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「見てごらん、渉。怪奇月食が始まる」 言って夕凪が指差す先には、少しずつ欠けて行く真紅の月が浮かんでいる。「そうか、今夜は月食だったんだ」 二人して瞳を輝かせ、暫し自然の神秘に見とれる。いつもとは違うガーネット色した満月は、徐々にその姿を弓なりへと変えて行き、一度闇に飲まれた後、再び元の大きさへと戻って行った。「渉、君と一緒に見られて本当に良かったよ」笑顔を向けて夕凪が言う。群青の天に浮かんだ満月は、もうすっかり普段と同じ淡い金の輝きを取り戻し、二人のことを見下ろしている。「あぁ、僕もだ。また次の月食も一緒に見よう。もちろん、この海で」 そう言って渉が夕凪の方へと向き直ると、彼は小さく首を横に振って静かに言葉を紡いだ。「これが最後なんだよ。僕はもう、行かないとならないから」 一瞬、彼が何を伝えたいのかその真意が理解できず、渉は息を呑んで彼を見つめた。夕凪は先程と同じ柔和な笑顔のまま、静かな眼差しを向けている。「行く……って、どこへ!?」ようやく渉がそう問い返すと、僅かな逡巡の後彼は「とても、遠いところだよ。だから……もう、会うことはできない」ついに訪れてしまった。この日が。自分はずっと、この瞬間を恐れていたのかもしれない。彼が、夕凪が自分の前からいなくなる、その時が来るのではないかと、心の片隅でいつだって怯えていたのだ。渉はようやく今更ながら、その事実に気が付いた。どうして、どうして。せっかく親友になれたのに、何故今ここで離れなければならない? 渉は一度大きく首を左右に振って、語気を荒げた。「なんだよ、それ! 冗談はやめてくれよ。君にあげるために、絵だって完成させたんだ。明日渡そうと思って、僕は!」咄嗟に手を伸ばし、夕凪の肩を掴む。触れた部位から伝わるひんやりとした感触に、渉の指先がピクリと跳ねる。確かに夕凪は華奢だけれど、こんなにも細かっただろうか。潮風ですっかり冷え切ってしまったのか、彼の肩からは温もり一つ伝わってはこなかった。「ありがとう。見せてもらったよ。海だけじゃなく、僕のことも描いてくれたんだね。とても良く描けてた。君は、きっと立派な画家になれるよ」言い終わると、夕凪は穏やかに微笑んで渉の頬に片手で触れた。柔らかな掌は冷たいのに心地良く、渉の心を安堵させる。そうだ。夕凪が遠くへ行くなんてこと、あるはずがない。だって、今この頬に触れているのは紛れもない、彼自身の掌なのだから。信じない。信じたくない。「なぁ、嘘だろ? 遠くへ行くなんてさ。どうせまた、僕のことからかってるだけなんだろ?」その問いに答えることはせず、夕凪はゆっくりと首を横に振った。茶の瞳が微かに揺らぐ。やはり彼の話したことは、嘘ではなかったのだ。「どう言うことだよ! 夕凪! 僕は君と同じ夢を追いかけて、一緒に大人になるって、ずっとそう思ってたのに! 何で急にそんなこと言い出すんだよ!」語気を荒げて彼へと詰め寄る。頬に触れている彼の掌の感触が徐々に薄れて行くのに頭では気づいていながらも、なんとかしてそれを否定したくて、渉は何度も何度も同じ問いを繰り返した。「ごめん、渉……。僕は、君と一緒に大人になることはできないんだ」そう言った夕凪の表情は、笑顔だけれどとても哀しげで、今夜が本当に最後であることを改めて渉へと感じさせた。 徐々に透き通って行く夕凪の身体の周囲には、銀の光の粒子が無数にきらめいている。夕凪は真剣な瞳で言葉を続けた。「一緒に大人になることはできないけど、僕は見てるから。君が大人になって、夢を叶えるその瞬間も、ちゃんと見てるから……。僕は、この地球の一部になる。そして大気となって、渉、君を包むよ……」夕凪の瞳が揺らぐ。「夕凪!」頬に触れていた夕凪の手が遠ざかり、咄嗟にその手を取ろうと渉が手を伸ばすも、今や実体のない彼に触れることは叶わず、その手は虚しく空を切った。 銀のベールの向こうで夕凪が微笑む。