「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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しかたのない蜜
神域の花嫁 15~20
窓辺から差し込む月明かりに照らされた青年の容貌は、鈴薙とよく似ていた。ただ峻厳さが前に出た鈴薙の風貌より、かなり鷹揚そうだった。双眸は鈴薙と同じく切れ上がってはいるが、そこに宿る光ははるかに人なつっこそうだった。鈴薙の美しさが激しい清流だとすると、この青年の美しさは真夏の海だった。
青年は凛太郎に茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「何、他人の顔ジロジロ見てんだよ。俺の真の姿にクラクラしちゃったってか?」
青年は自分の言葉に自分で照れて笑った。
凛太郎はようやく言葉をしぼり出した。二匹の生物を生み出したばかりの体はまだじん、と熱を帯びている。
「明……本当に明なの?」
青年は大きくうなずきながら後ろ頭をかいた。容貌こそ違えど、照れた時の明の仕草そのものだった。
「そうさ。俺はいつもお前のそばにいる明だ」
「じゃあ、どうしてそんな姿に……」
凛太郎の言い終わらないうちに緑の髪を持つ鬼ーーーー明は凛太郎の体をかばうようにして前方に跳躍した。
明は凛太郎に飛びかかってきた鈴薙に、指先から光線を放っていた。
二人の周囲に青白い火花が舞い飛んだ。
凛太郎はそのまぶしさに目を閉じずにはいられなかった。
鈴薙は低くうめいてから後方へ着地した。明も元いた凛太郎の傍らに戻った。
「凛太郎をさらおうったってそうはいかないぜ!」
明は窓辺の桜吹雪を前にして立つ鈴薙をにらみつけた。
「俺の凛太郎なんだからな!」
「お前は凛太郎のもの、と言った方が正しいのではないかな?」
鈴薙は低く笑った。
「たしかにお前のあるじは凛太郎だ。お前に新たな名を付けて呪をかけたのだからな。しかし蒼薙、お前もおろかなことをしたものだな。我らが一族は呪をかけられた相手には絶対の服従を誓うもの。なぜ未熟な凛太郎にそのような真似を許した?」
「俺が自分からそうしてくれってまだ小さいこいつに頼んだんだよ!」
明はベッドに横たわっていた凛太郎を抱き起こして肩を抱いた。凛太郎は突然のことに狼狽して頬が熱くなるのを感じた。明は凛太郎にほおずりした。
「や、やめろよ」
「へへっ、照れちゃってか~わいいの」
凛太郎がいやがるのを見て喜ぶその様は、明本人としか言いようがなかった。やにさがった明に鈴薙のまなざしがみるみるうちに怒りを帯びた。
「鈴薙、お前も本気で凛太郎のことが好きだったら、俺みたいに凛太郎に呪をかけてもらえよ。それでこそ真の愛ってもんだぜ」
明は不敵に笑った。鈴薙は明を見据えてあざわらうかのように言った。
「俺には凛姫からたまわった鈴薙という名がある。それに俺はーーーー凛太郎と交わり子まで成したぞ。あの夜の凛太郎の乱れ様をおぬしにも見せたいほどだ、蒼薙」
凛太郎は目を伏せた。うらめしげな明の視線を感じる。だがその直後、凛太郎は優しく肩をたたかれた。驚いて顔を上げると明が微笑みかけていた。
「気にすんなって。あんなヤツがお前に触れたことなんか、俺がすぐに過去にしてやるっつうの! その前にちょっと唇を拝借、凛太郎ちゃん」
かけられた言葉の意味が理解できないうちに、凛太郎は明に唇を奪われていた。明は強く凛太郎の口を吸った。明ののど仏が大きく上下した。二人の唇が離れた瞬間、唾液が闇に光る糸を引いた。
