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東京藝大の美術館は何度も来たけれど、卒展ははじめて。才能がぶくぶくと沸騰してる釜でゆでられる覚悟でした。学部卒業生3名、修士修了生9名の作品を批評します。◆ 中野 岳(がく)さん (学部・彫刻) 「バブリーカー」門を入ってすぐ、大学美術館の玄関前に置かれた黒いバン、セドリック・デラックス。車体もシートもハンドルもヘッドライトのガラスも、およそ車の表面を構成するものが、とびきり気前のいい寿司屋のネタくらいの大きさに切り刻まれズラされ貼り戻されている。(車体の鋼板断片は溶接で再構成された。)おそらく何千という展示品のなかで唯一すべての観覧者が見、インパクトを受ける作品。作家は足立区梅島に住んでいる。伝言ノートにコメントを書きつつ ふと、2台の自動車の表面をこんなふうに切り刻んで一部の断片を相互移植したらどうなるだろうかと想像が膨らんだ。2台の車のあいだを、蟻の列のように断片どもが行進する……。ぜひ小型車2台でやってみて!◆ 橋本野生(のぶ)さん (学部・鍛金) 「巣食う」この作品は、人通りの少ない美術学部中央棟の2階の暗い教室にぽつんと展示されている。冷蔵庫のなかに、軍艦島というか香港の九龍城というか、上へ上へと几帳面に増殖したスラムを作ってしまった。層と層をつなぐ梯子、楼と楼をむすぶ縄、縄にぶらさがる金属製の布……。ミニチュアの部屋の内部からの照明に照らされて浮かび上がる営為は蠱惑(こわく)的だ。◆ 野田朗子(あきこ)さん (修士・ガラス造形) 「いそがないで」大学美術館B2階に展示。極楽の舟かしらん。蓮の花びらと花托と種のガラス工藝。花びらの赤みと透明感がリアルを超えた美しさ。褒め言葉をノートに残していたら、作家の野田さんが声をかけてくれた。野田さん 「花びらと花托と種と、それぞれに異なるガラス工藝の技術をつかっています。花びらは、ガラス粉末を型に入れて焼きました」泉 「花びらの筋が赤いのは、何度か焼きながら表面に色を足していったんでしょうか」野田さん 「花びらは、2回焼いています。1度目は平たい粘土製の型の表面に細かい筋を彫り付けて赤いガラス粉末を乗せ、そのあと透明や白のガラス粉末で型を満たして焼くのです。赤い筋いりの花びら型の平面が出来上がります。それを今度は花びらの形を模した型の上に置いて焼くと、ガラスが柔らかくなって型どおりの形に仕上がります。赤いガラス粉末が熔けてしまわない程度の温度で焼きます。熔けてしまうと混色してしまい、期待した効果が生まれません」超絶技巧だ。いや、あの はかなさと強さを併せもつ美は、技巧だけでは生まれない。◆ 豊澤美紗さん (修士・ガラス工藝) 「街にゼリーが降ってきた」大学美術館B2階に展示。怪獣映画世代のぼくなど、無性に想像を羽ばたかせてしまう。ガラスと銅箔でできたビル街は、「鉄人28号」 の街のようにも見えるな。そこに巨大な天使のうんこのように (失礼!) 、いや、神様の涙のように、透明ガラスのでっかい露が降臨した。じっさいにこれを作られてみると、眺めていて飽きないんですねぇ。◆ 緒方陽奈(はるな)さん (修士・彫金) “Vallmo”大学美術館B2階に展示。Vallmo とはスウェーデン語で 「ひなげし」 のこと。緒方さんのひなげしはアルミニウムと銀の細い線で繊細につくられた、れんげの花のようでもあり、岩浜の生物のようでもある。多彩に妖しく、野の花のようにいさぎよい、色の饗宴。え? 形容が矛盾してるって? 二面性、三位一体こそ、工藝の魅力でしょ。◆ 佐藤草太(そうた)さん (修士・日本画) 「予感」大学美術館B2階に展示。日本画でもっとも気に入った作品。シュールレアリスムとは、この境地に帰着すべきなのではないかと思った。泥よけさえ付いていない古典的黒自転車に乗る、黄色いブラウスの一途(いちづ)な少女は写実的に描かれているが、風になびく髪がもの狂いの姫を連想させる。さびしい妖怪の仮の姿としての人間。全体の色調は、ミクロの錆(さび)がまぶされたよう。