「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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しかたのない蜜
神域の花嫁 6~10
凛太郎は秀信に呼びかけた。返事はなかった。凛太郎は吹き付ける夕暮れの風に逆らって歩みを進めた。赤い夕闇の下、広がる街並みを前にして秀信はたばこをくゆらせていた。眼鏡の奥の鋭い双眸はじっと宙空を見据えていた。
ややためらってから凛太郎はふたたび声をかけた。
「先生、プリント集めてきました」
「ご苦労」
秀信はハッと我に返って凛太郎に顔を向けた。夕日が秀信の背中に差していた。秀信は背広のポケットから携帯灰皿を出して中にたばこをもみ消して捨てた。
「じゃあ僕、これで」
「待て」
いとまごいをする凛太郎を秀信は制した。凛太郎は何か叱られるようなことでも自分がしたかと不安になった。
「今日の昼休みに杉原里江にいろいろとからまれていたようだな」
秀信はあらたまった口調で言った。どうやら教室の外で凛太郎と里江のやりとりを聞いていたようだった。
(僕がエロ神社のあととりって言われてるのも先生聞いてらしたんだ)
凛太郎はこの夕闇に溶けて消えてしまいたかった。
「ま、まあ……」
「気にすることはない」
言葉を濁す凛太郎に秀信は笑いかけた。生徒たちの前ではめったに見せない優しい笑みだった。
「神社の宮司とは神に仕える立派な仕事だ。現代社会の最先端とはたしかに言えないかもしれない。だがこの近代社会も長い歴史からすればほんのひとこまにしか過ぎんのだ。神社の中には多くの人々が忘れてしまったいにしえの神々が今でも宿っているのだぞ。それに誇りを持て」
凛太郎の白い頬は秀信の手につつまれた。秀信の手のひらはあたたかかった。凛太郎は頬が熱くなるのを感じた。
驚いて立ちつくす凛太郎を置いて、秀信はそのまま屋上から去っていった。
凛太郎はしばしの間、秀信の背中を見送っていた。
秀信に励まされたことで、凛太郎は胸のわだかまりが一気に消えていくのを感じた。
(そうだよね。僕ががんばってるのを見ていてくれる人だっているんだ。先生みたいに)
秀信の手のひらの感触を思い出して凛太郎は胸がくすぐったくなる思いだった。他の生徒たちには厳しい秀信が自分だけにあんな優しい態度を見せたことは悪い気はしない。それに凛太郎は教師として秀信を尊敬しているのだ。
凛太郎は元気よく階段を駆け下りた。ほとんどの生徒はもう下校しているので校舎はがらんとしていた。夕暮れはすでに過ぎ、外には一番星が輝き始めている。
(明、こんなに待たせちゃって退屈してないかなあ)
凛太郎は上機嫌で教室の引き戸を開けた。
「明、お待た……」
お待たせ、と言い終えることはできなかった。
凛太郎の眼前には里江と濃厚なキスをしている明がいたからである。
明のたくましい方に里江はうっとりと両手を回していた。明の方はといえば教室内で大胆にも里江の短いスカートに手を入れている。
明は凛太郎の気配に気づいてあわてて里江から唇を離して、スカートの中から手をひっこめた。
「凛太郎、こ、これは違うんだ」
引き戸に手をかけたまま凍り付いている凛太郎に明が駆け寄った。凛太郎はこわばった顔を明に向けた。
「お取り込み中失礼しました」
抑揚のない声で凛太郎は言った。明の顔は薄暮の中でもはっきり分かるほど赤くなっていた。
「誤解だ、誤解なんだよ、凛太郎! まずは俺の話を聞いてくれ!」
里江がブリーチをかけた長い髪をかきあげて二人に歩み寄った。凛太郎の顔をのぞきこんで、グロスをたっぷり塗った唇でニイっと笑った。
「明くん、優しかったわよ」
里江の唇はグロスでテラテラと輝いていた。同じ輝きが明の唇にもついているのに気づいて凛太郎は教室から駆けだした。
「待てよ、凛太郎!」
