しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 1~5


 辺りには鬱蒼とした森と赤い境内が広がっている。
 大きなどんぐり眼からとめどなく涙があふれ、それを小さな手のひらでぐいぐいとこするから、少年の丸い頬は涙でベタベタになっていた。
 理由はささいなことだった。
 しかし、少年にとっては大きな問題だった。
 少年を生んでまもなく亡くなった母親が、元ホステスだったということで近所の子供たちが彼をいじめたのだ。
 父親はそんなことは気にするなと言うが、幼稚園に行くたびにそのことでからかわれたのではたまったものではない。
 少年の父親が、小さいが由緒は正しい神社の宮司であることもそれに大いに関係していた。神職に就くものがホステスと結婚したことは田舎町にとっては大きなスキャンダルだったのである。
 しかし、幼い彼にとってそんな事情は分かろうはずもない。
 幼稚園でいじめられていることは父親には話せない。いつもはバカがつくほど明るい父親がひどく悲しそうな表情をするからだ。
 こうしてたった一人で涙をこぼすことが、少年の唯一のなぐさめだった。
 いくら泣いても誰も気づかないことが気楽で、そして寂しかった。
 だが、その日は違った。
 少年の頭を優しくなでる手があった。
 驚いて顔を上げると、長身のすらりとした男が微笑みながら少年を見下ろしていた。年は二十代前後といったところだろう。
 少年の幼い目から見ても、ハッとするほどの美青年だった。男らしいが粗野ではないがっしりとした輪郭の面に、流麗だが人なつっこそうな双眸と通った鼻筋が載っている。、
 白い袴を身につけていたが、少年の父親も就業中は同じ格好をしているので、彼にとっては奇異な服装ではなかった。
 この青年が常人と違っていた点はその背中まで伸びた長い髪と瞳の色だった。五月の新緑の色をしているのだ。
 さらにもっとも異常だったのは、青年の頭から突き出た二本の角だった。
 その姿はそうまるで少年が昔話で見た鬼に似ていた。恐ろしげな昔話の鬼とは違い、この青年はひどく美しかったのだが。
 突然の事態に、少年は驚きで声も出ずにただ青年を見上げていた。
「ようやく会えた。幾年もの年月を経て、お前に」
 青年は目を細めて少年を見つめた。美しい双眸に涙をうかべて、身をかがめてひとおもいに少年を抱きしめた。少年の息がつまるほどの抱擁だった。
「さあ、俺の名を呼んでくれ」
「……名前?」
 少年は困惑したまま、青年の言葉をおうむ返した。青年は少年の顔を両手でつつみこみながら、まっすぐに少年を見つめた。二人の視線がぶつかりあった。
「そう、俺の名前」
「僕、あなたの名前を知らない……」
「もし俺の名を呼んでくれなければ」
 一陣の風が吹き抜けた。青年は静かに言葉を続けた。
「お前を、殺す」


「また変な夢見ちゃったなあ……」
 いつもの通り、朝五時半にセットされた目覚まし時計のアラームを切りながら、清宮凛太郎(せいみや りんたろう)はつぶやいた。
 今となってはもう夢かうつつか区別がつかなくなっている思い出だ。鬼に名前を呼べと命令されて、幼かった自分がなんと答えたか覚えていない。ただその後、頭に激痛が走ったことはなんとなく記憶にある。
 神社の宮司をつとめる凛太郎の父親・伸一郎にこのことを話したら、「お前、うちの神社が祭ってる鬼神さまに気に入られたんじゃねえか」と一笑にふされて終わりだった。中学三年生になった凛太郎自身もあのできごとは単なる夢だったのではないかと思い始めていた。
 とりあえず今はそんな過去にこだわっている暇はなかった。
「よいっしょっと!」
 かけ声をかけて凛太郎はふとんから出た。そろそろ五月なのにまだまだ早朝は寒くてふとんを離れるのには強い意志が必要だ。優しくて面倒見のよい母親がいるごく普通の家庭なら凛太郎も眠りをむさぼっていただろうが、悲しいかな凛太郎は父子家庭で、しかも神主の息子なのだった。父親である伸一郎が几帳面でマジメな性格なら、凛太郎ももっと世間一般の中学生活が送れただろうが悲しいかな伸一郎は死後、地獄行き間違いなしのぐうたら神主なのだ。
