「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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ホタテバーガー☆ミ
慶応4年(1868)明治元年
旧暦
新暦
天気
出来事
1.1
1.25
薩摩の暴挙に耐えかねた幕府側の薩摩藩邸焼き討ちの報が届き、薩摩藩奸悪五箇条を述べた「討薩の表」を起草し朝廷に奉るために慶喜は上洛を決意。
1.2
1.26
「討薩表」と掲げた幕府軍が淀の陣営を発する。
上奏文の使者は大目付滝川具挙、総督老中格大河内正質率いる歩兵・騎兵・砲隊、会津・桑名藩ら約一万五千。大阪出発夕刻淀城に入る。伏見方面には城和泉守を将として新選組会津兵先鋒。鳥羽街道は竹中丹後守を将として桑名藩など。京都ではこれに驚き薩長二藩の兵を鳥羽・伏見方面に派遣して旧幕府軍の入京を阻止させようとした。この時在京の兵は約九千人弱。うち出兵は千五百人程度。会津藩は伏見京橋御堂に宿陣、淵辺忠右衛門・有馬藤太・林半七・鳥尾小弥太・谷兎毛・細井勇が御堂に押しかけ林権助に上洛差し止めを申し渡す。
1.3
1.27
曇
午後四時、
鳥羽伏見の戦い
勃発。
総督老中格松平正質、副総督若年寄並塚原但馬守昌義。薩摩藩、幕府軍に発砲し戦争勃発。
新選組は伏見奉行所を本陣として戦闘。桃山、御香ノ宮より大小銃打ち掛け戦数刻に及び、伏見市中に放火。京橋口にても戦い戦死者を出す(七つ時すぎ。午後四時ごろ)肥後橋辺に陣。永倉隊出動。奉行所の壁を越えようとしていた永倉を島田が引き上げる。
陸軍奉行竹中重固。夜、旧幕軍は高瀬川堤に退却、ここで薩長の進撃部隊を迎撃するため布陣。
1.4
1.28
濃霧
払暁土佐・長州竹田口と伏見街道から進撃。薩摩は鳥羽街道から高瀬川を渡って迫る。戦況、幕軍に不利。上鳥羽街道で激戦。新選組淀方面へ退却。淀、千両松において激戦、井上源三郎他多数戦死。淀城下に陣
1.5
1.29
晴
鳥羽街道より薩摩、伏見街道より長州が進撃して淀の旧幕府兵・会津兵に迫る。
新選組、下鳥羽にて戦う。敵は敗走するも淀川堤より押し来て八幡、橋本まで退く。幕軍有利も山崎烝ら重傷者多数出る。負傷者は大坂八軒屋の京屋に入る。淀藩寝返る。
1.6
1.30
晴
暁天に敵来進。橋本に布陣してお互い砲撃する。
土方、原田の本隊が石清水八幡宮の鳥居前で、永倉、山口の一体20名は八幡山中腹で戦闘。脱走者も多数出て大坂八軒屋京屋忠兵衛方へ退陣。
橋本口で迎撃するも津藩兵、藤堂藩が寝返り幕軍総崩れ。新選組は勝利するも大勢は既に決していて退却、八軒家に陣。150人中20名戦死。
「錦旗の御旗」翻る。
徳川慶喜、海路帰京のため老中板倉勝静、容保候、定敬と共に夜大坂城を出る。開陽丸が見つからず外国船に一泊
1.7
1.31
開陽丸榎本艦長不在ながら慶喜強引に出航。江戸へ逃げる。
総裁有栖川宮熾仁親王から慶喜に追討令が出る。
新選組大坂城二の丸に入るも火災により京屋に移る
1.8
2.1
新選組小舟に乗って木津川を下る
1.9
2.2
晴
大阪城、薩長勢に囲まれて火の海となり12日まで燃え続ける。
順動丸出港
1.10
2.3
晴
新選組富士山艦に乗り込み、兵庫沖に碇泊(負傷者は富士山丸、可動者は順動丸に乗ったともいうが土方は富士山丸)
1.11
2.4
富士山丸、兵庫沖を出帆、夜、紀州由良港に碇泊
征討将軍が慶喜追討の宣言を表す。
1.12
2.5
晴
慶喜、容保候、定敬、江戸着 。
順動丸江戸品川に入港
1.13
2.6
山崎烝、大坂八軒屋の京屋で死す(或いは、富士山艦に乗り込み、出航後間もなく死亡、とも)
近藤に登城命令
1.14
2.7
雪
夕刻、横浜入港。島田魁を添人として戦傷者は上陸、仮病院とされたフランス語伝習所に入る
1.15
2.8
晴
新選組富士山丸品川へ上陸、旅宿釜屋に戦塵を払うも近藤と沖田の二人は、神田和泉橋の医学所松本良順宅に直行療養。隊士は117名
1.16
2.9
晴
土方、近藤江戸城に登城。 榎本武揚、慶喜に腰抜け呼ばわりの暴言を吐く。
城内で佐倉藩士依田学海に「戎器非砲不可、僕佩剣執槍、一無所用」と語る
1.17
2.10
朝廷は会津追討を仙台藩主伊達慶邦に命じる
1.18
2.11
佐藤彦五郎、粕谷良順、近藤勇と面談。歳三は25両の買い物
土方、近藤会津藩邸を訪れ2千両を受領
1.19
2.12
斉藤、医学所で治療を受ける
1.20
2.13
近藤・土方、松本良順宅にて彦五郎と会い朝から話し込む
1.21
2.14
夕方土方・大石が彦五郎を和泉屋に訪ねる
1.22
2.15
歳三、戎屋にて35両の買い物(洋服?)