「よっしゃ! これで鈴薙の野郎にも勝てるってもんだぜ!」
明は自らに回し蹴りを食らわそうとしてきた鈴薙に拳を食らわせた。
二匹の鬼の戦いは今、始まろうとしていた。
「ここは俺の結界の中だぞ。俺の力が有利に働く。それを知って俺を攻撃しようというのか。命知らずな奴め」
「うるせえ! お前の力は凛姫に封印されたせいでまだ弱ってるはずだ! 現役バリバリの俺とは比べもんにはならねえよ!」
明は両手の爪を立てて、緑色の髪をなびかせて鈴薙に飛びついた。鈴薙の肩にくらいついて、鋭い犬歯を鈴薙ののど笛につきたてようとする。
鈴薙はそれをかわして、明の横腹に拳を食らわせた。明が低くうめいてよろけた。その隙に鈴薙は手のひらから青白い光球を出して明に投げつけた。明は壁にたたきつけられた。
壁に大きな穴が空いて、めりこんだそこから明が四つんばいになって這い出した。
そこに追い打ちをかけるように鈴薙が蹴りを入れる。
明はその踵をつかんで鈴薙を転倒させた。明は鈴薙に馬乗りになって、その秀麗な顔に往復ビンタをくらわせた。
「俺の凛太郎によくも……この野郎、もう一回封印してやるからなッ!」
明が快哉を叫んだ時。
「危ない、明!」
二人を見守るだけしかなかった凛太郎が叫んだ。
「え?」
明が振り返ると、そこには鈴薙が立っていた。明の前には誰もいなかった。明は幻術をかけられていたのだ。鈴薙はニィっと笑うと明に光球をくらわせた。
明は窓辺まで吹っ飛んだ。かなり強い衝撃だったらしく、明はうずくまったままだった。
鈴薙は明の襟首をつかんで高々とつるしあげた。
「はな……せ、鈴薙」
明の声は苦しげだった。鈴薙は鼻先で笑った。
「お前ごときに凛太郎は渡せぬ。死んでもらう」
鈴薙は声をあげて笑った。その笑顔はゾッとするほど美しかった。
鈴薙は空いた方の手を明に向けた。その爪がどんどん伸びていく。鈴薙はその手を明の腹につきたてた。手はめりこみ明は悲鳴をあげた。凶器を腹につきたてられたようなものだった。
「やめて、明を助けて!」
凛太郎は絶叫した。
鈴薙は驚いた様子で凛太郎に振り返った。
「お前はこの男をかばうのか?」
凛太郎は泣きながら必死に鈴薙に懇願した。
「明を……明を殺さないでよ。明はスケベでバカでいいかげんだけど、ずっと僕といっしょだったんだ」
「俺とて、俺とて封印さえなければお前とともにいたかった!」
鈴薙は切なげに凛太郎を見つめた。凛太郎は鈴薙の瞳に宿る真摯な光に打たれた。
次の瞬間、鈴薙の顎に明の蹴りが炸裂した。
「うっ!」
鈴薙がうめいてよろけた隙に、明は鈴薙の手から逃れた。
「死ぬのはてめえなんだよ!」
明は鈴薙に指先から光線を放った。鈴薙が悲鳴をあげる。
凛太郎は複雑な思いで苦しむ鈴薙を見つめた。
その時、鈴薙のふところから赤い勾玉が飛び出た。ぬらりと光るそれは赤い光を発し、鈴薙の体をつつんだ。明の放った光線は遮断された。
「礼を言う、我が子よ」
鈴薙はつぶやいて立ち上がった。そのままひらりと窓辺へ跳躍した。
「また会おう、わが妹・凛太郎よ」
「待て、鈴薙!」
明は後を追いかけようとしたが、すでに鈴薙の姿は桜とともに夜闇へと消えていた。
「ったく……取り逃がしちまったぜ」
明は舌打ちした。
「明、傷は……」
凛太郎は明に駆け寄った。白装束を身につけた明の腹部はやや赤く染まっていた。
「たいしたもんでもない。凛太郎、お前と交わればすぐに癒える」
「ま、交わるって……?」
明の傷を本気で心配していた凛太郎は目を丸くした。