 凛太郎は自室からパジャマのまま出て、古びた日本家屋につきものの冷たい渡り廊下を通って風呂場へ直行する。そこで凛太郎はシャワーを浴びる。いわゆる禊ぎである。神社の掃除をする前にこうして体を清めろと亡くなった祖母に教えられた。
 伸一郎は「禊ぎなんて単なる迷信から来た風習なんだから、いちいちする必要はない」と言うが、やはりそうしないと祭っている神様に申し訳ないと凛太郎は思うのだった。
 浴室には大きな鏡があって、そこで自分の体つきや顔を見るたびに凛太郎はため息をつく。
 もう十五歳だというのに背は低く体つきは華奢でやせている。母親似だと言われる顔はどう見ても女顔だった。線の細い輪郭にまつげの長さが目立つ大きな目、ふっくらとした唇。おまけに色白なのでよく女に間違われる。クラスメイトの女子に「凛太郎くん、かっわいい!」と言われてもちっとも嬉しくない。それにいつも”あいつ”に「俺、凛太郎に萌え萌えッスよ~」とからかわれるしロクなことはない。女に告白されたことは皆無だが男相手になら数え切れないほどある。
 もっと強くなりたい。男らしくなってみんなを見返してやりたい。凛太郎はいつもシャワーを浴びながらそう思うのだった。
 それから袴に着替えた凛太郎は木原明(きはら あきら)を起こしに行く。一応三回くらいノックをして返答がないので、凛太郎は明の部屋のドアを開けた。
 明は布団から長い手足をはみ出させて高いびきをかいていた。
「明、起きて。もう朝だよ。一緒に神社の掃除する約束だろ。僕一人じゃ大変なんだから。起きて、起きてったら!」
 凛太郎は明のふとんをひっぺがした。もうほとんど日課となっている儀式だった。そしていつも通りに明の分身は元気いっぱいにそびえ立っていた。
(お、大きい……)
 見慣れているはずのものでも凛太郎は凝視してしまう。身長百六十五センチの凛太郎に比べ、中学生の分際で百八十センチの身長を誇る明はこんな部分でも凛太郎をしのいでいた。
 ほう……と感心と嫉妬の入り交じったため息をついた後、凛太郎はえいっと明の足を蹴った。あそこを蹴らないだけまだ慈悲があると自分では思う。
「起きろ、明! もう、今日も禊ぎする時間ないじゃないかよ」
「いいの……俺様は神だから」
 目を閉じたまま、むにゃむにゃと明は言った。
「何バチ当たりないいわけしてんだよ! とにかくとっとと起きろ。居候なんだからそれぐらいしろ」
「わかった、起きる」
 明は急に起きあがると、ガバっと凛太郎に抱きついた。そのまま唇を奪おうとする。
「痛ェ、何すンだよ!」
 明が凛太郎にひっぱたかれた頬を押さえながら抗議の声をあげた。
「朝から悪ふざけしすぎ! それで目が覚めたんだからちょうどいいだろっ?」
「悪ふざけじゃねえよ。俺は凛太郎に萌え萌えなんだよ。マジでホレてんの。朝から愛情表現したっていいだろうが」
「そんなこと言いながら、いろんな女子に愛想ふりまいてるのはどういうわけだよ?」
「あ、バレた~?」
 明は白い歯を見せてニッと笑った。見るからに体育会系の男らしい顔立ちで美男子と言えなくもない。明は伸一郎の甥で、両親が仕事の都合で外国に行っている間、凛太郎の家に居候している。クラスも凛太郎と同じなので、女子から二人は夫婦と呼ばれているのだった。おまけに明がしょっちゅう凛太郎にじゃれつくので、周りからよく話の種にされる。凛太郎が迷惑きわまりないのは言うまでもない。
 明が凛太郎と同じ袴に着替えてから二人は神社の境内の掃除をした。
 清宮家が代々神主をつとめる鬼護神社は二千年の歴史がある。凛太郎は父親に長い巻物の家系図を見せてもらったこともある。あみだのような家系図の一番上には「凛姫」と書かれていた。
 凛姫はこの神社の創始者である姫君で、その美しさに人間の男性はもちろんのこと鬼までが求婚してきた。村での鬼のしわざに心を痛めていた凛は鬼に「あなたの妻になるから、この世で一番強い刀を作って」と頼んだ。鬼は真剣に日夜鍛冶に励んだ。
 ようやく刀が完成して鬼が凛姫にその刀を見せたところ、凛姫は呪文を唱えてその刀に鬼を封じ込めた。
 そして現在も、鬼護神社の境内の本殿にはその刀が奉納されているという。お社を開けると封印がとけて鬼が出てくるという言い伝えで凛太郎はもちろん、伸太朗もそしてご先祖さまたちも刀を見たことはない。
「凛姫ってずるいよな」
