しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁31~35


 そう言う凛太郎の顔が夕日に染まっているのを美しいと思いながら、ほのかは廊下を歩いていた。
 ほのかは乃梨子、そして凛太郎や明と連れだって廊下を歩いていた。昨日、一緒にダンスの練習をしたおかげで、ほのかは凛太郎とこんなふうに行動をともにすることができるようになったのである。
 ほのかは傍らにいる乃梨子に感謝のまなざしを投げかけた。乃梨子が昨日、凛太郎に一緒に練習をしようと持ちかけてくれなければ、この幸運はなかっただろう。
 廊下にはほのか達のクラスの生徒たちがわらわらと体操服姿で歩いていた。誰からともなく、放課後残ってフォークダンスの練習をしようと言い出したのである。担任の弓削秀信は「それは熱心なことだな」とすぐに承諾した。
 それでホームルーム終了後、二時間ほど校庭でフォークダンスの練習をしていたのだった。もう時計は五時を回っていた。それなのに空腹を訴えたり、騒いだりする生徒はいなかった。
「でも意外よね。どっちかっていうと、私たちのクラスってまとまりがなくて騒がしかったのに、みんなあんなに熱心にダンスの練習するなんて」
 乃梨子が本当に感心した口調で言った。「僕も嬉しいよ。クラス全員が一丸となってくれるなんて」
 凛太郎は嬉しそうに笑った。凛太郎は笑うと子供のようにあどけない。そこが可愛い、とほのかは思う。
(あ、私ったら生意気。私より勉強もできて、こんなにかっこいい凛太郎くんのことを可愛いだなんて……)
 ほのかは口元に手を当てて、キャッと笑った。
「どうしたの、藤崎さん。すごく楽しそうだね」
 当の凛太郎に呼びかけられて、ほのかは熱くなる頬を隠すためにうつむいた。廊下のタイル数を数えながら、ほのかは自分を責めていた。
(せっかく凛太郎くんが自分から話しかけてくれてるっていうのに、気の利いた返事もできないなんて私のバカバカ……)
 ほのかの思いをよそに、乃梨子が不意に思い出した様子で言った。
「そういえば、凛太郎くん。弓削先生がダンスの練習が終わったら職員室に来るように言ってたわよ。今日は明くんも一緒にだって」
「え、どうして俺がっ?」
 明がギョっとした様子で、自分の顔に人差し指を当てた。
「さあ、知らない。もしかしてこの前の数学の時間、早弁したことが先生の耳に入ったんじゃないの? 明くん、教科書で隠してるつもりだったみたいだけど、私の席からもバッチリ見えてたから」
 乃梨子はいたずらっぽく笑った。
「げげっ、マジっ?」
 太い眉をしかめる明に、凛太郎があきれたように言った。
「ほらね、僕も言っただろ。バレるからやめろって」
「どうして、もっとしっかり俺を止めてくれなかったんだよ、凛太郎!」
「だからさんざん止めただろ。僕のせいにしないでよね!」
 凛太郎たちのやりとりに、ほのかはくすくすと笑った。
「ほら、藤崎さんも笑ってるよ、明!」
「ご、ごめんなさい。私、つい……」
 ほのかはハッとなって、口を手で隠した。「いいってことよ、ほのかちゃんの可愛い笑顔が見られたんだからさ!」
 明にウィンクされて、ほのかはうつむいた。
「明、藤崎さんをいきなり名前に”ちゃん”づけ呼ばわりするなんてなれなれしいぞ。藤崎さんもいやがってるじゃないか」
 凛太郎が生真面目に明に注意した。
 乃梨子はニヤッと笑った。
「あらァ、ほのかは全然いやがってないわよ。凛太郎くんも”ほのかちゃん”って呼んであげたら? この子、すっごく喜ぶから。ねえ、ほのか!」
「やだ、乃梨ちゃんったら……」
 乃梨子に顔をのぞきこまれて、ほのかの頬はまたもや熱くなる。勇気を出して、チラっと凛太郎に視線を向けると凛太郎は不思議そうな表情をしていた。
「どうして藤崎さん、それが嬉しいの? 僕の知らないテレビではやってる冗談か何かなのかな? 僕、そういうの疎くて……」「凛太郎、お前ほんっとに鈍いなあ」
 明があきれたように言った。凛太郎は首をかしげ続けている。
 ほのかはほっとしたような、残念なような気持ちになった。
 階段のところで、凛太郎と明はほのかたちと別れた。
「それじゃあ僕たち、先生のところに行ってくるから」
 凛太郎は片手をあげて言った。
「しっかりしかられてきてね、明くん!」
「あいよ。まかしときな!」
 乃梨子のからかいに、明はヤケ気味に胸をたたいた。
「それじゃあ、ほのか。私たちは教室で着替えようか」
「そうね。清宮くんたちと話すのが楽しくて、すっかりみんなから遅れちゃったし」
 ほのかは周囲を見渡しながら言った。夕日のさしこむ廊下はがらんとしていて、ほのかたち以外は誰もいなかった。
 ほのかと乃梨子は教室の引き戸を開けて中に入った。
 ほのかは驚いた。
 体操服姿のクラスメイトたちが、着替えることもせずに一様に前を向いて、着席しているのだ。こんな光景は授業中でも見たことがなかった。
 しかも彼らが目を向けている黒板の前には誰もいない。
 最近、ほのかは里江を中心とするクラスメイトたちが妙に落ち着いていたことには気づいていた。が、こんな事態はどう見ても異様だった。
「の、乃梨ちゃん……」
