は人間にとってまったく自然なことであり、軌道を逸しなければ必要であると容認さえするのである。しかしこれは常に進化段階に比例しており、進化が進むに従って徐々に薄れていくもの。1975年3月21日金曜日のコンタクト記録第9回が、これについて述べている。セミヤーゼ「大事なことをはっきりさせたいので、今日は残念だが私が一方的に話を進めなければならない。すでに数十年も前から、様々な地球人やグループが、私たちをどうしてもそれにふさわしくない領域に押し上げようとしている。私たちが望まない地位に。往々にして、ただ名誉欲と金銭欲のために、私たちを現実の価値より高い地位に祭り上げる。私たちも他のすべての人間的存在と同じようにただの人間にすぎない。あなたたちの観念からすれば、私たちは技術的に卓越し、また霊的、思考的にも大いに進歩したレベルにあるでしょうが、地球上の大多数の人間が勝手に考えるように思い上がってはいない。私たちは地球人類の保護者でもなければ、神の使いである天使のたぐいでもない。様々な利己主義者や彼らにたぶらかされた一連の人たちは、私たちのことを地球とその住民たちの保護者であり、彼らの運命を定めるものであると主張する。しかしこれは真実ではなく、私たちはただ自分たちで課した任務を行っているだけであって、地球人類の監視やその運命とは何の関係もない。だから、私たちを宇宙から使者とか監視者であるとするのは間違い。もし私たちが、地球人の主張するような意味での使者あるいは監視者であったなら、私たちは公然と着陸し、はっきりと識別できるように地球人の運命を導くことでしょう。霊的・思考的におよそ2500万年先行し、技術的には約3500年(現在では約8000年)地球人より進んではいるけれど、私たちは人が勝手に思い込んでいるような者ではない。私たちを神格化し祭り上げるのは、宗教的な信仰の虜になっている地球人の思うつぼというところでしょう。それによって彼らは自分自身を格下げし、同胞を下等な存在におとしめることになる。間違いだらけのコンタクト記録や、真実のかけらもない、まったく故意に捏造されたコンタクト記録は、地球人が常に過ちを犯し、真実とは縁遠い生活をしているという印象を与える。でも実際はそうでなく。地球人も進化の道をたどっている。もちろん地球人は粗暴で研究面において性急であり、往々にして無分別。しかしそれは自然の賜物であり、またそれによって初めて生命が保証されることから、多くの生命形態は粗暴性を具えている。それを私は自然の粗暴性と称しており、退化ではない。これは地球人よりもはるかに高度に進化した人類にも具わっており、霊的・意識的な完成度が高まり、必要とする霊的・意識的認識を身につけたとき初めてこの粗暴性から脱する。しかしそれは決して地球人がさげすまされ、また悪の申し子として格下げされなければならないということではない。地球人は粗暴な祖先の子孫であり、それなりの進化の道を歩まなければならない。しかし多くの困難、困窮、そして苦労を伴うこの道は認識と知識に通じる。さらにこれはある程度、野蛮性にもつながる不屈さを必要とし、これがなくては前進しようとする意欲、新しいものへの熱望も湧いてこない。ある程度の粗暴性があってこそ研究と開発が可能となる。なぜなら粗暴性の中にはそれに必要な厳しさがあり、それによって例えば進歩を妨げるだけでなく、その芽すら摘んでしまう凝り固まった狂信のような進歩を妨げる拘束を、無視することができる。人間というものは首尾一貫して宗教的信条を度外視し、埋もれた真理の処在を突き止めることによってのみ、実りある研究をすることができる。これは決して生命、まして創造に対する敬意を失うことではなく、むしろ反対に研究やそれによって得た認識を通じて創造や生命に対する敬意はさらに高まる。地球人に知ってもらいたいのは、病気の原因とそれに抗する薬を分析するために、実験によって生命を絶たなければ生命が病気から解放されないという事実である。生命を研究の目的のために犠牲にするということは粗暴性を必要とする。また、あらゆる進化が粗暴性を必要とするのは、それに不可欠な不屈さをもたらすのは粗暴性だけだから。そういうわけで、強度の妄信を持つ人は生命にとって建設的な進歩をもたらすことはできない。その理由は彼らがあまりにも偏った、過度に人道主義的な考えと行動をし、そのため一方的に軌道を逸しているからである。そこには多くの場合、科学者が自分の能力と知識を私欲のために悪用し、それによって進歩の遅れている同胞を隷属させ搾取するという、大きな危険が潜んでいる。破壊の目的だけに使われている技術的成果と並んで、これはぜひ阻止しなければならないことである。彼らがこれによってやがては神に昇進し、私たちの共通の祖先が犯した過ちを再び繰り返してはならない。ある程度の影響を及ぼすことによって、私たちはこれを防ぐつもりである。私たちはまた地球人に進むべき道を示すと共に、その認識を成熟させたいとも思っている。また、私たちがある事柄や要件に介入するのはひとえに私たちの祖先が犯し、地球人が害を被ったのと同じ間違いを犯さないようにするためである」。プレヤール人は、地球上の最も緊急な課題は、途方もない人口過剰であるということを指摘している(1996年半ばの人口は約68億人で、公式統計をはるかに上回っている)。地球外知的生命は今日、地球上に蔓延する弊害のほとんどは全部人口過剰が原因であると指摘し、そのため彼らのメッセージは、地球上の全人類は早急かつ徹底的に、国際的、世界的な産児制限によって人口を減らさなければならない、としている。さもなければ次に挙げるようなすべての悪弊はさらに広がり、手に負えなくなると述べている。・戦争。・いつ起こるかわからない第三次世界大戦の潜在的な危険。・世界的な環境破壊。例えば大気汚染、森林を焼き払う開墾、熱帯雨林や資源の搾取、放射能汚染や化学薬品による汚染等々による動植物の全滅。これは全人類の生活基盤を破壊することに等しい。・人間の肉体的、精神的および思考的弱体化。これによって生存能力が急激に低下。・男性生命形態の女性化。動物界においてもこの傾向が強くなってきている。・男女共に妊娠不能が急増(自然が突然変異などを通じて抵抗を示すことを余儀なくされ、その結果、男性の精子生産に影響を及ぼして減少していることはすでに学術的に証明されている。人類が人口過剰に対して早急に自ら対策をとらなければ疫病や不妊などによって自然が反応し、いずれ人類は生殖不能になり、ひいては自らを全滅に導く)。・竜巻、地震、干ばつ、洪水、火山噴火など、天災の世界的な増加。・世界的な飢饉の増加。一時消滅していた病気や疫病の再発生。根絶されたはずの病気や肉体的欠陥などの再発や、新しい今までに知られていない不治または致命的な病気、流行病などの発生。・オゾン層破壊の増加。現在もまだ無責任に行われている破壊ガスの放出は25年から50年後にその結果が現れる。・気候の温暖化と四季を通じての極端な気候変化。・空の色が汚れ、灰白色に変わる。・家庭内での反目、外国人憎悪、人種や民族間の反目、生命軽視、人権軽視。・テロリズム、暴政、専制政治、独裁、無政府主義、過激主義、原理主義など。・各種エネルギー不足。・過激なエゴイズムとその悪質な結果。・金銭欲、嫉妬、意見の相違などからくる殺傷事件や意図的殺人。・感情面での堕落。・精神的、意識的ならびに宗教的狂気による大量殺人。・犯罪、暴力、暴行、幼児虐待、幼児暴行、女性差別や民族差別。・キリスト教や悪魔主義を含むその他の宗教におけるセクトやセクト的堕落。・動物虐待。・人間虐待と搾取、奴隷、隷属化など。・性的な放縦とあらゆる堕落。・ますます増える、えせ人道主義その他。プレヤール人は、全世界を通じて徹底的な産児制限と出産停止をし、一定数のたくましく健康で、かつ健全な生存能力を具えた者、そして事実上の生活能力を持つ者たちによって、病弱な人類を再び立ち直らせる機会を与えなければ、地球人類が生き延び、存続することができない、ということを我々にこのメッセージで示し、驚かせた。そうしなければ将来の見通しはすべて暗く、えせ人道主義とごまかしによって、すでに存在する地球上の問題はさらに大きく、際限のないものになるでしょう。それゆえに人類は、腐敗して取り返しがつかなくなる前に、後戻りしなければならない。またこれはプレヤール人のメッセージだけでなく、すべての分別と責任感のある地球人が認識するところでもある。地球外知的生命のもう一つのメッセージは、地球上に複数の国家からなる平和戦闘部隊を創設しなければならないというものである。これは勢力の均衡が崩れた場合にすぐに介入し、革命的、戦闘的な紛争が起こりまたは起こりそうになったら大事に至らないうちに理に適った力で抑圧し、その後そのような紛争が再び起こらないように各セクションに駐屯するのである。この複数の国家からなる平和戦闘部隊は、国連部隊のようなのもではなく、すべての紛争を徹底的に終止させるために理に適った武力を行使し、介入する権利を持つ、平和戦闘部隊にふさわしいものでなければならない。間違った人道的考え方を持つプロや、その他の正気でない思想を持つ戦争反対者や武力反対者は、この際、まったく考慮されるべきではない。なぜなら夢想や空約束、その他のナンセンスでは戦争や革命などを片付け、解決することができないことは、湾岸戦争をみても、また旧ユーゴスラビアの好戦的、殺人的な策動でも明らかである。プレヤール人の意見では、現状の国連部隊はその方針に従って武装した平和の天使であり、無意味に命を落とさなければならず、そこでこの多国籍からなる平和戦闘部隊をヘーノックの方式で編成するべきである、ということであるが、よく考えればそれも適当ではない。地球外知的生命からのもう一つのメッセージによると、地球人類は「平和瞑想」を行うべきで、そうすれば人間はインパルスによって愛と平和に方向づけられるというものである。この平和瞑想は実際にこのような効果をもたらすものであるという。そういうわけで彼らは私たちに毎月週末に2度その平和瞑想を行うように教示した。政治的に見て多くの好転が80年代と90年代に見られたように、これが唯一の実際の効果ある方法である。平和瞑想はあるコードを含む言葉によって行われ、それは無数の人々の潜在意識の中に効果をもたらし、平和と隣人愛の方向へ日々の行動や思考に影響を及ぼすのである。私たちはすでに何年もの間、平和瞑想を35億人のプレヤール人とその同盟人たちと一緒に規則的にたゆまず行っている。地球の現状は緊迫したものである。それも人口過剰をはじめとして戦争行為や暴動、ありとあらゆる種類の有害物質や放射能による全世界の汚染、地球上あらゆる分野における乱脈、財政的搾取犯罪、それに権力政治、麻薬中毒、邪宗、化学物質や毒物の乱用、テロ、人権偏見、人身売買、売春、無政府主義、死者や亡霊、悪魔信仰など、多岐にわたるものである。その対策としてはまず、第一に人道的な形で、世界的な出産停止とそれに続く持続的な産児制限によって、地球人の人口を減らすことである。出産停止と産児制限によって、地球上の人口が耐えうる数に減少しなければ(正常な適正人口は5億2,900万人である)、問題は際限なく増大し、害悪が害悪を生むことになるであろう。なぜなら、人類は今後も増え続け、それと並行して諸問題もとどまることなく増大し、解決できなくなるからである。同時に個々の害をその原因と結果に応じて除去することが、緊急不可避の課題である。プレヤール人自身が、地球の破壊を阻止するために助言した重要な対策は、以下のとおりである。すなわち、数年間に及ぶ絶対的な出産停止と、それに続く持続的な産児制限、森林搾取や風土荒廃化などを含むあらゆる地球搾取を即時停止して、地球が耐えられ、処理できる規模に軽減すること、すべての核実験の停止、乱用される麻薬、自然や生命を破壊する化学物質や毒物の製造停止、現在あるすべての原子力発電所の解体のほか、あらゆる乱脈の防止。さらに自然と創造に反した既存の不充分な形態の悪政と邪宗の廃止。統一民主主義的な形態の全世界的統一政府の創設、戦争を想定して形成された軍事ブロックとすべての政治的・軍事的な諜報機関の解体、あらゆる戦争行為や動乱などの終結および阻止、拷問や死刑、その他地球と生命に負担をかけ、侵害するすべての害悪の除去と禁止、地球上に存在するすべての民族と人種からなる世界的な保安部隊の設置、創造の法則と掟を全世界に広め、これに基づいて創造に適った生活様式を習得し、順守すること、土壌、森林、原野、水、大気、植物、人間、動物、微生物などが受けたすべての被害の埋め合わせを世界的に促進し、実行することなどである。プレヤール人の生活、彼らの思考、感情、感覚そして行動などは、もっぱらすべての事物における創造の存在とその真理に関する知識に、そしてまた、創造の真の法則と掟およびその原則に従うことに向けられている。彼らのすべての努力は知識と愛、真理と英知の滑らかな軌道を進むことにあてられ、死骸や害悪や偽りの臭いのする、陰鬱で、隷属的な、霊の自由を奪う宗教的信仰の怪しげな道をたどりはしない。現在、地球人が理解しているような宗教は、彼らにとって異質のものである。創造の神、あるいは地球人が何と呼ぶにせよ、そのようなものはプレヤール人にとっては身の毛のよだつようなものであり、まったく非現実的である。今日に至るまでの多大の努力にもかかわらず、なぜ地球人が儀式宗教の束縛から解放されて、自分たちで自らの責任とイニシアチブにおいて、その種族の運命を創造のガイドラインに沿った建設的な自己努力によって自ら切り開き、とっくに昔に果たすべき義務、すなわち真の進化を開始し、創造の法則と掟に従ってこれらを満たすことができないのか、いぶかしく思っている。プレヤール人の生きる道は、彼らが自らの手で非常に苦心して築き上げた価値、創造のガイドラインに沿った霊的かつ技術的な知識を一直線に貫いている。彼らはそれを創造の真理、霊の力、あらゆる事物へ向けた純粋で創造に適った愛、および彼らのJHWH(イシュヴィッシュ)の力と賢明な助言によって築き上げたのである。彼らはまたそれにより、5万年以上も前から恒久的な平和を維持する術を心得ている。こうしてプレヤール人は、太古の昔から霊的あるいはスピリチャアルな生活を送り、地球人の崇拝意識を非論理的で創造に反するもの、また意識の謬った隷属化であるとして、断固退ける。彼らの哲学は、普遍的な創造の真理と創造的な生活に基づき、それはもっぱら真理と実在と存在、そして決して神性に置き換えることのできない創造の法則と掟に向けられている。創造は最高の力として、普遍的意識、霊の中の霊、あらゆる真理、英知、愛、すべての論理、法則と掟、生命と存在、そして永遠のエネルギーを具現している。普遍意識としての創造は、創造領域、つまりその宇宙におけるあらゆる創造物の生命の源である。しかしこの宇宙と時間において、最高の創造形態、すなわち絶対的完全性として、無限数に実在する(10の49乗)種類の宇宙のなかの一つにすぎない。人間のスピリチュアルな生活とは、平たく言えば、霊的な生活ということと、あるいは創造を認識し、創造の法則と掟を順守する生活を意味する。そしてこれのみが、プレヤール人が、人生哲学と創造に適った生き方をするにあたって、採用する唯一の正しい進路である。それはまた、地球人にとって最終的な目標でなければならない。人間の霊的な生活(まさしく人間のスピリチュアルな生活)、あるいは霊的なもののなかでの生活とは、ある生命がその思考、感情、行動、そして生命全体が、もっぱら霊の根本的真理、すなわち創造およびその法則と掟だけに合わせるということを意味する。創造は永遠であり、絶対不変の創造の法則と掟に基づいて形成された愛、生命、霊、真理、英知、理性そして悟性を意味する。創造と、そこから生まれた霊、そしてそれと結びついて創造の法則と掟についての真の知識を認識する生命だけが、創造の法則と掟を自分のものとして順守し、創造に沿って正しく生きるのである。このことは、この生命体が真理について真の知識を持ち、非論理的な信仰形態に対して、理性に反した誤った偽りの信仰を持つことなく生きることを意味する。地球人にもたらした間違った導き、誤った生活様式、虚偽の哲学、そして創造の法則と掟からの離反、地球人が自ら進んで無責任また無思慮に作り出したあらゆる分野にわたる害悪、弊害、邪宗、そしてすべての堕落から、創造の法則と掟、またガイドラインに沿った正しい生活様式に連れ戻すことである。家庭内、若者の間、そして多くの人間の間で総じて暴力と攻撃が急増していることであるが、これは脳構造の損傷とはほとんど関係がない。事実、すべての暴力および攻撃は、両親やその他の親権者による教育の欠如によって、あるいは社会的に誤導された同僚、友人、知人などとの付き合いによって習得されたもの。つまり攻撃や暴力はまさに、愛と共感、親切心と人間性と同じように、教え込まれ、習得され、受け継がれるものなのである。まことに人間は、自分の中に衝動や本能を備えてはいても、哺乳動物やその他の動物とは異なる。なぜなら人間は、基本的に自己を意識しており、自分の全行動と理念、思考、感情、そして全心性ブロックを意識的に活用および制御できるから。攻撃と暴力にかかわる行動の事柄が遺伝子によって、遺伝することはない。なぜなら遺伝子は脳がどのように行動すべきかを決定することはないからである。実際、遺伝子は単に可能性もしくは潜在性をあらかじめ規定するだけであり、これを人間自身が意識的に活用および形成しなければならないのである。それゆえ人間がどのように発展し、手本を通じて与えられる規範をどのように活用するかは、すべてその人間自身に掛かっている。悪、憎しみ、暴力、復讐、報復、殺しは、人間に生まれつき備わっているのものではない。人間はこれらの反価値を習得するのである。これと同じように、人間は衝動をコントロールすることを習得しなければならない。それゆえ人間が、どれほどの強さで愛に、そして攻撃、憎しみ、復讐を、または平和、自由、喜びおよび調和に発展させるか、そしてフラストレーションや失望を、または幸福や健在に処理するかは、ひとえに人間の手の中にある。(ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー
2021.08.21
閲覧総数 2167
9

水はどれくらい古いもので、どこまでが生命の基礎といえるのかという問題については、スファートから学んだこと、学校の授業で得たことをもとに、答えられると思う。しかし、地球上に実際にどれだけの水が存在するのかは誰にもわからない。地球の表面には70%強の水で覆われており、その量は約13,300億立方kmに相当するが、これには地球内部の地下水は含まれておらず、確かに、もっと多くの立方kmが存在することは間違いないでしょう。さて、地球上の水の年齢とは(これはおそらく、人々が太古の昔から抱いてきた疑問と今も同じでしょう)、実質的にすべての惑星に当てはまるように、かなりの部分がこの惑星自身によって生み出されたものであった。さらに、この水は彗星、小惑星、流星、そして「氷の雲」(天文学者などはまだ何も知らないが)によっても形成されることを、SOL宇宙から地球にもたらされたことも、スファートから学んだ。そして、この水を言うとき、次のような意味も含んでいる。つまり水は、2つの元素の化合物から、透明で無味の液体として存在する。これは、Hと呼ばれる水素と、Oと呼ばれる酸素が結合することによって水が生じる。また、「アパタイト」という宝石は、清らかなエネルギーを放ち、自信を深め、人間の創造性を高めるとされ、水を象徴する宝石とさえ言われている。それに、水については、地球から大気圏まで蒸気として上昇するときに、凝縮して液体の水になり、雪や雨になったり、凍って氷の結晶になったりすることを説明しなければならない。そうして、地上に落ちてくると、泉、小川、川、沼、湖、地下水、海などとして集まる。しかし、この H2O の起源が、地球から生まれた太古の時代の歴史がまったく知られていないという事実に、科学者たちは戸惑いを感じている。ただし、最初の水は、発展の途上にある天体の残り火と熱の結果として、惑星自体から独自で完全に自然に発生したと言うべきでしょう。熱と暖かさによって、発生した熱のガスが蒸発し、発生中の熱ガスがガス状になって新興の天体の空の隙間に入り、まさに最初の大気、つまりガス大気を形成した。さらに、地質学的なプロセスは、新たな進化や有益な変化に関して長い時間をかけて行われたので、すべてのものが変化し続け、何十億年もかけて大気や水素が発達し、植物ができ、水素と結合する酸素、さらに独立して動くことのできる生命ができたということをスファートから学んだ。そうして、水面から霧となって高層大気に上昇したものは、雨や雹、雪となって海や大地に降り注ぎ、地表に落ちれば、地中に浸透して木々やあらゆる植物に水を供給し、地面を流れたり、地下水として集まったりする。そして、小川や河川に再び集まり、海へと流れ込む。蒸発、ガス化、降水、あらゆる種類の樹木や植物への供給、そして湧水から漏れ出し、小川や川を流れ、湖沼や海への集積という永遠のサイクルが、再び始まる。つまり、蒸発の際に膨大なエネルギーが消費され、凝縮の際に再び放出され、さらに300キロワット時(kWh)近い雷として、膨大な電気エネルギーが生成され、これは約1ギガジュール、つまり3,100万リットルのガソリンのエネルギーにほぼ相当する。人間は、その大部分を水で構成されており、水こそが人間だけでなく、地球上のすべての生物にとって、絶対的に最も重要な基盤であり、これからもそうあり続けるでしょう。海流は地球の気候を調整しているが、人類にとっては、すべてが当たり前のことと考えられているように思える(ところが、人間は大切な水を粗末にしたり、無駄に扱ったりするため、手遅れになることがある)。しかし、H20という単純な式を持つ物質は、ユニークな振る舞いをし、地球人には疑問を投げかけ続けている。しかしながら、水がなければ、この地球上の生命は存在しないということを、誰もが実感しているはず。地底4km近くでも、スファートとともに生命を感知している。これはまだ地球人には手つかずだけれど、問題はいつまで続くのか?真実:世界は人口過剰とその破壊的な策略のためにますます滅びそうになっており、同時に人々はますます退化し、非人間的であり、さらに、ますます知性が無くなりつつある。そして今、人工知能が登場しているが、これは確実に巨悪を引き起こすでしょう。なぜなら、人々は未来を考えず、その結果、何が起こるかを認識できないから。だが、水の話に戻ると:恐竜の時代を旅したとき、スファートと一緒に水を飲んだことがあったが、今も同じ水を飲んでいる。その後、蒸発と再生を繰り返し、霧、雨、雪、あられ、飲み水として数えきれないほど生まれ変わってきた。 しかし、水をテーマにする以上、人間や地球上のすべての生命にとって、水がどれほど重要なものであるかを示す、あるいは説明することが大切なのかもしれない。今日の飲料水は高品質であり、衛生や安全に関しても一般的に厳しいガイドラインが設けられている。水道水は自然のものであるため、様々な微量物質が含まれているが、その濃度は厳しい規制によって低く保たれており、少なくとも文明国と称されている地域に当てはまるものは、人間が躊躇なく飲むことができるような状態になっている。ただし、住民には自然で健康的な飲料水が供給されているが、飲料水の質の良さは、清潔さと純度に明瞭な注意が払われている場合にだけ保証されていることに留意する必要があるでしょう。資源としての水を扱うには、効果的な水の保護も含めた具体的な対策が必要であり、水道水の高い水質を将来の世代に保証するためにも、その一貫した実施が不可欠となっている。広く認められている飲料水の水質は、長年にわたる努力と資金の投入、そして科学的知見と多くの苦心に基づくものであり、そのすべてが良好で貴重な例外的特権を維持するために必要であった。