 明がほうきで本殿前をはきながら口をとがらせた。
「鬼は本気で凛姫にホレてたんだろ。それを利用するなんてひでェと思わないか?」
「しょせん鬼は鬼だよ。きっと人間を困らせてたから凛姫だって鬼を封印したかったんだと僕は思う」
 玉砂利の上に飛んだ常緑樹の葉をくまででかきあつめながら、凛太郎が答えた。
「お前、自分の名前が凛姫から取られてるから肩持つんだろ。凛姫ってお前みたいなやつだしな」
「どこが僕に似てるって言うんだよ? 僕は男だ! 姫じゃない」
 凛太郎はくまでを持ったまま、明をにらみつけた。
 明はほうきを脇に置いてつかつかと凛太郎に歩み寄った。
「ほら、お前みたいに可愛い癖に男にすげなくするとこが、さ」
 明は凛太郎の細い顎を指先で持ち上げた。明のいらうような視線にさらされて、凛太郎はくまでを落として後じさった。凛太郎はドスン、という衝撃を背中に感じてしりもちをついた。
「ああ、何をするっ!」
 明は大げさにわめいた。尻をさすりながら凛太郎は何事かとふりむいた。
 凛太郎の背後には、先端に丸い石がついた塔のようなオブジェがあった。
「げげっ」
「何がげげっ、だ! 神聖な道祖神さまに向かって」
 顔をしかめる凛太郎に明は真剣に怒っていた。
「だって僕、これのせいでさんざん今までバカにされてきたんだよ。エロ神社の息子って」
 立ち上がって、袴についた砂利をはらいながら凛太郎は愚痴った。
 道祖神。それは古代日本人が信仰していた土着神のひとつである。豊穣と魔除けをつかさどり、その正体はズバリ男性器そのものである。鬼護神社はお末社として代々、この道祖神を祭っている。お末社とは小さな社のことである。
 巨大で、しかもあまりにもリアルなその形状が与えるインパクトのため、鬼護神社は本殿の刀よりもこの道祖神の方がすっかり有名になっていた。
 そのあげくに鬼護神社についた俗称は「エロ神社」なのである。
「いいじゃねえか、生き物はみんなアレから出てくるんだぜ。ドピュっとさ」
 明は自分の冗談にケタケタと笑い出した。
「下品!」
 凛太郎は明に背を向けて「今朝の掃除はこれで終わりにしよう」と家に足を向けた。
「おい、待てよ。なあ、凛太郎。そんなに怒るなよ。お前、本当に下半身関係の話題には潔癖性だなあ」
 明があわてて凛太郎に追いすがった。凛太郎は明の目を見ずに反論した。
「明が品性下劣すぎるんだよ」
「そうか? お前、この前告白してきたヤツにもものすごくすげなかっただろ。いいかげんにしてください、なんて冷たく言い放ったりしてさ」
「同性同士でホレたハレたなんて言う人間がおかしいんだ」
「同性でも人の好意は好意だろ。ああいう態度は良くないぞ。それに教室で周りのヤツがちょっと下ネタ言っただけでものすごい勢いでそいつのことにらみつけるじゃねえか」
 凛太郎はまっすぐ前だけを見て黙ったまま歩き続けた。明の困惑した視線を感じるがかまう必要はないと思った。明はため息まじりに言った。
「……お前、もしかして亡くなったお母さんのこと気にしてるのか? ホステスしてたことを悪く言う人間の方が悪いんだから、そんなのもう気にすることないぜ」
 凛太郎は歩みを止めた。驚いて立ち止まった明を凛太郎はねめつけて怒鳴った。
「そんなこと気にしてなんかない!」
 明を置いて、凛太郎はものすごい勢いでふたたび歩き出した。
「……気にしてます、って宣言してるようなもんじゃねえか」
 凛太郎のはかなげな後ろ姿を見つめながら、明は微苦笑してつぶやいた。


昼休み、自分が弁当を食べ終わった凛太郎はまぶたが重くなってくるのを感じた。
 うららかな陽光がさしこむ教室では、生徒たちが大声で雑談に興じていたが、それすらも眠りに落ちそうな凛太郎にとっては遠のいて聞こえる。
「おい、大丈夫か? 凛太郎。いかにも眠そうなツラしてるぞ」
 凛太郎の作った弁当だけではまだ足りずに購買部で買ってきたパンをパクつきながらのんきに言った。
 凛太郎と明は同じクラスで座席も近いので、昼休みは机を並べて昼食を取っている。凛太郎としては家でも学校でも明と一緒にいるのは気が進まないのだが、明がまとわりついてくるので仕方ない。
「僕だって自分が睡眠不足なのは分かってるよ。だって明や父さんと違って、毎日炊事洗濯に追われてるんだもん」