「ありがとう」もう夕凪の声が渉に届くことはなかったが、彼の唇は最後にそう動いたようだった。 やがて彼を包んでいた銀の光は、一際明るさを増し、弾けるようにして背後で揺らめく群青の海と溶け合い、水晶の粒を散らして夜気と同化した。 翌朝、夕凪に渡すはずだった絵を縁側でぼんやりと眺めていた渉に、アイロン掛けをしていた母の真紀子がこんなことを離し始めた。「昨夜ね、渉と同い年の男の子が亡くなったの。小さい頃から身体が弱くて、空気の良いこの街に引っ越してきたらしいんだけど、八月になって病気が悪化しちゃってね。夕凪君って言うんだけど、渉と同じで、絵を描くのが大好きな子だったわ」悲しげな表情で話し終えると、真紀子は渉の手にしていた絵に気づくことなく、和室を出て行った。 絵の中の少年が渉に優しく微笑みかける。木々を揺らす風に門の方へと視線を向けるけれど、灰白色の道と街路灯の鉄柱が朝陽を反射する他に、待ち人を見つけることはできなかった。視界に映る眩しい朝の景色が、ゆらゆらと乱反射して霞んで行く。いつのまにか、もうほとんど蝉の声もしなくなっていた。秋を間近に控えた風が渉の前髪をさらい、穏やかに通り過ぎた。~了~ もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/05
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夕方、相変わらずの大雨の中帰宅した渉を、心配顔の母が玄関で出迎えた頃には、もうすっかり陽も暮れてしまっていた。「随分と遅かったのね。裏の路地で土砂崩れがあったから、まさか渉が巻き込まれてるんじゃないかって、お母さんとっても心配してたのよ」 和室の箪笥の中からバスタオルを取り出して渉へと手渡しながら、でも良かったわ無事で、とようやく安堵の笑みを浮かべて母 真紀子が言った。 母は近所の総合病院に勤務する看護婦で、父が他界してからは女手一つで渉を育ててくれていた。今日が日勤のため、早めに帰宅していた彼女は、帰宅するなりテレビで土砂崩れのニュースを目にし、それからは息子の安否が気がかりでならなかったのだと言う。 土砂崩れの起きた時刻は十三時頃。それはちょうど渉達が美術館へと向かっていた頃の時間帯だった。もしもあの時、普段通りに近道を通っていたら。きっと渉も夕凪も、ここには存在していなかったかもしれないのだ。そう考えただけで、身体中の皮膚が泡立つような恐怖感に襲われ、渉は顔をこわばらせた。 翌日から渉は暇を見つけては海へ行き、夕凪に渡すための絵を描くことに励んだ。木陰で絵を描いていると、打ち寄せる波の音や蝉達の声が一つの音楽のように耳に響き、とても心地良い気分になった。 絵が完成に近づくと、それを受け取った時、夕凪がどのような顔をするかが楽しみで、自然と笑顔が零れた。「できた!」 八月末。ようやくそれは完成した。碧海を背に佇む少年は、栗色の髪を風になびかせ穏やかに微笑む。水面には銀の陽光がきらめき、空の淡い水色と海の鮮やかな紺碧が少年の姿を余計に清廉で美しく浮かび上がらせる。 渉自身全力で取り組んだので、今回の絵には意外と自信があった。明日これを彼に渡すんだ。そう考えているところへ、母から庭の水遣りを頼まれ、渉は二階の自室から降りて玄関の外へ出た。水遣りをしている途中も、明日夕凪に描いたばかりの絵を渡す瞬間が楽しみで、どうにも落ち着かずそわそわした気持ちだった。続く もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/05