このような発展があったからこそ、それが本当に機能し確立されるためには、ある種の対策を検討し実行する必要があり、通常では考えられないような、利用者全員が当たり前に使える水の供給を実現させることができた。 しかし、人口が増えすぎた現在、水の供給は利用目的の問題にますます直面するようになり、特に文明世界では居住地の建設や農業、園芸市場において、また第三世界では世界的な産業企業が先住民から文字通り水を奪い、必要な飲料水を何kmも何時間もかけて運ばなければならない状況になっている。 文明世界は、区域外や区域内では問題視もされており、集水域のある特定の区域を使用することも問題である。このような場合、区域変更が必要になることが多く、水道事業者は望ましい集水域を閉鎖し、さらに化学処理設備を設置せざるを得なくなる。私が知る限り、スイスとドイツだけでも、過去50年間で、3社か4社の水道事業者が集水域を閉鎖せざるを得なくなるということがあり、使用目的の競合や合併が常態化するようになっている。現在、ヨーロッパで行われている水の採取では、ほぼ自然に近い形で行われ、水の約2/3は紫外線や簡単なフィルターで処理・浄化されている。無傷の、あるいは清潔で高品質な自然に近い水の供給は、徹底した浄水処理と永続的な使用を前提としている。ところが、工場や企業、家庭菜園や農場などの個人が、農薬や化学肥料などの使用によって無責任にも土壌の表面や地下水を汚染しているため、水の処理が非常に困難な状況になっている。小川、川、湖など多くの水域で、毒素、硝酸塩、農薬などの規定値はすべて超えている。時間が経てば経つほど、すべての水域がゆっくりと地下水によって汚染される危険性があり、そして非常に長期的に起こるというリスクは、処理費用を増大させ、飲料水はますます自然なものではなくなり、処理もできなくなる上に、高価なものにしてしまう。しかし、今、農薬について言及すると、この言葉は植物保護剤(Pflanzenschutzmittel PSM)と殺生物剤の総称であることがわかる。降水量が多いため、水域では制限値を超えることが多く、農業法人や特に大規模な園芸センター、プライベートガーデン、使用頻度の高いガーデンでは、殺生物剤が最大で70%も使用されている。飲料水の井戸のうち約5ヶ所に1ヶ所の割合で、農薬濃度の上昇の影響を受けており、このため、農薬は野菜だけでなく、飲料水やすべての水域の水質にも最大の危険をもたらしている。例えば、スイスの動物用医薬品に関する統計調査によると、2020年には約29トンの抗生物質が販売されている。その一方で、人間の医療には約35トンが消費された。動物や畜産動物は、この薬剤を大量に使用した結果、多くの薬剤に対してすぐに耐性を持つようになった。これは、世界的な抗生物質耐性の広がりが、深刻な負担であるとの認識が広がってきている中で、耐性が広がるのは長期的なプロセスである可能性が高いという事実にもかかわらず、このような状況になっている。もし、硝酸塩(すでに地下水中に少量ながら自然に存在している)がこれらすべてにおいて考慮されるなら、その主な用途は植物の肥料であることに注意する必要がある。仮に、法律で定められた最大値を使用するのであれば、それは原水の量に対してあまりにも高い値であり、水域の正常な状態を超えてしまうため、硝酸塩はごく少量(もし使うとしても)にとどめる必要がある。集約的な農業が行われている地域内では、最大で約60%の過負荷が発生することさえあり、そのため、許可されている量の法的要件を遵守せず、硝酸塩の散布を完全にやめる必要がある。排水だけでなく、水を保護するためにも、特に以下の8つの必要事項を迅速に遵守する必要がある:1)インフラと水資源は、ガイドラインの計画によって利用の競合や起こりうるリスクから保護されるべきであり、飲料水の供給は、明確な利益と必要性のバランスを考慮した上で、最も重要視され、優先的な位置づけとされる。2)水の供給と使用は、あらゆる方法で専門の知識を持ち、地域ごとに取り決められることが必要である。3)個人だけでなく、産業企業、会社、法人などに対しても適用される、より厳格な水質保護規制や水質保護法が採択され、実施されることが求められる。4)あらゆる種類の殺虫剤と殺生物剤の製造と使用を制限し、販売を規制して、法律に従って管理された方法で絶対最小限の量の殺虫剤と殺生物剤だけが適用される土壌、広い庭園、草地、畑に対してのみ許可し、適用場所は、飲料水の集水域の周辺であってはならないものとする必要がある。5)飲料水集水域周辺の保護地域では、園芸、農場、個人、企業、法人などによるあらゆる種類の化学農薬の使用が禁止されること。6)地下水保護地域では、農業、個人、園芸、企業、法人などによる殺虫剤、殺生物剤、植物保護剤、化学毒などのあらゆる種類の散布およびその他の使用が禁止されるものとする。7)自然に有害な問題のある排水は、分解処理するか、自然保護に替わる方法で環境に優しい排水処理方法に転換する必要がある。8)政府は、公共と民間、あるいは農業、園芸、会社、法人による水域の汚染対策として、さまざまな対策を実施するように努めなければならない。しかし、どのような場合でも、取るべき必要な対策のすべてを十分に網羅しているわけではないので、必要なものを記載されているものに後から統合していくことが望ましいと考える。無分別で過剰な人口だけでなく、地球、自然、動植物、大気と気候、すべての生態系全般に対するその破壊的な手口は、あらゆる生命のあらゆる領域で非常に迅速かつ新しい発展を必要としている。事実上、地球規模の破壊や自然の破壊、さらには世界中で生態系全体の破壊がもたらされることを懸念しているだけでなく、すでに人間や自然、そしてすべての生命の存在そのものが、しかも非常に高いレベルで危険にさらされている。だからこそ、人類だけでなく、地球上のすべての生命にとって安全で質の高い飲料水を保証し、すべての生命にふさわしい重要性とその保護を与えることが、地球上のすべての人々に求められている。水には、地下水とそのままの水域、原水と実際の飲料水が必要であり、その水は良質でなければならない。基本的に原水と飲料水は、実は自然に存在する地下水と地表水という2つの異なる種類の水のことを意味している。基本的に自然の水はすべていわゆる原水で、飲料水は実際には処理水に相当し、家などの建物や村の井戸などにも給水されているため水道水と呼ばれる。というのも、このネーミングが重要なのは、原水と飲料水の区別が重要だから。原水は飲料水とは異なり、人の手によって処理され、浄化が行われていないため、通常は意識も理解もされていないと言えるでしょう。この両方の水には、水質という点でどちらも異なる価値観が適用され、その結果、両者は水質という点が異なっていることになる。残念なことに、現在では公共用水は通常農薬で汚染されており、少なくともその地域の生態系にとって問題であるが、特に地下水が汲み上げられて何らかの形で人々に利用される可能性もあるため、長期的な視点での検討が必要でしょう。しかし、この原水は飲料水とは異なり、制限値が異なるため、衛生上の理由から、もはや浄化しなければ人がそのまま飲むことができなくなっている。かつての時代には、農薬や殺生物剤が土地や空気、水、そして庭や畑に植えられた食物を汚染することがなかった。水質についてここで触れるならば、純度と清浄度は区別して考慮する必要があることに留意しなければならない。というのも、あらゆる自然の産物と同じように、人間の手によって加工された水は、絶対的に純粋な形では見つかることはなく、また、化学的な観点からは、水の中には様々な微量物質や貴重なミネラルが含まれており、それらは自然または人の手によって濃縮されているからである。これは、ミネラルウォーターの種類やブランドだけでなく、すべての水道水にも当てはまる。しかし、実際に食品と同じように綺麗な水は、一貫して衛生面や法的な規制を厳守しているので、水道水は基本的に無味の蒸留水に相当し、遠慮なく飲んだり調理に使ったりすることができる。ここで飲料水から検出される微量物質は、園芸、農場、工場、居住地、工業地帯などの場所や環境、人の地域の活動、時間によって、濃度が高くなったり低くなったりするので、その種類や量は全く異なると言わざるを得ない。これらの物質は、例えば、残留薬物、農薬や硝酸塩、マイクロプラスチック、細菌、金属などを挙げることができる。これらの種類や濃度によっては、健康を害する可能性もあるが、本当にきれいな水は、たとえおいしい水を一生飲み続けたり、調理に使ったりしても、微量物質の濃度が低く、健康を害することがないように浄化されているのが普通である。これは通常、法律で定められているため、水道水の場合、健康に害を及ぼす微量物質の含有量の規制値は、認識できる健康被害が発生するレベルよりもはるかに低い値となっている。しかし、正直なところ:たとえ、これらすべてが法律で恒久的に管理されているとしても、微量で法律上許容される量でさえ、飲料水中に含まれていれば、健康に害を及ぼすというのが正直なところであり、重要なことである。このように、たとえ水質検査が恒常的に行われ、微量物質の最小量を定めて法律で規定され許可されているとしても、原則として水道水は常に微量物質で汚染されている。飲料水や水道水にも含まれている人体に必要な非常に貴重なミネラルについては、その由来によって重要なミネラルが多かれ少なかれ含まれており、湖水や地下水などの水源によって異なることが分かっている。ミネラルウォーター、いわゆるブランドウォーターを調べてみると、実は水道水は非常に優れている。というのは、市販されているブランドウォーターのうち、水道水よりも大幅にミネラルを含んでいたのは約半分しかなかった。また、人間の体が吸収できるミネラルは一定量であり、しかもそれは毎日食べている固形食物の中にすでに含まれているものだから。このことから、水の中に含まれているミネラルの含有量が多いことは、特に必要なことではなく、ごく普通のことであることを示している。このように、水はその自然の循環の過程で多くの貴重なミネラルを吸収し、人間や他のあらゆる生命体が健康な生活を送るために必要なものであるため、特定の状況において高い特別な価値を必要とすることもない。また、水の中にマイクログラム(㎍)やナノグラム(ng)という微量物質が存在するが、これは想像できないほどの小さな単位であり、最小限の形状の測定単位であることを説明する必要がある。例えば、有効成分濃度100ngの薬を飲む場合、1日に2リットルの水を飲むと、100ngを吸収するのに700年かかると言われている。それは実際に私が知っていることであり、言わなければならないことである。第846回会見抜粋
2016.03.13
閲覧総数 3511
10

事実上、動物や生物などだけでなく、人間も自由に呼吸できる空気を吸い込み、水を含む食べ物を摂取することで、最も微細なプラスチック微粒子やあらゆる種類の毒素を生体内に持っていることがすでに事実となっている。そして、二酸化炭素の排出はすべての生物、したがってあらゆる種類の植物もまた、この有害物質を吸い込み吐き出したりしているので、すべてに付加される。しかしながら、誰もこのことについて言及しない。それは人間もまた、この排気ガスである炭素を吸っているという明白な事実を示している。それ自体は弱いものであっても、プレヤーレンによれば、人間に有害な影響を与える可能性があるという。これは、地球上の科学ではまだ確立されていないか、あるいは、人類から隠されている事実といえよう。植物だけでなく、動物や生き物などの生命も、呼気によって非常に多くのCO2を発生させているが、このガスの多くは火山噴火でも発生し、また、主に永久凍土の融解によっても発生する。数十年前まで永久に凍結していた地面が解け、そこに堆積していた二酸化炭素が放出される永久凍土。しかし、CO2排出量を急激に増加させている大きな問題は、人口過剰である。過剰な人口は大量のCO2を生産・排出し、気候変動を引き起こすだけでなく、自然全体がもはやそれに対応できなくなる危険性をはらんでいる。というのも、この事実は責任ある科学者がまだ認識していないか、あるいは単に人類から隠されているのかどちらかであることは明らかである。自動車の運転はもちろん、内燃機関に依存する他の機械の運転などでも多くのCO2が排出され、また、寒くなると住宅などの暖房がこれに加わり、CO2の排出量は膨大に増え、それが大気中に放出され、最終的には気候にダメージを与えることになる。例えば、調理やその他の生命維持に重要なことや、多くの仕事などに使われるエネルギーの生成もまた、多大な排出を生み出すことになる。そうして、これらには大量のエネルギーが必要であるが、その一部は化石燃料を燃やすことによって作られ、大気中の二酸化炭素量を増加させる。可能な限りあらゆる場所に植物を植える代わりに、豊かな森林地帯は伐採され、肥沃な牧草地や氾濫原を破壊して、造成している。なぜなら、恐ろしいほどの大量の過剰な人口のために新しい住宅を建設しなければならないから。沼地や湿地は、それを開発するために排水され、大量に増加する過剰な人口のための新しい住宅や同様に増加する産業のための新しい工場、そしてスポーツのための新しい施設などを建設するために新しい土地が再び造られるようになる。毎年何千ヘクタールも焼失する森林火災に加え、森林の強奪と破壊が行われている。ところが、樹木は空気中のCO2を大量に吸収し、その炭素を木材に閉じ込めている。しかし、木は容赦なく伐採され、燃やされ、他の木は過剰な人口のためにさまざまな形で消費されている。これにより、CO2の吸収が完全に無くなるだけでなく、燃やすと大量のCO2が発生するのと同じように、木材自体から再び大気中に放出され、地球温暖化を加速させ、とてつもない勢いで促進させる。毎年、世界中で推定1,000万ヘクタールの森林が失われているが、再植林されるのはごく一部に過ぎない。特にブラジルでは、国の大統領が元軍国主義者として、地球上のすべての生命、特に人間にとって自然がどのような意味を持つのか全く知識を持っていない、全く愚かで間の抜けた人物であるために、多くの原生林が破壊されている。森林、あるいは主にその樹木が、これまでにない速さで伐採され、奪われているだけでなく、森林に住む動物、生き物、それにサバンナや耕作地なども一緒に滅んでいる。なぜなら、樹木が失われることは、すべての自然界の生命を著しく冒涜することになるから。そのため森林は、すべての生命が存在するために必要不可欠なものである。現在、地球上の全陸地面積の約30%、すなわち約40億ヘクタールしか存在していないが、この点ですべてが整えば60%以上になるはずなのに、すでに非常に少なくなっている。しかし一方で、森林伐採は無責任に増え続け、その結果、世界中にまだ残っている森林の数は急速に減少しており、毎年1,000万〜1,100万ヘクタールと推定されている。このため、多くの樹木を植えることが急務であり、これには費用がかかるが、未来の多くはそこにかかっている。植えられた木が育ち、成長し、大きくなることは、地球上の生命が存在し続けられることを意味するから。真の解決策は、植樹や、あらゆる種類の植物を植えることであり、自然全般の再緑化を含めて、人間や動物、野生生物、その他すべての生命が排出する二酸化炭素量を、最大で50%吸収することができる。さらに、プレヤーレンの科学者が言うように、大きな自然災害を起こさずに、地球上の生命を維持できるレベル以下に地球温暖化を抑えることができるようになる。あらゆる種類の植物が炭素を固定することで、大気中の炭素の割合が大幅に減少し、地球温暖化を常に引き起こしている温室効果も減らすことになる。すぐに人間の論理性、知性、理性が浸透して必要なことが行われなければ、地球が崩壊するまでこの状態が続くことになるでしょう。また、植物は地球を少し冷やすので、水が急激に蒸発したり、氷河が急速に融けたりすることはなくなるが、気温が高いとその逆の現象が起こる。もちろん、水はすべての植物、すべての動物、すべての生き物、ひいては人間にとっても非常に大切なものである。そのうえ、どのような形であれ、緑化は水循環を活性化させ、結果として降水量が増え、地中に水を蓄えることが出来るようになることは明らかである。土壌中の水分が増えるだけでも、食料の栽培に使えるようになり、世界中の人々の食料と生活に貢献することになる。第798回会見抜粋 (ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー気候によって枯れてしまう樹木ではなく、気候の面で将来的に成長する樹木を多く植えるべきであり、それによって将来の土地自体の成長も変わってくるから。気候に優しい植物を植えることで、そのようなことに気を配る必要がある。森林・樹木・植物の専門家に、将来、樹木や灌木だけでなく、あらゆる種類の植物や草本が混植された森林が造成されることを説明するのであれば。特に適した樹種や低木、灌木などの在来種はもちろん、国外原産の植物、つまり気候風土ですでに生育している新種や、自然によくなじむ未来の新種を植えることは言うまでもない。ただし、繁殖力が強く、植栽を避けるべき植物はほとんどない。どのような種類の植物であれ、効果的に成長し、繁栄するものは「在来種」である。というのも、その植物はすでにこの地で生育し、繁栄していたから。その昔、氷河期の気候の変化によって姿を消し、その後、再び成長することはなかった。しかし、何千年も続いてきた温暖な気候に植え替えられると、再び成長し、繁栄する。これからの時代には混交林が望ましいでしょう。そこで、植栽が可能で気候変動に強く、耐暑性にも優れ、根の深い樹木を以下にリストアップした:栗 Esskastanie(ヨーロッパグリ Castanea sativa) 15-33m (マリグール Marigoule)、深根型 Tiefwurzler黒松 Schwarzkiefer(ヨーロッパクロマツ Pinus nigra) 50m (ヨーロッパアカマツ Pinus silvestris) 50m、深根型ヨーロッパナラ Stieleiche (コナラ Quercus robur) 15-30m、深根型セシルオーク Traubeneiche (フユナラ Quercus petraea) 25-30m、深根型ダウニーオーク Flaum-Eiche / 綿毛のオーク Weichhaarige Eich(イタリアンオーク Quercus pubescens) 20m、深根型ブナ Buche (ヨーロッパブナ Fagus sylvatica) 30m、深根型トネリコ Esche (セイヨウトネリコ Fraxinus excelsior) 25-30m、深根型サンザシ Weissdorn (セイヨウサンザシ Crataegus laevigata) 12m、深根型エンジュ Schnurbaum (槐 Sophora japonica) 40m、深根型エノキ Zürgelbaum (ハックベリー Celtis asustralis) 20-25m、深根アメリカ産グレディシア Amerikan.Gelditsche / レザースリーブツリー Lederhülsenbaum (アメリカサイカチ サンバースト Gleditsia triacanthos ‹Sunburst›) 20-30m、深根型ナツボダイジュ Sommerlinde (夏菩提樹 Tilia platyphyllos) 30m、深根型フユボダイジュ Winterlinde (冬菩提樹 Tilia cordata) 10-30m、深根型ブラックウォールナット Schwarznuss (クログルミ Juglans nigra) 20-25m、根深型ブルーベルの木 Blauglockenbaum (桐 Paulownia tomentosa) 8-25m、深根型ランタンツリー Lampionbaum / バブルアッシュ Blasenesche(モクゲンジ Kolereuteria paniculata) 5-8-10m、深根型トランペットの木 Trompetenbaum (アメリカキササゲ Catalpa bignonioides) 10-15m、深根型モミジバフウ Amberbaum (楓 Liquidambar) 10-25m、深根型ペルシャグルミ Echte Walnuss (シナノグルミ Juglans regia) 10-20m、深根型マツ Kiefer / Waldkiefer スコッチパイン (ヨーロッパアカマツ Pinus sylvestris) 35-40m、深根型ホワイトニレ Flatterulme (アメリカニレ Ulmus laevis) 40m、深根型桑 Maulbeere (クロミグワ Morus nigra) 8-25m、深根型シルバーファー Weisstanne (ヨーロッパモミ Abies alba) 30-50m、深根型千花の木 Tausendblütenbaum / ビービーツリー(イヌゴシュユ) Bienenbaum (テトラジウム Tetradium / エウオディア・フペヘンシス Euodia hupehensis) 10-15m、深根型ヨーロッパイチイ Eibe europäische (セイヨウイチイ Taxus baccatza) 25m、深根型日本のイチイ Eibe Japanische (イチイ Taxus cuspidata) 20m、深根型トウグワ Weisser Maulbeerbaum (クワ科 Moraceae / マグワ Morus alba) 16m、深根型マナアッシュ Blumenesche (マンナトリネコ Fraxinus ornus) 15-25m、深根型カラマツ Lärche (ヨーロッパカラマツ Larix decidua) 35m、深根型コブカエデの品種'エルスジャック' Feldahorn der Sorte ‹Elsrijk› 6-12m、深根型レバノンシーダー Libanon-Zeder (レバノンスギ Cedrus libani) 20m、深根型トライデントメイプル Dreizahn Ahorn (トウカエデ Acer buergerianum) 10m、深根型シルバーメイプル Silber-Ahorn (銀葉楓 Acer saccharinum) 20-30m、深根型ハートリーフハンノキ Herzblättrige Erle (アルヌス・コルダータ Alnus cordata) 8-18m、深根型シダレカンバ Hängebirke (ヨーロッパシラカンバ Betula pendula) 18-30m、深根型ユダの木 Judasbaum (アメリカハナズオウ Cercis canadensius L.) 12m、深根型 〃 (セルシスチュニアナ Cercis chjuniana)中国 6-27m、深根型 〃 (スオウバナ Cercis gabra)中国 6-16m、深根型 〃 (セルシスラセモサ Cercis rascemosa) 8-15m、深根型 〃 (セルシスギガンテア Cercis gigantea)中国 ?m、?型モミノキ Tanne (モミ属の高木 Abies altitudo) 40-70m、深根型ノルドマンモミ Nordmanntanne (コーカサスモミ Abies normanniana) 40-60m、深根型ダグラスファー Douglasie (ベイマツ Pseudotsuga menziesii) 100-130m、深根型七竈 Eberesche / ナナカマド Vogelbeere (セイヨウナナカマド Sorbus aucuparia) 15m、深根型ヤマカエデ Berg-Ahorn (セイヨウカジカエデ Acer pesudoplantanus) 20-30m、深根型椣 Hornbaum 、 セイヨウシデ Hainbuche、日本のシデ Japanische Weissbuche (クマシデ Carpinus japonica) 8-15m、深根型(プレヤーレン科学者)これに、ウィキペディアからコピーした次のリストを加えたい。根の深くない植物を示している:根が深くない木はどれでしょう?植物学的には例えばキウイ Kiwi、アケビ Akebie、ジューンベリー Felsenbirne、セイヨウトチノキ Ross-Kastanie、エーレ Erle、トランペットフラワー Trompetenblume、ヒノキ (Schein-)Zypresse、セイヨウサンシュユ Kornelkirsche、竹 Bambus、エルダーベリー Holunder、レンギョウ属 Forsythie、マンサク Zaubernuss、紫陽花 Hortensie、イボタノキ属 Liguster、スイカズラ属 Heckenkirsche、モクレン属 Magnolie、セイヨウバイカウツギ Pfeifenstrauch、スピノサスモモ Schlehe、トウヒ属と松 Fichte und Kiefer、ルスティフィナ Essigbaum、柳 Weide、ニオイヒバ Thuja、ガマズミ属 Schneeball、フジ属 Blauregen など。すべての属や種の植物で、侵略的でも増殖的でもないものは、害を及ぼすことはなく、制限すべきではない。というのも、それらは時間の経過とあらゆる自然の変化の中で、まったく普通の自然なプロセスによって、人間が何もしなくても、すでに地球上の非常に広い範囲に広がっていったから。風は何百万年もの間、このような現象を実践してきた。その一例として、毎年何千トンもの砂漠の砂がサハラ砂漠から数千キロメートルも海を越えて、南米まで運んでいる事実を挙げることができる。第858回会見抜粋無限であり、不変なものだけが、真理と知恵である