追いかけてくる明を凛太郎はキッとにらんで思いっきり突き飛ばした。明はバランスを失って廊下にしりもちをついた。
「痛ェ……」
明のうめき声を背中で聞きながら凛太郎はふたたび走り出した。学級委員長の凛太郎は廊下を走らないことをふだんはきまじめに守っていたが今日はそんなことは頭から吹き飛んでいた。
「どうした、食事中に辛気くせェツラして」
伸一郎はどんぶり飯にしじみのみそ汁をかけながら凛太郎に呼びかけた。
凛太郎と伸一郎、、そして居候の明で構成される清宮一家は畳敷きの部屋で今時めずらしいちゃぶ台をかこんで食事している。ちゃぶ台はかなりの年代物だ。
伸一郎は鬼護神社・百十九代目宮司にして凛太郎の父親である。凛太郎が生まれてすぐに妻を亡くして以来、独身を続けている。かといって、女性関係がクリーンかというと決してそういうことではない。
上背が高く筋肉質な体つきと精悍な相貌は凛太郎とは似ても似つかなかった。
「メシがまずくなるじゃねえか。なあ明くん!」
無精ひげをはやした伸一郎は飯を口にほおばったまま明に笑いかけた。明は凛太郎をチラチラと見やりながら「そっスか」とあいまいに微笑んだ。凛太郎は機械的に料理を口に運んでいた。
明は凛太郎より五分ほど遅く帰宅した。夕食の支度をする凛太郎に何度も「手伝おうか?」と声をかけたが凛太郎は首をふるばかりだった。そうして完成した夕飯が今食卓に並んでいる。今日のメニューはしじみのみそ汁、カレイの煮付け、小松菜のピーナッツあえ、生揚げとれんこんの南蛮いためだった。
凛太郎らしい栄養バランスの取れた祖母譲りのおふくろの味が楽しめる料理、のはずだった。
「いやあ、それにしても凛太郎の作ったメシって本当にいつもうまいなあ。特にこのカレイの煮付けなんて……」
明は大げさな感心した口調で言いながら、カレイの煮付けを箸で取った。カレイは煮すぎていて皮の部分が焦げていた。
「ありゃ」
明は気まずくつぶやいた。
「やめとけ、やめとけ。食えたもんじゃねえぞ。だから俺は米にみそ汁ぶっかけてこの場をしのいでるんだよ。おい、凛太郎。なんか悩みでもあるのか? お前、小学三年生の時から晩飯係やってるよな。だったらどうしてこんな失敗作が作れるんだ?
もしかして恋の悩み? なんつって」
伸一郎はゲラゲラと笑った。その拍子に米粒が凛太郎の顔に飛んでくる。
「もう、汚いな!」
凛太郎は箸を止めて伸一郎をにらんだ。
「おっ何だその目は。親に向かってその態度か」
伸一郎のおどけた口調に凛太郎の神経は逆なでされた。みるみるうちにつりあがっていく凛太郎のどんぐり眼を見て、ほとんど火の通っていないれんこんを箸でつついていた明は「あわわ」とつぶやいた。
「尊敬できる父親だったら僕だってもっと丁重な態度を取るよ」
凛太郎は口元に愛想笑いを浮かべた。本当に怒っている時の凛太郎はいつもこうやって笑うのである。それをよく知っている明はどうにか凛太郎をいさめようとした。
「なあ凛太郎。そんなにカリカリすんなよ」
「明は黙ってて」
間髪入れない凛太郎の返答に、明は「はあい」と大きな肩をすくめた。
「俺のどこが尊敬できないっていうんだよ」
伸一郎は胸を張った。
「まず境内の掃除をちゃんとしないところ。いつも僕に仕事を押しつけて遊んでいるところ。年末年始の巫女さんのアルバイトさんにデレデレしてちょっかいをかけるところ。そしてさらに」
流れるような口調を凛太郎はいったん休止した。愛想笑いが口から消えた。
「父さんが神職にありながらソープランド通いしているところ」
一家団欒にふさわしくない生臭い話題に、室内の空気は凍り付いた。
明は何も聞こえないフリをして黒こげのカレイをもしゃもしゃと食べた。伸一郎はでへへ、と笑いながら凛太郎から視線をそらしていた。
「今日のテレビ、野球中継やってないかなあ」
「父さん、話をそらさないでよ」
凛太郎はピシャリと言った。
「僕は父さんにああいう恥ずかしいことしてほしくないんだよ」