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いつもならば美術館へは最短距離で辿り着ける裏の細い路地を通るのだが、この日はどうしても大通りを歩きたいからと言う夕凪に従い、あえて遠回りをした。 大通りは、買い物帰りの家族連れや老婦人達が行きかっていて、渉と夕凪も色とりどりの傘とすれ違った。「どうして急に、大通りを歩きたいだなんて言ったんだ?」 ショーウィンドウに映る傘の花を横目で追いながら渉が尋ねると「別に。何となくだよ」と何でもないように夕凪は答えた。そして暫く歩んだ辺りで「アイスキャンディーだ。食べて行かないか?」そんな風に言う夕凪の視線の先には、アイスキャンディーの看板を軒先に掲げた小さな商店がある。渉が頷くのを確認すると、夕凪は足早に商店の方へと歩んで行き、硝子戸を開けて店内へと入る。一足遅れて渉も足を踏み入れた。狭い店内は僅かに蒸し暑く、古ぼけた木製の棚の上ではところどころ錆びかけた扇風機が、しきりに首を動かしていた。その生温い風が何度も二人の頬を撫でては通り過ぎる中、店の奥から出てきた小柄な老婆が「いらっしゃい、どれにするかね?」と愛想良く尋ねてきた。「じゃぁ僕はソーダで。渉は?」「僕はメロンにしようかな」二人の注文を聞き終えると、老婆は手早く冷凍陳列棚からアイスキャンディーを取り出し、水色の方を夕凪、黄緑の方を渉へと手渡してくれた。二人は支払いを済ませて老婆に礼を言った後、一旦店の外へ出てから、軒下でアイスをかじった。雨は宣告よりも強さを増し、低く垂れ込めた灰色の雲が上空を急速に流れて行く。軒を叩く雨音が、何となく寂しげだった。「アイス食べるのなんて、もう随分と久しぶりだ」そう瞳を細めて言う夕凪の隣でメロンアイスをかじりながら「久しぶりってどれくらい?」と遊び半分で渉が尋ねる。すると彼は、そうだなと少し考えた後、数年ぶりかなと答えて渉と視線を合わせた。 ゆっくりと水色が減って行き、やがて薄茶色の平たい棒だけが現れると、それに書いてあった文字を見て夕凪が嬉しそうに口元を綻ばせた。「あたりだ。もう一本もらえる。渉にあげるよ。何がいい?」「えっ? すごいな、あたったんだ? 僕なんて思い切りはずれなのに」 夕凪の手の中の棒をしげしげと眺めながら渉が言う。「せっかくあたったんだから、夕凪が食べるといいよ。アイスキャンディー食べるのなんて数年ぶりなんだろ?」くすっと笑いを零しつつ言う渉へと夕凪は「僕はもういいんだ。だから、もらってくれないか?」そう返して商店の方へと視線を向けた。そしてもう一度「本当にいいの?」と尋ねる渉に、夕凪が笑顔で頷く。「じゃぁ、ありがたく。今度は柚子で」はずれの棒を傍らのくずかごへと投げ入れて、渉も店内の陳列棚へと視線を向けた。「よし。じゃぁ、ちょっと行って来る」にこっと微笑み、あたりの棒を軽く振った後、夕凪は再び硝子戸の向こうへと入って行った。続く もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/05
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八月十日。その日は珍しく土砂降りの雨で、暇を持て余していた渉は、縁側から庭をぼんやりと眺めながら大きな溜息を落とした。突風が雨粒をさらい庭の木々を激しく揺らす。 視線を門の方へと滑らせた時、藤色の傘を差して佇む夕凪を見つけた。彼は渉と目が合うと静かに微笑し、こっちへ来ないかと手招きをする。もちろん声は雨音にかき消され届くことはなかったが、彼の唇は確かにそう動いた。渉は首を縦に振った後、急いで玄関へと向い、スニーカーを履き、傘縦から黒い傘を手にして戸を開けた。「それじゃぁ行こうか」 言うが早いか、夕凪は渉へと背を向けて歩き出す。渉も慌てて彼の後を追った。「ねぇ、一体どこへ行くんだ?」 渉が夕凪に追いついて尋ねると、彼は美術館だよと答え、シャツのポケットから二枚の入場券を取り出して渉へと見せた。それは四日から一週間に渡り開催されていた印象派絵画展のチケットで、美術館の館長を勤めている父からもらったのだと彼はそう付け加えた。夕凪の父親が美術館の館長だなんて全く知りもしなかった渉は、思わず驚嘆の声を漏らした。