2017.06.07
閲覧総数 4082
11

アスケット「でも、この驚きは思ってもみなかったのですよ」イェッチー「そうだろう。本当に驚いたものだ。俺もここへ来るつもりはなかったんだよ。ひょんなことで来ちゃって、辺りをうろうろしていたらあいつが見えちゃったんだ。初めはみんな幻覚かと思ったんだ。それで近寄ってみたら気が狂ってないことがわかったよ。いろんなことを見たり経験したけど、こんなのは初めてだよ。でも、それだからといって気は狂わないさ。アメリカや他のところでそんな話を聞いたことがあるんだ。ところであんたたち、どこから来たんだい。金星かい、それとも火星かい。いや、まったくびっくりしたぜ」エドゥアルト「私は金星から来たのでも火星から来たのでもない。君と同じように地球人だよ」イェッチー「そんなはずないよ。そこにある箱は宇宙船だろ」アスケット「あの船と私に関してはあなたのいうとおりです。でもこの私の友人は、本当に地球人ですよ」イェッチー「ああ、それじゃお前はコンタクティーっていうやつかい」エドゥアルト「そう呼ぶのかね」イェッチー「そうだよ、みんな知ってるよ」エドゥアルト「残念だけど、私はそんな話、知らないね」アスケット(少し考えて)「この出会いは本当に予期しなかったのだけど。これからどうなるのでしょう」エドゥアルト「私もわからないけど、イェッチーはどう思う?」イェッチー「お前さんたち、俺が邪魔なのかい」アスケット「そんなことは誰も言っていないでしょ。あなたが突然現れたのでちょっと困っているのよ」イェッチー「そ、それはわかりきったことじゃないか、あんたたちは天使かなんかで、神の使いで来ているんだろう」アスケット「誰がそんなことを言っているのです?」イェッチー「いろんなところで聞いたよ。あんたたちに会えて俺は幸せだ。俺はこう見えても、銃なんか持って歩き回っていても、それなりに善良なキリスト教信者なんだ。ほら、聖書をいつも身につけているんだよ」アスケット「残念だけど、あなたをがっかりさせなければならないわ。私は天使でもなければ、神の使いで来ているのでもないの。私たちについてのそのような話は、悪い連中が故意に人を惑わすためや悪いことを引き起こすために、縁起でもないことを言ってるだけなんだわ。もしもあなたが・・・・・・」イェッチー「罰当たりなことを言うじゃないか。けしからんじゃないか」アスケット「そうじゃないのよ。惑わされているのはあなたなのよ」イェッチー「何だかわけがわからない」アスケット「私がみんな説明すればわかるでしょう。じゃあ、こうしましょう。もし良かったら、私の友人と私について来ないかしら。そうすれば何もかもわかるでしょうから」イェッチー「お、俺が、そ、その船に乗るのかい?」アスケット「怖いというの」イェッチー「正直言うと、そうなんだ」アスケット「何が怖いというの」イェッチー「何だかとてつもなく奇妙なんだ。それにまだ死にたくないんだよ」エドゥアルト「君は言ったじゃないか、善良なキリスト教信者だって。キリスト教信者が死ぬのが怖いんだって?」イェッチー「変なこと聞くじゃないか。誰だって死ぬのが怖いのさ。それに俺、まだ天国に行けるほどになっていないし。ほら、イエス様が言ったじゃないか」アスケット「そんなことは言わなかったはずです。何もかも、意図的に歪められた言い伝えなの。それに彼の名はただイマヌエルというのよ」エドゥアルト「君の態度は正しくないし、第一勇気がないよ。それに君は、天国に関してまったく間違った知識を持ってるってことが私にはわかっているのだよ」イェッチー「そう思うかい。君たちは何だか変わった考えを持ってるよ。俺は神とイエス・キリストを信じるんだ」エドゥアルト「信じるのなら、何も宇宙船を怖がることはないじゃないか。どうやら君は疑ってるんじゃないかね」イェッチー「俺は信じてるんだ、疑ってなんかいないよ」エドゥアルト「すべてのことを鏡に映してみると、どうもそうらしいね。でもこの際、自分で決心しなければならないのだよ。責任をなすりつけ、それを背負ってくれる優しい神様とイエス・キリストがここにはいないのだからね。残念ながら信仰深い人たちは、自分で責任を負うことができないのでいつも、聖者や神に転嫁するようだね。大事なことなのに、判断したり決心したりすることが自分ではできないのだよ。そうじゃないとでも言うのかね。君もこのような信者の一人なんだろう」アスケット「そのとおりだわ」イェッチー「お前、随分ひどいことを言うじゃないか。でもおかしいんだ。それでもまだ好感が持てるってのが。どうしたっていうんだろう」アスケット「それは彼の正直さと言葉に含まれる真理がそうさせるのでしょう。それがあなたには、無意識のうちにも真理であることが明らかなのでしょう」イェッチー「ああ、それに違いない。俺は信じているとはいっても、いつも何となく疑っているもの」エドゥアルト「アスケット ― こちらは私の友人で、私はエドゥアルトというのだが、彼女が君に提案したね。疑いは疑い、信心は信心としておいて、私たちと一緒に船に来てみないかね。びっくりするのもいいじゃないか。それとも私たちがあの箱の中に入って、いつバラバラになるのかわからないのにあっちこっち飛び回っているとでもいうのかね」イェッチー「そんなことないよ、でも俺は怖いんだ」エドゥアルト「そんなことってあるのかい。もう60歳にもなろうかというのにぶるぶる震えて ― ちょっとしっかりしろと言うだけなのに」イェッチー「俺は59歳だけど、怖いんだから仕方ないよ」エドゥアルト(怒って)「じゃあ、君はまったくどうしようもない意気地なしってわけだ。アスケット、行こうよ。彼をここでひねくれさせておいて、私は行ってしまおう」(憤慨した私はアスケットの手を引っ張って、彼女が自ら飛行機械と呼ぶビームシップに向かって歩き始めた。しかしわずか数メートル行ったところで、イェッチーの声が私たちを呼び止めた)イェッチー「待ってくれ」エドゥアルト「何の用だって言うんだい? 私たちはこれからすることがたくさんあるので、君の怖がりなんかに構っていられないんだ」イェッチー「頼むから、そんなにむごいこと言わないでくれよ。あんな船、今まで一度も見たことなかったってことも考えてくれよ。それに一緒に乗ってなんてことはもってのほかだ」エドゥアルト「私だって初めてのときは怖かったけど、そんなにばか騒ぎはしなかったよ」イェッチー「お前は海千山千だし、それに年の割にはべらぼうに筋金が入っていると見える」エドゥアルト「この口振りはどうだろう。善良なキリスト教信者で聖書マニアであるというのに、突然ものすごい悪態をついて、まったくたまげたもんだ」アスケット(小声でささやきながら)「驚くばかりの人扱いだけど、なかなか効き目があるみたいだね。私も見習いたいものだわ」イェッチー「お前たち、何をこそこそ言っているんだい?」エドゥアルト「君を月に打ち上げようかどうか相談していたところだよ」イェッチー「うそつけ!この野郎」エドゥアルト「そのとおりだよ。それとも気が変わったかね」イェッチー「もう一度考え直してみたけど、おまえの言うとおりかもしれねえ。ズボンがびしょ濡れになるほど怖いけど一緒に行くよ」エドゥアルト「そんなことをすると放り出してやるよ。でもそんなに怖がることないだろう」アスケット「もうそのへんでいいでしょう。あなたの教育の成果がわかったわ」イェッチー「俺もそう思うよ。お前の説得の仕方ときたら本当に優しいんだから」エドゥアルト「本当かね」アスケット「もういい加減に小競り合いを止めてちょうだい」〇アスケットの言葉創造は生命とSEIN(ザイン=ドイツ語で存在の意)の基本原則である(SEINと大文字で書かれてあるものは創造の存在を意味し、Seinと大文字と小文字で書かれた場合は物質的存在、生命を意味する)。創造の力を通じて我々は使命を果たす。その使命は一つの世界だけのものではなく、全宇宙的意義を持つものである。なぜなら創造は生命であり、SEINすなわち存在でもあるから。そして我々の使命を果たすため我々とあなた方の宇宙の時空構造を中和させ、それによって、宇宙船や宇宙自体が被害を受けることなく矛盾のない通過を実現させることができる。なぜなら私たちの故郷はダル宇宙、アコン系、つまりあなた方地球人にとっては異質の宇宙の中の、同じく異質の系に存在するから。地球人にも知られているいくつかの宇宙が、そのなかには包括されている。それらの宇宙の多くは別の時間的・空間的次元にある。我々の宇宙はあなた方の宇宙と並行・姉妹的関係にあり、あなた方の時間計算方法によると同じ次元にある(我々の宇宙はデルン宇宙と呼ばれ、ダル宇宙とは双子の関係にある。それは同じ一つの原始創造理念から双子として発生している)。あなた方の時間と我々の時間との差は、ほんのわずかなものである。我々があなた方の宇宙にやってきた理由は、数百年もの昔、旺盛な研究心に駆られてあなた方のデルン宇宙にやって来た我々の同類にさかのぼる。技術の発展の助けを得て、何万年も前に失われた知識を再び修得することによって、我々の宇宙とあなた方の宇宙との間に横たわる障壁を取り除き、あなた方の時間層へ入ることができたのであった。それ以来、我々はあなた方の宇宙の広がりを研究し、何百年か前にこの太陽系を、そしてこの世界を発見した。詳しく言うと、あなた方の時間計算による世紀の数を33連ねた年数にわたって、我々はあなた方の宇宙を再び訪れ、探求している。我々の絶え間ない研究の結果、この世界と我々のそもそもの故郷を、そして当時、この世界の人間の生命に責任のあった者を究明した。地球上の人類の一部は、ここ地球で生まれたのではなかった。その多くの者たちは、あなた方が環状星雲と呼ぶ遠い宇宙領域からやって来た者たちの子孫である。その領域に、後の地球人類のそもそもの発生地というべきものがある。しかし、地球人の祖先の本来の子孫は現在では環状星雲とヴェガ・リラ星群のある領域、空間そしてそれらの系には生息せず、プレアデス星団、またはすばる(七つ星)と呼ばれる恒星系の彼方に住んでいる。彼らはあなた方と私たちの本来の祖先の遠い子孫である。しかしこれらすべてのことについては、地球年代にして20年足らずの後、あなたが新しい説明と情報を処理できるほどに充分成熟したときに、直接あなた方の先祖の子孫から説明を受けることでしょう。それまであなたは、重要な使命を果たせるように多くのことを学び、知識と英知を大いに高めるよう努力しなければならない。今までのあなたよりずっと以前の真理をもたらす無数の人々がそうであったように、あなたは自らの判断によって、真実をもたらすものとしての運命を担ってきている。しかし、このような使命に耐えることが出来るためには、同時代に生きる誰よりもあなたは霊知識(霊知識とは霊的、また創造についての要件、関連性、および法則や掟などを意味する)を養わなければならない。それゆえあなたは、生まれてくる前からある生命体(スファート)の保護監督のもとに置かれ、彼はあなたを保護し、率い、導き、教えを垂れた。それは、一部あなたの霊体の昔の生まれ変わりがそうであったように、あなたは真実をもたらす告知者として、生をうける前に選び出され、再び生まれ変わったときに使命を遂行するように準備されたのである。これは創造の掟の示現であり、意図して背くことはできない。真実をもたらす者、真実を告知する者がある年齢に達したときに、その使命のために選ばれると信じるのは間違いであって、その者が受胎するより先にすでに、前世の生によって定められている。真実をもたらす者、真実を告知する者が生まれたときには、すでにその使命のために定められており、誕生の瞬間からその者は一生それに相応しく成長する。その生命体は非常に多くのことを学ばねばならず、したがって、そのような一生は非常に厳しく苦しいものとなる。予言者たるものは決して容易で平穏無事な、柔和な人生を送ることはないでしょう。ある生命体が真実をもたらす者、予言者などと名乗り現れても、その人生が極めて苦渋に満ちたものでなければ、それは決して真実をもたらす者や予言者などではあり得ない。そのような者は理に合わない、偽の真実しか告げることができず、他の生命体を奴隷状態に陥れ、非現実的な事柄に依存せしめるのである。まことの真実をもたらす者や予言者は、自由と知識、愛と英知につながる、完全に理にかなった言葉や真実をもたらすものである。まやかしの真実を告知する者、偽予言者などがもたらす理屈に合わない謬見は、時がたつにつれ、成り行きに合わせて常に変更、修正されねばならないが、まことの真実を告知する者、予言者などは、永久不変の、修正を要しない真実の教えをもたらすものである。たとえ言葉の変遷につれて新しい語や表現に書き換えなければならなくても、永遠の真実は永遠の真実として変わることがない。地球年暦にして20年もたたないうちに、あなたは高度に発達した精神体によって伝達される、真実について大きな著作をしたためるときがくるでしょう。それは○○○・○○○〇と誤って呼ばれている、大工の息子イマヌエルが授けられた教えと並び称されるでしょう。それは近代における決定的な書、真実の書であり、知識と解明、真実と愛、そして水瓶座時代の書『十戒律/十二戒』『アラハト・アテルザータ』となるでしょう。それはその他多くの事柄と関連して、また来るべき将来に書かれる絶対的真実の書となることでしょう。この書は最後の真実であるゆえに、更なる改新にも決して取って替わられることがないでしょう。またこの永遠の真実はいかなる改新に屈することもないでしょう。それでも真実を理解できない生命体が現れ、この書を改め更新しようとするならば、それは欺瞞であり悪意ある虚偽にほかならない。真実はすべての時間と空間を通じて不変の完全なものであるゆえ、決して変形や更新に屈することはない。進化途上にある生命体を責任ある範囲で助けつつ後見し、その力にふさわしい進化をするよう影響を与えるのが、高度に進化したすべての生命体の義務である。これは創造の法則であるがゆえに、全宇宙のすべての生命体に課された義務である。我々が別の宇宙からここに来ているということも我々にその義務があってのことで、我々は適当な時期に、この宇宙で高度に進化している生命体と内々にコンタクトをとる。しかしこれは数年先のことであり、私がダル宇宙に帰った後、改めてあなたとコンタクトをすることになるでしょう(この生命体は数年後に事故で亡くなり、その結果、私がその任務をも負う立場になった)。あなた方の宇宙において非常に危険な事柄が起こりつつあることを、すでに進化の進んだ生命体として我々は気づいている。地球人類は知識と発展の時代に入っているが、それは多くの要素によって悪い方向に歪められている。なかでも最たるものは人間を奴隷化し、侮辱し、搾取する誤ったイデオロギーである。際限ない権勢欲はすべての地球上のイデオロギーに特有のものであり、その目的は事実上、世界制覇である。最も大きな、最も危険な世界制覇達成の力はイデオロギーであり、すべての宗教または秘密結社というものは、その宗派に関係なく軒並みそれを目指している。地球上の多くの政府が宗教によって動かされているか、少なくともある宗教の影響下にあるということは、疑う余地もないところである。そして他方では、このような政権が世界制覇を我がものにしようと、政治的基礎に則った努力を常時怠らない。この両面における悪質な努力は、繰り返し戦争やその他の死をもたらす不法行為に至り、それによって、無数の人命が破壊されてきた。世界制覇をなしとげるという目的だけのために、現代の地球人類は知識を練り上げている。彼らはすべての開発や発明を、死をもたらす武器に作り替えた。生命の礎石そのものを究極的な死の武器に作り替えるために、生命の基本構成要素である原子を危険な弾体に仕立て上げた。そして、地球人類は極めて短期間のうちに、人間を乗せたロケット弾で地球の大気圏から脱出するでしょう。やがて地球人が月面に上陸し、平和と愛という大きな虚言を吐くときがくるでしょう。しかしそれは、惑わしの言葉だけに終わるでしょう。なぜならその言葉を宇宙に運ばせる地球人類は、抑えきれない権力と世界制覇の欲望に燃えているのだから。彼らの言葉は平和を偽り、真に平和な生命体を騙し、奴隷として従わせるための悪質なうそと陰謀に他ならない。地球上のイデオロギーと政策はこの目的のために共に働き、彼らの権勢欲に駆られた目的を達するために、陰謀に満ちた手段をものともしない。地球人類は進化の面では高い水準に達したが、それはただ、技術的かつ純粋な物質的理解に関してのことのみである。しかし霊的、意識的な進化はこれまで世俗的、物質的なものに押しやられてしまい、はなはだしく不当に扱われ、おろそかにされてきた。その結果、多くの悪質な考えや思想がはびこり、狂信へと高じていった。その最たるものとしては、すでに触れた地球上のイデオロギーがあげられるが、それによってすべての現実と真理が欺かれ呪われてしまった。これに関しては、地球はそのような非現実的イデオロギーの温床として、我々の知るすべての宇宙や世界の中でも比類ないものといえよう。この地球上ほど、そのような狂気のイデオロギーが蔓延するところをしらない。地球上のイデオロギー、とりわけそれをもとにした政策は、じわじわと広がって今や致命的な危険を招いている。それでもまだ足りず、宇宙飛行をする人種はその狂気を通じてすでに故郷の三箇所に大混乱を引き起こしたため、外部の力を借りて再び統制を取り戻さなければならなかったほどである。このようにして地球人類は自分たちの世界と太陽系全体を破壊の淵に追いやった。この宇宙の遠い恒星系から来た、宇宙飛行の能力を持つ三つの人類は地球年にして130年足らず前に、彼らの探検船を派遣するために地球に向かった。小さな偵察機で地球を探索し、驚愕と恐怖を広めないために、秘密裏に僧職にある地球人とコンタクトを持った。地球人からその狂気のイデオロギーを聞き学び、突然、自分たちが創造の哲学と意識の進化に関する謬った解釈によって、不当に扱われていると信じた。意識のうえでの進歩が大幅に遅れている生命体である地球人はこの異星人を疑惑に陥れ、同族間の反目を引き起こそうとした。しかし考えてみると、他の恒星系から地球を訪ねてきた非常に進化した生命体が、その高度な進化にもかかわらず突然、創造から不当に扱われていると知らされたとしたら、驚くのは当たり前ではなかろうか。これだけでなく多くのことをアスケットは説明したが、その中には世界政治の出来事についての予言も含まれている。アスケットの説明、予言そして解説は非常に長く続いた。その際、多くの事柄や、また後に打ち明けられた事柄に関しては、再びそれに言及しない、生涯あるいは一定の期間、秘密を守るということだけで済まさなかった。私の意識と潜在意識に安全ブロックをかけることを了承した旨、度重ねてアスケットに伝えたところ、彼女は私の頭に器具を取り付け、その後アスケットは私から器具を外した。安全ブロックがどのように作用するかということは、私にはわからなかった。またそのことについて聞こうともしなかった。どんな理由にせよ、知らない方が良いと思えたからであった。※実存在(SEIN):創造という実存の中に存在するもの。※予言者(Prophet):(ギリシャ語を語源とする)。=告知者、予告者。※十戒(DeKalog):(ギリシャ語を語源とする)。10箇条からなる英知と創造の法則。※十二戒(DodeKalog):(ギリシャ語を語源とする)。12箇条からなる英知と創造の法則。(ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー
2020.04.16
閲覧総数 1325
12