たそがれ色とも言えるが、空は青い。青くて、錆びている。舗装道路も赤錆びた鉄板のようだ。絵の表面に異形のものがいるわけでもなく、異常なことが起きているわけでもないのに、あきらかに現実ではない。一見したところ現実画でありながら、すぐには説明できない非現実感にぞくぞくさせられる ―― そういう体験がしたくて我々は絵に向き合うのだ。◆ 繭山桃子さん (修士・日本画) 「可視光域の外構」大学美術館B2階に展示。夜景、というと遠景を連想する。近景は、夜景としての純粋さを得ることが難しく、夜景として成立しにくいからだ。その盲点を衝いて、絵画ならではの近景夜景を見せてくれたのが繭山桃子さん。近景は、うら寂れたワイヤの柵と工事現場の区画。遠景とまではいかぬ中景に、観覧車と回転木馬。漆黒の闇のなか、さまざまな灯火に浮かぶのは人工物だけで、生物は雑草の双葉とてない。もっとも手前にはピエロの人形がうち捨てられている。じつは徹底した人工構成なのに、ぱっと見はただの写実画のように見せる。ブラックな遊び心が心憎い。◆ 小塚直斗(こづか・なおと)さん (修士・油画技法材料) 「2009~2011」 「2010~2011大学美術館3階に展示。亀頭をさらして横たわる全裸の男。乳暈(にゅううん)の著しい妊婦の全裸。それぞれ横3.9メートルないし縦3.9メートルの大画面で、体毛の一本、のびた爪の数ミリさえ生々しいハイパーリアリズム作品。約束されたインパクトだ。◆ 菅(かん)亮平さん (修士・油画技法材料) 「Fictional scenery」 シリーズ絵画棟1階に展示。昨年 +Plus 展でお会いして、今回の修了展の案内をメールで下さった菅さん。いちど室内調度のミニチュアを制作し、その写真をもとに作品を作ってゆく。回り道が生む、現実からの微妙なズレが魅力だ。今回の4作品のなかでは、廃墟と化したトイレがおもしろかったが、最初の驚きを過ぎてみると立体感が妙に乏しいのが不満に思えるから、鑑賞脳は傲慢だ。◆ 大坂秩加(ちか)さん (修士・版画) 「子供は外で遊ぶのが好きな元気な子に育てたい」 「雨、所により花吹雪」 「幕開きでございます」 「どんでん返しって気持ちよくて好き」大学美術館B2階に展示。作品の題も人を喰っている。センスよくあざやかな色彩、あわわあわわと茶目っ気ある構成。現代浮世絵の師匠号を差し上げたくなる。小ぶりの作品を作ってくれたら、買いたいな。◆ 立川彩乃さん (修士・版画) 「となりの怪人」 シリーズ絵画棟8階に展示。狼キャラ、鴉キャラが紡ぎだす中世的な魔のストーリー。銅版画でありながら、背景には日本画めいた にじみ の技も。個展で1枚買いたくなる作品群。◆ 品田祐佳(しなだ・ゆか)さん (学部・日本画) 「記憶」絵画棟4階に展示。学部生の日本画のなかでは、品田さんがピカ一だ。色彩はくすんでいるが、白と黒の使い方にめりはりが利いている。描線も的確。色調のめりはりが生む画像の確かな存在感が、深い好感につながる。* * *2月2日午前に再訪しました。その感想はこちらに:再訪 東京藝大卒業・修了作品展 学部生は総合工房棟のデザイン科作品がおもしろい
Feb 1, 2011
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ドイツの高級紙 Die Welt のウェブサイトで 「熊の餌食となった顔を整形した中国人」 の写真に驚愕した。ドイツの通信社 DPA が配信したものなので、願わくはウソ写真でありませんように。「まえ」 と 「あと」 である。右の写真だけ見ると、これが 「まえ」 みたいだが、左の写真の悲惨さはどうだ。この男性が熊に襲われたのは4年前。当時、本人の皮膚を移植して整形を試みたが、結果は左の写真のような具合。横から見たところ。まさしく顔を失った感じだ。そこで熊の襲撃の2年後に、死人の頬・鼻・唇を移植する本格的整形手術をした。右側の写真は手術2年後の最近のようすだ。上が、死人の顔の一部を移植した手術直後のようす。フランケンシュタイン博士の 「怪物」 状態だ。