「あの絵画展、是非行ってみたいと思っていたんだ。だけど、小遣いだけじゃとても足りなくてさ」「渉の家って、お母さんと二人暮しだったっけ?」「うん。父が亡くなってもう五年になる」「そっか、五年……。今から五年後の君は、一体どんな風に成長してるんだろうね?」そう独り言のように言って、雨で霞む景色よりももっと遠くを見つめる夕凪の横顔はどこか儚げで、何故かこのまま彼が消えてしまうのではないかと言う妙な不安感に駆られた渉は「五年後か。君と同じ、東京の美大へ行ってるかもな」と不自然なくらい明るい笑顔で返す。けれど、それに対する彼からの返答はなく、渉は僅かな気まずさを覚えて瞳を伏せた。 突然、夕凪が足を止め、渉の方へと顔を向ける。急いで渉も足を止め、彼と視線を合わせた。聞えるのは傘を叩く雨音のみで、他には何の音もない。風が吹き、夕凪の前髪を揺らした。頬に掛かった水滴が光っている。「今度、海の絵を描いてくれないか? 僕の部屋に飾りたいんだ」 藤色の傘の上でいくつもの雨雫が弾ける。「いいけど、僕なんかが描くよりも、夕凪の方が上手いんじゃないのか?」「君の描く海が見たいんだ」「分かった。じゃぁ、この夏が終わるまでに描きあげるよ」また一つ風が吹き、二人の前髪を揺らして通り過ぎる。夕凪の頬に光る雨雫が、涙のように見えた。「ありがとう」 夕凪が微笑む。何故だろう。彼の笑みはいつだってどこか哀しげで、その度に不安になる。儚げで翳りのある彼の微笑みには、繊細な硝子にも似た危うさを感じずにはいられない。例え、また明日、と夕暮れの中 手を振って別れる、ただそれだけだとしても、もう次はないのではないかと言う不安感がいつだって心のどこかに存在していた。 目前の夕凪は温和な笑みを湛えたまま、ゆっくりと前方へと向き直り歩み始める。再び、二人肩を並べて道を歩いた。続く もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/05
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突き当りを右に折れ、浅い石段を五十段ほど下ればもうそこは一面の砂浜で、すっかり群青に染まった空と碧海の境界線からは金の満月が顔を覗かせつつあった。「渉、月だ!」 とたんに笑顔を輝かせると、夕凪は浜を駆けて行き、波打ち際で履いていた茶色のサンダルを脱ぎ捨て、波に両足を浸した。渉も彼に倣い裸足で彼の隣に立つ。夜の波はことのほか素足に心地良く、足首を撫でる細かい砂ごと、ゆっくり押しては返す。 巨大な満月が二人を照らしながら、徐々に上空へと吸い込まれて行く。それはこれまでに目にしたことのないほどに壮観で、思わず瞬きさえ忘れて見入った。ふと何気なく夕凪へと視線を向ければ、彼はその透き通った瞳に今見た全てを焼き付けるかのごとく、昇り行く満月を身動き一つせず見つめているのだった。 暫くの後、綺麗だったねと夕凪が嬉しそうに瞳を細めた。月明かりに照らされた彼の肌は陶磁器のように滑らかで白く、その美麗さはどこか精巧な作り物めいて見え、渉の心に得体の知れぬ不安感を生ませた。 渉が夕凪と初めて出会ったのは、八月の上旬、夏期講習が終わった日の午後のことだった。通学路の途中にある空き地の木陰で一休みしていた渉が、夏風にざわめく六本杉の方へと何気なく目をやったところに彼はいたのである。 背丈は渉よりも高めだったが、その体つきは驚くほどに華奢で、栗色の髪と目鼻立ちの整った色白の顔が大変印象深い少年だった。真っ白なシャツに濃紺のジーンズ姿のその少年は、淡く微笑して渉の隣へと腰を降ろした。 見たところ制服を着ていないところからも、彼が同じ中学ではないことくらいは容易に推測できたし、とりあえず渉は自分の名だけ名乗っておいた。 彼はとても不思議な少年だった。夕凪と名乗った以外特に何かを話すわけではなかったが、彼の隣に座っているだけで渉は不思議な安堵感に包まれた。