彦五郎、品川旅陣釜屋へ行き土方に面会
会津藩兵と新選組の負傷者に対し、幕府より慰問品が贈られる。
旧幕府(徳川家)組織改正。勝が陸軍総裁、大久保は会計総裁、榎本が海軍副総裁に登用される
1.23
2.16
鍛治橋大名小路の元秋月右京亮種樹(うきょうのすけたねたつ)の屋敷(現在の三菱銀行本店)を新選組屯所に当てられ、引き移る。
歳三、5両の買い物
1.25
2.18
彦五郎、元込め銃20挺を買い付ける。600両
1.27
2.20
松本良順へ100両支払う
1.28
2.21
近藤、横浜へ出張。 医学館で治療を受けていた微軽症の隊士合流
1.29
2.22
仕立屋二郎で6両の買い物(洋服)
2月
東征大総督、東海・東山・北陸三道先鋒総督決定
2.1
2.23
岸嶋芳太郎、尾関泉良人横浜に出張、横浜の傷病者を神田和泉橋の医学所に移転を伝える
2.2
2.24
島田魁ら横浜出立し品川に一泊
2.3
2.25
新選組元込銃(ミニエー銃か?)5挺購入。ズボンの代金13両2分支払い
島田ら品川を発し神田和泉橋の医学所に入る。 横浜の負傷者医学所に転院。
幕府より300両を受領する
2.7
2.29
近藤、銃創治療のため横浜の医学所に行く
2.9頃
慶喜、容保候、定敬候の登城禁止を命じる
2.10
3.3
尾関泉、近藤を迎えに横浜へ行く
2.11頃
3.4
会津藩、朝廷に嘆願書を提出し平和的解決に望みを託す。
2.12
3.5
晴後雨
近藤勇登城。上野東叡山に恭順する慶喜の警護を命ぜられる。15~25日まで新選組半隊ずつ交替勤務に就く。
江戸城を出た慶喜、寛永寺に閉居する。 勝と面談
2.13
3.6
雨
会津藩、神保修理を断罪。
夜、彦五郎の元へ土方から使いの亀吉がきて日野宿四ツ谷の要蔵を下宿の幸助を出頭させるよう依頼がある。本宿村の松本捨助も新選組加入を懇願したので14日帰府する亀吉と連れ立って出頭させる。
慶喜、上野寛永寺で謹慎生活を始める
2.15
3.8
新選組、慶喜の警護を開始。二交代で上野大慈院の警護を勤める。
2.16
3.9
容保候、会津へ向かう。前日藩兵全部を和田邸内に集め大阪城を脱出した事をわび、22日会津若松城に帰る
大総督府参謀林玖十郎(宇和島藩士)奥羽鎮撫下参謀世良修蔵へ「容保は死罪」と指示する
2.17
3.10
隊士3人甲州へ出張。「甲州行」支出300両
2.23
3.16
旧幕臣ら彰義隊を結成し上野を占領する。
2.25
3.18
晴
慶喜の警護を終了。
近藤、芝の金地院で養父周斎の墓参。
勝、旧幕軍の軍事最高責任者に就任。新選組甲府城を抑える事になる。
2.26
3.19
沖田総司長姉ミツ一家庄内へ旅立つ
2.27
3.20
2400両資金下される。
松本良順へ負傷隊士の治療費として100両支払う。
2.28
3.21
新選組諸支払いをする。甲州出陣手当の支払い70人595両、沖田10両、近藤留守宅300両等
2.29
3.22
会津藩から1200両、松本良順から3000両受け取る
3.1
3.24
晴
甲州出陣。
酒井飛騨守屋敷を出立。新選組約百名、甲陽鎮撫隊を名乗る。近藤勇は若年寄格大久保大和守剛(?)、土方歳三は寄合席格内藤隼人となる。慶喜から名前をもらう。この日府中に泊る。
土方、洋服を着て馬上。
隊士編成 甲陽鎮撫隊 隊長:大久保大和守剛
副長:内藤隼人
副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、山口次郎