ドイツの通信社 DPA の記事によると、手術はじつに18時間に及んだ。中国・陝西省西安市の第四軍医大学西京医院整形外科研究所の李会元さん率いる医師団の成果という。(李会元の「会」の字は、正しくは「草かんむり」がつく。)美少女の歌唱代演や、漢人による異民族仮装行列など「これはいくらなんでもホンモノでなければ!」という局面でさえ、世界の常識をサッサと裏切ってくれることが続く中国五輪を見ていると、この整形手術 「まえ と あと」 だって「じつは映画制作現場の特殊効果最前線の取材でしたァ」と、明日の Die Welt ウェブサイトに訂正が出ているかもしれない。ウソ写真と判明しても もう驚かないが、いちおう実話であろうと推察したからブログにこうして紹介しておるわけであります。
Aug 22, 2008
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意外なことがいろいろ書いてある。「胡椒やナツメグなどの香辛料が中世ヨーロッパで珍重されたのは、腐りかけた肉の臭い消しに重宝したからだ」 という “通説” は間違いだと断罪する。なぜって当時、胡椒やナツメグを使えたのは金持ちで、金持ちは肉が必要なときに獣を屠って、新鮮な肉を食べていたから。黄金ほど高価な香辛料を使える人々は、腐りかけた肉など食わなかったのさ。じつにロジカルだ。……とまぁ、この話ひとつ読んだだけでも、賢くなった気がしたね。『食のイタリア文化史』 Alberto Capatti・Massimo Montanari著、柴野 均 訳 (岩波書店、平成23年刊)スパゲティは中国の麺をマルコ・ポーロがイタリアに持ってきたことによって生まれたという俗説は、かねてより胡散臭いと思っていたのだが、本書ではアラビア人の役割を強調している。≪ローマ人も粉と水を捏ね合わせ、それを 「平たく伸ばして」 ラガーナ (現在の 「ラザーニャ」) と呼ばれる生地を作り、さらにそれを薄く切ったうえで料理することを知っていた。≫≪乾燥パスタの起源は、アラビア人に求めるのが通説である。アラビア人は砂漠を移動する際の食糧保存のために、食べ物を乾燥させる技術を考案したというのである。アラビア人のレシピ集には9世紀から乾燥パスタが登場しており、その伝統がシチリアにおいて乾燥パスタが作られることにつながったと思われる。≫ (76ページ)12世紀の地理書に、シチリアの乾燥パスタ製造業の発展ぶりに言及したものがあるという。≪ペルシアこそパスタが最初に普及した地域で、アラビア人によってそれが西洋にもたらされ、東に向かっては中国の料理に入りこんだ、とする説がある。≫ (77ページ)*古代ローマ人が愛用した garum というソースがある。以前読んだ本には、魚醤の一種だと書いてあったが、本書によれば≪魚の内臓をオリーブ油とさまざまなハーブのなかに漬けてつくる≫ (122ページ) と書かれてあり、ずいぶん違う。古代ローマでは、酢と蜂蜜とガルムが酸甘鹹をつかさどったが、中世初期にアラビア人が柑橘類と砂糖をもたらし、味のコントラストがまろやかなものになったという。*冒頭に書いた香辛料の非常識については、こんなふうに書いてある。なるほどね。≪香辛料の使用について、それは食べ物の粗悪な質を隠すためであり、保存が悪くて腐敗から悪臭を放つ肉や魚の「真の」臭いを強い味や香りで隠すために使われたのだとする考えは間違いである。この説については研究者たちがかなり前から否定してきたが、不滅の生命力を保つ常識としていまだに流布しつづけている。≫≪香辛料を使ったのは、法外な価格であっても市場で購入することができたエリート層に限られていた。このきわめて限られてひとにぎりの消費者たちは、保存のよくない食物や腐った食物の問題とは確実に無縁の人々だった。中世においては非常に新鮮な肉、その日に取れた狩猟の獲物もしくは購入の時点で屠畜された動物の肉を食するのが習慣だった。≫ (127ページ)本書の原書は平成11年刊の La Cucina Italiana: Storia di una Cultura.訳本も A5判で本文426ページの大部な本だ。