渉自身、初対面の人間にこのような親しみを覚えるのは初めてのことで、正直戸惑ってしまった。しかしそれは最初だけで、一度口を開いてしまうと、驚くほど互いの趣味や価値観の一致に気づくこととなった。 二人とも絵を描くことが好きであることや、海や山など自然の中にいるとすごく落ち着くと言うこと。他にも理数系よりは文系であることまで、一致する点は数知れなかった。 それからは毎日のように夕凪と時を過ごした。一緒に山や海へも行ったし、夜などは川原で花火もした。線香花火が落ちる瞬間に見せた夕凪の哀しげな表情が、今でも心に焼き付いて離れない。続く もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/04
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夕暮れだと言うのに、8月末の風はまだまだ蒸し暑い。ただでさえ今年の夏は猛暑で、庭の草花も、たった1日水遣りを忘れるだけで元気を無くすと言うのに、今日の暑さはいつにも増して厳しかった。 母に頼まれ、先刻から庭の鉢植えに水遣りをしていた渉(ワタル)の額にもジットリと汗がにじみ、残暑の厳しさを物語る。 青いバケツに並々と注がれた温い水を、金属製の柄杓(ヒシャク)で掬って鉢の中や葉などにゆっくりと掛けて行く。朝は元気よく開いていた朝顔の花も、今ではすっかり花びらを閉じ、その淡紫色を内に秘め眠りに投じている。バケツの中で、橙(ダイダイ)と薄紅を混ぜたような夕焼け空が揺れる。生暖かい風が吹いて、庭の木々をざわめかせた。その西から東へと流れるさざなみのような音に何気なく門の方を見やれば、いつの間に来ていたのか、夕凪(ユウナギ)がこちらを窺い佇んでいるのだった。「やぁ」 柄杓をバケツの中に入れ、渉が片手を上げて会釈すると、夕凪も柔和な笑みを返してくる。「どうかした? もう家に帰ってるとばかり思ってたから」言いながら夕凪のもとまで足早に歩む。彼はその問いには答えず、静かに微笑んで、海へ行こうと言った。 この街は海辺に位置しているので、容易に美しい砂浜へも行くことができる。それはもちろん渉の家からでも例外ではなく、十五分も歩けば、綺麗に整備された真っ白な砂浜と透き通る海を望むことができた。 二人で手早く水遣りを済ませて、浜まで続く道のりを歩み始める。汗で額に貼り付いた前髪を払いのけ天(そら)を仰ぎ見れば、西の残照は今や碧藍(ヘキラン)に飲まれようとしていた。街路灯が数度の明滅を繰り返した後、ほの白い光を灯す。それは隣を歩む夕凪の横顔をくっきりと浮かび上がらせた。長い睫に縁取られた茶の瞳は、ただ真直ぐに向けられ、彼が今何を考えているのか、その表情から窺い知ることはできない。何故夕凪は、このような夕暮れ時に海へ行こうなどと誘ってきたのか。元より掴み所のない彼なので、今回もただ単に突然思いついただけなのかもしれないが、今日はもう既に昼間にも山へ出かけたばかりなのだ。意外と体力には自信のあった渉とて今日の猛暑にはまいっているのだから、彼より華奢な夕凪が疲れていないはずがないと渉自身そう踏んでいたのだが、その予想は全く持って外れていた。 夕方、空き地の六本杉の前で別れた時と同じく、空色の半袖シャツに黒のハーフパンツと言う出で立ちで歩く夕凪は、その細い身体のどこにそれほどまでの体力が余っているのかと関心するほどに軽快な足取りで歩を進めて行く。「疲れてないのか? あの山、結構な急斜面だったのに」 いぶかしげな瞳を向けて問う渉に「別に」と夕凪は返し、それから、楽しさの方が上回ってて、疲れを感じる暇がなかったのかも、とその端麗な顔に笑みを咲かせた。続く もしもお話をお気に召して頂けたなら、下の拍手をポチっと押してやってくださいませ☆
2007/09/04
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