諸士調役:大石
隊長附組頭:相馬肇
歩兵頭:岸島安太郎
小荷駄:安富才輔
道中払方:弾内記
3.2
3.25
晴
西光寺境内で休息の後、日野佐藤彦五郎方にて休息の後八王子に泊る。日野農兵隊22人甲府まで送る。総司と別れる。
昼に出立して与瀬(神奈川県相模湖町)に泊る。西軍上諏訪まで進軍。
3.3
3.26
雪
与瀬出立。先陣猿橋宿(大月)泊り。後陣犬目宿到着。
3.4
3.27
小雨
犬目泊りとなるが、西軍甲府城を接収
3.5
3.28
晴
甲陽鎮撫隊駒飼に布陣。隊士は洋服の上着のような格好の木綿の綿入れを着て、これへ撃剣の胴をつけてズボンをはいて草鞋履き、刀は白木綿の帯に差している。白い木綿の鉢巻をしていた。
神奈川の菜っ葉隊(吹田鯛六)へ援軍を求めて土方歳三江戸に下る(共一名を連れて行く。)
3.6
3.29
晴
甲州柏尾大善寺で土佐の板垣退助と戦闘に及び敗走、大月に至る。
土方、早駕篭2挺で日野を通過する
3.8
3.31
晴
援軍に失敗、歳三朝五ツ日野通過、甲州へ向かう。八王子で近藤と会う
3.9
4.1
甲州柏尾で四散した鎮撫隊は日野を通過杉並の玉野家に集った
3.10
4.2
晴後雨
浅草今戸の慶養寺に屯集。今戸称福寺を病院に当てた
このころ近藤と勝は江戸城中で「激論」する。このとき「大和守」の名をもらった(?)諸大夫成という下級幕臣より一段高い地位を占める称号か
3.11
4.3
晴雨
永倉、原田ら9名ばかり、靖共隊を組織。近藤、土方と袂別する。この頃沖田総司はすでに千駄ケ谷の植木屋平五郎宅に移ったといわれる。
彦五郎、土佐藩兵から嫌疑を掛けられる
3.12
4.4
新選組粂部正親、負傷隊士二十数名をまとめて会津へ急行。京都以来の新選組隊士51人(田村ら)は流山より銚子港に出て海路水戸を経て平潟(北茨城)に至り、陸路福島県に入り、棚倉―矢吹―長沼と西軍に追跡されながら会津へたどり着く。<
3.13
4.5
雷雨雹
田町の薩摩藩邸において勝海舟、西郷隆盛が会見、江戸城無血開城決定
夜、先発隊48人、五兵衛新田の金子邸に入る。
向島にて彦五郎と面談。一族赦免の相談をする。土方、この時葵御門越前康継を贈る。土方は勝に近藤は大久保に密使を宛て佐藤家は後日一族赦免となる。
3.14
4.6
晴
五箇条のご誓文
近藤勇(大久保大和)隊士十名と供に金子家へ入る。
3.15
4.7
晴
昼、土方五兵衛新田着。総員112名。
3.18
4.10
土方、今戸へ良順を訪ねる
3.19
4.11
奥羽鎮撫総督九条道孝と副総督沢為量(ためかず)が参謀大山綱良(薩摩)世良修蔵(長州)醍醐忠敬(ただゆき)(公家)を伴い松島湾に上陸
3.20
4.12
この頃五兵衛新田に屯集した鎮撫隊は新選組に復して隊伍を整える。近藤勇、土方歳三、大石鍬次郎、安富才助、島田魁、中島登、市村鉄之助、他227人
3.21
4.13
再び今戸へ
3.24
4.16
松本良順、佐々井の手紙を持参
4.1
4.23
晴
新選組227人(五兵新田の観音寺62名、滝二郎宅83名、新宅35名、金子邸47名)流山に移動する
4.2
4.24
流山に着陣。本陣を長岡屋、平士ら分隊を光明院に置く
4.3
4.25
晴時々雨
西軍、流山を包囲する。香川敬三率いる新政府軍が急襲。
大部分の隊士は山野で野外訓練中の為本陣には数名しか残っていなかった。いったん本陣に戻った近藤は切腹を決めるが土方は総督府へ出頭しあくまで大久保大和として通す様に説得し、近藤は隊士たちを逃がすためにこれに応じる。