Oct 21, 2012
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さいきん勤務先の若い人たちのメールに 「御座います」 という文字遣いが増えている。わたしの感覚だと、業務上のメールや文書に 「御座います」 などという文字遣いはありえない。呑み屋の女将(おかみ)が「近ごろは御来駕いただけずお淋しゅう御座います」と書いたりするのに使うものではないか。手書きの時代に、筆画の多さをものともせず 「御座います」 などと書くのは手間をいとわぬ水商売の意気があればこそ。そもそも社内に、まどろっこしい 「ございます」 調の文章は、まずなかった。ところが、パソコンだと漢字変換で簡単に 「御座います」 が出る。世間ではあまり使われない文字遣いなのだが、そもそも読書量が少なく、手書きの文章修行もしていない若いひとは、漢字変換機能を先生にしてしまう。年長者が言ってやらないと分からないだろう。お触れ書きを部の全員にメールした。世間さまのお役にも立つかと思うので、ほぼそのままご紹介しよう。≪最近、一部の人たちのメール表現等で気になる点があります。以下の2点に折々留意いただければと思います。いずれも、パソコン使用に伴って漢字変換をしすぎる例です。当部では、経伺書類等で日本語の文章の書き方も大切なので、あえて指摘させていただきます。1. 「御座います」 「御座居ます」「明日の夕食会の場所は xxxxx で御座います」「有難う御座います」のような例を最近 とくに若い人たちのメールでよく見ますが、手書きなら 「御座います」 とはまず書かないことでしょう。「明日の夕食会の場所は xxxxx です」「ありがとうございます」が、自然です。社内業務で、丁寧なほうがいいと思って 「御座います」 を使うのは逆効果です。 バカ丁寧は、失礼なことさえあります。(「御座います」 などという文字表現は、飲み屋の女将(おかみ)が来店催促の手紙に使うようなものだと、あえて付言しておきましょう。)2. 「xxxで有る」 「xxxx大きく無い」「Aさんは肉を食べ無い」「集合場所は渋谷で有る」と書いてあったら、おかしな感じがするでしょう。「食べない」 「渋谷である」 と書きますね。ところが、最近以下のような例が経伺書類等に散見します:「融資組成が好調で無い時期には」「事業収益額は大きく無い」「事業収益は xxx 億円で有る」ついつい漢字変換してしまったのでしょうが、このような不自然な漢字の使い方は、かえって文章を読みにくくします。「融資組成が好調でない時期には」「事業収益額は大きくない」「事業収益は xxx 億円である」と書いてあるほうが、目がつっかえずに、すっと読めるでしょう。総じていえば、「ある」 「ない」 は、すべて ひらがなで書いておくのが無難です。漢字変換しても字数は減らないし、読みにくくなるだけです。とくに 「~である」 や 否定の助動詞の 「ない」 は、漢字で書くのは間違いです。(「そういうことも有りうる」 「連絡がなかなか無い」 のように、漢字で書いたほうが読みやすい場合もあります。それは、 「ある」 「ない」 が独立した動詞・形容詞として機能しているときです。)以上、参考にしてください。≫いまの若い人たち、よく頑張っている。その姿を見ているから、わたしは日本の将来に対してまったく悲観的でない。パソコンとメールの時代になって、若い人たちの雑用が減り、実務量が飛躍的に増えた。日々鍛えられていく様子は、見ていて頼もしい。ただしその一方で、わたしが入社したてのころのように、書く文章すべて真っ赤になるまで添削されて文章修行をするということが、いまの若い人たちには無い。だから、ときどきは愛想ならぬ老婆心をふりまくことも必要だ。*ふと思い立ってグーグル検索をしてみた。世間では 「ありがとうございます」 をどう書いているのか。ありがとうございます 67,500,000件有難うございます 5,680,000件有難う御座います 2,240,000件有り難うございます 1,760,000件ありがとう御座います 928,000件有り難う御座います 678,000件有難う御座居ます 57,600件有り難う御座居ます 8,430件ありがとう御座居ます 4,360件「有難う御座います」 「ありがとう御座います」 が大健闘しているのにはビックリである。こういう文字遣いの傾向は年ごとに変化していくと思うので、このようなグーグル検索結果を定期的に行った結果が残っておれば、国語史を書くうえでも有益だろう。