「いわゆるセックスってヤツだ! 心配すんな、俺は優しいからよ」
明は豪快に笑った。だがすぐに脇腹を抱えてうずくまる。
「大丈夫?」
自らもかがんで明の傷口を見ようとする凛太郎の口を明が吸った。凛太郎は明に強く舌を吸われ、驚いて目を見開いた。
「な、何するんだ!」
凛太郎はようやく明に解放され口元を押さえた。
「せっかく人が心配してやったっていうのに……!」
「お前の気をもらったんだよ。お前自身は気づいてないだろうけど、お前は強い気を持ってるの。何せ凛姫の生まれ変わりだからな。鈴薙はお前と一発やって、封印されて失った力をある程度取り戻せたんだ」
「い……一発って」
凛太郎は頬が熱くなるのを感じた。
「かーっ! くやしいぜ! 良かったんだろ、お前!」
明は緑色の長い髪をかきむしった。
「ど、どうしてそんなこと……」
「ああ! 否定しねえな! ってことは良かったんだ、やっぱり。鈴薙のヤツは昔っからあっちは達者だったからなあ……」
明はがっくりと肩を落とした。凛太郎は狼狽しつつも明に尋ねた。
「そうじゃなくて、僕と鈴薙のことどうして知ってたのかって訊きたかったんだけど」
明はふくれっつらで顔を上げた。
「いつも言ってるだろ、俺は凛太郎のことを守るって! それが呪をかけられたものの定めなの」
「さだめって?」
「俺たち種族はーーーー人間どもは鬼って呼んでるみたいだけどよ、他のものに名前をつけられるとそいつに逆らえないんだよ。それで、そいつを守護することが定められるわけ。だから俺たちは他人に名前をつけられるのをいやがる。それにつけられても認めようとしない。その場合は呪は無効になる。呪がちゃんと効力を発するのは、相手のパワーが自分より勝る場合、それと自分が望んで相手に呪をかけてもらった場合だ。俺が小さかったお前に頼んだみたいにな」
「それじゃあ、明があの時の……」
「そうだ。俺が境内で泣いてたお前に話しかけた鬼だ」
明は遠い目をしてうなずいた。
「あの時、明はたしか”俺の名を呼んでくれなければ、お前を殺す”って僕に言わなかったっけ? 僕、怖くってその後のことは覚えてないんだ」
明は陽気に笑って、凛太郎の肩を大きくたたいた。
「痛いなあ、もう」
「悪ィ、悪ィ」
美しい双眸に涙を浮かべて、緑の髪をした鬼は笑った。やがて真顔に戻って鬼は語った。
「俺さ、ようやくお前を見つけられて嬉しかったんだよ。凛姫の生まれ変わりのお前をさ。鈴薙は凛姫に刀に封印されてたけど、俺は自分から岩に憑依した。そこで凛姫の来世ともう一度会えるまで凛姫がいたこの地を護ろうと思ったんだ。長かったぜ、本当に。こうして今、お前といっしょにいられるのが今でも信じられないくらいだ。だからつい、ここで俺に名前をつけて呪をかけてくれなきゃ、お前とまた離れちまいそうでイヤだと思ってゴネたの。脅しちまってごめんな。俺、そんくらいお前のことが大好きなんだよ、凛太郎!」
明は凛太郎にほおずりした。鈴薙に匹敵するほど美しいというのに、この鬼はこういったじゃれた仕草がよく似合う。
「お前はおびえながらもちゃんと俺に名付けてくれたよ。明っていうこの名前をな」
「どうしてあの日、僕の前に現れたの?」
明の顔を押しのけようとしながら凛太郎は尋ねた。そんな抵抗をもろともせずに明は答える。
「岩に長年憑依してるとよ、やっぱり力は弱ってくるんだ。だから岩の近くにあるものしか見えなくなるし、その場所にしか姿を現せなくなる。お前はちょうどあの時、俺が憑依していた岩のすぐ側で立ち止まって泣いてたんだ。だから俺もようやくお前の気を感じられて、お前に会えたってわけ」