近藤投降し越ケ谷の西軍本陣に連行される。近藤に付き添う者、野村利三郎と村上三郎。村上は途中より帰る。この夜、土方歳三、相馬、島田と江戸に潜入する。この時期土方は榎本と謀議をしていたらしい。
斉藤、安富隊士と共に会津へ。市川―布佐―銚子―潮来―水戸―平潟―棚倉―会津へ
4.4
4.26
雨時々晴
島田魁、軍用金を集めて流山から江戸に潜入して土方と合す。
土方、勝海舟と面談。嘆願書を書く代わりに、幕府脱走軍の暴発阻止と江戸圏からの撤去への助力を指図したらしい。配下の松波権之丞に手紙を書かせる。
近藤は囚人駕篭にて板橋に送られる。夜半に島田と合流し(深川の永代寺)酒井屋敷(元酒井飛騨守の役宅)に入る。ここは新選組屯所にした秋月邸のすぐ近く(現三菱銀行向かい?)
4.5
4.27
強風曇雨
土方の命により、相馬主計は松波権之丞差出しの封書を持って、板橋の近藤を尋ねるも、その場で捕らえられる。書は土方、勝、大久保一翁ら三人のものという
4.6
4.28
幕臣津田真一郎、近藤の引取りを依頼する手紙を勝に書く。
西軍参謀世良修蔵は白河城入場後すぐ福島へ。
4.7
4.29
香川敬三の一隊は宇都宮到着。日光で会津砲兵隊を破る。
4.8
4.30
近藤勇への審問が始まる
4.10
5.2
晴
会津藩、庄内藩との軍事同盟が締結。この同盟を奥羽諸藩にまで広げようとしていた。
土方一行今戸より八幡宮別当寺(現・深川公園)に来る
4.11
5.3
曇
江戸城明け渡し。
土方歳三、島田魁、中島登、畠山芳次郎、沢忠助、松沢乙造、漢一郎ら6名の隊士と江戸を脱走、途中伝習第二大隊の屯集地法恩院に立ち寄って(これって大鳥さんのところ?)逆井に出て渡し舟で対岸に渡り市川から鴻ノ台(国府台)に至る。
旧幕府歩兵奉行大鳥圭介軍約600
大手前大隊(伝習歩兵第一大隊)約700
伝習歩兵第二大隊
第七連隊約350
桑名兵約80
立見鑑三郎
土工兵約200
秋月登之助・会津藩別伝習隊・回天隊・靖兵隊
4.12
5.4
晴
江戸脱走の幕兵鴻ノ台に集結し、市川において軍議を開く。
歩兵奉行の
大鳥圭介
が幕軍総督になる。
幕軍は、前、中、後の三軍に分けて編成、新選組は前軍に属し、歳三と会津の秋月登之助が前軍参謀となり引率する。
中後軍は大鳥が率いて宇都宮へ向けて出立。土方さんは
小金
に宿陣。
前軍は約千名。会津藩士秋月登之助を長として伝習第一大隊、立見鑑三郎(尚文。後の陸軍大将)率いる桑名藩兵、砲兵隊など。大鳥は伝習第二大隊など約千名を率いる。永倉の靖共隊もここ。
「大鳥圭介は陸軍の事に達し著名なる人故、これをもって総督とし、
土方歳三は従来新選組の副長にて、機知勇略兼ね備わりたる故参謀と定めー
」
4.13
5.5
晴
布施に宿す。
後軍鴻之台を出立し、松戸-山崎-莚打-小山と北上。
4.13
5.6
福田平馬、勝海舟に面談の上、近藤勇助命嘆願する。
原田佐之助、山崎宿において靖共隊より江戸へ引き返す
4.15
5.7
晴
前軍、利根川を渡り水海道方面へ進む。
大鳥の中後軍は利根川の左岸を北進して莚打にて渡河
4.16
5.8
晴
前軍、宗道にて宿陣。永倉新八の靖兵隊は岩井において大鳥軍に合流、後軍に入る
4.17
5.9
晴
前軍、下妻に入って、秋月登之助強談。土方は下館に先登。土方軍役250名は下館城の表門と裏門の前に大砲を備え、兵を配置。これに対して下館藩は抗戦することなく降伏。下館藩に金子、兵糧弾薬を受け、秋月隊と合流する。