 眠い目をこすりながら凛太郎は不機嫌に言い放った。明は八つ当たりされそうだと思ったのか、「やっぱカレーパンは最高だねえ」と凛太郎から目をそらせながら言った。
「このまま僕だってうたた寝くらいしたいけど、学級委員としての仕事があるんだ。家でも学校でも雑用ばっかり押しつけられてイヤになっちゃうよ、まったく」
 凛太郎はわざとらしくハミングを始めた明を置いてガタンと席を立った。教壇の前に立ってふざけ合うクラスメイトたちに呼びかける。
「みんな聞いて!」
 肺活量が多いとは言えない凛太郎の高い声は、教室すべてに響き渡らなかった。カレーパンのくずを口端につけた明が一喝した。
「おーい、学級委員長の凛太郎が話したいことがあるそうだ。みんな聞いてやれ!」
 一発で教室は静まりかえった。
(どうしてみんな明の言うことは聞くのに、僕の言うことはちゃんと聞いてくれないんだ)
 凛太郎は、おどけた仕草でピースマークを送ってくる明をねめつけた。明を自分が助けてくれたのは認める。だが、一生懸命やっている自分よりも明の方がどう見ても統率力があるのは腹立たしいのだ。教師にも時々不遜な態度を取るとのことで、明は学級委員長には選ばれなかったが、凛太郎自身の目から見ても明の方がクラスの信望は厚かった。不良グループの男子生徒も明にははっきりと一目置いている。明がいなかったら、凛太郎は今までに強引に男に交際を押し切られていたかもしれない。
(やっぱり明は僕より体が大きくて、たくましいからみんなに恐れられてるんだろうな。僕なんてどうせ女みたいだし)
 凛太郎は姿勢だけは明には負けまいと背筋を伸ばして言った。
「進路相談のプリントの提出期限は今日までだから、ちゃんと提出してくださいって先生がおっしゃってました。まだの人は早く提出してください」
「学級委員長、しっつも~ん」
 教室から、からかうような女子生徒の声が聞こえた。
「はい何でしょう、杉原さん」
 凛太郎はなるべく声の主、杉原里江から目をそらして言った。杉原は校則違反スレスレのカラーリップをたっぷり塗った唇に底意地の悪い笑みを浮かべていた。里江は不良グループとも親交のある女子生徒だ。教師に注意されても制服をマイクロミニスカートにするのをやめないし、学校にも化粧してくる。何かと凛太郎につっかかってくるので凛太郎は苦手だった。
「委員長の進路は何ですかァ?」
 立ち上がって茶色に染めた長い髪をかきあげながら里江は訊ねた。
「それは僕個人の問題なのでここでは関係ないと思うんだけど」
 凛太郎はおずおずと答えた。里江と仲の良い女子たちのクスクス笑いが耳につきささる。
「でもォ、あたしバカだから優等生の委員長の進路を訊いておきたいんです」
 おどけた口調で里江は言った。クラスメイトたちの大半は凛太郎を気の毒そうに見つめていた。それでも里江を敵に回すと不良が出てくるので怖くて逆らえないのである。
 そんな中、明の心配そうな表情に出会った。いすに浅く腰掛けた明は腕組みをしながら凛太郎を見やっていた。この調子だと明は凛太郎と里江の間に割って入りそうだった。そこまで明が自分の保護者気取りなのが凛太郎にはくやしかった。家では
一人でロクに起きられないし、芋のひとつも満足に煮られない、だらしなくて不器用なはずの明なのに。
(僕だって男なんだから、一人で戦わなきゃ)
 凛太郎は里江を直視した。里江は少し驚いた目をしていたが、すぐに元のニヤニヤ笑いに戻った。凛太郎はできるだけ堂々と言った。
「僕は高校に進学します」
「どこの高校ですかあ?」
「県立K高校です」
「すっごぉい、あたしなんかとうてい行けっこない高校だわ」
 里江は結構本気で感心したようだった。県立S高校は地元一番の進学校なのである。教室内からも軽い感嘆のため息が聞こえてきて、凛太郎は少し胸を張ることができた。今の凛太郎の成績だったらまず合格するだろうと担任教師からも言われているのだ。
 しかし次の瞬間には里江は小馬鹿にしたような表情に戻っていた。
「で、その次は? 高校卒業したらどうするわけ?」
「大学に進学すると思うんだけど……」
 里江に予想外の質問をされて、凛太郎はとまどった。教室からさしこむ陽光が鋭く凛太郎の目を射た。
「それからは?」
「そこまでは、まだ……」