 乃梨子はほのかの肩を抱いた。大丈夫、とほのかに目で合図する。乃梨子は前を向いたまま、自分たちが入ってきた引き戸に手をかけた。
 だが、それは閉じたままビクともしなかった。
「逃げようったって、無駄よ」
 薄暗い教室の中、一人の少女が立ち上がった。
 里江だった。
「きゃあ!」
 ほのかは悲鳴をあげた。
 里江の胸元から大量の青い液体が、青い血のごとく流れ落ちていたからだった。
「杉原さん。その傷どうしたの? 保健室に行かなきゃ……」
 おびえながらも里江に駆け寄ろうとするほのかを、乃梨子は手で制した。
「ほのか。この人、けが人にしてはずいぶん元気そうよ」
 ほのかを背中にかばうようにしながら、乃梨子は里江をにらみつけながら言った。
 乃梨子の言葉にほのかはハッとした。里江の両目が爛々と輝いているのに気づいたのだった。その瞳の色はやがて金色に輝きだした。
 里江はニィっと笑った。その笑顔の邪悪さにほのかは思わず悲鳴をあげる。
「私、もっと元気になりたいの。あなたたちの気をもらってね!」
 里江が歌うように言った。静かだが、どこか狂ったような声だった。
 ほのかは教室の窓辺に目をやった。そこから出られるかと思ったのだ。だが、窓の外は奇妙な青白い光につつまれていて、本来見えるはずの風景である校庭もなかった。
 乃梨子が舌打ちした。ほのかと同じことを考えていたらしい。
「ほのか、しっかり私につかまってな!」
「乃梨ちゃん、誰か助けを呼ぼうよ。乃梨ちゃん一人だけじゃ……」
「無理よ。だってここから出られないんだから。それに今のあいつらは私たちが知ってるクラスメイトじゃない。ううん、むしろ人間じゃない。大丈夫、私、杉原さん一人ならなんとかやっつけられるから!」
 乃梨子はそう言って、合気道の形をかまえた。ほのかは乃梨子の背中越しに里江を見つめた。青い液体がしたたり落ちる里江の胸元には、丸っこくてぬらりと光る青い物体が付着していた。そこから液体が垂れているのだ。あの物体の形はどこかで見たことがある。 恐慌状態と戦いながら、ほのかは必死に考えた。
 そうだ、日本史の時間に習った勾玉だ。
 でも勾玉が、どうして里江の胸元に? しかもあの勾玉はどう見ても生物だ。
 里江はゆっくりと片手を挙げた。
 すると、それに指揮されたように座っていたその他のクラスメイトたちが立ち上がった。
「きゃあああ!」
 ほのかは悲鳴をあげた。戦闘態勢を取っていた乃梨子は息をのんだ。
 彼らも里江と同じく、胸元から青い血をしたたり落としていたのだった。それまで暗がりの中に座っていて、ほのかたちの目には見えなかったのだ。
 各々が流している青い血は生きているかのように、すぅっと幾筋も床を這った。それは水たまりのようにひとつにまとまって、里江の足下を、膝を、そして胸元にはい上がった。
 そして里江の胸元にある青い勾玉に吸い込まれていった。
「ああ……いい気持ち」
 里江はうっとりと目を閉じてつぶやいた。
「私の中にみなぎる……大勢の気が……そして私は鈴薙さまにそれをささげることができる………。そして!」
 里江はそこでカッと目を見開いた。
「今ここであんたたちも仲間にしてやる! それからみんなで清宮凛太郎を生け捕りにして、鈴薙さまにささげるのよ!」
「な、何言ってんのよ、あんた……」
 乃梨子は乾いた声で笑った。いや、笑おうとしているのだとほのかは。そうして自分の正気を保とうとしているのだ。
 そんな乃梨子は強いのだろう。ほのかは恐怖で足がすくみそうになるのを、乃梨子の肩にしがみつくことでなんとか立っていた。
(夢なら醒めて!)
 ほのかは胸の内で必死に叫んだ。少し前まで自分はあこがれの凛太郎と少しは仲良くなれたというささやかな喜びに舞い上がっていたではないか。自分は平凡な女子中学生で、平和な学校生活を送っていたはずだ。
 なのに、今は異形の生物を胸に宿した里江とその仲間たちが、金色の瞳を輝かせながら、じりじりとほのか達に詰め寄ってきている。まるで安物のホラー映画を観ているようだった。
 だが、これが現在、ほのかが置かれている状況なのだ。
 ついに乃梨子の肩に、青い血をしたたらせたクラスメイトが手をかけた。
 永田という男子生徒だった。 プラモデルが好きなおとなしい男子で、ほのかも何度か言葉を交わしたことがある。
 けれど、今の永田はもうほのかの知っている永田ではなかった。
 だから、乃梨子が永田を思いっきり投げ飛ばした時も、ほのかは永田を気遣いはしなかった。ややあって、ほのかは恐怖にしびれた頭の片隅でそれに気づいた。
 自分はなんて身勝手なんだろうとほのかは思った。だが、そんな思いやりなど彼らには無関係のようだった。永田は床からむくっと起きあがった。
 べつの生徒が乃梨子にふたたび挑みかかる。
「てぃやーーーーっ!」
 乃梨子は気合いとともに、それを投げ飛ばした。
「きゃああああ!」
 ほのかは悲鳴をあげた。乃梨子の肩ごしに、別の生徒が乃梨子の庇護下にあったほのかの腕をつかんだのだ。
「ほのかに何するのよ!」
 乃梨子は叫んで、その生徒の手首をつかんで放り投げた。次から次へと生徒たちは乃梨子に挑みかかった。砂糖に群がるアリのようだった。
 その動きは緩慢だが、確実に乃梨子の体力を奪っていた。乃梨子の呼吸は徐々に荒くなっていた。
(乃梨ちゃん……!)