「ソープ通いが恥ずかしいのか」
伸一郎は少し真顔になった。
「恥ずかしいよ。だって女の人をお金で買うんでしょ」
「けど、そうしねえと生きていけねえ人間だっているじゃねえか」
「父さんみたいに買う人間がいるからそういう人たちがいるんです!」
凛太郎は手にしていた箸をちゃぶ台にたたきつけた。
「そんなの卵が先かニワトリが先かって理論だろ。じゃあ俺がソープ通いやめたら、この世の風俗店はすべてなくなるのか?」
「……」
凛太郎は言葉に詰まった。伸一郎は晩酌の日本酒を余裕しゃくしゃくですすっている。明が心配そうにこちらを見やっていたが、凛太郎はかまわず言葉を続けた。
「僕は父さんにこの神社の神主らしい人間になってほしいんだ。そのためにはそんなことやめてよ」
「じゃあ俺がソープに行くのやめたら、のち添えをもらっていいって言うんだな?」
「それは……」
凛太郎は唇を噛んだ。自分に義母ができるという想像はなんともしがたかった。
「そうら見ろ。だったら俺の性欲はどうなるんだよ。父さんだって生身の男なんだ。二ヶ月にいっぺんくらいは女を抱きたくもなるさ」
さくさくと伸一郎は言った。そのあっさりとした物言いに凛太郎はさらに激した。自分がこんなに悩んでいるというのに伸一郎はまるで相手にしてくれない。
「そういうこと言うから……そういうこと言うから、僕がエロ神社の息子なんて学校で言われるんだよ!」
凛太郎は叫んだ。明がいたたまれない表情をしているのが目の端に入った。
ハン、と伸一郎が笑った。
「うちがエロ神社って言われてるのはあの道祖神様のせいだろ? まああの神様はどう見たって男のアソコだからなあ」
伸一郎はガハハ、と短く刈り上げた後頭部に手をあてて笑った。伸一郎は得意げに講釈を始めた。
「道祖神様はな、この世の豊穣をつかさどるんだよ。昔の人は人間の生命も田畑の実りも同じ命の源から来ると考えてたんだ。
だからセックスはいやらしいことじゃなくて、命の営みなわけ。だから俺はそれに忠実に生きてるだけ、なんつって。わ、何すンだ!」
伸一郎はあわてて顔をぬぐった。凛太郎がコップの水をひっかけたのだった。水がぽたぽたと伸一郎の顔から胸元に垂れる。明が立ち上がって奥からタオルを持ってきた。
凛太郎は肩で息をしていた。顔が真っ赤に上気して大きな目が怒りでも燃え上がっていた。
「最低!」
凛太郎は立ち上がった。
「おい、まだメシ残ってんぞ」
伸一郎は苦笑いしていた。
「僕、もうこんな神社継がない。進路相談でも先生にはっきり言う」
「凛太郎……」
心配げな明を伸一郎は目で制した。
「勝手にしろ」
「神様なんてこの世にはいないんだよ。いるんだったら父さんみたいな神主を許しておくもんか」
「お前なあ、自分の潔癖性を大きな問題に広げすぎだ。お前、どうせ学校でからかわれでもしたんだろ? いいじゃねえか、エロ神社の息子だってホステスの子供だってよォ。そんなことで他人にいちゃもんつけてくるヤツの人間が小せぇんだよ。もっと大人になれよ。天国の母さんもそう願ってるぞ」
凛太郎は言葉に詰まった。それから伸一郎を見据えて叫んだ。
「父さんなんて大嫌いだ!」
凛太郎は部屋の外へ出て行った。
「ああ、そうかいそうかい」
伸一郎はとっくりで日本酒をぐびぐびと飲んだ。
明は凛太郎の後を追いかけた。
「凛太郎! 待てよ。オヤジさんにああいう物言いはよくないぞ」
明は早足で歩く凛太郎の肩をつかんだ。凛太郎は振り向いた。明は両目をすがめて凛太郎を見やっていた。いかにも心配そうだった。だが凛太郎の脳裏に明と里江がキスしていた姿がよみがえった。
「僕にさわるな」
凛太郎は低くつぶやいた。明は聞き取れなかったらしく、え? と耳を近づけてくる。
「明、僕に干渉するな、って言ったんだ!」
凛太郎は激昂した。明は電流ではじかれたように凛太郎から手を離した。
凛太郎はそのまま家から出て行った。