「僕のこめかみに爪を立てたのは……」
「ああ、あれ? これのことね」
明は凛太郎の眼前に人差し指を出した。その指の爪はみるみるうちに伸びた。ギョっとする凛太郎に明はいたずらっぽく笑って爪をひっこめた。
「これは俺たちの力のひとつ。この爪を相手のこめかみに差して、そいつの持ってる情報を吸い取るんだ。ただしそいつが自分より強い力を持ってる場合は無理だけどな」
あの夜の鈴薙も凛太郎のこめかみに長い爪をつきたてていた。だから鈴薙が自分の心を読んで周囲の状況を理解したのだと凛太郎は納得した。その様子を見て取った明はふたたび顔をしかめた。
「どうせ鈴薙の野郎も同じ手を使ったんだろ。あいつの場合、閨房術まで使いやがってよ!」
「淫術って?」
「今風に言えば、エッチのテクニックのこと。だが俺たち種族はそれだけじゃなくて、自分の唾液に念をこめて相手に飲ませるとそれが催淫剤になる。麻薬みたいな効力もあるから、麻酔がわりにもなるぜ」
あの夜の自分の乱れ様と、寄生生物を生み出す時の痛みが一気に引いたのは鈴薙の唾液を飲んだためだったのか。凛太郎は羞恥心とともに理解した。だが、肝心な疑問がもうひとつあった。
「あの……」
「なんだ?」
「……やっぱやめとく」
ハハーン、と明は複雑な表情でうなずきながら言った。
「お前、自分が男なのにどうして妊娠したか訊きたいんだろ?」
凛太郎は頬が熱くなるのを感じながら、こっくりとうなずいた。
「俺たち種族は本来、男しかいない。これぞと思った相手を眼力で負かして、犯そうとした時にそいつの体は女になる。その交わりで子供が生まれるんだ。お前は人間だけど、ちょっと手を加えて鈴薙は子をはらませたってわけさ。その子供っていうのが……」
「あの勾玉?」
明はうなずいた。凛太郎は悪い予感がした。そしてそれは的中した。
「その子供を使って、鈴薙はエラいことをおっぱじめる気だ。その前にあいつらを探し出して、鈴薙の計画をぶっつぶさなきゃ人間は滅びる。最悪の場合は、子供も殺さなきゃダメだ」
「子供を、殺す……?」
凛太郎はただ明の言葉をおうむ返した。あの奇妙な生物が自分と鈴薙の子供で、それを殺す。なんだか唐突すぎてイメージが沸かなかった。それでも胸が次第に痛み出したのはなぜだろうか。
「心配するな。助ける方法はある」
明は凛太郎をなだめるように笑った。
「やっぱり俺も凛太郎の子供は殺したくない。たとえ鈴薙との間の子でもな」
そういう明の双眸はどこか哀しげだった。明は気を取り直したようにきっぱりとした口調で説明を始めた。
「あの子供は半分は人間のお前の血が入ってるけど、もう半分は鈴薙の血を引いてる。だから呪は有効だ。あいつらは今、言ってみれば卵の状態だ。一定期間、どこかで眠っていないと一人で動けるまでに成長できない。鈴薙はきっとあいつらをどこかで孵化させようとするだろう。それから自分が呪をかけようとするはずだ。自分の野望の手下として扱うためにな」
「手下なんて……」
凛太郎は拳を握りしめた。自分の子供を鈴薙は配下にするつもりなのか。我が子に対する愛情というものが鈴薙にはないのか。もしや自分と交わったのも、強い配下を得たいがためのことだったのか。
明は目をいたわるように凛太郎を見つめた。次の瞬間、凛太郎は明の腕につつまれていた。
「鈴薙が呪をかける前にお前が子供に呪をかければいいんだよ。そうしたら子供はお前の言うことを聞くはずだ。俺はお前といっしょにその子を育てる。子供たちにも、お前の父親は俺だって教えるつもりだ。いいだろう、凛太郎?」