大鳥の後軍、香川の一隊を破り宇都宮城に戻す。
4.18
5.10
晴
東蓼沼に宿陣
4.19
5.11
晴
前軍は宇都宮城(彦根藩兵、宇都宮藩兵、香川敬三、烏山藩兵)を攻撃。
城南からは立見率いる桑名藩兵隊、土方率いる新撰組、桑名藩兵らの東軍先鋒が、城南東から役200名で麦畑の中を進み、途中新政府軍の一隊と遭遇したが銃撃を浴びせ撃退、退却する敵軍を追うようにして城下に迫る。
中軍秋月登之助率いる伝習第一大隊、後軍回天隊が突入して陥落させる。
城門まで攻め寄せた土方隊は各地に火を放ち城内に大砲・小銃を激しく撃ちかける。激戦の最中逃げようとした味方の兵士を斬り捨てる。
宇都宮城落城。しかし火災のため入城できず、蓼沼へ戻って宿陣。普通城攻めは3倍の勢力を要するといわれるもほぼ同数で攻め落とした事により土方の評価は上がる。
4.20
5.12
晴
大鳥宇都宮に入城し、城内の米を市中に配す。
土方、秋月と連名で笠間藩重役に書簡を記す
4.21
5.13
雨曇
土方入城。
会津藩、仙台、米沢両藩に嘆願書を託す。
4.22
5.14
雨霧
幕軍、宇都宮より出兵し、安塚において戦闘、西軍は壬生城にあり。 一隊は雀宮より壬生城を襲うが敗走。永倉負傷。
4.23
5.15
晴
宇都宮城奪還される。
土方歳三負傷
(南館門付近)今市に下る。秋月も負傷し前軍の指揮権を大鳥に委譲するも兵たちは嫌がる。大鳥は部隊指揮が下手で敗退する事が多かったから。
西軍、壬生より宇都宮へ進軍。幕軍、明神山、八幡山に退陣。さらに午後四時頃日光口今市に敗走。
彦五郎、彦根藩邸の総督府参謀方へ嘆願書を差し出す
4.24
5.16
晴
土方歳三、日光に詰める八王子千人同心の土方勇太郎を呼び斬った兵の供養を頼む。昼時、土方、秋月両人10人余りの護衛者をつけて会津に向かう。田島陣屋で秋月と別れ6人の隊士と会津西街道を進み城下七日町清水屋へ向かう。
4.25
5.17
曇後晴
近藤勇板橋において斬に処せられる。三日間梟首の後三条河原でも再び晒される。
只将一死報君恩 只将に一死をもって君恩に報いん
4.26
5.18
曇
土方一行田島に至り、秋月と別れる。
土方に付き添う者、島田魁、中島登、漢一郎、畠山二郎、沢忠助、松沢乙造の6人
4.28
5.20
勇五郎、勇の死体を掘る
4.29
5.21
晴
龍源寺に勇を埋葬。
土方、島田ら会津城下七日町清水屋に入り、唐津藩大野右仲と会見。
新選組先発組結集する。以後、歳三は療養生活に入る。
新選組は斎藤が指揮をとる
隊士編成
隊長:山口次郎
助役:安富才輔
軍目:島田魁、久米部正親
歩兵頭:近藤隼雄
差図役:伊藤鉄五郎、尾関泉、吉村新太郎
大砲差図役:志村武蔵
大砲役:村上三郎
総勢百数十名
内田良太郎(伝習隊仕官)、菰田元治が付添っていたと望月光蔵が語っている
4.30
5.22
彦五郎、赦免となる
閏 4.5
5.26
晴
会津新選組隊長山口次郎(斎藤一)、白河出陣に際し、松平容保に拝謁
閏 4.6
5.27
新選組、白河へ出立130余人。会津軍総督西郷頼母、副総督横山主税。
赤津泊。日光口の大鳥軍は田島に引き上げ永倉の靖共隊は伝習第2大隊付属
閏 4.8
5.29
京都三条河原に近藤勇の首が晒される
閏 4.11
6.1
14藩による白石列藩会議が開かれ会津藩寛典処分を求める「諸藩重臣副嘆願書」「会津藩寛典処分嘆願書」が奥羽鎮撫総督九条道孝に渡される
閏 4.19
6.9