 ほのかは身をすくめながら、自分を守って戦ってくれている乃梨子に感謝した。何もできない自分がくやしかった。
(いつだって私はこう。乃梨ちゃんに守られてばかりいる)
 初めて出会った時から、今まで、ずっと。 乃梨子の額に浮かんだ汗を見ながら、ほのかは涙が出そうになった。
 何か自分にできることはないか。
 ほのかはそう考えて、狂気の一群を見やった。里江は彼らから少し離れたところで、金色の瞳を細めてこちらを見やっている。 腕組みしたその姿には、余裕がにじみ出ていた。ほのかは直感した。
 里江は、配下にほのかたちを攻撃させて、それを見て楽しんでいるのだ。つまり、里江はこの攻防戦を勝負だとは受け止めていないのだ。
 たしかに乃梨子の体力は徐々に消耗している。あと一時間もすれば、乃梨子は床に突っ伏してしまうだろう。
 それから、乃梨子と自分はどうなるのか。 そう考えた時、ほのかの目の前は真っ暗になった。
 その時、里江が不意に声を発した。
「止まれ」
 指揮者が指揮棒を振り上げた瞬間のように、空気が引き締まった。里江の配下たちはピタリと止まって、微動だにしなくなった。ただうつろな金色の目でほのかたちを見ている。
 乃梨子はぜいぜいと息を切らしたまま、攻撃の姿勢をやめなかった。ほのかを背中にかばったまま、まなじりをつりあげて里江を注視している。
「中山さん、あなた今、とってもつらいでしょう」
「はァ?」
 里江の唐突な言葉に、乃梨子は怪訝な表情をした。皮肉っぽい笑いを浮かべて、乃梨子は答えた。
「そりゃあ、つらいわよ。あんたたちみたいな化け物にいきなり連続で襲いかかられたんだから。私がタフじゃなきゃ、とっくに気が狂ってたでしょうね」
 里江は口元に手を当てて、クスクスと笑った。乃梨子が怒鳴った。
「何がおかしいのよ!」
「気を悪くした? ごめんなさいね。あなたが必死になって、強がってるのがとても可愛くて……」
「乃梨ちゃん……」
 ほのかは小さな声で乃梨子の名を呼んで、その肩をつかんだ。
「大丈夫。安心して。杉原さんのヤツ、私のこと挑発して怒らせようとしてるだけだから。こっちを動揺させて、戦力を弱らせようとするって戦法よ。合気道の試合でも時々こういうセコい手を使うヤツっているのよ」
 乃梨子は大声でそう言った。わざと里江に聞こえるようにしているのだろう。乃梨子は精一杯の気丈な笑みをたたえていた。
 乃梨子の読みは当たっていると、ほのかは思いたかった。
 だが、今の里江は凛太郎をからかっていたただの不良少女ではない。里江の言葉の裏には、確実に何かある気配が漂っていた。 だから男勝りの乃梨子も、今はどこか不安気なのだ。乃梨子の親友であるほのかには、それが分かってしまう。
 里江はじっと乃梨子を見つめた。
「何よ!」
 乃梨子は真正面から里江の視線を受け止める。ほのかは嫌な予感を全身で察知した
「ダメ、乃梨ちゃん!」
 ほのかが叫んだ時には、もう遅かった。
 里江の金色の瞳に、乃梨子は射すくめられていた。
「中山さん。あなた、嫌なことがつい最近あったんでしょう? 気が濁ってるもの。あなたはがんばって隠してるみたいだけど、私には見えるわ、あなたの痛みが。正直に話してごらんなさい。私、あなたの悩みを聞いてあげるから……」
 里江はどこまでも優しい口調でそう言った。慈母のようなまなざしとは今の里江の視線のことを言うのだろう。だが、その金色の瞳の奥にあるものは、どこかまがまがしかった。
「乃梨ちゃん、しっかりして! あの人の言うこと聞いちゃダメ!」
 ほのかは涙で視界をぼやけさせながら、乃梨子の肩を一生懸命ゆさぶった。
 けれど、乃梨子はほのかには目もくれず、里江を魅せられたように見つめていた。
「私……」
 乃梨子が声を発した途端、ほのかは乃梨子の肩から手を離した。その声の調子が、ふだんの乃梨子とは打って変わったものだったからだった。いつもの溌剌さは陰をひそめ、暗い夢に酔いしれているような声だった。
「乃梨ちゃん……」
 ほのかは自分の努力が無駄になったことを悟って、頬に涙がつたうのを感じた。
 里江はニヤリ、と笑った。
「さあ、何があったの? 話してごらんなさい」
「私、見たの。昨日の夜、明くんたちとダンスの練習が終わった後に」
 乃梨子はセキを切ったように語り始めた。「凛太郎くんの家に、ダンスの振り付けを書いたノートを忘れちゃって、取りに戻ったの。そうしたら、凛太郎くんの部屋の窓から見えたのよ。明くんと凛太郎くんがキスしてるのが……」
「嘘でしょッ?」
 ほのかは悲鳴のような声を上げた。
「男の子同士でそんなこと……」
 里江はほのかの狼狽ぶりを明らかに楽しんでいた。ややあって、「続けて」と乃梨子にうながす。
「こんなののぞきだ、とは思ったんだけど、私、目が離せなかった。その間に、明くん、凛太郎くんにもっといやらしいことしたの」「まあ、どんなこと?」
 芝居がかかった驚きの口調で、里江が相づちを打った。
(嘘よ。乃梨ちゃんは杉原さんに操られて、でっちあげの告白をさせられてるんだわ。清宮くんと木原くんがそんなこと……)