「わかった! エロ神社の神主になるんだ」
 里江はネイルアートをほどこした手を叩いて大げさに甲高く笑った。エロ神社という言葉に教室中からも失笑がもれる。凛太郎は頬が熱くなるのを感じた。白い顔を紅潮させる凛太郎は傍目から見ると同世代の少女をはるかにしのぐほど可憐だった。
だからこそ皆、子猫をからかうような気分になってよけい笑うのだが、凛太郎にはそれは屈辱でしかない。
「おい杉本、神社の神主ってのは立派な職業だぜ」
 明がやれやれといった調子で里江をいさめる。里江は途端に相好を崩して明を流し目で見た。里江は明に好意を抱いている。だからいつも明がかまいだてしている凛太郎が憎らしいのだ。
「べつに悪いだなんて言ってないじゃない。ただ古くさい時代遅れな職業だなって。委員長、あんた何か自分の将来の夢とかないの? あんたいつもそんなマジメちゃんで人生つまんなくない?」
 里江のあっけらかんとした口調はさらなる笑いを誘った。凛太郎は小学生のころからずっと学級委員長をつとめている、教師も生徒も認める優等生なのである。
 凛太郎は唇をかみしめた。優等生の座にいつづけるにはそれなりの努力もいるのだ。それを里江に言ってやりたかったが言葉が喉にひっかかって出てこない。細い顎が胸元に食い込むほどうつむいている凛太郎にクラス中の好奇の視線がつきささった。
「僕は……僕は……」
 凛太郎はどうにか震える声を絞り出した。里江が挑むように凛太郎をねめつける。
 その時、教室の引き戸から怜悧な顔立ちの眼鏡をかけた男が登場した。
 クラスの担任教師・弓削秀信だった。まだ二十代後半と若い年齢なのに抜群の指導力を、生徒指導と学習指導の両方に持つ教師だ。今年の春からこの中学に赴任した。始業式に校門前で暴れていた不良を一喝して黙らせた胆力と、冷たく整った容姿で一躍女生徒たちのあこがれの的になった。何かと学級委員の凛太郎のフォローをしてくれるので、凛太郎も秀信を慕っている。ジャージ姿が多い他の教師たちと違い、いつもかっちりしたグレーのスーツを身につけておりそれが秀信にはよく似合った。
「そろそろ授業開始の時刻だ。杉原! その髪、今日までに黒くしてこいと言っただろう」
 秀信は一人立ち上がっていた里江に目をとめた。
「そうでしたっけ?」
 里江がわざとらしくしらばっくれる。
「そうだ。後で生徒指導室に来い。とりあえず今はバケツふたつに水を入れてこい。それを持って廊下に立っていろ」
「え~っ、でも……」
「立っていろと言っただろう!」
 秀信の眼光は鋭かった。低いがよく通る声に里江は反射的に身をすくめた。そのまま里江はしぶしぶ教室の後ろに回ってバケツを手に取り、外に出て行った。
 秀信はうってかわったやわらかいまなざしを凛太郎に向けた。
「清宮、学級委員の仕事よくやってくれているな。いつもご苦労。席に戻れ。そろそろ始業ベルが鳴るぞ」
「は……はい」
 秀信に微笑みかけられて凛太郎の鼓動が早くなった。今までの嫌な感情が少しやわらいだ気すらするほど、秀信の笑みは魅力的だった。女子生徒のうちの何人かが嫉妬で凛太郎をにらみつける。
 始業ベルが鳴って、五時間目が始まった。秀信がチョーク片手に教壇に立つ。
 いそいそと席に戻ってきた凛太郎に、面白くなさそうに頬をふくらませ明がささやいた。
「俺さあ、なんかあのセンコー気に入らねえんだよな。何だよ、凛太郎相手にかっこつけちゃって」
「妬かない、妬かない」
 教科書を開きながら凛太郎はしれっと言った。明はあわてふためいた。
「妬いてなんかいねえよ! あんなキザ野郎によ!」
「やかましいぞ、そこ!」
 明の額に秀信の投げたチョークが見事命中した。
「痛ェ!」
 額を押さえて机に突っ伏す明の姿にクラスメイトたちが笑った。
 凛太郎も笑いながら何気なく廊下に視線をさまよわせた。里江と視線がぶつかった。里江は凛太郎に舌をべーっと出した。
”委員長、あんた何か自分の将来の夢とかないの? あんたいつもそんなマジメちゃんで人生つまんなくない?”
 里江の言葉が凛太郎の脳裏によみがえった。胸がズキリと痛んで、里江にしっかり傷つけられている自分を凛太郎は自覚した。


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