世良、福島藩士鈴木六太郎に託して秋田遠征中の下参謀大山へ当てた密書が仙台藩士、瀬上主膳・姉歯武之進らに落ちる「奥羽みな敵とみて逆襲致したく」「仙米賊朝廷を軽んじ」援軍の要請。仙台藩士ら激怒
閏 4.20
6.10
会津藩、新選組白河上攻撃し占領。福島で世良参謀仙台藩士、姉歯武之進、赤坂幸太夫らに斬殺される。「薩長は王師にあらず」
閏 4.21
6.11
新選組、三代を出立して白河へ向かう
閏 4.23
6.13
仙台を盟主とする東北25藩の奥羽越列藩同盟結成。のち31藩。
総督に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲、参謀には元幕府老中小笠原長行・板倉勝静、軍事総裁には元幕府陸軍奉行竹中春山が就任。
新選組、白河南方の白坂口関門を守備する
閏 4.25
6.15
晴雨
西軍白河城の奪還を図るも会津藩これを撃退。
新選組、前線から城下に退く
閏 4.28
6.18
西軍、白河南方の白坂に集結
閏 4.29
6.19
会津の援軍として仙台、棚倉、旧幕府などの諸藩兵が白河に入城。東軍兵力2700人余。
新選組、白坂口関門を仙台藩兵に渡し、本町本陣柳家において休陣
新選組隊長山口、軍議の席で白河郊外に陣地を設け哨兵を配置して索敵することを提案するが兵を進めることに反対する西郷頼母はこれを拒む。
土方、療養先で幕臣望月光蔵らと面談し、脱走軍加盟を求めるが拒絶される。癇癪を起こして枕を投げつける
容保候より近藤勇の戒名を賜り、天寧寺に墓を建てる
会津新選組
隊長:斎藤一(山口次郎)
副隊長:安富才助
軍目:島田魁、久米部正親
歩兵差図役頭取改役兼:近藤隼雄
歩兵差図役:尾関泉(雅次郎)、田村一郎、木下巌、近藤芳助、横倉甚五郎
大砲差図役:吉村芳太郎
歩兵差図役下役:大橋半三郎
5.1
6.20
曇雨
早暁西軍白坂を出発、江戸街道、棚倉街道、原方街道より進撃。
新選組、黒川に出陣したが白河城奪還される。勢至堂まで退却。
5.2
6.21
三代で10日程休陣
5.3
6.22
「奥羽列藩同盟」成立
5.6
6.25
「奥羽越列藩同盟」成立
5.12
7.1
江戸府設置
5.15
7.4
雨
上野戦争起こる。原田左之助彰義隊に加わり負傷。
輪王寺宮公現法親王(のちの白川宮)は品川沖から旧幕府の軍艦に乗り平潟に上陸、6月初めに会津若松に入り奥羽列藩同盟の盟主として7月中旬に白河城に到着。このとき22歳
西軍は長州山形有朋、薩摩黒田清隆、土佐岩村精一郎
5.17
7.6
曇雨
原田左之助落命。(本所大久保主膳正屋敷(神保山城守屋敷?)にて)
5.26
7.15
晴
東軍の総攻撃
新選組、白河へ進撃するも敗戦。上小屋まで退く
5.27
7.16
晴
島田魁負傷。
白河再攻撃。新選組は会津遊撃隊と合同で北から攻撃、大谷地で戦闘に及ぶも牧ノ内まで敗退
5.30
7.19
晴
千駄ヶ谷池尻橋植木屋平五郎方で沖田総司夕方六つ時ごろ病死。
6.3
7.22
夕立
新選組、福良に至り会津喜徳に拝謁。島田、病院にて公より25両下賜される
6.6
7.25
曇雨
新選組、大平口へ出兵。
近藤勇の梟首を「中外新聞」が報道。
其勇に至りては惜しむ可き壮士なりと言わざる者はなし。
6.10
7.29
羽太へ進む
6.12
7.31
晴曇
新選組、太平口からの白河攻撃に参加。羽太より白河へ進み米付近で戦闘するも敗走して羽太に帰陣
6.15
8.3
晴曇
土方歳三、会津若松において輪王寺宮に属従する覚王院義観と談合する
6.18?