明は凛太郎の頭を優しく撫でながら、そうささやいた。凛太郎は明の胸に顔をうずめながら問うた。
「どうしてあの夜、鈴薙から僕を奪いにこなかったの?」
「お前、俺が里江に無理矢理キスされてるのを見た後、俺に”明、僕に干渉するな”って言っただろう。名前と命令を同時に言われると、呪をかけられたものは主の言うことに絶対服従なんだよ。だから俺はお前が”明、助けて”って言うまでお前に関われなかったってわけ」
明の声はちょっと恨みがましかった。凛太郎は明の拗ねた顔を見上げた。
「……ごめん」
「べつに謝ることはねえ。お前の俺の正体を知らなかったんだからな……でも、俺が深く傷ついたことはたしかだ」
月光に照らされた鬼の顔は悲しい笑みを浮かべていた。凛太郎はすまない気持ちでいっぱいになって、明の胸にすがるようにして真剣に謝った。
「ごめん、ごめん! 僕、明を傷つけるつもりなんてなかったんだ。ただ、ちょっと腹が立ってあんなことを言っちゃっただけで……」
「ちょっと腹が立ったくらいでお前は他人を傷つける人間なのか」
明は凛太郎からそっぽを向いてごちた。凛太郎は必死になって言葉を続ける。
「ごめん、本当にごめんなさい! 明が許してくれるなら、僕なんだってするから……」
「本当か?」
明はにぃっと笑った。凛太郎はいやな予感がしながらもうなずいた。
「う、うん、本当だよ」
「じゃあ、抱かせろ!」
明は凛太郎の肩を両手でつかんでから、身をかがめてその顔をのぞきこんだ。流麗な双眸は欲望でギラギラしている。思わず身を引く凛太郎を明は強引に引き寄せた。
「なんでもするって言ったろ?」
「ずるいぞ、明! 最初からこういうつもりだったんだな。このドスケベ!」
頬を熱くしながらわめく凛太郎に、明は人差し指をふりながら「これには理由がある」ともっともらしく言った。
「強力な巫女だった凛姫の生まれ変わりのお前には、生まれつきすごい気の持ち主なんだ。だから鈴薙もお前とエッチして、気を高めたってわけ。俺はこれから子供たちを探したり、鈴薙と対決するためにもお前との交わりがぜひ必要なわけよ。わかるかな~、凛太郎ちゃん」
明の言うことは理にかなっていた。凛太郎は唇をわななかせた。狼に食べられる寸前のウサギといった風情だった。明は凛太郎にうっとりと頬をすりよせた。
「俺は鈴薙の野郎なんかより、よ~っぽどエッチがうまいし、お前にラブラブだからよ。サービスするぜ」
「あのさ……」
凛太郎はようやく声をしぼりだした。明が満面の笑みで「何?」と答える。
「明が憑依してた岩ってもしかして、あの……」
「そう、あの道祖神!」
明は元気いっぱいにうなずいた。
「最初はただの岩だったんだけど、後で神社の人たちが勝手に道祖神の形に彫っちゃってよォ。しかしなんで道祖神なんだろうなあ?」
「明にはピッタリだからだよ……」
首をかしげる明に凛太郎は力なくつぶやいた。
ろうそくの灯りが妖しく二つの人影を照らし出していた。
板張りの床の上にその人影はいた。
ひとつはまだ幼い少年のもので、彼は赤と白の巫子装束を身につけていた。ゆるやかなウェーブをえがいた栗色の髪が肩まで伸びている。その髪にふちどられた顔には飴がけの砂糖のような大きな瞳がはめこまれていた。まだまろさの残る体つきから少年は少女とみまごう愛らしさを持っていた。
少年は大きな目を半ば閉じてくるくると舞っていた。手には白い紙をつけた木の枝を持っていた。御幣(ごへい)と呼ばれる古代から巫子が神を降臨させるために使っていた道具だった。つまりこの少年はこうして踊って神と交渉しているのである。