 だが、ほのかは乃梨子の話に耳をふさぐことができなかった。怖くてたまらないスリラーをどうしても観てしまうように、ほのかは乃梨子の話に聞き入っていた。
「明くん、凛太郎のあそこを舐めたの。そのうちに明くん、角の生えた綺麗な男の人になってた。髪なんて緑色だし、人間じゃないみたいだった。鬼みたいだった」
 里江は少し悲しそうに、金色の目をすがめた。
「そうよ。明くんは鬼なのよ。だからただの女の子のの私がいくら恋を振り向いてもらえなかった……」
(鬼? 木原くんが鬼だなんて……)
 あまりに突飛な話に、ほのかは卒倒しそうになった。いや、気絶した方が楽だとすら思った。
 ほのかの当惑をよそに、乃梨子は淡々と打ち明け続ける。
「明くんは……ううん、緑色の髪の鬼は、凛太郎くんを抱き上げてーーーーセックスしたの。二人とも、すごく気持ちよさそうだった。凛太郎くんなんて、ふだんのおとなしくてマジメそうなところからは想像がつかないくらい、明くんにあそこを舐められて、エッチな声を出してた。私、凛太郎くんも、明くんも不潔だと思った。だってまだ中学生なのに、男同士なのに、あんなことしてるんだもん。でも、それよりもっと汚いと思ったのは……」
 そこで乃梨子は言葉を切った。すっかりうつろになっていたその瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。ほのかが初めて見る乃梨子の涙だった。
「私、なの」
 乃梨子は、静かに言葉を続けた。
「二人があんなことしてるのを見て、私、興奮してた。私の大好きな明くんとセックスしてる凛太郎くんに嫉妬しながら、自分も凛太郎くんみたいに明くんに抱かれたいと思ってた。だからあの場を離れられなかった。そのうちになぜか二人の姿は部屋から消えたわ。だけど、もしそうならなかったら、私、いつまでもあの場所で二人をのぞいてたと思う」
「乃梨ちゃん……」
 ほのかは乃梨子の腕をつかんだ。凛太郎と明の関係よりも、乃梨子がひどく傷ついている方が今のほのかには重要だった。
 乃梨子に何かいたわりの言葉をかけてやりたい。乃梨子は汚れてなんかいないと言ってあげたい。
 しかし、ほのかはどうにも口下手で、それ以前に今の乃梨子はほのかには見向きもしていなかった。
 乃梨子は涙を流しながら、里江を見つめていた。
「さぞや悲しかったでしょうね。あなたの大好きな明くんが、よりによって同性の凛太郎くんとそんなことをしているのを見て。でも、大丈夫」
 里江は婉然と乃梨子に微笑みかけた。
「あなたの苦しみは、すべて鈴薙さまが救ってくださるわ!」
 里江の金色の瞳が、妖しい光を放った。
 乃梨子はあやつり人形となって、里江の元に歩み寄る。
「乃梨ちゃん、行っちゃダメ!」
 ほのかは乃梨子に追いすがった。乃梨子は、ほのかを突き飛ばした。ほのかは悲鳴をあげて、床に転倒した。
 ほのかがどうにか起きあがって顔を上げた時。
 里江は乃梨子の肩を両手で抱きしめていた。里江の胸元にある勾玉から、青い血が生き物のように、乃梨子にふりかかった。
「ギャアアアア!」
 乃梨子は断末魔と聞きまごうような悲鳴をあげた。
「乃梨ちゃん!」
 ほのかは乃梨子に駆け寄ろうとした。が、くじいた足がうまく動いてくれない。
 その血のほとばしりが止まった時、乃梨子が身にまとっていた体操服が不意にピリピリと破れた。
 乃梨子の胸元にも里江と同じような勾玉ができていた。
「さあ、これであなたも私たちの仲間よ」
 里江が嬉しそうに言った。
「の、乃梨ちゃん……」
 ほのかの呼びかけに、乃梨子はゆっくりと振り向いた。
 乃梨子の瞳は、金色に輝いていた。
「い、いや……」
 ほのかはじりじりと後じさった。どすん、と背中が壁に当たる。
 里江が手をあげた。
 一斉に、かつてのクラスメイトたちが、そして乃梨子がほのかににじり寄る。
 ほのかは絶叫した。
「助けて! 助けて、清宮くんっ!」
乃梨子に言われて、凛太郎と明は担任教師・弓削秀信の元へ行った。
 だが、秀信は職員室にいなかった。元より、すでに職員室には誰もいなかった。下校時間を大幅に過ぎているので、教師はみな帰ってしまっていたのだろうと二人は目星をつけた。
 乃梨子は何か聞き間違いをして、二人に伝言したのだろうか。
 凛太郎はいぶかしみながら、教室に戻って、体操服から制服に着替えて下校しようとした。
 教室はがらんとしていて、中には誰もいなかった。
「みんなもう帰っちまったんだよ。さっさと俺らも帰ろうぜ。腹減ったしよォ。晩飯の献立は何だい、凛太郎ちゃん?」
 伸びをしながら、明はのんきに言った。
「……ねえ、明。ここ、変な感じがしない?」
 凛太郎は頬をこわばらせながら言った。 さっきから胸の辺りがチリチリする。そこはちょうど、勾玉が宿っていた部分だった。
「俺はべつに……」
 明は素っ気なく言ったが、凛太郎の表情が険しくなっているのを見て取って、真顔になった。
「けど、お前がそう感じるんだったら、なんかあるんだろうな」
「それってどういうこと?」
「凛姫の生まれ変わりのお前には、巫子の素質があるんだよ。それも大いにな。優れた巫子ってやつは、俺たち鬼よりも勘が鋭い場合がある。凛姫はまさにそうだった」 明は切れ上がった目を細めて、”凛姫”という固有名詞を舌の上に載せた。なつかしさと愛おしさが、その瞳の奥にあふれていた。