元幕府陸軍奉行の竹中重固(春山)と面談し会津に送られてくる新式銃五十挺、弾薬四万発の使い方について相談を受ける。
6.20
8.8
秋月率いる伝習第一大隊会津到着。
6.24
8.12
秋月病気により竹中が伝習第一大隊の総督となり白河口へ出張。
6.26
8.14
伝習第一大隊の書記だった大嶋寅雄が土方に付属し仙台行きの建白書を出す。
7.1
8.18
晴
この頃、土方歳三は福良の会津陣営に出張、新選組は土方の命によって再び白河を攻めた後、長沼を経て町守屋に至り休陣。土方には伝習隊の大嶋寅雄が従っていた。
7.6
8.23
曇
土方、戦線復帰
(福良)
7.10
8.27
土方、竹中の後を受け伝習第一大隊総督となり、須加川口町守屋宿陣。
7.12
8.29
晴
土方、福良本陣に酒を贈る。附属隊士を伴い羽太口へ出張
7.14
8.31
曇
福良に戻り酒宴。夕方再び羽太口へ。
7.17
9.3
江戸を東京とする旨の勅旨が出される。
7.18
9.4
雨
大谷地口で捕縛された不審者2名を尋問。
7.19
9.5
雨曇
米村右衛門を呼び出し白河の情勢を聞く
7.20
9.6
晴
土方、附属隊士と会津藩士と共に猪苗代湖見物
7.23
9.9
徳川慶喜、駿府へ移る
7.27
9.13
三春藩、西軍に降伏
7.29
9.15
二本松落城。
町守屋の新選組、会津、伝習隊、郡山へ進出しようとする。
日光口を支えていた大鳥は伝習第二大隊を率いて会津若松へ向かう
8.1
9.16
雨
土方歳三、秋月登之助、新選組、伝習隊第一大隊、回天隊を率いて仙台口に向かうも 三春、二本松両藩の形勢悪く出兵の中止を決し、引き返して、三代、中地、舟津に休陣 新選組須賀川口の町守屋より湖南方面に転陣。
8.3
9.18
晴雨
土方、80名を伴い成田より三代を通って福良の東側の中地まで戻る
8.4
9.19
雨
新選組、伝習隊・回天隊と合流して三代に宿陣。
8.5
9.20
新政府軍に捕縛されていた相馬主計、陸軍隊に合流して輪王寺宮より金子を下される
8.15
9.30
徳川家を相続する田安亀之助駿府へ移る
8.18
10.3
新選組ら、猪苗代に宿陣。
田村銀之助、市村鉄之助、玉置良蔵ら西方の大寺に避難させる
8.19
10.4
小雨
母成峠に移る。この日品川沖の榎本艦隊旗艦開陽、回天、蟠龍、千代田形の軍艦、神速、長鯨、咸臨、美嘉保の輸送船を率いて脱走
この頃には新政府軍は白河、棚倉、二本松の格城を陥落させ、さらに新潟港も占拠する。これにより会津攻略のための補給路を確保した。
8.20
10.5
二本松で戦闘、幕軍敗走して母成に集結。勝岩の守備(最前線)につく。指揮は大鳥圭介。
榎本艦隊、浦賀に停泊
8.21
10.6
雨霧
母成勝岩の第3陣地で早朝からの激戦で死傷者を多数出す。
新選組は猪苗代に引き上げるも行方不明者続出す。大島寅雄臀部に銃撃を受け負傷。自刃を覚悟するも中島に助けられる。山口はぐれるがなんとか猪苗代城下に辿り着く。東山天寧寺まで敗走。
大鳥圭介迷子、母成峠で死亡説もあった(爆)
土方、湖南方面守備の会津兵内藤・小原に猪苗代へ援兵を求める手紙を記す。現存する最期の手紙。(石井郁蔵氏蔵)
榎本艦隊、北上を開始
8.22
10.7
雨
新選組は天寧寺に宿営。ここから島田が湯本に向かい湯本から一隊を率いて出撃。
西軍十六橋奪取、若松城下に達する。
土方は滝沢峠で容保候と防戦するが敗北
会津藩籠城。
榎本艦隊、銚子沖で暴風に見舞われ帆船の美嘉保は沈没、咸臨は清水港まで漂流の上新政府軍に捕獲される
8.23
10.8
雨
土方歳三、滝沢峠で戦闘ののち庄内に援兵を求めて大塩に至る。
松平容保、会津若松城下に敗走。
新選組、若松城下にあって滞在を続け鶴ヶ城の入城を拒絶されて塩川辺に宿陣を張る。土方、大鳥と面談し庄内行きを告げ新選組を託す。土方の伝言を聞いた山口は会津に残留を決める。
「我輩後顧を思わず隊名と共にここに死なん。」
西軍、城下に侵入、西郷頼母の家族、自害。白河口(東)西軍制圧
8.24
10.9
白虎隊飯盛山にて自決 榎本艦隊仙台東名浜に姿を見せる
8.25
10.10
曇
土方、米沢に達する。夜、松本良順と会う。他に壬生の友平慎三郎と会う
8.26
10.11
榎本艦隊、寒風沢に入港。
美嘉保銚子黒生海岸に難破、沈没。乗員13名死亡、一部降伏、伊庭八郎らは逃亡。
8.27
10.12
榎本艦隊、仙台松島湾に到着
8.28
10.13
米沢藩降伏
8月末
会津、日光口(南)西軍制圧
9.2
10.17
仙台国分町の「外人屋」という外人用の宿に榎本、ブリュネらと止宿(9/1?)