Feb 3, 2009
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10月中、ブログ冒頭に飾らせてもらった Paul Delvaux (ポール・デルヴォー)の 「海は近い」。夢のちからで永遠の美の行列につらなる女性たち。作品がこの世に存在するために、心からの祈りをささげたい。できることなら微細な虫になって、作品のなかに入り込んでしまいたい。この春に上野の東京都美術館で開催の 「日本の美術館名品展」 で、この作品に出会った。10月25日まで Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された 「ベルギー幻想美術館」 展 でもう一度見たとき、とてもだいじな人に再会したような悦びがあった。「幻想美術館」 が、ベルギーからの搬入ではなく、すべて姫路市立美術館所蔵の作品から構成されているのにも驚いた。姫路には出張の途中に何度か寄った。お城の近くをタクシーで走った夜、夢のようにライトアップされた煉瓦造りの建物が忽然と現れ出でて目を見張ったのを今でも覚えている。残念ながら通り過ぎただけだが、あの美術館にいつか行ってみたい。その昔は陸軍の施設、そして戦後は市役所として使われた建物だという。デルヴォーの作品をもう1点。こちらは National Galleries of Scotland 所蔵の “La Rue du tramway” (「路面電車のある街路」)。鉄道も、デルヴォーの好んだモチーフだった。Bunkamura の 「ベルギー幻想美術館」 では、数ある作家のなかでもデルヴォーの作品を20点くらい集中して展示して、ミニ回顧展ふうだったが、「海は近い」 に比べると他の展示作品は習作のように見えた。……おっと、これはあくまで、「海は近い」 への憧憬が言わせた失言です。*ルネ・マグリットの作品も Bunkamura の美術展の華だった。マグリット作品に会うと、こころと体が浮遊しはじめる。しかも浮遊するだけでは許してくれない。突然に想定外の磁場に入り込む。もっと点数があるかと期待していたので、ちょっと物足りなかった。おかげでショップで大部のマグリット画集を買ってしまった。いつだったか、ブリュッセルに マグリット美術館 がオープンしたと日航の機内誌で読んだときは、行ってみたくて心がうずいたものだ。マグリット自身が31歳のときから24年間住んだ建物がそのまま使われているそうだ。
Oct 31, 2009
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一流のジャーナリスト花岡信昭(はなおか・のぶあき)さんが5月14日に急性心筋梗塞でお亡くなりになった。花岡先生には、拙著 『日本の本領(そこぢから)』に 「刊行に寄せて」 と題して前書きを書いていただいた。同書の帯にも大きく≪元産経新聞論説副委員長花岡信昭氏 推薦「日本国のあり方を真正面から問いかけている」≫と記(しる)させていただいた。花岡さんには2度お会いした。平成18年のこと。1度目は 『日本の本領』 への前書きをお願いするため。待ち合わせた内幸町の日本記者クラブのロビーで、花岡さんは原稿に手を入れておられるところだった。初対面の挨拶をして 『日本の本領』 のゲラ刷りをお渡しした。2度目は出版後のお礼の食事会。天厨菜館銀座店。花岡信昭さんと、産経新聞文化部の桑原 聡さん、そして『日本の本領』を出してくれた彩雲出版の高山智道さん、それにわたし。