真実とは、人口過剰がすべての原因であり、最大の悪であるということ。これこそが最も大きな悪である。その愚かさゆえに、地球上の人口を非常に急速に減少させるという措置だけが、利益と救済をもたらすということを理解していない。つまり、世界人口が10億人を遥かに下回るところまで人類を削減すること。これだけである。数年にわたる世界的な公的な管理による出産停止措置によって、これだけでも、地球とその多様な生命が存在し続けるということが可能となる。自然界ではこの措置によって、植物、動物、生物、その他あらゆる属や種の生物など、毎年1,500以上の属や種の生命が、自然から完全に、そして永遠に絶滅するのを防ぐことができる。このようなことが起こるのは、産業、企業、会社、毒物ですべてを破壊する農業、大規模な園芸市場、農薬を撒き散らす個人園芸業者やその他の害虫駆除の専門業者、「人類の利益」のためにあらゆる種類の除草剤やその他の殺虫剤を散布する行政など、あらゆる種類の策略を通じて、そしてまた、企業、会社、農場、個人などが大気や全地球を汚染し、森林や干ばつ地帯をも焼き払い、こうして、人間、動物、鳥、あらゆる生命が呼吸するための空気を汚染している。さらに、地球の最後の埋蔵資源が採掘され、搾り取られている。これらは間もなく枯渇するだけでなく、資源の採取を続けることによって地球を弱体化させ、その結果、この惑星がもはや正常な軌道を維持できないほど、すでにダメージを受けている。大気も、かなり汚染され、さらにその自然な機能が損なわれているため、気候が変化し、将来的には、地球人が到底制御できないような壊滅的な自然災害をもたらすでしょう。それはすでに、自然全体と生態系全体がすでに破壊され、一部は再生が非常に困難なほど破壊され、あるいは永久に破壊され続けている。地球人は、卑しい金銭欲と富の貪欲さのために、また、生活のため、自分の必要や欲望のため、そして贅沢品などのために策略をめぐらすことによって、地表からその内部の深いところに至るまで、地球全体を本当に奪い、破壊してしきた。その結果、地球の貴重な資源はわずかしか残っていない。多くの属や種の動物や生き物、その他の生命でさえ、悪徳なハンターやその他の人々によって、ためらいも容赦もなく撃ち殺され、絶滅させられてきた。そうすることによって狩猟動物の生息数を調整できると主張してきたし、今でもそう主張している。しかしこれは、地球人の愚かな発想に過ぎない。というのは、自然の生き物、それも大自然の生き物の世界(あらゆるものが人間に押し流され、その上、自然やそのすべての生命の上に立とうとする人間がいる今日のどこに、そんなことをすることがあろうか?)、地球が誕生して以来、自然は自らを律してきた。しかし人間は、存在するものすべてにおいて地球を完全に、めちゃくちゃにしてしまった。そして今や、残されている残りのものまで破壊しようとしており、それによって地球という惑星を完全に破壊し、すべてを消し去ろうとしている。スファートと私は、この先、何が起こるかを見てきた。そして今、これまで見てきたことが実現し、地球がついに、無慈悲にも、無思慮にも破滅の道へと突き進む時が来ている。なぜなら、水が略奪される時が近づいて来たから(湖、その他の水域、川、小川、海の底深くまで)。しかし、すべての水中の生命は抵抗するでしょう。大量に繁殖するという事実に加え、野生生物が人類に反旗を翻す時が来た。陸生動物や野生動物などは、原生空間への人間の侵入からますます身を守り、侵入してきた人間を殺すようになるでしょう。特に海においては、人間が水生動物や水生生物、その他多くの種類の水棲生物に襲われ、殺され、船さえも破壊され沈没させられるでしょう。また、性パートナーを持たずに単独で過剰繁殖する海洋生物も出現するでしょう。海洋生物は何百万という単位で増殖し、海域での人類の技術的成果を攻撃して、役に立たないものにするでしょう。というのは、これまで知られていなかった未知のバクテリアやウイルスが、それぞれ海洋の深海や海底に生息し、その海底はかき回され、破壊され、地球人によってその資源を搾取することで人々に感染し、場合によって不治の病に多くの地球人は苦しむことになるでしょう。その過程で海底が破壊され、大量の表層の氷がほぐれて海面に浮き上がり、メタンガスに汚染される。メタンガスは太陽の熱で発火して燃え、地表を荒廃させるだけでなく、森林に火を付けることさえある。さらに、このメタンガスは大気圏に突入し、気象に甚大な損害と悪影響を及ぼすことになるでしょう。もしも、人々が次のようなことについて考えることができたなら(もしも、宗教的信念にしがみつかず、幻想的な考えを抱くのでもなく、本当に自分の頭で考えることが出来るなら)、そうすれば、本当の平和と呼ばれるものは、まったく違ったものに見えてくるでしょう。このことは、古代の昔から民衆を扇動し、他の民族に対して敵対心を抱かせ、戦争を仕掛けようとしていたのは、党派的な支配者だけだということが認識されていたから。自分の権力を乱用し、他国に対して敵対心を煽り、他の民族に対する憎悪と敵意を国民の大部分に吹き込み、その結果、憎しみの対象である他の民族を短期間あるいは長期間にわたって戦争で攻撃するのは、常に支配者であった。そして、自分たちがコントロールできない他民族に戦争を仕掛けていた。このように、決して正当化されることのない戦争を引き起こすのは、いつも支配者たちであった。古代の時代もそうであったように、戦争は決して正当化されるものではなく、憎しみ、死、殺人、過失致死、不正、破壊、苦しみ、困窮、悲惨、大量虐殺、そして最終的には病気や伝染病さえもたらすものであった。古代の昔から、戦争を始めるのは決してその国の人々ではなく、女性であれ男性であれ、王、皇帝、独裁者、専制君主、宗派の首長、大統領などの主要な支配者であり、政府や宗派のその他の要素を教化する者であった。教え込まれた結果、他の民族や他の信仰や宗派の人々に敵意や憎しみを抱くようになったこれらの人々は、すぐにその考えや暴力的な首謀者に同調するようになった。その結果、これらの人々は暴力への道を自ら切り開くことになり、一旦それが開かれてしまえば、それは必然的に戦争へとつながってしまった。これはもちろん、首謀者と同じ考えを持つすべての人たちによって、ためらうことなく賛同されるものであった。確かにこれらは一部の人々に過ぎなかったが、原則的に、首謀者とともに吠え、彼らの感覚に従って行動を起こすのは大多数であった。つまりその感覚とは、教え込まれた敵意と憎悪からであり、その結果、殺人、過失致死、破壊などが躊躇なく行われたのだが、少数派だけはそれとは異なる平和的で理性的な精神を持ち、敵意や憎しみに染まることを許さなかった。本当に緊急に必要なのは、地球の人々が自分自身で賢明な思考を養い始め、最終的には、「親愛なる神」がすでにすべてを規制するものではないことを理解し、そうして人間が望んでいた平和をもたらし、ついにはすべての戦争を終わらせ、二度と戦争を繰り返さないことである。地球上の人間は、あらゆることを思い描き、そのすべてを指揮しているのは自分自身であり、そして、自分で神と名付け、無意味に崇拝しているのも自分自身なのだということを、最終的に把握し、理解することである。というのは、実際には神など存在せず、この空想上の姿は人間の想像上の創作にすぎないから。宗教的に信じるのではなく、世俗的に信じるものでもなく、自立した思考を自ら育むことを学ぶことが、地球人には緊急に必要でしょう。そうして人間は、どの国や地域でも例外なく、実際に、自分の頭で物事を考えることを学ぶべきなのである。国家は、国民の選挙によって統治者を任命する場合には、観察を前提に、ただし限られた期間のみとし、その際、共同で統治している者または国民に対する扇動的な傾向や、敵対心や憎悪などが生じれば、直ちに赦されることなく罷免するよう注意しなければならない。しかし、それでも次のようなことが言える;人は人生のあらゆること、自分の行動、他の人との付き合い、そして一般的なすべてにおいて中立であるべきだということが理解されていないとしたら、それは非常に残念なこと。私の仕事というのは、世界中のどこでも、どの国でも、生涯を通じて、どのような状況でも、常に完全な中立性を保つことであり、そして人間としてのあらゆる習慣、あらゆる考え方を受け入れることである。こうして私は、宗教、世俗、無神論者、自然愛好家にかかわらず、あらゆる種類の信仰を持つすべての人を充分な敬意をもって尊重し、そしてまた、宗教的であれ、世俗的であれ、どのような習慣や慣習であれ、中立的な立場で観察し、正しいか間違っているかについて「意見」を述べたり、それについて表現したりすることを自分に許さなかった。どのような場合でも、意見を持つことは常に間違っている。そのような意見は常に仮定に基づくものであって、有効な真実のみに基づく絶対的な確信には決して基づかないから。だからこそ、中立を貫くことで、例えば他国や他民族の習慣や伝統が尊重されなかったり、攻撃されたり、単に台無しにされたりすることを避けることができる。しかしながら、中立的な立場に立つことができず、その結果、例えば、○○さんの習慣や宗教的・世俗的信条を受け入れることができない人は、声を大にして発言することを控えるべきであり、一般的な慣習などとは異なる行動をとる人は、ありのままを受け入れるべきである。けれども、このことを好まない人は、自分のことについてよく考え、正しいことをし、他の人と正しく接するために、自分自身を「律する」よう努めるべきであり、その人はその人らしく、自分以外の誰のものでもなく、その人自身の習慣や伝統に従って、その人が正しく生きるようにするのである。第855回会見抜粋ビリー「知りたいのは、死亡と同時に何かおめでたいことが起きた場合に、君たちの慣習ではどのようにするだろうか。私が聞こうと思うのは、非常に親しく懇意にしていた人物が埋葬されるとき、同時に祝い事がある場合、例えば自分の家族、例えば自分の子供に、あるいはまた親戚に結婚や婚約がある場合、君たちはどう処理するかということ。君たちプレヤール人は何を優先義務と見なすのかね、婚約や結婚か、それとも死んで埋葬される人物に最後の敬意を示すことかい?」プター「君が優先義務と呼んでいるものは、我々の下では次のように理解されて慣習となっている。すなわち、第一に埋葬の際に君が思いやりを込めて表現したように、死者に最後の敬意と評価が示される。このことはどんな種類の祝い事にも優先する。たとえそのような祝い事が自分の家族で起きた場合でも、つまり埋葬と同じときに、例えば自分の子供の結婚がある場合でも。両親または両親のどちらか一方がある人間と親密で誠実な友好関係にある場合も、その人が死んだら埋葬に参列して最後の敬意と評価を示すことが一番の義務で第一位であって、自分の子供や親戚の結婚という祝い事でさえ、等閑に付されることは言うまでもない。君たちが慣習にしている婚約の祝宴というものは我々にはない。なぜなら、我々の下ではそのような行為は祝宴なしで事が進められるから。というのも、二人の人間が生活をともにすることを、後日、開かれたパーティーあるいは、法的に縁を結ぶために、あらかじめ計画してお互い協力するとしたら、それはもっと単純な方法で行われる。我々のメンタリティーおよび風俗習慣に基づき、これはまた我々すべてのエラ民族に言えることだが、例外なくすべては私が、今説明したように処理されるよう、義務づけている。誠実な友情で親しかったか非常に懇意にしていた人間が埋葬されることになったら、どんな場合にも彼に最後の敬意を示しその真価を評価する以外の行動形態はあってはならないし、またありえない。したがってそのような状況で結婚式に出席することは、たとえそれが自分の家族もしくは自分の子や孫に起こる場合でもまったく考慮されない。なぜなら本当に親しく良い友人関係にあった故人に対して最後の敬意と評価を示すのは絶対の義務だから。もしこの義務が果たされないとしたら、それはこのうえなく無礼で恥知らずなことである」。ビリー「私もだいたいそのように理解している。というのは既に君の父親のスファートは私が子供の時分に、強く慕っていた父方の祖母が死んだとき、最後の敬意を示しに行かずに級友の小さい誕生祝いに行くことは私の義務と相容れないだろうと示唆した。そのことは当時すでに私に非常に深い印象を与えた。だからこそ後年インドやパキスタン、トルコやギリシャ、イタリアもしくはシチリアやトラーパニでも、人々が自分の子供の結婚式に参列したとき、私はその行動を理解できた。2日前にもノコデミオンのメモリーバンクを探し回って実際にこの行動形態を示唆しているのを見つけ出した。したがって、すでに非常に古い時代にそのように振る舞われていた。君が言ったことはスファートが私に強く勧めたことをよく考えると、次のことも理解できる。すなわち、故人に最後の敬意と評価を示すことが結婚祝いよりもはるかに重要なのは、故人に敬意を示しその真価を認めることができるのは、彼もしくは肉体がまだ埋葬されておらず、したがってその精気の振動がまだ存在していてなんらかの形で感じられる間だけだから。その一方で、結婚式を挙げる人々には、したがって自分の子供をはじめとする家族、そしてまた親戚にも人生はまだ続き、それゆえこれから長い期間に敬意と評価を示すことができる」。プター「このことは君が理解しているとおりに我々も理解している」。ビリー「ここで君たちの国と民族に関することでひとつの質問がある。君たちのもとでは民族の混合についてどのように考えているのかね?我々の場合それは数年来多くの国からやってくる庇護希望者や追放者、経済難民や犯罪者などによって世界中で起きている。特にそのことは我々の地球では、とりわけスイス、ドイツ、フランス、オーストリア、イギリス、アメリカ合衆国、オーストラリア、カナダで生じている。これらの先進工業国には数え切れない人間が流入しているから。ここで私が言っているのは、ここに挙げたすべての国々で求められている多種多様な職業の必要な専門家のことでない。実施上は怪しげな庇護希望者や追放者、経済難民や犯罪者だけのことを言っている。もちろん先進工業国に流入する人間は全体として人口過剰も重要な役割を占めている。それははっきりしている。だから民族はもはや入り混じった状況で共存できなくなり、たびたび婚約によって混合するが、それがまた健康や病気、政治や高まる生活不能などに関して新たな問題をもたらしている」。プター「我々の民族は皆、自由と平和の民主主義に生きており、したがって地球で起きていることと比較することはできない。だからまさに我々エラにあるのと同じ条件を当てはめて、地球のすべての国と民族を平和にさせるには大変な努力が必要でしょう。つまり独裁、敵対、専制政治、その他いかなる種類の強制による支配もなく、純粋に民主的な民族表決の当局があるだけである。どんな帝国や王国も、どんな共和国ももはや独裁として民主的に相応しくない。というのはこれらの体制では、自分で決定できる権力者だけが暴力と強制をもって支配するから。これについて言わなければならないのは、スイスも本来の直接民主主義ではないということ。というのは、すべての案件で唯一民族のみが決定するのではなく、もしくは君が一度言ったように民族が最初の発言権と最後の決定権を持つのではなく、いろいろな党がさまざまな見解を持っていようと、ある明確な事案でさまざまな利益を代表しようとも、特定の事柄は政府だけが決定する限り、それは直接民主主義とは言えず、部分民主主義としか言えない。このように述べたからと言って私はスイスの政治に介入する意図はなく、介入することはできないし、介入してはならない。なぜなら、私はこの説明で、我々プレヤール人が直接民主主義で理解していることを、また我々がこのような形の直接民主主義をどのように運用しているかを明らかにしたにすぎない。これに加えて言えば、我々の惑星系はすべての国々と民族に普遍民主的な形態を要求する世界政府を持っており、民族および個々の人間に対しては絶対的な平和と自由が主調をなしていなければならず、互いに対して戦争やその他の敵対的な行動が起こされてはならないことを要求する。さらに、エラ全体で財産と人の絶対的に自由な通行が保証されている。ただし、これに関しては植物相または動物相の種子、さらに植物自体、あるいはまた動物相の生命形態がある地域から別の地域に運ばれないように細心の注意が払われている。残念ながら地球では、愚かで無分別なグローバル化によりこれと反対のことが行われ、それにより多くの害が発生しているが、これからさらにいろいろな災いが降りかかるでしょう。また我々のエラでは人と製品に対する領土境界が全然なく、誰でも官吏などにチェックされずに行きたいところにはどこへでも自由に行くことができる。さて、すべてが自由に開かれているにもかかわらず、どの国の領土も固有の領界を有しており、これは全統一的にすべての民族によって尊重されて侵害されることはない。世界政府と言ってもすべての国と民族はそれぞれの風俗習慣に従って自立的に統治しており、世界政府の規則は存在しない。というのは世界政府が存在する唯一の理由は、惑星における平和と自由および立法に関する我々の世界価値システムが、他の惑星の政府と民族との交流に関して維持されるように取り計らうからである。日常と生活に必要なすべてに関する通常立法および特別立法に関して、この立法はすべての国と民族にわたって統一的であり、例外なくすべての人間の絶対的人間性、正義および平等を目指している。そのために世界中で唯一の同文の立法と法律の適用が定められており、すべての人間に対して適用される。それゆえ法律や条例は曲げることができない。これは地球上のすべての国の立法に当てはまり、その一部は例えば拷問や死刑に関するように、重大な人間の犯罪性である。我々の民族間の混合について言うと、ごく稀なケースで異なる民族の成員がお互いに契りを結ぶ場合にそのような形で現れるが、それは実際極めて稀である。通例として、個々の民族とその中で主流な民族集団は自分たちでまとまっており、それゆえ混合することも、彼らの風俗習慣が他の文化の影響によって変わることもない。これはすべての民族集団がそれぞれの健康状態と、それらのすべての特質を維持することに寄与しており、このことは病気があってもごく稀にしか発生しないことに役立っている。この民族非混合は全体としてまた病気や疾病が伝播しないことや、ある民族が他の民族、すなわち他の民族や他の人種に関しても、財産、製品または言語などに関してもなんらかの面倒ごとに陥らないことに寄与している。通常は民族の成員は自分たちでまとまっていて、(非常に稀な混合パートナーシップの場合のごく少数の例外を除いて)民族の混合も生じなければ、他の民族や家族や隣人などとの排外的および人種差別的な衝突も生じない。そしてやはり極めて重要なのは、我々はいかなる宗教や教派も、さまざまな政党や党派も知らないという事実である。すべてのプレヤール・エラ種族は一様に、霊的指導者が教える創造・自然の法則と勧告のみに心を寄せている。最後になお言わなければならない非常に重要なことは、我々のすべての民族では、それらの全文化的振る舞いに応じて、創造・自然の法則と勧告に一致することに関する立法の結果として、売春は存在しないという事実である。民主的な民族表決に関しては、我々の下ではすべてが次のように規制されている。すなわち、すべての民族もしくはそれらの住民が情報技術によって世界政府の中心およびその時々の民族当局と結ばれている。世界政府は一方ではそれ自身で、あるいはまた民族当局もしくは個々人の動議に基づいて動議および審議事項を策定し、これらを全住民の判定および選挙に委ねる。これに関してすべての民族もしくはそれらの住民は、票決もしくは君がいつもいう投票の3時間前に、公共の場所の至るところと住宅に票決作業のために取り付けられている相応の装置の前に、1回もしくは数回の投票のためにある時間滞在することが求められる。票決に付される事案はちょうど3時間後に、住民が投票装置の前で待機しているときに正式に公示される。票決事項の公示(1回に1件のみ扱われる)は、すべての長所だけでなくすべての短所も挙げて詳しく説明する形で行われる。すべての肯定的な事実と否定的な事実が挙げられた後で初めて、提起された票決事項を熟考し熟慮する時間が始まる。そのための時間は約30分に決められており、その間に全住民は彼らの意見もしくはイエスまたはノーを電子的手段で伝えることができる。これは言うまでもなく自動的に登録されて計数される。このようにして集団の影響力を生み出す目的で人々を大勢集めることができなくなっており、したがって投票者は全員自分たちの意見を表明しなければならない。発生するあらゆる種類のすべての選挙事項は、世界政府および民族当局に人を送り込むことも含めてこのように扱われる。さらに言っておかなければならないが、世界政府および当局は民主的な民族代表者にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。これらは法律と条令および種族の決議の遵守に関して、適切に配属された治安部隊と共に総監督を行うが、決して自己決定の権力は持たない。なぜならすべての事案や事柄の決定は、ひとえに惑星または民族の住民の権利だからである。それゆえ世界政府および民族当局は、惑星または民族の住民によって決定されることと異なる行動を決してしてはならない」。ビリー「ということは全体が一種のインターネットをベースにしているのだね?しかし迅速な決断と迅速な行動を要する危機や非常事態が生じた場合はどのようにするのかい?」プター「君の理解に従えば全体をそのように言うことができる。そして危機や非常事態が生じ、それが迅速な決断と迅速な行動を要したら、惑星全体の住民または当該民族のそれぞれ管轄の住民が、全員に向けた動員警報により票決装置に呼ばれる。この場合は活動時間として1時間しか与えられない。規定により各人には意見を表明する権利があり、それらを傾聴ならびに論評して、そこから最終的に論理的な決定を導き出し、そして票決しなければならない。しかしながらそうした状況は極めて稀にしかない。だから、前回そのような動員があったのは20年前にさかのぼる」。ビリー「しかしそのような動員のケースが発生したら、何かが決まるまでかなり時間がかかるのでは?」プター「実際そのようなことは多くの時間を要するが、言ったとおり危機や非常事態は極めて稀なのである」。ビリー「そのような状況では誰が全体を指揮・統率するのかね? また、そのような危機や非常事態は普通どんな種類のものだい?」プター「それらは事柄に精通している霊的指導者によって実施され処理される。惑星に関する事実であれば世界政府および世界住民とも協働で行う。単に国レベルの事案であれば、当該の民族当局とそれぞれの住民に求められる。危機や非常事態について言えば、これらは非常に多種である。例えばある民族またはプレヤール同盟の惑星全体の領域からそのようなことが要求されるならば、秩序の介入に関することがある。また例えば、宇宙からの危機が迫っている場合や自然災害などで、一つの民族、あるいは多くの民族または同盟の惑星全体の広範な支援活動もありうる」。ビリー「そうすると本来エラに関して見れば、エラとその住民に関するよりも国外もしくは他の惑星の状況のほうが多いのだね?」プター「そのとおりだよ。というのもエラでは人の記憶にある限り、自然現象についても住民についても危機や非常事態はもはや記録されていないから」。ビリー「なんと素晴らしい。地球でもそうあって欲しいもの。だが君の言葉から正しく汲み取ったとしたら、少なくともプレヤール同盟の全員が君たちプレヤール人のように高度な発達段階にあるわけではないということになるが、間違っているかね?おそらく同盟にもあまり平和的ではなく問題を起こす民族がいるのではないかい?」プター「君は間違っていない。というのは我々プレヤール人が同盟全体にわたりすべてを平和に保つことに尽力しているが、さまざまな同盟の民族は今なお悲しむべき争い、ひいては武装抗争を好んでいるから。それはごく稀とは言え、ときどき我々の介入を必要とする。しかしながら我々のどんな介入も、何よりもまずプレヤールの全住民の同意によって承認されなければならない。その際に我々の民主的な票決方法が求めるように、賛成と反対について十分検討し比較考量される。これに関する啓蒙活動は専門知識に基づいた霊的指導者と治安部隊が行うが、これらは相応の予見能力を持っており、講じられた措置を原因としてそこからどんな結果が生じるか事前に言うことができる」。ビリー「もし多くの人々が発言したら、混乱は生じないかね?そのうえ全世界の住民がしゃしゃり出ると思うと・・・」。プター「秩序が広く行き渡るように細心の注意が払われており、したがって節度が失われるようなことはない。どんな場合も思慮深く振る舞い発言するので長広舌は生まれない。個々人が何か言いたいことがある場合は、その異論なり寄稿なりが適切で理性に適っていれば中断されることはない。その場合のルールは、異議や説明や提案は短く的確に行い、可能性や必要な行動形態などを挙げること。残念ながら延々と話したがる演説好きもいるが、そのような多弁は中断されて、何か述べることがある次の人に発言権が渡される。複数の人が一緒に話すことは許されないので、これに関して混乱はない。こうして有益で、そして発生する危機または緊急問題に対処できる理性あふれる解決が生まれて票決に達するまでに数時間、それどころか2日間または場合によっては数日かかることがある」。ビリー「我々の下では、話は長いが中身は短いと言う。長々と話しながら全く実のあることを言わないというのは、残念ながら我々の地球でも政治の世界にある。それは我々のグループにおいても繰り返し見られること。我々の下でもすべてが完璧なわけではないから。少なからぬ人間が話したがる。だがその問題が、我々の若干のグループメンバーや政治家や我々、地球上の各民族の人々の間だけでなく、君たちの住民にも見られるというのを聞くのは面白い。ただ私の理解が正しければ、君たちの場合は私が思うに票決や動員や行動に関する話し合いなのであって、そのような場合には機会は演説好きにではなく、理性的な言葉や説明、行動要求や態度にだけ与えられるのでしょう」。プター「そのとおり。どんな長広舌もストップされ、発生する問題はどんな種類のものでも迅速、適切、効率的に処理されて解決に導かれなければならない。