9.3
10.18
晴
榎本武揚仙台において軍議を開き同盟軍総督に推薦する。
土方歳三も出席するが、「生殺与奪の権」を与えよとの条件に軍義は物別れに終わり、仙台藩は急速に恭順へと向かう。
会津藩士、堀粂之助米沢藩に援軍要請するも叶わず切腹。
9.4
10.19
米沢藩降伏
新選組、高久村南の如来堂(会津若松市神指町中四合)守備中を攻撃され離散。高久村の戦闘に島田魁ら一小隊出兵。
9.5
10.20
会津、材木町の住吉神社・秀長寺付近で佐川隊、水戸脱走の諸生隊が西軍と大戦、篭城軍の出撃戦中唯一の勝利となる
9.6
10.21
会津、越後口(西)西軍制圧
9.8
10.23
【明治元年(1868)】 改元して明治となる
会津藩士、桃澤彦次郎が米沢に救援を求むも逆に帰順を勧められる。
大鳥以下旧幕脱走軍約2000人と共に会津を離れる。士気甚だ低し
9.9
10.24
塩川付近に滞在の幕兵、福島、仙台に向かう。新選組も歩調を合わせる
9.12
10.27
晴
榎本、土方ら仙台に登城し、恭順派の執政遠藤文七郎、大条孫三郎に面談するも談判決裂。
藩主伊達慶邦より水色組系の下げ緒を拝領
9.13
10.28
仙台藩、降伏の使者を派遣する
9.14
10.29
仙台藩降伏
鶴ヶ城包囲の西軍総砲撃
9.15
10.30
晴
大鳥圭介、会津からの敗走した旧幕軍を率いて仙台に入る。旧幕陸海軍合流して三千余の部隊となる。
榎本は仙台藩に貸与られていた大江、鳳凰、長崎の三艦を接収し庄内藩援護のため千代田形、長崎を派遣したが長崎は座礁、沈没する。
15.16.17日西軍鶴ヶ城包囲網完成。
9.16
11.1
旧幕軍、仙台に到着。新選組土方と再会し会津瓦解の報告をする。
容保候開城の使者(秋月悌次郎、手代木勝任)を板垣退助に送る
9.17
11.2
晴
桑名藩隊の17人、松平定敬に随行のため新選組入隊
9.18
11.3
榎本艦隊の咸臨丸、漂流後下田へ流され清水港で船体の修理をするために入港しようとしたところ新政府軍艦の砲弾を受け白兵戦になるも多くの戦死者が出る。
9.19
11.4
旧幕軍、仙台より木舟に転陣する。
このころ土方、蝦夷行きを強制せず隊士に選ばせる。斉藤一諾斉、松本捨助を郷里に帰す。
9.20
11.5
晴
旧幕軍、松島に転陣する
新選組
隊士―20数名野村、相馬
伝習大隊、及び分隊―大島寅雄30数名
桑名藩士―森常吉17名
唐津藩士―大野右仲24名
備中松山藩士―8名
土方、旧幕軍砲兵差図役頭取兼勤方杉浦清介と面談。
9.22
11.7
会津藩降伏、開城。
「滅藩処分」。その戦死者の遺体は明治2年の雪解けまで収容を許されなかった。
9.23
11.8
庄内藩、降伏
9.29
11.14
額兵隊、仙台を脱走
10.5
11.18
6月に江戸を脱した陸軍隊春日左衛門、相馬主計・野村理三郎、星恂太郎と額兵隊の仙台脱走を祝う。
10.9
11.22
晴
旧幕軍、仙台城下を去り石巻に移る。その後折の浜へ移動。陸送する物資の輸送責任者として土方歳三が指揮を執る
仙台を去るにあたって土方は「到底、勝算の必ず期すべきあるにあらず。(中略)ただ我のごとき無能者は快戦、国家に殉ぜんのみ」と松本良順に語る。
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