(桑原 聡さんは、拙著 『中国人に会う前に読もう』 に目をとめてくださり、わたしに産経紙上で書評を2本書かせてくださったご縁。ちなみにわたしが書評したのは、内田勝久著 『大丈夫か、日台関係 ― 「台湾大使」 の本音録』 (産経新聞出版) と、ジェームズ・キング著 『中国が世界をメチャクチャにする』 (草思社)。)花岡さんが産経の論説委員になられて以降、国内政治関係の社説は毎日のようにご自分が書いておられたという。なつかしみながら、そんな話をなさった。花岡さんの署名記事は確かな筋が通っていて、産経紙上で見れば必ず読んだものだが、じつは花岡信昭の署名のない花岡さんの文章を我々読者は沢山読んでいたわけだ。平成14年に長野県知事選出馬の準備のために産経をお辞めになってからも、配信コラムを読ませていただき、ときどき感想をメールしていた。花岡さんのブログが大炎上を起こしたときには、炎上させる書き込み者の心理を解説し、不当な書き込みは片っ端から掃除してしまうようお勧めした。いっぽうわたしが 「天皇の本業と余技」 について配信コラムに書いたときは、花岡さんが賛同のメールをくださった。それがご縁で 『日本の本領(そこぢから)』 の前書きをお願いしたわけである。花岡さんは道州制を支持しておられたが、わたしは 「道州制より府県合併」 派。花岡信昭先生との数少ない意見の相違点だ。先生が天に召される前に今一度、談論風発の時間をいただきたかった。
May 16, 2011
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美樂舎マイ・コレクション展で、わたしは台湾の Natako Oo さんの作品を展示している。展示した2作品のうちの1つは、アートファンなら一目見て分るとおり、会田 誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」シリーズが影響している。剽窃でもパロディーでもなく、Natako Oo作品は会田誠作品を消化し、写真コラージュの手法で昇華したものだ。ここにひとつの系譜があり、アート史の1頁が開かれたと、ぼくは思うね。展示会場には、会田誠作品を画集から縮小カラーコピーしたものを、Natako Ooさんの作品の下に <参考> と明記して貼りだした。展示の初日の午後になって、会田誠さんの所属画廊であるミヅマアートギャラリーの社員が会場に来訪し、カラーコピーを撤去するようにと伝えてきた。会場係がすぐに撤去してくれた。わたしに言わせれば、来訪者が会田誠作品と Natako Oo 作品を見比べることができるようにしたのは、現代アート史を語るためという立派な目的があったのだが、適法違法の微妙なところだから撤去はやむをえないと思った。かりにわたしが、画集の絵を次々に額装して壁に展示し、「会田誠作品展」と銘打った展覧会を行ったとしたら、これはもう完全な真っ黒け。文句なしにバツである。そういうケースと今回のマイコレ展のケースは明らかに異なる。しかし、率直に言って線引きはむずかしい。今回のケースはグレーなのである。* * *しかし、ここから先はミヅマアートギャラリーのほうが非常識だと思う。ミヅマの社員は、あろうことか展示の説明文にまでクレームをつけてきたのである。ミヅマアートギャラリーが問題にしたのは、このくだり:≪アートファンなら、会田誠(あいだ・まこと)さんの有名な問題作「犬 雪月花」の3連作を思い出すはずです。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕事には驚くばかりです。そして、うつくしい。≫驚いたことにミヅマの社員曰く、「会田誠の名前に言及してはならない」。仕方がないから会場係が、Natako Oo 作品の展示説明文も撤去した。勤務先まで急報があり、わたしは勤務を終えたあと会場へ行って、以下のような文章に改めて壁に貼り付けた:≪アートファンなら知っている、ある有名な問題作。いわばその実写版写真コラージュが「少女恋物 #01」ですが、丹念な仕上げにはドキリとさせられます。Kawaii装飾に彩られた、美しくも目くるめく世界です。