君がよく言うように、何事も延期されてはならない。さらに君が言うのは正しく、長い演説はしばしば意味をあまり、あるいは全く生まず、際限のない不毛な議論を招くだけである。それによって、明瞭さと価値ある決定よりもはるかに多くの不明な点が生じる。なぜなら、実効的な解決が見出されないから。適切で正しい決断は、簡潔で的確な、したがって誤解の余地のない明瞭な、理性を伝える言葉によってのみ成立する」。ビリー「私も同じ意見だ。私が正しく理解したとしたら、君たちの民主主義は全体としてスイスのグラールス州とアッペンツェル州にまだある民主的な州民集会に似たものだと理解して良いだろう。しかしながら投票に関して事前にある事案についてプロパガンダもしくは宣伝をしてはならないという点は今言ったスイスの州民集会とは違っている。君たちの場合は集団の影響力が生じることがないように、また君が言ったように人々の糾合が起こり得ないようにするために、選挙事項は選挙の直前に公にされる。そして選挙のための時間が30分しかなく、各人は事実上自分自身と自分の意見にだけ向けられるので、民族全体または党派の選挙運動は起こり得ない。そうすることによって党制度や党独裁も起こり得ないが、それは公正で適切で民主的だと思う」。プター「そのとおり。我々はこのように直接民主主義を運用している。それはあらゆる点で、全惑星の住民が票決により判定し、正しいと見なさなければ、世界政府も国とその民族の当局も何かを自ら決議をして命令を発布してはならないと定めている。すでに説明したように、すべての国々もしくはその住民は、全民族に一様に関係するその他すべての事柄に関しても、惑星全体で有効な統一的立法と決定権限を持っている。ある民族の中で当局が選ばれたら、これはもちろん当該民族もしくはその住民だけに該当するが、票決手順は惑星全体の票決が行われるのと同じである」。ビリー「つまり、民族当局または世界政府に誰が属するかも民族だけが決められるのだね?」プター「実際そうだ。この点でもそのような手順だけが直接民主主義に適っているから」。ビリー「よく分かった。ではもうひとつ、人間のトラウマ経験について質問がある。君の父のスファートがトラウマ経験は遺伝子に影響して、遺伝子を事実上プログラムし、それによってそのような経験が子孫に遺伝すると言ったことがある。これについて何か言ってもらえないかい?」プター「私の父が言ったことは、実際にそのとおり。トラウマ経験は思考と感情、したがってまた心にも負担を与える。これら3つの因子が遺伝子に影響して、君が言うようにプログラムする。この場合、遺伝子に関して次のことが理解されなければならない。すなわち遺伝子はDNS上の一部であり、遺伝子はまとまって一つの単位をなす複数の塩基である。遺伝子はRNSを生成するための基本情報を含んでおり、これはDNSの生成予定部分に相当する。遺伝子はまた髪の色など特定の機能を受け持つので特徴素因と呼ぶこともできる。一個の遺伝子は、まさに遺伝情報を担っているので遺伝要因である。したがって遺伝子の働きによって、いったんその中に保存された情報は世代から世代へと伝えられ、もしくはいったん遺伝子の中に固定された特徴は遺伝によって子孫に発現し、もしくは伝達される。その際にDNSもある役割を果たす。というのは、DNSは本来の遺伝物質だからであり、遺伝子やプラスミドもこの物質から構成されているから。この場合、遺伝子は特定のタンパク分子に対するコードが与えられているDNSの部分である。プラセミドはDNSのセグメントであり、これは環状に閉じており複数の遺伝子を包含できる。さて思考と感情、心と肉体的因子により遺伝子中に沈殿するトラウマ経験および体験の遺伝に関して言うと、これは数多くの世代にわたって遺伝され、長い目で見れば子からその子、さらにその子というように影響を与える。ストレス症候群や恐怖症、さらには習慣や個性、振る舞い方や身体の姿勢および動きなども同様に遺伝による因子であり、悟性や理性や知性もそう。この場合、すべてのものは肯定的なことにおいても否定的なことにおいてもありうる」。第582回会見
2021.03.06
閲覧総数 3127
13

プレヤール人は70歳で結婚適齢期に達する。しかし成人に達するのは平均12歳であるから、このことは彼らが肉体的にみて20歳でまだ結婚できないという意味ではない。にもかかわらず彼らは、普通70歳以前には結婚しない。これはこの年齢に達するまでに多くの職業を学ばなければならず、家庭を持つことが障害になるから。安定した結婚生活をおくり離婚をさけるためには、教育は極めて重要であり、人生体験を身につける必要があるからである。プレヤール人は何事にも煩わせることなく、霊の面でも知能の面でも、また仕事、人生経験の面でもその発達に専心できるように、70歳になるまで性的禁欲生活を送る。その際、性本能に対する自制という要素も重要な意義を持っている。二人の人間が知り合い、お互いに深い感情と愛情を持ち、またそれが育つようであれば、まる2年間、そうした気持ちが依然として持続するか、本物であるかどうか確かめることが認められている。もちろん、希望すればこの期間を延ばすこともできる。もし双方がこの期間を過ぎても自分たちの気持ちが本当であるということの異議がなければ、権威ある専門家によって二人が本当に一緒になるべきかどうか試験される。この試験に合格した後、双方が結婚にあたって支障がなく、深い感情と愛情、好意と愛、子女の育成能力など、必要条件をすべて満たせば結婚する運びとなる。ふつう結婚生活は一生涯続けるものであるが、調査してその一部が誤ったものであったことが明らかになれば、後日もちろん解消することができる。しかしこのようなことは有史以来、一度もないことから、絶対に起こらないと言ってもよかろう。2年間、または何年か延長した結婚準備期間には、お互いに必要とする距離を失わないために、二人が7日ごとに一度だけ数時間会うことができるように定められている。その際二人がどのようにしてデートをするかということは自由であるが、性的行為は厳禁で、許されていない。この掟は実際全員が守っているということを私はたびたび聞いている。そのような行為と関係は、試験に合格し、目的とする結婚が確定し、揺るがないものになったときに初めて許される。試験期間に二人がどうしても週一度以上会わなければならない活動をしている場合、これに対して異議は唱えられない。禁じられているものは、純粋に個人的なデートだけだから。この賢明な規則によって、将来の結婚相手がデートの後、二人で体験したことや会話の中身などについて、1週間たっぷり考える時間が与えられる。この試験期間中に結婚に対して懸念しなければならないような要素が見いだされれば、当然のことながら、当人は賢明にもすべてを中止してあきらめるはず。無論こうしたことが起こるのは、それ以前の試験や助言によっても、結婚の障害が明らかにされなかった場合である。しかし、何事もうまくいって2年間の試験期間が良い結果をもって完了した場合でも、一年間の別離という最後の試験がそれに続く。その間二人はまったく会うことを許されない。双方の気持ちその他について決定的に明らかにするためである。双方の気持ちがその何年かの期間に変化がなければ、二人の結婚に対して何も反対する根拠はない。この最後の試験のために、多くの志願者たちは他の見知らぬ惑星に配置換えさせられたり、故郷を離れて何らかの使命を果たすために宇宙船に乗ったりする。その理由は充分距離をおいて、パートナーの影響を受けず、感情をも含めて徹底的にすべてのことをもう一度考えてみるためである。その後初めて助言者や試験担当者によって決定的な最終試験が行われる。すでに述べたように、プレヤール人の間では離婚は前代未聞のことであるが、離婚を宣言し、実際に別れることも考えられないことではない。しかしこういうことは例外中の例外であり、結婚についての創造の法則と掟が甚だしく侵された場合のみに起こること。彼らは姦通のことを絆の切断と呼び、非常に重要な侵犯とみなす。そして過失を犯したものは、終身追放される。しかし実際には、彼らの進化段階がたいへん進んでいるため、このような過ちが犯されることはない。これにはまた、彼らが創造・自然の掟からみて当然の、男性は多婚、女性は単婚ということを全面的に考慮し、尊重して従っていることも理由の一つである。このことは、地球人がこの創造・自然の法則に適った事実を無視するのと対照的である。プレヤール人が、出身の異なる、または他の惑星の人間や他の人種を愛した場合どうなるか、という疑問が私の関心を引く、それに対してセミヤーゼは、私たちの人種が、他の世界の私たちより霊的(頭脳的)に劣った人種に夢中になり両方が一緒になりたいという場合、私たちの法則によって、この可能性を明らかにする。必要とする様々な前提が満たされれば、結婚することができる。その場合、他の世界の人間が私たちの霊的水準より劣った生活をしていたとしても、実際、問題はない。そのような場合、私たちの科学者が私たちの霊的水準に合わせてそれを発達させる。しかしこのような出来事はほとんど起こっていないと説明した。嫉妬に関しては、プレヤール人の間では今ではまったく問題にならない。過去には彼らもこれに関して学習過程を経て向上し、勉強することによって嫉妬から解放されなければならなかったが、進化の段階が進むにしたがってそれも克服された。このことについてセミヤーゼは、次のように述べた。完全に非物質的な考え方をする人間は、すべてを包括する思考をするため、嫉妬の感情を抱くことがない。嫉妬によってすべてを所有することは気品のないこととみなし、愛情と喜びを公共財産として高揚する。しかし、あくまでも気高い結びつきというものは、双方が規則と掟に従うものである、ということを念頭に置いている。私たちの世界では、二人の人間が結婚によって結ばれるということは、パートナーを所有するということではなく、ただ単に連帯による合体を意味する。その際生まれるのは所有感情ではなく、愛、理解、相手の喜びに対する喜びなのである。それぞれのパートナーは行動、決断などすべてにおいて自由だが、双方の了解のもとにすべてのことが行われる。それは進化の意味において、またあらゆる面で法則と掟を履行すること。これに関して特定の秩序を規定するものが何であるか、お互いの釈明と了解が必要である。プレヤール人の間での結婚は、地球上のそれと同じように運ばれるわけではない。結婚の契りを結ぶのに必要な試験が行われることは先に述べたが、その後は厳守し実行されなければならないという戸籍法上やイデオロギーの、あるいは官庁における経過措置は何もない。ただ一つ、各人の登録が義務づけられており、当然ながらそれは子孫にも適用される。その際戸籍上の身分や住所、生年月日、特技または職業上の技術など一般的な必要データが登録される。これらすべてのデータは住民調査などの目的だけに使われ、何らかの否定的な用途に使われることはないので、地球上で必要に迫られ実施されているようなデータ保護は必要としない。またここでは、地球上では残念ながらますます増えつつある個人の全体主義的コントロールの危険もない。プレヤール人の間では、個人の自由がたいへん大切にされ、高く評価されている。誰一人として自由が束縛され支配下に置かれることはない。この自由こそ、婚姻契約にあたって適用されるもの。このことについて一度、公式にプターに質問したところ、次のような答えが返ってきた。「・・・・・・我々の世界における結婚までの過程は、まずそのような結びつきに先立って2年間の試験期間が持たれるが、その間愛情などを試すために将来パートナーとなる二人は遠く離れて生活する。その後二人は自由意思に基づく様々な試験や究明によってあらゆる面での結婚適性を試される。言うまでもなく、子孫をもうけ養育する能力などの要素もそれに含まれる。結婚のほとんどすべての領域にわたるこの試験は、権威ある賢者や霊的指導者によって行われ、試験を受ける者は自由意思のもとにそれに臨む。そして実際に結婚適性が証明されれば、愛する二人は自由な結婚の形態のもとに結ばれる。これは両人が公式の規定や束縛もなく、また必要としない、自由な形で結ばれることを意味する。公的な形をとった束縛は避けることのできない強制に等しく、ある意味で官制の規定などから成立しているので、そのような形の婚姻契約は好ましくなく、非常に多くの問題を伴う。これは我々の祖先が身をもって体験したこと。そのため、官命の結婚がもたらす多くの弊害を避けるための活路を、現在私たちが実践し、好結果をあげている自由結婚に求めた。官命の結婚で見られた様々な古い悪弊は、時として非常に悪質な侵略や殺人にさえ発展することがあったが、それももう除去され、まったく見られなくなった。しかし、それは意見の相違がまったくなかったというわけではない。ただずっと昔、官命の結婚が規則として存在していたころのように、無軌道な逸脱がなくなったということ。自由結婚と自由な婚姻契約は多くの利点をもたらすが、なかでも二人のパートナーが、公の義務に対してお互いに強制・束縛感を抱かないことがあげられる。つまり、公の義務などがあったため、結婚のパートナーは自由結婚の場合のような自由さを感じなかったわけである。自由でないということは、自分で決断し、行動する自由が奪われるため、往々にして解決しがたい多くの問題を引き起こすことになる。例えば、結婚がうまくいかず、別れる必要がある場合にも、お互いが当局の規則に拘束され、自分たちの意思で別れることができない。自由結婚においては、自分たちの婚姻契約に関してパートナーは、すべての事柄を自らの自由意思にしたがって決定する。これによってお互いの連帯感もパートナーに対する責任感も強固なものとなる。これで、説明は充分でしょう」。プレヤール人の性と子孫に対する態度を考察するとき、残念ながら地球人類がこの面でまったく低級としかたとえようのない、創造と自然に著しく反する見解や行為、概念が主流をなしていることを痛感させられる。多くの地球人類は、間違った、そして多くの場合、伝統に則った教育方法のため、このテーマに関してまったく誤解をしており、このうえなく損なわれた関係にある。そのためプレヤール人がこれの問題についてどのように考えているかを紹介するのは、特に興味あることでしょう。まず述べておかなければならないのは、この問題に関して彼らは、全宇宙を通じて適用される創造・自然の掟に沿って行動しているということ。彼らが肉体的に成熟するのは11.5歳であるが、性的に成熟し生殖能力が具わるのはだいたい12歳とされている。しかし生殖能力を発揮するまでには約60年の歳月を要する。それは彼らが、早くても70歳まで結婚をしないからである。この慣例は一貫して守られている。この年齢までの長期間にわたる成長過程を最も理想的に増進するために、性的抑制が実行されるが、その場合、他の人たちとの有意義な話し合いがなされる。この抑制は異性との性的結合における意味であるが、だからとって男性同士の間で同性愛が行われるという意味ではない。同性愛はプレヤール人の間では太古の昔から存在しない。同性愛というのは遺伝子に関連する事柄であり、しかるべき遺伝子操作によってそれは全滅した。同性愛は自然の仕業による異常であって、忌まわしいなどということではない。多くの地球人は同性愛を忌まわしいものとして彼らをからかい、罵り、傷つけるのは残念なこと。そのような態度自体が地球人類の特に非難すべき特性でもある。そういうわけで、プレヤール人の間では、両性的意味での性的抑制が70歳ごろまで行われる。両性的意味での性的抑制とは、男性と女性の間での性 行為に対する抑制状態である。その他の意味での抑制は要求されず、自慰(オ ナ ニ ー/マスター ベーション)は許されており、また行われてもいるでしょう。それはキリスト教徒の間で主張され、喧伝されているように決して非難すべきものでもなければ、罪悪でも創造・自然に反するものでもない。彼らの性 行為と子孫の関連性を検討するにあたって、彼らの場合は何事もまったく自然に運ばれているということを見逃すわけにはいかない。それはセミヤーゼの次の説明にも現れている。「地球人類やその他のすべての宇宙に存在する、物質形態をもった生命体と同じように、私たちは子孫を自然な方法で生む。それ以外の子孫繁栄の方法はない。ただ例外は特別な状況下における霊的な繁殖であるが、これは極めてまれな出来事であるといわなければならない。また、人工的な形の受精もそうであり、多くの種族存続という特別な場合にだけ行われる。全般的にみて子孫の繁栄は通常の性 行為を通じて行われるが、それはこの形態が自然に適ったものであり、創造の法則と掟に則ったものである。そして、もっぱら定められた道であるこの形態の厳守のみが、生命体の存在と霊的(意識的)進化を保証する。霊的および人工的な繁殖は危険をはらんでいる。そのようにして生まれた子孫には、必ず潜在的突然変異が見られ、それが徐々に全生物体に受け継がれて身体的、霊的病変を引き起こし、抵抗力や正常な思考を喪失させるのである。そのようにして霊的および人工的な受精は、時がたつにつれて必然的に頭脳的、身体的な退化を招く」。性的なことに関して地球人類は、残念ながら多くの場合、間違った方向に導かれ、イデオロギーによる誤った教えを受けてきた。しかし性的結合、つまり夫と妻の性 行為が子孫の繁殖だけのためでなく、精神の安定と調和を保つものであるという事実を受け入れ認める用意があれば、これらすべての迷いと虚偽から逃れることができる。この目的のために性 行為は許されているだけでなく、実際に必要であるが、それだからといって姦通や売 春などを行っても良いというわけではない。したがってこの真理を間違って解釈したり、故意に歪めたり、制御のきかない身勝手などで節度を失ったりすることなく、ここでも規則と秩序を守り、無軌道にならないようにするべきである。プレヤール人の前提に従うと、惑星エラでは一夫婦につき3人の子供が最高限度である(惑星上での生活可能な人口。この数字は地球にもあてはまる)。これによって惑星の人口を支えることができ、養うことのできる状態に保たれるわけである。一世帯子供3人に止めることによって、場合によっては起こりかねない人口過剰を大事に至らないうちに防止することができるわけである。彼らの間では、出産は母子の健康のため、鎮痛剤はまったく用いられないごく自然な形で行われるとのこと。そのような自然出産は身体的にも、また意識面にも大きな利点を持つものであり、産婦は陣痛をただ耐え、叫んだりしない。人為的方法で介入することもない。一般に出産は家庭で行われ、夫の他の妻たちが介助する。出産は斜めに寝ころんだ姿勢で行われ、産婦はやわらかいものを歯で噛み、陣痛時の悲鳴を抑える。死は人間の生涯のうちでも大きな意味を持っている。そこで私はプレヤール人の死者の埋葬について訊いた。セミヤーゼはそれに快く応じ、次のような回答をくれた。「地球上と同じように私たちの間でも土葬が知られ、また実際に行われている。このため住宅地帯から離れた場所に、特別な保存施設を設けている。ごく稀なケースとしては、希望があれば昔からの火葬も行われる。遺体を消去することも、土葬とならんで一般に行われる。個人的な希望に従って埋葬の形式を選ぶことができる。しかし、土葬は原始の昔から行われている自然な方法である。消去や火葬によって、ある一定期間、死体の中に残っている精神的影響力が当然消失するのだが、それを除けば、消去することも別に差し支えない。精神的影響力は数百年も継続し、骨格が存続する限り消えないものである」。往々にして、地球外知的生命は超越的な生物であると主張されたり、またそう見なされたりしていることは残念なこと。彼らは決して間違いを犯すことがなく、そのため法律や掟、規則、規定や規程、条令や要綱などを必要としないという。これは大きな間違いであり、イデオロギーによって作り上げられた愚かな主張に他ならない。創造の秩序や法則、掟がまったく当然なことになっているところには、必ず法則と掟が存在するというのが真実である。人間の形態を持つ生命体が、まだ物質状の肉体を必要とするところではすべてこれが当てはまる。総合的に高度に進化した人間的生命体でさえも物質的肉体を必要とする限り、規則、掟、指示、条令や要綱などを持つことを免れない。そして、たとえ人間が物質的肉体を喪失し、純粋な霊形態になったとしても、法則や掟に従うことは避けられない。唯一の間違いはそれがもはや人間によるものではなく、創造によるものであるということ。それは特に、肉体を有するすべての生命体が、多くの誤りから逃れられないということを意味し、それゆえに、進化の程度に応じた法則と掟が絶対に必要であり、不可避でもあるということである。また、物質からなる肉体が過去のものとなってしまってからも、この必要性は続く。そういうわけで、すでに高度に進化したプレヤール人も法則と掟などがなくてはやっていけず、事実上犯罪行為がなくなったにもかかわらず、その必要性は依然として変わらない。彼らも間違いを行さないとはいえず、何らかの理由で突然犯罪が起こる可能性もありうるわけである。まさにこのために、しかるべき秩序刑が、単なる防止措置とはいえ存在する。もし誰かが罪を犯した場合、その違反行為または犯罪の程度によって罰せられることになっている。犯された過ちは常にはっきりと指摘し、もみ消したりしない。それは過ちを犯した者が自分の行いを認めるということでもある。プレヤール人の明確な論理によれば、地球上では日常茶飯事の間違いを取り繕うということは無意味だから。まず、第一に過ちを犯すということは進歩に必要な一つのプロセスであり、欠くことのできない要素なのである。なぜなら過失を認め、それを改めることを通じて人は学ぶから。そのようにして過ちとその原因は進化の要素となり、それは時がたつに連れて取り除かれ、正しい行動へと導かれる。そしてまったく同じ過ちを、まったく同じ形で繰り返すことはなくなる。プレヤールの法律は、彼らの霊的(頭脳的)レベルにふさわしく、人道的である。拷問や死刑を考えただけでも、多くの地球上の法律を誇りにすることはできないのが事実である。したがってプレヤールでは、犯罪者が何らかの拷問を通じて、肉体的または精神的な害を加えられることはなく、ましてや刑罰として命を奪われるということは決して起こらない。犯罪行為の程度によって、犯人は遠く離れた寂しい島か、特別にそのために選ばれた惑星に追放される。重罪の場合は終身追放である。その際、そのような目的のための土地には、法律の規定によって絶対に男女が一緒に流刑にされることはない。そのため、男性だけまたは女性だけの、別々の特別な、場所が選ばれる。それらの場所ではどこでも同じ法律が適用される。それによると、囚人は刑地では完全に孤立しており、額に汗して日々の糧を稼がなければならない。作業機械や工具などは与えられず、新しい生活を始めるのに必要な最低限の物しか与えられないため、道具類は自分たちで作らなければならない。彼らにはまた機械やそれに類したものを作ることを許されず、逃亡の機会を与えないため定期的な監視が行われる。そのときもしも、作業負担を軽減する道具や逃走のための器具などを秘かに作っていれば、容赦なく没収されてしまう。また罪人が他の人間、特に罪人以外の人間と接触しないよう、仲間たちだけでいるよう注意が払われている。プレヤール人は次のように言明している。この処罰形式によって、秩序維持のための最大の安全が保障され、また他方では、罪人が一般人に負担をかけることを防いでいる。そのうえこのような処罰は非常に人道的であり、また目的に適っており、終身刑の、あるいは短期刑の者も刑期中の進化が妨げられることはない(研究と学習に必要な資料はそれぞれに応じて、管理スタッフからすべて与えられる)。宇宙全体を見渡したとき、病気はすべての物質的な惑星上に多かれ少なかれ存在し、それから免れる生命体はない。病気の多くの場合避けることのできない現象であるが、それは突然変異を確かなものとし、ひいては生命体の進化的変化において、生存能力と抵抗力をもったものにする。