あどけない顔にそぐわない恍惚と苦痛の入り交じった表情を浮かべて、少年は神と交信していた。部屋の隅には台が置かれていて、その上には冴え冴えとした輝きを持つ鏡が立てかけられていた。
その鏡には、もうひとつの人影の姿が映し出されていた。
弓削秀信その人であった。
無数の勾玉が描かれた水色の袴を着て、秀信は少年の舞う姿を眼鏡の奥の冷徹な双眸で見つめていた。先ほどから秀信は床に身じろぎもせずに正座していた。
どのくらいの時が流れただろうか。
少年はふと舞うのをやめ、鏡の前に腰を下ろして御幣を振りかざした。
すると鏡が青白く輝き出しその光が消えた途端、一人の少年と二匹の鬼の姿が映し出された。
清宮凛太郎と、彼をめぐって戦う蒼薙こと明、そして鈴薙の姿だった。
少年は鏡の前で御幣を降り続けた。鏡には次々と映像が映し出された。鈴薙は凛太郎の体から飛び出た勾玉を奪って逃亡し、明は凛太郎に自らの正体を明かした。
秀信は冷徹に鏡の中のその映像を見続けた。
やがて少年ががっくりと体中の力を抜いたように床に崩れ落ち、鏡の中の映像は消えた。
秀信は少年の体を抱き起こして、その汗に濡れた栗色の髪を手で梳いた。
少年はゆっくりと目を開けた。
「兄さん……僕、ちゃんと神懸かりできた?」
「ああ」
少年の華奢な体を抱きしめながら秀信はうなずいた。その双眸は限りない優しさに満ちていた。
少年は汗に濡れた顔をほころばせた。その微笑みは小さな花のように可憐でけなげだった。
「鬼神さまはおでましになった? そして姫巫女さまはーーーー凛姫さまは御子さまをお生みになった?」
「ああ。二人の御子がお生まれになったよ。そして赤い鬼神が御子をお連れになった」
秀信は少年を安心させるようにそう語りかけた。
少年は嬉しそうにうなずいた。
「そう……それならイザナミさまがこの世界に帰ってこられるのももうすぐなんだね」
「そうだ」
秀信は少年の栗色の頭を静かになでた。
「お前は大任を今夜は果たした。今日のところはもうおやすみ、晴信」
「うん、兄さん」
少年ーーーー弓削家次男、弓削晴信は兄・秀信の腕に身を預け、ゆっくりと目を閉じた。
秀信は晴信を膝の上にのせたまま、晴信の御幣を手に取った。御幣には秀信が屋上で採取した凛太郎の髪の毛がくくりつけられていた。
それを見て、秀信はフッと笑った。血も凍るほどの冷笑だった。
「明! そこの木の下、ちゃんと掃いといてよ。葉っぱがいっぱい落ちてるからね」
凛太郎はホウキ片手に、明に指示を出していた。今日はまさに日本晴れだった。凛太郎はここのところ妊娠騒動(凛太郎はいまだに自分が妊娠したことを認めたがってはいないが)のせいで神社の掃除を丁寧にしていなかった。
子供たちは鈴薙に連れ去られたものの、出産を終えた凛太郎の体は元に戻った。もう吐き気もめまいもしない。さらに凛太郎に敵対したものが危害を加えられるという怪現象もなくなった。明によると、凛太郎の子供が自分なりに母体である凛太郎を守っていたためにあの現象が起きていたというのだ。鬼の子供なんだからそのくらいはお茶の子さいさいなのだろう。凛太郎にしょっちゅうつっかかっていた里江もなぜか最近おとなしいし、明との仲も元に戻ったーーーーというより以前よりさらに親密になったし、凛太郎はまずまず平和な日々を過ごしていた。
気になるのは鈴薙とその間にできた子供たちのことである。鈴薙は行方知らずだった。明は子供が孵化したら凛太郎に必ず分かるはずだから、それまではどっしり腰を落ち着けて待とうと言った。