結局、凛太郎が足を向けたのは鬼護神社の本社(ほんやしろ)だった。繁華街に繰り出そうとも思ったが、ゲームセンターで遊ぶ金もなかった。
鬼護神社はふたつの神を祀っている。一つはこの本社にある剣に封印されているという鬼と、そしてあの道祖神だ。
鬼がなぜ神なのかと祖母に尋ねると、恋心を凛姫にいだいた結果、刀に封印されてしまった鬼を人々が哀れに思ったせいだからだそうだ。大きくなってから凛太郎が調べてみたところ、日本人は古事記に登場するアマテラスから東北の武将アテルイまで何でも祀っている。狸を祀っている神社まであるのだ。哀れに思ったり、愛しく感じたりすると祀る習慣があるらしい。 だから鬼が祀られていてもおかしくはなかった。
小さいころ、「ホステスの子供」といじめられた時も凛太郎は境内でよく泣いていた。
今でも嫌なことがあるとここで時を過ごす。
あのふしぎな夢とも現実ともつかない記憶のせいかもしれない。
あの夕暮れ、幼かった凛太郎は鬼と出会った。鬼は凛太郎に「お前をずっと待っていた」と語った。
そこで記憶はほとんど途切れている。ただ「俺の名前を呼べ」と言われたことと、鋭いつめがこめかみにつきたてられる痛みは明確に覚えている。
そして、鬼の清流のような美貌と。
もう一度あの顔を見たい、と凛太郎はふと思った。
あの鬼になら自分の一生を神に仕える身として捧げてもいい。神主なんて時代遅れの職業だとからかわれても気にしない。
冬の境内を掃除する寒さにだって平気だ。
もし神がいるのなら出てきてほしい。そうでなければこんな生活は耐えられない。
自分のまじめさが食い物にされ、笑いものにされ、がんばっても物笑いの種になるだけだ。行く末には時代から置いて行かれた田舎町の神主という職業しかない。
だいたいこの神社からして、すでに時代から切り離された安寧の地ではない。賽銭泥棒が来ることはめずらしくないし、土地開発のためご神木は切られそうになった。祖母の時代は信じられていた神のたたりも現代人には通じなくなってきているのだ。
(ねえ、鬼神さま)
凛太郎は古びた本社を見つめながら思った。
(いるなら出てきてよ。そして汚れたこの世の中を清めて見せてよ。それで僕に話しかけてよ。昔みたいにさ)
初夏の夜風が凛太郎を優しくなでた。
凛太郎の頭にふとある考えが浮かんだ。いつもなら罰当たりな、とすぐに撤回するアイディアだったが今夜の凛太郎は違っていた。
(父さんも明も好き放題するなら、僕だってやってやる)
凛太郎は本社のちょうつがいに手をかけた。鍵は手に握られていた。帰宅してすぐに家の隠し場所から取り出して置いたのだった。
凛太郎は剣の千年もの間かけられていた封印を解こうとしていた。
本社の鍵を開けると中はカビくさい臭いでムッとしていた。刀が奉納されている祭壇へ一歩進むごとにほこりが立ち込めて凛太郎は咳き込んだ。中には明かりどころか窓もないので、入り口からかすかに差し込んでいる月明かりだけが頼りだった。 今夜は満月だったからいいようなものの、もし月のない夜なら凛太郎は中で立往生していたことだろう。
ニメートルほど歩いただろうか。凛太郎は祭壇にたどりついた。ようやく目も闇に慣れてきた。祭壇の上には黒檀のような素材で作られていた箱が置かれていた。棺のような形をしている。凛姫がこの刀を封印した歳月からすれば、本来ならとうに虫に食われていてもおかしくはないはずなのだが、禁を破る興奮と罪悪感で頭がいっぱいな凛太郎はそこまで頭が回らなかった。
箱にはボロボロの札が貼られていた。何事か文字が書かれているが、凛太郎に判読できるはずもなかった。凛太郎が箱のふたに手をかけるとそれはあっさりとはずれて床に落ちた。
凛太郎の心臓は痛いほど高鳴った。
やめるなら今だ、と思った。
しかし脳裏に明が里江にキスしている姿が浮かんだ。さらに里江が自分をあざけり笑う顔を思い出した。
(だいたい本当に神様がいるのなら)