病気と突然変異はある意味では肩を並べている。ある種の病気を通じて突然変異による抵抗が生まれ、それが生活環境を向上させ、肉体的・有機的な進歩発展を促す。ある種の病気は、異変的に一種の抵抗力を生むために、生命体は生存能力が高められることから、病気と突然変異は密接に結びついている。しかしこれは、すべての病気に当てはまるわけではない。なぜなら一部の病気は間違った生活の仕方を通じて生命体自身によって引き起こされ、破壊的、破滅的な結果をもたらす。このような病気は、間違った生活の均衡をとる調節メカニズムということもできる。言いかえると間違って生活した結果であり、必然的な現象である。さらに注目されなければならないのは、異なった生命形態がお互いに混ざって一緒に生活することによって起こる病気である。この例としては人間と動物の関係があげられる。一方では異なった種類ごとに小屋や檻に押し込めて飼っていながら、他方では人間が住む住居で同居し、しかも人間同様の扱いをしている。このような要因を通じて多くの病気や伝染病が発生しているが、これは突然変異・進化には無関係で、単なる無分別と創造・自然の法則と掟の無視によるものである。動物と同じ屋根の下で一緒に生活することによって、また動物を人間と同格視して扱うことを通じて、動物と人間のバクテリアとウイルスがお互いに交ざって致命的な病原菌が突然変異的に発生し、多くの伝染病や病気を引き起こす。まさにこの点、地球人は無分別、いや犯罪的な行動をとっているといえる。特に良くないことは、口づけをしたり舐めさせたり、同じベッドに寝たり、あるいは人間と同じ皿から食べさせたり、また獣 姦、つまり動物との性 行為をすること(プレヤール人の語るところによると、エイズは若いオオナガザルとの獣 姦を通じて起こったものであるという)。以上の説明でもわかるとおり、非常に多くの病気や伝染病は、人間の無分別、間違った生活、知ったかぶりなどが原因である。そのような理由から、プレヤール人の間では動物は決して人間の住居内で飼わず、また人間の伴侶として扱わないということは、覆すことのできない掟である。また動物を愛撫することや人間化することもタブーとされている。その結果、動物に起因する病気や伝染病が人間の間で発生することも、またその反対のケースもなくなり、それを通じて新しい病気や伝染病などの発生を防ぐことができる。この事実はプレヤール人種や民族、またすべての同盟の人民たちの間で病気や伝染病を閉め出すのに役立っているが、それは言うまでもなく、医学も大きな貢献をしている。このことは他の惑星においても、例えば地球の場合のように多くの病気や伝染病、そして身体的変形などの発生を見なくてもすむ、ということを明らかにしている。人間の形態を持つ生命体の分別によって、この災厄はコントロールされ、回避できるのである。その良い例がプレヤール人で、ほとんどすべての病気と伝染病を克服し、残っているのは純粋に肉体的なごくわずかな頭痛や、視力衰弱などだけであるが、これらも対策が講じられており、問題となるほどのものでもない。健康に関してのやっかいな問題が起こるのは、彼らが別の惑星に行ったときに、彼らの身体が抵抗できない場合である。数年前に風邪に罹ったことがあるが、しかしこの問題も過去のものとなった。プレヤール人の間でもスポーツが行われ、また競技会などが催される。しかし彼らにとってスポーツは、ここ地球上とはまた違った意味を持っている。職業としてのスポーツはタブーで、許可されておらず、またすべての過激なスポーツについても同様である。スポーツの業績として認められるものはすべて自然の範囲内のものであって、日常の活動と並行して行うことができるものである。そのため例えばスポーツ競技では、すべての参加者が平等に勝つチャンスが与えられているわけである。地球上において、精神病者や意識障害者たちが、知名度やイメージ向上のため、あるいは危険中毒などのために行う、生命にリスクをもたらすようなスポーツ種目は避けられている。また、生命に対して最低限の敬意と畏敬すら払う能力のない者たちがするような、自己確認の目的だけのために、また単にスリルを味わうために行われるスポーツもすべて敬遠される。すべての生命形態の命を、最高に高く尊いものと認めるプレヤールでは、地球とはまったく異なっており、極端で病的なスポーツや凶悪で犯罪的な戦争などの行為を通じて、自分たちだけでなく他の生命を危険にさらすことを避ける。そもそも生命ほど尊いものはなく、それは最も卑劣で腐敗し、また愚かな人生観や意見をもってしても変わらないこと。そしてこれはプレヤール人や彼らの同盟の人たちだけでなく私自身の観点でもあり、また健全かつ正常に生活の価値と意味について考えることができる人たちすべての意見であることは間違いない。いうまでもなく、プレヤールにも音楽家、歌手、画家、彫刻家など、あらゆる分野の芸術家がいる。彼らは一般大衆から尊敬され、高い位置におかれているが、ここ地球上でのように天高く褒めそやされたり、賛美されたり、崇拝されたりすることはない。当然、個人崇拝の的になることもない。彼らの才能は認められ、尊敬されるが、ただそれだけのこと。芸術家という職業も別に特殊なものではなく、才能もただ単に才能であり、価値を認められてもそのためにその人がより尊敬されたり、並外れた関心の的になったりしない。芸術家自身も謙虚で、自分自身を特別な者と思わないし、そのうえ他の人間とまったく同じように毎日2時間ずつ公益のため、全惑星の共同体のために働く。さらにプレヤールには金融制度が存在しないため、あくどい商売も行われない。芸術家は全員純粋な理想主義者であり、ただ内なる要求に従って働き、しかもすべて余暇を利用しての活動である。演奏、歌など彼らの活躍は巨大な画面を通じて各家庭で放映され、また展覧会やコンサートなどもそれ専用の建物の中で催される。プレヤール人の間に存在する本当の絵画はただ一つ、写実的なものだけである。私が知っているプレヤール人の共通意見によれば、真の絵画というものは、存在するすべてのものを写実的に自らの手で再現すること。アルブレヒト・デューラー、ミケランジェロ、アンカーなどの作品がそのよい例である。それに加えて未来派的、また幻想的なデッサンや絵画もあげられるが、それらも物体を写実的に描写したものである。各民族は、私たちも一部知っているような油絵や水彩画など、独自の画法を持っている。またプレヤール人は驚くべき立体効果を持つ画法をも心得ている。極めて特別な色彩の混合と画法を通じて、それらの絵画はまるで本物のような立体感を表現している。プレヤール人の間では自分の手で、自然を忠実に再現したものだけが芸術として認められる。絵画だけでなくその他すべて、写実的でないものは芸術家として認められない。非写実的に何らかの物体を表現した絵画や彫刻などは、気が狂った人間の混乱した頭の産物とみなされる。彼らは現実との結びつきがなく、そのため事実を認めてそれと共に生活することができないから。写真も人間の手で作り出されたものではなく、機械、機具の助けを借りて作られたものであるから、芸術には属さない。本物の芸術は誰にでもできるというものではない。芸術的な手法を用いた絵画や一部のグラフィック作品などとは反対に、壁に二つ三つのしみを付けたり、紙にインクを撥ねかけたりすることは猿でもできることで、それは実際に芸術とはみなされない。それゆえ、本当に価値のある描写的な作品でない、まったく非自然的な地球上の絵画はタブーである。プレヤール人にとって音楽という芸術部門は、精神の高揚と平衡をもたらすうえで極めて価値の高いものである。それは完全に調和的でなければならない。音響の物理的法則は全宇宙に共通であるが、調和のとれた響きや音を発する楽器は、リズムやメロディーと同じく惑星ごとに異なり、種類も様々である。地球外知的生命の音楽は非常に種類が多く、地球の人間には耳慣れないものである。特にプレヤール人の音楽は発達しており、響きが美しくうっとりとするもので、地球人は長い時間聞くのに耐えられない。その完全な調和は果てしなく広がり、そのため地球人は満たすことのできない渇望に陥り、一種の中毒状態が起こるから。このような理由から私が惑星エラや宇宙船を訪問した際、レコーダーなどに音楽を録音して地球に持ち帰ることが許されなかった。私が思い当たる地球上の音楽または曲の一部で、プレヤールの音楽の響きと似ているものに、モーリス・ラヴェル作曲の「ボレロ」、リヒァルト・ワーグナー作曲のオペラ「ワルキューレ」(四部作のオペラ「ニーベルングの指輪」の第二部)とジュゼッペ・ヴェルデイ作曲のオペラ「ナブッコ」の三曲がある。プレヤールには音楽大学以外にも、異なる名称で呼ばれるそれぞれに応じた芸術大学がある。しかし、これらの大学に行くのは本当に才能を持つ希望者だけで、卒業後彼らは全人類の幸せのために働く。そのため、地球上で残念ながら頻繁に起こっているように、才能のない演奏家が多くの不協和な演奏を聴衆の前で披瀝し、その堕落した演奏に聴衆が喚声をあげたりすることはない。これら地球の演奏者は楽器のことについても歌についても何も知らず、ただまったく調子はずれの金切り声を出し、がなりたてているだけである。プレヤール民族は、彼らの音楽を常にその進化、認識、分別、そしてそこから発する感情と思考、道徳、意識、個性に従って作曲し、創作する。確かにこの観点において、素晴らしい平衡と均衡がみられることから、音楽もそのように構成されている。まさにこの点において驚き、確認させられることは、多くの場合、地球人の間で音楽と称するものは実際、音楽とは何の関係もない、作られた騒音であるということ。それは楽譜らしきものに束縛された不協和音であり、精神や意識を傷つけ、破壊する。これによって彼ら自身も不調和に反応し始め、聴衆は抑えが利かないほど興奮する。この音楽と称するものはそれを創作し、またそれらを聞く者の鏡像以外の何ものでもない。彼らの精神や思考の世界、健全な人生観は損なわれ破壊されている。そのような人間は進化が驚くばかりに停滞し、人生に対して否定的であり、また生活不能者であるばかりでなく、集団的に破壊の道をたどる。これら地球独特の、彼らが音楽と称するものは、地球上の本当に良い音楽とは何ら共通点を持たない。プレヤール人によると、これは最悪の破壊的力を持つ不調和な金切り声に他ならず、悪質な人間蔑視、創造蔑視であるばかりでなく、破壊の意図を持ち、人権と生命権を無視するものである。これらは調和的で精神的にも知能的にも前向きの本当に良い音楽とは正反対である。本当に良い音楽は進化に好影響を及ぼし、生命を肯定し、人間やその他の生命体に対する尊敬の念を高めさせ、生命を形成する創造・自然の法則と掟に従うことを促すものである。(ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー類は友を呼ぶの原理は、調和したパートナーシップを生み出すが、しかしこの原理も、ときどき意見の相違が生じ、ときには激しく口論することを防ぐものではない。しかしたとえ争いが生じたとしても、これは崩壊や、相手に対する軽視および無礼を意味するものではない。なぜならば、そのような争いのゆえに互いの関係や結びつき、さらに愛は新鮮かつ誠実であり続け、憎悪や嫉妬も、復讐や侮蔑や報復の考えも現れることはない。これはカップルが、両極は互いに引き合うという趣旨や、金銭、能力、美貌、性生活、職業、社会的名声または相手の偶像化などと言った、取るに足らない理由で一緒になる場合と全く逆である。類は友を呼ぶの原理に従って一緒になったカップルは、通常は敵意や悪意を抱いて争うことなく、建設的な形で争う。つまり、事柄や対象そのものについて争い、あるいは意見の相違などを徹底的に論議する。不信感、不誠実、根拠のない概念、非難、その他の攻撃などはタブーであって、パートナーシップの良い関係と結びつきに入り込む余地はほとんどない。また敵意を抱いたり、疲労困憊していることを口実にしたり、逆上したりすることもない。良好で誠実なパートナーシップは、決定的な相互信頼、つまり信頼し合っていること、いろいろな事柄や要件でほぼ同じであること、誠実さ、互いに対する真の好意と愛、お互いに対する何らかの興味と喜び、相互の協調性、調和と自由、そして互いに対する良好で健全な感情移入能力などに基づいて構成される。しかしこうしたすべてのことが実際に生まれ充足され得るのは、古くから伝わる諺であり原理でもある類は友を呼ぶに完全に従い、多くの事柄や関係で共通のある人間が一緒になる場合のみである。これとは逆に対立する者たちは、事柄や対象のことで争ったり、意見の違いを徹底的に議論したりすることなく、互いの攻撃から始め、名誉や人格、性格や意見などを攻撃し、傷つけ、侮辱し合う。誠に建設的な争いは、ひとえに事柄や対象に関するものであって、パートナーを貶めたり、傷つけたりするような形態に関するものではない。というのも、ある人間が他の人間を何らかの仕方で傷つけると、争いの対象も、争いの本来の目標も、そしてまた追及された解決策も失われるから。さらに個人攻撃や、そこから生まれる侮辱および中傷によって、パートナーは防御の姿勢を取り、それがさらに互いの攻撃や罵りにつながる。その結果、最後には互いに激怒し、相手より上位に立とうとして大声で叫んだりわめいたりして、ますます自制が効かなくなり、憎悪、嫉妬、復讐、報復、殺人や殺掠、あるいは少なくとも長期にわたる喧嘩や憤激、あるいは別離や離婚に至ることがある。それゆえいかなる場合も争いや意見の相違は、常に事柄か対象に関わり、したがって建設的でなければならず、人格攻撃などを行ってはならない。そうしてのみ侮辱や中傷が生じることはなく、いずれのパートナーも体面を失わないことが保証される。しかしそのように機能し得るためにはいかなる場合も、互いの尊重、尊敬心、そしてパートナー相互間の必要な距離を維持するという主要な規則が守られなければならない。まさにこの3つの価値は、良好で誠実で、愛情に満ち、幸福で自由で、穏やかな調和の取れた関係と結びつきにとって決定的に重要である。人間が自分自身や自分のパートナーを尊重し、尊敬し、そしてお互いに必要な距離を保つならば、そのとき人間は正しく、公正で責任ある振る舞いをする。そしてこれらの価値こそが、健康で進歩的で、それゆえ絶えず拡大して強固になると共に内面化していく関係と結びつきの基本前提なのである。しかしまたこれは、決定は互いを結びつける対話を通して共同で下し、権威および責任を分割すると共に共同で引き受けることをも意味する。したがって良いパートナーシップとは、ビジネス上の良い関係がおよそあり得たかもしれないものをはるかに超えている。良いパートナーの関係は、互いの喜びと義務の形でも、また信頼、愛、平等および同権などに関しても、各々が持続的な作用と相互関係において何かを与え、そしてまた何かを受け取ることを、それ自身のうちに含んでいる。この場合、このギブ・アンド・テイクの間に、そしてまた個人の自由に関しても、常にバランスが取れていることが必要である。が、それが可能なのは、このことに対する必要な理解が全体を貫いている場合のみである。これは愛において、またいつでも現れる事柄において互いを思いやることも含まれる。もしこれらの前提がないならば、パートナーシップは単なるコストパフォーマンスの計算、したがって利害関係以外の何ものでもなく、それは最終的に無に帰して、関係の終焉に至る。パートナーシップにおけるギブ・アンド・テイクが、常にバランスの要因でなければならない。しかしひとたびこのバランスが動揺すると、パートナーの関係における摩擦、さらには破壊が不可避である。なぜならば、ひたすら与えなければならない立場になろうという者はいないから。この場合、どのように与えるかは問題にならない。妥協することは許されようが、その比率は常にバランスが取れていなければならない。これに関する問題やその他の問題を回避しようとするならば、それはたった一つの道しかない。それは、いかなる場合もお互いコミュニケーションと必要な相互理解を通る道である。語り合うこと、すなわちコミュニケーションは、パートナーシップが良好なものであり、またそうあり続けることを願うならば、あらゆるパートナーシップの中心をなす。そしてこれはあらゆる形態の良好で安定したパートナーシップに当てはまる。しかし節度を失い、傷つけ、そして理性的なコミュニケーションに手を貸さない非建設的で深刻な争いは、さまざまな問題や摩擦、さらには別離、破壊および離婚を招く。互いに耳を傾け、語り合い、互いに同意することは、何らかの関係や結びつきにおいて極めて重要である。なぜならば、これらの要因はパートナーシップを相互に強化し、思考と感情を自由にし、そして互いに必要な理解が生まれて、男女いずれのパートナーも自分の問題を抱えて孤立しているのではないということを認識させるからである。各々のパートナーが自分の問題を相手と分かち合う。これはパートナーシップにおいて存在し得る最大の肯定的な価値の一つである。相手に何か伝えようと紙片に書きつけた情報でさえも、その内容が重要であろうとなかろうと、大きな意味を持っている。なぜならば、そのような行為は連帯性の懸念も、そしてそこから生じる同種性の感情、さらにはこれに関する心の躍動をも促すから。このような行為はまた、親近性、親密性および専有性、そして口頭でのコミュニケーションを成立させる。この場合、専有性は、互いに結び合ったこの2人の人間だけが、まさにその共存と連帯においてそうした行為をなしていることを示唆する。それによって強さと、本当の連帯性が成立しているという確信が生まれる。しかしこのための根本前提は、互いにパートナーが何を欲しているかを知ることである。しかしこれは、良いパートナーシップにおいて2人とも、相手がどんな不安、恐怖、嗜好および喜びなどを持っているかを正確に知らなければならないということを意味する。パートナーについて正確に知ることを要求するのは敬意と尊敬心のみである。さらに極めて重要なのは、共通点が存在し、構築され、そして遂行されること。それらの共通点は双方のパートナーにとって好都合であれば、どのような形のものでも良く、またいかなる制限も受けない。このような共通点によって信頼と連帯性の感情、そして必要な互いの親近性が生み出される。しかしこの親近性においては、互いを敬愛する健全な距離が保たれており、いずれのパートナーも相手に近づきすぎて、意識するとしないとに関わらず、相手を傷つけたり押しのけたりすることではない。同じく重要なのは、いずれのパートナーも備えていなければならない心の余裕である。というのは、パートナーシップの枠内であっても自由がなければならず、不信感、悪意、嫉妬心、猜疑心、不安感などが現れて自由闊達さを妨げたり、制限したりしてはならないから。実際、良好にして堅固で安定した持続的な関係と結びつきもしくはパートナーシップは、それぞれ相手に必要な自由を認めるものであり、嫉妬心や不信感に駆られて質問や調査などをやって、相手に難癖をつけてはならない。誠実には誠実を、信頼には信頼を、忠実には忠実を、が原則である。一緒に同じことについて語り、共に泣き、悲しみ、または笑えること、それがあらゆるパートナーシップにおける関係の絆を強くする。良いパートナーの関係性においては、互いの面白がる気持ちや、性生活に関する充足と喜びも必要である。しかし性生活において手菅や頻度などの点で決して相手に過度な要求をしてはならない。さもないと亀裂が生じ、そこから不愉快な衝突やもっと悪い事態に発展しかねない。それゆえ性生活は過度に求めることも、軽視することも許されず、あるいは習慣やルーチンワークにされてはならず、また常軌を逸して嫌悪を生むような手菅に堕落してはならない。パートナー間の健全な性生活で大切なのは、これに関してパートナーがそれぞれ自分の適切な願望を表明し、また考慮して、何らかの形でお互いに相手を不安にしたり、傷つけたりしないこと。こうして恋愛生活およびこれと結びついたコミュニケーションがうまくいくならば、愛と喜びと幸福感が保証される。だが、性生活が単なるルーチンワーク、快楽、さらにはビジネスや強要行為に変質すると、いろいろな問題や不愉快なこと、憎しみや怒り、憎悪の念などが生じることは避けられない。良好にして堅固で安定して機能するすべての関係にとって、セックスは極めて有意義で重要であるが、それは願望に応じて遂行される限りにおいてである。セックスにおいていつも自分を抑制せず、貪欲で、粗野で、変態的であるならば、長い間にはエロティックでなくなるだけでなく、やがて嫌悪と吐き気を催させる。それゆえ恋愛生活においてはパートナーとの肉体的な結びつきとともに、思考および感情の結びつきも創り出すために、適当な制御を行わなければならない。相手にいつも最良の面だけ見せるというのは、人間にとってそれほど容易なことではないでしょう。無関心であるのも、最終的にはあらゆる関係を壊してしまうから適切ではないが、単なる性の営みはいかなる結合的な関係も成長させることはない。良好、堅固で安定した持続的なパートナーシップにあって繰り返し考慮、熟慮しなければならないのは、相手の側に立つことであり、これは関係や結びつきにおいて非常に重要な意味を持つ。したがって、パートナーシップが常に引き続き協調的で肯定的に推移し、その結びつきの価値が絶えず拡大するようにパートナーシップを構築すべく相応の努力を払わなければならない。これは関係と結びつきを維持し、絶えず手を加え、改善し、成長させていくために、すべてのパートナーが繰り返し根本的に認識しなければならない。もう一つの重要なポイントである。そしてまさにこれは地球の人間にとって容易ではなく、それを悟性と理性および経験と体験によって、さらに理解と意欲によって自ら体得しなければならない。そして人間はそうする場合のみ、そこからパートナーシップによる愛と幸福、平和と協調が生じ、さらにそこから生まれるすべての価値が帰結する。重要な意義あることを述べると、将来、地球上における疾病や疫病に関して、非常に多くの否定的なことが起こるでしょう。そのため、各個人は病気に罹っているかどうかわからない人間との身体的接触を避け、特別に注意深く衛生に気を配らなければならない。まったく危険のない病気や感染も、より重症の病気や、それどころか後には不治の病気につながることもあるので、このことに関しては特別な注意が必要である。動物に触ったり、動物との身体的接触も同様である。この場合、人間に感染する可能性のある疾病やその危険は、特に動物性の食料を食べるとか、動物の排泄物、例えば糞、唾液、血液、毛などを通じてウイルスやバクテリアを移され、致死性の疾病や疫病が起こることがある。この理由だけでも、絶対に人間の住居で動物を飼ったり、たとえ短期間でも立ち入りを許すべきでないことがわかる。(ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー〇プターの言葉マヤ暦では2012年12月21日に太陽の位置が頂点に達するが、それはおよそ26000年の周期でしか起こらない。マヤの計算が前提としているのは、2012年12月21日に地球は、オリオン座の左側の上方にある星と、中心太陽もしくは銀河の中心とを結ぶ仮想線上に位置するということ。太陽は、地球人が銀河の暗黒の隙間と呼ぶ、星間塵によって形成された場所で銀河と出会う。2012年12月21日、冬至の薄明の時刻に太陽はちょうどこの隙間の中にあって、銀河が水平線を完全に包囲するような位置にある。それによって銀河が周囲すべての点で地球に接し、銀河系が地球の真上にあるかのような錯覚を引き起こす。これが大体においてマヤ暦の記録の最終生成物である。最初に言っておくと、地球の科学者は太陽の寿命についてとんでもない思い違いをしている。太陽は死につつある天体であり、実際の余命は状況次第で15億年ないし25億年にすぎないから。