そんなわけで、凛太郎は最近荒れ気味だった境内の掃除に明をこの日曜日にかり出したのである。
『悪いなあ、俺も一緒に掃除できなくって』
布団の上で脚にギブスをはめた伸一郎は少しも悪いと思っていなさそうに言った。
『べつにいいよ、父さんはゆっくり療養してて』
伸一郎は肩すかしを食らったような表情をした。
『どうしたの? そんな表情して』
『いや、お前なんか変わったなと思って。以前なら俺のこと目くじら立てて攻め立てるのに』
『……以前の僕ならそうかもね』
凛太郎は薄く笑った。
『でも、僕だって知らず知らずのうちに他人に迷惑かけてるかもしれないし、他人の気持ちがなんだって分かるわけじゃない。だから他人を一方的に裁くようなことはできるだけやめようと思ったんだ』
伸一郎はまじまじと凛太郎を見つめてから、凛太郎の頭をくしゃくしゃとなでた。
『や、やめてよ、いきなり……』
『いや、俺の息子も成長したなあと思ってな』
伸一郎は豪快に笑った。凛太郎もつられて笑ってから、一言つけくわえた。
『父さん、早くケガを治してよ。ウメさんたち、父さんの訪問を待ってるからさ』
途端に伸一郎は無精ひげのはえた顔を真っ赤にした。
『バ、バカ! お前どうしてそんなこと知ってるんだ?』
『べつにいいじゃない。父さん、いいことをしてるんだから』
『まったくもう! ばあさんたち、凛太郎によけいなことしゃべりやがったな!』
ふとんの上で焦ってぼやき続ける伸一郎を置いて、凛太郎は境内の掃除に出たのだった。
ひととおり辺りを掃き終わって、凛太郎は大きく伸びをして青空を見つめた。母親に手を引かれてお参りに来た子供が袴を身につけた凛太郎を不思議そうに見つめる。凛太郎が微笑みかけると、子供は嬉しそうに手を振った。凛太郎も手を振り返す。
母親が凛太郎に一礼し、子供は名残惜しそうに凛太郎を振り返りながら母親に連れられていった。
「よ、掃除終わったぜ」
ぽん、と肩をたたかれて凛太郎は振り向いた。笑顔の明がそこにいた。
「どうしてそんなに嬉しそうなの、明?」
凛太郎の問いに明は頭の後ろに手を組みながら答えた。ハトが砂利の上から飛び去っていく。
「だってさお前、最近傍目から見ててなんか以前より楽しそうなんだもん。ふっきれたっていうか。以前はもっとギスギスしてたじゃん」
「……そう?」
凛太郎は少しくすぐったい思いでそう問い返した。伸一郎にも似たようなことを言われた。最近、以前に比べてイライラすることがたしかに少なくなったような気がする。
凛太郎はここのところ短期間でいろいろなことを知った。性の交わりも知ったし、それを通して自分のみだらな部分も知った。自分の暗黒面を自覚するのはとてもつらいことだったが、それを越えてみると今まで見えなかった伸一郎を始めとする他人の美点が見えてきたような気がするのだ。
凛太郎の精神面が安定してきたのは、明が自分をずっと見守ってくれていた事実を知ったことも大きかった。
凛太郎はあらためて明の顔を見た。
今は人間に変化していて、本体である鬼の姿にはなっていない。だが、その人なつっこそうな瞳はそのままだった。明は凛太郎に呪をかけられた時から、人間に変化して凛太郎のそばにずっといた。そして周囲に怪しまれぬよう、自分が凛太郎の幼なじみであると暗示をかけたのである。そして凛太郎自身が凛姫の生まれ変わりであるという運命の重さに耐えられぬほど幼いうちは凛太郎にも記憶をすりこんだのだった。