凛太郎は箱をゆっくりと開けた。
(こんな僕を罰するはずだよね)
祖母は生前、刀を見たものは即座に命を奪われると凛太郎に語っていたくらいなのである。
箱の中には一ふりの剣がおさめられていた。剣といってもすでにボロボロで、触れればそのまま朽ちてしまいそうだった。
凛太郎が学校の課外授業で見た、歴史博物館におさめられている古代の刀剣もちょうどこういった有様だった。
(やっぱりただの歴史の遺物、か。刀が本当にあっただけマシかもしれないね)
凛太郎はためいきをついた。相変わらず自分はピンピンしているし、たたりなど起こる気配もない。凛太郎は大胆な気持ちになって、刀を両手でささげもってゆっくりとさやを抜いた。さやはサビかなにかで引っかかっていて、抜くのに少し手間がかかった。
刀の抜き身が出てきた瞬間。
あたりに青白い光が立ちこめた。
そして風も吹き始めた。
「うわ……わわわっ!」
凛太郎は驚いて思わず光を発する刀を床に落とした。
だが刀はあいかわらず閃光を発し続け、その閃光はどんどん大きくなっていく。
(僕が悪いんだ)
恐慌状態の中で凛太郎はとっさに思った。
(僕が禁を破ったから……だから罰が当たった)
この場から走って逃げたかったが、足がすくんでしまったのか動かない。
閃光はより激しくなり、風は凛太郎の髪を揺らすほどの勢いになった。真っ暗だったはずの本社内はいつしか昼とみまごう明るさになっていた。さらに光と突風の強さは増し、凛太郎は目をあけていられなくなった。
風がごう、と鳴る音だけが聞こえる。
凛太郎は強風で体のバランスを失って床に倒れた。
(僕、死ぬんだ)
ぼんやりと凛太郎は思った。
やがて風の音はやんだ。
凛太郎はおそるおそる目を開いて、ゆっくり立ち上がった。
凛太郎の目の前には、一人の青年がいた。
すらりとしているがしっかりと筋肉のついた体に白装束を身につけて青年は立っていた。
流麗な切れ上がった双眸がひた、と凛太郎を見据えている。
青年の頭には二本の角があった。
青年の流麗な切れ上がった双眸がひた、と凛太郎を見据えている。
その美しさと精悍さがとけあった容貌はかつて凛太郎が幼い日に見た面とよく似ていた。
青年の姿が美しいけれどあきらかに人間のものではないことに驚くより先に、凛太郎はせつないほどのなつかしさを感じていた。不思議と恐怖は感じなかった。
(やっぱり……やっぱり、あの日の記憶は夢じゃなかったんだ)
ただあの日の青年の髪は若葉の色だったのに、この青年の髪は炎の色をしていた。
凛太郎は呆然と立ちつくして青年を見つめていた、青年は凛太郎の視線を抱きとめて微笑んだ。青年のまなざしに凛太郎の頭はぼうっと熱くなった。
青年はつい、と凛太郎に歩み寄った。形の良い人差し指を出して凛太郎のこめかみにあてた。凛太郎は鋭い痛みを感じた。
青年の手をはらいのけたかったが体が言うことをきかなかった。そのことに疑問を感じる余裕もないほどの激痛だった。
やがて痛みは消えた。
青年は凛太郎のこめかみにあてていた指を赤い舌でなめた。そして凛太郎に言った。
「太古の時をへて、ようやくお前に会えた。この日が待ち遠しかったぞ、わが妹(いも)」
深く体の奥にしみこむような声だった。
「わ、わが妹って……」
凛太郎はうろたえながら訊ねた。
「この時代の言葉で言えば”愛するもの”という意味だ」
青年はしみいるように笑った。
「今やこの国はお前から読み取った記憶によると、目も当てられぬほど野山も人の心も荒れ果てているらしいな。俺がなにがしかの粛清を加えねばならぬようだ」
青年は小首をかしげて考え深げにつぶやいた。
「そんなことは、まあいい。凛姫、今はおぬしとの逢瀬を楽しみたい」
青年はかがんで、つと凛太郎の細い顎に手をかけて、凛太郎の唇を奪おうとした。
「わわわ、待って!」
凛太郎は叫んだ。うっすらと目を閉じていた青年は興ざめしたようだった。
「何だ?」