≫説明文としてはよくなった。ミヅマちゃん、ありがとう!しかし、である。「会田誠の名前を出すな」とは、いったいどういうことなのだろう。アーティストの名前に言及するためにいちいち所属画廊の許可が必要なのであれば、およそアート史を書くことはできない。ミヅマアートギャラリーの非常識には驚いた。劇評で石原さとみや笹本玲奈について書くために、いちいちホリプロの了解が必要か? みたいな話だ。今回のケースでは百歩譲って、会田誠さんについて「言及がないとはけしからん」と言われるのなら、まだ分る。(その場合だって、会田誠に言及するかどうかは、あくまでわたしの裁量の範囲だと思うがね。)「会田誠の名前を出すな」というくらいなら、この際、会田誠さんの名前を廃止してはどうか。案外、会田さんは「名無しもいいね」とゲラゲラ笑ってオーケーするかもしれないね。【蛇足】 展示会場に来たミヅマアートギャラリー社員を名乗るひとは、会社を代表して掲示物撤去を要求しながら名刺は出さなかったという。社会人として、非常識。ミヅマアートギャラリーは、社員教育からやり直したほうがよいのかもしれない。【続・蛇足】ミヅマアートギャラリー代表の三潴末雄(みづま・すえお)さんが、平成26年8月19日の午前11時ごろに、わたしのFacebook上に以下のようなコメントを書き込んだ。≪会田誠の表面のイメージをパクった醜悪なものだ。作品とは呼べない。会田誠にはきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。≫≪会田誠の作品イメージを勝手に参考資料として、展示しているが、即刻辞めて欲しい。迷惑な話だ!≫三潴さんが書いた「作品とは呼べない」といった内容は わたしには罵詈雑言に思えるが、アート界でご自身が育てたと自負されているであろう会田誠さんへの父親のような愛情が、三潴さんをして我を忘れさせたのかもしれない。Natako Oo 作品は会田誠作品と以下の点で決定的に異なり、パクりではない。そこがすごいところ。Natako Oo 「少女恋物 #01」 (平成25年)(1) 会田誠作品「犬 雪月花」連作の少女が犬への連想を喚起することを強く意図している。それに対し、Natako Oo 作品「少女恋物」連作は犬を連想させない。むしろ犬を連想させては邪魔になるから、会田誠連作に存在する首輪を Natako Oo 作品はあえてつけていない。(2) 会田誠作品「犬 雪月花」連作が雪月花というモチーフによっているのに対して、Natako Oo作品「少女恋物」連作は医療行為がモチーフになっている。それによって、会田誠作品が描く少女たちの手術前はどうだったろうね? という問いかけにもなっている。会田誠作品「犬 雪月花」は社会的波紋を呼んだ作品であり、それに対するひとつの批評を提供しているという意味で、Natako Oo作品はきちんとした社会批評としっかりしたコンセプトがある。こういうのを、換骨奪胎というのである。三潴さんご本人が後で否定しないように PC 上で三潴さんの書き込みを撮影した。(なお、17 saat once とあるのは「17時間前」ということ。わたしのFacebookは言語設定がトルコ語になっているので、「いいね」もBegenとなっている。三潴さんの名が Mizuma Sueo とローマ字書きになっているのもそのため。)【8/21 夜、追記】ここ数日、ブログへのアクセスが急増している。8/18 757 (実力値)8/19 4,100 (えらく増えた)8/20 16,981 (こんなこと初めて)8/21 22,894 (23:20現在)「ミヅマアートギャラリー」を風呂に入る前にGoogle検索したら、このブログが検索ヒットの2件目に来た。Wikipedia も抜くとは、ビックリ:ところが風呂から出てみると順位が下がっていた。あれ…? 順位は刻々と入れ替わるようだ:
Aug 19, 2014
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