 なんとなく凛太郎はムッとした。
「お前は鈴薙の子を宿したり、俺と交わったりして、前世からの能力がだんだん目覚めてきたんだろう。おい、何怒ってるんだよ、凛太郎?」
「べつに……」
 凛太郎はそっぽを向いた。閑散とした薄気味悪い教室が、視界に広がっている。
 明はニタリ、と笑って、凛太郎の脇腹をつっついた。
「おい、お前もしかして凛姫に妬いてんのか? 俺がお前を凛姫の身代わりとして好きになってんじゃないか~なんて心配してたりして? やっだなァ、俺は今のお前が好きなの! だって、体があるからいくらでもヤれるじゃねえか!」
 そこで、明はガバっと凛太郎に抱きついた。頬にキスしてくる明の顔を、ぐいぐいと押しやりながら凛太郎は叫んだ。
「やめろよ! 結局、明は僕の体が目当てなんだな! このスケベ!」
「ちが~う。俺はお前の心も欲しいし、体も欲しいの。だって、心だけ手に入ればいいなんて綺麗事だと思わねェか?」
 明は声をひそめて、凛太郎の耳にささやいた。
「お前だって、アレの時、いっつも悦んでんじゃねえかよ! 俺とするの好きなんだろ? この際、白状しちまえよ。俺が好きだから、俺と交わるのも好きだって」
 不意に、凛太郎は黙りこくった。
「……明」
「何だい?」
 明は気色ばんで答えた。
「今、藤崎さんの声が聞こえなかった? 助けて、って……」
 一心に凛太郎は誰もいないはずの教室を見ていた。明は一瞬鼻白んだようだったが、すぐに凛太郎を腕の中から解放して、教室を見つめた。
「結界が張られてるようだな。こりゃあ、ただの人間の仕業じゃねえな」
「それって……」
「そう。鈴薙のヤローがからんでやがるぜ、きっと」
 凛太郎の胸はひどく痛んだ。ついに恐れていた事態がやってきてしまったのだ。
 どうやら明の予想通り、鈴薙は自分の級友たちを勾玉に養分を与えるために選んだようだった。
 千年間、刀に封印されていた鈴薙の行動範囲はまだこの辺りだけなのである。
 凛太郎は背中に軽い衝撃を感じた。明が凛太郎の背中をはたいたのだった。
 明は励ますような笑顔を凛太郎に向けていた。
「大丈夫。あんな結界なんて、俺が破ってみせるって」
 明はウィンクした。凛太郎は少し安堵すると同時に、胸の高鳴りを感じた。
(どうしたんだ、僕。こんな時にドキドキするなんて……よりによって、明なんかに……)
「じゃあ、行くぜーーーーっ!」
 明は叫んだ。
 途端に、鬼の姿に変化する。
 緑色の髪をした鬼は、両手の平から青白い光を教室に放った。
 すると、教室が一瞬、赤く光って、明の放った光線をはねのけた。
(これが結界……!)
 凛太郎は息をのんだ。
 今まで、鈴薙と明の作る結界の内側にいたことはある。が、結界を外側から見るのは初めてだった。ここまで完璧に人の目をくらまし、なおかつ強力な障壁を築いているものだったとは。
 こんなものを易々と作る鬼という存在に、凛太郎は今さらながら驚愕した。
「ほら、もいっちょ!」
 次々と、明は光の球を教室に打ち込んでいく。そのたびに赤い障壁ができて、それをはねのけた。
「チクショウ……ッ!」
 明は舌打ちした。しばし考え込む様子を見せてから、凛太郎に言った。
「凛太郎。お前、さっきほのかちゃんの声がこの教室から聞こえるって言ったな。ほのかちゃんに呼びかけてみてくれねえか。どこにいるんだ、ってな」
「でも結界が……」
 結界の内側で、クラスメイトたち、そして乃梨子やほのかたちはどんな目に遭わされているのだろう。それを考えて、凛太郎は泣きたい気持ちになっていた。
「お前の力をもってすれば、結界を超えてほのかちゃんに届くかもしれねえ。ほのかちゃんも巫子の能力がちょっとはあるみてぇだからな。普通の人間の中にもたまにいるんだよ、そういう力のあるヤツが。まあ、そんなことは今はどうでもいい。さあ、やってみてくれよ」
 明はそう言って、凛太郎の肩をたたいた。「お前なら、できる。さ、やってみろよ、凛太郎」
 明に微笑みかけられて、凛太郎は反射的に目を閉じた。なぜかそうすればほのかの声がもっと聞こえると思った。
 凛太郎は静かに、だが力強い声で呼びかけた。
「藤崎さん。そこにいるなら返事して。僕だよ、凛太郎だよ!」
 返答はなかった。やはり今の自分の能力ではこの結界を越えることはできないのか、と凛太郎があきらめかけた時。
 ほのかの声が、凛太郎の脳裏に響いた。
”清宮くん……そこにいるのねっ? 助けて!”
 ほのかの声は泣きそうだった。
”乃梨ちゃんと杉原さんが……それにクラスのみんながおかしいの! このままじゃ私、あの人たちの仲間にされちゃう……”
「落ち着け、ほのかちゃん! 俺もいる」 明が叫んだ。どうやら明にも、ほのかの声は聞こえるようになったようだ。
 凛太郎は少し心強くなった。
 明は言葉を続けた。
「大丈夫、俺たちが助けてやるよ。そのためにまず、俺と凛太郎に向けて、気を発してくれないか?」
 突然の明の申し出に、ほのかは戸惑ったようだった。
”え? 気って何?”