「ぼ、僕」
凛太郎は隙を見て、青年から三歩ほど下がった。
「あなたのことを何も知らない」
「ほう……」
青年は悲しげに目をすがめた。
「お前が俺に名付けてくれたではないか、凛姫。鈴薙(すずなぎ)、と」
自らの名を青年ーーーー鈴薙はいとおしげに舌の上に乗せた。
「そ、そんなの知らない。だいたい僕は凛姫なんかじゃない。凛太郎、清宮凛太郎っていうんだ!」
凛太郎は両手の拳を握って叫んだ。
”お前、凛姫に似てるよな”
明の言葉が凛太郎の脳裏によみがえった。
凛太郎に怒鳴られて、鈴薙はしばし驚いた表情をしていたが、すぐに肩をゆらしてクックッと笑った。
「清宮凛太郎。それが今生でのお前の名か。いい名ではないか。俺はお前がどんな名であろうと、どんな姿をとっていようと気にしない。ただお前の魂がお前のままでありさえすればそれでよい。凛姫、いや凛太郎。お前のそのまっすぐなところは幾千の昔から少しも変わっておらぬ」
鈴薙はすぅっと凛太郎に歩み寄った。炎の色をした長い髪と、袴のすそが揺れた。その姿はまばゆかったが、同時に有無を言わせぬ迫力に満ちていた。
「い、いやだ……来るな」
凛太郎は鈴薙にただならぬものを感じた。美しいが触れてはならない力がこの青年には宿っているようだった。凛太郎はじりじりと後ろへ下がった。古びた壁が凛太郎の背中に当たった。
鈴薙は妖しく微笑んだ。
そして、身を半分ほどかがめて凛太郎にくちづけた。凛太郎は目を見開いたままそれを受け入るしかなかった。
「……こんなことはよしてください。僕は凛姫なんかじゃない」
短いくちづけの後、凛太郎は震える声で抗議した。
「そうだな。凛太郎だったな。どちらにしてもわが愛する者であることには変わりはない」
笑みをふくんだ声で鈴薙は言った。だだっこをいさめるような口ぶりだった。鈴薙のてのひらで転がされているような自分を感じて、凛太郎は頬が熱くなるのを感じた。
「僕は男です! だからこんなことをするのはよしてください!」
「こんなこと、とは?」
鈴薙はいらうように微笑んだ。
「こういったことかな?」
鈴薙は凛太郎を抱きしめた。鈴薙の腕の中にすっぽりとくるまれた状態になった凛太郎は全力でもがいた。それでも鈴薙はびくともしなかった。それどころか凛太郎のあらがいを楽しむかのごとく、凛太郎の髪に顔をうずめた。
「それともこういったことかな?」
鈴薙は凛太郎の大きな瞳を見据えた。急に凛太郎の体中の力が抜けた。
頭の中がじん、としびれて、なにかうっとりとした心地になる。
(危険だ)
鈴薙にゆっくりと床の上に押し倒されながら凛太郎は思った。
(このままだと僕、危険だ)
凛太郎が横たわる格好になった床の上は固くもなく、冷たくもなかった。むしろ極上の羽布団の上に寝たような心地がした。そこからして異常だった。
自分はこの鈴薙と名乗る青年に催眠術か何かかけられているのだと凛太郎は理性を必死にかきあつめて思考した。
凛太郎の上に優しく覆い被さりながら、鈴薙はささやいた。
「そなた、思念を読んだところ、自分の容姿が女じみていることをひどく気にしているな。だが、よいではないか」
鈴薙は凛太郎の耳たぶをやわらかく噛んだ。凛太郎は低くうめいた。
鈴薙はいとおしげに笑って、凛太郎の頬に自分の頬をすりよせた。その間にも鈴薙の手は凛太郎の着ていたトレーナーを脱がせ、その胸元をまさぐっていた。
「そなたは美しい。それはまことだ。それに対して引け目を感じなければならない理由がどこにある?」
そう語りながら、鈴薙は凛太郎の細い首筋にくちづけた。続けて舌先で凛太郎のそこをなめあげる。
「……あっ」
凛太郎の口からうめき声がもれた。自然と出た自らのその声を凛太郎は恥じた。まるで映画のラブシーンでの女優のあえぎ声のようだった。
それはふだんの凛太郎がもっとも忌み嫌っているたぐいのものだった。