さらに言っておくが、この天体は数年前から弱い活動期に入っており、2010年3月に見られたように、時々活発になるにとどまっている。太陽の活動はほぼ11年周期で起こるが、これはまた磁場と関連している。磁場は太陽の内部から押し出るエネルギーが拡散するのを妨げている。しかしこの他にもなおすべての現象過程を規定する要因は多数存在する。そこにおいて地球の科学者にはまだ謎に満ちた暗色の物質は大きな役割を果たしている。とりわけ太陽の高温エネルギーの輸送に関してそうである。なぜなら暗色の物質の影響なしには輸送は不可能であろうから。およそ摂氏6,000度の太陽の表面は、天体内部からの熱エネルギーによって摂氏百万度まで熱せられる。ところが暗色の太陽黒点は摂氏4,000度ほどしかなく、トンネル状もしくは漏斗状に深さ1,700kmの太陽内部にまで達している。このような深部では天体内部の温度は摂氏数百万度である。この温度によって太陽内部の物質は電荷を帯びた気体、すなわちプラズマに変わる。これらの物質は時速10万kmの速度で燃えるプラズマとなって噴出口の周囲に射出される。黒点が集団で発生すると、そこから巨大な太陽嵐が生じて通常の原爆の何十億発分にも相当するエネルギーを放出する。太陽はたとえ死につつある天体であってもまだ生きており、太陽系の領域に途轍もないエネルギーを放射している。その太陽は現在のところ穏やかな活動期にある。来年は再び活発な活動期に入ると予想されるが、それは途方もなく大規模で、地球上の自然や人間が作り上げてきた電子機器などに多大な被害をもたらす可能性がある。基本的に激しいプラズマ噴出はとうに起こってよいはずなのだが、活動はいわば最小限に落ち込み、これまでのところ大きな噴出はない状態が続いている。しかしなおのこと目前に迫っている新たな活動は非常に激しいものになると予想される。事実、現在太陽内部ではすさまじい変化が起きている。それは外的作用の形でも現れ、たとえば太陽表面に広範囲にわたる物質の流動が生じた。その流動は減衰した黒点から発生した残留磁場を太陽の極域に向かって運び、そこで再び太陽の内部に25万kmの深さまで下降し、そして再び赤道に向かって動く。このような太陽内部の深い所で残留磁場は再び長く伸びて強くなる。つまり残留磁場は新たにエネルギーを蓄えた後、再び活発になり、またもや表面にほとばしり出て新しい黒点を形成する。そこからまたこの物質流動は太陽表面がさまざまな速度で回転するのとあいまって太陽磁場の転極を引き起こすが、これは11年ごとに現れる。通常物質流動は極域に向かって非常にゆっくり、時速約2.7ないし3.7kmの速度で移動するが、7年ほど前からこの速度は時速50kmほどになっている。流動がこのように速くなった結果、太陽の赤道で磁場の発生が妨げられる。これは地球上で最近3年間ひどい厳冬が続いた理由でもある。黒点は高温のガスとプラズマを運ぶ巨大な漏斗状の磁力線のループに囲まれており、太陽の本来の磁気特性を示す。特大のエネルギー噴出が起こると、磁力線とプラズマは太陽から離脱して勢いよく飛び出す。磁気エネルギーであるプラズマループが太陽から飛び出す時、その長さと幅は10万kmを超え、この時に太陽表面に巨大な黒点も発生する。黒点の発生が増えると、その結果として太陽表面を突破する磁力線も多くなる。したがって磁場が強ければ強いほど、多くの黒点が現れ、逆に弱ければ弱いほど、発生する黒点も少ない。太陽の磁場は太陽圏電流層と呼ばれるが、回転しながら螺旋放射状に全太陽系に影響を与え、それはカイパーベルトの最も外側領域に、さらにそれを少し越えたところにまで及ぶ。これらの黒点から太陽内部に発する磁力線が流出するが、この時放射されて地球に到達する太陽のエネルギーは途方もなく大きい。概算すると毎秒およそ1億5,500万基ないし1億6,000万基の原子力発電所で生産される量に相当するエネルギーが地球に到達する。このエネルギー量は極めて莫大で、そのわずか0.01%で80億人の地球人類の全エネルギー需要をカバーできるほど。また、太陽系の惑星や月などとの大きさの比について言えば、これらは太陽系の全物質量の99.8%を包含する中心天体に対して、かろうじて0.2%を占めるにすぎない。言ったように太陽は死につつある天体で、あと15億年ないし25億年しか存在しないが、現在の活動年齢は約50億年である。だが、本当に最初の起源はこれよりはるかに古く、原エネルギーに由来するが、その年齢は地球の科学者には計算できないばかりか、それ自体が空想的に思える。なぜなら原エネルギーは宇宙全体の初期の形態にまでさかのぼり、その存在について地球の科学者は知識も理解も欠いているから。すなわち彼らには理解することも究明することもできないが、目に見える物質的な宇宙は宇宙の4番目の帯にすぎない。宇宙全体は7つの帯からなっており、4番目の帯だけが銀河、星雲、太陽、惑星、月などを持っている。内側と外側のそれぞれ3つの非物質的なエネルギー帯は見ることができず、したがって物質的な帯もしくは物質的な宇宙を挟んでいる内側と外側の2つのエネルギー帯も見えないが、これらの帯からいわゆる宇宙マイクロ波背景放射が出ている。やはり地球の科学者たちの知らないことだが、これらの物質帯は490億年ごとに新しく生まれ変わり、それが最後に行われたのはおよそ170億年前だった。今日の物質宇宙はすでにこの絶えざる生まれ変わりの3度目の形態であり、7つの帯からなる全宇宙の年齢は約46兆年である。だが、話を太陽に戻そう。太陽系に存在するすべての生命形態にとって太陽は生命を意味し、地球の奥深くまっ暗闇の中で生き、けして太陽光を見ることがない生命形態も太陽エネルギーの恩恵を受けている。自転しているのは惑星だけでなく、同様のことは太陽でも起きており、自軸のまわりを4週間という固有の周期で回転している。だが回転時間および回転速度は赤道と極付近と、それらの間の地域で異なる。それによってのみ太陽は最も深い地点で生み出されたエネルギーを、そのシステムの最も外側の縁にまで押し出すことができる。回転速度が異なる部分の間で摩擦が生じることによってはじめて、絶えず入り乱れて渦を巻く磁力線が形成される。この場合、渦を巻く範囲が広くなればなるほど、太陽の活動は活発になる。現在のところ太陽は弱い活動期にあり、あまり活発ではないが、これは黒点の数が少ないことにも現れている。これらの黒点も寸法は小さくない。実際、黒点はよく地球が5個か6個入るほどの大きさにもなるから。大きさと言えば、太陽はもう数百年前から衰えて、つまり収縮している。それはこの星が死ぬ最初の崩壊現象であり、太陽系に生命を与え続けている天体はあと15億年ないし25億年しか存在できない。しかし、この天体も非常に活発になれば再びやや拡張もしくは膨張する可能性があることは言っておく。だが、これはある周期の中でのみ起こり、そのあとは縮小もしくは収縮して再び元の形態に戻る。今回の周期が転換すると何が起こるかはまだ最終的に確かではない。言えることは、原始世界のごとき磁場のアーチが出現し、それによって地球上で地球人が作り上げてきたすべての電子機器が地上や周回軌道で麻痺すれば、地獄になるだろうということ。今日の電子技術、したがってまた地球上のすべての電子機器は太陽嵐やその他の宇宙線に対して極めて敏感であり、強い太陽嵐が発生してそのエネルギーが地球に達して電子嵐を引き起こしたら、すべてが崩壊する恐れがある。すなわち電子嵐が電流を誘導し、それによって無数の電子機器やあらゆる種類の電磁装置、そしてまたなんらかの形で電力と関係のある原子力発電所やその他の発電所、機械、乗り物などが機能しなくなる可能性がある。このようなことが起こったら、なにもかも無害ではすまなくなる。なぜならそのような弊害が発生したら、経済や医療の大部分や飲料水供給がだめになるだけでなく、製品の生産や不可欠な輸送、略奪に対する一般的な安全措置も機能しなくなるから。そればかりか、地球人の全成果に関して発展は逆戻りして、およそあらゆる分野で被害が生じ、それを取り除くのに何十年もかかるでしょう。地球人と彼らの政府は財政的にも破綻の際に追いやられるでしょう。つまり彼らはおよそ発生した被害と取り組んで取り除こうとしても支払いきれなくなるでしょう。犯罪や犯行に、見渡せないほど多くの害悪が生じるでしょう。これらのことは、実際に太陽の活動が過度に活発になって破局が生じれば起こるでしょう。しかしそれが起こるというのはあくまでも可能性にすぎず、予告ではない。なぜなら、太陽の活動がまどろみから目覚めた時に何が起きるかはまだ確かではないから。
2020.08.01
閲覧総数 1735
14

〇ビリーマイヤーの言葉最初の高さは,実際は152.955347mだった。これをkmに言い換えると、地球と太陽の距離、したがってまたAE、すなわち1天文単位と正確に一致する。この事実は、地球の天文学が規定する地球と太陽の不正確な距離とは矛盾している。ここで興味深いのは、当時私が行った別の計算で、ピラミッドの正確な高さもしくは地球と太陽の正確な距離から、またそれらの元素の総数が280であるということから、乗数7を掛けると、今日の非常に正確な光の速度を計算できる。この計算は次のようになる。280×7=1960×152.955347=299792.48012つまり、最終結果として今日の光の速度は、秒速29万9792.48012kmとなる。当時、この計算を公にすることは許されなかった。元素の正確な数もである。〇アスケットの言葉サハルク王の生存年代は大洪水のおよそ三百年前。王にはサウリド(SAURID)という名の息子がいたが、彼は未来を透視する優れた能力を持っていた。サウリドはある日、巨大な彗星が七個の小さい彗星を引き連れて恐ろしい勢いで地球に墜落し、地球が闇に包まれるという夢を見た。それで無数の人間が死ぬのをサウリドは見た。墜落した七個の彗星によって死んだ。わずかに生き残った者たちも、この大災害に伴って宇宙から降り注ぐ弾丸のような石つぶてと、その後に続いて悪臭を発する熱水から逃れるには、どこに避難したら良いかわからない状態であった。サウリドが自分の見た悪夢を父親に話すと、父親は国中からあらゆる占星術師や学者を呼び集めた。彼らは必死に考え、古い言い伝えを分析して、今後三百年の間に巨大な彗星が軌道から投げ出されて向きを変え、地球に衝突するだろうということを突き止めた。この予想される彗星による宇宙の大惨事が、地球人類の存続を危うくすることがないように、サハルク王は、現存するピラミッドを遠い未来の人間のための防護基地および生存基地として修復するよう、命じた。王はまた地中に村落と立派な倉庫も作るよう命令し、保存のきく食料をピラミッドと地中の村の施設に格納させた。王の子孫もこの国の後世の支配者たちも、その命令に忠実に従った。ピラミッドはその後三百年以上にわたって整備され、水が染み込まないように外側に厚い漆喰が塗られた。彼らはその漆喰に、来るべき出来事を予告するしるしを当時の自分たちの文字で書き込んだ。誰も忘れることがないように。巨大彗星は実際にやってきた。宇宙の別の時空構造からこのゾル太陽系に侵入したのだが、それは今日も多くの生命体から破壊者と呼ばれている。その時人々はピラミッドと地中の村に逃れ、その中に閉じこもった。彗星は地球に衝撃を与えて洪水を引き起こし、すべてのものを飲み尽くして破壊し、壊滅させた。ごく少数の人間の群れとあらゆる種類の動物だけが、建物に防御されることもなく生き残った。この大惨事の後で地球人類はまた再び新しくやり直さなければならなかった。それ以前にも何度か経験したように。ピラミッドとその建造の起源は、天孫、つまりこの世界の本来の原住民であった星間旅行者にまでさかのぼる。アポフィスは1981年にビリーが予測し、2029年4月13日に地球に衝突すると予言していた。その25年後の2004年に地球の天文学者がアポフィスを発見した。プレヤール人はアポフィスを赤い流星と呼び、彼らの計算ではアポフィスは北イングランドから黒海のウクライナ近くの地殻プレートに沿ったどこかで地球に衝突するだろうと予測していた。それはユーラシア大陸プレートを割って、北海から黒海のラインに沿って二つの大陸に引き裂かれる。さらに複数の火山が噴火し、多くの溶岩や噴石、さらに致命的な亜硫酸ガスを噴き出し、北米大陸を横断してそれは世界中に運ばれる。明らかにこれが起きたならば世界中の何億人もの人々が死に、将来の作物の収穫に多大な影響を受けると予測していた。同様に固有の周波数を持つ その3
2020.09.10
閲覧総数 4396
15

人間が日常生活を送る上で最も大切なことは、自分より先に自分を主張し得るインナーバランスである。このことは、全体として静穏、瞑想、詠唱によってこの内面のバランスを達成することができ、それによって人間は満足し、社交的になれるということも適切に示し、これについて説明する。ところが、残念なことに、内面のバランスはもっと先につながり、論理、知性、理性、正しい方法で自己保存するための本能、そして人間の正しい行動だけでなく、人間の本当の意味での有効な道徳に責任があるということは、言わなかったし、説明もされなかった。というのは、これらのすべてには、何もない空っぽであるがゆえに誰も耳を傾けない言葉よりも、はるかに先につながる事実と価値が含まれているからである。しかし、事実、内面のバランスが人間の道徳性だけでなく、論理、知性、理性における効果的かつ実際の思考を決定し、その結果、人間の生きる意志、生き方、そして自ら作り出した人生の意味をも決定するということ。インナーバランスとは、何よりもまず、自分自身の意識、身体、代謝が健全に保たれている状態を意識的かつ明確に構築することであり、それは身体を健康に保つためのあらゆる活動でなされるべきものである。大自然の中でのジョギング、ウォーキング、散歩、ランニングなどもまた最も重要であり、何らかの身体的な運動を必要とするある種の身体活動と同様に、考慮することが大切である。残念ながら、人々は新陳代謝が自己保存の本能も制御するため、内面のバランスにおいて決定的な、そして非常に重要な役割を担っていることを教えられていない。静穏な瞑想の道では、内面的なバランスの全体が意識と身体に非常に大きく伝えられているが、すべては独立した思考に基づいており、そのエネルギーと力を通じて、意識と身体のために、また代謝や新陳代謝に必要な積み重ねが実際になされていることが必要なのである。これは、体内の食べ物などの化学物質をすべて中間生成物と最終生成物に変化させるためである。これらの生化学的プロセスは、主に物質的な身体を形成して健康を保つのに役立つが、その後、内面のバランスを構築するために、空腹感が生じたり、それに苦しんだりすると、自動的にこのバランスが損なわれてしまうため、同様に重要である。したがって、非常に重要なことは、新陳代謝のスムーズな働きの効果が、内面の姿勢や安定、ひいては意識に役立つということであり、新陳代謝がうまく適切に働くだけで、内面のバランスは遡及的に整うのである。体内物質のすべての化学的変化は、それだけでも内面の安定性がもたらされ、それが刺激となって意識の活動を決定するため、これらの生化学的プロセスは、身体に役立つだけでなく、内面のバランスにも役立つのである。これを維持するためには新陳代謝を正常に保つ必要があるのだが、残念ながら、気分という内面的なバランスを扱う説明では、いつもこのことが忘れ去られている。代謝とは、体内における物質のあらゆる化学変化を担うものであり、主に食物を中間生成物、いわゆる代謝物と最終生成物に変化させることは既に説明したとおり。しかし、これらの生化学的プロセスがインナーバランスにとって重要であり、繊維の代謝とすべてのエネルギー消費活動のためのエネルギー生産を通じて、体内物質を維持し、身体機能ひいては生命の維持に役立つという事実は、本来、心理学的な根拠に基づいて、内面のバランスの重要性が語られるときには言及されていない。インナーバランスは、何よりも地球人にとって心理学的に研究され、言語学的に扱ってきたが、これまで述べてきたように、代謝との関連でも非常に重要性を持っている。このように内面のバランスもまた、全体の秩序として理解され、解釈されなければならない。人間などの生物は、代謝器官で生産されるエネルギーを消費することで、内部のバランスと秩序を高めていく。そのためには、十分な水など飲めるものをたくさん摂取することと、新陳代謝を促し、生活や内面のバランスを整えるための全体的な手助けをしてくれる食品を摂取することが必要である。緑茶もコーヒーと同様、効果的に代謝を高めることができるが、代謝を維持し機能させるためには、多くのタンパク質が必要不可欠である。インナーバランスとは、内面の調和、内部のバランス、内的均衡を意味する。というのは、これはちょうど良いバランス、つまり身体、思考、行動、道徳などに一貫してリラックスを生み出すバランスであり、健全な生活を送るために緊急に必要なものである。したがって、インナーバランスは、理に適っているだけでなく、人間にとって行動を決定的にするものであり、全人格的に適用され、また満足をもたらすとともに、さらに人生を正しく生きられ、また行動や道徳だけでなく、意識のすべての側面が正しく機能するために必要なものである。人格の中に深く埋め込まれた資質が、この中で最も重要であり、それが論理、知性、理性を通じて人間的に正しい形で構築され、またこの形で維持されなければならないこと、それが急務である。もし、これらがポジティブな形で十分に発揮され、本当にポジティブな価値として人格の奥深くに蓄積されていなければ、対外的には見かけ上の内的バランス、均衡しか現れない。これは、外からの影響によって、機会があれば(ある言葉、非難、物理的な攻撃、ある物事や出来事など)、外側の見せかけが直ちに崩壊し、人格の奥底に眠っているすべての否定的で悪しきものの真髄が、外部に向かって活動し、外側に突き抜けるようにする邪悪な自己欺瞞ということにほかならない。瞑想がインナーバランスの発達におよぼす肯定的な効果は、一方では人間の知性を必要とし、特に人間によって誤って「霊」と呼ばれている創造エネルギーを必要とする道に基づいている。このエネルギーと意識は、瞑想を行うために必要なものであり、それによって人の意識と行動が穏やかになり、呼吸が深くなって、インナーバランスを整えるために必要なものなのである。その後、自己反省という形で瞑想することで心が落ち着き、気持ちが晴れやかになるのは、自律神経が休息と再生に切り替わることで起こる。これは、休息神経または副交感神経を刺激し、瞑想がもたらす多くの良い効果の役割を担い、生体にも影響を与え、一般的な幸福感をもたらす。しかし、実際の自己反省瞑想の進め方は非常にシンプルで、この形式は、ただ歩いているとき、座っているとき、立っているとき、横になっているときに、十分に効果的に行うことができる。このため、瞑想フリークが主張するように、通常は仏教の教えに忠実である特別な横たわる姿勢や座る姿勢をとらなければならないということは、自己反省的な瞑想では当てはまらない。しかし、仏教が実際の宗教と見られていないとしても、宗教的な信仰を必要とするものである。これは、人類が存在して以来、有効性を持っている非常に価値のある自己反省の瞑想に関して、おそらく最も単純な説明でしょう。ところが、この瞑想の全体は、口で言うほど単純なものではない。なぜなら人間は、造神や随伴する神という宗教的な信仰を捨て、自らの意思、あるいは自己思考と自己決定のエネルギー、強さや力を引き継ぎ、またそれに従って行動しなければならないからである。しかしそれは、想像上の神とその支援する存在に祈り、すべてがその神によってすでに成し遂げられ、人生がうまくいくと信じることとは、明らかにまったく異なるものである。確かに、信者にとっては異端のように聞こえるが、誰もが自分なりに瞑想するのだから、瞑想の達人は必要としないというのもまた事実といえる。瞑想の達人がもたらすものは、瞑想の流派を統一するものであり、この点で、人々はもはや個性を示さず、形式的にXというパターンに従って瞑想する、まさに統一された形の瞑想者にするものである。ある修道院でもこのように実践されており、キリスト教から引き継がれたもので、興味のある人は統一された仏教の技術を学び、結果として瞑想におけるマインドフルネスと集中力と個性の全てを失い、ゴータマ・ブッダが決して望んでいなかった集団に従う瞑想が行われるようになった。本当の意味でのインナーバランスをとるための瞑想は、良いことだが、本格的なものにするには十分とはいえない。このような形の内なるバランスは表面的なものに過ぎず、人間の中の奥深い部分の悪しきものが無効になるような形で人格の深みにまで達するものではないということを、このルールは証明している。これは、内面のバランスによって、人格の奥深くに蓄積されている生命を破壊するような退廃が中和され、興奮や恐怖、危険、その他の外的逆境があっても、人格の底にある悪が目覚めて外部に浸透し、憎しみや復讐、報復、暴力などを引き起こして、害をおよぼすことがない場合でしょう。実は、自己反省の瞑想は、原則的にどんな姿勢でも、どんな場所でもできるため、静かで落ち着ける場所を選ぶ必要はない。もちろん、周囲から邪魔されない静かな場所で瞑想するのは良いことだが、人間が本当に成長するために基本的に不可欠な、瞑想に使えそうな場所や邪魔されない自己省察を行えるような場所は、すべての人間に与えられているわけではない。パートナーにも、他の人にも、子供にも、携帯電話や自宅の電話などにも邪魔されない場所で瞑想するのは、とても良いことである。自分が心地よく邪魔されないと感じる小さな瞑想の場を設け、その場所を自分の好みに合わせてアレンジしてみる人もいる。キャンドルや花、素敵なクッションが好きな人もいれば、他の物を好む人もいることでしょう。その人の好みによって、花に囲まれた落ち着いた環境、座り心地や寝心地の良い場所、もしくはキャンドルなど、様々である。多くの人にとって、このような静かな場所は、それが個人的に自分の好みに合わせて整えられた場合、瞑想のためにすべてがずっと容易になる。しかし、これが不可能な場合、自己反省の瞑想は明確にこれを要求しない。というのも、これは反省すること自体に依存するだけで、特定の場所や特定の姿勢に依存するものではないので、どこでも行うことができ、実行できるのである。自分自身の中心やインナーバランスを見つけることは、最終的には自分自身を知ることにつながるが、同時に謙虚であること、ありのままの自分自身を受け入れ、理解し、愛することにもつながる。内なる中心だけが、自分自身であるという感覚を与えてくれる。それは、最も深い自信から来るもので、環境や仲間が、意地悪で、憎しみにあふれ、悪意があり、中傷的で、嘘をつき、不正行為をする者に見えたとしても、決して気にすることはない。誠に、本来の中心、本当のインナーバランスが見出され、人格の奥底にある悪しき感情などが不活性化されて解消し、その結果、もはや外部に浸透することができず、暴力や裏切りなどによる災いを引き起こすことができなくなれば、内面のバランスは本当の現実となり、もはやいかなる外部によっても害されることはない。この内面の平穏は、論理、知性、理性、明確な意識、そして本当の誠実な意志を通して、具体的に鍛錬され、継続的に訓練されることによって、人はますます穏やかでバランスの取れた存在になっていく。実際、彼は自分自身をコントロールし、自分自身の意思決定能力と行動力を維持し、そして獲得している。そうして、人間がこれを達成すると、自分の中に恐怖、興奮、怒りや憤怒、嘘、偽り、憎悪、復讐、中傷、報復、暴力などを引き起こす可能性のあるものすべてを手放したいと明確にしなければならないが、内面のバランスを整えることが必要なだけである。性格の底に深く潜んでいるこれらの悪因すべての根本は、人間の不幸の原因である。