「詳しい説明は後だ。とにかく、教室の外側に向けて、意識を集中してくれ。そこから俺が結界を破る」
”結界? な、何? やだ、怖い! みんなが私にどんどん近づいてくるよお……” 凛太郎の体はひとりでに震えだした。ほのかの恐怖と混乱が、凛太郎の意識に流れ込んできたのだ。
 倒れそうになる凛太郎の体を支えながら、明はつぶやいた。
「大丈夫か? まったく巫子体質ってのはやっかいだな。他人の恐怖まで痛いほど感じちまうんだから」
「へ、平気だよ。これくらい……」
 凛太郎は無理に笑って、体勢を立て直した。ほのかの力を借りて、明はふたたび結界を攻撃しようとしている。今の凛太郎にできることは、明の邪魔をしないことくらいのようだった。
「凛太郎、お前、ほのかちゃんを励ましてやれよ。お前のエールが一番あの娘には効くだろ」
「わ、わかった……」
 明の言葉の意味を深く考える間もないまま、凛太郎は叫んだ。
「藤崎さん! がんばって! 僕たちがついてるよ」
 ややあって。
 教室の右端が、桜色に輝きだした。
「よっしゃあ、そこだ!」
明は叫んで、光の球を教室にたたき込んだ。
瞬時にして、あの赤い壁が教室を遮断したが、小石を水面に投げたように波紋ができた。
 凛太郎を横抱きにして、そこから明は教室の中に入った。すぐに赤い壁が皮膜をふたたび作る。
「清宮くん!」
 悲鳴に近い、喜びの声が聞こえた。ほのかが、明に抱きかかえられたままの凛太郎によろよろと駆け寄ってきた。ほのかは足を引きづっていた。
「あれ? 明くんは?」
「俺かい? 俺はここだよ」
 明に答えられて、ほのかはようやく緑色の髪をした鬼の存在に気づいたようだった。「お、鬼……? い、いったい、どうして……」
 明は凛太郎を床におろして、気絶しそうになったほのかの額を、鋭い爪でちょん、とつついた。ほのかが急に冷静な表情になった。
「今は説明なんてしてる場合じゃねえ。とりあえず、俺の術にかかっといてくれ。現状に適応する精神安定剤みたいなもんにな」 こんな急場しのぎでいいのだろうか。凛太郎は首をひねってから、ほのかの足に気づいた。
「藤崎さん、その足は……」
 凛太郎は訊ねた。頬を涙で濡らしながら、ほのかは答えた。懸命に冷静であろうとしている口調だった。
「私は大丈夫。それより、乃梨ちゃんが……」
 ほのかの訴えに、凛太郎と明は乃梨子の姿を探した。
 変わり果てた姿で、乃梨子は里江の背後に控えていた。その後ろにはその他大勢のクラスメイトたちがいる。
 みな、一様に胸元から青い血をしたたり落としていた。彼ら、彼女らの金色に輝く瞳が、明と凛太郎に注がれる。
「……きたない」
 乃梨子がぼう、っとした口調でつぶやいた。いつもの陽気で、ボーイッシュな乃梨子のおもかげはそこにはみじんもなかった。 凛太郎の胸は痛んだ。
(僕のせいで、中山さんがこんな目に……)「お前たちは、きたない。男同士で、人間と鬼で、あんなことをするなんて……」
 凛太郎はハッと息をのんだ。
 乃梨子は昨夜、凛太郎の部屋のそばに何かの事情があっていたのだろうか。そうとしか考えられない。
 昨夜、結界を張らずにうっかり明と交わってしまったことがこんな事態を生むとは思わなかった。気まずそうなほのかのまなざしを、凛太郎は感じた。
「のぞき見してる乃梨ちゃんも、結構はずかしいと思うんだけどなあ、俺は」
 悪びれずに、明が言った。
 うつろな表情のまま、乃梨子は黙った。「ああ言えば、こう言う。そのたくましい性格は、鬼の本性を現しても変わらないわね。そういうところが好きだったわ。明くん。いいえ、蒼薙」
 口に手をあてて笑いながら、里江が言った。
「へえ、鈴薙のヤツ、ずいぶん昔の俺の名前まで里江ちゃんに吹き込んだんだな」
 明は腰に手を当てて苦笑した。
「俺も里江ちゃんのこと、嫌いじゃなかったぜ。ミニスカートも毎日おがませてもらたしな。けど、鈴薙の手駒にされちゃあ、里江ちゃんの魅力もガタ落ちだな。どうせ心の隙間を突かれて、勾玉を植え付けられたんだろ」 
 不敵に笑いながら、明は答えた。その間に、明は凛太郎とほのかを自分の背中の後ろに隠した。
「下がってろ。そろそろ攻撃が来る」
 二人をかばうようにして、明はささやいた。
「そう? いい気持ちよ。だって私、もう一人じゃないんだもの。この子を通して、鈴薙さまやみんなとつながっていられるから」
 里江は大切そうに、胸元の勾玉に手を触れた。
(あれが僕の子供なのか……!)
 凛太郎は拳を握りしめた。ぬらり、となまなましく光るそれは、不気味だった。けれどどこかいとおしくもある。
(僕が早く呪をかけて、そんなことをさせないであげるからね!)
 凛太郎はそう胸に誓った。
 里江は凛太郎の強いまなざしに気づいたようだった。
「何ジロジロ見てるのよ? みんな、凛太郎を生け捕りにして! この際、明ーーーーいいえ、蒼薙も一緒にやっつけちゃってもかまわないわ」
 里江の命令に、クラスメイトたちはわらわらと凛太郎に群がってきた。
「きゃあああ!」
 ほのかが悲鳴をあげた。
「大丈夫だよ、藤崎さん」
 凛太郎に肩を抱かれて、ほのかはこの非常事態だというのに頬を染めた。
「俺の凛太郎ちゃんを、鈴薙のところになんか連れていかせるかっつうの!」
 明はそう叫んで、凛太郎に襲いかかろうとした男子生徒を投げ飛ばした。続々、里江の配下たちは襲いかかってくるが、明は苦もなく彼らを撃退していく。そのうち乃梨子がこちらに襲撃してきた。
乃梨子の動作が急にぎこちなくなった。
 乃梨子の目に、不意に正気が宿った。
「明くん、凛太郎くん、ほのか! 早く逃げて! 私はもうどうなってもいいから……」
 だが、それだけ言った途端、乃梨子は感電したかのように「絶叫した。
「きゃあああ!」
 青い血がぼとぼとと乃梨子の胸元から落ちる。
「今さら逃れようとしても、もう遅いわ!」
 乃梨子に向けて、人差し指を差し出した里江が哄笑した。
「くっそォ……」
 明は里江に飛びかかろうとした。
「明、やめろ!」
 凛太郎が叫んだ。明の動きが、ピタっと止まる。
「なんでだよ、凛太郎!」
 乃梨子に腕をかみつかれて、顔をしかめながら明が不平の声をあげた。
「だって、杉原さんや中山さんは、鈴薙に操られてるだけなんだろ? だったら、この人たちを傷つけたらいけないよ」
 明にかばわれながら、凛太郎は必死に言いつのった。
 ほのかは泣きそうになりながら、「乃梨ちゃん……」とつぶやいている。
「それもそうだけどよ……だったら、どうしろって言うんだよっ? このままじゃ俺たち、やられちまうぜ!」
 凛太郎とほのかを身を挺して守りながら明は叫んだ。
 里江が耳障りな笑い声を上げる。
(どうすればいいんだ……!)