凛太郎は鈴薙の体をはねのけようと全身に力をふたたびこめた。だが鈴薙の愛撫にはこれだけ鋭敏に反応する体は、なぜか弛緩したままだった。
鈴薙は満足げに微笑んで「いとおしい」と凛太郎にささやいた。鈴薙は凛太郎のジーンズのチャックを下ろし、そこに手を忍ばせた。凛太郎は小さく悲鳴をあげて身をよじろうとした。だが、体は微動だにしなかった。
鈴薙は凛太郎のもっとも敏感な部分を愛でながら言葉を続けた。
「もし今の世がそなたにそういった引け目を感じをさせているなら、それは世が悪い
のではないか? なぜならそなたは悪いことなど何もしておらぬ。むしろ世のため、
人のためになるよう常に勤めているというのに、人々はそれには知らぬふりを決め込
んでいる」
凛太郎は頬にあたたかいものが流れ落ちるのを感じた。
鈴薙の言葉は、凛太郎がずっと欲していたものだった。
明でもいい。伸一郎でもいい。秀信でもいい。クラスメイトでもいい。とにかく凛
太郎は誰かにそうやって自分を認めてほしかった。
お前の努力はわかっているよ、いつもがんばっているねと誰かが言ってくれさえす
ればよかった。
そうすれば、凛太郎はどんなに楽になれただろう。肩肘を張らずにすんだだろう。
だが、誰も凛太郎にそんな言葉はくれなかった。
「それどころか、必死に誠実にあろうとする凛太郎をからかいの種にすらしたのだ。
鈴薙は凛太郎の涙をくちづけてぬぐった。凛太郎は黙ってそれを受け入れた。鈴薙
の指先は凛太郎を徐々にたかぶらせていた。凛太郎はあえぎ声がもれぬよう、強く唇
を噛んでいたが先ほどまでの行為に対する嫌悪感はもうなかった。
そなたは自らの美しさを誇っていいのではないか? もっと自らを愛してもよいので
はないか? もしそれができぬというなら」
鈴薙はそこで言葉を切って、凛太郎の瞳を見据えた。そのまなざしは抱きしめるよ
うに凛太郎をつつみこんでいた。
「俺がお前を愛そう。お前の父親よりも、母親よりも、この世の誰よりもな。千年も
お前を待ったのだから、もう離すものか」
鈴薙は凛太郎にくちづけた。指先の動きを止めて、両手で凛太郎の頬をつつみこ
む。そのくちづけは今までのものとは違い、はるかに深かった。凛太郎は目を閉じ
て、鈴薙に舌を吸われ、鈴薙に低くうながされるまま鈴薙の唾液をすすった。それは
奇妙に甘い味がした。
鈴薙が口を離すと、二人の間には唾液が光る糸を引いた。
凛太郎は陶然としながら宙空を見上げた。蜘蛛の巣だらけの天井があるはずのそこ
は、美しい夜空とその下で白く輝く桜花がいつのまにか広がっていた。凛太郎の視線
に気づいて、凛太郎に覆い被さっていた鈴薙も振り返ってその桜を仰ぎ見た。
「気づいたか? お前と私が遠い昔、初めて出会った夜の風景だ。お前と私が今宵結
ばれるたむけとして、この景色をお前に捧げる」
「綺麗……」
凛太郎のつぶやきに鈴薙は笑った。子供のようにあどけない満面の笑みだった。
「このようなことで喜んでくれるのなら嬉しい限りだ。これからも俺はお前に美しい
ものを見せ続けよう。俺たちがともにいる限りな」
鈴薙は凛太郎に頬をよせてから、凛太郎の髪をなでた。そして意を決したように凛
太郎の衣服の残りをすべてはぎ取り、生まれたままの姿にした。
凛太郎は悲鳴をあげて局部を手で覆おうとした。だが、体はあいかわらず言うこと
を聞いてくれなかった。
鈴薙は恥じる凛太郎に優しく微笑みかけてから、自らも全裸になった。
鈴薙の厚みはないが、敏捷そうな筋肉に覆われた肉体があらわになった。
それを美しいと感じてしまった自分に凛太郎は驚愕した。
「あ……や……んっ」
とろけた吐息が桜の下で渦を巻いていた。
あられもなく両脚を広げられ、凛太郎はあえいでいた。
鈴薙は凛太郎のそこをあやすようにさすり、なぶり、舌先で追い上げてゆく。
すでに凛太郎は鈴薙の口内で三度ほど果てていた。自慰の経験もほとんどない凛太
郎は疲労しきっていてもいいはずなのに鈴薙が立てる湿った音を聞くだけであらたな
