ようやく隊を動かせそう。
会津表より林正十郎、宰相殿(容保候)よりの手紙を持ってきてこれまでの戦功を賞せられ、自分には御紋付の羽織を贈られ兵隊へは酒肴料を送られた。
しかも日を置かず会津からも兵を出し勢いを合わせるつもりで、既に有志は出立したものもいると言う。この上必ず力を尽くしてくれと言う。これで全軍士官感泣した。
うう。容保候、やさしいなぁ。紋付の袴もらってます。これで会いに来いってことですか
しかしながら前の件、既に決定したので一旦会津領へ引き上げることを林へ告げ、その旨直ぐに宰相殿に知らせてくれるように頼み直ぐに別れた。
今朝早朝土佐の兵、既に今市に入り来たので草風隊と伝習一小隊を七里村に出して今市に備えさせる。
昼頃今市のほうに砲声が聞こえたとの報告があり、まもなく今市から兵を出して七里村で戦争が起きたと注進があった。
依って私が思うに先のように既に軍議が決定したので、戦争をしないようにと思うが既に砲声が聞こえるに到ってはそれぞれ兵を備え置いてそのうちに各隊支度させて今晩にも出発すべきだと命令を伝え、そのうち砲声が止んだので斥候を遣わせると特別の戦にもならずに互いに退いて戦は止み、味方の怪我草風隊一人、敵は3人倒したという。
戦闘が始まるとどきどきする。負けたんじゃないかと…(苦笑)
その後、各隊速やかに出発の用意をして病者は小佐越通から送るべきだと命を伝えた
先鋒は七つ時頃日光を出発。私が出発したのは既に六時過ぎだったので明かりをつけた
日光から会津領五十里に行くには二通りある。
一つは今市から小佐越に出て高原を経て五十里にいく。これは本道で牛馬もいて会津廻米の道。
一つは日光から直に山に入り山岳を越えて日陰村に出て五十里に出る道。
これは間道で八里程の間人家もなく山道で危険である。牛馬も通れず蜀道の険
(中国、長安から四川省北部の蜀に通ずるけわしい道。古くから険路として知られた)にも劣らないと思う道でこれを「 六万越
」と言う
「六万越」
大変な目に会うんだけど。めげないところが大鳥さんらしいの。(笑)
日光を出て山道にかかった頃、雨後で泥が深く始めのうちは提灯があったけれど終にろうそくがつき暗くて近くの物も見分けがつかない。
予備のろうそくくらい持ってないのでしょうか(T_T)
加えてこの大人数だから前後続いて進むことが出来ない。
一歩踏み下ろせば下は千尋の谷で半丁行っては泊まり一丁行っては休み、大軍が山道を移動する辛苦はたとえようもない。
別に案内役もなければただおおよそ方角を決めて歩き回り、深山幽谷を経ておおよそ三里も行ったころ既に夜半の景色となり後一里も行ったら休息しようと思う。
真っ暗になったうえに野営するにも装備はなし…。
疲れた足を引いて進み近くの木陰に寄りかかって腰をかけ、その側に落ちた枯れ木を拾い集めて火を点け露で湿ったのを乾かしたが、最早夜半過ぎになり、みんな疲れて焚き火の周りに集まり、石を枕とし木の枝を折って寝場所として横になり、少し眠ろうとするが風が木を揺らすたびに露が落ちて顔や背を濡らしてしばしば夢を覚ます。
普通のときは少しうたた寝をして布団が薄かっただけで風邪を引くが不思議と風邪も引かないのは奇妙なものだ
宇都宮のときは風邪引いてたじゃん
布団が薄かったのかい!(呆)
明け方目覚めて四方を見ると千山万岳一碧中に一種の花がある。それは都下では躑躅(つつじ)と同じものでその樹、幹は一尺五寸かニ尺余もあって高さは一丈五尺か二~三丈になるものもある。
枝は繁茂して四方に垂れ、桃色の花を着けるのや白い花を着けるのもあり、
特にその雪白なものは白躑躅の花の大きいものに似てそのあでやかで美しい淡白な姿は全ての花に比べる物がないくらいである。
これを名づけて「野州花」と呼ぶ。
これは野州(下野国・栃木県のこと)だけに自生するもので、全く四山の景況は小さい桃源郷とでも言うべきで詩を賦す。
深山日暮宿無家 枕石三軍臥白沙 暁鳥一声天正霽 千渓雪白野州花
重巒道険細於糸 暗夜挙来兵悉疲 潤底掬泉分緑草 樹陰燃火拾枯枝
滴襟零露寒驚夢 払袂山風冷透肌 林外馬嘶天欲曙 満渓朝霧日昇遅
すごい感動のしかただよね~。
お腹はすいて食べ物も飲み水も無し、夜もロクに眠れず。寒いし兵たちは不満を言うだろうし道も不案内でいつ着くかわからず…。
それでもきれいな花が咲いていただけで元気になっちゃうんだ、この人は。
周りの人もたたき起こして見せたんじゃないだろうか?