彼は自分自身を耐えられるようにするために、見せかけの内的バランスを見つけるだけで、本当の満足は得られないのである。もし人間が本当にインナーバランスを実現したいのなら、明確なビジョンを掲げ、恐れを克服し、自分への信頼を鍛え、それに向けて献身的な努力をしなければならない。自分にとって未知のものをすべて理解し、それを吸収して楽しむことを学び、すべてと共に生きるために、人生というメロディのリズムやベースなど、自分にとって大切なものをすべて取り入れる必要がある。これはもし、彼が本当に正直に、誠実にインナーバランスを持って生きたいのなら、彼の人格の深みにあるすべての悪を不活性化させて不安と不和をもたらすものに対して調和の静けさの中で耳を傾けないのならば、そうしなければならないこと。本当のインナーバランスだけが、人が自分自身の中にも全世界の両方で、現実的で効果的な平和を見出すことを可能にする。本来の平和とは、自分自身と調和して生きること。言い換えると、内面のバランスは、外側の平和を見つけ出し、それを広大な世界へ持ち出すための礎石でもある。しかしながら、どのようにすればインナーバランスがとれるのか、まだ説明する必要があるため、必要なことを説明するまではお付き合いください。また、スファートから教わり、その後自分の裁量で広げてきた10のポイントがあり、それは以下の通りとなっている。1.インナーバランスは瞑想的に達成できるが、これは宗教的な形で真の瞑想として知られ広まっている意味での瞑想とは何の関係性もない。これは実に、何らかの形で仏教という宗教的なタッチを持っている。人生という意味での瞑想または内面のバランスを整えるという意味での瞑想は、平穏に、リラックスの中に身を置き、思考とその体験に専心することにほかならない。人間が毎日起きている間に実際に行っていることだが、荒々しく、集中力がなく、表面的で、無意識のうちに行われているなど。そのため、通常、そのことを意識せず、それが自分に利益をもたらすことなく、結果として内面のバランスを欠くことになる。2.内面のバランスを保つためには、人間が本当の意味で瞑想的なリラックスをすることが必要であり、特に意識的に、定期的に自分に小さな休息を取り、この点で瞑想的な活動に取り組むことが重要である。しかし、宗教的信仰の狂信と妄想に身を任せるような方法ではなく、静かで、中立的で、思慮深く自分の中に入っていくことで、思考の中で良いもの、価値のあるもの、美しいもの、中立的なものが動き、それを緩め、なだめ、均衡をもたらす。3.自己反省のための時間を定期的に持つことが必要である。というのは、そのような特性から自分を解放するために、発揮して良い性格特性と、コントロールされ、取り除き、解消しなければならない性格特性について、実際に考え、考察することが必要である。4.瞑想の休憩中は、個人的なニーズを考慮することが可能なので、それらを遮断する必要はない。5.身体の健康だけでなく、思考、道徳、行動にも大きな影響を与えるため、身体の活動は内部のバランスを取るために必要である。6.歌ったり、ハミングしたり、口笛でメロディを奏でたりすることは適切である。というのは、これらを通じて、モラルや行動がポジティブにコントロールされるだけでなく、何よりも内的バランスを整え、身体の健康状態を調整するものだから。7.インナーバランスには、自分自身のネガティブな感情やポジティブな感情を意識的にとらえ、それをコントロールすることでマスターすることができる。極度の興奮や恐怖などの場合に自衛本能を発動させた感情は、決して激怒や怒り、あるいは身体的暴力に発展させてはならず、あくまでも論理的根拠のある身体的防御行動や対抗防衛、あるいは大声に至るまで、正当化されるようにコントロールしなければならない。8.インナーバランスは、自分自身のストレス反応を振り返るとともに、発生するあらゆる場面や状況において、自分自身の内面の落ち着きをコントロールし、トレーニングすることが必要である。そして何よりも、最終的には慎重さ、自制心、規律、コントロール、責任だけが、あらゆる種類のストレス全体を和らげ、中和できるということを認識しなければならない。9.自分自身と真摯に向き合い、緊張とリラックスを交互に繰り返すことは、意識と心身の健康のバランスを生み出すもので、内面のバランスを保つための基本的なこと。特に、困難で不確実な時代に適用される。それは、エネルギーとその力が最も試されるときだから。10.自分自身の人生における自分自身の中に蓄積された経験や記憶、体験や感情などの衝動を象徴し、経験という観点から発生したものである。また、幸せや悲しみだけでなく、抑えきれない喜び、ひどい痛み、直感や好奇心、様々な感情、放棄、恐怖、怒り、憤怒など、激しい感情の主要な全域は、人生を形作る要因となっており、内面のバランスをもたらすことが可能である。今まで、インナーバランスに関して伝えたかったこと、説明したかったことは、すべて述べることができた。第796回会見抜粋 (ビリー)エドゥアルト・アルベルト・マイヤー
2017.07.10
閲覧総数 2678
16

〇セミヤーゼの言葉そもそも人間とは何でしょうか。 姿と名前、それだけである。人間から名前と姿を取り上げたら、何が残るでしょうか。残るのは根幹をなす本質、すなわち実在。つまり霊と総意識体である。これに気がつかない人間は、どんなに微弱な風にさえあちらこちらと吹き飛ばされて、拠り所もなく絶望のうちにさ迷いながら、それでもどこかにすがれるものを見つけようともがく。でも、根本的な真理を探し見つけなければ、すがれるものが与えられることはないでしょう。地球やその他の世界の何十億という人間は、空の星を見上げてもそこから何らかの成果や認識を得ることはない。しかし、天文学に通じた者なら空を見上げて新しい世界を発見し、それについて書物を記したりもする。しかし、彼らに見えるものや認識できるものが、他の人間にはたとえ空を見上げることができたとしても、見ることも認識することもできない。目は見えていても、盲目同然なのである。これと同じことが、意識的に未熟な普通の人間や意識的な自覚のない人間に当てはまる。霊的な創造の法則に従って真実に生きる人間は、周囲のあらゆる生命体、あらゆる事物、あらゆる思考と行動、あらゆる人間、あらゆる自然作用、そして考えられる限りのすべての状況と現象の中に創造的なるものを見出し、それを認識できる。しかし、意識的に未熟で、宗教その他の非現実的な教えに毒されている普通の人間は、見ることも聞くこともできず、真理のかけらさえも認識できない。このような人間の生活は意識的ではなく、そのためにいっそう人間的、物質的な方向に押しやられている。そのため、目も見えず耳も聞こえず、無知なのである。しかし、創造の法則に従う人間は、幸福に満ちた、恐怖を全く知らない存在となる。そのような人間の意志は決して屈することがなく、その献身は計り知れないほど無限であり、その英知と愛は永続的で完全で、宗教その他の誤った教えに惑わされた人間のように、気まぐれに変転することも懐疑にさいなまれることもない。そのような人間の感覚は果てしない大海に等しく、決して平静を失うことがない。不安に震えることもない。だから、もはやどんな堕落した否定的な力も届かなくなるほどに、彼の霊的感覚を伸ばす。その感覚は、負の方向に逸脱した思考が宿ることも許さなければ、あらゆる正の方向に逸脱した思考や行動も退ける。本当に価値があり、意識と霊の発展に寄与するのは調和のとれた感覚だけ。それは創造的なるもの、つまり創造的な働き、創造的な英知、創造の知識と愛と喜びに根差している。創造的なるものは、周囲をぐるりと取り囲む物質的壁面や人間的生活環境よりも、現実的なのである。だから、意識的に常に大きく、建設的でありなさい。霊すなわち、あらゆる無限の創造的構造の源となるものは、人間の内奥の本質そのものなのである。人間の外的な本質は、あらゆる面で制限されている。なぜならそれは、本質そのものではなく、その外皮、つまり物質的な肉体または境界に過ぎないから。それは惑いの元であり、苦難と苦痛の源をなし、認識や意志、献身、隣人を単に外面的、物質的に見るならば、この特定の人間の形と姿、すなわち物質的なものしか見えない。しかし同じ人間を、意識的で霊的な認識の目で見るならば、自分と同じように他のすべての人の中にも、たとえ本人が自覚していなくても、すべてを表明するこの意識が宿っていることがわかる。そうすると、周囲の人間を見る見方が根本的に違ってくる。そうすれば彼はもはや、単に一人の男や女や少女や子供を見るのではなく、創造的な霊の担い手として隣人を見るようになる。その霊は自分と自分の実在を自覚し、機会さえ与えられれば、誰を通してでも自分を示したいと望んでいる。人間という存在は、霊と意識の面である程度完全な状態になって、それに相応する健全で高度な生活様式に達すれば、数百年、それどころか数千年までも生きることができる。しかし、この四千万年から六千万年の段階を超えると霊は、純物質的な肉体を必要としなくなって半霊体となる。その後、さらに六百億年から八百億年の間、いよいよ半物質的な形態で生きることになる。その境域は非常に高いので、純物質的・人間的な立場からは接触できなくなる。ただし、意識と霊が非常に高い進化水準に達している場合は接触できる。六百億年から八百億年の段階を超えると、この半霊体もしくは半物質体は最初の純霊体に移行し、アラハト・アテルザータ水準に入る。他の事柄について話す前に、霊の教えを続けたいと思う。それはあらゆる事柄の中で最も重要なものだから。人間は、創造という言葉もしくは名称に対して、非常に美しいものや善いものが話題にされるときのように反応しなければならない。そうすることによって、自分の感覚の中に変化が生じるように心掛けなければならない。それが為されない限り、創造を真にあるがままの姿で認識したとは言えない。しかしもし人間が、絶えず繰り返し創造の本質について考えることがなかったなら、創造という言葉や名称が人間にとって非常に深い意味を獲得し、人間の精神的な全行動様式、情緒的な知覚、生命感情、そして反応の仕方に変化が生じるなどということがどうしてあり得るでしょうか?だから、創造の本質に当てはまる特定の属性名称、たとえば全能、偏在、全知などを、そのまますぐに創造という言葉もしくは名称と結び付けるように心がけなさい。日常生活に埋もれた人間や、いわゆる無神論者、利己主義者や物質主義者、不可知論者などの人々は創造という言葉に一番関心が少ない人々である。それはなぜでしょうか?彼らは創造とは本来何であるか知らないし、見当もつかないからである。非常に多くの人々にとって創造という概念はそんなものである。宗教によって惑わされた何十億という人々は、創造という言葉を理解しない。彼らが神という非現実的な宗教的な呼称を口に出すとき、それによって創造を呼んでいると錯覚している。でもそれは、なんとひどい誤った教えでしょう。だからこそ、創造の本質についてできるだけ多くのことを知り、経験することが非常に大切なのである。それによってこの言葉は意味に満ちて、その言葉を耳にするや否や、内面的に高められ強い印象を受けるようになる。経験が明らかにするところによれば、創造とは限りない美であり、あらゆる美に勝る美であり、限りなく永遠に続く至福であり、英知、知識、能力、真理、そして絶対的な確実さである。このことを認識したなら人間は、直ちにそのすべての喜びをそれらの起源へと、すなわち果てしない創造の喜びへと立ち戻らせる。花であれ、動物であれ、人間やその他なんであれ、およそ美しいものを見るとき、人間は直ちにそれを創造自体の無限の美と結び付ける。あれやこれやの認識が印象深い厳かな形式で表現されるのを見るとき、彼はその認識が無限の認識、すなわち創造に根差していることを知る。どんなちっぽけな生き物の中であれ、たとえば微生物のような被造物の中でさえ生命が動くのを見るとき、彼はこの生命の背後に無限なもの、永遠なもの、創造的なものを認める。それに基づいて人間は、創造的なものの本質について考えることによって、この本質が日々の生活や体験においてあらゆる時間、あらゆる空間に様々に現存していることを知ることによって、自分の理解と感情を深め、拡大するよう心がけるのである。創造はすべての人間の中に、創造そのものの一部として存在している。この考えが一度でも、人間の内面深く浸透して経験されると、彼の中で恐れや疑いはすべて消え去る。創造が全知、全能であることを知ると人間は、その内面において平穏と自信を獲得し、馬鹿げた想念や倒錯した感情に対する抵抗力を得る。永遠に存続するものであり、尊厳および価値である創造の遍在、真理、英知、能力および知識について繰り返し考えると、人間の中で創造という言葉や名称は非常に意味豊かなものとなり、その感情や考え方に変化を引き起こす。人間の知性がこのような方向で働くようになればなるほど、知性は明るい輝きを増し、人格は力強くなり、その人生と活動のすべてが祝福されるようになる。明晰な意識をもって生きる人間は、創造的なるものが自分の肉体を感じるよりはるかに現実であるという強い感覚を、いつも新たに自らの内に生み出す。このような感覚が霊に生きる人を絶えず支配している。そのような人の意識は、創造的なものによって所有されるため、その感覚は平和と強さと喜びに、知識と英知に、そして真理と希望にあふれている。物質的知性で思考する普通の人間が、平和や幸福や強さを手に入れるために講じるすべての手段は常にまやかしにすぎないが、霊に生きる人を支配する感覚は創造の躍動的な力によって脈動している。霊に生きる人はあらゆる点で非常に躍動的である。そのような人は常にできるだけ速く目標を達成するよう努める。だから彼は、生きている限り時間を活かし、持てるすべての力を発揮して創造的な能力へと向かう。彼はこの企てを、放棄することはない。時間の流れの中では、どのようなことでも起こり得るが、彼の中で創造的なものを求める欲求だけは決して消滅しない。障害物に出くわしたり、不可欠な物質的事物への感性や愛好を突然失うことがあっても、創造に対する感性や愛好が失われることは決してない。なぜなら彼は、創造が真の存在を体現していることを知っているから。巨大な霊的および意識的な実を摘み取ることができるのは、意識的および霊的な財産、前進、知識、真理、論理、英知、そして愛を求めて戦う人々だけ。なぜならこれらのものが、労せずして懐に転がり込むことはないから。最初の成果を達成できるためには、まず霊的知性で考えること、つまり創造的に思考する方法を体得し、その絶対的な正しさと確実さを認識することが必要である。この最初の成果が現れると、認識する人は大きな前進を遂げ、その霊と意識が拡大して力の因子となる。そうして初めてすでに認識されている事実、知識、英知、論理真理および愛が自明のものとなる。けれどもそれらは、最初に必死の努力によって獲得しなければならない。しかし道は、この地点で果てるわけではない。さらなる探索と探求、さらなる発展と認識は限りない時間が続くから。およそ可能なものは、すべて時間の流れの中で起きるものであり、人が決意しても果たせないことがあるでしょう。しかし、霊に生きる人は限界というものを知らず、何事が起きようと、たとえ未来の見通しが悪くても、目標に固執する。彼にとって未来は、すでに現在に存在している。だから、霊と意識の最高度の状態を達成するために、すべてのことを今ここで為さなければならない。彼は未来の不安も知らなければ、未来に対して不安を抱くこともない。なぜなら不安というものは、物質的知性で考える場合のみ存在するものであり、霊的知性によって思考する場合には決して存在しないからである。その場合には未来は、現在そのものと同じように現存しているから。そのため霊に生きる人は、明日や明後日の問題を今ここで解決して、望ましい軌道に導くことができる。霊について考え、霊で考えることは、すべての生命体に利益のみをもたらす。だから、徹底的な探索と探求によってますます自らを高めて、霊的思考のレベルに、創造の真理と英知に関する知識に到達しなさい。自分に計り知れない力を与え、自分を非現実的な受容から解放してくれる何かが、すなわち創造の真理が存在するという強い感覚を、自らの内に繰り返し生み出しなさい。自分が創造の光、その英知、その知識、真理、論理および愛という海の中にいること、そしてそれらが全体として初めて生命の存在を可能にしているという強い感覚を、自らの内に何度も繰り返し生み出しなさい。創造と向き合う人間の喜びは、創造的なものと創造に対して、尊敬の念を表明することにある。そのためには全能の意志が、創造の法則の内にあることを受け入れ、法則の絶対的な確実さを自分自身の使命とし、それを有益に評価する。彼はこれらの法則に献身していることを、霊と意識に関するすべての事実を学んで活用することによって表現する。信仰や受容、奉仕や卑下によって表現するのでは決してない。このことを体得するための唯一の方法は、より高い霊的意識的な認識を獲得し、それによって展開される能力を活用すべく絶えず懸命に努力すること。その場合に決定的意味を持つのは、忍耐と耐久力を始め、より高度な理解を発達させること、宇宙的、普遍的な愛を認識して活かすこと、霊的意識的な知識と能力を深化させること、利己主義、物質主義、高慢、羨望、欲望、嫉妬などの物質的知性による思考の可能性を遮ること。このようにすることによってのみ、創造の法則を認識し遵守することが保証されるから。霊的に考える人は、創造を自分のほうに導き、自らの内で認識できるようにしようと絶えず努力する。彼は、普通の人間には不可能なことを可能にしようと努力し、しかもそれに成功する。霊を慈しむ人は、毎日、毎月、毎年、創造的なものに呼びかけ、そうすることによって知識と英知、愛と論理、そして真理と力を獲得する。そしてついに創造的なものを自らの内に経験し、評価することができるようになる。それによって創造的なものは、自分の体を感じるより現実的なものとなる。他の人々と付き合って話したりしている間、彼が目の前に見ているのは創造的なものに他ならない。他の人々を見ているとき、彼はその人々の内に創造的なものだけを見る。それというのも彼にとって創造的なものが常に第一義であるから。彼にとって創造的なものは、あらゆる事物の中で最大のものである。だから彼の内では、すべてが創造的なものと直面していて、物質的事物が彼の内部に欲望を引き起こすことはもはやない。物質的な誘惑にさらされることもない。霊的意識的な知識および能力として自らの内に宿しているものこそ、彼の話し相手であり、案内人だから。彼はこの相手と話し、歓談し、共に創造の法則に生きる。こうした生き方は存在することを意味し、このような存在はこの宇宙の最も美しい現象よりもはるかに美しい。これほど発達した人間をなおも誘惑に陥れることは、何ものもできない。世界最大の富も、悪意ある連中による死の脅しも。創造的なものに囲まれた彼の内面的な豊かさは無尽蔵、不滅であり、何ものも彼の内に恐怖を呼び起こすことはできない。彼は無限の力と共に生きていて、それが彼の存在に活力を与えるから。だから、何ものも彼を虚偽や誤謬に誘うことはできない。なぜなら、創造を認識している彼の存在全体が無限の真理だから。何ものも彼を、外部勢力の誤謬に満ちた想念の闇の中で惑わすことはできない。なぜなら彼の霊的知性による思考の一瞬一瞬が、無限の光だから。何ものも彼の、真理の存在感覚を変えたり、彼を不幸にしたりできない。なぜなら彼は、創造の存在と感覚の中で、したがって無限の喜びの中で生きているからである。けれども人間が、生命の霊的な事物に対して、自分自身に対して、そして創造に対して、悪意ある態度や否定的な態度を取るならば、彼の内にはおよそ何も生まれない。もし彼の態度が、物質的知性だけに支配されていて、その想念と感情がそのような形で環境に影響を与えるなら、通常であれば非常に価値のある大いに好都合な状況でさえも、彼にとっては不幸と不和の源となる。その場合、たとえこの人間が良い意図を追求したとしても、結果は全く否定的なものとなるでしょう。けれども霊に生きる人間にとっては、常にすべてが、内面的成長のために相応しい状況となり、あらゆる形で創造的なものに配慮する絶好の機会となる。真に偉大なのは、自らの内に絶えず高度で気高い霊的思考と霊的感情とを抱き、維持している人間だけ。創造的と呼べるのは、常に自らの内に創造的なものを意識して生き、かつ考える人間だけである。つまり、物質的知性に優れた人間は全く創造的ではなく、霊的には絶対的に無価値だと言える。たとえば、調停者や宗教の聖人、非常時や災害時または病人の支援者、とりわけ戦争などで最前線に立ったり、衛生班の仕事をしたりする人についても同じことが言える。そのような人間は、たいてい冒険心や同情や自己憐憫、さらには物質的知性による誤った想念とそこから生じる感情によって動かされていて、自らの内に創造的なものの認識をみじんも持つことはない。彼らは誤った隣人愛を説き、同じく誤った神に関する教義や卑屈な決まり文句を唱える非現実的な宗教にしょっちゅう惑わされている。では、そのような生命体と霊に生きる人間との間の違いはどこにあるのでしょうか?普通の人間は、一般的に低次の物質的知性の刺激によって導かれ支配される。一時良い感情を抱いたとしても、それは決して不変なものではなく、まもなく消滅して、再び低次の刺激に場所を譲る。これに対して霊に生きる人間は、どんなに小さな創造的刺激さえも消失させることは決してなく、それらを把握して無限に拡大させる。彼の内に低次の刺激が錨を下ろすことはない。なぜなら、彼の中にある英知と知識の水はあまりに深いため、錨をつなぐ低次の短い鎖では水底に届かないから。霊に生きる人間は、絶えずいついかなる状況にあっても創造的な刺激の波動領域に居続けようとする。万一その領域が何らかの影響で危険に瀕したら、彼は最大限に創造に依拠し、その最高度の波動力によって否定的なものから身を守る。彼は自らの内で、創造の本質が否定的なものに対する絶対確実な防御を生み出すまで、そうし続ける。人間はいつも何らかのものを担っている。多くの人々は自らの内に抑圧的な感情を担い、他の人々は悲しみや心配事、いろいろな問題や希望、その他物質的知性に根差した想念を担っている。不安も、美醜を問わずあらゆる種類のイメージの想像も、物質的知性による思考に属している。しかし霊に生きる人は、創造的なもの、すなわち霊的なものを担っている。彼は創造の担い手、意識的な霊の担い手である。なぜなら彼は、いつも創造の法則の知識と能力を自らの内に担っているから。そして、物質的知性による思考の古い本性が彼を非論理の担い手にしようとすればするほど、彼は自らの内で創造的なものを優勢にして、しっかり定着させることに真剣に取り組む。たとえ極めて否定的な想念がやってきて、霊的知性による思考を破壊しようとしても、彼はそれさえも直ちに創造的な力と英知に変えてしまう。こうして彼は、すべてを創造的なものとし、それを自らの内に担う。そうすることによって彼は、動く創造の寺院となる。創造に生きる人の知性は、ますます霊化され次第に霊意識の奥深く進んでいく。霊に生きる人はその認識能力によって、あらゆる事物の中にますます深く分け入り、万物に遍在する創造の炎の熱を捉える。そうすることによって霊的に考える人は、遍在する創造の力と真理を至るところで認識および意識する。そのため、日常感覚では認識されないものも、創造に生きる人にはより霊的、意識的に知覚される。つまり彼は、常にすべての事物と生命体の内に創造が遍在し、創造の法則が適用されているのを見る。彼は創造の遍在の力について、霊的なイメージを持っている。彼の生命と存在の貴重なエネルギーを、すべて創造の知識、その真理、力、英知、したがってまた自らの内に宿る創造の一部、すなわち霊の能力に捧げるのである。
2020.03.16
閲覧総数 1284