 凛太郎は唇を噛んだ。
「明くんっ?」
 ほのかが叫んだ。明が、腕を生徒に噛みつかれたのだ。明の血を、その生徒はうまそうに舌でなめとった。
 苦痛に顔をゆがめる明に、凛太郎はなすすべもなかった。
 慣れ親しんだ学舎は、地獄の密室と化している。
 凛太郎が絶望に背筋を凍らした時だった。 一陣の風が、凛太郎の髪を揺らした。
 その風の正体は、白い一枚の札だった。 札は、風を切って里江の額にはりついた。「うぎゃあああっ!」
 感電したかのように、里江の体はぶるぶると痙攣した。
 里江の配下たちが、里江の額からその札をはずそうと一斉に駆け寄った。
 一陣の影が舞い降りて、彼らをなぎ倒した。
「巫子さま。ご無事ですか?」
 敵を倒してから、その人物は凛太郎に歩み寄った。
(そうだ、あの時の……)
 凛太郎は思い出した。一週間ほど前、境内の掃除をしている時に、栗色の髪をした少年とともに自分に道をたずねて来た青年だった。
「私のことを覚えていてくださいましたか、凛太郎さま」
 青年は垂れた目を細めて笑った。後ろで束ねた長い黒髪がつややかに光っている。
「また変なのが出てきやがったぜ。お前、普通の人間じゃねえな」
 明がぼやいた。青年はやわらかに明に微笑みかけた。緑色の髪をした鬼を見ても、青年は少しも動揺した様子を見せなかった。
「どうして僕の名前を……」
 凛太郎が問おうとした時だった。
「うわあああ!」
 青年が悲鳴を上げた。生徒たちが束になって、青年に襲いかかったのである。
 里江の額から青年の貼ったお札がはがれていた。どうやら、里江の手下たちがはずしたらしかった。
「明! この人を助けてあげて!」
「そんなこと言ったって凛太郎。こっちだってもう手一杯だぜ」
 不平の声を上げつつも、明は青年をかばって、青年に噛みついていた生徒をなぎはらおうとした。
 その隙に、ガードが甘くなった凛太郎とほのかを襲おうと、別の生徒たちが二人にいどみかかる。
「きゃあああ!」
 腕をつかまれて、ほのかが悲鳴をあげた。
「藤崎さん!」
 凛太郎はほのかを守って戦おうと、その生徒を振り払おうとしたが、いかんせん凛太郎は非力だった。いともたやすく、その生徒に腕を取られた。
 里江の配下たちが凛太郎に群がってきた。
「そのまま私のところに連れてくるのよ! 鈴薙さまの元に連れて行くんだからね!」
 里江が勝ち誇ったように笑った。
「凛太郎さま!」
「凛太郎!」
「清宮くん!」
 青年と、明と、ほのかがおのおの必死で凛太郎の名を呼んだ。
凛太郎が魔物と化した生徒たちに、まさに襲いかかられようとした刹那。
 一陣の疾風が、凛太郎に吹いた。
 と思いきや、それは人影で、その人影は凛太郎を横抱きにして、魔手から救ったのだった。
「隙が多いな、凛太郎」
 その人物は、凛太郎にからかうような声をかけた。細いが、しっかりと筋肉のついた腕につつみこまれながら、凛太郎は目を見開いた。
「先生? 弓削先生っ?」
 弓削秀信は、驚く凛太郎に微笑みかけた。 眼鏡の奥の鋭い双眸が、めずらしく細められている。
「先生……どうしてこんなところに?」
「説明は後だ。今はあやつらを何とかせねばな」
 秀信はそっと凛太郎を床の上に下ろした。 凛太郎は熱にうかされたように、ぼうっと里江に向かって進み出す秀信を見ていた。
 いつものスーツ姿で、勾玉に取り憑かれた里江たちに立ち向かう秀信は、不思議な魅力に満ちていた。混沌とした異世界に、しっかりとした常識をたずさえて、大人の男がやってきたようなたたずまいだった。「おい、凛太郎! ぼーっとしてっと、また襲われンぞ。こっち来いよ」
 明が不機嫌な声を上げて、凛太郎を手招きした。
「うん、そうだね……」
 生返事をしつつ、凛太郎は秀信に目を向けたままだった。
 秀信が現れてから、里江とその配下たちは静止してじっと秀信の様子をうかがっている。
 先ほど現れた凛然とした青年も、あまたの信頼をたたえて、秀信を見つめている。(先生って、なんだかよくわからないけどすごい人なんだ)
 凛太郎はぼんやりと思った。凛太郎と同じ世界に秀信は生きているらしい。鬼や妖魔といったたぐいのものと関わりのある世界に、だ。
 だが秀信は、明のみを頼りとしている凛太郎と違って、自分の足でその世界に立ち、なおかつ鬼たちと渡り合っているらしい。 教師として秀信を尊敬していた凛太郎はさらに秀信を敬愛するようになりつつあった。
 凛太郎は、秀信に注目したまま、明の元に戻った。
 明が忌々しげに舌打ちしたのにも、凛太郎は気づかなかった。
「先生……」
 秀信に見据えられた里江が、急にしおらしく泣き出した。
「助けてください、私、本当はこんなことしたくないんです」
 やや驚いたように、秀信は眼鏡の奥の目をすがめた。
「私、私……明くんのことが好きで、いつも清宮くんと一緒にいる明くんがうらやましかったんです。おまけに清宮くんは勉強もよくできる優等生で、不良でできそこないの私とは全然違うし……」
「杉原さん、そんなこと考えてたの?」
 思わず、凛太郎は驚きの声を上げた。隣にいるほのかもびっくりしているようだった。明だけは少し照れくさそうに肩をすくめている。
 凛太郎からすれば、里江はいつも自信に満ちあふれていて、自分を小馬鹿にしているように見えた。