もちろん、現在の凛太郎は鈴薙の封印を解いてしまったという責任を背負っている。
だがそれも明とともになら乗り越えていけるような気がするのだ。
「な、何だよ! 他人の顔いきなりジーッと見て……」
明は赤くなってから、ガバっと凛太郎に抱きついた。
「や、やめろ! いきなり何す……」
「照れるなって! 俺たちもう他人じゃないんだから。お前の気をもらったおかげで鈴薙につけられた傷なんかいっぺんで治っちまったよ。なあ、今夜もお前の気をもらっていいか……?」
明に耳元でささやかれて凛太郎の体は火照った。明がふふっと笑って、その吐息が耳にかかる。凛太郎の背筋はぞくりとした。
明が凛太郎の髪に顔をうずめた、その時。
「すみません、鬼護神社ってこちらですか?」
鈴の音を振るような声が聞こえた。
凛太郎が驚いて振り返ると、背後には一人の少年が立っていた。年の頃は十一、二といったところだろうか。少年は栗色の大きな瞳を上目遣いにして凛太郎を見つめていた。細い小首をかしげた様子は少年の色白で華奢な体とあいまって誠に可憐だった。身につけた半ズボンのスーツがよく似合う。気品あふれるお坊ちゃんといった風情だった。
少年には二十歳前後の青年が付き添っていた。ブルージーンズに白いシャツという軽装だが、どこか冒しがたい雰囲気がある。長い前髪を中央で分けた髪型は大正時代の小説家を思わせた。だが垂れ気味の双眸はあくまで優しげに少年を見守っていた。
「そ、そうですけど……」
あわてて明を突き放しながら凛太郎は答えた。
「そ、そ、そ、そうですか……」
凛太郎と視線が合って、少年は真っ赤になってうつむいた。もじもじと小さな身をくねらせ、時々凛太郎を上目遣いで見ては視線をそらす。
「何かご用かな、僕?」
凛太郎は微笑んで訊ねた。
「ぼぼぼぼ、僕……」
少年は消え入りそうな声でそう言ってから、青年の背中に隠れた。
「どうしよう、涼」
「お坊ちゃまは本当に頼りないですねえ」
青年は苦笑してそう言ってから、凛太郎と明に笑いかけた。
「それでは、また」
青年は少年の手を引いて去っていった。
凛太郎はあいまいに手をふりながら疑問を口に出した。
「それではまた……ってどういう意味かな? またこの神社に参拝するってこと? 第一、門のところにちゃんと”鬼護神社”って書いてあるのにわざわざ訊くなんて変だよねえ」
明が不敵な目つきで青年の後ろ姿を見やりながら答えた。
「どうしてもお前と言葉を交わしたかったんだろ。だいたい、あいつらの気。普通の人間のもんじゃねえ。そのうち、とんでもない形で再会したりしてな」
カラスが呪詛のような鳴き声をあげながら、空を舞った。
草木も眠る丑三つ時。
里江はガバっとベッドから跳ね起きた。脂汗で濡れそぼったパジャマの感触が気持ち悪い。
息を荒くしながら、里江は額の汗をぬぐった。ベッドライトを急いでつける。ブランドもののバッグや洋服がところせましと置かれた部屋はいつも通りだった。
「夢だったのね……」
里江は声に出してつぶやいた。そして言い聞かせた。あれはあくまで夢の中のできごとなのだ。蛭に似た青い生き物が部屋に入ってきて、自分が眠っているベッドの周りをはいずり回るなんてことはあるわけがないのだ。
里江は気を取り直して、寝汗で濡れたパジャマを脱いだ。なにげなく里江は自分の胸元に目をとめた。
そこには、夢で見た青い蛭がはりついていた。そして蛭はそのギョロリとした目玉を里江に向けた。
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