果たして大鳥さんの感動をわかってあげた人はいたのか…!
寝不足だし空腹だし道は険しいし…。
苦難の道はまだまだ続く
これを越えて三里も山上の平野を経て一軒茶屋に着く。
これは旅人が休息の為に設けた笹小屋で、家に入ってみれば諸士官、諸兵卒
で混みあい食物を主人に頼むが寒郷の小屋なので飯は素より何も食べ物がない。
味噌を嘗めて水を飲むもの、沢庵を噛むもの、梅干を貪るものなどあり、また疲れて炉辺に重なって眠るものあり、実に餓鬼道(飲食が自由にならず、飢えに苦しむ世界)の有様である
餓鬼道…。そんなにヒドイのか…。(T_T)
最初のうちはそういうものもあったが私が着いたときはそれも既に尽きて一点の食物もない。
ようやく卵を2個貰い飢えと渇きを癒し、笹小屋から二里も山川に沿って下れば日陰村と言う。
人家14~5軒もありここで米があれば兵隊にも食べさせようとしたが、土地の者は稗を常食として米を売るものはない。一休みの後、また一里余も行って日向村に出る。
この村落、日陰村に比べれば人家も少しは多く、食料も些かはあるだろうと思い、また昨夜野宿して士官・兵卒ともに食事もしてないので最早一歩も進めず、この地で一泊と決め各隊へもこれを伝える。
自分は名主の家で宿泊した。
役人に頼み米を求めるけれどとてもみんなに行き渡るほどは村中残らず集めてもないと言うので、米を士官兵士に平等に分配し、それに稗を混ぜ粥とし一同空腹を満たし、家に入ってみれば本多その他のけが人もみんな無事にここに到着したのをみて大いに安心する
ようやく人心地ついて、本多さんにも会えてよかったぁ。
会津和田忠蔵、磯上蔵之丞が来て兵隊が国境へ入るのは迷惑だと家老萱野の口上を持って来たけれども、水島全軍を引き上げることのやむを得ないことを言えば直ぐに了解した。
苦労してたどり着いたのに国に入られるのは迷惑だって言われました。
でもめげずに言い返します。がんばれ大鳥さん。
よかったねぇ。ご飯食べられて…。よっぽどうれしかったんだねぇ。しみじみ。
それから河流を渡って五十里駅に出た。
この駅は人家が6~70軒もあり田島から日光への本道なのでまず特別差し支えもない。
本陣で 萱野権兵衛
に面会し、日光表の形勢を細かく相談し、どうか全軍を一旦田島まで引き上げ、その上で再び出張したいと掛け合い、漸く承知する。
それでは兵隊の順番を決め宿割りをして三依宿まで行くもの、当駅に止まる宿もあり、私はこの駅に泊まって怪我人運送の人足、兵糧の支度を命じたりした。
今晩は日向記の旅宿へ至り米田、その他の士官と寝た。
やっとたたみの上で寝られましたな
山川さん登場です。容保候の意を受けて大鳥さんを迎えに来たのです!容保候やさしい…
山川氏は当時会津藩の若年寄で3年前小出大和にしたがって魯国に行き、西洋文化の国勢を見てきた人で一通り学もあり性質怜悧なので君候の考えでこの人を遣わし私と全軍のことを思案させるために送られたものである。
私は一目見て、共に語るべきことがわかって百事打ち合わせ大いに力を得た。
頼りになる参謀の登場で元気はつらつぅ~!
本日、糸沢で昼食、夕方田島に着き本陣に泊まる
翌6日から16日に到る間別に異常なし。ただ左のことを記し他は略す。
田島は人家は500軒もあり、御蔵入中の大村で相応の町家もあり、ずいぶん便利な土地である。
当駅で全軍を分けるのは左の如し。
第一大隊 四百五十人 元 大手前大隊、隊長秋月登之助
参謀松井 工藤
第二大隊 三百五十人 小川町大隊、隊長大川正二郎
沼間慎二郎
第三大隊 三百人 元 御料兵 加藤平内
七聯隊、山瀬主馬、天野電四郎
第四大隊 二百人 草風隊、天野花陰、村上求馬
純義隊、渡辺綱之助
会津士分の者を40人程も呼び寄せ、これを分配して各隊に付属させた。
第一大隊は三くらい小屋へ向かい、純義隊は白河へ向かい出立する
草風隊は塩原口守衛のため12.3日ごろ既に出発した。
第二大隊、第三大隊は日光口に向かうことを決め、第三大隊は17日、第二大隊は18日田島へ出立と命令を伝えた。
沼間慎二郎、武蔵楼橘先頃から会津城下に在って兵を取り立てていたが私が来たことを聞き、田島へ来たところ本多も怪我で第二大隊の隊長とする事ができないので大川、滝川からも願い出たので大川と共に隊長として扱うことを命じ、第二大隊と共に出立した。
私も会津の人と同道して18日田島を出立した