 言いたいことをズケズケ言う、キツい性格の里江ならば、自分のように面倒な仕事を押しつけられないだろう。そう考えて、凛太郎は里江をうらやましがったこともあった。
 その里江が、自分をねたんでいたとは。
 凛太郎にとっては、青天の霹靂だった。 しくしくと泣きながら、里江は言葉を続ける。
「清宮くんのことを考えるたびに、私はイライラして、どす黒い気持ちになっていったんです。そうしたら、どこかから”鈴薙”って名乗る男の人の声が聞こえてきて、いつのまにか私の胸にこんなものが……」
 胸元の青い勾玉に、里江はおずおずと手を置いた。患者が患部をかばっているような痛々しさがあるしぐさだった。
「大丈夫だ、杉原。私が祓ってやる」
 秀信は、深くうなずいた。
 途端に、里江が不敵な笑みを浮かべた。
「かかったわね、先生!」 
里江の双眸が金色に輝いた。
 手下たちが一斉に秀信に襲いかかり、里江自身も秀信に飛びかかった。
「先生、危ない!」
 前方に立っている明の肩越しに凛太郎は身を乗り出して、秀信に呼びかけた。注意をうながすことしかできない自分がふがいなかった。
 秀信は、平然と里江を睥睨していた。
 そして、里江に札を投げつけてから、手刀で空間を縦横に切り裂く。
「臨兵闘者皆陣裂在前!」
 秀信は叫んだ。
「うぎゃあああ!」
 里江が断末魔のような叫びを上げる。
 同時に、里江の胸元に張り付いていた勾玉が青い光を放ちながら、里江から離れた。「おおっと!」
 明が跳躍して、勾玉をつかんだ。
 里江はバッタリと床に倒れた。途端に、乃梨子を含めた生徒たちも糸の切れた人形のように転倒した。
「乃梨ちゃん!」
 ほのかが泣きながら、乃梨子に駆け寄った。
「大丈夫だ。勾玉の呪縛が解けただけだ。そのうち意識は戻るだろう。まったく、世話の焼ける生徒たちだな」
 秀信が、乃梨子を抱きかかえて泣きじゃくるほのかの肩に手を置きながら言った。
 眼鏡の奥の双眸は、優しく細められていた。
 つややかな黒髪を持つ青年が、秀信にうやうやしく尋ねた。
「秀信様。この場はいかにいたしましょうか」
「そうだな。まずは皆にケガがないか確認しておけ」
「はっ!」
 青年はそう返事をすると、手際よく生徒たち一人一人を見て回った。どうやら医療の知識もあるらしく、外傷の点検も手慣れていた。
「ね、ねえ、明……。この……この子、僕どうしたらいいの?」
 明に授けられた勾玉を、大切そうに手のひらに包み込みながら凛太郎は訊ねた。明はそんな凛太郎を微笑ましそうに見つめてから、首をひねった。
「おかしいな。そろそろ孵化してもいいはずなんだがよォ。そしたらパパっとお前が呪をかけたら、お前の言うことを聞くようになる」
「言うことを聞くだなんて……僕は、この子に他人を襲わせたりなんかさせないようにしたいだけなんだ」
 凛太郎はそう言いながら、手のひらの上の勾玉を見た。勾玉はぬるりと暖かく、そのぬくもりはなぜだか凛太郎の心を震わせた。
 見た目は気味の悪い軟体動物のはずなのに、凛太郎はこの生物がいとおしくてならなかった。すでに名前は考えてある。
 あれやこれやと名前を思案している間、凛太郎は楽しくてならなかった。明が伸一郎の記憶を操作して、凛太郎の子供を姪っ子か何かだと思わせておく予定だった。
 それでも、鬼である鈴薙の間にできた子供がごく普通の子供と同じであるはずがない。ましてや凛太郎はわずか十五歳であり、そして男である身の上で母親となるのだ。どう考えても未来は波乱含みだった。
 それは重々承知している。それに凛太郎は心配性で思い悩む性質だった。
 けれど、子供のことを考えると、胸がふわっと優しくなごんでくるのである。
 その子供が、孵化どころか、あのぎょろりとした目も閉じていることに凛太郎の胸は痛んだ。
「……もしかして、この子、死んじゃってるんじゃーーーー」
 凛太郎の視界は、涙でぼやけた。
 凛太郎の涙を見て、明はあわてふためいた。
「な、泣くなよ、凛太郎。子供だったら俺がまた作ってやるからよ」
「そういう問題じゃないだろ!」
 凛太郎が明に食ってかかろうとした時、凛太郎の頭を大きな手がつつみこんだ。
「他人に八つ当たりするのは感心しないぞ、凛太郎」
「先生!」
 秀信は、凛太郎の頭をくしゃくしゃと撫でた。明は憮然として秀信をにらみつける。
「どうやらその御子は何らかの理由で、成長するのをためらっているのだ。命を落としてはいない。気で分かる。安心しろ」
 秀信に微笑みかけられて、凛太郎は安堵で体中のこわばりが抜けていくような気がした。
 秀信は気味悪がる様子などみじんもなく、凛太郎がいだいている勾玉に視線をよこした。
「お前が心配しなければいけないのは、その御子を鬼がさらいに来ることだ」
「先生、どうしてそんなことを……」
 戸惑う凛太郎に、秀信は眼鏡の縁を持ち上げながら言った。
「その話は後だ。まずはこの状態をなんとかしなければな」
 秀信の言うとおり、倒れている生徒で埋め尽くされた教室は、乱闘後でひどいありさまになっていた。
「お前、やっぱりただの人間じゃなかったな」
「私はお前も鬼だということに気づいていたよ、木原」
 秀信の切り返しに、緑色の髪をした鬼はあっかんべえをした。



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