高ぶりを覚えていた。
鈴薙がいらっているのは凛太郎のそこだけではなかった。右手の指先を凛太郎の内
部に差し込んでゆっくりとかきまぜている。最初はあった異物感も徐々に溶けて、今
は体が芯からゆらぐような感覚が凛太郎に生まれていた。
鈴薙が指を大きく曲げた。
「ああっ!」
凛太郎は体を大きく弓ならせた。鈴薙の喉が卑猥に上下した。
凛太郎は何度も深呼吸した。体はまだビクビクと痙攣している。凛太郎の白い肌は
すでに汗でしとどに濡れていた。
鈴薙が目を細めて、凛太郎の体をすうっとなでるたびに、凛太郎は目をきつく閉じ
てあえいだ。
「お前と今宵結ばれようぞ。よいな、わが妹」
鈴薙の恍惚とした声が遠くで聞こえた。と思ったら、凛太郎は鈴薙に両膝を抱え上
げられていた。鈴薙の視界には凛太郎のすべてが広がっているはずだった。
凛太郎がそれを恥じる間もなく、凛太郎の中に鈴薙は浸食していた。
「い、痛い……っ」
凛太郎は悲鳴をあげた。凛太郎の上で鈴薙は、凛太郎をまなざしで抱きしめてささ
やいた。
「このときをどんなに待っていたことか。愛している」
鈴薙は凛太郎の唇をくちづけで塞いだ。甘い唾液が注ぎ込まれる。それを飲んだ途
端、凛太郎の体から痛みが消えた。
代わりに訪れたのは、狂おしいほどの悦びだった。
「あ……あ、んん……あーっ!」
凛太郎は激しく首をふりながら、いつしか喘いでいた。みだらな嬌声を恥じる理性
は凛太郎にはもう残っていなかった。
鈴薙が身を進めるたびに、凛太郎は悲鳴をあげた。鈴薙が浅く突くとそれは短いも
のになり、深く突くと長くなる。
どこかに吹き飛ばされるような感覚に、凛太郎は鈴薙のたくましい背中に無意識に
両手を回していた。
「こんなに感じて……なんていとおしい」
鈴薙はそうつぶやいて、結合したまま凛太郎の体をひっくり返した。強烈な刺激に
凛太郎は涙を浮かべて悲鳴を上げる。
背後から貫かれるのはいっそう強烈だった。鈴薙は片手で凛太郎の腰を支えなが
ら、もう一方の手で凛太郎の欲望を愛撫した。二重の快楽に凛太郎のあえぎ声はすす
り泣きに変わってゆく。
凛太郎の脳裏にはもはや明や伸太朗といった日常を囲む人物たちの影は消えてい
た。
ただ、鈴薙の熱く屹立したものが自分を刺し貫く愉悦にむせんでいた。
鈴薙にすすんで腰を突き出し、よせてはかえす快楽にどっぷりと浸る自分は間違い
なく墜ちている。
日頃の凛太郎がこんな自分の姿を見たら、自殺しかねないだろう。
だが、鈴薙に「自分を誇りに思え」と言われた時から、凛太郎の中で何かが爆発し
た。今の凛太郎は墜ちてゆく自分が楽しくて仕方がなかった。鈴薙に犯される肉体はどうしようもなく疼いていた。
何度目かの絶頂を迎えた凛太郎は、鈴薙が低くなにがしかの呪文を唱えるのを朦朧
とした頭で聞いていた。
凛太郎は鈴薙の上に乗って、最初は鈴薙に教えられるがまま、今は自分から動いていた。
視界は涙でぼやけてくもっている。体はじんじんと熱い。それをしずめようと凛太
郎は動いて、結局は欲望をさらに燃え上がらせる羽目になる。
凛太郎は鈴薙の上にぐったりと倒れ込んだ。
寝そべっていた体勢の鈴薙は身を起こして、凛太郎の体を回転させて組み敷く体勢
にさせた。
鈴薙は激しく凛太郎に身を打ち付けた。
「あ……ああっ!」
凛太郎の官能はふたたび目覚めた。鈴薙の背に我知らず爪を立てる。
「もっと、もっと!」
凛太郎は泣き叫んでいた。体中の血液が沸騰する。もう止まらない。鈴薙の動きは
ますます速くなった。
「ああーっ!」
凛太郎はまぶたの裏に白い光がさしてくるのを見た。体中の毛穴がゆっくりと開い
ていく。
「……俺の子を産め。愛しきわが妹よ」
鈴薙が低くささやくのが聞こえた。
それきり、凛太郎の意識は闇に沈んだ。
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